15.『うけつぐ』 「ね、オクタちゃん。前から訊いてみたい事があったんだけれど……」 「なんでしょう、先生!」 白髪交じりの髪を茶色に染めた痩せ身の女は、子犬のように飛びつかんばかりのオクタに少したじろぐ。 あるボランティアのバレエ教室だった。教室と言っても会議スペースを借りているだけで、 主な受講層は体を動かして観たい主婦が殆どで。他の受講者たちは先に上がって、今はふたりだけ。 女は、難しそうに小さく溜息をついて。 「あなたはもう少し、しっかりした教室に通う方がいいんじゃないかしら?」 「いいえ。幾つも教室に通ってますけど、先生の教えて下さる事が一番ですもの!」 オクタは子犬のように瞳に星が散っている。女は、「そ、そうかしら?」と既に呑まれている。 うーん、と女は弱った唸りを零す。基本的に人が良いのである。でもね、と切り出す。 「元々海外の生まれでもあるし、オクタちゃんの踊りなら海外のバレエ学校のコンクールだって充分、  もっとちゃんとした所で練習すれば取れると思うの。私に付き合ってくれなくてもいいのよ?」 「それは違います、先生!」 オクタは真っ向から否定した。目がマジだった。 「先生の教えて下さる踊りには、私が持ってないものがあります! 技術だけじゃありません、  不思議なんです、先生に教えてもらっていると、何だか私に欠けてたものが満ちていく感じで!」 オクタの剣幕にたじろぎながら、そう言うものなのかしら、と女は思う。 何かを、この少女に伝える事が出来たのだろうか。 オクタが、平日の昼間に会議スペースをいきなりノックした時の事を思い出す。 大学を飛び級した留学生だとオクタは言った。 練習に加わったオクタを観て、女は、ひかりを観たと思った。見とれていた。 基本的なバーレッスンの一挙手一投足から既に、ひかりが滲んでいた。 輝かしくて、でもどこか危うくて、強烈で。 踊り始めると、本当に光った。13歳と彼女は言ったが、その踊りは紛れも無く13歳の踊りだった。 物凄いエネルギーを持つ幼さを、全部踊りで表現する様な……。 その光は、今は秋の日のよう丸く、しかし心に届く温かさを帯びてきた、とも女はふと思う。 『……と、そんな娘がいてね。難しいのよ……聴いてる? としあき』 「聴いてるよ、かーさん」 としあきはベランダで鰯雲を観ながら、左手に携帯、右手に煙草。 「でも、いんじゃないのー? そこまで慕われてんならさー」 『そうなのよね……慕われるのも血かしら』 としあきは絶対、母は携帯の向こうで頬杖を突いていると思う。仕草がいちいち柔らかい母なのだ。 「そうかもね……父さん元気?」 血と言われると、メイジやノブやオクタが住み着いている自分の事を思う。 『今、チェチェンだって。色々大変みたいよー』 「父さんも、血だね……じーちゃんの」 『そう言うとしあきは、慕われながら放浪する無敵の血統なんだから、しゃんとしなさいね』 微笑む吐息と共に痛い一言。ぐっ、と息を詰まらせる。「最近学校には真面目に行ってるよ」 『なら、よろしい! 彼女さんでも連れて家にたまには帰ってきなさいよー。近いんだし』 「隣りの隣りの隣りの市でも微妙に遠いんだよ」 はぁ、と溜息で煙草の煙を広く吐いた時ピンポンが鳴って、開けなさいよ! とオクタの声が怒鳴り声。 「あ、かーさん悪ィ、友だち来たから」 『なになに? 女の子? 女の子?』 嬉しそうな母の声に、まさか外国人の子どもとただれた生活をしてるとは言えない。 「ば、バカ! 違うって、切るからな!」『あらあら、照れちゃって』 照れちゃって、の所を最後まで聴かずに切った。ふぅ、と息を取りとしあきは玄関に向かう。 オクタが母親のボランティアのバレエ教室に通ってはいるとは露ほども思っていなかった。 マーチが、オクタをとしあきの家まで送った車だった。メルセデスGクラスに、オゥガスが乗り込んでくる。 「悪いね、兄貴。乗せてもらっちゃってさ」 悪びれた所無く、オゥガスが助手席でくつろいでいる。 オゥガスは大柄なドイツ系の青年だ。短い黒髪を後ろになでつけている。 硬質な顔の作りは、対して柔和な気配がある。 「セプトも負けて、次は俺の番か……なぁ兄貴。俺たちは何を以って『負け』になるんだろうな」 「本人の自覚だろ」 「じゃ、オクタはまだ負けてないつもりってかな……アイツらしいや」 生粋のブルガリア系のマーチは、蒼い目で助手席をちらりと一瞥する。 「……何考えてんだ、おい」 「いや、別にぃ? ともかく、次は“俺の番”だ。可愛い妹の分まで、な?  俺たち兄貴はさ、妹たちを可愛がらなくちゃならんだろ?」 人懐っこそうにオゥガスは笑う。剥いた犬歯が少し震えていたのを、マーチは観る。 ――オゥガスは、笑っているのに、笑っていない。目の焦点がどこかおかしい。 オゥガスの指先がぶるぶると小さく震えているのを、マーチは見逃さない。 いつから、オゥガスはおかしくなって行ったのか……マーチは思う。 ------------------------------------------------- 16.『みる』 寒くなると煮込み料理が旨いし、面倒がなくていい。 おさんどんが随分板について来たもんだと、としあきはシチューの灰汁を掬いながら思う。 テレビの前で、メイジとオクタが口角泡を飛ばしながらチャンネル争いをしていて、 ノブは何も言わないけれどNHKの新日曜美術館を観たそうな顔をしている。顔に書いてある。 ――としあきは鍋に逃避する。 例えば、メイジたちみたいな可愛い子どもの兄や父親になりたいと思う事は誰にでも出来る。 それが三人ともなれば、妄想冥利に尽きると言うものだ。 だが、本当にそのポジションを得ると言う事は、チャンネル争いみたいな面倒を背負い込む事でもある。 大鍋の中の灰汁を根絶する勢いで、黙々と掬う。 好都合の妄想からはみ出した煩わしい事には、とりあえず目を背けて折り合おうと思う。 ……自分は、何の覚悟も無く、メイジをこの家に迎え入れたのか。 鍋に蓋をしてとろ火に落す。煙草を一本ポケットから取って火をつける。 喧騒の中で一服し、としあきは煮込み料理がまだつらかった季節の過去を夢見る。 ……あの時は、素麺だったか、それとも冷やしうどんにしようと思っていたか。鍋で湯を煮ていた。 としあきが住んでいるアパートのエアコンは酷いボロで、費用対効果が大変に悪い。 まだ蝉が鳴いていた夏の始めの、その日もとしあきは窓と玄関を開けっぱなして暑い風を通していた。 生姜とネギだけがビタミンの不健康で、そして遅い昼食にしようと鍋で湯を沸かしていた。 沸騰した蒸気の熱気にうんざりしながら、乾麺を一掴みとって投入しようかと言う時だった。 素麺だったっけ、うどんだったっけ。 開け放した玄関の向こうに、綺麗な金髪の少女が立っていた。 赤い瞳が、としあきを、観ていた。 目が合った。 「……えと?」 鍋で湯がぐらぐらと煮え、手には乾麺を持ったまま間抜け面で、としあきは少女に訊いた。 じっと黙ったままの少女の胃袋が、きゅう、と可愛い音を立てて啼いたのを思い出せる。 「……お腹、すいてるのか?」 結局、乾麺をもう一掴みして鍋に放り込んだ。思い出した。あの時の麺は、うどんだった。 箸を握り込む不器用な手付きで、ひどく食べにくそうにお椀から麺を啜りこむ姿を思い出す。 見かねて大皿からうどんをお椀に取ってあげたっけ。 何かがおかしくて、笑った。なんで見ず知らずの女の子を家に上げて飯の世話をしてるんだろうと思った。 彼女の警戒した仏頂面を見ているとわくわくして、楽しかった。 まさか、その夜にベッドの中まで展開が飛ぶとは勿論、その時思いも寄らなかったけど――。 「やる気!?」オクタが先に抜いた。必殺の四挺拳銃、バレットバレエの構え。 「どうぶつ奇想天外!」メイジもガバメントを抜いた。命を獲るには一挺で充分。 銃口がキリキリと絡み合う。としあきは煙草を咥えたまま、メキシカンスタンドオフの中に入る。 ひどく投げやりな仕草で、メイジとオクタのおデコをぺしりと叩いた。 「チャンネル権、没収」 おデコを押さえて痛がりながら不平をまくし立てるメイジとオクタを無視するフリをして、 としあきは録り貯めた新番アニメのテープを回し始めた。もう、番組も変わる、秋だ。 小規模なスクリーンの中では、屍体を犯す男と女の物語。 オゥガスのまなこは外れるほどに見開かれている。 『孤高の屍体映画監督ユルグ・ブットゲライト四本立てオールナイト「屍体の夕べにようこそ」』 インディペンデント系の映画館の表の通りには、 そんな冗談みたいな日本語の看板がデカデカとおっ立っている。 席は満員、立ち見もちらほら。皆外見上普通の成人で、男女の区別はない。 そんな映画館の一番いい席、最前列中央でオゥガスは陵辱されていく屍体を大画面で堪能する。 オゥガスは、恋人の首を鉈で一撃する女に射精感すら覚える。 映画監督は、オゥガスと同じくドイツ人だ。 当局の妨害に屈せず、四本もの屍体映画を世に放った男、ユルグ・ブットゲライト。 だが、そんな芸術に魂をかけた男の事は、案外とオゥガスにはどうでもよろしい。 自分と同じ人種である事もあんまり気にしない。 屍体。 これだけが重要だった。 ネクロに宿るエロスで恍惚とさせてくれる、それだけが重要だ。 かつてオゥガスは、席を誰にも気付かれず確保するために諜報戦そのままの手管を駆使した。 