崩れゆく日常にオリゴ糖を 全身が目覚めるのを拒否していた。ベッドの暖かなぬくもり、何か懐にある柔らかな感触、不思議と心を落ち着かせる匂い。そのどれもが筋肉痛の抜けきらない俺にとって甘美で、このままずっとこうしていられたらいいと思わせるには十分過ぎた。  でも、学校がある。  一昨日の部活で誰かが言っていたな。  月曜は月曜的な理由で休みたくないと。  正にその通りだ。 「ん……」  なんとか重いまぶたを開ける。  すると、昨晩寝る時にどうだったかとか、どうして今こういう風なのかとかが、寝ぼけた頭でも思い出されてきた。確か昨日は、一昨日と同じく、一昨日と同じ理由で、一昨日の前日とも同じ状況になったんだったか。  息のかかる距離で、すやすやと金髪のチビッコが眠っている。たまに口をむにゃむにゃと動かして、布団の隙間から入り込む空気が寒いのか、俺の体にぴったりと寄り添っている。そして、このあどけない寝顔に不似合いなあれも、妙な硬さで、俺の下腹部に押し付けられている。  同じ人間なんだが……。  髪を撫でようと思って手を動かし、しかしなんとなく思いとどまって小さな背中を軽く抱き寄せてみる。小動物は人間よりも体温が高いって言うけど、これはこういう場合にも当てはまるのだろうか。どうでもいい疑問はどこかに軽く流して、抱き寄せた腕を伸ばし、そっぽを向いているピンクのうさぎのぬいぐるみを手に取った。それを俺とチビッコの間に押し込み、 「んにゅ……」  細い腕がそっちを抱き締めたところで、そっと体を離す。  起こさないようにベッドから出て、畳に放っておいたトレーナーを拾い上げ、静かに部屋を出た。  身支度を済ませて居間に行き、朝食にありつく。座卓には、ご飯、みそ汁、昨日の残りの刺身や、ほうれん草のおひたしなんかが並んでいる。お袋いわく、日本人の、ひいては我が家の朝食は和食じゃなければならないらしい。なんでも、親父がそうだからそうなんだそうだ。そんな親父一筋なお袋に、飯を食べながら聞いてみた。 「本当に一枚も布団ないのか?」  お袋は小皿片手に台所からやって来ると、砂糖と蜂蜜とコンデンスミルクを混ぜたような甘高い声で答えた。 「だから昨日も言ったでしょー? お客様用のお布団もぉ、お婆ちゃんが使ってたお布団もぉ、全部全部ぜーんぶ古くなっちゃったから、綿だけ抜いて布巾にしちゃったーって」 「だったら」 「でも大丈夫!」  小皿を卓上に置くと、お袋はびしっとVサインをしてみせた。小皿には白菜の浅漬けが景気よく盛り付けられている。 「お布団に入ってた綿はたべっこどうぶつばりにハーレムチックなエロ可愛いぬいぐるみさん達に生まれ変わったから! そして今日も一日父さんの書斎で仲良くよろしくやってるわ!」 「あ、そう」  俺の生返事に満足そうな表情をすると、お袋は台所に戻り、がちゃがちゃと何かやり始めた。その音を聞きながらテレビに目をやると、ポケモンがどうのこうのと、変なコスプレをした出演者が子供に語りかけるような口調で喋っている。お袋に言わせると、朝のニュース番組の中ではこれが一番まともなのだそうだ。 「もう残り少ないんだけどねえ。ねえ?」 「ああ」 「めーちゃんのお友達のうさぎさん。一匹だけじゃかわいそうじゃない?」  気づいたら、お袋はメイジのことをめーちゃんと呼んでいた。 「かわいそうよね?」 「ああ」 「だからぁ、残ってる綿全部使って新しいお友達作っちゃおうと思うの」  こっちは飯を食ってるっていうのに、そういうのお構いなしで話してくるから困る。朝は時間の流れが二倍速だと言っても過言ではないのに。 「どうかしら? としあきもいいと思う?」 「いいんじゃない?」 「そうよね、そうすればとしあきもお揃いで抱っこできるもんね?」  しまった。  そういう考えだったのか。 「いや、俺はいらないから」 「いいって言ったのに?」 