――陽気な朝と、帽子とネクタイ―― 「ほんとうですかっ!?」 日本の朝。秋の日差しが緩やかな午前。俺たちの住むアパートに、メイジさんの大きな大きな声が響き渡る。 「あ、ああ本当だけど――」 「うわぁ~い、やったぁ~っ! すごいっ、すごいですよとしあきっ!」 メイジさん、朝から元気にご乱心。いったい、何がどうなっているのやら。 事の発端は、今朝の食卓。 今日は大学の講義が休みということもあって、ゆっくりと朝食をこさえていた時のこと。 メイジは、ちょこんと座ったままTVに夢中だった。それは、ケーブル放送のとあるアニメ再放送枠。 カエルの軍曹や男装の高校生ホスト、そして赤い巨大なロボットに乗るアフロといった番組たちがお茶の間を支配する。 メイジは、それらの番組内容に感嘆したり笑ってみたり。まさに一喜一憂、手に汗握るほどに熱をあげていた。 そんなメイジの隣で、俺はトースターから飛び出してきたパンにママレードを塗りたくり、じっくりと紅茶を蒸らしていた。 気付けば番組はエンディング。次回予告が流れる頃になって、ようやくメイジはブラウン管から解放されたらしい。 「……ふぅ。軍曹はいつ観ても楽しめるけど、やっぱり『あかいじむ』はむずかしいお話です」 そう言って、ひとり感想をもらすお子様。その後も、アフロがどうだの先輩の持っているウサギがかわいいだのと、放送内容を噛みしめているご様子。 どうやら、日本に来てからすっかりアニメの虜になってしまっていたらしい。 「さて、アニメも見終わったことだしそろそろ朝食にしよう」 紅茶を二つ分のカップに注ぎつつ、目玉焼きの上にかけるものの注文を聞く。俺は、醤油。メイジは、塩。 ひと通り食べ終わった頃、TVから陽気なCMが流れてきた。帽子のマークの、ちょっぴりお高いピザ屋のCMだ。 それを見たメイジは、ニッポンにもあるんだぁ、などと反応している。考えてみれば外資系なんだよな、このピザ屋。 「ピザハか。そういや最近食べてないな……なんか、急に食いたくなってきた」 ついさっき朝食を平らげたばかりだというのに、俺の食欲中枢はピザをご所望なされていた。CMの効果は偉大だと思う。 「――としあき、この店のピザを食べたことがあるの?」 するとメイジが、怪訝そうな顔で問いかけてくる。ものすごく意外そうな、そんな感じで。 「え? あ、ああ、食ったことなら結構あるよ。まだ実家にいた頃なんかは特に」 そう、実家にいた頃は親父がピザ好きだった事もあってか、隔週末などのペースで頻繁に食卓に上っていたという記憶がある。 ただ、少しお高いので、一人暮らしを始めてからは頻繁に食べるという機会はなくなったけど。それでも大学の連中なんかと一緒だと時々頼んだりもする。 瞬間、メイジが目をまたたかせながら素っ頓狂な声をあげた。 「と、としあきのおうちって、お、おおお金持ちさんだったのですかっ!?」 ――はい? なんででしょうか? 「い、いや。お金持ちかどうかって言われれば、ごくごく普通の中流家庭だと思いますが……」 ……というか。お金持ち度でいうなら、関の奴の家なんかは普通にお金持ちだぞ。 しかし、どうしてそんな答えに行き当たったのかが疑問だが、メイジは驚きを隠せないまま軽く恐慌していた。 「な、なに? どうしたっていうんだ?」 よくわからんが少し怖くなった俺は、ガタガタ震えるメイジに問いかけずにはいられなかった。 「ぴ、ピッザリアに頻繁に通うだけじゃなくて、ピッザリアのひとを何回も呼びつけるなんて……すごい、上流階級」 だが、しかし。当のメイジさんは、世界恐慌のただ中で一人の大富豪を目にしたかのような、何ともいえない様子でこちらを見ている。 ――いや、だからですね。ピザをデバるだけでそんなにお金持ち指数は急高騰するものなのでしょうかと、私は問いたい。 「いや、メイジ、聞いてくれ。日本じゃピザ屋にデリバリーを頼むのは、結構普通のことなんだが」 「なんとっ! ニッポンはお金持ちの国なんですね――おそるべし『ほうしょくの国』ニッポン」 いけない。これはどこかで大きな勘違いをしている、確実に。いや、それよりも。どこで覚えてきたんだ『飽食の国』という言葉を。 このまま口で説明していても埒が明かない。そう判断した俺は、ひとつ提案を持ちかけてみた。 「――よし、じゃあ。