『海に会う』    ○序章  この街は港町である。古くからあるものと、近代の開港以来流れ込んだものとが混在し、 独特の風景や雰囲気を形作っている。  街の住人と共にこの地で暮らすことを始めた異国の少女は、ここで何を知り、何を思うの だろうか。    ○第一章       <1>  まだ昼間は暑さの残る、よく晴れた9月の終わり。その部屋には何となく気だるい昼前の ひと時を、思い思いに暇を潰している2人の住人の姿があった。  部屋の主、としあきは机の前に座ってパソコンを立ち上げネットをしていた。もう1人の 住人は少し離れてベッドの上にいた。  その同居人とは、ブルガリアからやって来た彼の遠い親戚、緩やかに波打つ金色の長い髪 と赤い瞳を持つ10歳の少女、メイジ。彼女はベッドに寝転がってとしあきの漫画を読んでい た。傍らにはこれから読むつもりの漫画本が積まれていて、どうやら今日はそうして過ごそ うというようだ。  そんな彼女の様子をちらっと見て、そろそろ昼食のことを考えようかと、としあきが思っ たその時だった。玄関のチャイムが鳴った。ドアを叩く音もする。さては、と来訪者に見当 をつけつつ、としあきは玄関に向かった。 「遅ーい。もう、早く開けてよ」  やっぱりそうだった。やって来たのは亜希だった。としあきの幼馴染で、メイジとも仲の 良い2人の共通の友人だ。  肩の辺りで切り揃えられた真っ直ぐな黒髪。プラスチック製の細く黒いフルリムの眼鏡の 奥で、黒目勝ちな目を細め、白い歯を見せて悪戯っぽく笑っている。 「いやー、なんか暇しちゃってさあ。あ、お邪魔しまーす」  言いながら、さっさと上がり込む。としあきも何も言わない。付き合いが長いから、こう した不意の訪問も遠慮のない振る舞いも、もう慣れっこなのだ。 「メイジちゃん、こんにちは」  布団の上で弾かれたように上体を起こしながら、あまりお行儀の良くない姿だがメイジも 挨拶を返す。 「亜希さん、こんにちは」  挨拶を済ますと、亜希はぐるりと部屋を見回す。 「ふーん、2人とも暇してたって感じだね」  つぶやきつつ、視線はメイジの座るベッドに落としていた。 「メイジちゃんは漫画か……あ、そうだ」  彼女は何を思いついたのだろうと、としあきとメイジは亜希を見つめ、続く言葉を待つ。 「本屋、ねっ、本屋さん行こう、本屋さん」  言うなり、がばっとメイジの眼前にしゃがみこむ。 「そうしようよ、好きな本屋さんがあるんだけど、そこで本を探してみない?」 「普通の本、ですか? わたしは少しは日本語を読めますけど、あまり長いのや複雑なのは 難しいですよ」 「大丈夫。その本屋さんはね、絵本や児童書にも力を入れてるの。きっとメイジちゃんにも 読みやすくて気に入る本があるよ」 「本当ですか?」 「本当。あたしが保証する。ね、決まり。本屋さんに行こう!」  こうして、あれよあれよという間に、本屋へ行くことが決まったのだった。       <2>  話が決まると3人は早々に部屋を出て、最寄りの駅に向かった。  道すがら、みな昼食がまだだったのでどこかで食べようという話になり、駅近くの店に寄 ってから電車に乗った。  この町で駅が近いのは私鉄と市営地下鉄だが、今回は私鉄を使う。とは言え私鉄も地下を 通っているので、地面より下に降りていくのは変わらない。上りの、市の中心に向かう切符 を買ってホームに降りると、5分ほど待っただけで列車が来たので早速乗り込んだ。  10分ほど乗っているともう目的の駅に着いた。市の中心の、一番大きい駅のひと駅手前で 降りる。そこから地上に上がる出口は東口と西口があるが、今回は東口を選んだ。実のとこ ろ西口の方が目的地寄りなのだが、そちらはすぐ前に場外馬券売場があるなどして少し雑然 としており、メイジがいるため2人ともそちらは止しておこうと思ったからだ。  東口から上がると、こちらは市の中心に近い分にぎやかで人通りが多い。3人ははぐれな いよう気をつけながら、人の流れに沿って歩き出す。  南に向かい、駅の前の横断歩道を渡って道沿いに真っ直ぐ進む。するとほどなく正面に、 大きな白い百貨店の建物が道の向こうに見えてくる。