<<ディス…聞こえていたら答えろ。ディス・・・>> 不意に、声が響く。 真夜中の公園。動くものといえば、電灯にたかる蛾くらいのもの。 その影もまた、主に合わせてぱたぱたと舞っている。 点滅する光と影の中、ベンチに座り、光で暖を取るように体を丸めていた男は、 むくりと上体を起こした。 <<ディス…ディ <<聞こえてるよ。>> 男は、どこからともなく聞こえてきた声に、唇を動かすことなく答えた。 <<また考え事だな。今日はちょっと深刻なようだが。>> <<うん…。やっぱり、”わかる”?>> 相変わらず、ディスの唇は動く気配がない。 それどころか、遠くから見ても一瞬ではその存在に気付かないほど、 彼の身体もまた、動く気配を見せなかった。 <<・・・メイジに直接接触したのか。今はまだやめておけと言ったはずだが。>> ディスの言葉を待たず、「兄」と呼ばれた声の主は、ディスの昼間の行動を読み取っていく。 <<ごめん。>> <<ノヴも一緒だったか…。薄々こうなる気はしていたが。父上は何を…>> <<父さんを悪く言っちゃいけない。考えあっての事のはずだよ。>> ディスの口調がとたんに強まる。「兄」は気圧された感じで、 <<あ、ああ、そうだな…。>> と口ごもった。 強く風が吹き、ディスのコートの襟を揺らす。 少し、冷えてきたようだった。 <<…しかし、三人とも無事で何よりだ。>> 優しく、少し弱々しい口調で「兄」が言った。 <<そう、かな…>> <<当たり前だ。かわいい弟や妹が死ぬなんて、俺は…。>> <<僕は、かわいくなんかなくなっちゃったよ。>> 少し自嘲気味に、ディスが呟く。すると、 <<何を言うんだ!姿かたちがどんなに変わっても、お前が俺の弟である事に変わりはないさ。>> 「兄」は語気を強めた。しかし、その声は相変わらず、どこか頼りない。 <<…ごめん、兄さん。大丈夫だよ。僕は、そう簡単には死なない。>> 穏やかな言葉に呼応するかのように、 今までぴくりとも動かなかったディスの口元が、ふわりと緩んだ。 <<…ああ。安心したよ。良い結果を、期待している…。>> それきり、声は聞こえなくなった。 「ふぅ…。」 夜空に向かって息をつく。 心なしか、寒さが和らいだような気がしていた。 -------------------------------------------------------------------------------------------- 「…。」 廊下の壁に目を閉じて寄りかかっていた男は、体勢を戻し、目を開け、 「大丈夫だよ、か…。」 ぽつりと呟いて、歩き始めた。 外は明るいはずだが、建物が意図的に日光を拒んでいるかのように室内は暗い。 それでも空調は行き届いており、快適な気温、湿度が保たれている。 不快指数の低い中ではあるがしかし、男の表情は険しかった。 良くない事が重なっている。 ひとつは、メイジが一般人の家庭に保護されているらしい事。 ひとつは、ノヴもまた同じ人間の元にいるらしい事。 ひとつは、この状況はディスにとって非常に酷である事。 更にもうひとつは、このような複雑な状況を 「父上に、何と報告したらよいものか・・・。」 ふと、男は足を止めた。 廊下の突き当たり、暗がりに人が立っている。 男は、少し不味そうな顔をして、 しかしすぐに表情を立て直し、人影に声をかけた。 「…おいででしたか、お姉様。」 見紛うはずもない。彼女は、彼が最もよく知り、かつ、彼を最もよく知る女性だ。 「久しぶりね。」 透き通った、それでいて威圧感のある声を響かせ、「姉」は暗がりから歩み出た。 「でも、なんだか顔色が良くないわ。悩み事でもあるのかしら…?」 男の眼前まで歩み寄り、「姉」はその細い指を男のあごにあてがった。 それだけで、男の全身に電流のような緊張が走る。 「え、…ええ。メイジを取り巻く状況が、複雑化の一途をたどっています…。  ノヴがこの任務を、これ以上続けられるかどうか・・・。」 男がしゃべる間も、「姉」は男の頬から顎、首筋へと指を這わせてゆく。 額に汗が滲む。奥歯がカタカタと震える。 「大丈夫よ。貴方が”目”を光らせていれば問題はないわ。  ノヴは12兄弟の中でもとびきり忠誠心の強い子ですもの。きっとお仕事を全うしてくれる。  それより・・・」 「姉」は再び男の顎に手をかけ、ぐっと自分の顔に近づけた。 「っ…!」 「今夜12時に私の部屋に来なさい。久しぶりに、可愛がってあげるわ。」 「…はい、お姉様…。」 頬を引きつらせ、「姉」の視線から必死に目をそらしながら、男は答えた。 「…ねえ。」 男を解放し、その場を去ろうとして、「姉」が一言付け加えた。 「貴方はもう少し自信を持った方が良いわ。前から言っている事だけれど…。  自覚なさい、貴方は正真正銘、わが組織のナンバー1エージェント。  私から1月の名を継いだ者なのよ。…ジャン。」 「…わかっています。