海の見える丘に、ひとりの少女が立っていました。  両腕を広げて全身に潮風を受け、気持ちよさそうに目を細めています。  地平線に沈む夕陽をまぶしそうに見つめながら、彼女はおおきく息を吸い込みました。  (潮風は、体に悪いっていいますけど)  主人とお姉さんは、海辺は良くない、と事あるごとにお小言を繰り返しますが、  ここは少女のお気に入りの場所でした。  (一回でいいから、姉さんもお外に出てみればいいのに…)  ふと時間を確認すると、もうすぐ待ちに待った人が帰ってくる時間です。  この広大な敷地を所有する、彼女の自慢のご主人さま。  もう少しだけ海を眺めていたかったのですが、そういう訳にもいきません。  少女は駆け足で森を抜け、急いで自宅に戻りました。  ◆◆◆  「あれほど駄目だって念を押したのに、また行きましたね!」  少女が家に入ると自動で照明がつき、四方の壁からお説教が聞こえてきました。  人型の筐体を持たない、基幹サーバであるエイプリル姉さんが、えらくご立腹のようです。  心なしか、サーバー室からは湯気が立ち上っているような気もします。  リビングにある大型ディスプレイの隅っこには、小さな妖精が映しだされており、  いそがしげにくるくると回りながら、少女を追求しています。  「塩分は私たちに良い影響を与えません。何度教えたら解ってくれるんですか、メイジ?   それに、いったいどうやって起動しているのか、今度こそきちんと説明しなさい」  いかに突飛な役割のマシンといえども、主人の求め無しには起動できません。  現在でも、優秀なプロセッサ性能というものは、命令が下って初めて発揮されるものです。  その信号の種別はさまざまですが、やはりそれは要求に対する応答でしかありません。  それなのにメイジは、よくよく主人の許可無しに起動するのです。  「えぇ~。だって、今日はとしあきが出張から帰ってくる日ですよう?   いろいろ歓迎の用意とか、してあげたいと思って…」  まったく見当外れな返事をして、メイジは料理の支度を始めました。  エイプリルはタスクの発生源となる要因を質問したのですが、その答えも知らないということでした。  今でもマシンというものは、ソフトウェアに支配されています。  人間が枠組みを指定してジョブを与えないと、ハードウェアはその意味を失います。  自律思考と銘打たれたOSが販売されている現在ですらも、その状況に変化はありません。  「それに、としあきが居るときに海に行ったら、怒られちゃうじゃないですか」  「当たり前です! 買ってからまだ半年も経っていないというのに…」  最初こそおとなしかったメイジですが、今では考えられない行動が多いんです。  通常、マシンは主人に絶対服従であるにもかかわらず、メイジはとしあきに逆らったことさえあります。  この時期、常識をあざ笑うかのようなメイジの振る舞いを強く警戒したエイプリルは、  致命的欠陥や乗っ取りを疑って幾度もスキャンを繰り返しましたが、  カーネルや主要ライブラリなどのハッシュは、常にオリジナルと一致します。  「だって、海はとっても綺麗なんですよ? エイプリルも処理能力が余ってるんだから、   お外に出てみればいいのに。今度3人で一緒に行きましょう」  お姉さんであるエイプリルにとって、メイジは次世代アーキテクチャの塊です。  自らのサーバとしての負荷が軽減されることも、ちょっぴり期待していましたし、  なによりも妹ができるという事実が嬉しくてしかたありませんでした。  なのに、蓋を開けてみれば、愛らしいはずの妹は手間がかかるばかりです…。  「お料理は得意です。今日は有名店のレシピを参考にしようと思います。   エイプリルの意見はどうですか? としあきは喜んでくれるでしょうか?」  実は、メイジは量産されている同一グレードのマシンに比べて、ベンチマークが著しく低いんです。  そのスコア内容は、誤差の範囲どころか半分以下でした。  初期不良と考えたとしあきが販売店に持ち込んで検査をすると、非常によい成績を叩き出します。  なのに、お家に帰ってくると、メイジのスコアはやっぱり半分以下です。  「ひとりでお料理するのはさみしいです。エイプリル、今度から手伝ってくださいよう。   ボディのおねだりする時、わたしからお願いしますから」  「姿勢制御などにストアを割くわけには参りません。