――お酒と煙草とおはよう、夕ご飯―― 窓の外は、もうすっかり秋。弱々しく吹き付ける風に、赤く色づいた木々の葉が揺れる。 気が付けば、気候は既に冬に差し掛かっている気がする。 日本は、四季のある素晴らしい国だ。秋刀魚も美味いし、それを肴にして呑む酒も旨い。 しかし、季節を感じるという事は、経過した時間の長さもはっきりと感じてしまうというわけで。 だから、まぁ、何と言うか。昼間からこうして酒を呑んでいたという事は、つまり。 「またしても大学をサボっちまったというワケで」 携帯電話を片手に苦笑する。 『いやいやいや、そんな叙情的にサボりました宣告をされてもだな。こちらとしても、苦笑を禁じ得ないワケなんだが』 電話越しの相手は、ほろ酔いの俺に優しく呆れてくれた模様。 「ははは、笑わば笑え同窓の士よ。お前は俺を置いて、道の先へと進め」 『阿呆が酒で痴呆になったか。言われずとも、去年で既に先輩になってしまっているのだよ、かつて同窓だった士よ』 いや、やっぱり優しくなかった。 『……というよりだ、君はこれ以上単位を落とせない筈ではなかったかね。  確か、昨晩も部会の帰りの道すがら、そう聞いた記憶があるのだが。こちらの気のせいかな?』 「……はい、そうでしたスミマセン」 『はぁ……君は本当に危機感を持っているのかね。なぁ、双葉?』 嘆息まで出してきますか、そうですか。まぁ、悪いのは自分自身に他なりませんが。 「はい、気を引き締めなおして明日から頑張ります」 『そうか、それはよかった。だがな、学業を怠って、昼間から酒宴に興じる男の言を信じられるものか。この駄犬めが』 えーと、訂正。呆れているを通り越して、静かにお怒りの模様です。 いや、そうですけれどもね。その仰り様はいくらなんでもあんまりじゃないでしょうか、かつて同窓だった士よ。 「……ひどい」 『酷くない。己の言をまっとう出来ない様な童貞男児が何を言う』 それは確かに、返す言葉もございませんが……いや、しかしだな。 「お、女の子がそんな言葉遣いをしちゃイケナイんだぞ!」 大学の元・同窓生にして、俺の所属する部の長でもある親友。名を、関 羽衣。 姓がありきたりな分、名の方が浮きまくっている。そしてそのご多分に漏れず、名前にコンプレックスを抱いている人間の一員である。 俺もその一員なのだが、こういう悩みはごく真っ当な姓名を持つ方々には理解して貰えない事が多いわけで。 間違っても『関羽』などと略称した暁には、もれなく鉄拳制裁が待ち構えている。あれは、痛い。 ちなみに、何故か『衣』と呼ばれるのは問題ないらしい。難しい御仁だ。しかも、姉御肌。 『そんな奴じゃなければ、君と渡り合って来れたと思うか、双葉』 「……はぁ、まぁ、仰る通りでございますれば。いつも迷惑かけてすまんな、関」 だから俺達は、互いを呼び合う時には姓を用いる。気付けば、自然にそうなっていた。 『まぁ、いいさ。お前が、明日からしゃんとすると言うのなら、これ以上くどくどと責め抜く気はない。  しかしだな、双葉 俊彰よ――明日は、土曜日なのだが』 あれ? そうでしたっけ? おかしいな、曜日の感覚が狂ってやがるぜ。 「……では、月曜からは気を引き締めなおして頑張ります」 『いや、訂正せんでいい。明日から頑張れ、気を抜くな。そして、たまには外に出て空気を吸って来い』 電話はそこで切れた。なんか、切り際、普通に笑われてたんですけど。 「まぁ、そうさね。たまには外の空気も吸わんとな」 役目を終えた携帯電話を食卓に置くと、そのまま惰性で煙草に手を伸ばす。 黒に金字のパッケージ。『JPS』が、俺の愛煙の銘だ。 黙々と嗜好を燻らせながら、今後のキャンパスライフと当面の生活費について思考を巡らす――10秒で終了。 明日から頑張ると言ったのだ、今日は精々怠惰に過ごそうじゃないか。うん、そうしよう。 「明日やれる事を、今日する必要は無い」 一応、自分に言い訳だけはしておく。そして、そんなつまらない懸念は、嗜好と共に灰皿に打ち棄てた。 関の奴に『今日やれる事を明日に延ばすな、この馬鹿者』などと叱られそうだが。 最近、自分が学業を疎かにしている事は否めない事実だ。これは、確かにまずい。 しかし、あまり家を空けられないような厄介な事情があるのも、これまた事実だったりする。 その事は、家族にはおろか、友人知人の誰にもまだ打ち明けていない。 ……というより、打ち明けられようも無いからこその厄介な事情というものなのだが。 「う……ん? としあきぃ」 後方から、とろんとした声があがる。どうやら、件の厄介な事情が目をお覚ましになられた様だ。 俺は、首だけをひねる格好で声のした方に視線を向けた。 床敷きにしたままの布団がもぞもぞとうごめき、中身がひょっこりと顔を覗かせる。 「おう、どうしたメイジ。お目覚めかい?」 メイジ。それが、俺を半引篭もり状態たらしめている張本人にして、人知れず我が家の寝床を占める小さな居候さんの名だ。 彼女はまだまだ眠たそうに目をこすりながら、あくび雑じりに何事かを訊いてくる。うん、非常に聞き取りづらい。 背にしたまま喋るのも何なので、自分が体ごとそちらに向き直してやる。 「すまん、何を言ってるのかわからん。あくびをするのか話をするのか、どっちかにしてくれ」 「うぅー……お話し声がした気がします、誰かいるのですか?」 メイジは少しだけむくれた様子になったが、今度はちゃんと聞き取れる言葉を聞かせてくれた。 「ああ、学校の友達と電話でちょっとな。今は、一人で酒と煙草を愉しんでた」 「そうですか……」 むぅ、と小さな唸り声をあげて、まばたきを三度ほど。 寝ぼけ眼できょろきょろと視線を巡らすと、再び巣穴の中へと潜っていった。 「――って、こらこら。また寝るんかいお嬢さん」 巣穴に戻った中身は、毛布と布団を巻き込む様にして包まる。ついでに、枕も引き寄せて入り口を封鎖。 ――完全防備だ。冬眠でもする気ですかあなたは。 確かに寒くなってきたとはいえ、今は秋だ。冬眠するにはまだ早い。早いので、布団の繭を引っ張ったりしながら冬眠を妨害してみる。 「あと5分……あと5分だけぇ……」 「いやいや。