『わたしの英雄』       <1> 「ああ、せっかくの連休なのに……。としあき、何か予定はないのですか?」  ブルガリアから日本にやって来た10歳の少女・双葉メイジは、「やれやれ」とでも言いたげ に首を振りながら不平を洩らす。彼女の頭が動くたびに、豊かな長い金髪が揺れている。 「そう言われてもなぁ……」  ぼんやりと返答したのは、一応、現在は彼女の保護者・双葉としあき。少女は彼の親戚の遺 児らしい。事情を完全に飲み込めているわけではないが、としあきは彼女の面倒を見ることを 許諾し、こうして二人で共同生活を送っている。  今日は五月の連休初日なのだが、彼は特に予定を入れることもなくこの日を迎えてしまった のだ。朝からメイジがぼやくのも無理からぬ。 「なあメイジ、友だちとは遊ばないの?」 「みんな家族や親戚と過ごしてますよ。それで今日は暇なのです」 「そうか……。おれらも連休後半、実家に顔出す予定だしなぁ。ぶっちゃけた話、今日はごろ ごろしているつもりだった」 「わたしはそんなつもりじゃありません!」  だんだんメイジの表情が、不満を通り越して怒気を帯び始めた。彼女の不思議な赤い瞳が、 としあきを鋭くにらみつける。  「え、ええっと、じゃあ、ちょっと亜希に相談してみるからさ、ちょっと落ち着け」  これはたまらない、そう判断したとしあきは、藁にもすがる思いで幼馴染に連絡を取ること にした。       <2>  としあきが電話を掛けてから30分も経たないうちに、玄関のインターホンが鳴らされた。 「おっはよー! なに、せっかくの連休になんの予定もなくてメイジちゃんが怒ってるって?」  そう言って部屋に上がり込んだのは、としあきの幼馴染・十師亜希である。艶のある黒髪を ショートボブにした快活な人物で、女性とは縁の薄いとしあきだが、彼女とは妙に馬が合い、 成人してからもこうして気安く互いに行き来する関係である。 「そうは言うけどさ、お前だってすぐに来てるわけじゃん。予定ないの?」 「なぁに言ってんの。今日は天気が悪いからね、ここはゆっくり過ごして、明日明後日とみっ ちり遊ぶのさ」  二人の皮肉交じりのやり取りも付き合いの長さゆえ。黒縁眼鏡のレンズの向こうで、亜希の 黒目がちの瞳がいたずらっぽく笑う。 「そんなことより亜希さん、何かいい考えはありませんか? としあきはあてになりません」 「ううん、そうだねえ、あたしも今日は予定入れてなかったし……。あ、そうだ、たしか今日 は、この近くの神社で奉納相撲のある日だったよ。  メイジちゃん、お相撲好きだよね? ちょっと見に行ってみよっか」 「えっ、それって力士を見られるのですか!?」 「あー……ごめん、やるのは中高生で、お相撲さんは来ないんだ……」 「そうなのですか……。いえ、でも生で相撲を見られる機会です。何よりこのままいても退屈 なだけです。行きましょう」 「よーし、決まり。じゃ、としあき準備!」 「はいはい、オッケー」       <3>  財布と携帯電話をポケットに突っ込み、としあきは戸締りをする。メイジと亜希はさっさと 出ていて、外から二人に「早く早く」と急かされる。  玄関の鍵を掛けたとしあきは二人に追いつき、三人で近所の神社に向かって歩き出した。 「これから行くのは、初詣に行った神社ですか?」とメイジが聞く。 「そうそう。お正月にも三人で行ったよね――」と亜希が答える。  そんなことを喋りながら歩くうち、すぐに目的の神社に到着した。  もうすでに対戦は始まっており、本殿前の広場の奥には、しめ縄を四方に張ったテントが立 てられ、その左右に東西に分かれた子どもたちが待機し、前方には少しスペースを空けて観覧 席が設けられ、応援や見物客がぎっしりと座っている。  テントの下には、今日この日のために特設された土俵がある。現在は午前で中学生の部だが、 中にはすでに高校生のような体格の子や、胸や腕に筋肉が浮き出た子も見受けられる。 「うわぁ、いっぱい来てるねえ」と亜希。 「なんか中学生なのに、もう肉の密度がすごいな」ととしあき。  二人がてんでに感想を口にするなか、メイジはぴたりと足を止め、呆けた表情で立ち竦んで いた。 「あ、あれ、どうしたの、メイジちゃん?」 「おい、大丈夫か?」 「あ……あ……あ……あれは……」  としあきと亜希は、メイジが憑かれたように凝視する視線の先をたどる。彼女が見ているの は、土俵の奥にもうひとつ立てられたテントの中だ。三人から見て一番左端の席に座る人物。 スーツを着て髪をオールバックに撫でつけた、大柄な白人男性だ。 「わたしの“英雄”……」       <4> 「わ、わたしの英雄! 英雄が! ギャ~~~~~~~~ッ!!」  絶叫とともに駆け出していたメイジの体を抱き止め、としあきは同時に口も抑えつつ、ずる ずると彼女を引きずって境内から出ていく。 「としあき! 何をするんです!? 英雄が、英雄がそこにいるのです、離してください!」 「待て、落ち着け、いまそんな大騒ぎしても迷惑なだけだろ!?」  そこへ亜希も興奮気味の様子で駆け寄って来た。 「すごいね、来てる、来てるよ! あの人だよね、メイジちゃんの好きなお相撲さん、アレ、 いまは親方だっけ? とにかく本物!」 「なあ、亜希、おれもそうかなと思ったけど、本当にそうなの?」 「ホントだよ! だって周りの人にも聞いてみたもん。たしかにそうだよ」 「わたしが見間違うはずありません! あそこにいるのはわが国の英雄です!」 「わかった、とにかく落ち着いてくれよ。