ブルガリアのアングラ劇場の席を、兄妹たちに気付かれないように取るために。 神聖な屍体の儀式を、誰にも邪魔されないように。 初めて人を308ナトー弾の掃射で木っ端微塵にした時に感じたエロスを誰にも悟られないように。 兄妹の誰も知らない、オゥガスの神聖な趣味だった。 映画は良い。 自分の体験した事、或いは自分がこれから体験したい事を仮想現実の中で味わわせてくれる。 オゥガスの人生の喜びは、この映画の中に集約される。 ネクロマンティック。 それが映画のタイトルだ。 コープスの如き卑しさで惨めな日々を送る、男と女の苦悩と愛の物語。 最高だ。 誰にも知られてはならない卑しき欲望を胸に秘め、しかし機会あらば存分に楽しむ事が出来る。 死体を愛で欲情する自分が酷く小さいと思いながら、その魔性から離れたくない。 これはオゥガスのための映画だ。 ――拍手と嬌声の絶えないブルガリアのアングラ劇場とは違う空気の中で。 ふと、屍体の恍惚を感受している観客たちを屍体にしようかと、オゥガスは思いついた。 静脈に薬をぶち込み、高まりを幾倍にも加速させて発狂したような自我を作り出し、 映画館を血と肉と臓物で埋めてしまおうかと思った。 オゥガスは妙に優しい気分で、ひとり首を横に振る。 映画は誰にでも寛容だ。 オゥガスと彼らが観ているのは同じ画面でも、それぞれの映画体験は全く異なる。 彼らはまさか殺人鬼と一緒に同じ映画を見ているとは思わないだろうが、 そしてその殺人鬼が感極まって殺戮に及ぼうとしているなど思いもしないだろうが、 その殺人鬼もまた、映画を一緒に観ているただの観客である事が彼らに幸いするのだ。 独り占めなど無粋だ。 まして、人生を仮想体験する映画館にリアルの死を持ち込むのは論外だ。 神聖な屍体の儀式を、共に楽しもう。 粛々と。 どうせこの高まりは、オゥガス個人で後々ぶちまけるのだし。 勝ち気な瞳、透けるような金髪、広く白いおでこ。水鳥のような細い手足。 光の中で踊る彼女。 まだ、兄妹を殺戮した事はなかったな、とオゥガスは声を立てずに笑う。 もう、唯の屍体では満足出来ない所でもあった。 --------------------------------------------------- 17.『ひそむ』 「ね、起きてる?……としあき」 蛍光灯を落として、三十分と言った所だろうか。豆電球の黄色い闇にクリームシチューの微かな匂い。 としあきの胸に頭を寄せていたメイジが囁く。 としあきは言葉ではなく、頭を抱き寄せる仕草で応えた。布団がもぞりと鈍く衣擦れする。 「……したくなっちゃった」 艶めいた吐息と共に、メイジがうっとりと声をこぼす。 としあきは、メイジの頭を抱いて布団の中にもぞもぞと沈む。 「駄目だって。オクタが起きちゃうだろ?」 床に敷いた布団に包まり、オクタはすやすやと寝息を立てている。 「オクタちゃんのせいでいつも出来ないから、さびしーのーっ」 ぷぅ、とほっぺを膨らませるメイジの表情が、闇に慣れた目でかすかに見えた。 可愛い。でも、何とか押さえようとする。 オクタはものすごい潔癖で、としあきがメイジやノブとくっついているだけでもきーきー怒るのだった。 確かに、ここの所セックスしてないな……と、としあきは下半身の疼きを思う。 「溜めすぎは体によくないよね? としあき……」 メイジは無邪気に笑むともぞもぞ布団の中にもぐりこみ、としあきのスウェットを降ろした。 あーん……と口を開けて、実はもういきり立っていたとしあきの男根を口に含もうとした時、 ノブがささっと素早く静かに動いてとしあきの唇を奪っていた。 「あっ、ノブぅ……」 としあきを横取りされて、メイジがいじらしい声を出す。 ノブは積極的にとしあきの口腔をちるちると舌で愛撫してくる。 首がむず痒い。こいつ、こんなにキスが上手だったっけ、としあきは舌で応じながら思う。 「僕もしたいです。としあきさん」 ぷは、と唇を離して潤んだ蒼い瞳が、布団の中から見詰めてくる。 ひと頃ノブを覆っていた影みたいなものは、最近感じられない。 なんだか積極的になったと、としあきは思う。 下半身の欲望から離れて、穏やかにを過ごす最近の日々。 としあきは三人の子どもの父親になった気分でさえあった。 「……エロい子どもだよ、お前らはさ」 自分の子に手をつけるような背徳感が胸をくすぐった。 布団に隠れてぞもぞもぞもぞもぞもぞもぞもぞ。 としあきはメイジの、メイジはノブの、ノブはとしあきの。 底辺の長い二等辺三角形のような三人、それぞれ男根を口に含み硬い竿を指で愛撫する。 「としあきの中に入れたいのにぃ……ひゅっ…ん」としあきが裏を舐め上げてメイジは不平をかみ殺す。 「それだとばれちゃうだろ?」としあきは舌先をメイジの鈴口に入れるように責める。 「メイジ……もっと優しく……ぁ……」ノブはメイジの指が急に激しくなって震えている。 としあきは、ノブの口に突き入れるように腰をつかった。むぐ、と苦しそうな吐息も愛しい。 布団の中が熱を帯びていく。秋の夜の涼しさは届かない。どろりとした熱がある。 汗ばんできた。高まっていく。三人が激しく、でも秘めやかに絶頂に昇り詰めていく。 オクタはきゅっと眼をつむりながら、もぞもぞと内股を擦りあわせていた。 小さな心臓がとくとくと早鐘を打っていた。多分顔は真っ赤だ。 全部聴こえていた。ちゅぱちゅぱと粘り気のある水音の重奏、オクタはマーチの事を想う。 兄さん……オクタの手は薄い胸と痩せた股の芯にそっと伸びた。 ぴりりと響く。寝息のリズムを崩さないようにするのが大変だった。 いっそ、としあきたちのベッドに潜り込んでしまおうかとオクタは思った。 としあきがぶっきらぼうにおでこを撫でた時を思い出す。 馴れ馴れしい奴、と思いながらあの時実は少し自分は感じていたのではないか。 全力で否定する、違う、そうじゃない、マーチ兄さんはもっと優しくしてくれる。 おでこをあったかく愛してくれる。熱いマーチの男の部分がおでこを暖める。 「……メイジ、精液あがってきた?」 としあきの声が聴こえた。マーチが優しく囁いてくれた時と同じだと思った。 オクタは堪らず体をぎゅっと膝と背中を丸めた。違う、あいつは兄さんじゃない。 思いに反して指先が激しくなってしまう。寝息を立てる、奥歯を噛んで寝息を立てる。 もう、『すぅすぅ』と言うよりも『すん、すん』と苦しげになっているがこれは寝息。 感じてなんかいない。絶対違う。 「いきそうぅ……」メイジの蕩け切った声、ノブも何かもごもごと息を詰めて甘く零した。 「ふたりとも、いっちゃえよ、ほら……」 としあきの囁き、マーチと同じ囁き、オクタは部屋の中に見えない電気が走ったと思った。 メイジとノブが絶頂に達した時、見えない余波を食らったようにオクタは完全に息を止めて震えた。 兄さん、兄さん、マーチ兄さん、おでこにかけて、かけて――。 もしかして、そう口に出してしまったのではないかと自分を疑う、芯を貫くような絶頂。 びゅるびゅるとおでこにかけられる精液の熱を、幻覚だと判っていながら覚えた。 細い膝を抱いて、耐えた。 部屋の中は静まり返り、オクタの中で波がゆっくりと穏やかになり、 もしかしてばれたかとオクタが怖くなってきた時、 「……としあき、まだいってないの?」 にちゃにちゃと、ノブの濃い精液を噛みながらメイジが熱の褪めない声で。 飲みにくそうにメイジの出した精液を飲み下すと、としあきは、 「まぁ……な?」メイジの硬いままの凶暴なそれにキスした。ひゃ、とメイジが声を上げる。 「もう少し、しませんか?」ノブは気だるく、でもとしあきのものを口と指で愛撫し続けている。 ――まだする気!? あわあわとオクタは息を呑む。 そしてまた本当に始まった。オクタもそれにあてられる様に、女の芯をいじり続けた。 ずっと蕩けながら。ずっと、としあきとマーチは違うと自分に言い聞かせながら。 --------------------------------------------------------------------------- 18.『おかす』 大鍋で煮込んだ夕食の次の朝食は、その残り。二日目のクリームシチューはジャガイモが美味しい。 としあきと三人の子どもは、何処かぎくしゃくした仕草で、無言でスプーンを動かしパンを千切る。 ――ばれてるかな? と、ノブ。 ――ばれてるよな、と、としあき。 ――結局六回もしちゃったし、とメイジ。 ――ばれてたらどうしよう、と、オクタ。 しゃこしゃこと四人で気まずく歯磨きして、いってらっしゃい。 メイジの声を背に、としあきとオクタが家を出た。 「……しかし、随分早いんだな。帰ってくるのは夕方だしよ」階段を降りながら、としあきがオクタに。 「一日中踊っていたい気分なの、最近」 オクタは、やっぱりばれてないのかも知れないと思って、少し気を許す。 「踊れば踊るほどね、深まっていく感じ。踊る事も、戦う事も、生きる事も……」 としあきはオクタの眼をふと観る……こりゃ、芸術家の眼だな、と思った。 「メイジを倒すって、ありゃマジなのか?」 「勿論」 ふふん、とオクタが鼻をならす。大分、余裕が出てきたようだ。 「腕を磨いて絶対に倒すの。どっちがお姉さんか、判らせないとね」 「……殺したら、相手は判ってくれないぜ?」 「――え?」 