メイジと暮らすようになってから、もうどれぐらい立つのだろう。  目の前で不規則に寝息を立てているメイジを眺めながら、トシアキはふと、そんなことを考えた。  一ヶ月に何回か。深夜をすこし過ぎた辺りに、メイジは うなされる時があった。  苦しげにあえぎ、多量の発汗を伴う。今日も嫌な夢を見ているのか、つらそうに身をよじっている。  トシアキにできることと言えば、背中をさすって おさまるのを待つことぐらいだった。  現状に不安を感じ、悩んでいるのか。過去の呪縛に怯え、苦しんでいるのか。  なにか思い詰めているのなら、相談して欲しかったし、できればこちらから聞いてみたかったが、  メイジがすすんで口を開くまで、トシアキは待つつもりだった。  過去の事であれば、環境と時間が解決してくれるかも知れないし、  もしかしたら、トシアキには理解できない内容なのかも知れない。  ベッドの中で ちいさな体を丸めたメイジは、しきりに何かを口にしている。  初めて聞いた時、怯えた悲鳴にしか聞こえなかったそれは、  この年齢で両親の庇護もなく、常に過酷な現実と渡り合ってきたメイジが、  母親を頼って呼んでいる声だ、と、最近トシアキは思うようになっていた。  ふいに訪れる、メイジが苦しむその日は、トシアキにとって、ひどく嫌な日だった。  ◇◇◇  綺麗に晴れた、おだやかな日。  トシアキはメイジを連れて、郊外に買い出しに出かけた。  この地区は失業率が高く、貧しい生活を余儀なくされている人々が多い。  通りを行き交う人は多いものの、埃っぽい乾いた空気は、活気に欠けた街を象徴しているようだ。  べつだん急ぐわけでもなく、ふたりが食料品を求めて商店街を目指して歩いていると、  通りの中央で きょろきょろしている花売りの少女が、ふいにトシアキの目にとまる。  葦で編んだ手製のカゴに、いっぱいになっている薔薇が少女の商品のようで、  とりわけ目を惹く要素があるわけでもない。  カゴにあれほど山になっている、ということ自体が、売れ行きが悪いという証拠である。  いや、それとも少女は来たばかりなのかも知れない、とトシアキは埒もないことを考えていた。  熱心に客を捜していた少女が、トシアキたちに気付いたようだ。  少女のカゴの中身をぼんやりと眺めていたトシアキは、見事に少女と目が合ってしまう。  すかさず少女は、骨惜しみせず駈け寄ってきた。  「あの、このお花、どうですか。すこし控えめで、上品な、よい香りがしますよ」  たどたどしい口調で、花をすすめる少女。  その花は、この地域ではありふれた、とても魅力的とは言い難いシロモノなのだが、  トシアキは何も言わずに、少女の手のひらに何枚かの銅貨をのせる。  受け取った少女の手は、少しかじかんでいた。  「あ、ありがとうございます!」  少女は一輪の薔薇を丁寧に包んでトシアキに渡すと、勢いよく頭を下げ、走り去ってしまった。  足早に中央通りに戻った少女は、新たな客を捜して、またきょろきょろと辺りを見渡している。  黙ってこのやりとりを見ていたメイジだったが、完全に少女の姿が見えなくなると、  呆れたように問い詰めた。  「トシアキ、なぜ不必要な出費を決断したのか、説明してください」  「なんとなく」  平然とそう答えたトシアキを見て、メイジは更に険しい表情になった。  「なぜでしょう。同情と考えれば、あれしきの額で少女に幸せが訪れるとは思えません。   足繁く、また恒久的に通いつめて尚、金銭的な援助としては不効率の極みです。   さらに今、早急にその花に、個人的な需要が発生したとも考えにくい。   高みから見下ろすような慈悲など、少女のほうでも嬉しくないのではないでしょうか」  理屈の多い姫君の言葉を聞いて、トシアキは苦笑した。  「オレの頭の中は、理詰めな訳じゃないよ。