挨拶したいなら、できるときまでおとなしく待って ろって、頼むから」  どうにかメイジを落ち着かせようととしあきは必死だ。亜希もそれを手伝う。 「そうだよ。終わってからでもお話する時間がきっとあるよ。それにたぶん、親方は将来有望 な子を探しに来てるんだと思う。親方のお仕事を邪魔しちゃだめだよ」 「ううう……。わかりました。いまは我慢します」  納得してくれたメイジを連れ、としあきと亜希は再び境内に戻っていった。       <5>  それから三人は、昼過ぎまで続いた中学生の部を静かに観戦していた。みな真剣で、時には 身を乗り出してしまうような白熱した対戦もあった。  その合間に親方を盗み見れば、優しげな表情が怖いくらいに厳しい表情になり、特に熱戦の ときにはいっそう鋭い視線を土俵上に向けていた。その表情の変化には思わずとしあきが、 「目がすげぇ……」 とつぶやいたほどだった。  そうしてすべての対戦が終わり、閉会式が執り行われた。その後は出場した子どもらが親方 を取り囲み、また教師や保護者なども挨拶にやって来るので、メイジはなかなか声をかける間 がない。  ようやく彼を取り巻く人の流れが途切れたときを見計らって、メイジは自身が「英雄」と呼 ぶ憧れの人に話しかけた。もちろん、ブルガリア語で。  最初、親方も意外な出来事に驚いていたようだが、同じ国の出身者同士すぐに同じ言葉で応 じてくれた。としあきもなかなか耳にすることはない、上ずった声のメイジに対し、親方は穏 やかに言葉を返す。  二人が話している内容は、としあきと亜希には理解できなかったが、親方の声音からはその 人柄を感じられるように思えていた。  やがて、二人だけにしか理解できない会話を満喫したメイジは、やや上気した顔でとしあき のほうに振り返って言った。 「としあき、写真を撮ってください」  言われるまでもない。としあきだけでなく、亜希も携帯電話のカメラを使い、メイジと親方 のツーショットを撮影する。  そこには普段物静かなメイジがめったに見せない満面の笑みと、親方の優しい笑顔が揃って 収められていた。       <6>  奉納相撲は午後から高校生の部だ。  やはり迫力がちがう。中学生大会とは異なり、出場するのは相撲部員のみなので、みんな揃 って体つきは大きくたくましい。また、仕切りなどもきちっとしたものだ。  相撲部員のみということで出場者はぐっと少なくなり、応援や見物の人数も減ってしまうが、 このあとに行われるより大きな大会の選抜戦も兼ねており、熱気のこもり方が全然ちがう。  そんな対戦の様子を三人は最後まで観戦し、会場を後にした。帰る道すがら、メイジは目を 輝かせて喋り続ける。 「楽しかったですねえ。としあき、今度はぜひ大相撲を、本場所を見に行きたいです」 「ま、まあ、機会があれば……」  ふと、亜希が言った。 「ところでさ、メイジちゃんはこの大会出てみたい?」 「ああ、そういえば女子も出れるんですよね」  中学生の大会には女子の部があるのだ。この日は20人近い人数が参加していた。メイジはい ま10歳。中学校に上がれば参加する機会がある。 「そうですね、滅多にないことですし、やってみたいです」 「じゃあ、そのときは応援に行くね」と亜希。 「いいけど、怪我しないでくれよ」ととしあき。 「わたしが出場するときにも英雄に来てほしいですね――」  並んで歩く三人を初夏の日差しがまぶしく照らす。朝はいまにも降り出しそうな天気だった のに、いつの間にか空は晴れ渡っていた。                                      (了) --------------------------------------------------------------------------------------    あとがき  このSSは2018年5月3日に実際にあったことを元にして書いています。  用事があって外出したついでに、近所の神社で行われていた奉納相撲大会をのぞいてみたら、 そこにメイジが「英雄」と呼ぶあの人がいた――というブルふたスレ住人としても驚きと興奮 の出来事に、これは書くしかないと思い、こうして書き上げた次第です。  ちなみに実際に目にした親方は、現役の頃よりやせられたのか、スマートで恰好良かったで す。優しそうな顔立ちのハンサムで、「角界のベッカム」と呼ばれるのも納得です。  しかし真っ先に感じたのは、やはり大きいということでした。本当にでかい。「説明不要!!」 という台詞を思い出しました。周りの人間よりきっちり頭一個分でかかったです。  そして作中にも書いていますが、穏やかでいかにも優しそうな表情が、対戦を見るときには 大変厳しいものになり、現役時代もこんな感じだったんだろうかと思いました。  また同時に、おたがいあんな体で、あんな目をした者同士が真剣にぶつかり合う――。年に 六場所もガチンコでやるなんて無理があるのではないか、そんなことも思ってしまいました。  それから印象的だったのは、対戦する中高生の顔つきですね。みんな真剣ないい表情をして いました。  さて、ついつい作中に盛り込めなかったことや感想などを書いてきましたが、このままだら だらと書き続けても仕方がないので、この辺で終わりにします。  最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。                                    プレあき