オクタは一瞬きょとんとして、それから自分の埒外だった事に気付いて……。 ハーゲンダッツのバニラ。 コンビニの軒先でオクタは、スプーンを動かしながらマーチのメルセデスGクラスを待つ。 ――殺したら、相手は判ってくれない。 バニラのいい香り、甘い。口の中で溶ける。白さにふとマーチの精液を思う。 でも戦う事と踊る事は同じだ。それが自分の生き方だ。人を殺せるような踊りを目指して踊り続ける。 自分の踊りは、死を与える事しか出来ないのか……と思った所で、「オゥガス兄さん……?」 「よっ、オクタちゃん。元気してた?」 人懐こい笑顔を浮かべて、オゥガスが駐車場を渡り近付いてくる。 「次は俺の順番だしな。メイジがどんな所に住んでるか下見によ」 ドイツ系由来の黒い眼が笑う。オクタは、ちょっと待って、とスプーンを振る。 「私、まだ負けてないわ。まだ途中なの。まだ生きてるもの」 まだ生きてるなら戦える。マーチがオクタに教えてくれた事だ。 「いや、そりゃそうなんだけどさ……」 年中笑っているような糸目のまなじりをこりこりと掻いてオクタの前に立つと、オゥガスは、はっきりと、 「オクタちゃんはさ、もう、死んだんだよ」 オクタが、どういう事? と口に出す前に18万Vスタンガンがオクタのブラウスに押し当てられていた。 膝が抜けてオクタが倒れる。オゥガスの糸目の奥に愉悦が光る。これで死んだら面白いなと思っている。 としあきの午前中の授業が終わって、部室に顔を出すと誰も居なくかった。 部室の中に入る。生協で買ってきた弁当を食おうと思った所で、机の上に置かれた紙に気付く。 下手糞で、よじれた漢字込みの日本語だった。筆致が尋常とは思われない、歪みが見えた。 『Tへ。Oは預かった。返還して欲しければ、XXX市XXXXの廃工場まで出頭。  ――もし、MやNに知らせた場合、Oは即座に殺害する。当方の死ぬ前にそれを為す。努々』 下手糞な文字の癖に、妙に文章の内容が古風だと思った。 としあきは午後の授業と弁当を放り出して駐輪場まで走り、チョイノリをぶっ飛ばしていた。 意識を失う事もなく、オクタは身動きできないままオゥガスのボルボに乗せられて、 気がつけば廃工場に転がされていた。 手錠と足枷。踊れない。痺れが退いてきても身動ぎも出来ない。 「……何故なの? オゥガス兄さん」 オクタは、マーチの次に好きだった、優しくていつも話を訊いてくれた兄の思い出と、 目の前の狂人を見比べる。 オゥガスは、手に持ったオートマグ44の弾装を出し入れしている。その手付きが妙に偏執的だった。 オートジャムの異名もある欠陥拳銃だ。評価されるのは革新的な機構と、単純明快な外見。 コンベアに腰掛けていたオゥガスは黒い髪をひとつなでつけると、 「死んで欲しくなったんだよ、オクタちゃんに」 ふらりと、幽鬼のように立ち上がり、オゥガスはコットンのパンツのファスナーを降ろした。 「今、殺しちゃおうか?」 糸目が、ねちりと音を立てそうだった。オゥガスは粘質に笑い、オートマグをオクタに突き付ける。 「私好きだった、オゥガス兄さんの事、マーチ兄さんの次に好きだったの!」 オクタは恐慌に駆られて叫んだ。 「だっていつも優しかったから、みんなにいつも笑顔の兄さんが好きだった、安心したの、なのになんで!?」 「利いた風な口は、塞いじゃおうね」 優しくにこにこと微笑みながらオゥガスはオクタに馬乗りになり、降ろしたファスナーから男根を取り出す。 「ほーら、あーんってして」 こきり、とオートマグのハンマーを上げて銃口をオクタの広いおでこに突きつけた。 オクタは、本物の狂気を観た。いやいやと頭を振るオクタにオゥガスは笑いかける。 「顎だけ遺して顔を吹き飛ばすのも、いいね」 トリガーに掛けた指を絞り始めた。 「まって、やめて……」「はい、よく出来ました」 後頭部を片手で乱暴に掴み、オゥガスは男根をオクタの口にねじ入れた。 オクタの喉の奥で吐き気が、くぐもった音が溢れた。オゥガスはその響きを先端の粘膜で感じた。 「はぁああ……いいね、いっちゃいそうだよ」 涙を流すオクタを満足そうに眺めながら、オゥガスは腰を振り始めた。 「ぼくが優しかったって?」 咽頭を破るように激しく突き入れながら、オゥガスは問わず語りのように。 「優しくしようとしたさ、皆の事好きだったからね、でも誰も判ってくれなかった。  みんな自分の事ばかり考えて膝を抱えてた。キミだってそうだよ、オクタ。  キミは俺の事を優しい兄貴と思って、ただそれだけで、兄貴の……マーチの所に行ったじゃないかあ」 オゥガスの眼は、笑っているようにも、泣いているようにも見えた。 「だからみんな殺す。もう誰も信じない。優しくしない。みんな死体にする、もう俺を悩ませない死体に。  ねえ、噛んで……噛んで、噛めよ、噛めぇ!!」 おでこに銃口を食い込むほどに押し付けられ、オクタは眼を瞑ったまま強制されるままに歯を――。 瞬間、溢れた。オクタは驚き歯を放したが、掴まえられて逃げられない。 「おおおおおぉ…」 食道に流し込まれる、大量の、精液。 「なぁ、オゥガス知らないか?」 兄妹たちのセーフハウスにしている、設計ミスが取り沙汰されている(事になっている) マンションの一室にマーチは戻ってくるなり、薄く毛足の揃ったスキンヘッドの男に尋ねる。 彼の名は、エープ。骨の張った東洋系の顔立ち、鳶色をしたアーモンド型の瞳をサングラスで隠す。 彼もマーチも、12の兄妹の中でもいわゆる『四天王』の一角だ。 『パパ』を守るための四人の守護者。兄妹の中の四つの精髄に名を連ねるふたり。 エープが敵を蹴散らし、マーチが背中を彼方から狙撃で守る。 四天王最強の組み合わせとも呼ばれるふたり。 「オゥガスか。朝から出ているようだが」 「ぶっちゃけ、俺とお前しか居ないから言うんだが……アイツ、薬に手、出してるよな。  国に返した方がよかないか? とんでもねー事やらかしそうでな。  オクタがさ、今朝迎えに行ったら居なかったんだよ。悪い予感がする……」 「オゥガスの事なら、誰もが知ってる。ただ、言わないだけだ」 エープは中指を伸ばして、サングラスの鼻を押し上げて、どこか少しだけ後ろめたそうに。 何ごとにも超然と動じないエープにしてみると、こう言う事は珍しかった。 「あいつは狂ってしまった。俺たち兄妹に一番接点を持とうとアクションしていたのはあいつだ。  だが……俺たちは、そんなあいつに何がしてやれた?  誰もが自分の事で手一杯で、誰もあいつをかえりみてやれなかった。  あいつの狂気は、誰にも触れ合う事が出来なかった苦悩ゆえだ。  あいつを空回りさせてしまったのは、俺たちの罪だ。兄としての俺たちの……行ってやれ。  オクタが危ない」 マーチは、はっとしてエープを観る。 エープの眼は、グラスの黒に隠れて見えない。 「あいつは、最近××市辺りで廃工場を調べていたらしい。事を起こすとしたらその内のどれかだ」 「地図、あるか?」 「持っていけ。オクタを助けたいんだろう?」 「ありがとよ、相棒」 エープから地図を受け取るとマーチは飛び出していく。 エープは、ドアの閉まる音を背中で聴いて、神妙な顔で呟く。 「……俺が、始めから行くべきだったのかもな。だが……」 エープは、オクタとマーチの想いを知っている。 すぐにも瓦解しそうな偽りの兄妹の今も良く判っている。 まして、そこにマーチとオクタの恋が混ざればどうなるか……まして他の兄妹への憎悪など。 エープだって怖くない訳がなかった。 それでもエープは、オクタの事はマーチに託したかった。 「殺すか、活かすか……お前はどうする。マーチ……」 -------------------------------------------------------------------- 19.『しんじる』 噛まれた痛みがとめどない性感を呼んだ。 屍体映画に欲情した一夜に貯められた精液を全て流し込むような射精だった。 誰にも観てもらえず、害される事もないよりは、痛みを受ける方がよほど官能的だとオゥガスは思う。 苦しそうに綺麗な眉根を寄せて痙攣するオクタを観ると、 犯していると言う今への欲望が止め処なく吹き上げ、オゥガスの興奮は射精しても尚跳ね上がる。 ずるりと口腔から男根を抜くと、オクタは火がついたようにむせ始めた。こぼれる精液と唾液。 「ああ、いいね……俺は今、キミを犯してるんだね……いいね。  さぁて、お次はキミの処女を貰おうかな。屍姦するのはその後だ……ククク」 ねぶる言葉で自己陶酔の高みに登り詰めるオゥガスに、精液を吐いていたオクタは呻くように一言。 「……なんだって? 聴き間違いかな?」 オゥガスは酷薄そうにオクタを見下すが、オクタは弱々しくても意思の宿った眼で、 「……だから、初めてじゃないの。マーチ兄さんと……。  私、オゥガス兄さんの事、好き。優しかったから。  でも、マーチ兄さんは違うの……本当に好きなの」 殺される、とオクタは思った。それでも、言わなければならないと思った。 オゥガスの為に。何よりも、自分の為に。 オゥガスは、トリガーを引く事なく、一瞬痴呆のようにぼんやりとしていたが、 やがて自分の頭髪を掴んで笑い出した。 狂った者にしか出来ない邪悪でけたたましい笑いだった。 