■ 二日目 ■  ◇リョウコ◇  朝。リョウコが二度寝から目覚めると、ユキとユカリの姿は無い。  時計の針は午前九時を回っており、横には昨日と同じ体制でメイジが寝ていた。  リョウコはもそもそと起きだし、簡単に洗顔をすませて口をゆすぐ。  洗面所で軽く柔軟体操をしたが、あまり気分が優れない。  台所のテーブルの上に用意されているおにぎりに気付き、二つ程ありがたく頂戴する。  リョウコは片手で朝食をとりながら、ユキのパソコンの電源を入れた。  いまいち頭がうまく回転しない。昨日あまり寝れなかったせいかもしれない。なんだか腹も痛い。  ……昨日の晩ご飯お茶漬けでも良かったんじゃ? あぁでもお茶漬けとかメイジ駄目っぽいかも。  ブルガリアってラザニアとかあんの? あれは違うか。クソッ、このおにぎり具が昆布だ、嫌いなのに。  そうだ、としあきに聞いてみよう。朝なのにわざわざ昆布とか買ってきたのかなぁ。  優しいなぁ。つーか甲斐甲斐しいにも程がある。アタシが男だったら絶対にモノにするね。  あれ、スレたったみたい。これアタシがやったの? もし、今アタシとメイジが入れ替わったら?  そりゃあもう毎晩ユキが上になったり、ユカリが下になったりの大騒ぎ…。  ── ハッ(覚醒)  落ちけ着落け着ち落ち着けアタシ。  今、アタシは無意識下にもかかわらず、割と重大な件を処理した筈だ。え~っと、確か、  「先程、アタシは、メイジとの上手な付き合い方を、とっしー達に聞きたくて、虹裏にスレたてた」  だったような。なんて書いたのか全く覚えが無いあたり恐いぜ。アタシの深層心理に期待しようか。  さっきから、とってもお腹がイタイし、とりあえず昔習った深呼吸だ。  「ヒッヒッフー。ヒッヒッフー」(違う)  スレ画は…。えむいの聞いてみよう、で…?  「としあき、言葉の通じない妹とうまくヤりたいんだ。知恵を貸しておくれ」  朝から豪快な糞スレ!! つまらん上に最悪だ…。消さなきゃ…「削除キーが間違っています」  カハッ、なに設定してんのアタシ。801、0721、1919…。あれ、あれ、なんで、なんでだよ?…。  大体、とっしーは男だからソコは普通弟だろとか一文字だけカタカナとか何この糞スレアタシ馬鹿?  ああっ、消えない、消えねえ、しかもお腹イタイ…もっ、もう…。トイレ我慢でき…。  (トイレにて三十分経過)  ふう、ウォッシュレット最高、っと。  アーア。スレどうしようか。このままカタ落ちさせるしか無いか。糞スレは0のまま沈む運命さ。  リロードしてみる…と? 意外にレスがついてるな。ドキドキするけど、ちょっと覗いてみよう。  「見に来たか? 俺だよ!」「夏厨死ねよ」「きみは一度精神科の医者の」「以下獣姦スレ↓」  ううっ、としあき達スマン。(ついでに煽り画像を収集)……うん? これ長いな。  「相手の気持ちを第一に考える。日本語が通じないという意味かは知らんが、それだけでいいだろ」  相手の気持ち? 言葉が通じなくて、尚かつ妹とヤりたい、という前提でか…。  エ~ット、相手が悲しそうなら、笑顔にしてあげるような努力をしろとかそういう意味か?  一挙一動を注視して、その意図を先読みして促してやれ、ということだろうか?  う~ん。としあきの小宇宙は無限だぜ…っと、「ウゼーのきた」「空気嫁」「急に痛い子が」  直 後 に 叩 か れ て る  駄目だ、スレ最後まで読む前にお礼しよう…「>No,***** ㌧、ホント参考になった」送信…。  クッ、アタシと一緒で流れが読めないばっかりに…。  この人リロードするだろうか、通りすがりの書き捨てかも知れないし。  なんだよ、糞スレ立てといて、場違いなお礼のレス。アタシ今日単なる荒らしじゃないか…。  でも最低限お礼はしたいしなぁ。  …しかし考えてみれば、メイジは笑うようにはなったけど、まだあまり自分から喋らないな。  アタシらが騒いでるだけで、メイジは輪の中には入ってないな。