昼になったらピザハにピザを買いに行こう」 何故か恐慌しているメイジさんも、店にまで直接出向けば落ち着いた判断を示してくれるだろう。そう思っての提案だった……のだが。 「ほ、ほんとうですかっ、としあき!?」 そうして、現在に至るわけなのだが。 いまだ興奮冷めやらぬ様子のメイジ。どピンクのウサギを抱きかかえながら、うふふうふふ、と笑いながらその場でくるくると回っている。 よくわからないが、ピザ程度でそれだけ狂喜してくれるのならば安いものだ。なんとなく俺自身も楽しい気分になってくる。 「そうだ、ついでだから昼から買い物にでも繰り出そう。そんで、帰りにピザハに寄って、それを夕飯にでもしようじゃないか」 俺がそう言うと、メイジは両手をばんざいの形にしながら飛び跳ねて「お買い物~、ピザ~♪」などと、うかれ喜んでいる。 そんな様子のメイジを見ながら、俺はさっそく出かける準備に取り掛かる――とはいえ、俺の用意なんてたかが知れている。 いつものジーンズにお気に入りのTシャツ、その上から軽くジャケットを羽織るだけ。あとは、愛用の眼鏡を拭き終わったら準備完了。 さて出発と、狭い部屋の中を「やったーやったー」とはしゃぎ回るメイジに声をかける。 「それじゃあ、行こうか」 その時、メイジさんのウサギアイが俺を射抜いた。 「――っ!? そんなかっこで出かけちゃダメぇーっ!」 ――What? 「そんな格好って、いつもの出かけ着なんですけど……」 「だからぁ、そんないつものかっこじゃダメなのー! もっとしっかりした服を着てかなきゃダメなのー!」 ――Why? いや、ピザ屋に行くついでにちょっと外に出るだけなんですけれども。 「……な、なんで?」 意味も分からず、その場で首を傾げながら止まっている俺に、メイジは毅然とした調子でお叱りを続ける。 「いいですか、としあき。ファーストフードというのは高級なものなのです。特に、あのピッザリアは西側のシンボル。ネクタイ着用で行くのが流儀なのです!」 ピザ屋にネクタイ……とてつもない違和感が俺を襲う。 「いや、流儀って……」 それは、いったいどこのブルジョワジーだ。少なくとも、俺なんかが太刀打ちできる身分の人間じゃない。 メイジの中での――いや、ブルガリアでのピザハのやんごとなき身分っぷりに頭を痛めつつも、とりあえずは外に出れる運びとなったわけで。 -------------------------------------------------------   ――遠くの兄弟、近くの僕ら―― 「――確かに、性能の問題でみればH&Kやレミントンの方が、精度もいいし扱いやすいんだろうさ。それはまぁ、自分でも分かってんだけどな。  でも、俺には昔からコイツが――このドラグノフが一番だった。なんつーのかな、まるで身体の一部みてぇな感じで気が合うんだよ」 見た目より割りと窮屈な車内。本皮であつらえられたハンドルにもたれかかりながら、マーチは自分の得物について語っていた。 「……三月の兄さんには申し訳ないのですが、狙撃銃のことに関しては、私にはよくわからないです。なにしろ銃火器の扱いには疎いので。  でも、私が刃物の扱いに適していたのと同じように、兄さんにはそのドラグノフが向いていたという事なのでしょう? それならわかる気がします」 助手席に座るアウグスタは、それを聞き苦笑しながらも、そんなマーチの気持ちを理解しようとしていた。 マーチは鼻の頭を掻きながら、そうかい、と応え。アウグスタもまた、はい、と応じる。 「ところで……それは、アンちゃんへのサービスかい?」 照れ隠しなのか、マーチは助手席の上で膝を抱えるようにして話を聞いていたアウグスタの足元を指差す。 それが示すものに気が付いてか、両腕でとっさに脚を覆い隠すアウグスタ。その表情は、どちらかと言えば呆れているようだった。 「……まったく。三月の兄さんは、妹の脚を見て欲情するのですか? そんな事ばかり言っているとセクハラで訴えますよ」 「訴えるって、いったい何処によ? 裁判所か警察にか?」 少しの間を置いて、アウグスタは得意そうに答える。 「暴力に、です。もし駆け込むのだとしたら、行き先は病院か教会でしょうね。もちろん、それは私ではなくて三月の兄さんの方になるでしょうけど」 それは敵わねぇ、と笑うマーチ。「気をつけてくださいね」と、アウグスタも少しだけ笑みをこぼす。 車内を、わずかな沈黙の時間が通り過ぎた。 