「…………」 「…………」  目の前にあるのは、お湯を入れたカップ麺、所謂貧者の晩餐が二つ。  その向こうには、傍らに置かれた砂時計を凝視する、真剣な面持ちのメイジ。  ひっくり返された砂時計の中、さらさらと落ちてゆくピンクの砂が時間の経過を告げている。  お湯を注いで三分間。  じっと我慢の子であった。  …アレはレトルトカレーだけど。  しかし、二人してテーブルを挟み、カップ麺を凝視するというのは一種異様な光景かもしれない。  何よりも、この『間』がたまらなく不安になる。 「……ごめんね、今日はこんなものしかなくて」  その沈黙に耐え切れず、俺はメイジに語りかけた。  とにかく、何でもいい。  会話の糸口が欲しかった。  それに、この子とはまだほとんど言葉を交わしていない。  今後一緒に暮らすことになるんだから、少しは良い関係を築きたい。 「いえ、突然押しかけたのは私のほうですから」  だが、メイジは砂時計から目を逸らさず、素っ気無い答えを返す。  どうも、この子は歳の割に落ち着きすぎている気がする。  俺が十歳くらいの頃は、もっとやんちゃで落ち着きがなかったように思うのだが。 「明日からは色々作るよ。買出しにも行って…さ」  実のところ、買出しに行く時間がなかったわけではない。  メイジが風呂に入ってる間に、彼女用のパンツを買いに出るくらいの余裕はあった。  問題は、時間よりも心の余裕が無かったことだ。  俺はあのとき、あのトラベルバッグの中身を見てすっかり気が動転してしまっていた。  日本の平凡な若者が、大量の怪しい粉と実弾の装填された拳銃を見て、平静で居られる方がおかしい…と思う。  それに、あの荷物では入管を通っていないことはまず間違いないだろう。  他のポケットも覗いたが、パスポートはおろか身分証明書の類は一切入っていなかったし。  …いや、今はそんな事を気にしている場合じゃない。  今、この子が頼れるのは自分だけなのだから。 「………トシアキ」 「へ?」  あれこれ考えていたところへメイジから声をかけられ、思わず間抜けな声が出た。  ふと見ると、メイジの視線の先には砂が落ちきった砂時計。 「ああ、よし、食べようか」 「…はい」  俺が蓋を剥がしてやると、メイジは割り箸を割って中の麺を軽くかき回した。  どうやら、箸の使い方はバッチリなようだ。  メイジは麺がほぐれた事を確認すると、ラーメンを啜りだした。  日本人がそうするように、ズルズルと音を立てて。  どこか食べ慣れたようなその所作は、少し意外だった。 「えーっと、ラーメンとかは食べたことあるの?」  思わず、質問が口をついて出た。  メイジはそれに答えようとしたのか、軽く口を開きかけ、吸い込んだ蒸気で軽くむせた。  そんな仕草が、妙に可愛い。  こほん、と咳払いを一つ。  心なしか、頬が赤い。 「ブルガリアには中華料理店が多いんです。らーめんとか『チャオツ』とか『シウマーイ』とか、軽いものなら…」 「へぇ…そうなんだ」  ラーメンに餃子に焼売……日本人に馴染み深いメニューが多いあたりは親戚夫婦の影響だろうか。  ラーメンの食べっぷりを見るに、中華は結構好きなようだ。  今度、何か食べさせてあげよう。  …もっとも、俺の懐事情では、チルド品か冷凍食品が関の山だけど。 「日本食とかは何か好きなものある?」 「えーと……『おそば』とか『てんぷら』とか、あと『カレーライス』とか…」  そういえば、カレーをご飯にかけるのは日本特有の食べ方だと聞いたことがある。  また、一緒に作ってみるのもいいかもしれない。  そんな、これからのメイジとの生活に思いを馳せながら、俺もラーメンを啜る―― 「…………」 「…………」  二倍量の特大ラーメンを食べるのには、結構時間がかかる。  