■ 五日目 ■  ゆらゆらと揺れていた一本の影が、やがて大きく縦にしなる。  メイジは閉じていた目を開けると、ユキとリョウコに手振りで場所を変えるように合図をした。  指示された二人は、メイジの要求通りに入り口のドア側、ドアの開きとは反対の部屋の隅に移動する。  リョウコに小さく「伏せたほうがいい」と言われたユキは、そのまま体勢を低くしてうずくまった。  それを見たメイジはニッコリと笑うと、体をベランダに向ける。  細い線のような影は意志のある蛇のように身を躍らせていたが、  そのうち二本の足が、続いて大柄な人影が線をつたって下りてきた。  人影はベランダに降り立ち、何かのアタッチメントを外そうとしているように見える。  曇りガラスに映るその手際の良い動き。紛れもなく無言の悪意がそこに迫っている。  日常からかけ離れた光景に恐怖したユキは、思わず小さな悲鳴を漏らした。  ワイヤーをつたって降りてきた人影は一つ。その影に正面から仁王立ちで臨むメイジ。  その直線距離は五メートルもないだろう。薄い曇りガラス一枚隔てた場所に、  明確な敵意が存在するのだ。メイジは呼吸一つ乱さずに直立したまま  細かく目線を動かして男の影を作り出している光源の位置を測っているようだ。  相手の出方を待っているようなメイジだったが、人影が腰の辺りを探ろうとした瞬間、銃を構えた。  ほぼ同時に、パン、と乾いた銃声が深夜のホテルの一室にこだまする。  鮮やかなクイックショット。リョウコには目標の顔面、下鼻のあたりを貫通したように見えた。  恐らく延髄を傷つけただろう。最早生きてはいまい。  影は大きく揺らめいて、捨てられたゴミ袋のような自然な動きで窓ガラスに激突した。  前のめりに倒れたその影はベランダの窓に寄りかかってしまっている。  メイジはその相手には目もくれずに、すかさず靴で窓ガラスを蹴り破って  手元に置いてあった鏡の破片だけを割れた窓から外に出し、角度を変えて全方向を見回している。  随分念入りに周囲の様子を覗っていたメイジだったが、倒した相手の武装を鏡で確認すると、  得心いったのか、ユキ達とは逆方向、反対側の部屋の隅に移動した。  ユキとリョウコがタオルを噛みながら両耳を塞いでしゃがみ込んでいるのを見ると、   メイジは上に向けた銃を小さく左右に振った。どうやら援護のサポートが見あたらないらしい。  突然ガキン、ガキンと金属が割れるような音が、ユキの間近から聞こえた。驚きのあまり  思わず声を上げて飛び上がってしまいそうになったユキだが、何とかタオルを食いしばって耐える。  見ると、ドアノブが激しく回転しており、誰かが鍵の掛かったドアを昔ながらの方法で無理矢理  こじ開けようとしている様子で、ドアの取っ手は一定方向に回転し続けていた。  その光景を見たメイジは、少しあきれたような顔をして無造作に銃口を入り口のドアに向ける。  間髪入れずにドアノブの上に三個の穴が開く。  僅かな沈黙の後、ガタッとドアに何かぶつかる音がした。  連射を終えたメイジは体を伏せて相手の出方を待っているようだ。  ドアノブは回転をやめ、外部からのリアクションがはたと途絶える。  そのままメイジが銃を構えたまま更に数十秒が経過すると、  なんの前触れもなくドアが銃弾により振動した。敵の乱射が始まり、高速の兇弾が室内を蹂躙する。  消費が激しいフルオート射撃が続き、ドアには無数の穴が開いて、調度品が周囲に四散した。  メイジは待っていたといわんばかりの勢いで中腰の射撃体勢をとり、  間断なく弾丸が吐き出されるドア目がけて、躊躇なく38スーパーを撃ち込んだ。  人の腰ほどの高さ、主にドアの穴が穿たれている箇所に狙いをつけている。  カスタム・コルトのマズルから四度閃光がきらめくと、  敵の攻撃はピタリとやんで、それまでの喧噪が嘘のように部屋は静寂に包まれた。  飛び散ったベッドの羽毛が音もなく舞い、テーブルの破片が崩れ落ちる音がやけに大きく響く。  メイジは体を起こして、音もなく部屋の隅から移動を開始した。  ドアに向けてゆっくりと歩きながら、胸のホルダから新たなマガジンを引き抜いて  流麗ともいえる動作でチェンジを行うと、ドアの下部、床上10cm付近を狙って二度トリガを引く。  