「――そうか! やっぱりやってやがったんだな! こっちがぼやぼやしてる間に、  いつの間にかによろしくセックスしてやがったんだな!  そうかそうか、おめでとうオクタ! キミはもう女だったんだな、この中古売女め!  じゃあ殺す、今殺す! さすがに屍姦された事はないもんな、そっち貰うから安心して死ねェ!!」 オゥガスの黒い眼は怒りに燃えながら、涙がぽろぽろとこぼれていた。 ――44オートマグを突きつけて、トリガーを絞るかと言う時に、 50㏄の軽い排気音が近付いてきた。 オゥガスは興を殺がれ、また、己の激情を持て余すように、ファックと吐き棄てて、 「……まぁいい。邪魔が入った。後でゆっくり殺して犯してやる」 チョイノリを建物から離れたに停めて降りる。山中の廃工場だった。 良く観ればそこかしこに6ミリBB弾が転がっていて、サバイバルゲームに利用されている事が判る。 野生の鳩が日なたに沢山居て、スターチ製のバイオBB弾を美味そうにつついていた。 工場の中から、外国人の男が出てきたのをとしあきは観る。 何で泣いてるんだこいつと、としあきは思い、まさかもうオクタが殺されてるんじゃないかと危惧した。 「約束通り一人で来た。オクタを返せ。まだ生きてるんだろうな!」 鳩を蹴散らすように廃工場に詰めよりながら、としあきが大声で呼ばう。 男――オゥガスは泣きながら笑い、 「さてね、どうかな!? あんなビッチの事はどうでもいいじゃないか、としあき!」 「馴れ馴れしンだよ、初対面に名前を呼ばれるいわれは無ェ!」 「キミは俺の事を知らないだろうが、俺はキミの事を知っているぞ!」 としあきの歩みが止まる。 「……何、だって?」 「いつも聴かされていた、おじいちゃんからな! おじいちゃんの小さい頃に良く似てるってな!」 今度はオゥガスがとしあきに詰めよる。としあきは、 「テメー。何モンだ……?」 オゥガスは頬が耳まで裂ける様な満面の笑顔を浮かべて、ピエロのように仰々しくお辞儀した。 「申し遅れたね、俺の名はオゥガス! メイジの兄で弟だ!  産はブルガリアと発します、なんちゃってな!」 としあきには、けたけたと笑う道化師めいた男が、としあきと同じ位の年齢に見える。兄で弟だと? 「謎掛けの趣味はねぇ! テメーは一体、なんなんだよ!」 としあきが一歩踏み出すと、オゥガスは後ろ腰のホルスターから、 ステンレスの輝きを持つ44オートマグを抜いた。としあきにぴたりと横に銃を倒して照準を合わせる。 「はい、これで屍体。屍人に口無し。  ――バン!」 としあきは、動じなかった。銃声を口で真似たオゥガスは意外そうな顔をする。 「へぇ……おじいちゃんの言った通りなのかもな。  まぁイイや。いつでも殺せる事に変わりは無いし、冥途の土産って奴だよ、話してやるよ!」 「俺たちは、俺たちの『パパ』を守るための兄妹だ。『パパ』の為に殺し、奪い、犯す」 「メイジとノブとオクタもか? あいつらも、そうだって言うのか!?」 「そうとも! 骨の髄まで殺人を叩き込まれた12人の兄妹の内の三人だ。  メイジがこの国に逃げて来たから、俺たち兄妹全員で狩りに来たって訳だよ」 としあきは愕然となる。 そんな話は、メイジから訊いていなかった。 としあきの反応に、今度こそオゥガスは満足そうな笑みを浮かべる。 「知らなかったって顔してるな? 信頼されて無いんだよ、お前は!  ディスが負け、オクタは瞬殺、セプトはいい所まで行ったみたいだがノブに倒された!  としあき、お前はもうあのふたりに三回は裏切られた事になるな!」 「……お前、何言ってんだよ」 「おいおいおい、絶望したか? でも安心しろ、もう裏切られる事はないぜ?  俺が今からお前を殺すからだよ! その後にメイジもノブもぶち殺す!  眼を掛けてやってたのに俺を見なかった報いだ、死をくれてやるんだよ!  としあき、お前と俺は似てるよ。いつか棄てられる、優しくしてもだ!」 「……そうじゃねぇよ」 としあきには癖がある。激情に駆られると表情がただ、抜け落ちる癖が。 としあきは、静かに首を横に振ると、強い意思のこもった瞳でオゥガスを見返した。 「そんなの俺に心配掛けない為に、決まってんじゃねぇか。  何でも出来る、人だって殺せるって凄ェ眼をするくせに、  目玉焼きひとつロクに焼けねぇあいつらの事、お前は何にも判ってねぇよ。  それで兄貴面か? いや、弟でさえ無ぇな。  信じてやれねェのかよ、あいつらの選択をよ。  俺はお前とは違うぜ、あいつらが自分で選んだ未来を、俺は信じる。  何でも出来る顔して、でも全然子どものまんまなあいつらの選択をよ!  俺にはあいつらを待つしか出来ねぇ、あいつらの家になるしか出来ねぇ、  でもそれで充分だ! いつだってなんて事ない顔して帰ってくるあいつらを、  俺は見守り続ける。てめーはそんな事も出来なかったのかよ!!」 『――お前は優しいからな。どんなに傷ついても……人に優しくしなさい。  忘れてはいけないよ。人に優しくする事は、自分に厳しくすると言う事だ。  私はお前を、信じているよ。それが出来る子だと――』 オゥガスの脳裏に、強烈にフラッシュバックが起こった。老人の優しく、厳しい言葉だ。 オゥガスがいつの間にか裏切ったもの、その言葉、その姿がとしあきと被った。 「……うるせぇ」 オゥガスは頭を押さえて呻いた。 「黙れよ……くそ、じじい、黙れ、黙りやがれ!」 オゥガスは、火葬されて骨になった老人を観て、ほっとした昔を思い出している。 「てめーの屍体をもう一回観てやるぜ!!」 今正に激発せんとしていた44オートマグがオゥガスの手から、はじけて飛んだ。 遅れて、銃声が届く――弾の速度が音速を超えている証拠だ。 銃だけを撃ち抜く正確無比の狙撃。 激しく打たれたような痛みで手首を押さえて呻くオゥガスの携帯が鳴った。 オゥガスは取る。 「……マーチ兄貴か?」 『お前の頭を7.62ラシアンで狙ってる。オクタを返してもらうぜ』 「ああ……オクタちゃんなァ……何の事?」 ちゅん、とオゥガスの足元が爆ぜた。一拍遅れて銃声。 「おいおいおいおいおい、兄貴、落ち着けよ、な?」 『大目にみてやるかどうかは、お前の返答次第だぜ』 オゥガスは、銃が弾き飛ばされた力の方向をざっと計算し、 視線を動かさずに狙撃方向を洗い出す。 南側の採石場の砂山、スコープが反射せず、身を隠せるポジション。 「兄貴が来るなら、そこら辺をポジションすると思ってたんだよ……掘ってみな。  会えるぜ?」 オゥガスが身を隠そうと動いた。 動こうとした筈だった。 でもその前に両膝を打ち抜かれて、倒れた。 殆ど繋がっている二発の銃声が彼方から、としあきに聴こえた。 うぎゃー、と絶叫して転がるオゥガスを観て、としあきは流石にちょっと息を呑んだ。 携帯が鳴ったので更にギョッとした。着信を観ると、非通知。 「……もしもし?」 『としあき、だな? 俺はマーチ……そいつやメイジやノヴ……それにオクタの兄貴だ』 何とか、落ち着こうと努めているような、若い男の声だった。 「……なんの用だ?」 『頼みがある……ここからじゃ見えないんだ、お前じゃないと頼めない。  工場の中に、オクタがいる筈だ。探してくれないか?』 「判った……でもその前に訊きたい事がある。お前も、メイジを狙うのか?」 『……俺まで順番が来ればな』 「何故だ? お前ら、兄妹なんだろ? なんでそこまでするんだよ。  兄妹じゃねぇかよ、『パパ』の命令だかなんだか知らねぇが、兄妹で殺しあうなよ。  しあわせじゃねぇよ、そんなのしあわせなことであるもんかよ!」 『……もうひとつ、頼んでいいか?』 マーチは深く、懺悔する前のように時間と呼吸を取った。 『メイジとノヴを、しあわせにしてやってくれ……』 としあきは一方的に電話を切った。 「ふざけんな」 としあきは、抜け落ちた表情で、呟く。 ---------------------------------------------------- 20.『つたえる』 「私と戦って」と、オクタは言った。 「いいよ」と、メイジは答えた。 ――オクタが、廃工場でオゥガスに喉を犯され、殺されかけたその晩の事だった。 オクタが住み着いてからと言うもの、としあきはすっかり蛍族である。 もう随分冷たくなった夜風に吹かれて、少し肩をすぼめながら煙草を吸う。 煙が白く、漏れた蛍光灯に光って、流れていく――と、ベランダのガラス戸が開いた。 オクタだった。 いつもなら、煙草をやめろやめろと口煩いのに、絶対煙草を吸っているとしあきの傍になど来ないのに。 オクタが何かを言い出しかねている空気を、としあきは感じる。 「――なあ」としあきは煙草を消して振り向き、オクタの顔を見た。 「明日、俺もお前らの事、観に行っていいか?」 駄目だ、と言われるのが判った。 ほのかな逆光の中でも、オクタの顔に描いてある思いが良く判った。 「流れ弾に当たって死にたいの? 駄目、来ないで」 「まだ、訊いてなかったよな。『パパ』の命令だから、お前はメイジを狙うのか?」 オクタは、確固として首を横に振る。 「夢だから」「夢?」 「そう、夢。例えば、言いたい事が誰にでも伝わるとするでしょ? でも、伝わらない人がいるの。  それって悔しいじゃない。私の気持ちを伝えたい……夢なのよ。メイジに凄く強い感動を伝える事。  お姉さんとかお兄さんってすごいと思わない? 