「――まぁ、だから何が言いてぇのかっつーとだ。つまり、呼び慣れた言い方を今更んなって変えるのは面倒くさいんだわ」 ゆったりと倒した本皮ソファーに身を預けながら、先日に駅で買ってきた生菓子を頬張り、マーチは言う。 「……長々と理由付けしておいて、言いたいことはそれだけですか三月の兄さん」 同じく件の生菓子をつまみながら、アウグスタが言う。 ウォルナットであつらえられたドリンクホルダには、緑の炭酸飲料と缶入り紅茶が一つずつ。 口休めとばかりに炭酸をすするマーチ、それにつられるようにアウグスタも安っぽい味のする紅茶をこくこくと口にする。 微音量のカーステレオからは、金曜日の昼を最新チャート曲のカウントダウンで愉しむ陽気なラジオが流れている。 オリエンタルなムード漂う異国の音に耳を傾けながら、マーチは生菓子を口元へと運び、かじる。 「この『トオキョーバナナ』っての、案外うめぇな」 「話を逸らさないで下さい!」 あまりの理不尽に怒るアウグスタ。東京銘菓を咥えながら外を眺めていたマーチは、その様子にケタケタと笑い。 「まぁ、そうカリカリすんなって。それについては、今度またゆっくりと。な?」 そう言って、自らが見止めたものの姿を目で追っていた。 さて、出かける前に一杯引っ掛けよう。そう思って開いた扉の中に愛しの缶ビールは存在しなかった。当たり前だ、昨日、最後の一本を空けたのだから。 在庫がなくなる前に買い足すという習慣の無い双葉邸には、夏から常備するようになった烏龍茶しか飲み物のストックがなかった。 押入れに仕舞っておいた日本酒も、戸棚の中に置いてあったウィスキも確認してみたが、ものの見事に在庫切れをきたしていた。 無いとわかると余計に欲しくなってしまうのが人間の哀しい性。口寂しさと諦めの悪さからか、俊彰は一つの光明を見出す。 そう、あまりにも片付き過ぎて却って目立たなかった一本の缶飲料が、酒分を欲する俊彰の目に飛び込んできたのだ。 喜び勇む双葉俊彰。見つけ出した秘宝をさっそく手に取り確認する。それは季節限定の缶チューハイ。ベリーとベリーの夢の協演。その季節とは、秋。 ――秋? 秋ってのはいったい、いつの秋? 訝しんだ俊彰は、恐る恐る缶の裏面に記載されている賞味期限を確認してみる。製造年が去年の表記、賞味期限は――もう、しっかりと過ぎておりました。 愕然として膝をつく双葉俊彰。しかし、まだまだいけるとプルタブに指を這わせたところで、メイジさんから「早くしろ」との催促のお声がかかる。 元気溌剌有り余るうら若き双葉邸の居候少女は、もうすでに準備万端。いつの間にやら部屋の外でスタンバっているご様子。 冷蔵庫の奥から出てきた、賞味期限を一ヶ月ほどぶっちぎった缶チューハイに泣く泣く見切りをつけて、双葉俊彰は部屋を後にした。 日本の昼。秋の日差しが穏やかな正午過ぎ。俊彰は、先に廊下へと出ているメイジにせっつかれるようにして、部屋の鍵を施錠する。 「……てゆーか、そんなに慌てなくてもピザ屋は逃げていったりしないってばよ」 俊彰は頭をぽりぽりと掻きながら、とっとこと先を歩く金髪少女に声をかける。だが、少女の方は全く意に介さない様子で浮かれ気味。 「そーゆー問題じゃないんですぅ。おでかけするなら早いほうがいいんですぅ」 今にもくるくるうふふと小躍りしそうな雰囲気のメイジは、ドレスシャツと薄手のコートをひらひらさせながら、階段を駆け降りていった。 「おいおい、メイジさーん……まぁ、元気な事はいいことなんだが。階段で走ると危ないぞぅ」 置いていかれた格好の俊彰は、ちょっぴり大人ぶった感じにそう呟くと、煙草に火をつけながらゆっくりと階段へ向かう。 階段を降りきったメイジは、そのままの勢いでくるりと後ろを振り返る。 そして、まだ階段を面倒くさそうに降りてきているだろう俊彰に向かって、待ちきれないとばかりに。 「トシアキーっ! 早く来ないと置いてっちゃうからねぇー?」 と、元気な声で呼びかける。 「だーかーら、そんなに慌てなさんなってばお嬢さん。すぐに行くからそこで待ってておくんなせぇ」 頭上から届く、のんびりとした俊彰の返事に「えへへー」と笑いながら、メイジは有り余る元気をうずうずさせていた。 その背後からゆっくりと伸びる、大きな人影に気付くまでは。 よく見知った金髪の少女が、アパルトマンの階段を元気に駆け降りてくる。