そのまま何のためらいも無く部屋の中央を歩いてドアにたどり着いたメイジは、  迷わずドアノブに手を掛けて引く。鍵は既に破壊されつくしていたのか、ドアはすんなりと開いた。  メイジは一度足下を見やる。既に絶命している敵を見下ろすと、  横に立て掛けてあった鏡の割れクズを外に向かって放り投げた。  回転しながら飛ぶ鏡を凝視して、廊下の状況を確認し、援護の為に待機する敵影を探し求めている。  その刹那の瞬間で理解できたのか、メイジは隅に縮こまる二人に初めて声をかけた。 『Run!』  入り口のドアで手招きをするメイジを見て、二人は今が逃走する好機だと遅れて気付く。  この機を逃してしまえば、次のチャンスはもう訪れないかも知れないのだ。  フラフラとおぼつかない様子で立ち上がった二人だったが、  深呼吸などをしてどうにか心を落ち着けている。  ドアのすぐ外には、自分達を襲撃した敵が血だまりの上に横たわっているが、  それを視界に入れぬようにしながら、ユキは廊下に頭を出して左右を見た。  見渡す限り廊下に人影は見あたらず、エレベータ側も階段側も無人のように見える。  無人の廊下を確認すると、ユキは自分の考えを二人に話しだした。  この階の非常口から隣のビルの屋上に飛び移れるということ。そのビルは屋上に飛び移ってしまえば、  一度大きな段差を飛び降りるだけでそのビルの非常階段にアクセスが可能だということ。  非常階段はほとんど射線が通っておらず、もし狙われてたとしても被弾する可能性は低いと言うこと。  自分が囮として先行するので、もし敵の待ち伏せにあったら別のルートを探して欲しいということ。  安全だと思ったら、携帯に合図を送ると言うこと。  険しい表情で聞いていたリョウコが頷き、メイジは何かを感じ取ったのかユキの手を掴んだ。  ユキは二人を残して部屋から飛び出し、エレベータ側とは反対の非常口に向かって疾駆を始める。  急に走り出したユキを見て、咄嗟にメイジがそれに続こうとしたが、  リョウコがAdvanceだと口にする。メイジは一瞬わずかながら顔をしかめて硬直したが、  瞬時に逆側を警戒しながら銃を構えてバックアップの体勢に入る。  ユキは持ち前のばねを活かして廊下を疾走し、あっという間に扉までの距離をつめた。  非常口の脇に置いてあった邪魔なダンボールを蹴り飛ばし、扉の内鍵を開ける。  外から舞いこんで来る湿った空気が身にまとわりついたが、待ち伏せや狙撃はない。  見ると目的である隣のビル屋上までは意外に遠く、およそ三メートルほどあったが  助走をつけて手すりを乗り越え、そのまま迷わずに宙に体を躍らせた。  なんとか飛び移ることには成功したものの、着地の衝撃は大きく、  むき出しのコンクリートの地面を何度も転がってしまったが、  素早く立ち上がって周囲に視線を巡らす。とりあえず屋上に人影は見あたらない。  合図としてリョウコの携帯電話に一度だけコールすると、  迷うことなく段差を飛び降りて、ビル外部に設置されている非常階段を駆け下りた。  自分は泳がされているだけなのではないか、三人揃ったところで一網打尽にする腹づもりだろうか…。  様々な不安が頭をよぎったが、ユキはあらん限りの力で階段を駆け下りた。  五階、四階…。正面に立ちはだかる敵影はない。  下りの段差は想像以上に走りづらかったが、命には替えられない。  今の自分はDecoy(囮)ではあるが、自分だって生きてメイジと再会したいのだ…。  鉄製の階段を螺旋状に降り続け、ようやく地面が見えだした頃、ひときわ大きな金属音が響いた。  眼前に赤い火花が無数に散り、ユキは自分が銃撃されていることを悟る。  それは直感ではあったが、体が反射的に死の予感を回避した。  勢いのついた体を停止させる為、ユキは眼下の踊り場に体を丸めて頭から飛び込む。  断続的に銃声が周囲に巻き起こり、跳弾が火花をまき散らしている。  壁際に身を寄せながら、ユキは考えを巡らした。引き返すべきか、リョウコ達に連絡すべきか。  これが制圧射撃なら、別の仲間がなんらかの移動を行いつつこの身に迫っている筈だ。  メイジ達をこちらに向かわせてしまったが、どのあたりまで追いついてきたのか。  銃声を聞いて、すでに踵を返しているのかも知れない…。  死を覚悟しつつあるユキのはるか頭上、ビルの屋上でコルト・カスタムが火を噴いた。  