『 White Smoke, White Lie 』 (第2部)   ◇第12話「孤立」  メイジの転入からまたたく間に1週間が過ぎた。転入生への好奇も薄れ、5年3組の子ども たちは落ち着きを取り戻していた。  しかし、それと同時に、メイジの周囲からだんだん子どもらが離れていったのも事実だった。 「なんかさ……、双葉さんってちょっと、とっつきにくくない?」 「うん……。なんだろうね、ニコニコしてるんだけど、距離取られてるのかなって」 「無愛想ってワケじゃないんだけど、なーんかよそよそしいっていうか……」  こういったひそひそ話はメイジの耳にも届いていた。クラスの子らがそのようことを口にす るのは、彼女自身理解できることではあった。  だが、そこにはメイジなりに理由がある。元々彼女は同年代の子どもとの交流経験が乏しい。 そこへ持ってきて、日本の子どもの文化や感覚がいまひとつよくわからないのだ。  日本に来てからこのクラスに転入するまで、彼女が接してきたのはとしあきや亜希といった 大人ばかりだったのだ。わからないのも無理からぬことだろう。  そればかりではない。 (わたしには“秘密”がある……)  根底のところに拭い難いこの思いがある。それが自然と彼女の行動にブレーキをかけ、最も 簡単な解決法である、「わからないなら訊く」ことをためらわせる。  彼女は今、自分がこのクラスの異邦人(エイリアン)であると感じていた。授業は聞いている ものの、それはどこか遠い国のニュースを聞いているように思えてくる。  ふと、メイジは顔を上げ、教室の窓から外を見た。校庭を囲うフェンスの向こう側一帯に目 を走らせる。 (気のせいか……? いや……)  メイジはポケットの中に忍ばせたものに、布地の上からそっと触れてみた。銃を持てないの ならば、せめてこれくらいはいいだろう。そう考えて持っている。      ◆   ◇第13話「事件」  メイジが孤立を深めていく中、それでも変わらず彼女に話しかけ続ける子もいた。  森永あろえと雪印めぐみである。あろえは「委員長」とあだ名されるだけあって、何かにつ けてメイジを気にかけていた。もっとも、あろえもまた周りから避けられがちなので、空回る ことも多かったが。  めぐみは転入初日にメイジに話しかけて以来、ことあるごとにメイジに近付いていた。クラ スの誰もが転入生に対する関心を失っていっても、彼女にだけはそれがあてはまらないようだ。  しかし、めぐみのその態度が、メイジとの間にちょっとしたいさかいを引き起こしてしまう。  ことは体育の前の休み時間に起こった。当然みんな次の授業に備えて一斉に着替えているわ けだが、このときめぐみがメイジに近付き、彼女が着替えるところをまじまじと眺め始めた。  元々メイジに対し、めぐみは興味津々といった風であった。それゆえメイジは初め、いつも のことかと思っていたが、ほどなくめぐみの視線が向く先に気がついた。 「……なんです? そんなにじろじろ見られると、気になるんですが」 「いや、双葉さんって、本当に肌白いなーと思って」 「そうですか?」 「ねぇねぇ、もうちょっとよく見せてもらってもいーい?」  そう言いつつ、めぐみはメイジの服の裾を軽くつまむ。めぐみとしては軽い冗談のつもりだ ったが、次の瞬間メイジが示した反応は、彼女にとって予想外のものだった。 「やめてください!!」  まさに「血相を変える」とはこのことか。あまりに鋭い声と目に、めぐみはたじろぐ。教室 に残っていた何人かの女子も思わず振り向き、室内がしんと静まり返る。 「あ、あの、ごめん。ごめんね。ちょっと、悪ふざけが過ぎたかも」 「いえ、すみません。わたしもつい、大声を出してしまって」  ふたりが互いに謝り合っているところに、教室の様子を見に来たあろえが歩み寄る。 「どうしたの? 何があったの?」 「た、大したことじゃないよ、ちょっとあたしがふざけ過ぎただけ。あ、遅れるからもう行く ね」  そう言うと、めぐみは足早に教室を出る。 「双葉さん、大丈夫?」 「ええ、問題ありません。着替えたらすぐに行きますから」  この一件に居合わせたのは4、5人ほどの女子だけだったが、すぐに話は広まり、放課後には 男子までもが知ることになったのだった。      ◆   ◇第14話「面談」  その日の放課後、水木はメイジを呼びとめた。