←前へ 次へ→ 『題目弥陀名号勝劣事』
(★332)
一巻一品もおはしまさゞる事なり。其の上、阿弥陀仏の名を仏説き出だし給ふ事は、始め華厳より終はり般若経に至るまで、四十二年が間に所々に説かれたり。但し阿含経をば除く。一代聴聞の者是を知れり。妙法蓮華経と申す事は、仏の御年七十二、成道より已来四十二年と申せしに、霊山にましまして無量義処三昧に入り給ひし時、文殊・弥勒の問答に、過去の日月灯明仏の例を引いて「我見灯明仏乃至欲説法華経」と先例を引きたりし時こそ、南閻浮提の衆生は法華経の御名をば聞き初めたりしか。三の巻の心ならば、阿弥陀仏等の十六の仏は、昔大通智勝仏の御時、十六の王子として法華経を習ひて、後に正覚をならせ給へりと見えたり。弥陀仏等も凡夫にてをはしませし時は、妙法蓮華経の五字を習ひてこそ仏にはならせ給ひて侍れ。全く南無阿弥陀仏と申して正覚をならせ給ひたりとは見えず。
妙法蓮華経は能開なり。南無阿弥陀仏は所開なり。能開所開を弁へずして南無阿弥陀仏こそ南無妙法蓮華経よと物知りがほに申し侍るなり。日蓮幼少の時、習ひそこなひの天台宗・真言宗に教へられて、此の義を存じて数十年の間ありしなり。是存外の僻案なり。但し人師の釈の中に、一体と見えたる釈どもあまた侍る。彼は観心の釈か。或は仏の所証の法門につけて述べたるを、今の人弁へずして、全体一なりと思ひて人を僻人に思ふなり。御景迹あるべきなり。念仏と法華経と一つならば、仏の念仏説かせ給ひし観経等こそ如来出世の本懐にては侍らめ。彼をば本懐ともをぼしめさずして、法華経を出世の本懐と説かせ給ふは、念仏と一体ならざる事明白なり。其の上多くの真言宗・天台宗の人々に値ひ奉りて候ひし時、此の事を申しければ、されば僻案にて侍りけりと申す人是多し。敢へて証文に経文を書いて進ぜず候はん限りは御用ひ有るべからず。是こそ謗法となる根本にて侍れ。あなかしこあなかしこ。
日蓮花押
平成新編御書 ―332―