少年は、待ち合わせの場所へと急いでいた。  街の人混みをかきわけ、民家の間を走り抜けて、懸命にその場所に向かっているが、  実はもう、約束の時刻を大きく過ぎてしまっていた。  時間は、相手の少女が一方的に指定してきたもので、  なぜか少年の下校時間と同じ時刻である。到底間に合うはずのない、無理な要求だった。  それでも、少女に会うために、少年はその場所を目指していた。  指定された、海辺の待ち合わせ場所。そこは、ふたりが始めて出会った場所だった。  始まりの場所へ、彼は急いだ。  「おそいですよ」  先に待っていた少女の第一声は、無情なものだった。  防波堤のコンクリートに、ちょこんと腰をかけている少女は、苦しそうに息を切らし、  返答もできずにいる少年の様子をチラリと見やったが、なんら感傷を抱かなかったようだ。  非をそしられた少年は肩で息をしながらも、なんとか少女に頭を下げる。  「時間に、遅れちゃったよ。ごめん」  辛そうに肩を上下させている少年が、絶え絶えに返答したが、  少女はその言葉を特に気にした風もなく、おぼろげな表情で海を眺めている。  「つまらない話になります。聞いてくれますか、としあき」  少女は抑揚のない声で、少年に要求した。  としあきと呼ばれた少年は、どうにか呼吸を整えながら、笑顔を返している。  「聞くよメイジ。そのために、ここに来たんだ」  「そうですか。ありがとうございます」  そう声を返した少女だったが、その瞳は海を見つめたままだった。  しばらく無言の時間が過ぎ去っていき、息のあがっていた少年が、ようやく落ち着いてきた頃、  夕陽に赤く染まる海を見ながら、少女は独り言のようにつぶやいた。  「最近の私たちは、うまくいきませんね。なかなか会うことも出来ません。   ちょっとした気持ちのすれ違いで、怒鳴り合ったり、なじり合ったりもします。   一体、いつからこうなってしまったんでしょう」  思いもよらない問いかけに、としあきは返事ができなかった。  メイジも相づちなどは期待していなかったようで、そのまま先を続ける。  「それに近頃、としあきと一緒にいても、全然ドキドキしないんです。   もうお互いに、心の底では飽きてしまっているのかも知れませんね」  それは、としあきにとって意外な言葉だった。  最近のメイジに、元気がないことに気付いてはいたが、  まさか、そんなことを考えているとは予想だにしていなかった。  「これ以上、ふたりで会うことの意味が見いだせません。別れましょう、としあき。   今日は良い区切りの日です。この言葉を伝えるために、あなたを呼びました」  言い終えたようで、メイジはわずかにとしあきから顔をそむけた。  ふいに強い潮風が吹き抜けていく。風にあおられたメイジの長い髪は大きく乱れてしまったが、  メイジは舞いあがる髪を押さえようともしない。ただ、じっと動かずにうつむいていた。  「そう、だったんだ…」  ようやく、力なく口を開いたとしあきに、促すようにメイジが瞳を向けた。  としあきは、しばらく考え込んでいたが、やがてポツリポツリと自分の心境を語り始めた。  それは懺悔のようでもあり、ありふれた言い訳のようでもあった。  「今までボクは、自分なりには時間を作って、頑張ってきたつもりなんだ。   いつだって、心の底では、メイジの事を一番に考えていた、と思う」  メイジは、ただ虚ろな表情をしたまま、変わりゆく海を眺めていた。  もう少しで日が落ちる。あといくらかで、今日という日が終わりを告げる時刻に、  ふたりはお互いに、海を見つめたままだった。  「でも、ボクはいつの間にか、メイジに嫌われていたんだね。こんなにメイジが思い詰めているのに、   気付いてあげられなかったのは、やっぱりボクが馬鹿だからなんだろうな、と思う。   ボクがもっと、メイジの事を考えてて、ボクがもっと、メイジに話しかけていたのなら、   こんなことにはならなかったのかも知れない」  としあきは、懸命に言葉を続けていた。  饒舌というには程遠い彼は、自らの想いをメイジに伝えたいようだが、  そのほとんどが遅すぎる自戒であったようだ。  「でもね、最後だから言うよ」  少し間をおいてから、としあきは大きく息を吸い、強く確かな口調で、包み隠さず本心を明かした。  「ボクは、最後までメイジと一緒に歩きたかった。   メイジが目指している所があるのなら、ボクもそこに行きたいと思っていたし、   欲しい物があるなら、ボクが先につかみ取って、メイジに渡してあげたいと思ってた」  だんだんと、声は大きくなっていった。  海辺を行き交っている人たちが振り返り、遠巻きにいぶかしむ程であったが、  としあきは構うことはなかった。しまいにはその声量は、叫び声に近くなる。  「一緒に走りたかった。一緒に笑いたかった。