選択肢は消去法で  今日は秋雨で寒く今期一番の冷え込みでした、とテレビの中でお天気キャスターが言っている。透明なビニール傘を片手に横風にあおられながら、霧雨を顔に受けて、なんというか、まあ、大変なお仕事である。  そんな中年キャスターを眺めつつ、すっかり暗くなった窓の外にちらと目をやれば、スウェット姿で目つきの悪い奴がこっちを見返している。テレビでは明日の最高気温がどうだの、注意報はどうだのと喋っていて、それに耳を傾けていると、壁越しにどたどたとうるさい足音が響いてきた。  その足音が近くの引き戸の向こう側で止まると、それが勢いよく開いた。 「ああ、としあき」  戸口に目をやると、姉貴がミニクイ下着姿でほかほかと湯気を上げていた。 「半裸はやめろって言ってんだろ」 「これから駅前行ってこい。迎え行けって言われてたんだわ」  俺の注意を無視し、適正体重より十キロは重そうな裸体が居間を通り抜けて台所に入っていく。つい二年くらい前まではほっそりしていて、これほど見るに耐えないということはなかったはずなんだけど、何をどう間違えたのか、俺が知らぬ間に脂肪を蓄えてしまったらしく、今ではご覧のとおりというわけだ。 「親戚の子が家に泊まりに来るってさあ」  冷蔵庫のドアがばたばたいっている。  風呂上りで喉でも渇いているのか。 「確か約束の、昼前の十時とか」 「おい、それ、もう夕方の六時だぞ」  外はもう真っ暗なんだが。 「何時間前の話だよ、まったく」 「うっせえな。ついさっき起きたんだよ」  と、外を眺めていた俺の真後ろから、姉貴が俺の後頭部に蹴りをかましてきた。ゴッという鈍い音が頭に直接響き、その反動で座卓にこめかみがめりこむ。それから、じいんと痛み出したそこに手を当てると、姉貴は少しハムっぽい右足を下ろしているところだった。 「わかった?」  いつからこんな姉になったのだろうか。  昔はもう少し優しかった気がする。 「いいかげんダイエットしろよ、このヒッキーが」 「ばーか、高校と大学は違うんだよ」  姉貴は麦茶のボトルからコップに注ぎ、それをごくりと飲むと、また台所に戻っていった。白い下着に背中や腰の肉が乗っかっていて、やはり見られたものじゃない。それに色が白って、清純派でも気取ってやがんのか、このタコが。 「とりあえず行ってきてー」  台所から再度命令が飛んできた。 「普通、こんな時間まで電話の一つもかかって来ないって」 「知らねえんだろ?」 「じゃあ向こうのケータイとか」 「そんなん知るか」 「あー……」  行くしかないのかよ。 「風呂入ったんだから、姉貴が行けばいいだろ」 「それで風邪ひけって? やな弟を持っちまったなあ」 「今日、部活、筋トレ、五セット」 「はいはい、お疲れお疲れ」  テレビではCMが流れている。スポーティなセダンとかなんとか。うちで免許を持っているのは親父だけだから、車で迎えにってわけにもいかない。 「で、その親戚の子って?」 「はあ?」  声が近づいてきたのでそっちに目をやると、コーヒーの匂いがするマグカップと、チョコチップクッキーの袋を手に持っている。これからまたパソコンで何かやるらしい。家にいる間中パソコンと睨めっこをしていて、どうすれば一日中あの箱に張り付いていられるのかと疑ってしまうのだが、前に聞いた時はうるさいの一言で片付けられてしまった。 「なんでも外人で、名前はメイジっていうらしいわ」  姉貴はそれだけ言うと、開いたままの戸からさっさと姿を消してしまった。それから、すぐにどったどったと階段を上る音がして、天井の方からばたんとドアの閉まる音がした。 「それだけかよ」  しかもニュースキャスターが「また明日」なんて言っているあたり、六時じゃなくて七時じゃねえか。一体どれだけ経ってるんだよ。アホか。アホだろ。どんだけ待たせてるんだ、あのアホは。  ため息をついて立ち上がると、面倒なのでテレビはそのままに、一度二階の自分の部屋に戻って上着やらジーパンやらで身支度をした。しかたないなと思いつつ、玄関に向かい、だいぶくたびれているスニーカーに足をねじこんで、もう一度ため息をつく。  それから、がらがらと玄関の戸を引き開けた。 「あっ」  と小さな声がした。  誰だ、と思ったら、戸のすぐ横にうずくまる人影が。 「あ……」  呟いた声は見た目相応に子供っぽくて、だけど、やけに冷静な眼差しで、ルビーのような瞳をくりくりさせて、俺のことをじっと見上げている。  よく見ると、癖のある背中まで伸びた金髪が、先端から水滴を垂らしている。黒くだぼついた服もぐっしょりと濡れていて、横にある大きなトランクもずぶ濡れになっている。ただ、大事そうに抱きかかえているピンク色のうさぎのぬいぐるみだけは、乾いていた。  