←前へ  次へ→    『十法界明因果抄』
(★215n)
  問うて云はく、梵網経等の大乗戒は現身に七逆を造れると並びに決定性の二乗とを許すや。
  答へて云はく、梵網経に云はく「若し戒を受んと欲する時は、師応に問ひ言ふべし。汝現身に七逆の罪を作らざるや、菩薩の法師は七逆の人の与に現身に戒を受けしむることを得ず」文。此の文の如くんば七逆の人は現身に受戒を許さず。大般若経に云はく「若し菩薩設ひ伽沙劫に妙の五欲を受くるとも、菩薩戒に於ては猶犯と名づけず。若し一念二乗の心を起こさば即ち名づけて犯と爲す」文。大荘厳論に云はく「恒に地獄に処すと雖も大菩提を障へず、若し自利の心を起こさば是大菩提の障りなり」文。此等の文の如くんば六凡に於ては菩薩戒を授け、二乗に於ては制止を加ふる者なり。二乗戒を嫌ふは二乗所持の五戒・八戒・十戒・十善戒・二百五十戒等を嫌ふに非ず。彼の戒は菩薩も持すべし。但二乗の心念を嫌ふなり。
  夫以れば持戒は父母・師僧・国王・主君・一切衆生・三宝の恩を報ぜんが為なり。父母は養育の恩深し。一切衆生は互ひに相助くる恩重し。国王は正法を以て世を治むれば自他安穏なり。此に依って善を修すれば恩重し。主君も亦彼の恩を蒙りて父母・妻子・眷属・所従・牛馬等を養ふ。設ひ爾らずと雖も一身を顧みる等の恩是重し。師は亦邪道を閉じ正道に趣かしむる等の恩是深し。仏恩は言ふに及ばず。是くの如く無量の恩分之有り。而るに二乗は此等の報恩皆欠けたり。故に一念も二乗の心を起こすは十悪五逆に過ぎたり。一念も菩薩の心を起こすは一切諸仏の後心の功徳を起こせるなり。已上四十余年の間の大小乗の戒なり。
  法華経の戒と言ふは二有り。一には相待妙の戒、二には絶待妙の戒なり。先づ相待妙の戒とは、四十余年の大小乗の戒と法華経の戒と相対して爾前を麁戒と云ひ法華経を妙戒といふ。諸経の戒をば未顕真実の戒・歴劫修行の戒・決定性の二乗戒と嫌ふなり。法華経の戒は真実の戒・速疾頓成の戒・二乗の成仏を嫌はざる戒等を相対して麁妙を論ずるを相待妙の戒と云ふなり。
  問うて云はく、梵網経に云はく「衆生仏戒を受くれば即ち諸仏の位に入る。位大覚に同じ已に真に是諸仏の子なり」文。華厳経に云はく「初発心の時便ち正覚を成ず」文。大品経に云はく「初発心の時即ち道場に坐す」文。此等の文の如くんば四十余年の大乗戒に於て法華経の如く速疾頓成の戒有り。何ぞ但歴劫修行の戒なりと云ふや。答へて云はく、此に於て二義有り。一義に云はく、四十余年の間に於て歴劫修行の戒と速疾頓成の戒と有り。法華経に於ては但一つの速疾頓成の戒のみ有り。其の中に於て、四十余年の間の歴劫修行の戒に於ては、法華経の戒に劣ると雖も、四十余年の間の速疾頓成の戒に於ては法華経の戒に同じ。故に上に出だす所の衆生、仏戒を受くれば即ち諸仏の位に入る等の文は、法華経の「須臾聞之、即得究竟」の文に之同じ。但し無量義経に四十余年の経を挙げて歴劫修行等と云へるは四十余年の内の歴劫修行の戒計りを嫌ふなり。速疾頓成の戒をば嫌はざるなり。一義に云はく、四十余年の間の戒は一向に歴劫修行の戒、法華経の戒は速疾頓成の戒なり。但し上に出す所の四十余年の諸経の速疾頓成の戒に於ては、凡夫地より速疾頓成するに非ず。凡夫地より無量の行を成じて無量劫を経、最後に於て凡夫地より即身成仏す。故に最後に従へて速疾頓成とは説くなり。委悉に之を論ぜば歴劫修行の所摂なり。故に無量義経には総て四十余年の経を挙げて、仏、無量義経の速疾頓成に対して宣説菩薩歴劫修行と嫌ひたまへり。大荘厳菩薩此の義を承けて領解して云はく「無量無辺不可思議阿僧祇劫を過ぐれども、終に無上菩提を成ずることを得ず。何を以ての故に、菩提の大直道を知らざるが故に、検径を行くに留難多きが故に。乃至大直道を行くに留難無きが故に」文。若し四十余年の間に無量義経・法華経の如く速疾頓成の戒之有れば、仏猥りに四十余年の実義を隠したまふの失之有らん云云。二義の中に後の義を作る者は存知の義なり。相待妙の戒是なり。
  次に絶待妙の戒とは、法華経に於て別の戒無し。爾前の戒即ち法華経の戒なり。其の故は、爾前の人天の楊葉戒、
 
 
平成新編御書 ―215n―