←前へ 次へ→ 『船守弥三郎殿許御書』
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0035 船守弥三郎殿許御書 (弘長元年六月二七日 四〇歳)
わざと使ひを以て、ちまき・さけ・ほしひ・さんせう・かみしなじな給び候ひ畢んぬ。又つかひ申され候は、御かくさせ給へと申し上げ候へと、日蓮心得申すべく候。
日蓮去ぬる五月十二日流罪の時、その津につきて候ひしに、いまだ名をもきゝをよびまいらせず候ところに、船よりあがりくるしみ候ひきところに、ねんごろにあたらせ給ひ候ひし事はいかなる宿習なるらん。過去に法華経の行者にてわたらせ給へるが、今末法にふなもりの弥三郎と生まれかはりて日蓮をあわれみ給ふか。たとひ男はさもあるべきに、女房の身として食をあたへ、洗足てうず其の外さも事ねんごろなる事、日蓮はしらず不思議とも申すばかりなし。ことに三十日あまりありて内心に法華経を信じ、日蓮を供養し給ふ事いかなる事のよしなるや。かかる地頭・万民、日蓮をにくみねたむ事鎌倉よりもすぎたり。見るものは目をひき、きく人はあだむ。ことに五月のころなれば米もとぼしかるらんに、日蓮を内々にてはぐくみ給ひしことは、日蓮が父母の伊豆の伊東かわなと云ふところに生まれかはり給ふか。法華経の第四に云はく「及び清信士女を遣はして法師を供養せしめ」云云。法華経を行ぜん者をば、諸天善神等、或はをとことなり、或は女となり、形をかへ、
平成新編御書 ―261n―