あなたは、出勤前のOLさんですかい」 しかし、当人は意味不明な呻きと共に、芋虫か何かのようにもぞもぞと動くばかり。 まぁ、それはそれで面白いので、普段ならば一向に構わないのだが。今回は別だ。 給料日の三日前、実家からの仕送り日は、まだ1週間も先。 財布の中は木枯らしが吹き荒び、冷蔵庫の中は空っぽ同然。いま食える物といえば、沢庵ぐらいしかない。 そろそろ食材を買い足しに行かなくては、冬眠後の生存率も危うくなる。 「もう夕方になるから。いい加減に起きなさい」 昼間から酒に現を抜かしていた男が言えた台詞ではないが、生活のかかったスーパーの安売り時間に間に合わなくなるのだ。 「うぅん……まだ、ねむいです。おふとんがあったかです……」 「そっか、それじゃあ……仕方ない。今日からは、メシ、作らなくてもいいな」 「――それは、こまる」 柔らかなブロンドを鳥の巣みたいにして、布団の中身がようやく穴倉から這い出て来る。 寝ぼけ眼はそのままに、口調だけがしっかりしていた。 いや、寝ぼけているのには違いなかろうが、彼女の瞳がウサギのごとく赤いのは生まれつきらしい。 「ようやく起きたか。おはようさん、メイジ」 俺は、片手を挙げて軽く挨拶。しかし、この時間におはようは無いだろうとも思うが。 それに倣って、彼女も片手だけで挨拶を返す。 「きのうの夜は、タマゴヤキだけでした。その前は、朝がニラタマで夜がネギゴハンでした」 「あぁ、そうだな。我ながら自慢の一品だ」 起き抜けに言う事は飯の事だけですか、そうですか。 「ご飯がないのは、こまります。おなかがくーくー言うんです」 「あぁ、そうだな。だけど、そろそろ食材も底をついてきたんでな。食糧の買い足しに行かないとどうにもならんのだよ」 俺は、兵糧の不足している危機的現状を少しばかり大仰に伝えた。ウサギな瞳がこちらをぼーっと見詰めている。見ている分には面白い。 「――わかりました、お買い物にいきましょう!」 「あぁ、そうだな。理解してくれたのはわかったから、さっさとシャワーを浴びてきなさいな。  そんな恰好じゃ外に連れて出れんし、買い物もままならん。とりあえず、頭が立派な鳥の巣になってるぞ、お嬢さん」 起き立ての体もそのままに、今にも外へ行きかねない勢いだった彼女の肩を掴んで制止する。 よれよれになったパジャマにくしゃくしゃの頭で買い物に行かれても、こっちが困ってしまう。というか、捕まる。俺が。 「ふぇ?」 「いくら子供であっても、身嗜みには気を遣うもんだ。ほれ、そこの姿見で自分の有様をよく御覧なさい」 指で示して視線を促す。それに倣う様に彼女もそちらに視線を流して、そのまま暫し凝視。 直後、あまりにも歳相応の女の子らしい悲鳴を上げて風呂場へと駆け込んで行った。なんともまぁ、慌しい娘さんだこと。 「タオルは出しといてやるから、早めに上がって来いよ?」 今頃はそれどころでは無いかも知れない彼女に一声掛けてから、こっちは自分の身嗜みの準備に掛かる。 厄介な事情の真相――メイジが俺の部屋に棲みついてから、早4ヶ月を迎えようとしている今日この頃。 彼女もこの地に馴染みつつあり、俺自身もそんな彼女の扱いにいい加減慣れ始めてきた。 ここからは遠くブルガリアの地から、何故だか解らないが俺なんぞを頼ってやって来た傍迷惑な居候。 厄介な来訪者は、これまた厄介な中身のぎっしり詰まったトラベルバックを手荷物に、ウサギのぬいぐるみを携えその身一つでやって来た。 わかっているのは、外国なんぞに渡って果てた親戚の遺児であるらしいという事と、向こうにもこちらにも身寄りが無いという事。そして――。 「と、としあきぃ! 大変っ、あたし、朝だち――」 「黙らっしゃい娘御! 今はもう夕方なんです、はしたないぞ!」 そして、彼女が稀少な半陰陽体質であるという事。たったそれだけだが、今では何とか上手くやっている。 ――やっているけど、今ので髭剃りに失敗しちゃってちょっぴり痛い。そんな午後5時半。 やっぱり今日だけは、精々怠惰に過ごしてやろう。 -------------------------------------------------------   ――そんな僕の学園風景―― 風の吹き抜ける構内、掌の中にある缶コーヒーもすっかり温もりを失ってしまっていた。 行き交う人の歩みも疎らで、どこか淋しげな、それでいて浮き足立ったような空気がある。 時既に秋も半ば。夏休みが終わりを告げてから早二ヶ月が過ぎようとしているのだ。 そもそも、秋というのは寂寥の季節。いかな愚鈍もちょっぴりおセンチ気分になろうというものだ。 「帰ったら、意地でもそうめん作って食おうかな」 そんな言葉と共に、何本目かもわからない煙草の煙を吐き出す。 まぁ、こんな時期にたった一人、食堂脇の喫煙所で一服している自分は中々のツワモノだと思うが、いかがか。 そうして微々たる感傷に浸っていると、遠くから俺を呼ぶ声が風に乗って聞こえてくる。 「おーい、双葉ぁ!」 大学内で俺のことを姓で呼ぶ者は、教授連をおいて他には一人しかいない。 そう、何故かは知らない知りたくもないが、誰も俺をファミリーネームで呼ぼうとはしないのだ。 さてさて、そんな具合でその声の主は良く知る者だ。きっと、何事かで俺に用向きがあるのだろう。 ――だから俺は、気付かない振りをしてやり過ごそう。と、思う。 ふと、学棟の方を見やれば、その声の主が枯れた桜並木を走り来る姿が目に留まる。 遠目からもわかる、ブレザー姿の眼鏡の女。ぴょこぴょこ跳ねる髪房も特徴的にあまる。 間違いない、奴だ。 今日は、俺にしては珍しく帽子をかぶって来ている。故に、これ幸いと、それを目深にかぶり直す。 こうすれば、いかに鋭敏な狩猟者であろうとすぐには気づくまいよ。 かくれんぼでもしている様な、少しわくわくとした気持ちで新しい煙草に火を点ける。 白んだ紫煙を吐き出しながら、悪い好奇心にくつくつと笑う。 「さぁ、俺を見つけてごらんなさいな」 「というかだな……気付いたなら返事ぐらいしろ、この馬鹿!」 声は、俺のすぐそばから聞こえた。