こちらからは筋向いになるその百貨店 の手前は三叉路になっており、ちょうど3本の道が交わる辺りに、商店街のアーケードの入 り口がある。  そこに建っているのは、深い海の色を思わせる濃紺を基調としたゲートだ。最上部の青い ガラスのアーチに赤、青、黄、緑と色とりどりのバラをかたどったステンドグラスが飾られ ている。 「メイジちゃん、ちょっと見てから行こっか」という亜希のすすめに、メイジはこくっとう なずいた。  しばしゲートを眺め、携帯で写真を撮ったりした後、いよいよ3人はゲートをくぐってア ーケードの中に入って行った。  赤いレンガを敷き詰めた通りを西に向かって進む。ゆるゆると10分ほど歩いた頃だった。 カスタムナイフも取り扱う刃物屋のすぐ先の建物の前で、としあきと亜希は足を止めた。  二人はそちらに向き直り、それからメイジの方を見る。亜希が満面の笑みを浮かべて言っ た。 「メイジちゃん、ここがわたしの好きな本屋さんだよ!」    ○第二章       <1>  亜希の言葉にメイジも2人と同じ方向を向く。そして亜希が好きだという店をじっくり観 察する。  灰色の建物は正面が石張りの2階建て。一抱えはある正方形のプレートが升目状に規則正 しくはめ込まれている。その1階左半分はガラス張りで、真ん中が両開きの自動ドア。2階 の左半分もガラス張りの窓になっており、1階2階の窓から本を探す客や働く店員の姿が見 える。  1階右端にも片開きの自動ドアがあるが、それよりも2つの出入り口の間を埋めるショー ウインドウの方が倍ほども大きい。中には船の絵が飾られていた。  ぱっと見た限りでは、商店街にあるにはそこそこ大きい、中型書店であると言える。ただ 外観の中で1か所、気になったところがあった。  2階左側のガラス張り、その右上の角のところに長方形の布が1枚張られている。その右 上から左下にかけてに、漢字と思われる文字が3文字斜めに並ぶ。また左上の角に描かれて いるのは魚の絵だ。あれは何なのだろう? 「ねえ、亜希さん、あの布は何ですか?」 「ああ、あれは大漁旗」 「たいりょうき?」 「そう。漁師さんが漁に出て、たくさん魚が獲れたら、あの旗を揚げて港に戻るの」 「……何でそんなものが本屋さんに?」 「うーん、そうだね……まあ、それは後のお楽しみ、ってことで。さっ、入ろう」  そう言って亜希はメイジを促し、3人は店に入った。  中に入ってメイジがすぐに感じたのは、静かな落ち着いた雰囲気だ。新しい建物ではない ようで、派手さはなく、あくまで“普通の書店”という感じだ。  入ってすぐ横、2つの出入り口の間にレジがあり、その向かいに立つ柱には今週のベスト セラーを知らせるボードが掛けられているが、そこには10冊の本の書名などが全て手書きで 書き込まれている。  売場は奥行きがあり、床面積は意外に広いようだ。本棚はたくさんあるが、壁際の棚は天 井まであっても、それ以外の棚はすべて大人の目より高くないため圧迫感がない。  耳に入ってくるのは、本のページをめくる音、本を棚から出し入れする音、客と店員の会 話といった程度のもので、有線放送やBGMの類が流れていないことに気づく。 そういうこと もあって「静かな落ち着いた雰囲気」が感じられるのだろう。  奥に進むうち、1階フロアの中央辺りにカウンターがあるのが見えた。客と店員が話をし ている様子も見える。そのカウンターの右手が、最初に向かう児童書コーナーであった。       <2>  目指していた児童書コーナーは、他のコーナーとは少し場所が違う。1階フロアは上から 見ると、平たくした凸の字を右に90度回したような形をしており、その頭の突き出た部分に 児童書コーナーがあてられているのだ。  2人を追い越して、メイジはそこに入っていった。表紙を見せて陳列された本も多いため、 綺麗な絵や可愛らしい絵など、たくさんの絵がこちらを向いている。表紙の著者名などを見 てみると、それらが片仮名で書かれた本も多く、国内外の作品が多様に並べられていること がメイジにも理解できた。  ひとまずぐるりと一回りすることにして、メイジはざっと全体を見渡す。