『犬が来た日』 「メイジ。なんか様子がおかしいぞ。なんで押入れの前から動かないんだ?」 「えっ!? そんなこと、ないですよ? …ホント、なんにも居ませんから!」 「アン!」 「なんだ!?」 「あっ、ダメ! 見ないでー!!」  歩みを止めようと縋りつくメイジに構わず、彼女を引き摺りながら、としあきは押入れに近付く。 襖に手を掛け、思い切って開けると、そこに居たのは一匹の仔犬だった。  背側は黒で、鼻面辺りから腹側にかけては白い毛が生えている。毛は長めで、顔立ちから洋犬の様だ。 まだ小さい。生後数ヶ月、と言ったところか。  押入れの中の荷物は脇にやられ、段ボールと毛布で寝床がしつらえてあった。スペースもそこそこだった。 仔犬はその中で、チョロっと舌を出して、尻尾を振りながらとしあきを見上げていた。  呆気にとられているとしあきに、恐る恐るメイジがお伺いを立てる。 「ね、飼ってもいいでしょ?」 「無理だよ! アパートで飼える訳ないだろ!? それにどれだけ成長するかも分からないのに!」  それはアパートの居住者として、また責任ある大人として当然の言い分だった。 だが、それでメイジが納得する筈も無く。 「やだー!! 飼うの! だって捨てられてたんだもん! 可哀想だもん! カロヤンはもう家族なの――!!」 「もう名前まで付けて! でも駄目なんだって、無理なもんは無理なんだよ!」 「ヤァだ――――! アァ―――ン!!」  あとは泣き叫ぶメイジの絶叫と、負けずに言い聞かそうとするとしあきの怒鳴り声との応酬で、最早収拾は付かなかった。 「バカバカ、としあきのバカ――!! もう知らない!」 「あのなぁ! メイジ、聞けよ!」 「知らない! としあきなんか嫌い、あっち行けっ!」 「ちょっ、待てメイジ、こら――!!」 ――ダダダダダダダダ……ガタガタ…バン!  メイジは仔犬を抱えて押入れに閉じ篭ってしまった。 ――ウ~~、エッ、エッ、エッ……  襖の向こうから嗚咽が漏れてくる。  結局としあきは、それ以上言い争う気にはなれず、その場は一旦引き下がることにした。 ひとまず落ち着くのを待とう、それからもう一度じっくり話し合おう、そう考え直し、そっとしておくことにした。 だが、メイジの意志は固そうだ。簡単には説得出来そうもなく、としあきは少々気が重くなってしまった。  と、その時だった。  唐突にとしあきは、去年までこのアパートに居た住人のことを思い出した。確か、その人はずっと犬を飼っていた。 もしかしたら、許可を得られたら飼えるのかもしれない。  ダメもとで大家に請願することを思いつき、としあきは大家を訪ねてみることにした。 早速押入れに近付き、襖越しに声を掛ける。 「メイジ。俺、ちょっと大家さんに犬のこと聞いて来る。どうする? ついて来る?」  一瞬、泣き声が止んだ。  だが、返ってきた言葉は。 「そんなこと言ってカロヤンを奪う気ですね!? その手には乗りませんよーだ!」 「ハァッ…。じゃ、俺一人で行ってくる。戸締りはやっとくから、留守番頼んだよ」  メイジを置いて行くのは気が引けたが、止むを得ない。としあきは一人、大家のところへ出掛けて行った。  足音が遠ざかり、としあきが本当に出掛けてしまったことを覚ったメイジはまた泣き出してしまった。 「うぅ~…酷いです、としあきは…。こんなにちっちゃいのに、一人ぼっちで…。可哀想です…ほっとける訳、無いです…。  ヒック、それなのに、それなのにぃ~、うぁぁあぁぁ」  少し泣き止みかけていたのだが、仔犬のことを思うと、また無性に悲しさがこみ上げてくる。 仔犬を胸に、頭から毛布に包まって、メイジは押入れの薄暗がりの中で泣き続ける。  涙が止まらない。どうして分かってくれないんだろう? としあきだって、あの時のカロヤンを見れば心が痛まぬ筈が無い。 何故なのか? その思いを、大人なら「不条理」と呼んだかもしれない。だがしかし、訳の分からぬまま、メイジの胸はただ痛み続けた。  ポロポロと、涙の粒は頬を伝う。嗚咽も止まない。堪えても堪えても、涙は零れ、ポタ、ポタと落ち続けた。 しゃくり上げながらメイジが思い出していたのは仔犬を見つけた時のことだった。  河岸の草むらの中。黒ずんでぼろぼろになった段ボールの中から聞こえる、微かな鳴き声。覗き込めば震える仔犬。 毛はクシャクシャで薄汚れ、立ち上がろうとする脚も覚束ない。 「あなた…一人なの? お母さんは、居ないの?」  しゃがみこみ、そっと手を差し伸べる。抱き上げた仔犬は小さく、軽かった。心細げに細い声を上げていた。 震える仔犬をコートの中にを抱え込み、メイジは家路を急ぐ。  