どうやら奴は、その俊足を以って既に俺を捕捉していた様だ。 かくれんぼ、早くも失敗。 眼鏡が曇りそうなほどホカホカと上気した奴は、まだ整いきってない息を落ち着けている。 「おかしいな、帽子を目深に被れば愛しの彼にも見付からないって、うちのお婆ちゃんが言ってたのに……」 「いや、知らないし……それよりも君なぁ、自分で呼び出しておいて何を言うかな。私が構内の喫煙所をどれだけ探して回ったと思っているんだ!」 捕捉は捕獲に取って変わり、胸倉を掴み手に力を込める。ちょっと、痛い。 「あれ、そうだっけ? そんな事言ったっけ?」 「そうだ! 君が今朝がた私に送りつけたメールを自分で見てみろ、ほら!」 そう言って、俺の眼前に携帯の画面を突きつけてくる。ちょっと、近い。 そこには確かに『今日、講義が終わった後、構内の喫煙所にて待つ。双葉』とあった。 そりゃあそうだろう。何せ俺が今朝方せっせと携帯で打ち込んだものだもの。むしろ、そうであってもらわなきゃ困るほどだ。 「……あぁ、そうだったそうだった! あはは、ごめーん」 瞬間。携帯を握り締める拳に、今にも圧壊してしまいそうな勢いで力が集約していくのを感じた。 ――お婆ちゃん、僕の親友は冗談が通じません。 「い、いや、だから。ちゃんと喫煙所で待ってたじゃないか?」 「君は、この大学の構内に喫煙所が何ヶ所あると思っているんだ?」 問い掛けに質問で返すな、という言葉が漏れ出しそうになるのをとっさに堪えつつ。 「さぁ……そんなもん考えた事もなかったから、数えてみた事もない」 「……棟内含めて13ヶ所だぞ、13ヶ所!」 正直、この子の行動力と思考力の抜群性を恐ろしいと思いました。 「お、おぉ、律儀に数えて回ったのか。確かに、それは多いな。でも、ちゃんと見付かったからいいじゃん?」 暫しの沈黙。お婆ちゃん、やっぱり僕、ここから逃げ出していいですか? 「……あぁ、もういい。それで、用件は何だ? これで内容がつまらない事だとしたら、本気で殴るぞ」 関は、諦めた様な疲れた様な口振りで、腰に手をあてながら問いかけてくる。 これは、これ以上勿体つけると恐ろしい目に遭いそうな感じである。 「いや、まぁ。バイト代も入ったし、そろそろお前から借りていた金を返そうと……はぶっしゅ!?」 言い終えるか否かの絶妙なタイミングで、胸元に軽くパンチが飛んできた。お嬢さん、痛いです。 「な、なんで?」 「こ、このやろう――そんな用件なら自分が足使って返しに来い!」 そう言って、今度は頬に軽く右ストレートが飛んできた。しかし、余程お疲れだったのか、そのまま近くにあったベンチに力なく腰を落とす。 「う、あ、いや、まぁ、それは確かに。あー、その、なんだ。すまない?」 俺は、そのままの状態で突っ立ちながら、形だけでも一応の謝罪は述べてみる。 「まぁ……もう、いい。気は済んだ。最近はちゃんと大学に来ているみたいだからな、今回は許す」 「男子、三日会わずば剋目して見よ。です」 「うるさい、無精ひげ。そんなことは別にいいけど、たまにはサークルの方にも顔を出せ」 お咎めはそこで終わりらしく、言ってから奴は右手でVの字を作りこちらに差し出す。少し驚いたが、俺はその指先に煙草を一本差し入れた。 「やめたんじゃなかったのか?」 訊くと、奴は皮肉染みた笑みを作り、仕草で火を要求した。 「こんな処に来て、一服もやらないんじゃつまらんだろう? 今日は、特別だ」 何が特別だったのかはわからないが、妙に男気のある台詞に応えて火をくれると、俺もつられる様に取り出したもう一本の煙草に火を点す。 そうして俺たちは、そのまま暫く黙って煙草をふかしていた。 そういえば、と灰捨てに吸殻を押し入れながら、思い出した様に関が呟く。 「君に伝えておかなければならない話があった」 関の奴は、普段から真面目な顔を更に相乗させた面持ちで、俺の方を見上げてきた。 「……はて、なにごとを、でしょうか?」 顔を背けてそれに応えるも、何とは無しの嫌な予感に、とてもじゃないが落ち着かない。 確かに、あれから大学にはちゃんと出席する様になったものの、サークルの方には殆ど……というか、全くと言ってもいいほど参加していない。 そんなこんなで、俺らがまともに顔を合わせたのは実に週単位振りの事だ。 そんな奴が伝えてくれようとする何か、間違いなくそれはロクでもない事だ。少なくとも、俺にとっては。 「もうすぐ、学園祭があるけど。君は何か予定とか入っているのかな?」 「……は?」 「だから、学園祭。今週末からの三日間。まさか、忘れていたのか?」 まったく、改まって切り出す話が何事かと思えば学園祭ですって? 学園祭といえば、学生達が学び舎で公的に騒げる催しですよ。言わば、教諭陣認可の一大イベントなわけですよ。レッツパーリィなのですよ。 そんな、誰しもが馴染みきっている学校行事を忘れるだなんて。ははっ、僕に限ってそんな―― 「すみません、すっかり忘れ去っておりました」 「やっぱりな……まぁ、無精者の君の事だ、どうせ忘れているだろうとは思っていたさ」 「あはは、いやいや。何せ、俺の不参加率は抜群だったからな」 この大学の学園祭は、不思議なくらいに本格的だ。 何を以って本格的と称していいのかは疑問だが、奴等の迸るパッションは計るに余る。出店やテキ屋もかくやとばかりに。 はたして、教諭連のノリがいいのか、学生達が馬鹿騒ぎに真面目なのか。それが校風なのだろう。 そして、大学の近所には割と古い神社がある。そこの縁日の日取りと学園祭の開催時期は、奇しくも重なっている。 その絡みからかどうかはわからないが、学園祭の催し物に対する学校側からの規制は、他校のそれに比べて酷く緩いというのが実情だ。 もう一度言う。奴らは本気だ。 祭を締めくくる最終日には後夜祭も行われ、そのラストには簡素ながら花火も上がる。 そう、花火すら用意してくださる。俺たちの貴重な学費の一部が、秋の夜空に煌々と打ち上がってしまうのだ。 参加した学生連中は、サテンの空に描かれる血税の華に見惚れたり騒いだりもする。 そう考えると、なかなかにデカダンスな香りのする光景なのだが。