未だに蚊帳の外って感じだ。  相手の気持ち、相手の気持ち…。外人に囲まれ、飛び交う異国の言葉は理解できず、  文化も違えば気候も違う、か。これは相当なストレスだな。  どうしようか? まず些細なことでもいいからコミュニケーションをとる努力をしよう。  メイジが興味を示すものに気付けるかどうかはアタシ次第か。  よし、午前中はメイジと…  ◇ユキ◇  今日は、ユカリと私の二人で登校した。下校も一緒だと思う。  実はうらやましいことに、ユカリの成績はいずれも高水準を維持しており、  私にはユカリが講習を希望した理由が思い当たらない。内申って関係あるのかな?  私は古文と英語が壊滅的で、他は平均。理数系が極端に高い。  教諭が言うには日頃の蓄積を怠る典型的な不勉強タイプなんだそうだ。  ユカリは抜群に綺麗で頭も良いから、世の中の男子諸君が放っておくはずがなく。    他校で人気トップといわれるイケメン共が塵芥のように群がってくるが、  ユカリはそれを歯牙にも掛けない。顔を一瞥した瞬間に断ってしまう。撃墜数は数知れない。  断り方が結構きついので、恨みを買うこともあった。  逆恨みの報復をリョーコと私で退けつつ、もっと上手く断れと何度も説得を試みたものだ。  ウチらもそういう経験はあるのだが、所詮十に届くかどうかだ。ユカリはその十倍以上だろう。  釈迦に説法の気分だったけど、徐々にユカリの言葉は相手を傷つけないものに変化していった。  言い寄ってくる男の中身は、顔を見れば瞬時に判別できるそうだ。  下心か、興味本位か。言わんとすることは解らないでもないが、ユカリはそれがちょっと極端。  ある意味、遠い何処かに白馬の王子様を探しに行ってしまうかも知れない人になっちゃったんだ。  そのユカリがだ。風呂場でメイジを見たときは瞳を輝かしていたね。  一度目は不意を突かれて仰天したようだが、二度目のあの顔はまさしくOKの表情ってやつだ。  ユカリ、馬鹿な男ばっかり見過ぎて、恋愛感がひん曲がってしまったんじゃないか?  屑のような男は掃いて捨てるほど居るけど、本当にいい男も結構居るんだよ?  なかなか出会えないけどね…。ユカリ、私は心配だよ。達観しているリョーコと違って、  メイジがそういう気分になったら、ユカリはなんだかあっさりゴールしてしまいそう。  朝登校するとき、昨晩の詳細を随分聞かれた。リョーコ、メイジという名詞を何度聞いたことか。  リョーコが毒を抜いただけだ、何も心配ない、と繰り返し言っても信用しない。  おまえは盛りのついた中学生か?っつーぐらい発想が子供だ。  私は意地悪をすることにした。面白いからおちょくるとも言うし、暇なのでからかうとも言う。  リョーコは聡いので私のデッチ上げにも旨く話を合わせてくれるだろう。多分。  ユカリを見てると、可愛い子はいじめたくなる、っていう気持ちが少し解るよ。  キーンコーン カーンコーン  あれあれ? 今日の講習の終わりを告げる予鈴が鳴っているようだ。  私は一体ココに何をしに来ているんだろうね。ハハッ。  選択講習が終わった後の下校時間。快活に話しかけるユキと、沈んだ表情でそれを聴くユカリ。  今も、ユキは別の話題を振って、ユカリの気持ちを落ち着けようとしているようだ。  「でね、今日はハゲ峰のツヤツヤした頭頂部に金タワシをかけてやりたい衝動に駆られたよ」  「午前中の間、リョウコとメイジはずっと二人っきりなんだよね…」(既に会話が成立してない)  「そうだね。ユカリは気になる?」(慣れた)  「気になるよ。やっぱりそういうのは興味あるし、メイジはとっても素直でカワイイし」  「ほほう。嫉妬ですかな? それとも応援? リョーコに詳しく聞いてみたい?」  「うん。嫉妬かな。リョウコはいつでもあたしの前を歩いているような気がする。   凄く大人びてて、とっても子供で、お節介焼きで。そして、あたしよりも先に女になっちゃったの」  (リョーコ信用ねえなぁ。