――梟鳴―― あれから車を走らせること、実に8時間強。マーチはいま、隣国であるマケドニアまで来ていた。 もちろん、メイジは迎えに行く。それは揺るぎないことだが。彼には、その前に寄る場所があったのだ。 そうして、夜の帳が下りた頃。ようやくその目的地である一つの邸宅の前へと辿り着いた。 月明かりに照らされたアラバスタホワイトの車体の中で、マーチはおもむろに携帯端末を取り出す。 端末の液晶に表示される時刻を確認すると、静まり返った邸宅を見上げる。 灯りの一つも点っていない部屋の窓辺には、小さな人影を見止めることができた。 一息ついてから、マーチは携帯端末を操作した。 ハーレクインのカバーをめくりながら、彼女は窓辺に座っていた。 宵闇の部屋、外には梟の鳴く声が遠く響く。 冷気を含む風が、彼女の長い髪とカーテンを揺らし、ページを勝手に先へと進ませてしまう。 緩慢な間を置いて、小さな嘆息が一つ。 「まだ、途中だったのに」 漏れたのものは鈴の様な音色。吹き込む風よりも微かな声、残響も無い。 片手で軽く髪をすくうと、読みかけの本をそっと閉じた。 子猫の様な小さなあくび、まなじりに浮かんだ涙を拭う細い指先。 窓枠に背をもたれ掛けると、やんわりと瞳を伏せ、先程までの物語の余韻に浸る。 北欧のとある街。そこに住む傲慢な紳士と、自立心のある女性が運命の様に出会い喧嘩をし、そして――。 携帯端末の無機質な呼び出し音が、二人の逢瀬の邪魔をした。 わずかに眉をひそめ、無作法な雑音をそのままに再び幻想の世界へと。 「――うるさい」 しかし、微細な抵抗も空しく、呼び出しは鳴り止む気配をみせない。 仕方ない。彼女は、瞼を閉ざしたままで携帯端末を手に取り、呼び出しに応じておく事にした。 「はい、私です」 『お、やっと繋がった。俺だよ、わかるかぁ?』 声を耳にした瞬間、通話を切ってしまいたくなった。 だが、ここでそんな対応をしては後々で何をされたかわかったものではないので、それは止めておいた。 その代わりに、ワザとらしく嘆息を交えてやる。 「――あぁ、三月の兄さんですか。こんな夜分に何の御用でしょう?」 生活柄、時間に夜分も何もあったものではないが、この相手にはそれで充分。 『あ、そう。じゃあ、手短に用件だけ伝える』 「お断り致しても宜しいでしょうか、三月の兄さん」 『ダメ、アンちゃん命令。お前も仕事が終わった頃だろうよ、都合がイイ』 ああ、今回はしつこい。そうなると、大概は厄介で面倒な用件と相場が決まっている。 これは、是非ともお断りしたい。 「ご察しの通り、私も疲れています。聞くだけでも宜しければ、お伺い致します」 『そうツンツンすんなよ――メイジを迎えに行く。付き合え、オーガ』 今、電話の先に居るこの男は何と言ったか。 迎えに行くと、そう言ったのだろうか。誰を――出奔したまま行方の知れなかった妹を。 「メイジ――あの子を?」 そして、私にそれを無条件で付き合えと。 『おう』 あの子の逐電先は、大人たちの手を以ってしても今まで掴めなかったはずだが。そうか、四月の兄さんだ。 私とて、あの子の逃げた場所に興味がないわけではない。けれど、ここでそれを訊いてしまう事は、即ち。 「――それで、あの子は何処に」 そうして、つまらない興味が勝ってしまった。これで、これから先にある面倒事のお付き合いは確定した。 確証は、ほら、電話の向こうでにへら、と笑う声が聞こえた。兄の顔がありありと目に浮かぶじゃない。 『エイプの野郎に教えられたんだが、メイジの潜伏先は――』 ああ、ああ、聞き間違えであって欲しい。何でそんな所に逃げ込んだのか、あの子の気が知れない。 しかし、訊いてしまった以上は、もうこの用件を断れないのだから、何処であっても同じ事なのだけれど。 