空っぽになった教室で、ふたりはひとつの机 を挟んで座り、向かい合う。 「双葉さん、クラスのみんなとはどう? なんだか、ちょっとみんなと話しにくそうな感じが するんだけど、大丈夫? ちょっと見てて心配になったの。何かあるんだったら、先生に話し てくれないかな」  水木が尋ねても、メイジは黙ったままだ。特に表情の変化もなく、姿勢を崩すこともなく水 木を見つめ返している。  何か考えているのだろうか? 水木は妙な圧迫感を覚えながらも、メイジから目をそらさぬ よう腹に力を込め、辛抱強くメイジの返答を待った。  やおらメイジが答えた。 「正直に言うと、少し話が合わないかと思うことはあります。ですが、慣れれば問題ないかと。 ご心配をおかけしました」  そのあまりに子どもらしからぬ受け答えに、水木は少なからぬ衝撃を受ける。“両親がおら ず親戚のところで暮らしている”とか、“人目に晒されたくないものがあるので肌の露出に気 をつけてほしい”とか、いろいろ複雑な事情がある子だとは聞いていた。  だからこそ、何かあったときは同性のほうが話しやすいのではないかという理由で、彼女が 担任するクラスに入ることになったのだ。  しかし、いろいろある子だとしてもこれはおかしい。たしかに初対面のときからしっかりした 子だとは思っていたが、いくらなんでも度が過ぎてはいないか。この子は今までどんな風に過ご してきたのだろう? 「待って。それは本当にあなたの本心なの? 何か別の理由があるような気がするんだけど!」  このまま、はいそうですかと帰すわけにはいかない。水木は食い下がる。だが、 「いえ、言葉通りです。これ以上話すことはありません。もう帰ってもいいですか」  取り付く島もない。メイジはさっさと席から立ち上がる。水木は思わずメイジの腕を掴んで いた。 「待って! ひとつだけ正直に答えて。もしかして、先生のこと信用できない?」  メイジは答えなかった。ただひと言、 「さようなら」  それだけ言って、教室を出ていこうとする。呆気に取られていた水木は、メイジが教室の扉 を閉めようとした瞬間、ハッとして叫ぶ。 「それでも誰かを信じて!!」  扉を閉める手が一瞬止まり、しかしすぐにぴしゃりと閉め切られる。取り残された水木は立 ち尽くしたまま、閉ざされた扉を茫然と見ていた。  ――私はいったい、あの子に何ができるんだろう。      ◆   ◇第15話「拒絶」  着替えのときの一件から幾日かが過ぎ、その週の週末を迎えた。それまでのあいだ、メイジ は1人で過ごす時間がずっと増えていた。さしものめぐみも口数が激減し、これまでとはうっ てかわって教室でもおとなしくなってしまった。  同時にあろえも戸惑ってしまい、メイジとどう接すればよいか図りかねているようだった。 そして彼女らの変化の影響は次第にクラスに伝播し、教室では水木の努めて明るくふるまう声 が空しく響いていた……。  クラスがそんな風なので、放課後1人で下校するメイジを気に懸ける級友などはいない―― はずだった。 「ね、ねえ、双葉さん、週末だしさ、いっしょにゆっくり帰らない?」  めぐみだった。隣にはあろえもいる。 「あの、わたしも双葉さんと話がしたいんだけど、いっしょにいいかな?」  メイジは強いて拒むことはなかった。喜んでという様子はなかったが、いっしょに帰ること を承知した。  3人で歩き始めてしばらくは、遠慮がちな会話がぽつりぽつりと交わされていただけだった。 だが、ついにめぐみが意を決して口を開く。 「あのさ、ちょっと双葉さんに、聞いてほしいことがあるんだ」  そう切り出すと、めぐみは語り始めた。 「もう知ってると思うんだけど、うちの両親って仕事でしょっちゅう家を空けてるんだけどさ、 行くのは国内のときもあるけど、やっぱ多いのは海外でさ……。  パパとママは帰ってくるといろんな国の話をしてくれて、それを聞いているうちに、あたし も外国に行ってみたいって思うようになったんだよね。  だから双葉さんが転校してきたとき、友だちになりたいって思ったの。外国の友だちが欲し かったんだ。それはあたしの都合かもしれないけど、でも双葉さんと仲良くなりたいって気持 ちは本当なんだよ。  だから、その、あのときはごめんなさい! どうしたら仲直りできるかな?」  メイジは頭を下げるめぐみをじっと見下ろす。