「自分で伝える? 私が代わってあげてもいいけど?」  カルテを書き終えた女医が、としあきの顔を覗き込む。  その柔らかな物腰は、医師と患者という関係にしては、少し親密なものだった。  「いえ、自分で言います」  「どちらも考えは変わらない?」  「はい」  「何度も呼びつけて、悪かったわね。ああ、もちろん公私混同の件は内緒よ?」  「嬉しかったんで、周りに言いふらすかも知れません」  としあきは意地悪く笑ったつもりだったが、皮肉は大して効果は無かったようだ。  望むところだ、と言い返され、逆に返答に窮している。  昔、近しい間柄ではあったが、今は歴然とした社会経験の差がふたりの間にはある。  最後の検診はこれまでとは違い、簡単な問診のみで終わり、としあきは椅子から立ち上がった。  待合室でうつむいていたメイジが、診察室から出てくるとしあきを見つけた。  急いでそばに駈け寄ろうとしていたが、ふと戸惑うように足を止め、躊躇している。  としあきは一人ではなく、傍らには女医を控えていた。  ふたりの距離は思いの外に近く、なにやら親しげに会話を交わしている。  女医の視線が、メイジの双眸を捉えた。女医は小さく目礼し、少し遅れてメイジは頭を下げた。  病院からの帰り道。あれからふたりはずっと、無言のまま肩を並べて歩いていたが、  不意にとしあきが口を開いた。告げる内容とは裏腹に、それは実に何気ない口調だった。  「メイジ、一緒にいられなくなった」  「何処かに入院するんですか? では、わたしも一緒に…」  「いや、そうじゃなくて。さっきの彼女と付き合うことにしたんだ」  すがるようなメイジの瞳を、としあきは冷然と受け流した。  メイジに視線で控えめに説明を要求され、事の次第をとしあきは話し出す。  隣に住んでいた幼馴染みのお姉さんが、  街の小さな高校から名門の医学部に進み、この街に帰ってきたという。  久しぶりに会い、メールのやり取りを続け、次第に親密な間柄になっていったそうだ。  何度も検診に病院を訪れたが、それは彼女に会う口実だったんだ、と、としあきは言った。  メイジが聞きたくもない話が、他でもないメイジの一番信頼している人物の口から告げられる。  「そう、ですか。わたしは、いつ頃まで お家に居ていいんですか」  それでも、としあきの服の裾を掴んで放さないメイジが、懇願するように顔を上げた。  「早いほうがいい。今日から部屋を別にしよう。彼女に失礼だからね」  「あの、わたしとの約束とか、覚えていますか…」  「やっぱり、彼女はお金と地位があるから」  「わかり、ました」  初めて、メイジがとしあきの家を訪れた日。  跡目争いに疲れ果て、日本に流れ着き、遠縁と知って頼ってきたその日から、  ふたりは寝室を隔てたことはなかったが、今日初めて、その空間は物理的に仕切られることとなった。  たった一枚の壁は、心の拒絶のようだった。  次の日の朝、としあきが起きだした頃、メイジの姿はなかった。  ふたりでお金を出し合って買った、コップや寝具などはそのままの形で放置されており、  トラベルバックとぬいぐるみだけが、メイジの部屋から無くなっていた。  ◆◆◆  終末である土曜日、としあきが学校から帰ってくると、  待ちかまえていたかのように、隣のお姉さんが家の窓から顔を出した。  としあきを見てにこやかに微笑み、慌てて家から飛び出してくる。  その無邪気な姿は、医師というイメージからはかけ離れたものだった。  「学校は終わり? あの彼女はどうしたの? いつも一緒なのに」  「別れました。もうこの家には居ません」  彼女には随分ひどい事を言いました、早く僕のことを嫌いになって、  忘れてくれれば良いんですけど、と、としあきは自嘲気味だった。  愚痴とも付かぬ与太話を聞かされた彼女は、嫌な顔ひとつしない。  「あの話、もう一度考えてみて? 私なら、割り切った大人のお付き合いができる自信があるよ」  「ありがとうございます。でも、遠慮しておきます。あんまり男の敵は増やしたくありません」  「一人以上とお付き合いできるほど、私は器用じゃないんだけどね。人肌は恋しくない?」  「残念ですが、僕は彼女と肌を重ねたことはないです」  「初めてでも構わないけど」  「魅力的な提案ですけど、お断りします。あと、ごめんなさい」  「敬語、なんだ」  としあきはそれには応えず、小さく一礼して踵を返してしまう。  取り残された彼女は、としあきが家に姿を消した後も玄関を見つめていたが、  やがて天を仰いで独白した。  「カッコつけたのが、敗因なのかな?」  小さい頃は、距離は無かった。歳は少し離れていたが、それでも自分はその点を意識したことはない。  小学校を終わる辺りからふたりの仲は疎遠になり、とうとう自分だけが大人になってしまった。  そして、恐らく彼は大人にはなれないのだ。  「医者になんか、ならなきゃ良かった」  ◆◆◆  一ヶ月経ち、半年が過ぎた。  