ゆったりとした スペースに絵本や児童書が多数並べられている。  たとえばこのコーナーの手前、凸の字の頭の部分と下の部分との境目に沿って立つ、1本 の長方形の柱。その周囲は天井近くまである棚に囲まれているが、児童書コーナー側の長辺 部分のそれには、子どものための文庫と、古典・名作がぎっしり詰まっているのだ。  そんな様子を見ながら一回りし終え、さて、とメイジは考える。「本」というからには文 章を読む本だ。だからまず絵本は除外。児童書もあまり表紙が絵本っぽいのは気が進まない。 すると文庫本かと思うが、ではどれを選べばいいだろう。  文庫本を中心に見ていくと、表紙に漫画やアニメっぽいイラストを用いた作品が多いレー ベルがあった。ここから探してみよう。  何冊か手に取ってみると裏表紙にあらすじが書いてある。とりあえず目立つところに置い てあるものから頑張って読んでみることにした。 「メイジちゃん、いいのあった?」しばらくして亜希がやって来た。 「これにしてみようと思います」メイジは1冊の文庫本を差し出した。  それは小学校6年生の女の子が両親を事故で亡くし、旅館を経営する祖母に引き取られ、 若おかみとしての修行を始めるという物語だった。 「おおー、これかぁ。人気あるみたいだね。じゃあ、これ買おう。ねえ、としあき」  呼びつつ、亜希はとしあきの姿を探す。見れば、としあきは何かを読んでいて、亜希の声 に気づかないようだ。文庫本を持ったまま、亜希はとしあきに歩み寄る。 「としあき、聞いてる? メイジちゃん、これが欲しいって」 「あ、ああ、亜希か。何、それ買うの?」 「そうだよ。で、何を読んでるの」  亜希がとしあきの手元を覗き込むと、彼が読んでいたのは絵本だった。真っ黒に描かれた おおかみが、枯れ葉の散る遊園地にひとりぽっちで立ち尽くす絵があった。 「あっ、これ知ってる。としあきも読んでたの?」 「ああ。割と好きなんだけど、メイジはどう思うかなって」 「いいんじゃない。好きなんでしょ、読ませてあげなよ」  それでメイジに買う本は2冊になった。       <3>  メイジの本は決まったが、としあきと亜希も本を見たかったので、会計の前に1階フロア を回ることにして3人は歩き出した。  その時何気なくメイジが中央カウンターに目をやると、先ほどの客と店員はまだ話しこん でいた。何を話しているのだろうと見ていると、客の方と視線が合ってしまった。とっさに 彼女から口を開く。 「あ、あの、ここってどういう場所なんですか?」  客である初老の男性がにこやかに答えてくれた。 「ここはね、お客さんからの問い合わせに答えたり、案内をしてくれるところだよ」 「すみません、ご迷惑じゃなかったですか」  亜希が飛んできたが、 「いえいえ、本も見つかったし、ただ喋ってただけですから」  と気にしていないようだ。男性の言葉にメイジが重ねて尋ねる。 「本が見つかったって、ここで探せるんですか?」 「そうだよ。僕が探していた本はとてもマイナーでね。ここで聞いたら、出版した会社に電 話して探してもらえて、それでさっき、やっと見つかったんだよ」 「うわぁ、親切なんですね!」 「そう、すごく親切だよ。いい本屋だよ、ここは」  カウンターから客と同じくらいの年頃の男性が出てきてくれた。 「この店は初めてですか?」 「はい。本を買ってもらって、それからお店を案内してもらっています」 「そうですか。どうぞ、ゆっくり見ていってください」  この会話を聞いていた客の男性が口を開いた。 「じゃあ、僕も少し案内してあげようか」と言うと、カウンターの横に回って手招きをする。 追いかけたメイジが隣に立つと、目の前の棚を指して言った。 「この棚にはね、大手出版社ではない、地方の小さな出版社が出した本が並べてあるんだ。 こういうあまり知られていない本もたくさん扱うのが、この店の特徴で魅力なんだよ。  もちろんベストセラーも売るけど、それと同時にどんなにマイナーだろうとマニアックだ ろうと、とにかく『良い本を売る』っていう思いが伝わってくるのが、僕は好きなんだ」       <4>  色々話を聞かせてもらった礼を言い、3人は再び歩き出した。