「えーっと…」  見つめる先、机の向こうに座るのは、十歳そこらの少女。  薄い金髪の髪、少々薄汚れた仕立てのいい服。  子供とは思えないほどに大人しく、落ち着いた雰囲気。  そしてその赤い双眸が、じっとこちらを見つめ返している。   突然押しかけてきたこの少女に、俺は混乱していた。  彼女が携えていたのは、大きなトラベルバッグ。  そして、キリル文字――所謂ロシアン・アルファベットがびっしりとしたためられた一通の手紙。  辞書を引き、様々な翻訳サイトで翻訳にかけ、おおよその内容は理解できた。  ブルガリアに住んでいた親戚夫婦が急死した事。  この子には他に身寄りがない事。  俺が一度だけ送ったエアメール、その住所を頼りにここまでやって来た事。  おそらく、手紙は親戚夫婦と親交の深かった現地の人が書いたのだろう。 「えーと…」  さっきからこの言葉しか出てこない気がする。  何から話したものだろうか。  流石に、「両親を失い、外国から自分を頼って来日した少女との会話ハウツー」なんてものはネットにも無い。  そもそも、言葉が通じているのかすら危うい。  …そう、とりあえずは、そこだ。 「…言葉は、わかるかな?」  出来るだけ穏やかに、不信感を与えないようにしながら、尋ねる。 「…………」  俺のその問いに彼女は、こくり、と頷いた。  その答えに、俺は心底ホッとしていた。  とりあえず、意思の疎通には困らなくて済むようだ。 「えー、それじゃあ、名前、教えてくれるかな?…俺はとしあき。キミは?」 「――――」  少女が、なにやら呟くように言葉を発した。  ブルガリア語だろうか。  その独特の発音は、外国語に疎い俺には聞き取れない。 「えー、と、ゴメン、ちょっと書いてみてくれるかな?」  仕方なく、俺は紙とボールペンを差し出す。  少女は何かさらさらと紙にしたため、俺に寄越した。  そこに書かれていたのは、やはりというか何と言うか――キリル文字の羅列。  文字がわかっても、発音がわからなければ意味がない。 「何度もゴメンね。その、日本語が書けるなら日本語で書いてくれるかな…?」  出来るだけ笑顔を絶やさないようにしながら、再び紙とペンを差し出す。  …迷子センターの係員の心境が、少しわかる気がする。  少女は再び頷くと、今度はたどたどしい手つきで紙にペンを這わせた。  日本語は理解できても、文字はあまり慣れてないのかも知れない。  アメリカなんかでは「英語を話せても読み書きが出来ない」という人も多いらしいから、不思議ではないけれど。 「……トシアキ」  そんな思索にふける俺の目の前に、再び紙が差し出される。  名前を呼んでくれたところを見ると、どうやら覚えてくれたらしい。  そんな些細な事に小さな喜びを覚えながら、俺は紙に目を落とした。 「……えーっと、何この…何?」  そこに書かれていたのは、文字、と呼ぶには難しい代物だった。  はたしてコレは、平仮名なのか、カタカナなのか、はたまた漢字なのか――  まるで象形文字のような、ミミズがのたくった跡の様な、難解な「ニホンゴ」が紙の上でとぐろを巻いている。  だが、よくよく見ると何かそれらしい物を書こうとしたのはわかる。  かろうじて形になっていそうな物を拾いつなげてみる事にした。  読み取れたのは、カタカナで「メ」と「イ」と「ジ」… 「え、と…呼びにくいから、縮めて『メイジ』……で、いいかな?」  我ながら、かなり強引な方法だとは思った。 「…………」  俺のその問いに、少女は少し逡巡したようだった。  無理もない。  自分の名前が上手く呼ばれない、というのは決して気分の良い物ではないだろう。  だが―― 「トシアキが、いいなら……」  少女の答えは、意外にもYESだった。  こうして、俺とメイジの奇妙な同棲生活が始まった――