何故か、当然のようにそれに乗じた恋人共も増える。 まるで、アニメかゲームか漫画の世界だ。入学当時の俺は、それはそれは驚愕と感嘆を隠し切れなかったものだ。 だが、それでも。自分には縁遠い世界の出来事だと思い続けてきたし、そうした行事を全力で避けてきた様に思う。 「それで、わざわざそんな事を報せてくれたのはいいけど。それと俺の予定の有無に何の関係が?」 「いいから、予定。どうなんだ、空いていないのか?」 妙にせっついてくるな。などと思いながら、別段、隠す事でもないので正直に打ち明けてやる。 「いや、残念ながらフリーだ」 すると奴は、まるでお花が咲いたような表情で。 「そ、そうか! それはよかった……」 ……いや、善いか悪いかはともかく、だ。それで貴女がホッとする理由が、俺にはとんとわからないのだが。 随分と、間が置かれている気がする。それは、多分、気のせいでは無いはずだ。俺は顔を背けた格好のまま、恐る恐る声を掛けてみる。 「えーと。それで、どうしたんでしょうか? 僕なんぞに何か用件があったのでは?」 「人と話している時は、ちゃんとその人の方を見ろ。小さい頃に、そう教わっただろう?」 間髪入れずに非難を飛ばしてくる。それに、仕方無し、といった風に従ってやる。当然のことながら、奴と目が合う。 少しでも視線をずらせばまたもや批難を受けそうなので、蛇に睨まれた憐れな蛙さんよろしく状態をキープ。 いや、しかし。構図としては、こちらの方が上位目線になっているはずなのだが。 一方、お花を咲かせた当人は、こくこくと頷いてみたり髪房をいじってみたりと挙動が不確か。 俺はと言えば、何も言って貰えない内は特にすることもなく。ただただ、関の方を窺うくらいのもの。 眼鏡越しの視線はやけに真剣だし、ブレザーの中には白地の柔らかそうなニット。そういえば、こいつも一応、女の子なんだったよな。 ――危ない危ない。あまりにまじまじと奴に視線を向けていたせいか、余計なところにまで気をやってしまっていたようだ。 そんな、つまらない事には気づかなかったことにして。さっさと用件の方を伺ってしまうとしよう。ちょっと嫌だけど。 「それで、話ってのは……何だよ?」 「あぁ、その……さ」 殊更に勿体つけた沈黙、空気の質感が重く感じられる。この後に及んで焦らされる、この場から逃げ出してしまいたくなる程。 それに気付いてか、まるで逃がすまいとするかの様に、俺の袖口を握ってくる。 ちょっと待て。なんだそれは。 そういう時は、フツウなら肩を掴むとか腕を引っ張るとかじゃないんでしょうか。なにその急激に女の子的な行動。 そうして、奴はようやくその重い口を開いた。 「実は、君にお願い事があるんだ」 「お願い事?」 「うん、その……付き合ってくれないか?」 「はぁっ!?」 どうしたことでしょう、季節的にもうそんなに暑くも無いのに汗が浮き上がってきちゃいましたよ。 いや、それよりも付き合う? 付き合えですって? 急転直下で晴天が霹靂しちゃってフィーバータイムが――というか自分、ときに落ち着け。 それはつまりあれか、あれなのか? さよならばいばい僕らの友情フォーエヴァーラヴなのですか? 「嫌だ、断る!」 「え? ……いや、君がイヤなら少しでもいい、少しの間だけでもいいから」 な、なんですとっ! 「少しの間でもいいとか言われちゃ、なおさら受け入れるわけにはいかない!」 「なっ! じゃあ、ずっと付き合ってくれと言ったらOKしてくれるのか?」 な、なんですとっ! 「いや、それは……少し、考える、けど」 「そんなに深く考えなくてもいいじゃないか、予定は空いているんだろう? 少しくらい付き合ってくれてもいいじゃないか」 な、なんですとっ! 「それでも、やっぱりお前とは付き合えない! だって、俺たちは友達じゃないか!」 「……い、いや。私と、というか、私に付き合って欲しいのだが?」 な、なんですとっ! 「……なんですと?」 「いや、さっきの言では語弊があるか。私に、ひいてはサークルの仕事に付き合ってくれないか、というお願いなんだが」 「……え?」 「それに、私にだって相手を選ぶ自由はあると思うぞ」 微妙にホッとすればいいのか、無性に恥ずかしがればいいのかわからなくなっている自分がいる。 なんだろう、このモヤモヤ感は。 サークルのお手伝いをせよとおおせですか。そうなると、部の長たるコイツがこの機を逃そう筈が無い。 やっぱり、ふざけてないでさっさと脱兎しちゃっていればよかったんですよ、ぼく。 「なぁ、頼むよ双葉! 当日参加の部員が少な過ぎて、模擬店をやるにはどうしても人手が足りないんだ!」 「何にしても断る! 幽霊部員の俺を巻き込むな! てか、イベント用の冊子でも頒布していればいいだろ!」 暫し、沈黙。 「君は馬鹿か。それが出来ないから例年のように模擬店をやらねばならんのだろうが」 「はい、ごめんなさい」 俺が名前だけ所属する文芸サークルは、学園祭で発行物を頒布したことが一度としてない。それはもはや伝統の域ですらある。 その理由は非常にシンプル。夏と冬に催される同人即売イベント、そちらの原稿で力尽きているせいだ。 なら、そこで頒布した冊子を流用すればいいじゃないかという声がある。俺もそう思っているくちなのだが、それは断じて認められない。 なんでも、初代部長の「同人発行物は、即売会においてのみ流通すべきである」というお堅い信念に起因するらしいのだ。 そういった事情から、まともな発行物を用意できない代わりか腹癒せに、奇天烈な模擬店をやる事で悪名が高い。 そうとは知らずに俺たちが参加した初年度、我が文芸サークルが開いた模擬店は『ロシアン闇酒・監獄‐ジェイル‐』だった。 模擬店の内容は、今でもあまり語りたくないような代物であり、当時を知る者は口を揃えて正気の沙汰じゃないと口を濁す。 その後、俺が知る限り『芸者茶房‐OYAMA‐』や『異種鍋奉行所‐大折檻‐』などといった、恐ろしい模擬店を生み出してきた。 もちろん、俺はこわくて参加出来なかった。 そうして迎える今年。 これで不安を抱かずに居られるほど、俺は器用に出来てはいない。 