そのままくるりと建物の方に向き直ると、異国の言葉を溌剌と発していた。 その姿を確認するように、安アパート前の道路脇に停まったままでいる白いゲレンデワーゲンの車窓が、少しだけ開いた。 スモークガラスの隙間からは、白いハンチング帽に覆われ押しつぶされたプラチナのような細い髪がのぞく。 待ちかねた。その姿が外に現れるときを、昨夜の遅くから待っていた。待ちわびるほどの時間を、ずっと、この場所で。 青年は車を降りると、まっすぐに少女の方へと向かって歩く。 足音も消さず、気配も殺さず、無用心なまでにゆったりとした歩調で少女に近づく上背の青年。少女はまだ、それに気が付いていない。 少女の愉しげな雰囲気は、その後姿からでも存分に伝わってくる。 それでも、青年の歩調が変わらない。ゆっくり、ゆっくりと、少しずつ少女の元へと歩み寄り、今まさにその背後についた。 少女が自分の後ろから伸びた大きな影に気付いた頃、ようやく異常を感じ取った背中は緊張し、その溌剌さは影を潜める。 「――だれ?」 少女は振り返らずに、伸びる影の主へと問いかける。 その声は、先ほどまでとは真逆の、硬質な響きを持っていた。そして、少女の口から発せられるそれは、日本語ですらなかった。 青年の影は両手を広げて、ことさら大きく頭を振るようにすると、大仰な溜息をもってそれに応える。 「おいおい……ずいぶんと冷てぇ言い方じゃねぇの。ここに居たほんの少しの間に、アンちゃんのこと忘れちまったか?」 少女の身体は驚きに震えた。瞬間、その場を飛び退き、身体を翻すようにして青年の方に向き直る。 そして、まるで信じられないものでも見たかのように声をもらした。 「――マーチ、兄ちゃん」 ハンチング帽の青年は、うな垂れるようにしていた格好を改めると、例の擬音が似合いそうな笑みで少女を向かい見る。 「おぅ、久し振りだなメイジ。優しいアンちゃんが迎えに来てやったぜぇ?」 「……なんで、お兄ちゃんが」 まだ状況が掴めていないのか、当惑するメイジはそう繰り返すだけ。 そんなメイジの様子を見ながら、マーチはさも当然のように言い放つ。 「なんでも何も……勝手に逃げ出した大事な妹を見つけ出して、迎えに来たってだけだろうに、何をそんなに驚くんだ?」 何をそんなに驚くのか? それは当然だろう。この逃亡先が、そう易々と見つかろうはずはないのだから。 ここは極東の国、ニホン。逃亡に際しては、組織内でも中堅に位置するファミリーを協力者に得てからやって来た。 彼らの助力によって、様々なダミー経路や偽の情報のリークなど、大掛かりで周到な準備と手筈がとられてきたのだ。 それが、たった三ヶ月足らずで――それも、四天王と呼ばれる者が直接やってくるだなんて。辻褄が合わないにも程がある。 もし、仮にそれらが暴かれたとしてもだ。 組織の者が、ここを――フタバトシアキという男の住所を探し当てることなどあってはならない。そう、あってはならないのだ。 何しろ、メイジがフタバトシアキの元に訪れ、その部屋に転がり込んだのは――全くの偶然だったのだから。 「どうして、あたしがここに居るって、わかったの?」 理解が追いつかないまま、そんな言葉が口をつく。 それを受けて、マーチは軽く首を傾げながらウンウン唸ってみせると。 「まぁ、その、なんつーか……魔法の裏技ってやつかな、うん」 ――それを聞いて、かちりと何かが繋がった。 協力してくれたファミリーが、キリヤコヴィの人たちが犠牲になったのだとメイジは悟った。 結末はどうだか知らない。ただ、自分の逃亡を擁護し、その成り行きを見守ってくれた人たちが犠牲になり、そこからエイプリル兄さんが全てを暴いた。 ねじれほつれていた糸が一つに繋がると、その糸が今度は急激にメイジの胸を締め付けはじめる。 罪悪、後悔、自責の念。それらが一緒くたになって、メイジの小さな身体に襲い掛かる。 確かに、何を驚くことがあろうか。そう、いずれはこうなるとわかっていたこと――何をいまさら。 ただ、そう思うのはあまりにも、勝手だ――だから。 「……マーチ兄ちゃんが来たって事は、そういうことだもんね」 メイジは右手をコートの中に潜らせると、後ろ手にそれを握り締める。 「いや、おいおい。ちょい待てメイジ、お前が考えてんのは多分、ちょっと違うぞ?」 不穏な空気を感じ取ったのか、マーチは慌てて弁解するようにまくしたてる。 