まずはとしあきの要望で、 カウンターの後ろ側一帯に設けられた人文書コーナーに入った。ここは1階フロアの奥三分 の一をほぼ占めており、哲学や思想、宗教や精神世界といった本が売られている。 「へー、難しい本も読むんだ。ちょっと見直した」と亜希が感心したのだが、としあきはあ っさり否定する。 「いや、別に何か読むわけでもないんだけど」 「じゃあ何で!?」思わず亜希は聞き返し、メイジも困惑の表情を浮かべている。 「う~ん、本当にたま~に、覗いてみたくなるんだよね。読まなくても、本を見ているのが 気持ちいいっていうか……」  そう言うととしあきはふらりと歩き出した。亜希とメイジもついて行く。  ただ、彼の言葉は漠然としているが、確かにこのコーナーは充実しており、中々見ること のない本がそこかしこに並べられている。なるほど、見応えのありそうな棚であった。 「じゃあ、つぎはあたしの番ね」  今度は亜希が見たいコーナーに向かう。目当ては中央カウンター手前、文庫本コーナーだ。 「ちょっと読んでみたいシリーズがあるんだ」  と言って彼女が手に取ったのは時代小説だった。天涯孤独になった大阪の少女が料理人に なり、江戸に出て、夢を実現させるべく困難を乗り越え成長していく物語だ。 「あれ、時代小説なんか読んでたっけ?」としあきが尋ねる。 「ううん。初めて。ちょっと面白そうと思って、読んでみようかなって」 「そっか。じゃあ、買うもの決まったらレジに行くか」  としあきの言葉で、3人はレジに並んだ。メイジの本は2人で出して買った。  会計を終えると亜希はメイジに言った。 「買い物は終わったけど、まだ見るところはあるからそっちも行こう。でも、その前に……」  そう言いながら、さっき受け取ったばかりの袋に手を入れる。 「後ででもいいんだけどさ、もう紹介したくなっちゃった。オリジナルのブックカバー」  袋から文庫本を出してメイジに見せる。紺色の地に白色で帆船が描かれ、その上下にも白 文字でローマ字表記の店名が配されている。 「これがいいんだよね。ああ、ここで買ったんだって実感する。素敵な、この店らしいデザ インだし。ちなみに文庫や新書は紺色だけど、単行本は白いカバーになるよ」 「何か賞をもらってなかったか」ととしあき。 「そうそう。ブックカバーのことを書皮というんだけど、デザインを認められて書皮大賞と いう賞を受賞したこともあるの」 「すごいカバーなんですね」 「すごいでしょ。それと、ここで本を買ったときのお楽しみがもう一つ」今度は袋から1枚 の紙を取り出した。 「本を買うと袋に入れてくれるフリーペーパー。さらにここから別冊のミニ雑誌が発行され たこともあるの。この店には色々と発信していく姿勢があって、だからこういうことでも楽 しませてくれるんだよね」 「はあ、何か、“思い”がすごいですね」 「お、メイジちゃんも分かってきたね。じゃあ、次はいよいよ2階に行ってみよう」    ○第三章       <1>  2階に通じる階段は、左の出入り口から真っ直ぐに少し進んだ場所にあり、1階フロア左 の壁際で奥向きに伸びている。右側には赤く塗った鉄製の手すり。左側の壁には額縁やポス ターが多数。  しかしそれよりもメイジの目を釘付けにしたものが踊り場の壁にあった。一面に張られた ポスター類の真ん中に飾られているのは、どう見ても「船の操舵輪」だ。  思わず近寄り、まじまじと見つめる。大きい。彼女の身長を超えるくらいの直径がある。 気がつくと手を伸ばしていた。中心部分がベルトで固定されており、回すことはできないが、 しっかりと作られているのが手から伝わってくる。本物だ。  それから壁の最上部に張られた布。外で見たものとはデザインが違うが、あれも大漁旗な のだろうか。 「ね、亜希さん、これ、船の舵ですよね」 「うん」 「布はあれも大漁旗ですか?」 「そうだよ。色んなデザインがあるからね」 「ブックカバーもそうですが、なんでこんなに船のことばっかりなんですか?」 「ふふ、2階に上がれば分かるよ」  そう言う亜希も、としあきも、 踊り場で左回りに180度向きを変えた階段をどんどん上が っていく。