メイジおいしい牛乳~Another way to there 前編~ 息を切らし少年が走る。 金色の髪にアイスブルーの眼差し。 真白な肌は紅潮し、汗ばんでいる。 ある筋の人々が見れば悶絶モノの、ある種危険な色香さえ感じる姿であるが、今その顔を包むのは焦燥だった。 彼は、逃げているのだ。 その命を脅かす者から。 追跡者から逃れるのに、人ごみを選ぶのはこういった場合のセオリーだ。 ある組織に暗殺者として育て、鍛え上げられた彼には人波を泳ぐことなど造作もない。 するすると人と人の間をすり抜け、追跡者から距離を離す。 しかし、土地勘の無さが災いした。 逃げていくうちに見る見る人通りが少なくなる。 誘導されている、その事実は少年から少しずつ、冷静さを奪っていった。 闇雲に曲がった先は、袋小路。 もう、逃げられない。 追いついてきた男は懐からナイフを取り出した。 刃を舐め、キヒヒ、と不気味に笑う。 暗殺者を、少年はにらみ返す。 「殺る気は十分だ!ってこと?ははは」 強がりながらも笑いが出た。 幾分、冷静さを取り戻せたと感じる。 相手が対象をナイフで切り裂くことを愉しむタイプであれば、勝機はある。 まず、こちらの動きを封じ、それから弄るように切り刻む。 いきなり急所を狙ってこないなら、避けやすい。 男の下卑た笑い。少年の顔が嫌悪に歪んだ。 「ボクね、アンタみたいなの、大嫌いなんだ。不愉快だから帰ってくれない?」 「キヒ、マジ活きのイイガキだな、さぞかし愉しませてくれるんだろうナァ?」 じりじりと距離が縮まっていく。 リーチは相手に分があるが、動きはこちらの方が早い。 喉が鳴った。どちらのかは分からない。 暗殺者が、滑らかな動きでナイフを引く。 しかし、そこから動かない。 何者かに、腕を掴まれている。 暗殺者が振り返るといつの間にか、背の高い男が立っていた。 「何やってんだあんた」 捕まれた腕を引こうとするが、ビクともしない。 男が、暗殺者と少年を交互に見る。 「少年、助けて欲しいか?」 ゆっくり、うなずく。 男はうなずくが早いか腕を捻ってナイフを取り落とさせ、次の瞬間には暗殺者を投げ飛ばしていた。 あまりの早業に受身を取り損ねた暗殺者は、気絶していた。 「怪我はしてないか?」 「あ、はい」 男は懐から取り出した手錠を暗殺者にかける。 さらにポケットからカードとペンを取り出し、何事か書き込むと、手錠の間に挟んだ。 「この者、殺人未遂の犯人・・・?」 「まあ、俺のポリシーみたいなもんだ、気にすんな」 それより、と男は続ける。 「色々と訳ありみたいだな。話してくれとは言わんが、喉乾いただろ?カルピスくらい出すぜ」 「は、はぁ」 少年は、この男が信用できるか否か、測りかねた。 油断させてから殺す算段なのかもしれないし、単に善意なのかもしれない。 助けられたからといって信じきれるような、甘い世界を生きてきたわけではないのだ。 実際、喉がからからではあったのでとりあえず付いて行く事にしたのだった。 カルピスがどんなものかは分からなかったが。 男―敏明と名乗った―が少年を案内したのは古めかしいビルの一室。 ドアについているすりガラスには 『双葉探偵事務所』 と記されている。 「探偵さん・・・?」 あまり調子が良くないのか、鍵をガチャガチャ回しながら、としあきは苦笑して言う。 「ま、あんまり儲かってないが、なっと。やっと開いた」 なるほど、と少年は思った。 数少ない娯楽であった、小説で読んだ探偵は手錠と拳銃を持ち、荒事には滅法強かった。 そして、ほとんど儲からないのである。 先に部屋へ通された少年は、中を見回す。 窓は大きいがブラインドが掛けられ、薄暗い。 そのそばに観葉植物が植えられた鉢があるがあまり手入れされている様子は無い。 大き目のデスクの上には雑然とした書類と、デスクトップPCが置いてあり、様々なケーブルが壁と周辺機器へむき出しに延びている。 床は掃除してあるようだが、目を凝らすと角に埃が溜まっているのが見える。 これらの事実から推測される、双葉(事務所の名前だがおそらく苗字だろう) 敏明の性格は・・・ ガサツでズボラ。 少なくともマメな性格ではないと見える。 そして、少なくとも彼を追っている側の人間ではないように思えた。 その彼は、コート掛けに上着を掛けると、いそいそと何かを準備し始めた。 「あ、ほらそこ座れよ」 はあ、など時の抜けた返事をしながら少年がソファーに腰掛ける前で、 グラスと氷、カルピスと書かれたラベルのビン、冷えた水を持ってくるとそれらを調合し始めた。 「ふふふ、ガキの頃には許されなかった禁断の!濃いカルピスだ!!」 グラスになみなみ作られたカルピスなるものは、白く濁っていて幾らでも細工出来そうだ。 しかし、同じビンから自分の分も作っているので、おそらく液体の方は問題ない。 同じ理由で水と氷も排除できる。 とすればグラスか。 しかし、いつ来るとも知れない自分を待って、グラスに毒を塗っておくのは非効率的だ。 いや、あのナイフの男とグルならばあるいは・・・ 「どした、そんなに珍しいか?カルピス。毒なんか入ってないから安心して飲めよ。上手いぞ!」 なんとなく、少年はこの男を信じてみる気になった。 邪気というか、悪意が感じられない。 マドラーで嬉々とグラスをかき混ぜる様は、子供のようですらあった。 少しの沈黙の後、少年は口を開いた。 「では、いただきます」 ぐっと、グラスの中身をあおると口の中に甘味と酸味がすっと広がる。 なるほど、見た目の印象どおり乳製品的な味もする。 ヨーグルトにも、少し似ていた。 喉に絡む感じはほんの少し不快だったが、さわやかな味は少年に、もっと飲みたいとさえ思わせた。 「お、いい飲みっぷりじゃないか少年。時に少年、名前を教えてもらえないか?」 少し、躊躇する。 正直、自分の名前は嫌いだった。 名前を呼ばれるときは、仕事の時。 すなわち、人を殺す時、だ。 殺しの技術を学ぶのは、楽しかった。 様々な技を覚える度、教官に褒めてもらえた。 体を動かすのも楽しかった。 でも、実際に殺すのは別だ。 肉を切り裂く感覚、苦痛に歪む顔、断末魔。 そのどれもが不快だった。 何よりも、自分の中から何かが欠け、堕ちていく気がした。 「なんだ、言いたくないなら」 でも。 この人なら、変えてくれるかもしれない。 人殺しの名前を。 人殺しの自分さえも。 「・・・ンバー」 「え?」 「ノーヴェンバー。僕は、組織11位の暗殺者ノーヴェンバーです」