「いいかぁ、よく聞け? 確かにキリヤコヴィはお前の逃亡を助けた。だけどな、別にだからって理由だけでどうこうしたわけじゃねぇぞ?  キリヤコヴィ――ツヴェタンのとっつぁんは元々、てゆーか、なんつーのかなぁ? ま、とにかく親父に少なからず叛意を持ってたわけだ。  でもって、そこにきてお前の逃亡劇が偶然重なって結果を生んだ。いや、結果ってゆーんなら他にもたくさんあったみてぇなんだけどもよ。  だからその、なんだ? 遅かれ早かれ、キリヤコヴィには組織からの制裁が与えられることには変わりなかった……って、ゆーか。  その、つまり。全部が全部、お前が悪いってことにはならねぇってわけなんだが……おーらい?」 マーチの勢いに圧倒されてか、きょとんと押し黙っているメイジ。 要領を得ていないもどかしさを感じ、追い討ちをかけるマーチ。 「だーかーら、要するにだメイジ。キリヤコヴィが悪巧みを企んでたのは確かなわけで、お前の逃亡は制裁のきっかけの一つに過ぎない。  でもってお前は、組織に戻れば無罪放免。ほんのちょっとだけ軟禁されるかもだけど、他にゃあナァんも心配する事ぁねぇってことよ。  まぁ、つーわけで……今度こそ、おーらいか?」 赤い目をぱちくりとさせながら、メイジはマーチに問いかける。 「嘘でしょ?」 「嘘じゃない。そんでもって、そうなる予定だ」 だから一緒に帰ろうと言うマーチ。 「やだ」 即答であった。 これには、さすがのマーチも面食らったのか、ぽかーんとしばらくあっけにとられていたが。 「いや、なんでよ? だってお前、ここに居たっていいことなんて多分ねぇぞ?」 「じゃあ、少し考えさせて」 「考えさせてだぁ?」 「だって、組織から逃げ出したって事は、パパを裏切ったって事になるんでしょ? パパがそれを黙って見逃すなんて――聞いたことないよ、そんな話」 「親父のことは気にすんな、エイプが巧いことやってくれてる。だから、きっと大丈夫だ。それより厄介なのは、他の兄弟に知られることだ。  それに関しては、あんまし時間がない。特に、ジャンやオクトあたりにバレるとまずい。非常に、マズい」 そう語るマーチは、困ったような顔をしていた。そして、それを聞くメイジの表情は、未だに硬いままだった。 「お兄ちゃん……それって、なんの保証もないって言ってるのと一緒、だよね?」 「いや、まぁ、それもそうなんだが……アンちゃんと一緒に帰れば、危険なことは何も……ないよ?」 最初の勢いはどこへやら、何とも歯切れの悪い返事である。 「いーやーでーすぅ! 身の安全も確保されてないのに戻るなんて、そんな危ないことなんて出来るわけないじゃない――それに。  さっきからあたしがコルトを握ったままなの、兄さんわかってるでしょ?」 そう言って、今度は真摯な面持ちでマーチを睨む。それが、この状況下では当たり前の選択で、当たり前の反応だろう。 マーチは、帽子越しにぽりぽりと頭を掻くと、しょうがないというかやりきれないというか、そんな感情を顔に滲ませていた。 彼としては、出来るだけ警戒させないようにしてみたつもりだったのだろうが、どうやらその考えは砂糖菓子のように甘かったようだ。 「おーけー、わかった。じゃあ、こうしよう」 両手を軽くあげながら、マーチは改めてメイジの説得にかかる。 「そうだな、確かに今の現状で帰って来いってのは間違ってたかもしれないな。だから、お前さんが言うように少しだけ時間をやる――二週間だ。  その間、お前の身の安全の確保が出来るように、エイプの野郎とも話をつけとく。それまで、こっちからは何も口出ししないようにする。  ただし、その代わりその期間を過ぎたら……その時は、実力行使に及んででもお前を連れ戻そうとするからな。覚悟してとけよ?」 ここにきて、話はようやく公正な取引らしい形ににはなってきた。まぁ、いきなり背中から刺されていた可能性に比べれば、遥かに優しい状況なのだが。 メイジはそっと目を伏せると、ゆっくりと言葉を噛み分けるようにして考え、マーチにまっすぐその瞳を向けた。 「――わかった、約束だからね? これでようやく、引き金から指を離せそうだよ」 見上げるような大きな身体からじりじりと距離を取って、メイジは獲物からその手を解放していく。 その様子に、白いハンチング帽は深い深い溜息を吐き出しながら応える。 