『まァ、そういう事だ。長い長ぁいお散歩の付き添い、ヨロシク頼むぜ、愛するオーガちゃん』 「何を言っても聞かないのでしょう? 仕方無いので、三月の兄さんの遊びに付き合ってあげます。  ですが、何度も同じ事を言わせないで下さい。私の名前はオーガじゃないから――私は、アウグスタです」 そう告げると、迷惑な兄からの電話を強引に切ってやる。 私の読書と幻想の世界の二人を邪魔した挙句に、勝手な都合を押し付けてくれた事がしゃくに障ったからではない。 オーガ、あるいはオーグ。いつの頃からだったろうか、周囲の者は皆、彼女をそう呼びつける。 八月という名になぞらえての呼びやすさか、それとも単に皮肉を込めてのものなのかは知らないが。 人食いの鬼にも似たその名の響きを、彼女はひどく厭っていた。 「オーガだなんて、二月の姉さんの方が余程じゃない」 窓枠にもたれかかったまま、鈴の音が愚痴る。 それに第一、オーガは男性名。女性であるならば、オーガスと言うのが適当である。 私は、アウグスタ。父親から貰った、大事な名前だ。その名をとても気に入っているのだ。 他の名で呼ばれる事など、あってたまるか。 それと、兄の話に乗せられてしまった自分に対しても、少なからず苛立ちがあった。 先にある事を見越せていながら、それでも興味を先行してしまうのは悪い癖だ。 そうと知りながら、尚もそれを改善しようとしない己のものぐさにも辟易する。 しかし、まあ、妹の所在が判明しただけでも良しとするべきか。 どこまで読んでいたかもわからなくなったカバーを閉じると、そのまま窓辺に置き捨てた。 そもそも、これは自身の持ち物ではなかったから。 彼女は、長らく自分の席であった窓辺からそっと立ち上がると、ゆっくりと伸びをした。 部屋の片隅では、青毛の子猫が真似をする様に身体を伸ばす。 それを見ると微笑みかけ、子猫の頭を軽くひと撫で。子猫から喜ぶ声が上がる。 床には、本棚から崩落した書籍や、寝具からこぼれた羽毛が散乱。 今回は、少しやり過ぎた。 仕事の不手際を思いながら、緩慢な動作で入り口へと向かい、途中、何かが彼女の足元にぶつかる。 書籍に埋もれ、褐色に似た染みをつけた蒼白い棒状。それは、ほんの数時間前まで部屋の主であった者。その腕。 そんな物、見ていたってつまらない。だから、ただ、一瞥。そのまま開き放しの扉まで歩み、ノブに手をかける。 「Лека нощ……」 それだけを残して、彼女は部屋を後にした。 そして、外では待ちかねたかのようなメルセデスのクラクションが彼女を待ち受けていた。 -------------------------------------------------------   ――幕間―― マケドニアとブルガリアの国境付近にある安ホテルの一室、そこのベッドの上でマーチは目覚めた。 そう、いよいよこれから組織を抜け出して失踪した妹を捕まえに行くのだ。 目覚めの一杯にと、昨日の晩からベッド脇のチェスターに置いたままのグラスにウィスキを注ぐ。 グラスに氷は入っていないが、迎え酒にはかえって丁度いい。そのまま一気に飲み干すと、ベッドの上からのそのそと起き上がった。 目をしっかりと覚ますためのシャワーから出ると、脱ぎ捨ててあるシャツに袖を通し、いつものスーツ姿に着替える。 準備は昨日の内に済ませてある。あとはそれと得物を仕舞ったハードケースを持てば、出立の時間となる。 最後に携帯端末を確認してから、その時刻をこれから向かう国の時刻に合わせておく。 ――さぁ、それじゃあ、行こうか。 お気に入りの白いハンチング帽を被って、ホテルのドアを開ける。 そこには、廊下の壁に所在無さげにもたれかかっているアウグスタの姿があった。 