メイジもついて上っていくが、疑問は膨らむ。踊り場を境に左側に移った赤い手 すりの向こう側に見える、壁いっぱいの幅を持つ巨大な絵画や、その下に張られた作家や漫 画家などの色紙も気になったが、それどころではない。  そしてついに階段を上がりきった。亜希はメイジの疑問に答える。 「さあ着いた。ここがこの店の最大の特徴、海の本のコーナー!」 「海の本……」メイジは亜希の言葉をおうむ返しに呟く。 「ここがこの店の真骨頂だよなぁ」ととしあきも呟いていた。  位置としては2階の手前側、正面から見て左側の、ちょうどあの大漁旗の張られたガラス の辺りだ。階段を上がって正面のその一角が該当する。  2人はメイジと一緒に棚を巡り、並べられた本について説明をした。  ここで売られているのは「海事書」といって、簡単に言えば海に関することについて書か れた本であること。それはたとえば船や港など、海で働く人たちが必要とする知識や技術、 法令について書かれた専門書であったり、資格を取るための問題集や参考書、あるいは海に ついての読み物なども含む、といったことである。 「そうか、海の本を売っているから、船に関係するものが多いんですね」 「そういうこと。それにね、海に関するものは、本だけじゃないんだよ」  言いつつ亜希はコーナーを回り、海に関する様々な商品をメイジに示していく。  船や港を描いた絵葉書。船をデザインした付箋や定規、マグネットといった文具。国際信 号旗や船をデザインしたピンバッジ。  店内にディスプレイされてもいる船舶のペーパークラフト。キャップやTシャツといった 服飾やエコバック。中には階級章なんてものも売っている。  面白いのは、廃盤海図をリサイクルしたレターセットやメッセージカードだ。  とにかく海に関する商品が豊富に販売されている。それにしても…… 「なんで、こんなに海の本や物に力を入れているんですか?」メイジは亜希に問う。 「それはね、ここの会社が海事書の出版社で、この店も元は海事書専門書店だったからだよ」  つまり、元々は専門書店であったのが、後に一般書籍も販売するようになったのだ。  亜希の説明にとしあきが補足する。 「だから、ここは海事書の品揃えは日本一を誇っているんだ」 「日本一ですか……」  その言葉にメイジも感心を隠せないようだった。       <2>  海の本のコーナーを堪能した後、としあきは隣のコーナーを指して言った。 「海のコーナーもいいけど、あっちもいいんだ」  そう言ってとしあきは歩き出した。向かったのは位置としては外から見たとき2階の右側、 窓のない壁の部分にあたる。正面右隅の二面に置かれた天井まである棚を含め、四方がほぼ 全て棚に囲まれており、その一角の出入り口にあたる場所には、階段脇の2階レジとはまた 別にレジがある。 「ここは4店の古書店が集まって古書を売る、古本屋さんのコーナー。新刊書店で古本も探 せるのがいいんだよな。本を探す楽しみが増える」ととしあき。 「ああ、いいよねぇ」と亜希。  2人とも古本を物色しだした。メイジも試しに1冊、棚から文庫本を抜き出してみる。  焼けて、セピア色に変色したページ。チョコレートのような、バニラのような甘い匂い。 何度も繰られたのであろう、新刊本にはない柔らかさ。  ここにあるのは本だけではない、積み重なった“時間”が並んでいる――それがメイジの 感じたことだった。  ふと見ると、としあきが1冊の文庫本を持ってレジに向かっていた。会計を終えた彼に亜 希が尋ねた。 「何を買ったの?」 「小説。前から興味があったのがあったから」 「どんな話?」 「マフィアの血を輸血された男が暴れまくる話」 「……へー」  亜希は興味が持てなさそうだったが、お目当ての本を買えたとしあきはご機嫌だ。そんな 彼にメイジが話しかける。 「としあき、楽しそう」 「うん、おれもこの店好きだけどさ、この2階が一番好きだな。海のコーナーも古本屋も、 理工書や美術書とかも、好きなのや見たいのが全部あるから」 「としあきもこのお店が好きなんですか? 亜希さんも好きだと言ってましたが」 「ああ、好きだね。