急ぎ足で歩みながら、メイジは仔犬に語りかける。 「大丈夫ですよ。もう一人ぼっちじゃありません。わたしはこの国でとしあきと出会えました。わたしはもう一人じゃないんです。  だから、あなただって一人ぼっちじゃないんです。きっと、としあきもあなたを受け入れてくれますよ」  そして大急ぎでうちに連れて帰ったのだった。  「きっと受け入れてくれる」そう祈っていたのに、としあきは即座に拒否してしまった。なんということだろう。 あんなに怒鳴らなくてもいいではないか。そんな思いが渦巻いて、涙となってこみ上げる。  腕の中でメイジを見上げるカロヤンは、その粒を鼻面で受け止めながら無心に彼女を見つめていたが、不意にモゾモゾと動き始めた。 前足を伸ばし、体を持ち上げ、そっと顔を近づけ… ――ペロッ 「ヒャッ! ちょ、カロヤン、くすぐったい、くすぐったいですよぉ。うぅん! ……カロヤン…慰めてくれてるんですか…?」 ――パサパサパサ  腕の中で尻尾が振れているのが分かる。じっと見つめる犬の表情は、心なしか喜んでいる様にも見える。 泣き止んだね―…そう言いたいのだろうか?  そっと、もう一度腕の中の仔犬を抱き寄せる。まだ未熟な体は柔らかく、十歳の少女の力でも潰れてしまいそうだった。 けれど腕の中の温もりは、この仔犬が確かに生きていることを力強く語っていた。  抱き寄せた背中や頭を撫でながら、メイジは静かに語りかけた。 「慰めてくれてありがとう。カロヤンは優しいですね…。とってもいい子です…。カロヤンはきっと素敵な男性になれますよ。  強くて優しい、立派な男性です。きっとなれますよ。だって、あなたの名前は、わたしの祖国の英雄から取ったんですから。  だから、絶対です、絶対なんです。カロヤン…心配は要りませんよ、わたしが絶対、としあきを説得してみせますからね。  安心して下さい、絶対に、説き伏せますから、絶対…に…ぜったい……」  それから、どれ程の時が過ぎたのか。カロヤンを抱いたまま寝入ってしまったメイジは、襖を開けようとする物音に跳ね起きた。 まだ眠っているカロヤンを慌てて抱き寄せながら、咄嗟にコルト・ガバメントを抜き放った。 「メイジー…、どわぁッ!! お、俺だメイジ、う、撃つな撃つな!」  銃口を向けた先に、としあきが腰を抜かしてひっくり返っていた。大家のところから帰ってきたのだ。 起き上がったとしあきは、まだ青い顔をしていたが、恐る恐る口を開こうとした。  しかし、それを制するかの様に、いち早くメイジが口を開く。 「としあき! カロヤンを家族の一員と認めなさい! 認めるまで、わたしはここを動きませんからね!!」 「ちょ、あの、メイジさん? とりあえず、銃を下ろしてもらえませんかね?」  必死に頼みこんで、銃を下ろさせたとしあきは、深呼吸を一つして話を始めた。 「メイジ、やっぱり動物は飼っちゃいけない規則なんだ」 「どうして!?」 「う~ん、外国は違うだろうけど、日本じゃ、こういう集合住宅だとペットは飼えないことが多いんだよ」 「そんなぁ…。じゃ、としあきは一体何しに行ったんですか!?」  芳しくない回答に、メイジは憤懣やる方ない様子。今にも下ろした銃を再び向けそうな雰囲気になる。 その気配を察し、としあきはすかさず言葉を継いだ。 「ただね! よく聞いてね、メイジ。大家さんが言うには、絶対に大家さんや、他の住人さんに迷惑かけないって約束出来るなら、  ここに住む人みんなにお願いして、許してもらえたら、特別に飼ってもいいって。だからメイジ、これからお願いに行くよ」 「お願いしたら…飼えるの? お願い…して…くれるの?」 「してくれるんじゃない。俺と、メイジと、カロヤンと、三人でお願いするんだ。だから、もう出ておいで」 「…………としあき……としあきぃ~」  押入れから這い出たメイジは、再び泣き出してしまった。  銃はとっくに取り落としてしまって、カロヤンも座り込んだ膝元に並んで腰を下ろしている。  そんなメイジに、としあきはそっと手を差し伸べる。弾かれた様に、メイジがその中に飛び込んだ。  としあきの腕の中で、メイジはありったけの声で泣き続けた。 「うわぁぁぁぁぁぁん! としあき、としあきぃ。ありがとうございます、ありがとうございますぅぅ」  ぎゅっと抱きしめ、その涙をしっかりと受け止める。  メイジが泣き止むまで、ずっととしあきはメイジの頭を撫でていた。  良かった。行ってきて良かった。初めて心からそう思えた。   「さっ、メイジ、涙を拭いて。みんなにお願いに行こう」 「ハイ! 早速行きましょう! 絶対みんな許してくれますよ! だって、カロヤンは、本当にいい子なんですから!」 (終)