その足元には大きめのアタッシュケースが一つ。彼女の方もマーチと同様、既に出発の準備は整っているようだ。 「遅いじゃないですか、三月の兄さん……」 先に口を開いたのは彼女の方だった。語気には不機嫌さが多分に含まれていたが、その顔を見る限り、怒っているわけではないようだ。 「おう、早いじゃん。そんじゃ、ちょっくらお出かけしてこようか」 マーチはにへらと笑って見せると、そのままホテルのチェックアウトへと向かう。 「……もう、勝手な人なんだから」 そう言って不平をもらしながら、アウグスタもその後に続いた。 -------------------------------------------------------   ――極東上陸―― 「――なんだ、マーチか」 秘匿回線からの電話を受けて、彼はつまらなそうに応じる。腰掛けているのは、エボニー製のデスクの机上。 据え置きのチェストから白檀の香を取り出し、木箱の中から葉巻の一本に火を点ける。 『なんだ、は無ぇだろうよエイプ。大事な兄弟からの電話じゃねぇか』 受話器の向こうに、にへらと笑うマーチの姿を想像して軽くかぶりを振る。 「そうだな、これが明確な回線のものであれば歓待してやったところだ。わざわざ秘匿回線を使わなくてもいいだろうに。  俺が口外しない限り、通話や情報が外部に漏れることは無いんだ。いたずらに俺の仕事を増やさないでくれないか、マーチ」 Davidoffの銘の葉巻を燻らせながら、名義秘匿の国際回線に苦笑を乗せる。 『あぁ、悪ぃ悪ぃ。いま、俺、最果ての地。オーガも一緒』 「――ほぅ。なるほど、それはまた物騒なお供だこと」 お前にしては用心深いな、と付け足して笑う。まぁ、あのアウグスタが素直について行ったとも思えないが。 『そうは言うがなエイプ。もしも、匿ってる野郎がディスみてぇなモンだったらどうするよ? 堪らんだろうよ』 電話越しにもマーチの大仰な様子がありありと伝わってくる。 「そうだな。それは、俺でも勘弁願いたい。まぁ、メイジを上手く口説いて来いよ、健闘を祈る」 そう言って受話器を置く。間際に、任せとけ、と聴こえた気もするが。 さて、父にはどう言い訳をしたものか。そちらの方が、彼にとっては余程の難題だ。 「――あ、切りやがったな、あんにゃろ」 小さな電話ボックスの中、手にした受話器からは終話の電子音が流れている。 つれねぇ野郎だ、遠い祖国の兄弟に毒づく。 役目を終えた受話器をホルダーに戻すと、電話機に繋いだ端末のケーブルを引き抜いた。 他人の国際回線を拝借し、発信記号や通話記録も残さない。 「便利な代物だわな」 端末をブリーフケースに仕舞い込み、ハンチング帽を被り直すと、電話ボックスを後にする。 彼が居るのは、駅付近の繁華街。向かう先は、道路脇に停めたままにしたアラバスタホワイトのゲレンデワーゲン。 小ブルの多いこの国では、そう珍しい物でもあるまいに、眺め行く人も少なくない。 その理由の大半は、道を塞いでいる迷惑さと、車体に寄り掛かっている少女の存在によるものだったのだが。 彼女は物憂げな視線を虚空に向けていた。華奢な腕を後ろ手にしたまま、何をするでもなく、待っていた。 「よぅ、お待っとさん。留守番、ご苦労ご苦労」 ブリーフケースを片手に戻って来たマーチが、窺うような恰好で笑う。 「……遅いですよ、三月の兄さん」 祖国の空よりも低くて暗い天井を見上げながら、彼女は面倒臭そうに呟きで返した。 街を歩く人々の目から見て、彼等の姿はどの様に映っただろう。 遠目にも映えるプラチナブロンド、春草の様な淡い瞳をした北欧系の長身の美青年。 腰元まである長い黒髪にアーモンド状の澄んだ黒瞳、陶磁の様に白い肌の美少女。 