というよりも、だ。いち文芸サークルが、何故、頑なにその不思議スタイルを貫き通そうとするのか。謎だ。 「まぁまぁ、待て待て。案じるな双葉、大丈夫だ、安心しろ。今年は私が部長だからな、おかしな模擬店にはしないさ」 嗚呼、模擬店という方針にはやはり変更なしですか。 「だが、例えお前の言葉であろうと今回ばかりは信じられるもんか。俺はいまだに覚えているぞ。  かつての人格者然とした部長が、嬉々として『わぁい喫茶』を提案した事を! そして、それを押し通したという悪魔的事実を!」 「――――大丈夫だ」 「……や、おい、今の不自然な間は何だ?」 今すぐに逃げ出したい衝動に駆られるが、俺は、掴まれた腕を振り解けるほど格好よく出来てもいない。 それと少しだけ、ほんの少しだけ、コイツの考えた模擬店の内容に興味が湧かなかったわけでもない。 例えるならば、怖いもの見たさのお化け屋敷か百物語といったところか。 「そんなに俺を誘うなら、まずは事の内容……いや、模擬店の名前だけでも伝えるのが筋ってもんだろう?」 「聞きたいか?!」 おかしい、何で目を輝かせるですか貴女は。 「ごめんなさい、やっぱりいいです」 「ふむ、仕方がない奴だな。では、君には特別に教えておいてやろう」 いや、だから、やっぱり教えてくれなくてもいいってば。 「今年の我が部の模擬店の名は――」 ――何を考えてやがる、この隠れ腐女子めが。隠れ切支丹の方がよっぽど可愛げがある。 後悔というか、自責の念というか。いや、そもそも、そこに俺を参加させようと? 本気ですか? そうして、季節は巡る。日々をあくせく生きる人々の上を、容赦の無い速さで。 その後。俺は結局、中一日だけという約束で強制的に模擬店参加を余儀なくされてしまいましたとさ。 帰ったら、メイジと一緒にそうめんでも食べて不貞寝しよう。 -------------------------------------------------------   ――白いドラグノフ―― 郊外の雑居ビル。その内に設けられた事務所の一室。 そこに集う顔ぶれには、およそ似つかわしくないほど整頓された奇麗な部屋。 白塗りの壁には、絵画や写真などに混じり、大きな筆字で『義侠』としたためられた物までが額縁に収められている。 そこでは、何人かの男達の言い争う声がある。飛び交う言葉は、南部訛りの強いブルガリア語。 「――だからマズイと言ったんです! 背負うリスクが大き過ぎると!」 「黙れ、若造! ボスの決定した事に泥つける気か、この馬鹿野郎が!」 部屋の入り口寄りの席。行き場を失くした若さが、憤りを上げ悶着する。 止めないか、という怒声。殴り倒された若い幹部は、待機していた部下達に支えられてようやく立ち上がる。 隣席していた眼鏡の中年男性が、彼のスーツの襟元を正してやりながら、穏やかな語調で説き聞かせてやる。 「……トドール、君の言はもっともな意見だ。だが、そのリスクを負うには充分足るヤマだったのさ」 若い幹部は、すみません、と謝辞を口にするも、未だ興奮を収めきれずにいる。 年嵩の大人達は、それをただ冷ややかに見据えながら、結末の見えた議論の続きに戻る。 「しかし、その代償はあまりにも高くついた。私達「キリヤコヴィ」は、お仕舞いだろう……もう、今更だがな」 「口が過ぎるぞ、兄弟。だが、そうだな。これは賭けだった、とても魅力的な。そして、結果は残念ながらバーストだった。  さて、問題はこれから我等はどの立場を取り、そして、どう動くのか……苦しい状況ですが、どうかご決断を、ボス」 閉め切られたブラインドカーテンの窓辺、よく育った観葉植物の傍。 ボスと呼ばれた臙脂色のダブルスーツの男は、静かに瞼を閉じた。 ――彼は、重度の親日家であった。 戦後の混迷期を極東の敗戦国で過ごした父の影響から始めた、アジア相手の交易業。 闇社会という存在に呑まれて尚、腹心の助力と共に這い上がり、一つの組織を築き上げてみせた。 青年期から築き上げてきた東洋の国々との交友を元手に、そして商才の手腕を武器に伸上がってきた。そんな男だった。 上に立つ組織に買われた後も、そのパイプ役や汚れ役を請け負う事で、上への忠誠と義理を立て続けてきた。 彼とその家族の根幹にあるもの――義侠。それは、遥かの地で得た友人から教わった、彼の流儀だ。 しかし、そんな彼にも転機が訪れる――上の組織で内部問題が起こったというのだ。 聞けば、上のエージェントが組織から大麻と機密を持って出奔したと言うではないか。 彼も、初めは偽りの情報だと思っていたし、そんな噂を相手にする事もなかった。 しかし、彼の前に出奔したエージェントを名乗る者が姿を現したことで状況が一変した。 元より彼の組織――キリヤコヴィが情報入手に長けていたのは勿論、当該エージェントの手口が巧くなかったのだ。 彼は件のエージェントと秘密裏に会う事で、上の実情を知り驚いた。そして、エージェントの逃走の助力に一役買って出ることを決断する。 現在に至るまで、これ程の苦節を以ってして中堅に甘んじている己の組織とその仲間達。 この機を、巧く利用出来さえすれば、あるいは――。 冷戦終結の折から眠らせ続けてきた野心、それが首をもたげたのも仕方のない事だった。 エージェントの逃亡に加担した後も、それを報告する事は無く、商談の議卓に並べる材料とするべくその監視に努めた。 ターゲットが無事に極東の島国に潜り込んだ事、そこで堅気の学生の元へ転がり込んだ事、現在も大麻を保持している事。 まずはここまでを把握した。これを系列の親睦ある組織にリークし、付け加える――上の連中を巧く騙せ。 そして、次に極東のマフィアに――質の良い大麻が低価で流通出来る、と教えてやる。 これで準備は整った。あとは、上との会合を俟つばかりとなる。そうなる手筈だった……。 しかし、その逃走経路は、程なくして組織の上に割れてしまった。 そればかりか、その行為に彼のキリヤコヴィが助力したという噂までが、組織内でまことしやかに囁かれるという事態に陥ってしまう。 それからというもの、組織内での彼らの扱いは、日増しに風当たりの強いものとなっていった。 