「ああ、約束だ……しかし、なんで俺の妹はこんな風に成長した子ばっかりなんだか」 そう、ぼやかずには居れなかった。 「さぁ? でも、そんな風に育ててくれたのはマーチ兄ちゃんとエイプリル兄さんだよ」 どこかで聞いたような答えに、マーチは独り、高く天を仰いでいた。 「なんだよぅ、ほんとにツレないなぁ。久し振りに会ったアンちゃんに、その綺麗な髪とおでこを撫でさせてくれるくらいの可愛げはないのかぁ?」 メイジは自由になった両手でとっさにおでこを隠すと、そのままの格好でぶんぶんと頭を縦に振る。 「やだ。そんな事言って、撫でるだけじゃなくて、おでこ舐めたりキスしたりするつもりでしょ。絶対、ヤダ」 「……ほら、つれないでやんの」 完全防備のメイジを前に、哀しそうな呟きをもらすマーチ。そんな二人の前に、俊彰が遅れてようやく姿をみせる。 最初に見たのは何だっただろう。 メイジが背の高い男と楽しそうに話をしているところだったか。それとも、二人が何か言い合っていたところだったろうか。 いや、違う。多分、そのどちらでもなく――そもそも、それ以前に自分は何か見落としちゃいないだろうか? 双葉俊彰は、目の前で繰り広げられる光景に、どこか順応できないままで思考を巡らす。 そう、ついさっきまでメイジが楽しげに自分のことを呼んでいた。そして、自分もそれにだらだらと返事をしていた、筈だ。 それが、いったいどうしたことだろうか。 いま、自分の目の前にいる二人は――いや、ここ数ヶ月の間で見慣れた金髪の少女は、自分の知らない言葉で喋っていた。 それは、自分の知りうる限りの英語でもない、どこか違う国の言葉。そう、譬えるのであれば、ここからは遠いブルガリアとかの。 そんな事を考えていたら、出て行くのがすっかりと遅れてしまった。 これも盗み聞きの内に入るのだろうかと、知らない言葉で交わされる会話を聞いてしまったことを心配しながら。 「――その人、知り合いなのか? メイジ」 急にかけられたニホン語に驚きながら、メイジは安アパートの階段へと視線を送る。 「ァ――トシアキ」 まだ、どこか母国の言語を引きずっているかのようなメイジの声。俊彰は、それに困ったような顔で応じながら。 「おいおい、だめだろう? 誰かと知り合いになったなら、俺にもちゃんと教えてくれなきゃ」 そう言って頭をぽりぽりと掻きながら、俊彰はメイジと青年の間に入り込むようにしてやってきた。 「いいかぁ? 日本じゃなあ『向かい三軒両隣』って言ってな、ご近所さんや知り合った人とはしっかりと付き合っていくのが生活の基本なんだ。  だから、新しく知り合いが出来た時には、家の者にちゃんと報せなくっちゃいけないんだぞ? わかったかい、お嬢さん?」 俊彰は苦笑しながらも、いつもと変わらない様子でメイジに説き聞かせる。メイジも、それを受けてこくこくと首を横に振っていた。 青年方はと言うと、ただ静かにその光景を眺めているだけ。 「よし、いい子だお嬢さん。そんで? ここにあらせられる、背が高くて帽子をお召しになられた格好良さげな青年は、どこのどなたかしら?」 青年の方に視線を流しながらメイジに尋ねる俊彰。その表情は、どちらかと言えば硬かった。 メイジは、少し――いや、かなり慌てるようにそれに答えようとして……。 「――初めまして、トシアキさん? 姓の方を知らないもので、いきなり非礼、ご容赦下さい」 そう、青年の方が答えた。そして、彼の発したそれはとても流暢な日本語であった。 面食らうような格好の俊彰。何よりも驚いているのは、その隣に居る小さな少女の方だったのかも知れない。 「あっと、どうもすみません。すっかり自己紹介の方が遅れてしまいましたね。これは、またとんでもない失礼を致しまして申し訳ない。  わたくし、ドイツでフリーの記者をやらせて頂いている『マルク=ザイツェフ』と申します。こちらの方には、つい最近、取材旅行に参りまして……」 マルク=ザイツェフと名乗った青年は、その後もしばらく自分の経歴と日本に来た経緯などを、真摯に語って聞かせていた。 それがひと通り落ち着くと、一呼吸を置いた。そして、今度は急に人懐っこく破顔して。 「いやぁ、そうしたら不慣れなもので、少し道に迷ってしまいましてね……ははっ、お恥ずかしいのですが。  そこを、そちらにいらっしゃる小さなお嬢さんに助けて頂いていた、という様なわけだったのですよ。さぞ、ご迷惑でしたでしょう?」 