傍らにあるのは、最高水準の車格を誇るメルセデスベンツのGクラス。着ている服だって安そうな物ではない。 そして、口にするのは異国の言語。 これが何かの撮影場面だと言われて、感心する者こそあれど、訝しむ者はそう居ないだろう。 異国の人間の往来が珍しくも無いこの街で、しかし二人の持つ雰囲気は異質なものだった。 「まぁ、そう拗ねんなよ。いい子にしてたかい、オーガちゃん?」 「……何人か、私に声を掛けてくる男達がいました。勝手に諦めてくれたようでしたが、残念です」 ことさら残念の部分を強調して応じる。それは、確かに彼女の本心だったのかもしれない。 「ほぉう! ほうほう、オーガちゃんがナンパされたってか! それはまた度胸のあるヤツラもいたもんだな」 「……失礼な言い方ですね、三月の兄さん」 虚空を彷徨っていた視線をマーチへと向ける。その眼差しは拗ねている様にもとれる。 「まぁ、なんたってオーガちゃんは美人だからなァ、そいつらの気持ちもわからんでも無ぇけどな。  しっかし、何も知らねぇのは命知らずと一緒だわな。いや、そいつらが羨ましい羨ましい」 「……あぁ、本当について行ってしまえば良かった」 嘆息をもらしながら、さも面倒そうに瞳を伏せる。 「彼等の言葉の全てまではよくわからなかったけど。それでも、その方が、三月の兄さんと一緒に居るよりかは随分とましだったでしょうから」 聞いて、マーチは興味深そうに眉を少し吊り上げる。 「ほほぅ、これはまた珍しい事を。趣旨変えしたってんなら、アンちゃんは嬉しいぞぅ?」 「……別に、趣旨変えなんてしてません」 「ん? ほっか、そら残念。しかしオーガちゃ――」 「アウグスタです! オーガじゃない」 言った。冷静を欠いた。らしくもないが、仕様が無い。 この人は、何度言っても聞かないのだ。こんなにも単純で取るに足りない大事なことでさえ、融通が利かない。 飽くまでも自分のペースとスタンスを崩さない。苛々する。癪に障る。 適当に、我儘に。 かつて、そして現在でも傲岸不遜にも言い放つ、彼の銘。 つまりはそう、わざとやっているのだ。違いない。 「その呼び方をやめて下さいと何度も何度も。いい加減、怒りますよ」 見据える。対して彼は、私の頭を抱きすくめた。 「おぉ、怖ぇ怖ぇ。そう剥きになんなよオーガ、アンちゃん寂しいだろうが」 そして、またしてもその名を口にした。臆面も無く。 完全に遊ばれている。 「つーかよ、別にオーガでもいいじゃねぇか。カッコいいぜ?」 「厭だって言っているでしょう! それに、恰好良くありません!  それと、ひとの頭に抱きつきながら喋らないで下さい……やめないと、かっ斬りますよ」 ああ、この遊びが終わったら、まず真っ先にこの人を殺そう。絶対に殺してやろう、そうしよう。 -------------------------------------------------------   ――部屋と、これまでと、ワタシ―― 大学の帰りにあちこちへと寄り道をしていたら、すっかり遅くなってしまった。 久し振りに会った親友とファミレスで軽く飯を食った後、模擬店の買い出しついでに晩飯の食材を買いにスーパーへ。 そこで学部の先輩に出くわし、彼の就職活動の状況と惚気話に捕まること小一時間。 それから開放されると、今度は大型電気店に足を運ぶ。そこで期待の新ハードを買うか否かで悩むこと小一時間。 結局、購入は今回も見送る事にして、俺が次に向かった先は近所のゲーセン。しかし、それが拙かった。 長ネギの飛び出したスーパーの袋を傍らに置きつつ、レースゲームで懲役モノの成果を叩き出してみた。 その後も、独り淋しく電脳アイドルの育成に心血を注ぎ、クイズの学校に勤しんでは、ロックスターに成り切ってみたりもした数時間。 