あらかた支度を終え、寝ている父を起こしに二階へ上がるメイジ。 トン、トン、トンと、階段を上る足取りも軽やかだ。 父の部屋はメイジの部屋の隣。階段を上った直ぐ手間、向かって左の部屋だった。 そっと部屋のドアを開けるメイジ。ベッドにはまだ大きな山があった。 メイジは、少しだけ悪戯っぽいに笑みを浮かべながら、床を軋ませぬ様、慎重にベッドへ近づいた。 父を起こしに来たのだから、大きな音を立ててしまっても本当は構わないはずだった。 しかし、メイジはこういった悪戯じみた事が大好きだったので、ここで起こしてしまうつもりはなかった。 息を殺し、そっと、ベッドの傍らまで近づく。父は静かに寝息を立てていた。 「おとーさん…」 耳元で、吐息の様な声をふきかけるメイジ。父はピクリとも動かない。 しかし、これくらいでは父が起きない事はメイジもよく知っていた。 少し満足げな表情を浮かべながら、靴を脱ぎ、そっと布団へ忍び込む。 --- 布団の中は、父の体温と父の匂いでいっぱいだった。 父の匂い…。少し鼻を突くけれど、決して嫌じゃない、メイジの好きな匂いだった。 温かい布団の中へ暫く潜り込んでいたものの、一向に起きる気配のない父。 わざと寝返りをうってみたり、耳元で寝言の真似事をしてみても、やはり起きない。 「おとーさん、おとーさん」 普段の声量で声を掛けても、ゆすってみせても、相当眠りが深いのか全く反応を示さない。 ならば仕方ない、と、掛け布団を取り去り、勢いよく父に馬乗りになる。 えいっ ボスンッ 「おふッ!」 勢いよくメイジに乗られ、メイジの父は情けない声を上げた。 --- 「起きた?」 顔を覗き込みながらメイジは言う。 「うん…」 寝起きの頭のせいで焦点が定まらず、目がいったりきたりする父。 そんな父親にメイジは続ける。 「もう朝だよ」 「うん…」 「朝ごはん、できてるからね」 「うん…」 「早く来ないとシチュー冷めちゃうからね」 「うん…」 「ナンシーもまってるからね」 「うん…」 そう言い終わると、メイジはゆっくりベッドから降り、靴を履き、部屋を後にした。 早くしないと食べちゃうからね。と、最後に付け足して。 --- メイジの居なくなった部屋は、パレードの過ぎ去った路地の様な、もの寂しい空気に包まれていた。 (誰に似たんだろう…) 頭に血が巡るのを待ちながら父はそんな事を思う。 一瞬、メイジの顔と誰かの顔が重なりかけた気がしたが、 肩から落ちたメイジの長いブロンドの髪の毛によって、思考は断たれてしまった。 (寝ぼけてるな…) 父は、朝食の匂いを頼りに、おぼつかない足取りで部屋を後にした。 --- --- 「えー、お父さん行けないの?」 メイジは全身で不満感を表した。 三人で行くはずだったオペラに、父が行けなくなったと突然言い出したからだ。 「ごめんね、お仕事がまだ終わってないんだ。それに、 メイジのお誕生日の支度もあるからね」 予想通りの反応であったが、やはり心苦しくなってしまう父。 「お誕生日は明日でもいいの。それより、三人でオペラを見に行きたいわ」 必死に説得するメイジ。だが… 「ごめんね、メイジ。行けない僕の分もしっかり見てきておくれ。 帰ったらお話を聞かせてくれないかな?」 父にはどうしても行けない理由があった。仕事とは関係のない別の理由が。 「メイジちゃん、残念だけど仕方が無いわ。帰ったら、いっぱいお話しましょう?」 ナンシーも、メイジの父の事情は知っている。 二人に言われてしまっては、メイジも諦めるほかなかった。 --- 「うん…分った。行ってくる」 メイジはズルズルとトラベルバックを引きずり、車へ乗り込んだ。 トラベルバックを引きずる重い音は、まるでメイジの心そのものの様に感じさせた。 「それじゃ、行ってくるわね。時間もあまりないから…」 「うん、よろしく頼むよ」 ナンシーも少し残念な笑顔を父へ向け、車へ乗り込んだ。 「いってらっしゃい!」 後部座席からこちらを見ているメイジに大きく手を振る。 車が見えなくなる前に、メイジが少し手を振ったのが見えた。 (ごめんね、メイジ…) 心の中で何度も謝罪を繰り返しながら、父は家へ戻った。 --- --- 夕刻。 依頼のあった宗教画を仕上げ、一息つくメイジの父。 そろそろメイジたちは開場へついた頃だろうか。 そんなことを思いながら、冷めたコーヒーを一気に飲み干す。 一応仕事は一段落だが、今日はまだやらないといけない事があった。 ふうっと膝に手を付き、重い体を持ち上げる父。 その足で画材庫として使っている部屋へ向かう。 画材や、描きかけの絵が散乱する画材庫の奥から、 隠すように置かれていた画架を引っ張り出しす。 --- そこには半年以上前から描き続けてきたメイジの肖像画があった。 メイジの成長に合わせ、父の思う、その日のメイジの「色」を大事に、 メイジの寝静まった後に描いてきた大切な肖像画だ。 キャンバスには、生き生きとした中に優しい笑みを浮かべるメイジが描かれていて、 あとは瞳を描き上げるのみである。 メイジと一緒に出かけることができないのはこの為であった。 今日の色はどうしても今日、その日に描きたかったのだ。 申し訳ないとは思いつつ、画家として、プライドを捨てきれなかった父。 いい父親ではないな…。と苦笑する。 「…さぁ」 今日一日を思い出しながら筆を取る。今日の彼女はどんな色が似合うだろう。 パレットの上で色を躍らせながら、父は今日のメイジの姿を思い浮かべた。 --- 「ただいまー!」 出かけた時は打って変わって、元気良く帰宅を告げるメイジ。 「ただいま帰りましたよ」 ナンシーは少し疲れたような声だ。 無理もない。 会場まで車を出してもらい、その上メイジの面倒も見てもらっていたのだから… 「ご飯の支度、できているよ」 メイジとナンシーの荷物を預かり、居間まで持ち込むメイジの父。 居間には綺麗な装飾が施され、更に、テーブルの上には沢山の料理が並んでいた。 「ハーブチキンもある!」 ハーブチキンはメイジの大好きな料理だった。 出かける前、ナンシーが下ごしらえしてくれた物を父が調理した物だ。 *** 「それじゃ、メイジちゃんのお誕生日祝いを始めましょうか」 コートを壁に掛け、ナンシーは言った。 「うん!」 メイジは待ちきれない様子で、既に椅子に座っていた。 「それじゃ、始めるよ」 クラッカーを二人に手渡し父は目配せする。 メイジはモジモジとクラッカーを構えている。 ナンシーは嬉しそうにメイジと父の顔を見ていた。 *** 「お誕生日おめでとうメイジ」 「おめでとうメイジちゃん」 パンッパンッ パンッ 「ありがとう!お父さん、ナンシー!」 「メイジ、クラッカー鳴らすの少し早かったでしょ」 「えへへ…」 「今日の主役はメイジちゃんだものね。ちょっとくらいいいのよね」 「うん!それじゃ、ケーキの火、消すね」 「一辺に消せるかな。今年は」 「消せるよー」 楽しい会話と、美味しい料理と、大好きな家族。 メイジ9歳の夜はあっという間に更けていったのだった。 ***