ザイツェフ青年は、メイジの方を窺うようにして優しく問いかける。 メイジは、それに何の返答も返せないまま、ただ呆然と立ち尽くしていた。まるで理解が追いついていないかのように。 「そういうわけでして、また近いうちにお遇いすることもあるかもしれませんが、その時はどうぞ宜しくお願い致します」 そう言って、深々と頭を垂れるザイツェフ青年。対して、俊彰も慌てて頭を下げて返礼する。 「あ、いや、その……こちらこそ何のお構いもできませんが、よろしくお願いします。はい」 とんでもない、ザイツェフ青年はそう言って強食するように笑いながら。 「今回、助けて頂いたのはこちらの方ですから、どうぞお気になさらず……ところで、これからどちらかへと向かわれるので?」 ザイツェフ青年の人が好さそうな問い掛けに、俊彰は自然と警戒心を解かれていたのか。 「えぇ、まぁ。これから一緒にピザ屋へ行くついでに、買い物に出るところだったんです」 聞いて、ザイツェフ青年は顔を綻ばせながら「ピザですか、いいですね。私も、結構目がないんですよ」などと頷いてみせる。 そして、ふと気がつくようにして居住まいを正すと。 「あぁ、すみません。ずいぶんと長いこと引き留めてしまいましたね、重ね重ね、申し訳ありませんでした。  それでは、私もそこに停めてある車に連れを待たせてしまっているので、今日はこれで失礼させて頂きます。では、また」 そう言って一つ会釈をすると、メルセデスの白いGクラスの方へと、ゆったりとした足取りで立ち去っていった。 その後姿を見送るようにして立っていた二人は、はたと顔を見合わせる。 何かを言い当てられるのではないかと、内心で冷や汗を拭うメイジ。だが、そんなメイジの耳に届いた俊彰の言葉はというと……。 「――あの白いハンチング帽の兄ちゃん、すげぇ日本語上手かったよな」 「……あ、お帰りなさい」 車に戻ったマーチを出迎えたのは、気の抜けたようなアウグスタの声。 「おう、ただいま」 そして、それに応えるマーチの声も、幾分か気抜けしたものだった。 そんなマーチの様子を訝しむように、アウグスタが問う。 「早いじゃないですか、もう戻ってきたんですか――ところで、メイジは? 姿が見えませんけど」 「……これからお出かけするから邪魔すんな、ってよ」 「……はい?」 マーチの報告に、小鳥か何かの様に首を傾げるアウグスタ。 「あー、その、なんだ。だからな、メイジは自分を匿ってくれてるメガネの野郎と一緒に、これからピッザリアまで行くんだとよ」 「……それで、素直に諦めて戻ってきたんですか? 三月の兄さんは」 「いや、そうじゃねぇけどよ。少し考えさせろって言うから、二週間ばっかし時間をくれてきた」 「はあっ!?」 思いもかけないその顛末に、鈴の音は思わず素っ頓狂な声を上げる。 「……んな声出すなよ、珍しいな。約束しちまったもんはしょうがねぇだろ――まぁ、とにかく、だ。メイジを連れ帰るのは、しばらく様子見って事になるな」 平然と言ってのけるマーチ。一方のアウグスタは、そのあまりの衝撃にぷるぷると小刻みに震えている。 「あ、あ、あ……あきれた。呆れました、本当に」 「あぁ、それは俺が一番呆れてる……ったく。とにかく、しょうがねぇからその間だけでも寝泊りできるトコ探すか」 マーチは帽子を取ると、ソファーに身体を預ける。衝撃から立ち戻ったアウグスタは、マーチの顔を窺うようにして言葉をかける。 「……私にも、一つ提案があります」 「提案? 何よ?」 「あの子に考える時間をあげたのでしょう? それも、二週間も。でしたら、その間、私達も別々に行動しませんか?」 「別行動って……なんだ、どっか行きたいトコでもあんのか」 「……別に、そういうわけではないですけど。だからといって、こうして一日中ずっと兄さんと一緒にいる必要もなくなったわけでしょう?  それなら、空いている昼の時間をどう過ごしたっていい筈ですよね? それに、もともと私は三月の兄さんに付き合っているだけですし」 マーチはというと、珍しくすらすらと要求を述べてくる妹に少し驚きを感じている様子。 「もちろん、あの子に変な手出しはしないつもりですし、もし宿を取るのでしたら、夜になる頃にはちゃんと戻るようにします。  有事の際にも携帯端末がありますし、それで連絡を取り合えば離れて行動していても特に差し支えはないはずです」 言い切って再び、兄の顔をまじまじと見つめるアウグスタ。