外人で、名前はメイジっていうらしい。  俺が固まったままじっと見つめていると、少女はこう尋ねてきた。 「としあき?」  親父は出張でどっか行っていない。お袋は友人と飲みに出かけるって朝言っていたような気がする。姉貴は部屋にいるけど、今までの経験から言って声をかけても無反応だろう。  台所のコンロの上にある鍋のふたを開けると、中身はカレーだった。一応晩飯のためにとお袋が用意したらしい。その気遣いは心底ありがたいんだけど、遠方からの来客があるって日に、友人と飲みに行くっていうのは、四十に迫った大人としてはどうなんだろうか。  火を入れて、弱火にしたことを確認し、おたまで軽くかき混ぜてからふたを閉めた。そして軽く思い返す。あの子はこんなことを言った。 「親が、今際に、あなたの父のことを話してくれたの」  色々な疑問よりまず先に、日本語が達者なんだってことに驚いた。 「あなたの父は信用に足る人間だから、頼りなさいって」  その次に、濡れねずみな格好と、玄関の明かりに反射する金髪と。 「私はメイジ。メイジ=ローズデンドライト」  後は、ルビーのように赤くきらめく瞳がやけに気になった。  身の丈から察するに歳は小学生くらい。五、六年にしては小さいし、一、二年と呼ぶほど子供でもない。だからたぶん、三、四年くらいの年齢だろう。それで、外人のわりには日本語がうまくて、俺と同年代のバカ共よりはおそらく頭がいい。俺が十歳くらいだった頃と比較してみても、随分と大人びた印象を受けた。  テレビ以外は静かなもので、風呂場から桶のがらごろという音や、ばっしゃんという水音が聞こえてくる。とりあえずって感じで風呂に入ってもらったけど、今のところ特に問題はないらしい。シャワーの使い方を説明し忘れたけど、それも平気みたいだ。テレビでは猫型ロボットのアニメがやっている。  しばらくの間、こんな風に考え事をしつつ、カレーを温め、濡れたトランクを拭いたり、靴を乾かしたり、冷蔵庫で眠っているレタスやトマトなんかでサラダを作った。普段なら絶対に作らないけど、変わった来客がいて、それが育ち盛りの子供となれば、栄養面や色取りのバランスも考えねばなるまい。それに、何かやっていないと妙に落ち着かなかった。  鍋の中を覗きこんでいると、 「あ……」  台所の戸口辺りで声がした。  俺は顔を上げ、妙な緊張感を自覚しつつ、笑みを浮かべて言った。 「ああ。体、あったまったか?」  メイジは俺が置いておいた服をちゃんと着て、頭からほかほかと湯気をあげている。自分の部屋の押入れから小学生の時着ていた服を引っ張り出してみたんだが、サイズはうまい具合に合ってくれたらしい。しかし、水色の古臭いパジャマとはんてんの組み合わせは、どう見てもこの子にはミスマッチで、ふつふつと笑いがこみ上げてくる。  メイジは小さく頷いた。 「じゃあ、そっちでテレビでも見てて。もうすぐ飯にするから」  俺をじっと見た後、もう一度首を縦に振って、居間に戻っていく。テレビからは軽快なエンディングテーマが流れているようだ。カレーはごく弱火でもあぶくがぽこぽこというくらいに温まっている。炊飯器の方は予約がしてあったようで既に炊けている。保温状態だから冷めている心配もない。あとは皿に持って食べるだけだ。  ……と、  チャーチャーチャーチャララー。  居間にある電話が鳴り出した。うちの電話はどっかから着信するとビバルディの『春』が流れ出す。だから電話が鳴っている時だけは、うちは年がら年中春だ、なんてことを親父がぬかしていた。  テレビをぼけっと眺めているメイジの背後で安っぽい春を垂れ流している電話にそそくさと向かい、受話器を取る。メイジはこっちが気になったのか、首を回してこっちを見た。 「はい」 『ああ、としあきか』 「親父?」  栗の渋皮みたいな声に重なって、雑踏の音が聞こえる。 『どうだ、ちゃんと着いたか』 「んあ」  俺は振り向いてメイジのことを見た。メイジもこっちを見ている。そしてその尻に、俺がさっきまで使っていたえんじ色の座布団を敷いているのを見て、なんとなくほっとしてしまう。 「ああ、うん」 『まあ、生まれはブルガリアなんてよくわからん所だが、一応うちの遠い親戚にあたる子だ。詳しい事情は母さんに話してあるから、後は母さんに聞け』 「ああ」  俺が相槌を打つと、束の間会話が途切れ、 『それじゃあな』  と親父が言うと、勝手に切れた。  受話器を置いて軽く息を吐くと、立ち上がろうとして、  チャーチャーチャーチャララー。  と、また電話だ。 「はい」 『ああ、としあきぃ?』  このアンパンマンに出られそうなハイトーンボイスは、 「お袋か」 『んっふふー、そうでーす。