そしておもむろに口を開いた。 「そう……。雪印さんの気持ちはわかりました。ですが、わたしはあなたと仲良くするつもり はありません」      ◆   ◇第16話「絶交」 「えっ……」  思いがけないメイジの返答。その極めて冷やかな内容と口調にめぐみは絶句する。 「ちょっと待ってよ双葉さん! いくらなんでも、それはないんじゃない!?」  たまらずあろえが割って入る。が、メイジは取り合わない。さらに詰め寄ろうとするあろえ。 それを制止し、めぐみは抑揚のない声で問いかける。 「仲良くするつもりはないって……、どういうことなのかな? 理由を教えてくれる?」 「そうですね、別にあなたに限らず、わたしは誰かと仲良くなりたいとは思っていません。  あとはあなたについて言えば、あなたが『嘘つき』だということですね。それは実際に体験 させてもらいましたし、いまさら『気持ちは本当』と言われても、信用できません」 「フーン……、そっかぁ……」 「あ、あの、雪印さん?」  あろえが心配そうにめぐみのそばに寄るが、めぐみは差し出された手を払いのけると、ふた りを置いて歩き出した。 「わかった。そういうことじゃあ、仕方ないよね……。わかったよっ、もう絶交だ!!」  叫ぶなり、めぐみは駆け出していた。週末の荷物の重さも構わず走り去る彼女の背中を、ふ たりはただ見送っていた。      ◆   ◇第17話「衝突」 「なんなの!? あんな言い方ってない!」  激昂したあろえが、胸倉を掴まんばかりの勢いでメイジに詰め寄る。 「そうですか? 彼女が嘘つきなのは事実でしょう。あなたが教えてくれたことですよ。それ とも、わたしは間違ったことを言っていますか?」  淡々と告げられるメイジの言葉に、あろえは一瞬口をつぐむ。だが、それはあくまで一時の こと。 「でも、あれはないでしょ!」 「まあ、その言い分はよしとしましょうか。ですが、悪いのは先に嘘をついた彼女ではないん ですか?」 「……ああそうね。たしかに、身から出た錆かもしれない。だけど、それでも言っていいこと と悪いことがあるでしょ!!」  しばしの沈黙。ふたりは額を合わさんばかりの距離でにらみ合う。先に目を逸らしたのはメ イジだった。そっぽを向いて、これ見よがしに盛大なため息をついた。 「真面目に聞いて!」 「……真面目? わたしからすれば、あなたのその真面目ぶった態度が理解できませんね。は っきり言って、馬鹿らしいですよ」 「な、な、なにを……」  あろえの頬は見る間に紅潮し、肩がわなわなと震え出す。いつも肩に掛けている手提げかば んを胸の前で抱えこんでいるが、その両手もぶるぶる震えている。そしてついに、 「ばか――っ! ばかばかばか!」 叫びながら、ぽかぽかと両の拳をメイジに振り下ろす。慌てて距離を取ろうとするメイジだが、 あろえが詰め寄る勢いに負け、振り切れない。制止しようとするメイジの声も、頭に血が上っ てしまったあろえの耳には届かない。  たまりかねたメイジは、多少の力づくもやむなしと判断する。右手はポケットに忍ばせたも のを引き抜きつつ、左足を踏み込み、指を開いた左手の甲側をあろえの目を狙って鋭く打ち払 う。  日本の武道、少林寺拳法などで使われる「目打ち」。もちろん牽制のために放ったもので、 本気で当てるつもりはなかったのだが―― (躱された!?)  あろえは咄嗟に上体を後方に反らしていた。ぎりぎりのところで、メイジの左手が彼女の眼 前を通過する。このとき、あろえはまばたきをしていない。しっかりと対手の次の動きを視界 に捉えている。  それにメイジが気づいたときにはもう、あろえは後方に飛び退き距離を取っていた。両者再 びにらみ合う。真っ赤だったあろえの顔色は、今や青白い。だが、その眼に恐怖の色はない。  両膝を軽く曲げ、右足を前にした半身の体勢。両手は自然に下ろしていたが、張り詰めた気 配はいつでも攻撃に移れることを示す。メイジの右手の得物もすでに識別していた。 「金属製のボールペンとは、ずいぶん物騒ね」      ◆   ◇第18話「決別」  ボールペンも使い方次第で武器になる。「タクティカルペン」という護身具としてデザイン されたペンが存在するが、ただのペンでも使うことはできるし、それがメイジが握っている金 属製ともなればなおさらである。 「なんで、そんなものを持っているの?」  