「それはそのことに対して言ったんじゃなくて」 「ふうん、としあきってば冷たいのねー」  出た。  またこれだ。  いつものパターンかよ。 「母さんもう泣いちゃいそうだわー」  なんて冗談めかして言っているが、これを適当に流したり、こっちの意見を押し通そうとしたりすると、本格的にそういうモードに突入してしまう。今はたぶん、音から判断して洗い物をしている最中だから、流しに水でも溜めて溺死に走ろうとする可能性がある。とは言っても、できもしないのにやろうとして台所を水浸しにするだけなんだが、そんな母親の姿を見たいとは全然思わないわけで。  しかたなく、棒読みなのは気にせず言う。 「あーすっごい楽しみだなー」 「楽しみだなー」  こういう時、お袋はなぜか俺の言葉を真似したりする。 「すっごい楽しみー、あーわくわくー、どきどきー」 「わくわくーどきどきーなら、作ってあげようかなー」  俺の口調などまったく意に介さずに、お袋はちょっとだけ嬉しそうに言った。 「すこぉし待っててね。すぐに素敵なお友達縫ってあげるからねー」 「はいはい」  並んでいた食事を平らげ、台所へ食器を片付けに行く。 「ごちそうさま」 「はいごちそうさま」  お袋はにこにこしながら俺が出した食器を洗い始める。  そして、子供を二人産んだとは到底思えない顔をこっちに向けて言った。 「お昼のごちそうさまはそこにあるから、ちゃんと忘れないようにね」 「ああ、わかった」  言われた通り、流しの横に置いてある水色の布で包まれた弁当を手に取る。 「そういえば姉貴は?」 「今日はお休みだって」  大学生というのは、お気楽で大変素晴らしいものだ。 「あー、めーちゃんなら大丈夫。心配しないで学校いってらっしゃい」 「………」  俺の質問からどう行き着くとそういう発想が生まれるのか。  頬を指先でかいて考えてみたけど、俺にはいまいちよくわからなかった。  俺が家を出るまで寝っ放しだったメイジを思い出すと、こんな言葉が思い浮かんだ。  猫は一日の大半を睡眠に費やし、子供もそれと同じくたっぷり寝なければならない。  俺もまだ十七歳、だから少しは寝てもいいのかねえ。 「いや、とっしーは寝すぎだ」 「授業と書いて睡眠時間と読むってのはどうだ?」 「それで来月の期末、俺に範囲を教えろなんて泣きついてきたらどうなるか」  ガネは購買の「あんぱんゴールド」と緑茶の缶を机の真ん中に置くと、自分の前にグレーの弁当箱と烏龍茶を置いた。俺も家から持参した弁当を出す。水色の布を広げると水色の弁当箱が出てきて、どうやらお袋は俺が子供の頃からずっと水色が好きだと思い込んでいるらしい。 「また一教科につき糖分一杯か?」 「糖分と書いてスイーツと読め」 「同級生で部活仲間が、まあ別に糖分好きでもいいけど、それが男となるとな」  弁当箱のふたを開けると、ぎっしりと入った白飯に梅干が中央に一個だけという大変シンプルな有様だった。俺はそれにため息をついて、ラベルがゴールドなだけのあんぱんと緑茶の缶を手前に引き寄せた。 「なんだ、今日は手抜きの日か」 「そうらしい」  お袋は凝る時と手を抜く時の落差が激しい。激しすぎる。 「土曜日に、にくまんをおごっておいて助かったかな」 「約束を守る優しい俺に感謝しながら、あんぱんゴールドと録茶を堪能しろ」 「ああ、そうさせてもらう」  教室の廊下に近い席でいつも通り昼食をとる。二年に上がってからずっとこのパターンだから、もうすっかり慣れて飽き気味でもある。窓からの日差しもこの時期にしては明るくて、今日はまた一段とのんびりしているような気がする。 「そっちは握り飯に卵焼きに、たこさんウィンナーか」 「自作だとこれくらいで面倒になる」 「飯代はもらってるって、前言ってなかったか?」 