としあきの前から姿を消し、一度祖国に戻っていたメイジが、再び日本を訪れていた。  彼女は今、跡目争いからあぶれた逃亡者ではなく、  正式にブルガリスの家督を継いだ、れっきとした姫君だった。  当初、脱落者の帰還に、周囲の諸侯や先代すらも良い顔をしなかったが、  メイジはそのような視線を一切気にすることはなく、積極的に活動した。  貴族院の政治的な矛盾点を改め、腐敗した世襲制度を撤廃し、  外事にも取り組んで実績を積み、内部での発言権を強め、ついに実権を掌握したのだ。  ブルガリス家を含め、諸卿は皆メイジにひれ伏すまでになった。  そして、公家を手中に収めたメイジが元老院に突きつけたのは、  民間人から婿を取りたい、という内容の書状だった。  血筋の結びつきにより、公家の地盤を揺るぎないものにしようとする  老人達の発言はもっともであったが、メイジの抗弁はことのほかに強硬で、  実力者の機嫌を損ねることを恐れた元老院は、遂に折れることになる。  メイジは祖国で望みうる権利の全てを手に入れた。  今、メイジは単身日本の土を踏んでいる。  通い慣れた道を歩き、いつもの曲がり角を曲がる。  この先の家。そこに居るはずの、最後のひとつを取り戻さねばならない。  久しぶりに訪れた、まるで代わり映えのない住居。  半年を経て、自分の立場はあの時とは違い、自分の想いはあの時と同じだ。  正式な手続きを踏んで、内縁の賓客として遇したい宗を伝えればよい。  そうなってしまえば、後はどうにでもできる。事実上、自分に逆らうものなど誰も居ないのだ…。  メイジは緊張した面持ちで何度か呼び鈴を鳴らしたが、  休日の筈の住居からは返答はなく、長い間待ちこがれた人は出てこない。  根気よく待ち続け、もう一度呼び鈴を鳴らそうか、と思い立ったとき、  「あら、彼女さんじゃない」  思わぬ角度から、女性の声が聞こえてきた。  道路から覗き込むようにして、メイジを見ている女は、間違いなく、  メイジから、としあきを奪った女だった。  端正な顔とその肢体で、かけがえのない人を虜にした女。  今、メイジにとって不必要なもの、その全てが手中にある。金と権力と地位。  そんなものが欲しくて、今日まで生きて来た訳ではない。替えの効かない唯一を  かすめとった女に、メイジはむしろ挑むようだった。  「お願いがあります、としあきと一度、話がしたいんです。会わせて下さい」  「…何も聞いてないんだ」  女が放った言葉は、直接的にはメイジの質問には答えていない。  メイジは語気を強め、自分の頭よりずっと高い位置にある女の目を睨み付けた。  「もう一度言います、としあきは何処ですか」  「ふふ、会わせてあげられないよ」    女は薄く笑い、メイジから視線を外す。  馬鹿にされた、とメイジは感じた。それに、自分が知らない何かを、この女は知っている。  メイジの血液が逆流し、全身に危険な感情がみなぎった。  本気など必要ない。軽く手首を翻しただけで、メイジは目の前の女をくびり殺すことができる。  不快な声しか発さない、その細首をへし折ることなど、自分にとって造作もない──  「彼、先月亡くなったの」  意外な声が、メイジの脳裏に響いた。なくなったとは、どういう意味か。  紛失したという以外に、何か取り返しの付かない意味があった気がする。  「ああ、死んでしまったの。ちょっと進行しすぎてて、手遅れだったんだ」  硬直しているメイジをみて、彼女はそう付け加えた。  としあきは、現代医学でも困難な難病に蝕まれていたと、さらに彼女は補足した。  数多くの専門医に病状の見解を求めたが、いずれもがわずかな延命しか望めない、というものだった。  莫大な手術費用を捻出するのは親に迷惑がかかる、と、としあきは紹介状も拒否したそうだ。  「彼女さんが居ない間に、最後の時間だけでも、私とお付き合いして、   って頼んだんだけど。でも拒否されちゃった」  彼女には全く悪びれた様子がなく、事実を述べているだけのようだ。  毒気が抜けてしまったのか、メイジは置物のように動かない。  「私は、初恋だった。すごく遠回りした挙げ句、結局つかめなかったけど」   あなたはどう? 良かったら教えて」  メイジの瞳の小さな光が、やがて焦点を結んだ。  急に体調をくずしがちになり、数々の誓いを反故にして、前触れ無くメイジを追い出したとしあき。  思考が点が線を結び、ひとつの形ができあがる。少し時間をおいて、メイジは理解した。  「わたしは、わたしは…」  誰にうったえる風でもなく、メイジは独り言のようにつぶやいた。  「多くを貰いましたし、何もかもが初めてでした。きっと恋だった、と思います」  「私これから暇なんだ。一緒にお墓参りする?」  メイジの前にしゃがみ込んだ彼女が、そっと小さな手をとる。  ふたつ目の想いが、永遠に断ち切られた。  双葉としあき、享年17歳。