←前へ 次へ→ 『十如是事』
(★105n)
是をよそに思ふを衆生とも迷ひとも凡夫とも云ふなり。是を我が身の上と知りぬるを如来とも覚りとも聖人とも智者とも云ふなり。かう解り明らかに観ずれば、此の身頓て今生の中に本覚の如来を顕はして即身成仏とはいはるゝなり。譬へば春夏田を作りうへつれば、秋冬は蔵に収めて心のまゝに用ふるが如し。春より秋をまつ程は久しき様なれども、一年の内に待ち得るが如く、此の覚りに入りて仏を顕はす程は久しきやうなれども、一生の内に顕はして我が身が三身即一の仏となりぬるなり。
此の道に入りぬる人にも上中下の三根はあれども、同じく一生の内に顕はすなり。上根の人は聞く所にて覚りを極めて顕はす。中根の人は若しは一日、若しは一月、若しは一年に顕はすなり。下根の人はのびゆく所なくてつまりぬれば、一生の内に限りたる事なれば、臨終の時に至りて諸のみえつる夢も覚めてうつゝになりぬるが如く、只今までみつる所の生死妄想の邪思ひ、ひがめの理はあと形もなくなりて、本覚のうつゝの覚りにかへりて法界をみれば皆寂光の極楽にて、日来賤しと思ひし我が此の身が、三身即一の本覚の如来にてあるべきなり。秋のいねには早と中と晩との三つのいね有れども一年の内に収むるが如く、此も上中下の差別ある人なれども、同じく一生の内に諸仏如来と一体不二に思ひ合はせてあるべき事なり。
妙法蓮華経の体のいみじくおはしますは、何様なる体にておはしますぞと尋ね出だしてみれば、我が心性の八葉の白蓮華にてありける事なり。されば我が身の体性を妙法蓮華経とは申しける事なれば、経の名にてはあらずして、はや我が身の体にてありけると知りぬれば、我が身頓て法華経にて、法華経は我が身の体をよび顕はし給ひける仏の御言にてこそありければ、やがて我が身三身即一の本覚の如来にてあるものなり。かく覚りぬれば無始より已来、今まで思ひならはしゝひが思ひの妄想は、昨日の夢を思ひやるが如く、あとかたもなく成りぬる事なり。是を信じて一遍も南無妙法蓮華経と申せば、法華経を覚りて如法に一部をよみ奉るにてあるなり。
平成新編御書 ―105n―