困った時にはすぐ助けてくれて、  凄く強く……愛してくれるの。私はメイジの心の中のお姉さんになりたいの。  ……好きだったオゥガス兄さんにも伝わってなかった。やり直すの……伝えたいって気持ちから、ね」 「……言葉じゃ、駄目なんだな」 当然、とオクタは笑う。背伸びしそうなほどしゃんとした背すじで、笑う。 「でも、としあきの言葉は伝わったわよ」 オクタはふと我にかえって顔を真っ赤にして、部屋の中に逃げるように戻った。 としあきはベランダに取り残された。 俺が何を伝えられた……としあきは祈る。 ふたりとも、帰って来い、と。 翌日。 ――としあきは、黒板の文字を眺める。 フィールドワークと調査被害について熱弁を振るう客員教授のロイド眼鏡を眺める。 こんな所にいたくない。本当は観に行きたい。見届けたい。彼女たちの選択を。 メイジはどこから来たのか……そう思った時があった。もう何となく判ってきた事だ。 メイジは、姉妹同士でも殺しあうような、そんな世界から来たのだ。 メイジはとしあきに、何も話さない。 だが、としあきは知ってしまった。 メイジが元いた世界の事を、十二人の兄妹の事を。 そしてオゥガスが語ったおじいちゃん……恐らくは。 自分には何も出来ないと、としあきは思う。 でも見守り続ける事が出来ると、あの時オゥガスに確かに吼えた。 だが、それはつらい選択だ。 もう家族以外の何者でもないメイジとオクタが殺しあうのを止められない。 としあきもまた、選択して行かなくてはならない。 選んだ未来に、祈りが届けと思う。 オクタは言った。としあきの言葉は伝わったと。 俺が何を伝えられた。 伝えられたものがあってくれと、としあきは祈るのだ。 ――ある、ボランティアのバレエ教室で、痩せ身の女がひとりの生徒の事を案じていた。 今日は行けない。もしかしたら、これからもずっと行けないかも知れない。 思い詰めたような、でも何か吹っ切れたような声で、その生徒は女に電話で語った。 ありがとうございました。 光の中で踊る少女が、女にそう言ったのだ。 いつの間にか娘が出来たような気持ちになっていた自分を思い、胸が痛む。 彼女の向き出しの好奇心にいつも振り回されっぱなしだったけれど、 確かに愛らしく、なんとかしてあげたいと思っていたのだ。 男の子ばかり育て来て、もうその男の子も家を出て、寂しかった。 そんな時、やみくもで恐ろしく強くて、足元からすくわれそうな危うい光を持つ、 そんな彼女の存在が温かかった。 子どもはいつだって、無鉄砲なまでの力を持つ……男の子をひとり育てた自分には良く判る。 私が何を伝えられたのかしら。 私はあなたに、沢山のものを貰ったのに。 決闘の場所は、他ならぬオクタが蹂躙された廃工場だった。 オクタ自身が選んだ。 「……何故、ここなんだ?」 メルセデスGクラスのハンドルにもたれかかったままオクタに、マーチが尋ねる。 バイオBB弾をつつく鳩の群れの中にメイジが立っているのが、マーチには見える。 「鳩が沢山いるから。よくマーチ兄さんに食べさせてもらったじゃない」 「そうだったな。みんなで外に遊びに行って……楽しかった時も、あったんだよな」 「私はいまでも、楽しくないなんて思わないわ」 オクタは四挺目のベレッタM1934に弾倉を挿し入れ、スライドを引く。 すぐに引き抜き、装填して一発空きが出来た弾装に銃弾を込め直す。 そしてまた弾倉を挿し込み、 「それに……踊るなら沢山の眼に見てもらいたいの。鳩はお客様ね」 最後のベレッタM1934を脇のホルスターに収め、ブレザーを羽織った。 そして、オクタは香水の瓶を取り出した。シャネルの№5。オクタのお気に入りだ。 それを、思いっきり体に吹き付ける。 ココ・シャネルは『特徴的な女』であれと、かつて言った。 耳の裏などにそっと香水を偲ばせる女をシャネルは軽蔑した。 化粧を整え、香水で自己主張する子どもなど背伸びもいい所だとオクタは自分で思う。 でも、オクタは自分の安売りなんか絶対にしたくないのだ。 強い自分の思いを高く売りつけたい。 踊れと体の芯が騒ぐのだ。 だから、踊る。 踊った姿が見てくれたものの記憶の中に、残り香と共に消えずに存在してくれる事を願うのだ。 踊る事で生を歌い、撃ちまくる銃弾で死をもたらす。 ならばせめて、消える前の命に私を刻み付けたいのだ。 オクタは、強い香りを深く吸い込み、眼を閉じる。 「……兄さん、『おまじない』、して」 マーチは、そっと運転席から助手席に身を乗り出し、おでこにキスをした。 マーチが愛した、綺麗なおでこだ。唇で確かめ、鼻で産毛の柔らかいにおいを嗅ぐ。 光の中で、二人は確かに触れ合っていた。マーチはオクタを抱き締める。 「……帰ってきたら、続きをしようぜ。絶対、帰って来い。  俺にはまだする事があるから……もう行かなくちゃならないが、信じてるぜ」 「今度は、なかに、ね……いってきます、兄さん。愛してる」 オクタが微笑んで、不意にマーチの唇を奪った。 オクタがマーチのかいなを振り切り、助手席から飛び出すように出ていく。 呆けたようなマーチが遺される。 ……女になった顔をしていたと、マーチは思う。 女の子はいつだって、いつの間にか女に転じてしまう。 もう、兄貴面するのもおかしいのかも知れないな、とマーチは思いエンジンキーを捻った。 ……やらなければならない事がある。黒い思いが突き上げる。 香水の残り香と共に、行こう。 メルセデスGクラスが遠ざかる。 「いいこと、メイジ? 今日こそどっちがお姉ちゃんか判らせてあげる」 鳩の群れの中で、オクタがピンと背中を伸ばす。 「無理しなくたっていいのに。オクタちゃんはオクタちゃんなのにね」 メイジは何故か、オクタと対する時は落ち着いている事が多くて、オクタはそれが不満だった。 「そうよ、私は私。でもあなたはまだ、本当の私を判ってない。  見せてあげる、私のバレットバレエ!」 メイジが有無を言わさずガバメントを抜いた。 オクタも同じタイミングでベレッタを抜いていた。片手に二挺束ねて持つ、四挺拳銃。 銃口が絡み合う。メキシカンスタンドオフ。 「……うどん屋さんの時よりは成長したみたいね?」 「勿論。腕を磨いたもの、いろんな人に出会った、色んな人にいろんな事を教えてもらった、  私は成長途中なの、いつだって、常に――」 メイジがいきなり撃った。 激発する直前にオクタがくるりと回って銃口の向きから逃げた。 「まだ話してる最中よ! ちゃんと訊きなさいってばァ!!」 オクタの両腕が白鳥の首のようにしなって伸び、メイジを四門の銃口で捉えた。 撃ちまくる。 秋の斜陽の中、銃撃音に蹴散らされて鳩が飛び交う。 ---------------------------------------------------------------------- 21.『おどる』 ビルの屋上から、愛用のスワロフスキー製双眼鏡でロケーションを確認する。 距離、700メートル。片側五車線、一方通行の交差点。幸運な事に渋滞が発生中だ。 撃ち降ろしの角度を再確認してから手製の竹とんぼをひとつ、取り出す。 街に向けてひゅるんと竹とんぼを飛ばして、肉眼と双眼鏡で行き先を追う。 竹とんぼの飛び方から、ビル風の巻きを観る。 竹とんぼは広い車道にゆっくりと踊るように降り立ち、 何の関係もない車のボンネットの上で独楽の様に少し回って、倒れた。 脳内で天啓が閃き、諸々の変動的パラメータを組み込んだ空間のマッピングが完了した。 ライフルケースを開く。SVDドラグノフ。スコープはこのロケーションに調整済み。 細かい策略など端から考えていない。移送車の中の頭をぶち抜く。 頭が見えなければエンジンのガソリンタンクを二発目の爆裂撤甲弾で抜く。 車ごと焼き殺してやる。身動き出来ぬ拘束衣を丸焼きにする。 これ見よがしに、7,62ミリ54ラシアンで。 奴を殺したのは他ならぬ自分だと見せ付けるために。 怨恨返しは正当な怒りによって果たされるべきだと。 『やぁマーチ兄さん。拘束衣っていいもんだね。伝説の殺人鬼になった気分だ』 夕べ、オゥガスはそんな風に屈託なく笑っていた。 『俺は先に兄妹でいる事から降りるよ……兄さんたちの落ちる地獄を観てきてやる。  これから送られる所にはどんな苦しみが待っているのかな? 楽しみだなぁ』 満足そうに、糸目がぬるりと笑いに歪んでいた。 『せいぜい苦しんでくれ。いずれ、兄妹ごっこが重荷になる。そしてみんな死体になるのさ。  最高だね。誰も死んでしまえ。そしたら誰も苦しまない。最高だ。死人に口無し、意思無し。  そうそう。オクタちゃんの口は良かったぜ? 今度噛んで貰いなよ。マジ勃起するって。  ――どうせ、いずれ傷付けて放してしまう、殺してしまう命なんだから……いたぶってやりなよ』 拘束衣で縛られ、舌を噛み切るしか自由意志を行使出来ないオゥガスをはっきりと、殺そうと思った。 身動きできないものをぶち殺す餓鬼畜生、修羅の道に落ちてもいいと思った。 『みんな、屍体なら良かったのに……みんな生きてなければ良かったのに』 なら、お前だけは俺が殺してやるよ。 お前を殺す事でオクタの所に帰れなくなるとしても、俺はお前を俺の意思で殺す。 香水の残り香を求めている自分を発見するが、もう風に巻かれて消えてしまった。 手首の時計を観る。もうすぐだ。 お前の落ちるだろう地獄でも、お前を殺す。