構えを解くことなく、あろえはメイジに問いかける。 「この国の子どもだって、防犯ブザーを持っているでしょう。それと同じことです。備えです よ、備え」 「……絶対違うと思う。それを、わたしに使うつもりだった?」  メイジは先に構えを解き、ボールペンをポケットに戻した。 「安心してください。使うわけないでしょう。目打ちでいったん動きを止めた後、これを突き 付けて制止する、そういうつもりだったんですよ。それに、そもそも目打ちも掠らせる程度で 放ったつもりですし」  すっ、とあろえが構えを解いた。半身から真っ直ぐにメイジのほうに向き直り、じっと彼女 を見つめる。 「ねえ、備えるのは別にいいと思うよ。けど、それは過剰じゃないかな。何が双葉さんをそこ までさせるの?」  メイジは少し考えると、淡々と答えた。 「『何が』という質問に答える気はありません。ただひとつ言えるのは、これでも備えとして は全然足りないということです。  もうこれ以上の説明はできません。この先は知らないほうがいい。あなたとも、これっきり にしてください」  そう言うと、メイジはあろえに背を向けた。沈黙。あろえが今どんな表情をしているか、知 りたいとも思わない。  うちに帰ろう。メイジはひとり歩き始めた。      ◆   ◇第19話「接触」  しばらく歩き続けて、メイジはいつも3人が別れる交差点を渡り、人通りの少ない住宅街に 入った。  突然、彼女の前に1人の男が立ちはだかる。すぐ先の曲がり角のところに潜んでいたのだろ うが、まるで風景から染み出してきたかのような出現であった。  しかし、メイジは動じない。待っていたとでも言いたげな表情で、じっと男の顔を見つめて いる。  眼前の男は日本人ではなかった。彼女と同様、ヨーロッパの人間だろう。年の頃は30代半ば から後半くらいであろうか。黒みがかった灰色の髪に、中背ながらがっしりした体格、およそ 温かさというものを感じさせない灰色の瞳で、メイジを見下ろしていた。  男が口を開く。発せられた言葉はブルガリア語だった。 『驚かないんだな』  メイジもブルガリア語で答える。 『こんなに、堂々と接触してくるとは、思わなかったがな』 『やはり、気づいていたか。それなら、話が早い。われわれとともに、来てもらおう』 『従うと、思うか?』  それを聞くと、男は左手で携帯電話を取り出した。右手は現れたときからずっと、コートの ポケットに突っ込んだままだ。中で握り込んでいるものくらい察しがつく。電話をかけている あいだも、狙いは少しも逸れない。  ニ言、三言話して、男は携帯電話をメイジに放って寄こした。出ろ、ということなのか? メイジは電話機を耳に当てた。  そして、そこから流れてきた声を聞いたとき、メイジの体がびくりと震えた。  その反応を見て、男は満足そうに笑みを浮かべる。メイジは通話の切れた電話を握り締め、 男をにらみつけた。 『オトモダチが呼んでいる。来るだろう?』 『友などでは……、ない』 『来ないのなら、もう1人。足りんのなら、いっしょに住んでいる、あの男も』 『やめろ!!』 『ならば、どうすればいいか、わかるだろう?』 『……わかった。行こう』  そのときだった。ハッと男の視線がメイジの背後に走った。 「ねえ、どうしたの?」      ◆   ◇第20話「僥倖」  思わずメイジも振り返っていた。するはずがないと思い込んでいたその声。  不安と不審が入り混じった表情で、森永あろえがそこに立っていた。 「な、なんで、森永さんが、ここに……?」 「いや、その、ああは言われたけど、やっぱり最後まできちんと話さなくちゃと思って、追い かけてきたんだけど……。あの、この人は……?」 「あ、あのですね、その……」  メイジはなんとか答えようとするが、予想外の出来事にうまく言葉が出て来ない。 『くっ』  焦れた様子で男が左手をメイジの肩に掛ける。その瞬間、反射的にあろえが叫んだ。 「誰か! 助けてください! 変質者――!!」 『なっ!?』  弾かれたように男が肩に掛けた手を引っ込める。その表情は完全にうろたえていた。じり、 と1歩退きつつ、男はメイジに叫んだ。 『その電話、持っていろ! 追って、指示を出す! おかしな真似は、するなよ!』  そして、身を翻すや否や駆け出し、あっという間に姿を消していた。 「双葉さん、大丈夫!?」  