月明かりを受けながら、ふたつの人影が旅館の庭を歩いている。  高地独特の乾燥した空気が身を切るが、冬の高い夜空は山奥ならではの風情だった。  ふたつの影は竹林を抜けて、玉砂利が敷き詰められた歩道を進んでいく。  その様はゆっくりとした歩みだったが、連れ添いというのは微妙にはばかられるように思われる。  間隔が幾分離れすぎていたからだ。  初めは、このふたりからスタートした小さな旅館だった。素人同然のふたりはがむしゃらに走り続け、  大きな失敗を何度も繰り返したが、来年とうとう経営も黒字になる見込みだった。  常駐する従業員も、あと少しで三十に届きそうなほど。この規模の旅館としては、かなり多い。  銀行から借り入れた多額の負債も、苦しいながらも、どうにかその額を減らしつつある。  静寂の中、砂利を踏みしめる音だけが竹林に響いていたが  としあきの少し後ろを歩いていた明治が、ふと立ち止まって声を上げた。  「としあきさん、昨日の女の人、誰なんや?」  声色はとても優しげであったが、それは弾劾に他ならない。  商談から返ってきて早々に、不自然な散歩に誘われた時点で、ある程度予測はしていたものの、  あまりに直接的な追求に、としあきはややうろたえ、やや平静を失いかけた。  「いや、来月の忘年会でウチに来る企業の、秘書の方だよ。大事なお客さんさ」  「それは知ってます。ただ、昨日は、えらい急なお泊まりでしたなぁ」  とても落ち着いた声だったが、返す糾弾の刃は容赦なく現実を羅列した。  透き通った音律は意味のあるものになり、としあきの胸と真実を深くえぐる。  疑いやブラフではない、長年連れ添ったゆえの確信めいた明治の勘。  ふたりの間にしばらく沈黙が訪れたが、としあきは嘘はつかないことにした。  黙っていればばれる筈がない。それにこの行為が、結果的にふたりの幸せのためになる。  と、長年自分に言い訳を続けたこと自体が浅はかだったのかも知れない。  意を決してとしあきは振り向いたが、明治はこちらを向いていなかった。  華奢な背中と細い肩がとしあきの目に映る。  「ほんまにお星さんが綺麗やなぁ」  背を向けたまま、明治は手をかざして夜空を仰いでいた。  つられるように天を見上げたとしあきは、もう一度覚悟を決め、大きく息を吐いた。  愛しい人を欺きぬこうとした、自分が完全に悪かったのだ。  としあきが何歩か踏み出して口を開き欠けた瞬間、  明治は、今日、初めてとしあきに顔を見せた。   「別にええよ。そういう営業やったんやろ?」  はかない薄笑いをたたえた明治は、としあきに目を合わせてはくれない。  それでもとしあきは真っ直ぐに明治に向き合って、自分の口から真実を話すことにした。  旅館を始めた頃から続いている付き合いのこと。大口の顧客の何人かとそういう関係になったこと。  様々なことを迫られ、また、綺麗事ばかりではない旅館の売り込みの実態を  包み隠さず話し続けた。  明治は聞き終えるまで静かに聞いていたし、話を遮るようなこともなかった。  ややうつむき加減に首をかしげて、じっと身を固くしている。  長い長い時間をかけ、全てを聞き終えた明治は、  これまでになく和らいだ表情をとしあきに向け、弱々しい声をあげた。  「知っとるよ。みんな知っとる…。ゴメン、ゴメンなぁ、としあきさん。   ウチらふたりが、この旅館が、ここまでこれたのも、みんなとしあきさんのおかげやのに…」  やがて、明治は肩は震わせながら、としあきに頭を下げ始めた。  下がるべき頭は自分のものだ、これでは逆なのでどうか落ち着いて欲しい…。  としあきは必死に語りかけたが、明治はまるでいうことをきかなかった。  「いらん事言うてゴメンな、嫉妬深い女で堪忍な…」  かすれる声で、明治は赦しを請い続けた。