転んだときは一緒に泣いて、   それでも起き上がった後は、ふたりで一緒に笑っていたかったんだ」  自分の想いだったものを真っ直ぐぶつけたとしあきは、疲れたように、すっと肩を落とした。  それを聞いたメイジには、特に変わった様子はない。やはり、座って前を向いたままであった。  気が抜けてしまったようなとしあきと、まったく反応がないメイジ。  ふたりは横並びに腰掛けたまま、また、ぼんやりと海面を見つめはじめた。  長い沈黙が、ふたりの間に訪れた。  口を開かなくなってから随分と長い時間がたつ。ふたりはその間微動だにしなかったが、  やがて、としあきはふっきるように勢いをつけて立ち上がった。  くるりとメイジに背を向け、別れの言葉を告げる。  「さようなら。大好きだった人」  「女々しいことを。男の子でしょう?」  メイジは座ったままの姿勢だったし、鋭い口調は酷薄そのものだった。  「そうだね。でも、伝えたかったんだ。   なんか、ボクは鈍感らしくって、時々相手の気持ちがわからないんだ。   最後の最後まで、自分勝手でごめんよ」  ほんのかすかに、指を振るわせたとしあきは、そのまま立ち去ろうとしたが、  メイジは淡々とした口調のまま、としあきの背中に、いくつかの言葉を投げかけた。  「知っていますか、としあき。私は、とても欲深いんです」  急な問いかけの意味を、はかりかねたとしあきが、立ち止まって何かを言いかけたが、  メイジは返答を待たずに、立て続けに声をかけた。  「覚悟は、できているんですか?」  「わからない。多分、できていないけど、愛想を尽かされてしまったのなら仕方がないよ。   嫌いな人間と同じ空気を吸うっていうことが苦痛だっていうことぐらいは、わかるしね」  「まったく、本当にわからない人ですね!」  メイジは弾かれたように飛び出した。としあきの前に回り込んで、行く手をふさぐ。  「あなたと共にありたい、と言っているんです」  正面から向き合ったと思えば、前触れもなく逆のことを主張し始める。  状況が把握できないとしあきは、呆気にとられてポカンとメイジを見つめていた。  最後の言葉の意味はわかるつもりだったが、メイジの気持ちがわからない。  「やっぱり。やっぱり、あなたのことが好きです、としあき。嘘ばっかり言ってゴメンナサイ。   そして、できうるのなら。これからは、私だけを見て欲しいし、私だけを愛して欲しい。   それが叶わないのなら、もう少しだけ私の方を向いて欲しい。それに、どうして…」  としあきの胸に掴みかかって、メイジは抗議した。  「どうしてもっと早く、私のことを好きだと言ってくれなかったんですか、としあき」  小柄なメイジだったが、その両腕は思いのほかに力強く、としあきの胸を締め付けた。  としあきは後ろに体勢を崩しながらも、ひとつ大きく深呼吸をして、メイジの顔を見つめた。  これほど近い距離で話すのは、出会った頃以来、になるのかも知れない。  としあきは、気の抜けた顔をなんとか引き締め、もう一度本心を伝えることにした。  その内容はとりわけ独創的という訳ではなかったし、  襟元が乱れ、面食らった雰囲気が抜けきれない表情は、お世辞にも格好よいとは言えなかったが、  それでもメイジは、としあきに体を寄せて、じっと言葉を待っていた。  「メイジ。今まで君と歩いてきたけれど、これからも一緒に歩いていきたい。   何が起こるか解らないし、辛いことの方が多いと思う。   ボクはそんなに立派な人間じゃないけど、精一杯頑張るつもり。   こんなボクだけど、君が好き。一緒に来てくれるかな」  「はい、どこへでも」   「良い生活とかは、望めないかも知れないよ」  「構いません」  「嫌な思いをさせることの方が、多いかも知れないし」  「もう揺るぎません」  「時間だって、あんまり…」  「としあき!」  日頃、口数の少ないとしあきが、くどいぐらいに的外れな確認を繰り返していたが、  最も不満であった部分に話が及ぶと、メイジは厳しい口調でそれを遮り、明確に自分の意志を伝えた。  「私の願いはただひとつ。いつもそばにいてください、としあき」  としあきは返事をせず、その場でメイジを抱え上げた。  軽々と両腕に収まってしまったメイジは、驚きのあまり赤面し、恥ずかしそうに身をよじらせている。  抵抗し、腕を伸ばして抜け出そうとしているが、ほどなく諦めた様子で、すねたように顔をそむけた。  メイジの上気した頬に気付いているのかいないのか、としあきは長い間メイジを抱えたままだった。  やがて、日が暮れて、帳が落ちても、ふたりの姿は海辺にあった。  ふたりが出会ったこの場所は、ふたりの誓いの場所にもなった。  星が瞬きはじめ、日付が変わり、深夜を過ぎて、朝日が昇ってもまだ、  少年と少女は海辺で寄り添いながら、海の向こうを見つめていた。  * 祝! ブルふた100回! *  これからも、ブルふたが永く続きますように。