心配するあろえを置いて、メイジは走り出していた。 「ちょっ、ちょっと待って!」  慌ててあろえも、その後を追う。  先ほどのめぐみ同様、荷物の重さを忘れ、2人の少女は全力疾走をしていた。      ◆   ◇第21話「別離」  全速力で帰宅したメイジは、ばたばたと慌ただしく部屋に飛び込む。乱暴にランドセルその 他の荷物を放り出すと、部屋の隅に置いてあったトラベルバッグを引っ張り出す。  そのただ事ではない様子に、カロヤンはメイジに向かって鳴き続け、しきりにケージを前足 で引っ掻いた。  しかし今のメイジにはそれに構う余裕はない。どうにかついて来れたあろえが、おずおずと 部屋に入ってきたことにも触れない。  トラベルバッグを開け、この国に来たときの服、すなわちかつて“仕事”の時に来ていた服 を取り出した。着替え終わると、今度はバッグから、M1911、予備のマガジン、ホルスターを 取り出し、身につける。そしてその上から、これも“仕事着”の黒いロングコートを羽織り、 装備を隠す。  それからさらに、手袋とイヤープラグ(耳栓)を取り出し、これはコートのポケットに入れ た。  ここで、一連の行動を呆然として見ていたあろえが、ようやく言葉を発した。 「いったい、どういうこと? 何をしようというの? 双葉さんって何者なの?」 「これ以上知らないほうがいいと、さっき言ったでしょう。だから、これっきりにしたかった」 「だけど!」 「待って!」  灰色の髪の男が残していった携帯電話が鳴り出した。素早く取ったメイジは、あろえにはわ らない言語で話し始める。  話しながら、ポケットサイズの地図を手に取り、これもコートのポケットに突っ込む。そし て机に向かうと、紙に何事か書きつけていた。  その会話が終わり、電話が切られるのと同時にあろえがメイジに詰め寄った。目が据わって いる。 「どういうこと? 説明して。でないと、銃刀法違反で通報する」  露骨に渋い表情を浮かべ、メイジは答えた。 「雪印さんを人質に取られました。わたしは行かねばなりません」 「えっ、人質?……それってまさか、誘拐されたってこと!?」 「そうです」 「で、でも本当に?」 「この電話で声を聞かされました。間違いありません」 「そんな……。あっ、じゃあ警察に」 「無駄です。それにもう時間がありません。時間内に着かねば、雪印さんの身が危ない」  きっぱりと言い切られ、あろえは下唇を噛んだ。 「通してください。時間があまりないので」  脇を通り抜けようとするメイジの手首を、あろえが掴んだ。 「待って。わたしに手伝えることはないの? わたしだって……」  言うなり、肩い掛けていたかばんからハードカバーの本を取り出すと、表紙を固定するベル トのダイヤル錠を外そうとする。メイジはそれを押し止めて言った。 「ありません。あなたは素人ではないようだけど、プロでもないでしょう。足手まといです」 「そんな……」 「ああ、そうだ。それなら、これだけ教えてください。指示された場所への行き方を知りたい のですが」  そう言って、メイジは電話で告げられた住所を伝える。 「えっと、それなら……」  行き方を教わったメイジは、真っ直ぐあろえに向き合った。 「森永さん、最後になってしまいましたが、ありがとうございました。もし、さっき声を上げ てくれなかったら、あのまま連れていかれてました。おかげでこれを」  ぽんぽんと、メイジは右腰に下げた銃をコートの上から軽く叩いてみせる。 「準備する時間を稼げました。雪印さんはわたしが助けます。あなたは今日のことを、見なか ったことにしてください」  礼を言い終えると、メイジはあろえを部屋から押し出す。あろえの声は聞かない。途中、ケ ージの中のカロヤンに、 「カロヤン! としあきと仲良くしてね!」 と言葉をかけ、あろえを連れて外へ出た。玄関に施錠すると、 「では、わたしは行きます。短い間でしたが、お世話になりました。雪印さんとは仲良くして ください。さようなら」  一方的に別れを告げ、メイジは走り去る。  あろえには引き留める間もなかった。家の中ではカロヤンが、メイジの出ていった方をじっ と見つめている。机の上には、置手紙。   “おせわになりました ありがとう さようなら  Mayzie”                                (第3部に続く)