全ては、己の義侠心と未だ少しばかり燻り続けていた野心とが招いた結末であった。 彼は、自らの浅はかさに澱み、仲間を巻き込んでしまった事に悔やみ、瞳を開けた。 己に注がれる幹部達の視線と、その空気感。緩慢な時間をおいて、彼等に重々しく答え掛けた。 「すまない、家族達。全ての責は私にあり……」 その句の全てを待たずして、電話の呼び出し音が突如として鳴り響く。 何事かとざわめく面々、その中を側近の一人が駆け込み、彼に耳打ちをする。 「――ボス。ビッグボスからの、ホットコールです」 瞬間、凍り付く。 上からの猜疑をかわす事など、もはや不可能である。だとすれば、後手に廻るのだけは拙い。そう決意した矢先だった。 ――さすがに、動きが早い。 そうこぼすと、彼は卓上の受話器に手を伸ばす。どう立ち回ったものかという、己の怖気を振り払うように。 「……お電話かわりました、我がビッグボス」 彼のその一声で、幹部達の全てが動きを止め、固唾を飲んで彼に注目する。 『やぁ、親愛なるツヴェタン。君のファミリィ一同、変わりは無いかね?』 「はい。若い連中の威勢もよく、概ね変わらずといったところで。ビッグボスの方こそ、お変わりなどありませんか?」 既に、打てる手は打ってあるのだ。失敗は――許されない。 受話器越しに、その向こう側の低い笑いが漏れる。 『そうか。いや、それは結構なことだ。私か? 私の方は、少し困った事で頭を抱えているのだが……聞いてくれるかな?』 「ええ、なんなりと。私などでお力添えになれるのでしたら」 額に汗が滲む。空いた手でそれを拭うと、言いようの無い緊張にネクタイを少しだけ緩める。 『――最近、我が組織内で私に対する反目の動きがあると耳にしたのだが……ツヴェタン、君は何か知らんかね?』 「いえ、小さな鼠は、御身の目に届かぬ所で始末していますので……それ以外のこととなると」 唇が渇く。鎌をかけられたくらいで動揺する自分ではない、そう言い聞かせる。 『そうだな、いつも君には感謝しているよ。しかし、今度の鼠は少しばかり大きいらしくてな……しかも、小狡いのだそうだ』 受話器を握り締める指の震えがとまらない。目配せで幹部達に指示を送る――動け、と。 「それは……私の責任ですな。すぐに部下の者を動かしますので、ご安心を――」 『――いや、それには及ばないよツヴェタン。仔鼠は、つい今しがた私の方で始末させて貰った』 脅しだろうか。しかし、確証が得られない今、それを確認することは出来ない。彼の瞳は、徐々に焦りの色を帯び始めていた。 『しかし、仔鼠一匹ではどうにも落ち着かない。次は老獪な親鼠の番だろう。そうは思わんかね、ツヴェタン?』 どうやら、先ほどの言は真実らしい。そうなると、ここが正念場だろう。彼は、静かに腹を括る。 『お言葉ですが、ビッグボス。私達は、貴方に澱み無き忠義を示してきた筈です』 受話器の向こうの男――ツヴェタン・キリヤコフは、静かな物腰の中にほのかな怒気を含ませていた。 それをエボニー材の豪奢な机で聞きながら、ビッグボスと呼ばれた男は大仰な歎息を漏らす。 「あぁ、その誓いは確かなものだった、今日に至るまでのキリヤコヴィの働きはとても素晴らしかった。それは私が保証しよう。  だが、そうであるからこそ。私は、君の犯した過ちの謝罪を欲しているのだよ。わかっては貰えないか、大切な私の家族よ」 相手に僅かな逡巡があった。そして、その沈黙を愉しむ様に、指でリズムを取りつつ反応を待つ。 この組織において、いかなる裏切りも許されない。そのルールに対して、ツヴェタンという古株の男がどういう対応を示すのか。 ワイン樽から染み出る木の渋みのように、じっくりと浮き上がってくる興味。男は、それを愉しんでいた。 『――残念ですが、こちらにもムートラとしての意地があります。それを、お忘れなく』 聞いて、男は静かに口元を歪めて、笑った。 エボニーの机の眼下には、仔鼠と嘲笑されたものがひしゃげ、紅い絨毯の上に転がっている。 自分を商談の席に着かせる為に遣わされた、彼等の手札だった男だ。 それは、人であった頃の形を辛うじて残しながら、ワーゲン車に轢かれた鼠の様な状態に成り果てていた。 「そうか、それは残念だ。では、仕方が無い。君の釈明は教会で聞くとしよう――」 『――さようならだ、ツヴェタン』 一方的に電話が切れる。 不快な電子音を反芻する受話器を机に叩き付けると、部屋に残った数名の幹部に言葉を残す。 「不甲斐ないが、計画は失敗だ。すまないが、お前達の命を私に預けて貰えないだろうか――」 言い終えぬ内に、彼は途切れた。文字通り、そこで彼の――ツヴェタン・キリヤコフの人生は事切れたのだ。 彼の立っていたブラインドカーテンの窓辺、その後方から飛来したものによって、彼の頭部は撃ち抜かれていた。 遅れて届く銃声。力を失い机の上に倒れ臥すボスの姿に、慌てどよめき席を立つ幹部達。 ――刹那、すぐ外で轟音が炎を上げて爆ぜた。爆破物を仕掛けられていたのだろう、車が数台火柱を上げていた。 襲撃の音を聞くや、亡骸に駆け寄る者も銃を取る。階下からも乾いた音が聞こえてくる。 それに身構える間隙を縫って、事務所の中に小さな音が転がる。狙撃銃の空薬莢が転がる、小さな音だ。 立て続けに飛び込んでくる狙撃の火は、その場にいた全てを数瞬の間に肉塊へと変えていく。 そうして、部屋は静けさに包まれた。 雑居ビルから400メートルほど離れたビルの屋上。巻き上がる黒煙をスコープのサイトに収め、確認する。 銃身を構えていた青年は身体を起こすと、服に付いた埃を払う。次いで、すぐさまインカムで指示を送る。 「――あー、あー、三月兎より子ウサギどもへ。抵抗する連中は全て始末しろ、包囲の外に逃がすなよ」 『諒解!』 次々に青年のインカムへと反応が戻ってくる。それに「結構、結構」と頷くと、大きく伸びを一つ。 すらりとした長身をスーツで包み、遠目からもわかるほどの綺麗なプラチナの髪の美青年。 春の様な浅翠の瞳が、路地を行き交う獲物達の姿を凍て付いた視線で見据える。 そこに、青年とそう歳の変わらない少年が帽子を手に駆け寄ってやってくる。 