メイジはよほど空腹だったのか、今の所食べ残すような気配は見られない。  彼女には少し大きすぎるかとも思ったが、それは杞憂だったようだ。  ただ、こうして会話が途切れがちになるのが欠点だった。 「テレビでも、つけようか」  ラーメンを啜る音だけが部屋に響く状況に耐えかね、俺はリモコンを操作した。  丁度やっていたニュース番組を、しばし聞いてみる。  子供の巻き込まれる事故や公務員の猥褻行為など、嫌な事件ばかりが流れ出す。  今の世情とはそんなものなのだろう。  そんな事を考えながらなおも聞き続けていたその時。 『それでは、次のニュースです』  キャスターがそう言って報じ始めたそのニュースに、思わず俺は振り向いていた。  内容は以下のようなものだ。  とある海岸で、国籍不明の小型潜水艇が座礁しているのが発見された。  内部に乗組員は乗っておらず、無人。  警察は、自衛隊と共同で周辺の捜索を行っている――  そして、コメンテーターが某国の工作員だのなんだのとコメントし始める。  その辺はどうでもよかった。  問題は、潜水艇が座礁したというのが俺の住んでいるこの街の海岸であること。  俺は思わず、メイジの方を振り返った。 「…………」  メイジは箸を止め、何処か不安の混じったような面持ちで俺の方を眺めている。  …彼女の荷物から察するに、おそらくメイジがその『乗組員』なのだろう。 「トシアキ……私の荷物、見ましたよね…?」 「え…っ!?」  意を決したように開かれた彼女の口から、思わぬ言葉が発せられた。  いじった中身は慎重に元に戻したはずなのに――何故ばれたのだろう。 「私が閉めた時とはファスナーのスライダーの位置が変わっていますから…」  盲点だった。  まるでどこぞのエージェントのような判断基準だ。  …いや、実際エージェントなのかもしれないけれど。  ただ、気になったのは彼女の口調。  中身を見た俺を責めるというよりも、見てしまった俺を恐れているような、そんな口ぶり。  俺が警察に突き出すとでも思っているのだろうか。  だとしたら、大きな間違いだ。 「……見たよ」  俺の答えに、メイジの肩が小さく震えたのが見えた。  大人びて見えたメイジが、今は本当に頼りない、歳相応の子供に見えて―― 「確かに見たけど、色々と事情があるんでしょ?」  俺のその問いに、メイジは小さく頷いた。 「なら、俺は詳しくは聞かないよ。過去を知る事がいい事ばかりだとも思わないし、それに…」 「それに…?」  不安を露わに、俺を見上げるメイジ。  そんな彼女に向かって、俺は微笑んだ。 「俺を頼って来てくれたんでしょ?一人で生きていけるなら、キミはとっくにそうしてる……違うかな?」  その言葉に、メイジは俯いた。 「……トシアキは、優しいんですね」  神妙な面持ちのままで、メイジはぽつりと呟く。  少し、体が痒くなるような気分だった。 「そんな事無いよ。子供を守り、養育するのは大人の務めだからね」  メイジが一瞬『子供扱いするな』と言いたげな目で俺を見たが、すぐに俯いた。  この状況こそが、彼女を子供だと証明しているようなものなのだから。 「さて…つまらない話はこの辺にして、少し早いけど食べ終わったら今日はもう寝ようか」  こんな話ばかりしていても前には進めない。  重要なのは、『今』と『これから』だ。 「あ、あのっ、でも私、言っておかないといけないことが――」 「それは明日聞くよ。今日はしっかり食べてゆっくり休んだ方がいい」  俺が一方的に押し切ると、メイジは口を噤み、再びラーメンを啜り始めた。  これでいい。  俺はこの子を養い、共に暮らしていく事だけを考えればいい。  重すぎる過去なんて、きっとその妨げにしかならないのだから。  再び口にしたラーメンは、少しのびかけてぬるくなっていた。