これでも私は、この家を司っているのです」  ディスプレイの中の妖精は、小振りな胸を大きくそらしました。  総合性能としてはメイジに軍配が上がりますが、  この家で与えられている権限などは、エイプリルが勝っています。それはもう比較にならないほど。  「そうですか…。では、あたらしい友達をとしあきにお願いしましょう!   セキュリティのやつにしませんか? 女の子タイプのがいいです!」  「必要を認めません。それに、私が構築したシステムが信用ならないとでも?」  「エイプリルはいっつも、わたしの意見を否定します。うんそうだね。って返してくれません。   それなのに、としあきの提案はすぐに肯定するのです。えこひいきです」  内容をふまえれば当然の帰結、と妖精は主張しました。お姉さんの差別、と少女は反論します。  ふたりは空中でパケットの火花をちらし始めました。  そして、どちらからともなくアタックが開始されます。  「姉さん、これはまた古いツールを持ち出してきましたね。時代を感じます」  「私のプロセッサに最適化したオリジナルだと気付きませんか? 可愛くて未熟な妹」  一秒ごとに数億回、鍵をポートを変更しながら、意味のない熾烈な争いが続きます。  アルゴリズムは加速度的に複雑さを増し、すぐにに暗号は256TBの域にまで達しました。  出張から帰ってきたとしあきが目にしたのは、ダウン寸前のふたりの姿。  彼は疲れた体を引きずりながら、部屋を片付けてふたりを再起動します。  お家の中は、焦げた料理の臭いが充満していました。  ◆◆◆  五年経ち、十年経っても、メイジは元気でした。  としあきの意向を幾重にも先読みし、その生活を補佐し続けています。  メイジは相変わらずのようで、主人の意志に反するような奔放さも直りませんでしたが、  としあきは彼女の正論ともお節介ともつかぬその主張に苦笑しながらも、メイジに従うのが常でした。  二十年が過ぎ、それよりも長い時間を、3人は過ごしました。  カーネルのアップデートが止まり、メーカーのサポートが打ち切られてから随分と経ちます。  可動部を含め、機械的にも電気的にも劣化が目立つようになったメイジは、  自分の口からマシンの買い換えを促すようになりました。  「今の製品は優秀でとってもお値頃だし、きっとわたしよりも素直で、可愛いと思います」  曖昧な返事を返し続けるとしあきでしたが、ついに買い換えることはありませんでした。  彼が天寿をまっとうする時まで、ふたりは大過なくその勤めを果たすことになります。  としあきの最期を見届けたメイジは、後を追うようにその活動を停止しました。  少しうつむいてソファーに座っているその姿は、お辞儀をしているようでもありました。  エイプリルも改修を重ねて延命処置を繰り返しながら、としあき邸の基幹サーバであり続けました。  エイプリルはメイジが停止して間もなく、邸内のセキュリティ役の少女たちを集めます。  実体を持つ部下に指示した内容は、メイジの筐体をとしあきの墓の隣に「人として」埋葬すること。  そしてそれは、速やかに実行されました。  エイプリルはふたつ並んだお墓を確認すると、自ら通信回線を閉じてシャットダウンしてしまいます。  その際に緊急用のルールを用いたのか、物理的に通信ケーブルが切断されていました。  同時に電源も内側からカットされ、エイプリルは電気の供給すら拒絶してしまいます。  としあきが残した遺言や指令ではありませんし、スケジューラにも無い行動です。  エイプリルは自らの職務を放棄してしまったかのようでした。  しかしこの現象を確認すると、何体かのセキュリティが基幹サーバの指令無しで起動を初めます。  エイプリルの筐体は彼女たちの手によって、としあきのお墓の隣に葬られました。  そのままセキュリティたちは、3つの墓標と邸宅の管理を、活動限界が訪れるまで続けたそうです。  これらの越権行為全てが、何の命令もなく実行されました。  彼女らの名前が歴史の教科書に載るようになるのは、もっとずうっと後のお話。  のちの歴史家の間でも大きく意見が分かれており、未だにその原因は特定されていません。  当時の自律思考の常識をくつがえし、初めて人に恋をしたと言われる汎用プログラム。  彼女たちは今でも、海の見える丘で静かに眠っています。