1.『まわりだす』 「“クーガー”たちが敗れたかァ……」 ブルガリア語で呟く男は、手入れの行き届いた緑の芝を眺めながら、テラスで紅茶を飲んでいる。 「試験には、とりあえず合格と言った所ですか? お父様」…くすり、と男の向かいの席で若い女が笑い、 「メイジが持ち逃げしてばら撒いた薬の受注が、あの島国で増えていますわ。  メイジが直接売り払ったヤクザのルートはノブが潰しましたから、口コミと言う形でですけれど」 男はマイセンのカップを口につけ、香りを楽しみながら聞く。女は、いたずらっぽく男の顔を覗きこんだ。 「お父様は、本当にメイジをそっと、見守るおつもりなのかしら?」 音も立てずに、男はカップをソーサーに戻し。 「良く判ってるじゃあないか、ジャンヌ」 女は首を横に振り、「その名前はお返ししましたわ」と笑う。 男は口の端から歯を見せて、アルカイックに笑んだ。 「新しい“兄妹”たちも12人揃ったが……あいつらに足りないものはなんだと思う?」 低いテノールで淀みない流暢な言葉に、ジャンヌ―― 一月と呼ばれた女ははっきりと、 「経験ですわ」 男は低く笑って「まずは、“ディス”をぶつけてみるとしようか」 ――ベランダで、洗濯機が回る。 つるっぺたのメイジには、大人の女物の下着が必要ないから、としあきにしてみれば助かる。 夏は終わりかけてるなと、鰯雲を見ながら洗濯物を干して、としあきは思う。 台所では、メイジとノブがあーでもないこーでもないと議論しながら昼食の支度をしていた。 ブルガリア的なお昼ご飯を食べさせて上げるから、とメイジが胸を張っていたが……さて。 なにせ、目玉焼きを潰してしか焼けないメイジの事だが……としあきは任せてみようと思った。 こおろぎが鳴く夜に、みんなで戦った時の記憶をふと、思い出すからだ。 人を殺せる少女と少年にも、他に何かが出来ると、としあきは信じたいのだ。 セックスは上手すぎる位なんだけどな……と思い出して少し欲望が動いた。 昼食の後に押し倒そうかなと、としあきは良く張れた日の下で思う。 ――とりあえず、あの夜からこっち、平和だった。 ----------------------------------------------------------- 2.『おとなになる』 ――優しくされた記憶がなかったと言えば嘘になる。 兄妹たちの記憶。 優しかった人たちもいた。でも……。 振り返ってみると思う時がある。 どこかみんな、本当に優しくなれない自分に苦しんでいた。人を殺す世界で、本当に優しくなんてなれない。 みんな、どこまでお互いに飛び込んでいいのか……判らなかったんだと思う。 私も同じだった。 一番小さな弟の記憶。 本当に幼くて、体が小さくて、頑なで……彼に私が出来た事はなんだったんだろう。 メイジは、ふと、昔を思う……。 彼はちゃんと、十歳になれただろうか。 十歳まで、生き延びる事が出来ただろうか。 街に遊びに行こう、と言う運びになった。 メイジは賑やかさに浮き足立ち、ノブは歩く時もSPのように姿勢を固めて周囲に目配せする。 なんだかなぁと、としあきは思う。 姉弟として育てられたと言うが、全然反応が違うのが少しおかしい。 そんな三人でのこのこと雑踏の一部になっていると、としあきは少し驚いた――でけえ。 身長2メートルは超えていそうだった。 馬鹿でかい楽器のケース……チェロケースだろうか、軽そうに肩に背負っている外国人。 彫りが深くて肌が浅黒い。長い黒髪を後ろで尻尾にしている。口を真一文字に引き結んだ、難しそうな顔。 いかにも体格が良く、シャツから覗く腕は筋力がみなぎる。 どっかの音楽家かな、ととしあきは思うけれど、少し怖いので眼を合わせないようにした。 擦れ違う。 ――メイジは、ふと、振り向いた。 「知り合いか?」としあきが尋ねると、 「……ううん。