「金をかけずに済ませられるなら、そうすべきだと思うからな」 「それ、うちの家族にも見習ってほしいよ」  白飯のおかずにあんぱんというのもどうかと思うが、何もないよりはましかもしれない。炭水化物ばかりで栄養バランスが最悪なのも、この際文句は言えまい。  ガネは自作だというたこさんウィンナーを口に放り込むと、さして興味があるわけではないといった口調で尋ねた。 「そういえば、とっしーの家にやってきたという親戚はどうだ?」 「メイジか」 「メイジ?」  ガネにはまだ名前をちゃんと教えてなかったか。 「メイジ=ローズデン……、でんどらいと」 「ローズデンドライト? 聞いたことがないな、そんな名字」 「だろうな。俺も初耳だよ」  随分と仰々しい名字だ。それに妙な違和感がある。 「ブルガリア人だったか、その親戚は」 「ヨーグルト王国のお姫様らしい」  俺の言に、ガネは少し考えると、 「お袋さんか?」 「いつもの冗談だよ」 「冗談かもしれないが、その形容もあながち的外れじゃないんだろう?」  メイジの幼い顔立ちや細い髪、それに宝石のような赤い目が思い浮かぶ。  まんまお姫様かどうかは議論する必要がありそうだが、 「まあ、そうかもな」  ガネは含みのある笑みを浮かべた。 「それにしても気になるところが少々ある」 「なにがだよ」  俺が緑茶をすすると、ガネは真顔で聞いてきた。 「まず、その姫君は本当にブルガリア人か?」 「知るか」 「パスポートは?」 「見せてもらってないな」  ガネは眉をぴくりと動かす。そして烏龍茶を一口飲むと言った。 「ブルガリアというのは東欧の国でな。元はソ連の一部だったんだ。だからと言うわけではないが、ロシアやその周辺諸国と文字や言語、文化に共通している部分が少なくない、はずなんだ。憶測の範疇を出ない、いいかげんなものになってしまうが、向こうではローズをローズとは読まないんじゃないのか?」  ローズ。  俺の知る意味そのままなら、バラか。 「ローズだと英語ってことか?」 「それに向こうだと、例えばイワノフやアシモフみたいに名前に決まりがあって、チャイコフスキーやら何やらと有名なのは数多くいるが、皆似たような名前の奴ばかりだ。女の場合だとイワノワ、イワノヴァ、ドストエフスカヤみたいにこっちもある程度決まりに沿っている。とっしーの親戚みたいに珍妙な名前はそう聞かないだろう」  もしガネの言う通りなら、 「他の国から移り住んできたとか?」 「そう考えるのが妥当だろうな。ちなみに、日本で力士をやっているブルガリア人も、元は俺が言ったような名前なはずだぞ」 「そうなのか?」 「確か『なんとか、なんとかなんとかノフ』だ」  ほぼ無意識に動かしていたはしを止め、ガネを落胆の目で見た。 「べらぼうに曖昧だな」 「そう思うなら、相撲に興味があるやつに聞いてくれ」  ガネもめんどくさそうな顔で、自作らしい握り飯にかじりついた。  それから弁当もほぼ食べ終わり、残った白飯に嫌気がさした頃、話題がないからしかたなくといった感じでガネが聞いてきた。 「で、その珍奇な名前の姫君とはもう仲良くなったのか?」 「さあ……」  金、土、日と、一緒にいた時のことを思い出してみると、食事の時や寝る時以外はあまり顔を見なかったような気がする。お袋や姉貴にくっついて何かしていたみたいだけど、俺は部活の疲れでそれに付き合うほど元気じゃなかった。それに、あれのせいで微妙に距離があいてしまったような。  いや、普通は逃げるだろ。  股を覗かれちゃあさ……。 「一応、今のところ毎晩一緒に寝てはいるんだけどな」  苦笑し、弁当箱にプラスチックのはしを投げ入れる。 「ふむ」  ガネはあごに手を当て、ほくそ笑み、嫌な目つきで俺を見た。こういう時は大概、この後に眼鏡がちらりと光ったりして、こいつの口からろくでもない発言が飛び出してくる。 「とっしーはロリコンだったのか」