そうして、熱く滾る激情をぶつける為に乗り込んだコックピット。操縦桿を握りしめ、殺意と銃弾の雨の中を駆け抜ける。 混線する悲鳴と怒号、白い悪魔との一方的な激闘。その果てに、俺はようやく一つの答えに辿り着いた――。 「戦場に、絆など無かった……」 アパートの部屋の前で突っ立ちながら時計を確認する。時刻は、既に夜中の11時を周っていた。 「……さすがに、メイジも寝ちまってるだろうな」 悪い事をした、そんな風に思いながら鍵を開けると、音を立てないようにゆっくりとドアノブを回す。 隙間から部屋を覗き込む、灯りは点いていない。やはり眠っているのだろう。 「ただいま――」 恐る恐る、といった感じの小さな声で、自分の部屋に帰宅を報せる。 「おーそぉーいぃーっ!」 居た。驚いた。 ドアを開いたすぐ目の前、上がり框のやや後方。そこに敷かれたマットの上で、腕組みをしながら彼女は居た。 苛っとした様な立ち姿、真っ直ぐに向けてくる視線が痛い。 「あ、えっと……スマン、遅くなった」 「そーれーはー、聞かなくてももうわかってますー。遅くなるなら、ちゃんと教えてください」 今日は怒られてばかりな気がするぞ、俺。 「その……少し立て込んじまってたもんで。悪かった、今度からはもっと気を付ける」 「うん、よろしい」 まだ、ちょっと不機嫌そうな感じだが、メイジは腕組みをしたまま大仰に頷いてみせる。 その様を見ながら、ふと、不埒な妄想に至る。 これではまるで、同棲したての恋人か、お嫁さんみたいだな。 「へ? オヨメサン? なぁに、それ?」 少女は不思議そうな顔で小首を傾げる。どうやら、気付かない内に妄想が言葉になっていた様だ。 「あ、いや、何でもない! こっちの話だ」 慌てて誤魔化す。しかし、奥様が『ブルガリアからやって来た10歳の少女』というのは、倫理的にどうなのだろう。 いや、それは色々と駄目だろう、俺。 駄目だよな、俺? 部屋の電気を点ける。テーブルの上は、俺が出掛ける前と何も変わっていなかった。 「なぁ、メイジ」 「なぁに?」 柔らかなハニーブロンドがこちらを振り向く。それと同時に、きゅう、という小さな音が聞こえた。勿論、俺のじゃない。 瞬間、ちょっとだけ恥ずかしそうな表情でうつむくメイジさん。 食える物は、インスタントでも菓子でも買い置きがある筈だ。しかし、それにも手を付けている様子は無い。 まさか、と思いながらも問いかけてみる。 「もしかして、まだ何も食べてない……とか?」 それに、小さな頷きで返してくるメイジ。おいおい、マジですか。 「別に、先に食べていてくれて良かったのに、どうして?」 どうにも、仕様も無い事を訊いている気がする。 「だって、としあきを待ってようと……思ったんだもん」 「ぎゃーっ! もう、お馬鹿ーっ! いや、馬鹿は俺か。ちょっと待ってろ、今すぐ何か作るカラっ!」 俺は、急いで買い物袋の中身を取り出し、冷蔵庫の中を確認する。 玉子1パック、長ネギ、青梗菜、鳥の胸肉――よし、充分だ。 「悪い、予定変更! 旨いモン作ってやるから、その間コイツで我慢してくれ!」 言って、俺は買ってきたばかりのヨーグルトをメイジに渡すと、猛然と台所に戦いを挑み込む。 材料を水にかけ、まな板を用意。そうして、下拵えの合間に鍋に火をかけようとした時。 「えーっ! アロエが入ってるの、あんまり好きじゃないー!」 背後からあがる不満の声に、ふと、脳裏を過ぎるものがあった――。 「えーっと……はい?」 陽射しの強い、昼の茹だる様な空気の中、俺は何かの幻想を見ている気がした。 俺はピザを頼んだはずで、来訪者はピザの配達員であるはずなのだが。 