まぁ私もそうだったっけか。しかし乙女の腐臭がひでぇな)  「ユキは、そういう経験ある? ううん、誰かに置いて行かれるような感覚」  「いや、この際両方言うけど、ユカリが知ってる通り、アタシはまだそういう事したことないし、   置いてきぼりに感じたこともない」  「今日、古文の竹峰先生のどのへんが嫌だったの?」(ディレイ)  「生理的に受け付けない。必要ないのに顔とか近づけてくるのとか本当にダメなんだ」(迎撃成功)  「添い遂げた人と二人っきりかあ。ユキ、本当のことが知りたいよ。リョウコに早く聞いてみたい」   ブチッ  「ユキ?」  「ううん、本当にゴメン。ユカリ、アタシ今まで嘘ついてたんだ。でも、もう本当のことを言うよ。   聞いてくれる? こんな大嘘つきのアタシの言葉でも、ユカリは聞いてくれるかな?」  「そんなつもりじゃなくて…」  「いいんだ。リョーコに口止めされてたけど、アタシが勝手に喋るだけだから。いくよ? 実は昨日はねぇ、リョーコに頼まれてたんだ。後でメイジと二人っきりにしてくれってさ。何だかんだあ ったけど、うまいこと行ったよ。そんでね、リョーコやっぱりメイジにモーションかけたらしいんだ。本 の知識ってヤツさ。耳年増だしスタイルいいし、案外女の本能だけで悩殺出来たのかもね。そしたらメイ ジスッゴイノリノリでさ、ちびっ子のクセしてなんか手慣れてる感じだったんだって。んで、スッゴイ優 しくて、キスして意識半分トんでる間にいつの間にか横にされてたらしいよ。で、前戯がこれまたヤバイ 。メイジは女の子でもあるからね。女の躯、キくポイントを熟知している。更に自分でヤルのと違って他 人の手だと相当クル上に、一人では不可能な技を当然のように駆使してくる。下から指で前立腺、上から 舌でクリの同時攻めはもちろんお尻の壁からもガンガン攻めたててきて、何がイイのか理解できなかった らしいよ。そうこうしているうちに、ユカリも見たでしょあのメイジの暴力がリョーコの始めてを一気に ブチ抜いたんだって。やはり感触はあったらしいけど、それよりも一つになった熱い充実感の方がこみ上 げるモン、って言ってた。目一杯濡らして、上手な人がやれば最初は痛くない人もいるっていう話だけど 、リョーコはまさにソレだったらしいね。挙げ句の果てにアソコの形がメイジとピッタリで欲しい所をメ イジのデカいカリが引っ掻いていくわ、体位を変えれば亀が直接抉っていくわのまさに祭りだったそうよ 。時に優しく、時にガッツンガッツン攻めるメイジのテクに、そりゃあもう空恐ろしい嬌声が軽く三十分 以上はバスルームから迸っていたんだ。雌犬の嫌らしい悦び声を上げ続けるリョーコがだんだん羨ましく なってきて、ついに自分の指だけで我慢できなくなった私は…って、アレ?  のわっ、ユッ、ユカリがしゃがんでぐったりしてる。  じゃなくて往来のど真ん中でなんか感極まったっぽい!  違う! アタシがくだらん妄想大声で叫んでたから他人のフリしてるんだ! うん? ちがうなぁ。  KOOLになれ、今なったか…。タバスコマジックペン(・3・)…。  ふぅ。適当なこと言ってたけど、うっかりこのまま続けていたら私もヤラれてる展開じゃないのさ。  ユカリは…。乙女ブレーカーでも落ちてんのか? 全く、同じ未経験でこんなにも違うもんかね。  頭の回転速いクセしてどうしてこうなんだろう。二行目で気付くだろうに。  行為になんか幻想でも抱いているのか。  うう、この距離を担いで行くのか…。乙女化したり倒れたり何かと面倒なやつだ。  手間のかかる…。  ◇ユカリ◇  …まだ腰がジンジンする。  公園の柵に腰掛けて、休んでいるあたしに、ユキはわざわざ飲み物を買ってきてくれた。  悪戯っ子の表情で、ゴメン、ゴメンと何度も謝るユキ。  ユキは怒っても、あたしに直接怒鳴ることはない。優しくたしなめて、諭すぐらい。  今回もきっとあたしが悪いんだ。恐らくなにかのはずみでユキを傷つけた。  