「マーチさん、お預かりの物です。どうぞ」 少年が差し出した白いハンチング帽を手に取ると、軽くひと叩きしてからそれを被る。 「……しかし、納得いかねぇな。何だって愛するダディ様は、俺にこんな面倒な仕事を廻してくれたんだか」 「はぁ、自分にはわかりかねますが。不穏分子への見せしめのためだと聞きましたが……」 「だぁから! それが、気に食わないんだよ! そんなモン、他の兄弟にでもやらせりゃいいだろうによ」 何で俺が。そう、ぶつくさ不平を漏らしながら、自分の得物を担ぎ上げる。 SVD――ドラグノフ狙撃銃。 AK-47の基本設計を元に開発された、旧ソ連のセミオートスナイパーライフル。 西側のそれと比べて細身で、大胆な肉抜きをされたデザインは、さながら猛る杖といったところか。 そして、青年の得物のストックは白木。他の木材部にも白い塗装を施してある一品物だ。 ――――白いドラグノフ。 青年が組織内外で呼称される通り名のひとつ。 かの英雄ヴァシリ=ザイツェフの名になぞらえて、白を好んで身に着ける性質からついた名だ。 小さく嘆息してみせると、腰に提げた小さな容器を取って豪快に傾ける。 「――酒はいいよなぁ。やっぱり、仕事後のスーペリアは最高だ」 高級ウィスキの銘を謳いながら、先程までの倦怠感はどこへやら。愉しげに身を震わせると。 「よしッ! 俺も追撃に参加してくるぜぇっ! お前も出遅れンなよ?」 「え? あ、ちょっと……マーチさん!」 ――そう、気持ちを切り替えよう。これは仕事じゃない、こんなにも気に入らない仕事など認められるか。 思うが早いか、既に身体は階下へ続くドアの方へと走り始めていた。 意味不明の呪文のようなを歌を口にしながら、ビルの階段を素早く駆け下りていった。 これが、組織の持つ圧倒的な闘争の能力。組織の内外で畏怖される、その武力の精髄。月の名を冠する12人のエージェント達。 更に、その最精鋭と謳われる『四天王』の第三位――マーチと呼ばれる青年の姿だった。 -------------------------------------------------------------------------------   ――かわいい妹―― 本部の屋敷に戻ったマーチは、エントランスで男と出くわす。 男は、スキンヘッドにサングラス、白いスーツに身を包んだ印象的な風采で壁に寄りかかっていた。 「おぉ、エイプじゃんか? こんなトコで遇うなんて珍しいじゃねぇの」 ドラグノフの入ったハードケースをブン回しながら、マーチは白スーツの男の元へと駆け寄る。 白スーツの男は軽く手を振って、それを迎えた。 「よお、お帰りマーチ」 エイプリル――四月の名を冠する、エージェントの一人。 一月を筆頭とし、四月までの各位からなる『四天王』の第四位に数えられる青年である。 十二の月たちはそれぞれが組織を纏める要職にあり、その中で四月に与えられた役割は、組織内外の監視・監査。 軍隊であれば憲兵にでも相当する様な立場、諜報にあたる任務も取り締まる影の男。 それが、こんな所で油を売っている事――確かに珍しい事態ではある。 しかし、彼等は組織の一翼を担うエージェントでありながら、見た姿はただの青少年に過ぎない。 へらへらと笑い肩を叩くマーチに、猿みたいな呼び名は止せ、と文句をつける。 「いや、俺だってホームでまったりするひと時が恋しいもんさ。何より、兄弟が仕事から無事に戻って来たのを温かく迎えるのは、当然の事じゃないか」 「ほぉほぉ、言うじゃねぇのよ八面玲瓏。アンちゃんは嬉っしいぜェ!」 おもむろに抱きつくマーチ。エイプリルは鼻の頭を掻きながら、それを苦々しい笑いで受け入れる。 兄弟――12の月を冠する彼等の間では、相互の関係を『兄弟』になぞらえている。 様々な由縁によって集められた少年達。彼等はその身を組織に預けると同時に、過去を失う。 そうして、組織の首魁たるボスを『父親』として教育され、絆を結んでいくのだ。 奪われた過去と未来、代わりに与えられた名前と絆。それだけが彼等の全てとなる。 兄弟の年嵩は、月の巡る順を基としている。一月を筆頭、十二月を末席とする様に。 エイプリルは、歳の同じ『兄』を複雑な気持ちで見やった。 「……さてさて、遊びはこれ位にして。そんな『兄貴』にちょっとした朗報を持って来たぜ」 その言葉に促されてか、エイプリルから身体を解き、首を傾げる。 「あん? 朗報だぁ?」 何よ、と続けるマーチ。その耳元に顔を近付けると、声を潜める――メイジの潜伏先が割れた。 数年前、フィレンツェの街――。 石畳の街路を歩きながら、少年と少女はぼんやりと空を眺める。 つい今しがた、父親に与えられた任務を終えてきたばかりだ。正直なところ、少し疲れていた。 もっとも、脂ぎったおっさん共を弾く事にではない。そんな事は子供の時分で既に慣れている。 問題はそんな事じゃない。 思いもよらぬ失態で夕飯を抜かした事や、一張羅だったコートに穴を開けてしまった事でも――。 ましてや、手元の狂いで飛び出して来た馬鹿なガキを誤射してしまった事ですらもない。 そうして、視線をわずか下にずらす。 さっきから自分のコートの裾を掴んで離さない、この小さな妹の事が原因だった。 だからよぉ、マーチは胸中で愚痴る。 ――本気か、親父?! 父親に向かってそう叫んだのも、実に何年振りだったろう。 「同じ事を言わせてくれるな、マーチ。何事も経験というやつだよ」 「だからって、まだほんのガキんちょじゃねぇか。ソイツを連れてくなんて……邪魔なだけだぞ?」 父親は、低く伸びやかなテノールで笑いながら、お前にとっても良い勉強になるさ、と加えた。 その傍らでは、不気味なウサギの人形を抱えた幼女が、小さくまとまっていた。 幼女は、前任の五月が消えた後、新たに兄弟に加わったばかりの子供だった。 それを連れて仕事に向かうだなんて、正直、乗り気になろうはずがない。 この子供が足手まといになるだけならまだいい、何か拍子にうっかり死なれてもでもみろ――想像しただけで、寝覚めが悪いったらありゃしない。 