開け放たれた玄関の前には、ウェーブがかった金髪の少女が独り佇んでいる。 夏だというのに黒いコートを着込み、その身には大きいであろうトラベルバッグを傍らに携えて。 そして、片手には何とも形容しがたい不気味な造形をした兎のぬいぐるみ。ちなみにその色は、どピンクだ。 来客の少ない俺の部屋に、よもやこんな怪異が訪れようとは。 夏休みという青春の1ページを充実したエロゲーで夜を徹した俺にすら、想像し得なかった事態だ。 玄関先に佇む少女は、俺の様子に小首をかしげてみせると、表札の方をちらりと確認。 「……フタバ……トシアキ」 そして、不確かな感じの日本語で俺の名を口にする。というか、俺に確認を求めてくる。 「え、あ、はい。確かにフタバトシアキは俺です……けど?」 俺がそう答えると、考え込むような顔つきの少女は、やがて何に納得したのかコクコクと一人で頷いてから。 「フタバトシアキ、私を養ってください」 ――とまぁ、なんとも流暢な日本語でとんでもない発言を繰り出してくれたのだ。 いや、真夏の炎天下にいきなり現れた金髪少女が養ってくれとか。いい加減落ち着け、俺。 「エロゲ脳が全開過ぎる……夏だし、沸いたか?」 玄関の只中で、俺が一人頭を抱えている様をじっと見つめている金髪少女。あと、不気味ウサギ。 「えーと、すみません。もう一度お願いします……って、日本語じゃ駄目なのか。あー、その、わ、わわワンモアチョイス!  ――じゃなかった。アンモアプリーズ? いや、違うな。あーっと……パードゥン?」 こんなことなら、中学・高校時代にもう少し英語をちゃんと勉強しておけばよかったなどという場違い気味な後悔が俺を支配する。 玄関の只中で、俺が一人頭を抱えている様を、やはりじっと見つめている金髪少女。あと、不気味ウサギ。 特に、不気味ウサギ。こっち見んな。お前の目はなんというか怖い。 「フタバトシアキ、私を養ってください。お願いです」 俺の拙いエセ英語が通じてくれたのか、金髪少女は改めて先ほどのトンデモ発言を繰り返してくれた。しかも、今度はお願いされた。 ついさっきまでエロゲで感動の熱い涙を堪えかけていた俺も、この状況ばかりは思考がうまく追いつかないでいる。 「……とりあえず、中に上がってそうめんでも食うか?」 思わず俺の口から出た言葉は、色気も男気も無いそんなしがない言葉だった。 俺の言葉を聞くと、金髪少女は首を横に力いっぱいぶんぶんと振った。 ――あれ? そうめんは嫌いなのかしら? というか、微妙に日本語通じてるんじゃない? 食文化の違いなのだろうか。自分の浅慮さに苦笑したが、ともかく外は暑いだろう。そう思って、ひとまずは彼女を部屋の中へと招き入れる。 金髪少女は、自分の身の丈の半分はありそうなトラベルバッグを引きずりながら部屋の中に入ると。ありがとう、と礼を述べた。 「フタバトシアキ、あなたにしばらくのあいだ、私を養ってほしいんです」 「あー、うん。よくわからんけど、とにかくわかった。その話は後でゆっくり聞こうじゃないか」 そう言って結論を先延ばしにしながら、俺は冷蔵庫からペプシコーラを取り出し二人分のグラスにそれを注いだ。 ひとまず、ゆっくりと腰を落ち着けようじゃないか。 なみなみと注がれたペプシを金髪少女の前に差し出す。金髪少女は一瞬躊躇したようだったが、喉が渇いていたのだろう、ごくごくとそれを飲み干した。 そして、小さくしゃっくりをしていた。 「――それで、どういう経緯でキミは俺なんかのところにやってきたのかな、お嬢さん」 自分のグラスを軽く舐めた後、俺が本題に入ろうと彼女に質問を振ろうとして――同時に、きゅう、という小さな音が聞こえた。勿論、俺のじゃない。 瞬間、ちょっとだけ恥ずかしそうな表情でうつむく金髪少女。