それにこの街に住んでて本が好きなら、ここを知らないって人の方が少 ないんじゃないか」 「有名なんですか?」 「まあね。老舗で、創業から100年くらいあるし」 「はー、 100年……」  海事書の品揃えだけでなく、店の歴史にもメイジは感心してしまった。       <3>  古本コーナーでの買い物を終えたところで今度は亜希が誘う。 「メイジちゃんに、ギャラリーのことも教えといてあげないとね」 「ギャラリー?」 「そう。1階はもっと広いけど、このフロアはその半分くらいしかないでしょ。まだ奥にス ペースが残っているんだけど、そこがギャラリーになっているの」  そう言って古本屋のコーナーから奥側に向かう。手前から語学やコンピュータ関連の棚が 並べられ、一番奥の壁際にあるのが美術書の棚なのだが、その右端、棚と2階奥の右隅との 間に1枚のドアがある。 「ここがギャラリーなんですか?」メイジの言葉に亜希が答える。 「うん、この向こうにギャラリーがあるんだけど、今はイベントはなくてね」 「イベントをやるんですか?」 「そう。絵の展示が中心なのは当たり前だけど、トークイベントとかサイン会とか、美術品 の展示以外のこともここでするね」 「へえ、本当に色んなことをする本屋さんですねぇ」 「あ、おれ、ここでやった古本市に来たことある」としあきも2人の会話に混ざる。 「そうだ、古本市もあるね」と亜希。 「ところで、今度はどんなイベントをやるんですか?」  わくわくした表情で尋ねるメイジに、亜希も期待に満ちた笑顔で答える。 「ふふふー、切り絵だよ。もう亡くなられた方なんだけど、この街出身の作家さんでね、去 年も同じくらいの時期にやってたんだけど、今年もやるみたい」 「去年も見たんですか?」 「うん。去年の展示だと、この街の古い風景を切り絵にしていてね。白と黒の2色だけなん だけど、どっちかっていうと黒の方が多くて、ぱっと見て明るい感じじゃないんだよ。  だけどすっごく細かくて、何て言うかな、重厚だけど繊細って感じで、どこかほっとする ような、あったかい感じがするんだよね。そういうとこが素敵だなぁって思ったよ」 「おおー、見たくなりますね」 「あ、作品集買ってるから、今度見せようか?」 「見たいです!」 「オッケー。じゃあ、今度持ってくるね。それと、次はイベントに合わせて来よう」 「はい!」    ○終章  1階から2階まで隈なく回り、本を見て買いもし、店を出た時にはもう夕方といってもい いような時刻になっていた。  としあきと亜希はこれからどうするかを喋っている。 「どうする? どっかでお茶して帰ろうか」と亜希。 「そうだなぁ、まだ暗くならないし、商店街を端まで歩きたいかな。映画館チェックしたり、 古本屋覗いたり……」ととしあき。 「じゃあさ、そっから思い切って海まで行くのもいいかもね」  亜希の思いつきに、としあきも乗り気になる。 「いいな、それ。そうするか」  亜希はメイジを気遣い、顔を覗き込むように声を掛ける。 「メイジちゃん、疲れてない? 海を見に行こうかって話になってるけど、まだ歩けそう?」 「平気ですよ。海ですか、いいですね」 「そう? でも疲れたらすぐ言うんだよ。それじゃあ、行こっか」  歩き出す前に、メイジは振り返ってもう一度店を見てみた。“海の本屋”、港町にふさわ しいな、と思う。  不意に彼女は初めてこの街に着いた日のことを思い出した。確かその日の夜だった、どこ からか響く汽笛を遠くに聞いたのは。  早朝や深夜に、静かならば真昼でも汽笛が聞こえてくる海辺の街。  この街によく似合う、良い本屋だった。改めてそう思い、メイジは2人と共に歩き出した。                                     (了) ----------------------------------------------------------------------------------    あとがき  ここに出てくる書店はかつて実在した店です。  2013年9月30日に、100周年を目前にして閉店してしまったその店を思い出して書き始め、 閉店から1年後の日に投下するつもりだったのが、結局10月になってしまいました。  