何度だって殺し続けてやる。 何処までも地獄をお前と降下し続けてやる。 屍鬼のお前には地獄すら生ぬるいよ、オゥガス。 オクタは手品のような一挙動で四本の弾倉を棄てて、後ろ腰のマグケースから四本装填する。 熱く焼けた銃身。総六十発以上は撃った。しかしメイジはことごとくをかわす。 当たらない。 メイジは今、廃工場の中に逃げ込んで隠れている。上等だ。 オクタの戦闘メソッド、バレットバレエは拳が触れ合うほどの極近距離でこそ効果を発揮する。 精緻にコントロールされた濃密な弾幕によって相手の反撃を許さずに一方的に撃ち殺す。 拳銃は戦場では自殺用と言われる事もある。狙いを付けて撃つよりも、殴りかかった方が早いのだ。 そしてライフルや機関銃は重く長く、近接距離では拳銃よりもなお取り回しが効かない。 なら、殴るよりも早く、そして強力で確実な攻撃を拳銃で行う事は出来はしまいか。 拳銃で格闘する事は出来ないか。 その思想は、いわゆるCQBやCQC、近距離での格闘を含む制圧射撃のメソッドとして一般化した。 機関銃と毒ガスと空爆、そして原子爆弾による大量殺戮の戦争の時代の中で、 一丁の拳銃にしか出来ない戦い方が生まれたのだ。 一丁の拳銃の戦場は、現代に確かにある。 “組織”でCQCの教えを受けた時、オクタの中には閃きがあった。 結局、センスの問題なのだと。 道具ではない、体を動かすセンスが戦い方を作るのだ。 自分にしか出来ない戦い方――人生をかけようと決めていた舞踏と言う行為。 これが自分のセンスだ。体を動かす事で何かを訴えかける。 センスとは、人生に携えられるものだ。センスとは個人自身なのだ。 高名な武術家だったおじいちゃんが言っていた。 『ひとつの道に通ずるものは、生きる道を開く。お前のやりたいようにやってみなさい。  お前の生き方は、お前にしか出来ない。お前だけの生きる道がある筈だよ。  お前の生き方は必ず、お前の道を切り開くだろうね』 踊りで人を殺せたらいいのにとずっと思っていた。それだけ強い感動と衝撃を見ている人に与えたかった。 生きる事と死ぬ事は、人生で最大の感動だとオクタは幼い頃から確信があった。 オクタは、最も身近な人たちの死と、そして生を繋いだ、本当に幼い時の記憶を忘れられない。 父の、母の、兄の死。飢えと渇き、寒さ。孤独。差し伸べられた皺だらけの、あの優しい掌……。 踊りとは、体の隅々まで意識の制御下に置く事だ。 おじいちゃんが伝えた武術の精神となんら矛盾しない、それどころか殆ど同じものだ。 武術をベースとして拳銃を操るCQCに、自身の踊りのセンスをあらん限りに投入した。 おじいちゃんの放つ突きと蹴りには、人を殺したり活かしたり出来る美しさがあった。 その動きに感動した。観ているだけで死にそうだったし、活かされたと思った。 私も踊るだけで誰かに、生と死を感じて欲しい。そんな風に踊りたい。 生への一心で踊って弾を避け、死への意を込めてトリガーを引く。 バレットバレエ……全く新しいCQCの形をオクタは、若干十歳にして啓いていた。 誰もがその眩しい天性の光の前に倒れた。オクタは生き残り、相手は全て倒れた。 だが、メイジは生きている。メイジにはオクタの生と死の感動は届いていない。 天地を繋ぐ柱のように、軸を一本立ててゆっくりと、しかし体重を感じさせない歩方で。 足音ひとつなく、オクタは廃工場へ慎重に歩を進めて行く。 廃工場の薄暗がりに待つのは死か、それとも生か。 生への押さえがたい欲求がある。だから、後者だ。 ――マーチ兄さん。 オクタの生への欲求の具体的な形が、ハンチング帽の下で柔らかい視線を向けてくれる。 生きて、愛し合う。今度はもっとずっと、今まで感じた事もないような方法で……抱いて欲しいから。 時間が近付いてきた。 マーチは修羅に入った我が身の中に微かに残る、切ない希望を想う。 ――オクタ。 歪み切った自分の異常性欲を愛と感じてくれる妹。 いつだって、オクタの白く綺麗なおでこに欲望を吐き出す度、マーチは後ろめたさに震えていた。 なのにオクタは、笑っていた。精液を浴びながら、愛されている充足で笑っていたのだ。 これは愛なのか、それとも性欲なのか。 マーチは自分の心が判らずに怯えた。 男根から発する衝動のままに振舞えば、か細い妹を傷付けてしまうのではないか。 愛する事など自分に出来るのか。どうやって愛したらいいのか。 なのに、オクタは健気で――あの時だってそうだった。 オクタがメイジに一撃で負けたあの夜に、オクタは初めて、額以外をマーチに許した。 細い体を抱きしめて、マーチはオクタの中に入って暴れた。 苦しそうに奥の歯を噛み合わせて破瓜の激痛に耐えるオクタが、マーチの欲情を駆り立てた。 二度目の絶頂をまたしても額にぶちまけ、頭を抱えるマーチにオクタは悲しそうに笑った。 ――ひとつになれたんだから、悲しそうな顔をしないで。兄さん。 受け入れてくれる笑顔が多量の白い粘液に塗れ、止めどなく欲情が溢れた。 マーチはもあの夜、三度、オクタの額に射精した。 俺は最低だ。 そしてマーチはオクタに抱かれて、迷子のように怯えて眠った。 歩み寄れずに誰もが膝を抱えていた兄妹たちの中で、俺たち二人は本当に触れ合っていけるのかどうか。 愛されたいと願うオクタに、俺は応えられるのかどうかと。 誰一人愛した事のない、俺に。 修羅に入れば、もう、愛は届かないと言うのにこうしてオクタを想う。 そうか、とマーチは気付いた。 オゥガスを殺してでも、守りたいと想う気持ちこそが――。 時間が迫っていた。 廃工場の影の中に踏み入る。 鳩の声と羽ばたきが聴こえる。 五感全てを駆使して空間全てに意識を満たす。 オクタの意識は水のように廃工場の中に満たされ、建物の中の全てを察知できる。 気がかつてないほどに冴えている。 生き物の反応が手に取るように判る。飛ぶ鳩たち……メイジが隠れている場所も。 生きている人ひとりの熱量、息吹、存在はどんなに殺しても殺しきれない。 コンベアの影に隠れているメイジの存在をこんなに離れた所から判るなんて……。 オクタは奇跡のような感覚を得たと思った。 舞台で踊りながら、劇場全ての人間を察知する瞬間がある……そう、聞いた事がある。 まさにこれだと思った。 歩みを止めず、気付いていると気付かせず、オクタは四つの銃口をぴたりと向けた。 サイトに視線を通さずとも、銃口が今何処に向いているのかを正確に認識する事が出来るオクタは、 舞踏の振り付けのようにコントロールされ切った、それ故戦闘法とは思えぬ優雅な仕草で狙いをつけ、 トリガーを―― 臭いだと思った。 しまった、とオクタは思った。 自分の香水の匂いに意識を取られて感覚が遅れた臭いが問題だと思った。 気化する薬品臭……シンナー? ベンジン? それともガソリン? そんな類の物の臭いを嗅いだ、罠だと気付いた時には銃声が一発鳴り響き、 メイジの存在があった辺りから炎が緞帳のように壁となって上がった。 メイジが跳弾のスパークで火をつけたのだ。 爆発的な熱量が沸き起こった。メイジの存在が炎にかき消される。 『火遁』 冴え切ったオクタの意識の中で、亡くなったおじいちゃんの声が聴こえた。 おじいちゃんなら絶対にそう言うだろうと思った。 おじいちゃんが兄妹たちに伝えた戦闘法は、東洋の島国の文化的思想が根幹に息づいている。 火に紛れて生を掴む戦闘方法。陰陽五行、自然の中に存在するエレメントを利用する戦闘。 バレットバレエは、人の生を極めたいオクタの一心が産み出した戦闘方法だ。 劇場の中の自身の生にのみ囚われている、自然を感覚し利用する事など想像もつかなかった。 メイジがオクタの一枚上を取った、焦りに駆られてオクタは両手の人差し指と小指を別々に動かして、 四挺のベレッタM1934を炎の中に打ち込む、無駄だと判っている、だが運が勝る時もある、 届け、当たれ、闇雲な死への意思が弾幕となって展開される。 工場の中の鳩が炎と煙、跳弾に追い散らされて狂ったように飛び交う。 オクタの銃弾が全て切れるタイミングと同調し、オクタが撃ち込んでいた方向とはまるで別の向きから、 メイジが炎をやぶってまろびでた。 頭に被って炎を避けていたコートを脱ぎ捨て、メイジが突撃してくる。 「――オクタちゃん!」 「――お姉ちゃんって呼びなさいよおおおお!!」 オクタはベレッタを惜しみなく棄てた。 袖の下にスライディングレールで仕込んでいた二挺のジュニアコルトを飛び出させ掌に収めようとする間に、 メイジがオクタと同じく得意とする極接近領域に踏み入り二度撃った。 ジュニアコルトに直撃しレールが歪んだ、掌に収まらない、 オクタはこれも思い切り良く忘れて両の内股に手を伸ばす。 八挺の拳銃が作る強固な正八角形、全方位に緊張する形――オクタゴン、オクタ。 それがオクタの目指したひとつの形だ。今は正八角形、いずれは一挺で可能にする正円に。 最後の二挺レミントンデリンジャーを、内股に留めてあるバンドから抜きつつ、 くるりと回りながら跳躍して、メイジの殺気の射線から逃れて、着地と同時にメイジに狙いをつけ、 ――オクタは、としあきの声を聴いた。 最初からそのつもりよ、馬鹿。 瞬間だった。瞬間にとしあきの声を聴き、オクタはそれに頭の中の声で温かい気持ちで反論した。 ――銃声は殆ど同時に三発響いた。 時間だ。 