ただ、欲しくなっただけさ」  本心ではあるが、不誠実にしか聞こえない返事を繰り返すトシアキに、  とうとうメイジは眉をつり上げてしまった。  確かな回答が欲しいようで、メイジの貫くような視線は、トシアキの瞳を捉え続けている。  目線だけはそらさなかったトシアキは、急にメイジの両手をとった。  「予定を変更しよう、メイジ。夕食は軽いものですませよう」  「なぜですか」  買い出しの内容を勝手に変更しようとするトシアキに、メイジは当然の疑問をぶつけた。  「この花を生ける、花瓶が欲しくなった。ガラスのがいいかな。茎の青さがはえるような」  なんの前触れもなくトシアキは駆けだした。メイジがその後を追いながら、不平を並べている。  「トシアキ、きちんと説明してください。トシアキ!」  メイジが手を伸ばして、トシアキの服のすそを掴もうとしているが、  憎らしいトシアキは薄笑いの表情のまま、ひらひらとそれをかわす。  その小馬鹿にした様子に、ほどなくメイジの白い頬は紅潮し、語尾は強まる。  とうとう捕まったトシアキは、ポカポカと叩かれた上に、こっぴどく怒られているようだが、  花を買った理由については、メイジはまったく触れてこなかった。  一輪の薔薇は、淡い色調の花差しに飾られた。  ◇◇◇  今日もメイジはうなされていた。  嗚咽に近い声なので、初めてのうちは、深夜聞こえてくる度に驚いたものだが、  近ごろはこの声を聞くと、強い使命感のようなものがトシアキの胸中に広がるようになっていた。  今日はひどく怯えている様子で、トシアキが手を握ると、ぎゅっと強く握り替えしてくる。  トシアキは枕元に用意してあったタオルを、メイジのひたいにあて、汗を拭いた。  髪をすき、頭をなでると、目尻にうっすらと涙を浮かべたメイジは、何かをつぶやいている。  なにを訴え、なにを求めているのか。ちいさく曖昧な発音のそれは、  いつものことだがトシアキには聞き取れなかった。  同居生活を始めた頃、必ずメイジはトシアキより先に起き出していた。  朝食の用意は自分がやる、と言って聞かないメイジは、トシアキに手を出させない。  出来映えの良さに感心したトシアキが、素直に料理の味とメイジの腕を誉めると、  いつもちょっとだけ、メイジは自慢そうな顔をする。  そんな毎日が長く続いていたのだが、いつの頃からか、  メイジはトシアキより先に目を覚ますことはなくなっていた。  最近ではかなり後に起きてきて、慌ただしく台所に姿を現し、トシアキを手伝うのが常なのだ。  メイジは心に大きな傷を負っていて、それは自分では癒してやれないのかも知れない。  トシアキの脳裏に嫌な想像ばかりがよぎるようになってから、  こちらから聞いてみる、という案はしだいに影をひそめた。  メイジの苦しんでいる理由は、自分の知りえぬ世界の、もしくは理解をこえたものであり、  考えていたよりもずっと深刻で根深いものなのではないだろうか。  苦しむメイジがおさまるのをトシアキはひたすらに待ち、  良い夢がメイジを包むよう、知らない何かに祈った。  ◇◇◇  待ち合わせた広場にトシアキが足を踏み入れると、既にメイジが待っていた。  いつもはトシアキの姿を見つけると駈け寄ってくるメイジだが、珍しく動こうとしない。  気になったトシアキがメイジの視線を追うと、その先には一組の親子の姿があった。  メイジはその親子に気を取られている。  子が親に、なにやらせがんでいる様子だ。欲しいとねだる子と、駄目だとしつける母。  随分と長い間、子は頑張っているらしく、母の表情は疲れの色が濃い。  そのやり取りを まじまじと見つめていたメイジが、トシアキに問いかけた。  「好意が当たり前になってしまうと、受ける側はありがたみを感じなくなってしまうのでしょうか。   