そういうわけなので、この話は、個人的な惜別と未練でできていると言ってもいいと思い ます。  同時に「こんな本屋があったんだけどね」という独り言のようなものでもあります。  こう書くと少々鬱陶しい話かもしれませんが、どこかで自分の気持ちを外に出したくて、 今回「ブルふた」という場をお借りし、こうしてSSとして投下した次第です。  正直にいうと、楽しんでもらおうという気持ちに欠けるところもあるなと思うのですが、 読んでもらえたら嬉しいです。        *  暗い話は止めにして、少し内容についても。  主要な舞台となる書店についてですが、今回書いたことは、この店の特徴や魅力のうち、 自分にとって思い入れのあることに絞って書いています。これは全部のことを書こうとする と、話としてまとまりが悪くなりそうに思えたからです。  そのため彼の店をよく知る方には、内容に不足・不満のあるものではないかと思うのです が、その点はどうかお許しください。  それから店内の描写については、記憶だけでなく、自分で撮影した写真、販売された写真 集や絵図、ネット上の記述や写真をできるだけ調べて書いていますが、もし間違っている点 などありましたら、どうぞBBSなどで指摘してください。  実在した書店を書くことから、この話は実在の街を舞台にしています。また作中には実在 の人物をモデルにした登場人物もいます。  実在するものを書く以上、ネットの片隅であっても権利などは無視してはいけないと思い、 そのためこの話に固有名詞は出していません。  3人の選んだ本についても触れておきます。 ・メイジの選んだ文庫本  何がいいかと考えたのですが、手に取りやすそうなことと、「女将明治」関連という「ブ  ルふた」との関係から決めました。 ・としあきが買ってあげた絵本  1冊くらいは郷土出身作家の本を、と思って選んだものです。作品自体も好きなので、と  しあきのセリフは自分自身のものでもあります。 ・亜希の買ったシリーズ  実はこのSSを書くきっかけです。第9巻に閉店について触れている場面があり、その影響  で今回書き始めました。他にとある漫画でも閉店がネタになっています。男の娘と駄菓子  屋の4コマです(掲載誌が休刊になったとか……)。  奇しくもメイジの選んだ本と似ているところがあるなあ、と今気づきました。 ・としあきの買った古本  実体験が元ネタです。絵本についての中でも少し触れていますが、この話におけるとしあ  きの言動はほぼ自分自身のものです。  あと細かいことを書きますと、中央カウンターの会話シーンで応対する店員さんですが、 当初は店長さんにしようかと考え、作中で明言することも考えたのですが、ちゃんと人物を 書けるか不安になったため、年恰好だけ似せてごまかしています。  作中に登場するフリーペーパーですが、この話のタイトルはこれに由来します。名前がほ ぼ同じです。また別冊のミニ雑誌ですが、休刊していたのが閉店を機に復刊、これを書いて いる間に最新号(16号)が発売されていました。  店内に飾られている舵や大漁旗ですが、何でも廃船からもらい受けたものだそうです。つ まり歴とした本物(今頃どこにあるんでしょうか)。  ギャラリーのところで出てきた切り絵作家のイベントは、このギャラリーで行われた最後 のイベントが元ネタです。余談ですが、亜希のセリフに出てくる作品集は添えられた文章が 良いです。  商店街について。「カスタムナイフも扱う刃物屋」「映画館」「古本屋」いずれも自分の 趣味です。映画館と古本屋はとしあきのセリフに出てきますが、これもやっぱり自分のこと なのです。  この店の復活を市が検討しているそうですが、どうなることやら……。        *  ぐだぐだと長くなってしまいましたが、この辺で終わりにします。  最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。                                    プレあき