あたしも謝ったんだけど、「フヒヒヒヒ、すいません」としか答えてくれない。  どうしてまともに取り合ってくれないんだろう。ユキは時々意地悪だ。  気に障ったのはどの言葉だったんだろう。あたしそんなにクドかったのかなぁ…。  ユキとリョウコは、たまにあたし抜きで何かをやっていることがある。  それが良いコトなのか、悪いコトなのか、あたしには解らないけど。  二人とも膝を擦り剥いていたりとか、肩に痣ができていたりして、あたしはとても心配なんだ。  それとなく聞いてみても「車と喧嘩して勝った」などと、はぐらかして教えてくれない。  いっつも本当に大事なことは教えてくれないんだ。  二人はとっても大人なんだ。多分二年経っても、あたしはその境地までたどり着けない。  それどころか二年もすれば、差は開く一方なんじゃないか、と思う。  ユキに肩を借りてなんとか歩きながら、あたし達はこれからの事を話していた。  話題の中心は当然、不思議な異国のお姫様のこと。  ユキは、休み時間中に親の職場に国際電話をかけたらしいけど、不在だったみたい。  なんでも先週から違う州に滞在しているらしく、しばらく帰ってこないと言われたそうだ。  …それにしても、あたしの歩き方おかしいんだろうなぁ。ううっ、下着替えたい…。  「ユカリ、メイジのことどう思う? コレといった自己主張をしなくない? 子供なのに」  「そうだね…。あたしの印象としては、初めの頃は目が恐かったよ。凄く」  「確かに。相手の目を見る、って日本人は苦手だから余計にそう感じるのかも」  「お風呂のときは、年相応って雰囲気だったけど…」  「そういえば、メイジあんまり喋んないよなぁ」  「うん。それも、気後れしてるとかじゃなくて、うまく自分を表現できないだけだと思う」  「どーすりゃいいんだろ…」  あたし達なりに考えながら、いつもの坂道を下りていく。  ユキがあたしの歩調にあわせてくれて、ゆっくり歩いているので昨日よりも時間がかかる。  暑さで少し汗ばんでいるけど、ユキからはいい香りがする。  あたしは、優しいユキが大好き。お節介なリョウコも大好き。  …メイジは何を望んでいるのだろう? もしそれが解ったとして、あたし達はなにができるんだろう。  あたし達は社会的にも未熟で、自立すらしていない。学生に可能なことなど、たかが知れている。  世間は子供に冷たいのだ。あたしが知らないだけで、大人にはもっと残酷なのかも知れないけど。  確実なのは助けを求めていたという事。ではその内容は?  お金のことだとしたら、日本円に両替してあげて、世間の荒波に放り投げてもいいんだろうか?  外人の子供が一人で宿泊できる施設など、どれほどあるというのだろう。  キャリーバッグの上に座っているぬいぐるみ。ボロボロで、みすぼらしく見えるウサギ。  あたしはメイジに謝りたくて、お風呂に連れて行って、メイジと一緒に洗おうと思ったんだ。  それを見たリョウコは、触らない方が良い、と教えてくれた。  メイジはユキを知っていた。その理由を知っているかも知れないユキの両親と連絡が取れない。  ユキは…いや、あたし達は一体これから…。  「ユカリ、考えることは悪いことじゃないけど、一人で迷路にはまる事は良くないと思うな」  「…そんな顔してた?」  「ほら、見えてきた。もう少しだ、ユカリ。リョーコのお母さんぶりでも拝見しようか」  ユキの家は、もう目の前だ。  リョウコなら、一人でもなにか良い案を考えついてるかも知れない。  メイジにクッキーを食べるように仕向けたのも、メイジを見て驚いたあたしに、  「絶対後で気まずくなるから、今すぐ全員でお風呂入ろう」って誘ってくれたのも、  最初にえっちな事したのもリョウコ。  リョウコはもう、とっくにメイジと心が通じ合ってるのかも。  ユキが玄関の鍵を開けると、奥からメイジが走ってきた。  すごく自然に微笑んでいる。やっぱりリョウコは凄いなぁ。昨日の笑顔はまだぎこちなかったのに。  