私がぁ、あなたのぉ、お袋さん、でーすーよー』 「ああ、そう」  能天気な声の後ろで、それに負けないくらいのばか笑いが聞こえてくる。 「で?」 『あー、なんだっけー? なんだっけー』  後のなんだっけーは友人達に聞いているらしい。 『えっとえっと、にゃはっは』 「なんだよ」 『そうそう、それでぇ』 「そっちで楽しんでんなら切るぞ?」 『ああん、待ってぇ、待ってぇ』 「つうか、まだ八時にもなってないのにどんだけ酔っ払ってるんだよ」 『ちゃんと着いたー?』 「は?」 『ほらっ、あれよあれ、ヨーグルト王国の』 「ああ、着いたよ着いた」  ガチャ。  埒があきそうにないので手早く受話器を置いた。  ちらっと後ろの方に目をやると、不思議なものでも見るように俺のことを見ている。俺は苦笑して肩をすくめると、膝に手を突いて立ち上がり、ため息混じりに、独り言みたいに言った。 「さーて、飯にすっか」 *  翌日、校門の前でストレッチをしていると、背後から声をかけられた。 「なんだとっしー、景気の悪そうな悪人面だな、いつも通り」 「ああ、目つきの悪さだけが取り柄なんだよ」 「こんなにいい天気だというのに、もったいない面だ」  俺の隣で雲がぽつぽつとある空を見上げ、腰を下ろしたのは、同じ部活で苦楽を共にしていなくもない、今は同級のメガネだ。仮入部で初めて出会った時はメガネ野郎で、その次がメガネ男で、じきメガネに短縮されて、今ではガネにまで縮まっている。  俺達は、端から見るとただ走っているだけで何が楽しいのかよくわからない、走ることにアイデンティティを見出した者達の集団、陸上部に在籍している。ちなみに幽霊部員は体育会系の中でもダントツに多い。 「よく晴れたな」  隣でストレッチを始めたガネが言った。 「ああ、ずっと雨だったからな」 「平日はずっとか」 「そうだな」  俺は同意すると、脚を広げて上体を倒した。  そして、息をゆっくりと吐き、筋を伸ばしながら話しかけた。 「なあ、ガネ」 「なんだ?」 「昨日うちに、親戚が来たんだ」 「ほう」  上体を起こし、息を大きく吸い込んで、ほっと吐き出す。 「なんでもブルガリア人で、うちとは遠い親戚にあたるらしい」 「珍しいな。留学か?」 「いや、歳は十歳だとよ」 「それは、子供だな」 「ああ、子供っていうかチビッコだ」  再度上体を倒していく。 「そんな親戚がいるなんて初耳だが、この季節だから、紅葉の山々でも見に来たのか。日本の秋は目にうまく、舌にもうまいからな。四季の一節を肌で感じ、旬の味覚を堪能するにはこれほどいい季節もない。それに、西洋人にはこのくらいの気候の方が過ごしやすいかもしれん」 「いや」  と否定し、上体を起こす。 「どうやら観光でもない」  ガネもちょうど上体を起こし、七三ストレートを手櫛で整えているところだった。こいつは部長とか委員長とか、生徒会長みたいな役職が似合いそうな髪形と、それに見合う容姿をしている。 「じゃあ、居候か?」 「そう、なるな」  昨晩のことを振り返ると、とりあえず、そういうことなのか。  後で怒鳴り散らされては堪ったものではないと姉貴に声をかけたものの、ドア越しに怒声を浴びせかけられ、やるかたなしと居間に逃げ帰ってきた俺を待っていたのは、座卓に並べられた料理の前でちょこんと静かに座るメイジの後姿だった。  俺は苦笑した。 「なんだ、まだ食ってなかったのか」  メイジは首を縦に振った。 「そっか、それは待たせて悪かったな」 「ん」  首を横に振る。 「そっか、はは」  随分と無口な子だ。  この時は素直にこう思った。 「とりあえず食おう。大量に作ったみたいだからおかわりも一杯ある。したくなったら遠慮なく言ってくれよ」  首を縦に振る。  俺はそれに笑顔で応え、スプーンを手に取ると、なるべく明るい調子になるよう意識して言った。 「いただきます」 「……いただきます」  カレーライスに手をつけようとして、俺はなんとなく気になって尋ねた。 「ブルガリアでも、食事の前に挨拶はする?」 「いや」  答えを聞いた後、カレーとライスをスプーンですくい、口に運んだ。学校給食並みに甘い香りが口一杯に広がり、ほんのちょっとの辛さが舌をつつく。うちでは姉貴とお袋が、超が付くほど辛い物が苦手で、カレールウのパッケージに表記されている辛さのレベルが『1』じゃないと食べられない。 「あっちの方だと、お祈りなのかな。映画で見たことが」  メイジがカレーを口に含み、もぐもぐと口を二、三度動かす。そして動かすのを止めると、一瞬目を細め、それからすぐにぱっと見開いて俺のことを凝視した。数拍の間をおいて、そこからじわっと涙が溢れ出す。 「かひゃい……」