地上のマズルフラッシュを認めたメイジが行った、拳銃の射程を遥かに超えた長距離射撃だった。  鉛の洗礼を受けた地上の男は力なく崩れ落ち、やがてビルの谷間に反響を続けていた銃声がやむ。  メイジの援護に気付いたユキは、立ち上がって逃走を再開した。  ユキはとうとう非常階段を下りきった。地面に足をつけて出口の扉を開け放つ。  居ると思われた仲間の影は見あたらず、その後銃撃されることはなかった。  やがて上からリョウコ達の足跡が聞こえはじめる。  三人は誰一人欠けることなく非常階段の登り口で合流を果たすことに成功した。  互いの無事を喜び合うのも束の間、三人は夜に紛れるように姿を消す。  しかし今の彼女たちに、目指す行き先など無かった。  ◇戻せない◇  この通りに営業時間という物は存在しない。  ネオンは夜を拒否するかのように闇を削り、一晩の安らぎを求めて彷徨う人々は途絶えることがない。  良識のある人達は顔をしかめるが、この類の商売は昔からすたれることが無かった。  不景気に強いこの通りは、今日も様々な人たちが行き交っている。  路地裏を抜けて繁華街にでた三人は、雑踏に身を隠しながら移動していた。  あれほど念入りに尾行を警戒し攪乱したはずなのに、どうして安々と潜伏先が割れたのか。  ユキとリョウコは口々に可能性を挙げてみるものの、明確な答えは出ない。  二人の間に挟まれながら歩いているメイジは静かに後についてくるだけで、  感情の高まった二人のやり取りをむしろ物悲しい瞳で見つめている。  途中幾度も酔っぱらいに絡まれたり若者の集団に声を掛けられたりしたが無視を決め込むことにする。  三人の背中にはやっかみや、時には罵倒が浴びせかけられたが、気にしていられなかった。  言葉は心を傷つけるが、命を奪うことはない。  三人は人混みをかき分けながら、どうにか歓楽街を抜ける。  街を二分する大きな一級河川にさしかかると、  それまでおとなしかったメイジが、急に二人の手を引いて先に歩き出した。  二人はメイジに声を掛けるが、可愛い異国のお姫様は薄く悲しげに笑うだけで何も答えてくれない。  メイジは緩やかな川の土手を下っていき、ほとりまで来ると河面に腰を下ろした。  二人もそれに従ってメイジの両隣に座る。  夜の涼気が心地よく、夏を感じさせない。  メイジは一言も喋らなかった。ただじっと水面を見つめたまま動かない。  二人ともメイジの名を呼んで語りかけるが、手を握り返してくるだけで、メイジの表情は晴れない。  声をかけていたリョウコがメイジの横顔からふと視線をそらすと、  そこには先程の歓楽街が闇夜に栄えていた。明日が来るのが当然だった日々。  生きる事自体が当然の権利で、死の息吹などとは無縁の生活。  この世に生を受けてから、考えたこともない命の儚さ。  三人は無言のまま身を寄せ合いながら川岸で一夜を明かした。  ◇助力◇  ビルの谷間から太陽が顔を出し、河の水面が朝焼けを反射して輝いている。  地面の草に腰を下ろしていた三人は、浅い眠りと覚醒を短時間に繰り返していたが、  どうにか生きたまま朝を迎えることが出来たようだ。  起きだしたメイジの表情はやはり優れないが、昨晩よりは幾分落ち着いた雰囲気だった。  二人の呼びかけに対して、小さく相づちをうったりしている。  だが、メイジは水面を見つめたまま河原を動こうとはしなかった。  「鉄砲の弾はあとどれぐらいあるんだろう。もし、なくなってしまえば…」  切迫した状況下で、物事を良い方向に考えられる人間というのはむしろ稀である。  昨日の晩からはいろんな事が起こりすぎて、ユキは未だ地に足の着いた思考ができない。  ユキは暫く考え込んでいたが、ふとユカリの事が気にかかった。  自宅にユカリの持ち物が残っていたか確認してこなかった。あの玄関の惨状を考えれば、  交友関係などからあたりをつけられて警察に呼び出されて事情を聞かれているだろう。  それとも、メイジに関わった人間として、今の自分たちのように何らかの刺客に襲われて、  既に取り返しのつかないことになっているかも知れない。  ユキは自らの事だけで頭が回らず、今までユカリの存在を忘れていたことを悔いた。  すかさず携帯を取り出して、短縮に登録されているユカリの番号を呼び出す。  