喉だけじゃなく、よほど腹の方も空かしていたのだろう。 俺は、笑っちゃいけないなと思いながらも、どうしたものかと少しばかり考えてしまった。 さっきそうめんをすすめた時、力いっぱい断られたように、食文化の違いというものもあるのだろうし。 欧米といったらハンバーガーとかチキンとかかな。けれど、それじゃあ流石に彼女を待たせてしまうだろうし。 悩んだ末に、俺はもう一度冷蔵庫を開けていた。そして、取り出したものは、カップ入りのヨーグルトだった。 それは、俺が昨日、夜食にでもしようとコンビニで買ってきた代物だった。俺は、アロエの入ったヨーグルトが好きなのだ。 「コレ、食うか? ヨーグルトだけど」 外人だし女の子だし、甘いものなら好きだろうという甘々な考えからきた提案だったが、金髪少女は嬉しそうに瞳を輝かせていた。 成功? ねぇ、俺。これって成功? ともかく、俺はヨーグルトのカップとスプーンを彼女に差し出してやる。彼女は待ちきれない様子でフタを開け、スプーン一杯分すくって口の中へ放る。 もきゅもきゅという音がしそうな感じでヨーグルトを食んでいた金髪少女は、首を縦にふるふると振ると、突如として苦い顔になって。 「うー……アロエ、あんまり好きじゃない」 「な、なんですとっ!」 そんな過ぎた夏の日の事を考えている内に、料理はすっかりと出来上がっていた。 玉子、長ネギ、青梗菜と鳥の胸肉を使って出来たものは、醤油とバターでさっと炒めた創作料理。 ママン直伝の自慢の味だ。見た目はちょっぴりアレで大雑把な感じだが。 そして、程よく炊けて蒸し上がったご飯と、ニラの玉子とじ味噌汁を並べたら、それなりの食卓の出来上がりだ。 「さぁ、どうぞ。だいぶ遅くなっちまったけど、召し上がれ」 メイジは、待ちかねていたとばかりに首を横に揺ると、嬉しそうな表情を浮かべてくれる。 そう、首を横に振るというのは、ブルガリアではYESのサインなのだ。あの時、それを知っていたら、ちゃんとそうめんを食わせてやれたのに。 よし、じゃあ、明日の昼飯はそうめんにでもするか。 俺がそんな事を考えている事を知ってか知らずか、メイジはお箸をしっかりと持って俺に一礼。 「おかわりもちゃんとあるから、ゆっくりと味わって食ってくれ」 「はぁい、わかってまぁす。それじゃ、いただきまぁす!」 この数ヶ月間ですっかり慣れたのか、器用に箸を使いながらおかずやご飯を口へと運んでいく。 そして、もきゅもきゅという音がしそうな感じで、実においしそうに食べてくれている。 それだけで、作った俺としては十分にお腹いっぱいになりそうなほど嬉しい。 嬉しいついでに、俺はひとつメイジに提案を持ちかけた。 「なぁ、メイジ。お祭りって好きか?」 メイジは瞳をまん丸にさせながら、俺の方を見る。 「オマツリ? えと、カーニバル?」 そうか、まだ『お祭り』はわからなかったか。しかし、神社の縁日や大学の学園祭もカーニバルっていうのだろうか。 「そう、カーニバル。今度の週末に大学の近くの神社でやるんだ。よかったらメイジも一緒にどうかな、と思ってさ」 すると、メイジは瞳を輝かせながら、食卓から身を乗り出すようにして。 「好き! カーニバル……オマツリ好きだよ、としあき。連れてって連れてって!」 そう言って少しはしゃぎ気味に、好奇心と期待感を俺に直球でぶつけてくる。 「そっか、よし、わかった。じゃあ、今度の週末は一緒にお祭り三昧だ。しっかり楽しませてやるからな!」 「わぁい、やったぁ! オマツリ~、オマツリ~!」 そうして俺は、メイジと一緒に秋祭りに行く事を約束した。 予算は……きっと、大丈夫。まぁ、それはなんとかなるだろう。 そうして、二人が出会った日を思い出した夜は、楽しくゆっくりと過ぎていった。