その勢いに気圧されるような格好で、考えを巡らす兄、マーチ。 「――まぁ、どうせお前にゃヒマさせちまうからな、それでも構わねぇさ」 「そうですか、よかった……じゃあ、話もまとまったところで」 兄の答えに喜び、胸元でパンと手を合わせると、続けざまにこう言った。 「さっきのお話の続きを伺わせていただけますか?」 「まぁだ覚えてたんか」と言って困り顔のマーチ。 「えぇ、もちろん」と答えて微笑むアウグスタ。 「――まぁ、だから、なんつーのかな。つまりだな、呼び慣れた言い方を今更変えるのは面倒だって話だよ」 ゆったりと倒した本皮ソファーに実を預けながら、駅で買ってきた生菓子を再び頬張りつつ、マーチは言う。 「……あれだけ延々と先延ばしにしておいて、言いたいことはそれだけですか三月の兄さん」 同じく件の生菓子をつまみながら、本皮ソファーの上で膝を抱えるようにしていたアウグスタが言う。 ウォルナットであつらえられたドリンクホルダには、緑の炭酸飲料と缶入り紅茶がやはり一本ずつ。 口休めとばかりに炭酸をすするマーチ、それにつられるようにアウグスタもまた安っぽい味のする紅茶をこくこくと口にする。 見た目より割りと窮屈な車内。微音量のカーステレオからは、金曜日の昼を最新チャート曲のカウントダウンで愉しむ陽気なラジオが流れ続けていた。 オリエンタルなムード漂う異国の音に耳を傾けながら、マーチは再び生菓子を手に取り口元へと運び、かじる。 「しかし美味いな、このトオキョーバナナ」 「話を逸らさないで下さい、刺しますよ?」 どこから取り出したのか、刃渡りが10センチ以上はあるフルタングのナイフをマーチの喉元に向け、ジト眼で睨むアウグスタ。 ダマスカス鋼特有の曲線紋様が鈍く光るのを視界の端に捉え、帽子越しにぽりぽりと頭を掻くマーチ。東京銘菓を咥えながら。 「まぁ、そうカリカリすんなって。それについては、今度またゆっくりとお話するってことで。な?」 「……兄さんは、さっきもそう言いました。前にもそう言ってごまかした」 口をむすっと尖らせる少女と煌くナイフ。マーチは苦笑いを浮かべながら、厚みのある刃を指でつまんで外へと逸らす。 「まったく、オーガちゃんは相変わらず危なっかしいなぁ……兄弟に武器を向けちゃいけないって、教わらなかったか?」 「……兄さんが話をごまかそうとするから」 「別に、ごまかしちゃいないさ……あー、それと。そんな怖い顔してちゃ、せっかくの美人が台無しだぞ?」 「……知りません、そんなこと」 ナイフの切っ先を逸らされてもなお、マーチから視線を外さないアウグスタに観念したのか、マーチは大仰に両の手をあげて許しを請う。 「わぁった、やりすぎた、アンちゃんが悪かった。謝るから、そのしかめっ面とナイフをどうにかしてくれ」 「……信用できませんね」 「はいはい、はいはい。じゃあ、ニホンに居る間はしばらくオーガって呼ばない。とりあえずは、これでいいだろ? アウグスタ」 アウグスタは少し考えを巡らす。だが結局、その微妙な条件で取り敢えずは納得することに決めたらしい。 「……仕方ないです。けれど、約束は約束ですからね。もし破ったりしたら、今度は本当に刺しますからね?」 釘を刺されたマーチは「あいよ」と軽い返事をしながら溜息を一つ。それを確認してからようやく、腿に隠してあったシースへと戻す。 望む形ではなかったにしろ、一定の成果をあげたことで気を良くしたのか、祝杯代わりの安っぽい味のする紅茶をこくこくと飲み干すアウグスタ。 「しかし、まぁ……なぁんでこんな危なっかしい子に成長しちゃったのかね、キミは? 先代の8月も天国でほろほろと涙をこぼしてるぜ、きっと」 「さぁ? 第一、こんな風に育てたのは先代じゃなくて、三月の兄さんと四月の兄さんの方でしょう?」 拗ねるような目線でマーチの方をちらりと見ながら、アウグスタの手は『トオキョーバナナ』へと伸びていた。どうやらお気に召したらしい。 アウグスタの言葉を受けた当の本人は、帽子越しにぽりぽりと頭を掻くと、それを目深に被り直す。そして。 「――あぁ、ほんとに。こんなことなら、ナイフの使い方なんて教えてやるんじゃなかったかな」 などとぼやきながら本皮ソファーのリクライニングを眼一杯倒すと、ひとまずは不貞寝を決め込むのであった。