「それに、これは決定事項だ。問答の余地は無い。諦めて行って来るがいい、愛する息子よ」 「……あーい、はい。わっかりましたァ。行って来ますよっ!」 最後の語気に反抗心を含ませて、渋々ながら承諾してみせたが――少女は、ただ視線を落としたままだった。 「……ったく」 ――案の定、メンドくさい事になったじゃねぇかよ。 胸中で収まりきらなかった嘆息が、口の端に乗って漏れ出した。 「……んで、よ。いつまでコートの裾ぉ握ってんのかな、嬢ちゃんはよ?」 自然、声にも苛立ちが隠しよう無く滲んでくる。あー、最低だなこの男。自分自身でさえもそう自覚してしまうほど。 チィ、と小さく舌打を一つ鳴らすと、お気に入りのハンチング帽を目深に被る。 ――さっきから全然喋ってくんねぇし、何言ってもこんな感じだしよぉ、俺にどうしろって言うのよ? 帽子の上からガリガリと頭を掻き毟ってみるが、良案なんてこれっぽっちも浮かびやしない。 すると、先ほどから押し黙っていた少女がわずかに声をもらす。 「――の」 「……はん?」 突然、少女が声を発したものだから、素っ頓狂な反応になってしまったが――喋ったよな、この子。 「うん、どした?アンちゃんに言ってみし」 マーチは、出来得る限り穏やかに、昔見た兄のしていた様に聞いてみる。 「――ぁたし、じゃましちゃった、の? めいわ……の?」 ちょっと口を開くと、またすぐに声が小さくなる……正直、よく聞こえない。 けど、言わんとすることはなんと無くわかった――気がした。 「ばっか」 マーチのそれは、何かを考えて出した言葉じゃない。勝手に口からこぼれた音のようなものだ。 だが、この音を何とか繋がなきゃいけない。足らない頭で一生懸命になってその先の言葉を捜してみる。 少女はきっと、自分の言葉を待っているのだ。そう思いながら。 そうやって、自分に言い聞かせて奮わせる様に、幼女の頭に手を乗せた。 びくり、と少女が微かに震えたが、この際そんな事は無視していこう。 「……邪魔だったんでも、迷惑したわけでもねぇよ。お前の心配をしながらってのが、ちょっと疲れただぁけ」 心配を、の言葉に反応してか、不安げな表情を崩さない少女――その髪の毛をわしゃわしゃと掻き回す。 「――!?」 「そんな顔すんな、女の子だろ? まぁ、なんだ――俺がまだ未熟だっただけだ、心配スンナ。いい? オーラィ?」 しかし、どうにも言葉を信じてもらえている実感がわかない。 気を取り直すように少女の目線まで身体を屈めると、掻き揚げて露になった少女のおでこに軽くキスをしてやる。 「――――っ?!」 少女は小さな瞳を点になる程に丸くして、今度は飛び上がらんばかりの勢いで驚いた。 その反応に声を上げて笑いながら、マーチは自分のお気に入りを幼女に被せてやる。 「そんなにびっくりするようなことかぁ? 安心しろ、お前は俺の大事な可愛い、妹だ。あんま怖がられてっと、その――へこむ」 少女に被せたハンチング帽の上からその頭をひと撫ですると、マーチは再び街路を歩き始めた。 しばらくの間、少女はその場でぼうっとしていた。 それから少しすると、帽子の短いつばを押さえながら、少女はマーチにとてとてと走り寄る。 その足にようやく追いつくと、自分を妹と呼んだ初めての他人の手を遠慮がちに握った。 そして小さく、本当に小さな掠れた声で、アンちゃん、と彼を呼んだ。 自然と口元が緩む自分に気が付きながらも、これでもいいか、と夜空を見上げた。 「おぅ。手ぇ離してハグレんなよ、メイジ」 ぎゅっと握り返してくる強さを感じて、マーチは鼻歌交じりに長い長い石畳の上を歩いて行った。 エントランスに反響しかねないほどの音声で、マーチはオウム返しに問う。だが、すぐに口元を歪めると、にへら、と笑った。 「おい、エイプ。冗談なら止せよ? お前の冗談は、いつだってそう聞こえねぇんだから」 「いや、確かな情報だ。アジア圏に逃亡したっていう情報までは押さえていたが、肝心のルートが掴みきれなかった。  だが、先日のツヴェタン叔父さんトコとの悶着と前後して、その後の流れも完全に把握した。  お前の耳にも入れておこうと思ったんだが、こっちも中々手が回らなくてな。遅くなった」 エイプリルの眼差しは真摯だった。少なくとも、マーチが付き合ってきた限り、この顔で嘘は吐かない男だ。 「父さんも既に感知している内容だ。そうすればいずれ、お前の元にも正式な命令がくるだろうさ。  けど、俺は父さんにこの事をまだ報せていない。だから、その前に……仕事じゃない内に会って来い。委細はここにまとめてある、受け取れ」 そう言うとエイプリルは、マーチのコートのポケットの中に素早く紙片を潜らせる。 「……いや、おいおい。マジか? そんなことして大丈夫なのかよ?」 引き攣ったような、笑っているような、奇妙な形に歪んだ表情でマーチはこぼす。 それに、静かな頷きを返すと。他の兄弟が動けば面倒なことになる、と加える事も忘れない。 「まぁ、そういうことだ。マーチの元気な姿も見れた事だし、今度は大兄のトコにでも挨拶回りしてくる」 また組む日まで達者でな、などと置き捨てて立ち去って行ったエイプリルの姿をぼんやり眺め追うマーチ。 口の端からは、唖然とした心情が切なく零れ落ちる。 気を取り直して、ポケットに捻じ込まれた紙片を指先で確かめると、小さく溜息を吐く。 ――俺、ホームに戻って来たばっかなんだケド。 口から出かけた呟きを、腰元に提げた携帯容器の中身、スーペリアで飲み下す。 いい酒だ、香る渋みが器官を満たす。つまらないことは全て流してくれるような味だ。春陽の様な瞳を伏せて、マーチは独り廊下に佇む。 逡巡して刹那、ゆったりと瞼を上げる。 「……よっしゃ! そんじゃまぁ、散歩に行って来らぁな――おいたな妹をとっ捕まえによ」 白いハンチング帽に手を乗せると、唄うような口笛を吹きつつ、くるりと外へ向きなおして駆け出した。 足取りは軽やかに、戻って来た時と同じく背負ったハードケースをブン回しながら。 -------------------------------------------------------