ジャンヌお姉様。」 ----------------------------------------------------------------------------------------------- ジャンは息を整え、再び歩き始めた。 しかし、まだ震えは続いている。 「やはり、お姉様の心は読めない…。  あの人の心は、闇、いや、混沌か…?」 他人の心を見透かす能力。俗に言えば、テレパシー。 この能力が、彼が1月の名を冠する理由であると言える。 彼はこの能力によって相手の思考を先読みし、対人戦において圧倒的な強さを誇っているのだ。 加えてこの能力には、相手の心を探るだけでなく、相手の感覚器官に働きかける事で 幻聴や幻覚を引き起こすといった攻撃的な使い道もある。 ジャンはこれを利用し、常に兄弟たちの状況を把握すると共に、 必要とあればテレパシー能力を通信機代わりにして指示を与えるという 非常に重要な役割を担っている。 本来、兄弟の中でも平均以下、上級エージェント「四天王」の中では最低の身体能力しか持たない 彼ではあるが、その能力は貧弱なフィジカルを補って余りあるばかりか、 組織そのもののシステムの根幹とも言え、彼の「1月」の名を不動のものにしているのだ。 だが、組織の中には稀に、彼の能力の影響をまったく受けない人物が存在する。 その一人が、彼の「姉」であり、先代の「1月」、ジャンヌなのである。 「自信を持て、か…。お姉様に言われるのが一番堪えるな。」 当然である。ジャンヌの存在は、彼から自信を奪う大きな原因のひとつなのだ。 「1月」の名をジャンに継がせ、一線から退いているジャンヌだが、 組織内では未だに非常に強い影響力を持っており、実質的には12兄妹の上、 ボスに次ぐナンバー2の位置にいる。 そして何より、テレパシーを受け付けない彼女は、ジャンにとって決して越えられない壁であった。 ジャンのテレパシー能力は、条件が満たされれば確実に発揮される。 その条件は、以下のうちの”いずれか”。 条件1.相手が自分の視界に入っている。 条件2.相手が自分を対象とした明確な意思を持っている。 条件3.自分が相手の事を良く知っている。 接近戦のときは条件1が、不意打ちを受けた場合でも条件2が満たされ、相手の思考を読む事ができる。 兄妹たちとの通信は条件3が常に満たされるため、相手がどんな場所にいても可能である。 ところが、ジャンヌが相手であった場合、三つの条件が総て満たされていても、 ジャンは彼女の思考を読む事ができないのだ。 身体面で圧倒的に劣るジャンが能力を封じられれば、その先にあるのは敗北のみである。 ジャンヌ曰く、「原因はジャンの方にある」のだというが、彼はこの言葉の意味を未だに理解できない。 結局のところ、彼は未だに自分がナンバー1エージェントである事すら自覚できないでいる。 彼が「1月」の名を継ぐことができたのは、ジャンヌに勝ったからではなく、 彼女が自ら「1月」の名を返上したからに他ならないのだから…。 ------------------------------------------------------------------------------------------------ 「…日本へ?全員でですか!?」 「そうだ。」 告げられた指令は、あまりに意外なものだった。 残っているエージェント9名を全員、同時に日本へ送り込むと言うのだ。 「それほどの戦力を一度に投入する理由がわかりかねます。こちらの警備も手薄に…」 「心配は…要らん。戦力は多い方がいい。出来るだけ早く、決着をつけねばならんのだ。」 有無を言わさぬという表情である。 「…了解しました、父上。すぐに他の8人にも準備をさせます。」 ジャンは一礼して踵を返し、部屋を後にしようとした。すると、 「言い忘れていたが…」 「父」が付け加えた。 「メイジの持ち物は全て回収しろ。全てだ。  アレが潜伏していた住居の中のモノも全て、ここに持ち帰ってくるつもりで構わん。」 「…承知しました。」 「ふぅぅぅぅ…。」 ジャンは部屋の扉を閉めると、緊張を解きほぐすように大きく息をついた。 「父」と呼ばれる組織の首領。彼もまた、ジャンが心を読めない人物である。 顔を合わせた人間の心は読めて当然のジャンにとって、 このようなイレギュラーな人物との対話は精神をすり減らす苦行のようなものだ。 しかし、今回はそれ以上に気になる事がある。 「父」が回収に拘った「メイジの持ち物」。 もちろん、彼女が組織から持ち出したものを奪還するのは当然のことではあるが、 エージェントを全員投入するなど前代未聞である。 いかに相手もまたエージェントであるとはいえ、この対応はいささか度が過ぎているように感じられた。 「メイジ…お前、一体何を持ち出したんだ…?」 ジャンは、メイジの脱走以降、次第に彼女の心が読めなくなっていくのを感じていた…。