漆黒の海に散らばる宝石たち。真珠、ルビー、ダイヤモンド…。 遥か天上の海の底、それらは彼の目に光を届けはしても、 何物をも、決して語ることはない。 彼は、天空からの内容のないモールス信号を、穏やかな表情で受け取っていた。 がちゃ…。 不意に、満天の星空に波紋を広げる扉の音。 しばらくの沈黙の後、 「…フェブか。遠慮しないで入っておいで。」 背もたれを倒した椅子に深く腰掛け、夜空を見上げていたジャンは、 振り向くことなく妹を呼んだ。 「ごめんなさい、お兄様。邪魔、しちゃった…。」 「気にしてないさ。」 ガラス張りの天井から差し込む月明かりが、 歩み寄ってくる少女の影をくっきりと映し出している。 「ほんと?」 気まずそうな表情で、フェブはジャンの顔を覗き込む。 彼女は「2月」の名を冠する、「組織」ナンバー2エージェントである。 身体能力は組織内でも随一であり、特に筋力に優れる。 そのパワーたるや建設重機並みといわれ、 彼女の癇癪によって破壊された建造物は数知れないという。 上位エージェント「四天王」の紅一点であり、年齢はジャンと同じ18歳。 しかし、その容姿は年齢相応のものではなかった。 組織に拾われて10数年。 彼女は外見上、全くといっていいほど成長していないのである。 ぐいっとフェブの方に顔を向け、ジャンは微笑んでみせる。 「もちろん。」 フェブもそれに答えて、頬をほころばせた。 「眠れなかったのか。」 こくり。とフェブが頷く。 「なんだか胸騒ぎがするんだな。」 こくり。ただ頷く。 ジャンを相手に自ら語る必要のないことを、彼女はよくわかっていた。 「で、枕ならぬクマさんを抱きしめて俺のところまでやってきた、と。」 こくり。少し、頬を赤らめる。 その両腕には、彼女のお気に入りのクマのぬいぐるみが抱えられている。 「ふぅ…。」 ジャンは、仕方ない、という表情で、 「…そうだな、俺もちょうど、人肌恋しいと感じていたところさ。」 自分の膝を「おいで」と叩いた。 フェブは顔を真っ赤にしぬいぐるみに埋めていたが、 ジャンの“いつもの合図”に脊髄反射的に応え、満面の笑みで彼の膝に飛び乗った。 おお、椅子が3段も重なっている。 自分は真ん中の段だ。と、ジャンは現在の状況をまとめた。 すなわち、下から順に、 椅子、ジャン、フェブ、の3段。 そしてその頂点に鎮座、君臨するのは、フェブの愛する大王クマさん陛下! …くだらない。と内心頭を抱えつつ、彼は悪い気はしていなかった。 膝の上には、心底幸せそうに背中を摺り寄せてくるかわいい妹が座っているのだ。 ただ、幸せそう、という表現は妥当ではない。 ジャンは、フェブが本当に「幸せ」であることを手にとるように感じることができるのだから。 人の心と言葉は、必ずしも一致するものではない。 このことが、ジャンを、そしてジャンと共に過ごすほかの兄弟たちを苦しめていた。 ジャンは常に、相手の本音を図らずも読み取ってしまい、 兄弟たちは常に、ジャンに本音を悟られていることを前提に彼と接しなければならなかった。 彼らの間に溝が生まれるのも、至極当然のことであったといえよう。 しかし、フェブだけは違った。少なくともジャンにとっては。 彼女には裏表が無かったのだ。 常に思うがままに行動し、喋り、笑い、泣き、癇癪を起こして暴れまわる少女。 彼女はいつでも、ジャンが感じたままの、本当のフェブでいてくれたのである。 気づけば、フェブはゆったりとジャンの胸板に寄りかかっていた。 しかし、ジャンは気づいてしまう。彼女は眠っているわけではない。 何を考えているのか、と、ジャンが彼女の思考に侵入しようとした瞬間、 「ねえ、お兄様。」 フェブが口を開いた。思わずどきりとする。 「なんだよ。」 落ち着いて彼女の思考を読もうとするジャン。 しかし、読み取ったその内容は、落ち着いていられるようなものではなかった。 「お兄様は…」 「おい…。」 ジャンは焦っていた。フェブは、彼が一番苦手な言葉を言おうとしている。 それだけではない。その後に続く行為まで、フェブは計算に入れているのだ。 「お兄様はフェブのこと、好き?」 「…!」 答えに窮するジャン。いつもならば「もちろん。」と即答できる質問だ。 しかし、今回は違う。「好き」のニュアンスが全く違う。 フェブはいつの間にか体勢を入れ替え、太ももの上にこちらを向いて座っている。 「私は、お兄様のこと、好き。大好き。」 彼女の瞳は涙で潤んでいる。 感じ取ったとおりのストレートな、ジャンが最も苦手とする言葉。 「や、やめろよ、恥ずかしいじゃないか…。」 思わず目を背けてしまう。 面と向かって好き、と言われるのは苦手だった。 相手が自分に好意を寄せていることぐらい、言葉にしなくてもはっきりと分かる。 なのにわざわざ、言うほうも聞くほうも勇気が要るような言葉を放つ必要は… 「恥ずかしいことなんてないよ…!」 フェブが少し語気を強めた。 思わぬ事態に、ジャンの思考が停止する。 「フェブ、お兄様のことが大好き。  お兄様には、言わなくてもわかっちゃうと思うけど。  でもね。言葉にしなきゃいけないことって、あると思うの。」 フェブの瞳は既に決壊寸前まで涙を溜め込んでいる。 涙に光が揺らめく様は海の波を思わせ、時折きらきらと光るとそれは天の星のように思えた。 何も言えず、彼女の瞳を見つめるジャンに、フェブは更に続けた。 「お兄様、フェブはね、フェブの声で作ったフェブの言葉を、お兄様の耳で、聞いてほしいの。  フェブの声で作ったフェブの言葉じゃなきゃだめなの。  お願い、お兄様、聞いて…。」 ついに、フェブの目尻から涙が零れ落ちた。 一度決壊した堤防に、もはや流れを押し留める力は残っていない。 「フェブ、ごめん…。」 ジャンはフェブの頬に手を当て、親指で涙をぬぐう。 「そうだよな。言葉にしなきゃ。  自分が伝えたいと思ったことを、自分の力で伝えなきゃな。」 「お兄様…ぁっ」 フェブの両脇を抱き上げ、ジャンは彼女と自分の顔を近づけた。 「さっきの言葉、もう一度言ってくれないか?  今度は、目をそらさずに聞く。」 真剣な面持ちで、ジャンが言う。 フェブは、泣き腫らした顔で精一杯の笑顔を作り、応えた。 「フェブは、お兄様のことが、大好き…!」 「俺も大好きだ、フェブ。」 ジャンはいつものように、しかし特別な想いをこめて即答して、 フェブの体を強く抱き寄せた。