もしそれが、与える側に消費や苦痛を強制するものであったとしても」  やや性急な質問に、トシアキは腕を組んで考え込んだ。  思春期特有の不安定な情緒にでも陥って、身近な人間に疑問をぶつけているのだと思いこんでいたが、  もしかすると、この前の事といい、メイジの悩みの本質に近いものなのだろうか。  親の服を引っ張り、泣きわめく子供に視線を送って、トシアキは穏やかに笑った。  「受ける側が、痛みを知っていれば、きっと感謝の気持ちを忘れないよ」  理想論ですね、とメイジは一蹴したが、口ほどに否定的ではない様子だった。  トシアキに身を寄せ、ふわりと体を預けたメイジは、もう一度小声で問いかける。  「トシアキは、与える痛みを重荷に感じたことはありませんか?」  「難しい顔をして、何を言ってるんだ。こんなに軽っこいのに!」  辛気くさい言葉を延々と続けるメイジを、トシアキは高々とかかえ上げた。  目線がトシアキよりも頭2つ分ほど高くなったメイジの景色が一変する。  ものの見方を変えてみようか、もっと相談をしてみようか…。  戸惑いながらも、別のことを考えていたメイジの瞳に、あの親子の姿が映った。  いきさつは解らないが、子は母に寄り添って、広場を離れていく。  何があったのかは解らないが、先程まで言い争いをしていた親子は笑顔になっていた。  親子はやがて角を曲がり、見えなくなる。  「母の愛とは、強固なものだと思います。あれは遺伝子を残す為の、種の本能なのでしょうか」  「いや、ただの愛も捨てたもんじゃない、と信じたい」  「トシアキ、雰囲気を考えて発言してください。恥ずかしいです」  高い位置から否定したメイジは、トシアキの肩をポンとたたいた。  ◇◇◇  「──、────。」  朝、トシアキがうっすらと目を開けると、目の前にメイジの顔があった。  大きな瞳をこちらに向けたメイジは、すこし驚いているように見える。  久しぶりにメイジに寝顔を見られた、という事実がなんだか気恥ずかしいトシアキは、  ベッドで寝返りを打ってそっぽを向き、横になったままで朝の挨拶をした。  「気付くのは初めてですね、トシアキ」  やわらかに微笑をたたえたメイジが、なにか不思議なことを口にする。  いまだ覚めやらぬトシアキが時計を見ると、まだ明け方というにも早い時間だ。  小さくあくびをしたトシアキは、目の前のメイジにシーツをかけなおし、  自分もくるまって寝直そうとしたが、メイジは遠慮がちに肩をゆすってくる。  「トシアキ、なにか悩んでいることはありませんか?」  起き抜けにそう聞かれて、トシアキはやや困惑した。  まだ頭が良く回らない。自分の悩みはひとつしかないが、それはメイジが寝ている間のことだったし、  自分から聞くのは諦めたことでもある。  「いや、特にないけど…」  返事が不満なのか、メイジは表情を曇らせてしまう。  そのまま、メイジは様々な話題を振ってきた。朝食の内容。休日の予定。これからのこと。  目が覚めてきたトシアキが、注意してメイジの様子を覗ってみると、  話が途切れる度に、メイジはなにかを言い淀み、ためらっている。  思い切ってトシアキが促してみると、メイジは重い口調で話し始めた。  「トシアキは、明け方にうなされるんです。苦しそうなんです。しょっちゅうなんです。   毎日のようにやってくるその時間は、私にとってすごく長くって、とっても嫌な時間です。   手を握っても、語りかけても、それは一向におさまることはありません。   絶対になにか悩んでいます。そして、それを私に隠してるんです」  トシアキが言葉を失っていると、  メイジはすこし得意げな顔をして、おどけた調子でつぶやいた。  「まったく、私がいないと駄目なんですから」  返事に詰まったトシアキが ふと窓際に目をやると、いつの間にか薔薇はもう一本増えていた。