メイジはユキにむかって日本語で「Yuki、おかえり」とはっきり告げた。  ユキは鞄を放り投げて、ただいまと連呼しながらメイジの頭やおでこにキスの嵐。  なんかメイジも嬉しそうだ。いいなぁ。うらやましいなぁ。  メイジはその後、あたしにも駆け寄ってきた。チョッピリ期待。  ニコニコと笑いながら、『Yukari…』と言いかけた。  わぁ、あたしの名前覚えててくれたんだ…。とっても嬉しい。凄く嬉しい。ちょっと泣けてきた。  そしてメイジは、無垢な笑顔であたしに向かってこう続けたんだ。「Yukari、絶対に許さないよ」  ◇四人◇  「ブフォ、ユカリの顔っ! その表情! 計画どおり。いや、計画どーりだ。God job メイジ!」  ユカリは硬直したまま動かない。どうやら表情を作ろうとしているようだが、  引きつった空恐ろしい形相がユカリの顔面を支配している。  メイジはユカリの反応がユキと著しく違うことに戸惑っているようだ。  オロオロと三人の様子をうかがっている。  やがて、自分を取り戻すことに成功したユカリが、メイジに悪意のないことに気付いたようだ。  慣れない日本語を使ってまで自分を出迎えてくれた小さな姫君に対し、  目線を合わせるように屈みながら、優しい笑顔で「ただいま、メイジ」と返している。  メイジはほっとした表情をうかべて、ユカリの腰に抱きつき、はしゃいだ様子で更にこう叫んだ。  「Yukari、絶対に許されざるよ」  このやりとりを黙って見ていたユキだが、ついに堪忍袋が爆発したのか、  居間で笑い転げるリョウコにつかつかと歩み寄って説教を始めた。  「昨日といい今日といいなんだ!」「メイジは人間なんだ。私達のオモチャじゃねーんだよ」  「メイジにくだらんコトを言わせるんじゃない」「しかもゲロ以下の語句を吹き込みやがって」  「ユカリを立ち直らせたのはリョーコ。だが、打ちのめしたのもリョーコだ。自覚はあるんだろ?」  珍しく本気の剣幕だ。その主張にリョウコは完全に頭が上がらないのか、ひたすらに謝っている。  メイジに手を引かれながら、ユカリは後からヨロヨロと居間に入って来る。  ユカリが、ふとメイジの様子をうかがうと、かなり思い詰めた表情をして二人の口論を見守っている。  メイジの手を握り返す力がグッと強くなり、それに気付いたユカリが二人を制した。  「メイジが不安がってる。ちょっとビックリしたけど、あたしなら別にイイよ。もうやめよ?」  冷水を浴びせられたようにユキは色を失う。己の軽率な行動を恥じたのか口をつぐんだ。  リョウコは頭をかきながら全員に謝っていたが、急に何か思いついたようで得意げな表情をする。  ユキはそれを見て何か言おうとしたようだが、どうにか思いとどまったようだ。  全員を見回して、リョウコが口を開く。  「ああ、聞いてくれよ。メイジと簡単な意思疎通ができるようになったんだ」  リョウコがメイジを見て「チャシャ」と声をかけると、メイジは『こっぷ』と言い返す。  「ヒミカカ」『ぺん』「イガルゥヤ」『あそぶ』「ダ」『いいよ』「ネ」『いや』  リョウコは何度か詰まっていたが、メイジは淀みなく流暢な日本語を繰り返し、  二人の言葉の応酬はしばらく続いた。  一体何処の言葉だろう? ニェットじゃないのでブルガリア語なのかも知れないが、  意志の伝達ならYesとNoでは駄目なのだろうか? とユキは突っ込みを入れたくなった。  でも、二人がとても楽しそうなので、揚げ足を取るのはやめることにした。  言葉の前にまず心なんだなぁと、ユキは今更ながらに関心する。  しかし、リョウコの意訳はなんか怪しいような気がする…。  遅い昼食はリョウコが用意することになった。  午前中にメイジと一緒に近くのスーパーに行って買い出しをしてきたらしい。  寸胴鍋を持ち出してきて大量の湯を沸かし、スパゲッティーの麺をゆで始める。  