来た。 双眼鏡に映る、移送車の4ドアクーペ、メルセデスCLSクラスを確認する。 色はインジウムグレー。車体の後端に光るAMGのロゴ。ナンバープレートも合致。 オゥガスは拘束衣を着せられて後席でへらへら笑いながら、運転席の組織の人間と何事か話していた。 マーチはドラグノフをライフルケースから取り上げた。 片膝をついて充分な射角を確保し、スケルトンストックを肩に押し当て骨で銃全体を支え、構える。 ドラグノフ純正のスコープの中心に捉える。 渋滞に詰まる時を、スコープでオゥガスの糸目を追いながら待つ。 視界を揺らす体の微弱なブレのリズムを計っていく。 でこを見せろ。 リアから撃ち抜くポジションを取ったため、無茶だと判っていながらマーチは思う。 でこを見せろと。 体の中心線を狙え、と狙撃では言われる事がある。 そうだからか、マーチは狙撃する時はいつもターゲットの額を気にする癖が取り立てて強い。 男の額など美しくもないが、狙った通りに頭の中心である額に風穴が開き、 後頭部が抜けた破壊エネルギーで吹き飛ぶ瞬間の快感たるや、マーチにとっての至福のひと時だ。 何百メートルも先の、時によってはキロ単位先の人間の頭と銃口を結ぶ快感。 CLSクラスが交差点の渋滞に詰まって止まる。射角の誤差を修正、小指からゆっくりとグリップを握り直す。 人差し指をトリガーにかける。気持ちを切り替える。 後ろ頭から綺麗に、でこにデカイ風穴を開けてやるよ。 トリガーを絞り始める。 寸毫先の未来に体がどうぶれるかが判る。 数瞬間先の未来に銃口がどこにあるかを正確にイメージできる。 未来予知に同期を取り、絞っていく。 きりきりきりと音を立てて開放されんとするシアーまでもイメージ出来る。 じゃあな、オゥガス。 さようなら、オクタ。 ふたつの色の違うさようならを脳内でイメージし――。 「はい、そこまで」 ぱしりと拍手が鳴り、マーチの背後にいきなり気配が出現する。 マーチはスコープを覗きこんだまま、硬直した。 その声は恐怖だ。 体が小刻みに震え出した。スコープの視界が千々に乱れる。もうオゥガスの後頭部を捉える事は出来ない。 「……ジャンヌ、姉さん?」 辛うじて声を絞り出す。声が震えていた、息継ぎがおかしかった、撃たれるのではないかと恐怖した。 くすり、と笑う息がマーチの耳元で聞こえる。体温がかかるのがマーチには恐ろしかった。 「そ。駄目よ? 弟殺しなんて、ね?」 ふっくらと笑んだ息遣いの中には魔が棲む。マーチはそれを良く知っていた。 オクタの両掌から二挺のデリンジャーが飛び、 メイジの手からガバメントが飛んでいた。 それが三発の銃声の正体だ。 炎に巻かれた廃工場の中で、二人は全くの無傷で、徒手空拳で向き合っていた。 オクタは、満足そうに笑った。 「どう? 殴り合いでもする?」 全て、オクタの狙い通りだった。 メイジから戦闘能力であるガバメントを奪う事。 そして、殺さず殺されずの状況を一瞬でも作る事。 オクタはメイジが片手のデリンジャーを飛ばす一瞬を盗んでガバメントを撃ち抜き、 しかしメイジはガバメントを撃ち抜かれる一瞬の前にもう片方のデリンジャーめがけて発砲していた。 ゼロコンマ以下の奇跡的状況が起こったのだ。 ――殺したら相手は判ってくれない。 としあきがオクタに何気なく言った事。それを叶える事。 『活人剣』 と、頭の中のおじいちゃんが言っていた。 この場合、剣じゃなくて銃ね、とオクタは思う。 生半可なものではない。相手を殺すつもりで活かす必要がある。それは殺すよりも難しい。 本当はガバメントを飛ばすだけで、オクタの一方的な優位を作って認めさせる事が狙いだったのだが、 見えかけたオクタの新たな目指すべきヴィジョンには少しの距離がありそうだった。 でも、進むべき未来は掴んだ。 殺したら相手は判ってくれない。同時に、死んだら相手に判らせられない。 勝ち馬にならず、負け犬にもならない。 死なず、殺さず、感動を伝え合い続ける関係。おばあさんになっても踊り続けるための未来。 その未来の像が、オクタには見えた。家に帰ろう……その未来が。 メイジは、満足そうなオクタに溜息をつく。 「あたしがオクタちゃんを殺す気がないって、気付いてたのね」 「判りあわなくちゃ、この瞬間は生まれないわ」 多種多様な脳内麻薬が回ったオクタが、結構危ない顔でとんでもなくデレデレな一言を放つ。 メイジはまた、溜息をひとつ。 「でも、あたしはオクタちゃんをおねえちゃんって呼ばない」 「結構。人生長いんだもの。いずれメイジの方からそう呼びたくなるわ」 目が尋常じゃないオクタに、メイジは処置無しと言う感じに頭を振る。 ――と、その時。 燃え盛る炎が廃油が満載のドラム缶の群れに向かって伸びて行った。 「あ。」 「あー……」 ふたりはぼうっとそれを観て、 「――馬鹿ァーッ!!」 オクタは叫びながら駆け出し、メイジもオクタを追い越す勢いで走った。 二人とも落とした銃とコートを全部拾うのはさすがと言うべきか。 廃工場が大爆発した。 「お父様の御命令が下ったわ」 マーチの耳元でジャンヌが底知れない柔らかさで囁く。マーチは返答も出来ない。 「オゥガスまで敗れた今、“四天王”はメイジより例の物を奪還すること……ですって」 マーチは、凍えるような指先をなんとかトリガーから離し、目を閉じて、 「そうだとしても……まだジュリィとジュンがいるじゃないか」 「あのこたちには別件を命じているわ。“四天王”の貴方には判るでしょう?  メイジを狩り出すこの戦いが、“十二神将”の経験の浅い者にとっての『演習』である事が、ね?」 「……だが、あいつらは皆、命がけでメイジを追った。オゥガスの野郎でさえもだ!  それぞれの方法でだ、不器用な奴等だがよ、みな親父の言う事に馬鹿なぐらいに従った!  親父は奴等が誰一人、メイジを倒せないって判ってたのかよ! 踊らされてただけなのかよ!」 オクタはメイジを超えようと焦がれた、『パパ』にはそれが無駄だと判っていたのか。 いや、まだ戦っている筈だ、オクタの選択は誰にも汚せはしない。 だが、オクタはメイジを殺す事も、まして負けて死ぬ事もないのだろう。 全ては、『パパ』の書いた未来図のままに動いているのだとしたら……。 マーチは憤りで恐怖を一瞬忘れて振り向く。 いつだって柔らかく笑う、かつての一番の姉の顔を、マーチは久しぶりに見た。 男性にとって女性の理想系のような肢体。豊かな胸、くびれた腰、官能的な臀部。輝くような直毛のブロンド。 柔らかく輝く清楚な笑顔は男が気を許す。 しかしその笑顔の奥の真意に触れた物は恐怖を覚え、隷属を選んでしまう。 「だって『演習』だもの。本番と同じぐらいに本気じゃないと意味がないわよ、ね?」 ジャンヌはそっと、マーチの細い顎に掌を伸ばす。 「久しぶりに抱いてあげるわ……“貴方は”、おでこが好きだったわよね?」 くすり、とジャンヌは笑い、もう片方の掌で額に掛かる髪を掻き揚げた。 マーチは逃れる事は出来ない。己の欲望から。ジャンヌに隷属してしまう矮小な自我から。 オクタ――。 欲情する自我と想い人に引き裂かれるマーチの苦悩に、ジャンヌは唇への口付けで一撃した。 舌をこじ入れられる。抗えない。粘膜の全てが官能に励起され、手からドラグノフが落ちた。 何十秒、何分、そうしていたのだろうかとマーチは溶けた心で喘ぐ。 ねちりと唇を離して、ジャンヌはくすりと笑った。 「他の女の事を考えるのは、ルール違反よ?」 こつり、とマーチの嗜好に完全に合わせて、ジャンヌはマーチの額を指で小突いた。 きっと、他の弟妹を抱く時は別のようにするのだ。 としあきが授業の全てを休講せずに夕方家に帰ってくると、メイジとオクタが煤けた姿でそこにいた。 けんけんごうごうと、いつものように口喧嘩をしている。 ノブはとしあきを観止めると肩をすくめた。 としあきはほっとしたような、困ったような、良く判らない思いでとりあえず溜息ひとつくれた。 「……今晩は肉でも焼くかな。コリアンバーベキューな」 ぼやっと独り言のようにこぼすと踵を返し玄関から出て買い物に行く。 階段を降り、チョイノリにまたがった辺りで笑いが込み上げて来た。 やっぱり唯の子どもだ、と。 ――そんなわけで、まだそのロシア系の少女は、としあきの家にいるのです。 ------------------------------------------------------------- 22.『からまる』 整備された緑の柴は、既に雪が厚く積もっていた。 雪は尚も降り続く。白の世界だ。 コートを羽織る男はひとりテラスで、丸く大きな氷を浮かべた、 冷たく透明なウォッカ・アイスバーグを舐めている。 カガミのロックグラスを持つ手の反対の手には、携帯電話。 「色即是空……空即是色」 男はぽつりと、電話口に呟く。 くすり、と電話の向こうで女が笑う。 『――お父様ったら。また、雪を見ていらっしゃるのね』 男も、ふっと、笑う。 「“あの男”が好きだった雪だ。四季は巡る……12の月で。ゆっくりと、優しく、無慈悲に」 『天動は誰にも止められない……でしたわね。オゥガスまでが予定通りにメイジとノヴに負けましたわ。  オクタも、お父様の予想通りの結果になりました』 「それも天動だな。オクタは勝つ事も負ける事もなく、生き続けるだろう。それがあいつの星宿だ。  