強制連行で100万人もどうやって運んだの?? 写真は関釜連絡船の主力 崑崙丸 ここでご紹介するのは、昭和34年(1959年)の外務省声明を 朝日新聞が同年7月13日に掲載した物です。 -----ここから---- 在日朝鮮人の北朝鮮帰還をめぐって韓国側などで「在日朝鮮人の大半は戦争中に強制労働をさせるためにつれてきたもので、いまでは不要になったため送還するのだ」との趣旨の中傷を行っているのに対し、外務省はこのほど「在日朝鮮人の引揚に関するいきさつ」について発表した。これによれば、在日朝鮮人の総数は約六十一万人だが、このうち戦時中に徴用労務者として日本に来た者は二百四十五人にすぎないとされている。主な内容は次の通り。 一、戦前(昭和十四年)に日本国内に住んでいた朝鮮人は約百万人で、終戦直前(昭和二十年)に二百万人となった。増加した百万人のうち、七十万人は自分から進んで内地に職を求めてきた個別渡航者と、その間の出生によるものである。残りの三十万人は大部分、工鉱業、土木事業の募集に応じてきた者で、戦時中の国民徴用令による徴用労働者はごく少数である。また、国民徴用令は日本内地では昭和十四年七月に実施されたが、朝鮮への適用はさしひかえ昭和十九年九月に実施されており、朝鮮人徴用労務者が導入されたのは、翌年三月の下関−釜山間の運航が止まるまでのわずか七ヶ月間であった。 一、終戦後、昭和二十年八月から翌年三月まで、希望者が政府の配船、個別引き揚げで合計百四十万人が帰還したほか、北朝鮮へは昭和二十一年三月、連合国の指令に基く北朝鮮引揚計画で三百五十人が帰国するなど、終戦時までの在日していた者のうち七十五%が帰還している。戦時中に来日した労務者、軍人、軍属などは日本内地になじみが薄いため終戦後、残留した者はごく少数である。現在、登録されている在日朝鮮人は総計六十一万人で、関係各省で来日の事情を調査した結果、戦時中に徴用労務者としてきた者は二百四十五人にすぎず、現在、日本に居住している者は犯罪者を除き、自由意思によって在留した者である。 -----ここまで----- つまり、 戦前の在日朝鮮人の数は100万人 終戦直前には     200万人 増加した100万人は出稼ぎ労働者 つまり戦争が始まると同時に本土での労働力が不足となり 職を求めた朝鮮人が、出稼ぎに来た。 ということです。 訳有ってソースは明かせませんが、 戦前は当時朝鮮人の密航者が非常に多かったと語った私の身内が居ます。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ここから先は『重要』です。テストに出るかも知れません つか、私が高校の歴史の先生だったら間違いなく出題してます。 国民徴用令が本土で発令されたのは、昭和14年7月 朝鮮で発令されたのは          昭和19年9月 ここで昭和19年9月の日本はどんな状況だったのかを考えてみましょう。 翌月の10月には日本海軍台湾航空隊が米軍の猛攻を受け壊滅しています。 日本海軍台湾航空隊は、かつてイギリスの最新鋭戦艦二隻を精密爆撃で沈めています。飛行機による攻撃で航行中の戦艦を葬り去ったのはこれが世界で初めてだったはず。 世界中はショックを受けるほどの大事件だったのです。 その世界最強の台湾航空隊が壊滅。 つまり日本近海には米軍の艦船がうじゃうじゃ居た と言うことになります。 その証に本土と朝鮮を結ぶ関釜連絡船では10月5日に最新鋭の崑崙丸が潜水艦の攻撃を受け沈没。585名の命が失われました。 以後不要不急の場合を除き運行は自粛されるようになり、 数隻有った他の連絡船は戦場。或い重要航路の青函に転用。 残った船は全て沈没。 昭和19年末には事実上運行停止。 同年3月に当時の鉄道省は航路の廃止を決定。 当時の連絡船の定員は小さい船で600名 一番大きな船でも2000名丁度。 勿論徴用者以外にも軍人・軍属・民間人・・・・も運ばなければなりません。 これに百名ちょっとの乗組員が加わります。 徴用令が発令後の僅か一ヶ月でどれ程の朝鮮人を日本に運ぶことが出来たのでしょうか? 当時、釜山から下関まで半日掛かったそうです。 港に着けば荷の積み卸しやら船体のメンテナンスもしなければならない。 一隻の船がどんなに頑張っても一週間でせいぜい3〜4往復が精一杯だったのでは? とも考えられます。 日朝の主力航路がこの有様でしたから、他の日朝航路はもっと貧弱であった様に考えられます。 毎日新聞社が時々書き立てる、強制連行者100万人。 どうやって運んだのでしょうか? 因みに昭和34年外務省発表の強制連行者は245人だそうです。 以上「にこん様2号」2008.8.24記す