早朝であるにも関わらず、短いコール音の後、ユカリの柔らかな声が聞こえる。  とりあえずユカリの安否を確認すると、ユキは今二人と同行していること、  身辺に危機が迫る可能性があるので、十分に注意して欲しいことなどを伝えた。  「うん、わかった」と素直に応じた後、ユカリは落ち着いた声で意外な事を口にした。  「困ってるんでしょう? あたしがちょっとだけお手伝いするよ。インターネットはできる?」  ◇liar◇  街が起き出す時刻を待って、三人はネットカフェに足を踏み入れた。  大部屋の個室を借りて端末を起動し、novのカタログを開く。  ユキは電話で指示されたとおり、ユカリに指定されたスレッドを開いた。  スレ画をダウンロードして、素早くバイナリエディタで開く。  いつもの画像を、いつもの方法で。そしていつものアドレスに移動すると、  そこにはローマ字でユカリからのメッセージが書かれていた。  「海外企業のサーバに進入して、翻訳ソフトの調達に成功した。   これから指定するIPアドレスからダウンロードして活用して欲しい」  二枚目の画像に埋め込まれていたPasswordやサーバを公開する時間の詳細を確認すると、  ユキは端末にアドレスとポートを打ち込んで、ユカリの自前FTPサーバからダウンロードを開始した。  はじめ、管理者権限が与えられていないネットカフェの端末にインストールを拒否されたが、  先月公開された脆弱性をついてみると、未対応なのか権限の昇格に成功する。  予想よりも、かなりサイズの小さい翻訳ソフトをインストールして起動させた。  ユキは急いでメッセージを入力して変換ボタンを押した。  「大変なことになったね、メイジ。恐いけど、最後まで一緒だよ」  キリル文字がディスプレイに並ぶと、メイジは目を丸くして驚いていた。  ユキは使用言語を変更して、メイジにキーボードを操作するようにうながす。  キートップが日本語、ローマ字表記なので、慣れていなければ思い通りには入力できない。  メイジは自国の文字を探しながら打つ作業に戸惑っていた様子だが、  少しずつ自分の想いを二人に伝えだした。二人は静かにその様子を見守っている。  メイジは目的の文字を打つキーを探す時間よりも、考え込んでいる時間の方が長かった。  『Yuki、Ryo-ko、二人は現状では殺されます。私と連れだって安心、生きる。  私約束があります、企業と。それまで、立ち上がり続けることが出来れば、あなた達は勝つ。  ウサギと私。交換条件で。勝つために赴きます。その際、Yukiと共にRyo-ko。大目に見る交渉』  「約束? メイジは何処かに行く予定があるの?」  『Yuki、Ryo-ko、は恐らく心肺停止しない。低質な支部の失礼が今回の原因。  五時に本部との接触の約束がある。支部は懲罰を受けて遠ざかる目算。ウサギが存在する私。  これが必勝の駒で間違いない。しかしながら、あなた達とは五時にさようなら』  「メイジが一人で本部へ交渉に赴くということなの? メイジは大丈夫なの?」  『私の身の安全は問題ない。ただ、今生の別れになる可能性がある。   支部などは問題ないが、本部ではあなた達を罰として、私を隠蔽した罪に問う危険性がある。   五時になれば、格上の来訪により、支部は実質的にYuki、Ryo-koにとって無害となる』  「メイジ、話がおかしいよ? なにか隠してるでしょ? 私たちも行く」  『邪魔な荷物は不必要。ウサギが跳ねて、私も離別。あなた達を五時まではこの身が死守する』  「ついて行く」  『不安材料は払拭すべき。この先Yuki、Ryo-koの存在は、余計な懸念や気苦労にしかなりえない』  「やだね。ぬいぐるみ持ってるのは私だし。そんなこと言ってると返してあげないよ」  『聞き分けてもらいたい。ウサギは私の所有物である筈。それについては力づくでも遂行する』  「本当のこと教えてくれないと返してあげないし、教えてもらっても一緒について行く」  『では殺す。人間一人など造作もない話。本部は支部と格が違う。本部は日本にも深く根付いている。   ニュースなど握りつぶすのは容易い。世話になったYukiを始末するのは忍びないが、Yukiの命など』  「ふうん。何て言われても考えは変えないよ」  『くどい。