なんでもスパゲッティーはメイジの国でもほとんど同じ発音なので、  言葉があるのなら慣れ親しんでいる味だろう、とリョウコは話す。  「昨日から菓子ばっかだしな。日本の食文化が誤解されちまうよ」  カラカラとリョウコは笑った。  ◇片鱗◇  四人は閑静な住宅街を歩いていた。大通りを抜けた後、少し遠回りをして歓楽街を迂回し、  駅前に向けて足を進めている。いつも騒がしい面々だが、誰も口を開く様子がない。  駅のロータリーで一行は均等に二手に分かれた。ユキがリョウコとユカリに別れを告げている。  彼女達は長期外泊を寮に申請する為に、いったん寮に帰ることにしたのだ。  替えの制服や生活用品などをユキの家に大量に持ち込んで長期戦の構えをとる、  ということで三人の意見は一致した。  一晩たった今日になってさえ、メイジは自分からバッグに近寄る気配が微塵もない。  居間の隅に立てかけたまま。どちらかと言うと避けている様子なのだ。。  なにかの糸口になる、と期待しているのだが、ユキはこちらから要求はしたくなかった。    ユキはメイジの手を引いてショッピングモールに向かう。  家にいる間、服はユキのパジャマで我慢してもらうにしても、最低限下着を買う必要がある。  売り場でメイジが強く拒否すれば、あまり長居するつもりは無いという事だろう。  もし拒否した場合、遠慮や他の感情と勘違いしないようにしなければ。  帽子を目深にかぶったメイジを引き連れながら、ユキは思いを巡らしていた。   メイジは家から外にでた瞬間から、様子が一変していた。  興味深げに辺りを見回すわけでもなく、通りすがる人間に目線をやることも無い。  ただ、無表情。その目に感情は無いようにユキには感じられた。  リョウコと出かけた時も同様だったらしく、全く口を開かなくなったそうだ。  ユキの家で、多少なりとも感情を垣間見せたこと自体が、間違いであったかのように。  いくつかのショップに入り、メイジに下着を見せて反応を伺う。  最初は無反応に近かったメイジだが、表情豊かに問いかけてくるユキに影響されたのか  ついに自分で何着か選び出した。精算を済ませたユキは、メイジにそれを持たせる。  その時初めて、メイジはユキに薄く微笑んだ。  目的を果たしたユキは、はやく自宅に戻りたかった。  あまり周囲の好奇の目線にメイジを晒したくない。それにメイジは外が嫌なのかも知れない、と思う。  手をつないだメイジはずっと顔を動かさず、真正面を向いたままだ。  なにか嫌なことがあったのだろうか。トラウマになるような何か。  ユキは、メイジの横顔を見ながら考え続けた。  ふいに、軽薄な風体の青年が二人の行く手を遮った。ニヤニヤして話しかけてくる。  「なぁ、ちょっとキミ達姉妹? かわいい所とかそっくりだよ。これから何処行くの?」  ユキは心の中で舌打ちをした。自分勝手で最悪なタイプだ。  声をかけた女がただの通行人なのか、相手を探して歩いているのか、それすらも判らないらしい。  更に、進路を塞ぐようにして立っている。自分を印象づけたいのか。目障りなだけだというのに。  邪魔なので張り倒したい衝動にかられたが、グッと堪えることにした。  「ごめんなさい、急いでるんです。通してもらえませんか?」  「キミ達、御飯はまだ? 美味しい店知ってるんだけど、一緒にどう?」  男はユキの腕を強引に掴んで、引っ張りだす。  しまった、調子づいた。無視するべきだったか。とユキは一瞬後悔の念に囚われた。  男にかなりの力で腕を引き寄せられたユキは、少し体勢を崩してしまう。  「こっちの女の子は妹さん? 綺麗だね、なんか日本人離れしてるよね。ねぇキミ年いくつ?」  「腕、痛いんで放してもらえませんか?」  「そんな事言わないでさ、ね、一人で入るのチョット恥ずかしい店なんだ。三十分だけ」  「あの、腕を放してください。お願いします、私達急いでるんです」  「ねぇキミ、キミはどうなのさ? なんか喋ろう? 