可愛い子には旅をさせないとな。12人の可愛い子どもたちのために」 『その数に、私は入っていませんのね』 電話の向こうの女――ジャンヌはつんと尖らせたいじらしい口調で、 「お前はもう天に乗り、生を勝ち取り大人になった。  かつて一番だった、そして今は13人目の私の子どもさ。  数には重大な意味がある。十二支。十干。八卦。五行。四方位……そして13。お前は私を裏切るのかな?」 『子はいずれ、親から巣立つものですから』 男――パパは、上品なテノールで、楽しそうに喉をならして笑う。 「頼もしいな……それでこそ我が娘」 『でも、人は誰も天の下より逃げる事は出来ません。私だってそう。  天の中心にいるのはお父様ですわ』 「買い被るなよ、ジャンヌ。私はただ、星の数を数え、天の声を聴いているだけだ」 男が含んだ笑いを漏らし、ジャンヌは。 『ジュリィとジュンにはご命令通りに別件を命じました。  四天王は掌握済み……全てはお父様のたなごころの内です』 「後は、『辰』と共に出奔した『龍』を元の我が手に……そして子どもたちにはふさわしい舞台を」 としあきの家で。 ふと、オクタは気になっていた、異様な顔面のうさぎのぬいぐるみを棚から降ろし、 手に取ってみた。 へんな顔。 ブルガリアの時分から、メイジが片手にいつもぶら下げていた物だと言う事は知っている。 何となくぬいぐるみの背中のファスナーを降ろしてみた。 何か入っている……指で触れてみると、ぬちっと吸いつくように柔らかい穴があいている。 何に使うのかしら。 オクタにはピンと来ない。ぬち、と指を深く入れてみる。 《ちょっと感じちゃった》 ――声が聴こえた気がした。 はっとなって、オクタは回りを見回す。でも、としあきの家には今、オクタしかいない。 幻聴だろう、と思う。とても懐かしい記憶の中の声のような気がしたから。 心の中で思い出した声を、耳で聴いたように思っただけだと。 誰の声だったっけ? それ以上、オクタは深く考えず、ファスナーを上げて元の棚に戻す。 真っ黒い目が、オクタを観ている。 この子、男の子だ。 オクタは何となく、うさぎを観て思う。 確証なんて何も無いけど、ぬいぐるみに性別を与えるとしたらきっと、これは男の子だと思う。 うん。絶対男の子。そして弟みたいな子。 やる気のない顔をしてるけど、きっと優しい性格の子。 私はこの子を、ううん、私だけじゃなくてみんなが多分、世話とか焼いちゃうような、 可愛い弟。でも一番、兄妹の中で強い心を持ってる。 オクタは、そうとは知らず、妙に具体的な想像をしてしまっている。 うろのように深くて、でも何となく優しげな目に吸い込まれている事に気付かない。 「ね。貴方は知ってる? マーチ兄さんがどこに行ってしまったのか……。  会いたいの。会ってまた、おでこに優しくキスして貰いたいのに……」 《そう遠くない未来に、絶対また会えるよ》 ――幻聴がする。オクタは満足する。 やっぱり幻聴。だって、誰かにそう言って欲しかったのは自分で、 女の子は誰だって、ぬいぐるみとお話できる能力を持っているから。 よしよし、とオクタはぬいぐるみのおでこを指で優しく撫でた。 ――強烈に、オクタの中に、来た。 いつの間にか、マーチにおでこを舐められていた。 優しく、でもねっとりと、体が芯から蕩けそうな、大好きな兄の舌で。 ふるふるとオクタは震え、マーチの腕の中で熱い吐気を漏らす。 《撫でてくれたお礼》 また幻聴がする。でも、オクタは気にしない。気にする事も出来ない。 女の芯が熱く蕩けて水気を帯び、でもオクタは迷う事無くマーチに跪いて懇願するのだ。 「……ねぇ、兄さん。マーチ兄さん……おでこにして……擦りつけて。ぐちゃぐちゃにして……」 としあきは台所でイワシを捌く包丁を落しそうになった。 ごくり、とイワシの血の匂いと共に息を呑み込む。 なんちゅう寝言だ。 としあきが大学がひけて、夕食の買い物をして帰ってくると、オクタはベッドの上で寝息を立てていた。 メイジとノブはまだ帰ってきていない。 結局、メイジとの決闘からもオクタは棲みついてしまった。 兄妹たちの住まいが引き払われていたからで、オクタはどこか寂しそうだった。 姉弟の中に、好きな兄がいるのだろうか……と思った所で、廃工場で聴いた携帯電話の声の男を思い出す。 マーチ。 オクタを救うために、オゥガスをためらい無く撃った男。 奴は言った……メイジとノブをしあわせにしてくれと。 順番が来れば命を狙うと言いながら、だ。 馬鹿が、と心の中で吐き棄てる。お前の事を夢に観る妹さえ、しあわせに出来ない男が。 としあきは水道でざっと手を洗って血を落す。 オクタは毛布に包まり、苦しげに喘いでいる。 ベッドの脇にそっと屈み込み、熱があるのかな、と右掌でオクタのおでこに何気なく触れた。 オクタがびくんびくんと激しく痙攣し、声にならない息を詰まらせ毛布の中でのけぞる。 ぎょっとしてとしあきはしりもちをつく。 甘くてすっぱいような、女の匂いが漂ってきた。 イワシの生臭さとは別の、生の匂い。ジーンズの下が熱くごりごりするのを覚えた。 また、ごくりと息を飲みふらふらと立ち上がり、ベッドのふちに足を掛けて、 ファスナーを降ろし、綺麗なおでこをしてるよなとぼんやり、しかし熱いぬめりを帯びたような思考で……。 「ただいま~、としあき」 ――あ、終わった、と思った。 「ち、違うんだメイジ。これはだなっ! そ、その……熱があったみたいでっ」 不義の瞬間を押さえられた間男そのもの、としあきは両手をバタバタさせるが、 ファスナーがしっかり降りていて、オクタの頭に下半身を近づけている状態では何が違うのかがまず伝わるまい。 メイジはとしあきの苦しすぎて言い訳にもなっていない弁明を聴きながらつかつかとベッドまで。 殺される。 としあきはもう、観念した。 メイジは、オクタをじっと見下ろしていたが、やおらオクタのおでこに顔を近づけて、 ぺろり、と舌を這わせた。 「――ひゃうっ!!」 オクタが眠ったまま悶える。兄さん、兄さん……と息絶え絶えに呟く様子を見て、 メイジはとしあきに流し目をくれる。 悪魔かと、としあきは震えた。 「……いたずらしちゃおっか」 うふふふふふ、と笑うメイジが恐ろしく、同時に助かったと思い、また下半身の熱を止められず……。 ――いつの間にか、マーチがふたりになった。 素敵、ああ兄さん素敵。 おでこに押し当てられる二本の熱い男根にうっとりと声を漏らし、細く長い両の手をひとつずつに絡めた。 「ちょうだい、早くちょうだい……熱いのかけて。真っ白にして、どろどろのぐちゃぐちゃにして……」 両手の中で二本の熱く反り返るものを小刻みにしごきながら、 舌を伸ばして口に当たる所をやたらに舐めていく。 いくよ、と囁く声が聴こえ、ひとつの男根から精液が額にほとばしる。 おでこが熱くなる、熱すぎる。夢なんかじゃないみたい。 《うん。夢はここでおしまい》 え? 幻聴に向かってオクタは戸惑う。 《ごめんね。ふたりともいたずらっ子で》 どういう事? 《ぼくのこと、ちょっとだけ思い出してくれたの、嬉しかったな。またね》 オクタが目を開ける。 蛍光灯の明るさの中で覆いかぶさっている人影が二つ。そしてその局部。 一瞬で覚醒した。 「なっ、ちょ――っ!」 メイジは反論を許す前に素早くオクタの両腕を押さえ封じて額を舐め、 としあきが吐き出した精液を吸い取るように口付ける。 メイジの紅い眼がオクタの蒼い目を捕食獣のように覗きこんでいた。艶に射すくめられる。 「や、やめて……メイジ」 「誰の夢、観てたのかな? すっごく気持ちよさそうだった」 駄目押しにもう一度、濃厚な舌遣いで額を舐め上げる。 「はぁっ――んッッ」 「おでこ感じるんだね、不思議~。いつもは誰にされてるのかなー?  いーっつも、あたしととしあきがべたべたしてると怒るくせにー、  だーれとしてるのかなー?」 「ち、違う……」 「マーチおにいちゃんね」 言葉でぶすりと刺す。 オクタは眼をきつく瞑る。メイジはその瞼を舐めて更なる追い打ち。 悪魔かメイジは。メイジに心身ともに取り込まれた格好のオクタの性感を、 としあきはふと腰が軽くなって良く回る頭で思う。 愛しいひとに触られるだけで性的幸福感を得られるのは誰にでもある事で、 オクタの場合、それが額に拘る傾向があるようだ。 白く綺麗な額を、愛してくれたマーチが居て、オクタはそんなマーチが好きだったのだろう。 でもメイジにされて感じると言う事は……と、としあきが想いを巡らせている間に、 メイジは毛布の中にもぞもぞと入り込んでオクタの下半身に頭を持っていく。 わーおねえちゃんの癖にこんなにぬらしちゃって、とか何とかしっかり言葉責めも忘れない。 メイジも、SなのかMなのか良く判らない性癖があるよなと、としあきが溜息を吐き、 オクタに眼で助けてと懇願されて自分の無力を噛み締めつつごめんと目を背けていると、 「ただいまかえりました」 と、ノブが玄関を開けた。 ノブとオクタととしあきの時間が固まった。 メイジだけが楽しそうに、毛布から顔を上げて、 「オクタちゃんおでこが感じるんだって」 と、いやに通る囁き声で言ったのだった。 -------------------------------------------------------------------------