いい加減にするべき』  「そんな顔じゃあ、説得力なんて無いね」  ユキは実力行使に出るべくメイジをかかえ上げた。  必死に顔をそらして表情を見せまいとしていたメイジだが、滴が頬をつたって服の胸元に落ちている。  本部とやらに出向いて何があるのかは知らない。あのぬいぐるみがどれ程の価値があるのか判らない。  だが、素直に向かったところで、恐らくメイジは…。  一緒に行ったところで、自分は所詮普通の人でしかない。  無益な一般人などメイジより先に始末されるのが関の山だ。  へたをすると本部とやらに足を踏み入れることなく、無様に殺されてしまうだろう。  でも、ユキはこんなに小さな子供が目の前で泣いているのが許せなかったし、  死の間際までにメイジを少しでも元気づけてあげられるかも知れないと考えた。  ユキははリョウコに、自分はメイジに最後までついていくことを伝えた。  「まぁ自己満足の一種だね」と自嘲気味なユキを見たリョウコは呆れた様子で大きく息を吐いた。  「遅かれ早かれケリをつけなきゃ誰かが死ぬんだ。それに、メイジには悪いが五時を過ぎた所で、   ウチらが絶対に安全になるとも限らない。行こう、ユキ」  二人はネットカフェを後にする際にユカリにメッセージを送った。  旬の過ぎている画像に埋め込まれた、感謝の気持ちと、短い別れの言葉。  ユキは使い古されたその画像を送信すると、リロードせずにその場を離れた。  ◇迎え◇  メイジは最後まで二人が同行することを渋っていたが、  二人が当然のように後をついてくるのでついに諦めたようだ。  駅前のロータリーに移動して、三人でささやかな昼食を取る。  その後メイジは幾度か時計を気にしていたが、やがて視線を落として目をつむった。  三人が駅前のベンチで待っていると、目の前に長い外国車が止まった。  後部座席のドアが自動で開き、細面の男が運転席から顔を出して少しおどけた表情をする。  異国語でメイジが何かを告げると、彼は実に楽しそうに笑い声を上げた。  素知らぬ顔でユキとリョウコが車に乗り込もうとすると、興味深そうに二人を見ている。  メイジは男といくつかの言葉を交わすと、後部座席に身を沈め、口を開かなくなった。  黙り込んだメイジを見た男は、口笛を吹いて肩をすくめている。  高級車は音もなく発進した。そのまま高速道路を抜けてどんどん都市部を離れていく。  途中のパーキングエリアに立ち寄った男は、買ってきたハンバーガーを食べながら運転している。  こういう良い暮らしをしている人達でもジャンクフードなんか食べるのかな、  とユキは思ったりもしたが、男はマメなことに人数分きっちり買ってきており  飲み物と共に後部座席に放ってきたあたり庶民に合わせたのかも知れない。  深夜であるにもかかわらず、車は国際空港に到着した。  通常の正面入り口を素通りし、男は通路をそれて隅にある検問所のような所へ車を走らせた。  いぶかしむ顔で近づいてくる警備員をよそに、  男は懐から何かを出して早口の英語で何かまくし立てている。  男の英語を聞き取れないのか、警備員は困り果てた様子で管制塔へ連絡している。  結局管制塔からの指示待ちになり、認証にはかなりの時間が掛かったが、  車は滑走路と併走している整備用行路を走り第二ターミナルへと向かった。    空港内で一般車両が整備区画を走り回ることは不可能だ。  管制塔の監視は厳重を極め、敷地内を動く不審物は車両はおろか一人の人間ですら見逃さない。  日本を代表する国際線ともなれば、それは尚のことである筈なのだが、  この車はその常識を簡単に覆えしている。しかし、こうもあっさり滑走路付近を走り回られると  かえってありがたみがないな、とユキとリョウコはは勝手なことを言い合っていた。  車が向かった先には小型のジェット機が待機していた。  男は車から降りて、気さくにパイロットに話しかけている。  ユキとリョウコを指さして、何やら楽しげな様子だ。  ふと、メイジが二人を見上げた。年端もいかぬその幼い瞳には、  母の慈愛と強い意志が入り交じった複雑な光彩を滲ませていた。  二人のブルガリア人と二人の日本人は、正規の手続きを踏まずに日本を離れた。  小型ジェット機が夜空に向けて飛び立つ。最終目的地はメイジの祖国であるブルガリア。  ブルガリア共和国。