言葉のキャッチボールしようよ」  男はメイジの帽子に手をかけようとしたが、ユキが見咎めて払いのけた。  その後も男は標的をメイジに切り替えたらしく、ユキの腕を掴んだままメイジにまとわりつく。  ユキはその光景に耐えられず、また、堪える気が無くなったので地の言葉で対抗することにした。  「……お前、自分がどうして女にモテないのかわかんねぇだろ? 手ぇ放せよ」  「ごめん、ウザかった? そう思ったら、事故にあったと諦めて、一緒に御飯食べよう?」  「やかましい。お前のことなど知ったことか。第一、そういう事はあっちのナンパ通りでやれよな。   あそこじゃ馬鹿にされるだろ、お前。その理由に気付かねぇ限り、お前には無理だ」  「あぁ?」  「凄んでいるつもりか? 見苦しい顔が面白くなっただけだ。痛ぇーんだよ。いいから手ぇ放せよ」  ようやく男は腕を放した。ほっとしたユキがメイジを気にして顔を横に向けた瞬間、  バシッ、という音が響いて、ユキは後ろに大きくよろめいた。男がユキに渾身の平手打ちをしたのだ。  不意を突かれたユキは顔をしかめながらも男を睨みつけ、吐き捨てた。  「なけなしのチンケなプライドでも傷ついたか? 女なんかに……」  急に。本当に急に。  それまで微動だにしなかったメイジが、滑るように前進した。ブーツなのに足音が無い。  メイジは右脇をしめて腕を引きつけると、半身を捻ると同時に右拳を男の腹部に撃ち込む。  男は腹を押さえてつんのめった後、その場にうずくまった。  流れるようなステップを踏み、メイジは男との距離を離す。  三秒ほど、メイジは男の様子を観察していたが、  うめき声を上げて苦しむ男を確認すると、迷い無く躍りかかった。  つつっ、と再度間合いを詰め、左手を男の耳に添える。  同時に体を反らして右腕を引き絞り、躊躇無くもう片方に振りかぶった右手を叩きつけた。  バチン  聞いたことのない異様な破裂音が周囲に響き渡る。  男の頭が大きく跳ね上がった。その顔には無惨な表情が貼り付いている。  メイジは続けざまに一歩身を引くと、両膝を屈めて全身のばねを効かせた回し蹴りを顎に向けて放つ。  ゴツ、という音とともに男はねじれるように吹き飛び、うつ伏せに倒れ込んだ。  倒れた時の頭や手の跳ね方が、重力に逆らっていない。それは、意識のない倒れ方だった。  現実味のない風景がユキの眼前で繰り広げられている。  その間メイジの表情に変化は無い。硬く口を結んだままの、抑揚のない無表情。  メイジは倒れた男の周囲を円を描くようにゆっくりと歩き、感情のない瞳で男を眺めている。  ユキの目には、最後の必殺を繰り出す前兆のように映った。  男は口から涎を垂れ流し、痙攣を小刻みに続けている。  素人目ですら命が深刻な状態に思えるが、メイジは更に踏み込もうとした。  この次は絶対に止めなければ…という思いが、それまで呆けていたユキの脳裏を駆けめぐった。  次は本当に死んでしまう。そして、恐らくメイジはそれを躊躇わない。  ユキは弾けるように飛び出して、メイジを後ろから全力で抱き留めた。  メイジは随分と驚いた様子だった。ユキの目を見て「何故?」という表情を浮かべる。  ユキはメイジをもう一度強く抱きしめた後、急いで男の側に駆け寄った。  素早く男の上半身を起こすと、後ろに回って肩を掴み、背中を膝で強く押す。  気付けはなかなか上手くいかなかったが、何度も続ける内に男は激しく咳き込みだした。  男の目の焦点は定まってはいなかったが、意識はどうにか戻ったようだ。  ユキはそのまま男を寝かして近くの公衆電話に走った。携帯電話など使うわけにはいかない。  119で救急を呼び出し、簡潔に現在地と被害者の状況を伝える。ただ、被害者に関しては  「頭を強く打った」「一時意識を失った」「耳を強く打ったらしい」としか伝えなかった。  周囲にはもう野次馬ができはじめている。メイジはキョトンとした表情のまま動かない。  ユキは、メイジの手を引いて逃げ出した。