違うと思う」 そのまま三人が角を折れると、大男は振り向いて、バリトンで呟く――おねえちゃん、と。 屋上で、チェロケースを開く。 ですから、窓際の席は危険なんです。いいですか? そもそも爆弾テロで……。 ノブが口角泡を飛ばす勢いでアイルランドの爆弾事情を語るので、じゃあ奥の席にしようかと、 としあきは折れようとしたのだけど、メイジがとても楽しそうに 「テラスがいいの」 と言った。ノブもメイジももどこか頑固なので、としあきは何とかノブをなだめる事にした。 夏の終わりらしく涼しい日だったし、はしゃいでいるメイジをがっかりさせたくなかったからだ。 対戦車ライフルを組み立てる。PTRS-1941……当時世界最強のナチス戦車群を敵に回して引かなかった、 旧赤軍の骨董的対戦車ライフルだ。 円と線だけで構成されたような、単純過ぎてパラノイアとも言える形の上に、 場違いにしつらえた最新式スコープを覗きこむ。 スターバックスコーヒーのテラスで、赤い瞳の少女がキャラメルマキアートを呑みながら、 楽しげに笑顔を振りまいている――おねえちゃん。大男は呟きながら、重いコッキングハンドルを引く。 まさか、“十歳の少年”が“十歳の大人”になっているとは思わないだろう。 彼は、そう思っていた。そう思いながら、己の甘えを発見する。 ――ディスだよね? おっきくなったね。立派になったね。 大好きだった姉に、そう言って欲しかったと言う、甘えを……。 ――お前は芸術品だ。美しく仕上がり、そして私を裏切らない。力とは美だ。判るな? おとうさんの言葉。裏切ってはいけないもの。トリガーにかけた指圧を少しずつ、大きくしていく。 おねえちゃんは、メイジは、何も知らずにはしゃいでいる。引き金を引けば愛しい笑顔は霧に変わる。 おねえちゃんは逃げた。だから死ぬ。ぼくがやらなくても、誰かが殺す。 ぼくと最後に逢った時が、おねえちゃんが死んだ時――ラボに連れて行かれた時の朝、 最後に笑顔で送ってくれたお姉ちゃんを、ぼくは忘れない。 雑念と呼ぶにはあまりにも取るに足らない思考。 彼の、12番目の弟ディスの思考は硬く、鉄のように揺るぎない。 トリガーを絞りきり、シアーが開放され、撃針が14.5ミリの巨大な弾丸の底を叩く瞬間すら判った。 その瞬間に思う……さようなら。おねえちゃん。 通りに面したスターバックスのテラスで。 「おっ。ベンツのGクラスだ」 ふたばの車系のスレで時々話題に上る、メルセデスのランドクルーザータイプを観止めて、 としあきが少し嬉しそうな声を出す。 『Gクラスだ』と言い切る前に、Gクラスが大爆発を起こした事に、としあきは全く対処出来なかったけど。 メイジとノブが瞬時にそれぞれ銃を抜き、ふたり同時にとしあきの首根っこを掴んで走った。 ただし、右と左に。 「ぐえっ!」 「馬鹿! あっちでしょ!」と、メイジ。 「店の中は駄目だ! エンジンを撃ち抜いたなら大口径!」 あ、そっか、とメイジが納得する間に、三人の脇を何かが瞬時に移動する豪風が吹いた。 テラスと店内を区切るガラスが一面砕け散った。 スターバックス店内のカウンターに立っていたアルバイトの女性が不幸にも消し飛んだ。 幸いにもとしあきがそれを観る事はなく……「走ります!」ノブは、大まかな狙撃点を眼でさらう。 狭く切り取られたスコープの視界に、いきなり車が割り込んでくるとは。 狙撃が失敗した事をディスは冷静に受け止めた。 おとうさんが言っていた。 ――メイジを殺す事で、お前は更に美しく、強く仕上がる。大人として完成する。 己の甘え。己の弱さ。 それがディスがまだ子どもである証だ。 メイジを殺して、大人になる。大人の肉体にこびり付いた不純物としての子どもの心を殺す。 メイジは、つかの間暖かさを覚えた、ディスの子どもの記憶そのものだ。 スコープのレティクルの向こうで、ノブが何度か、こちらに向けて発砲するのがディスには判った。 拳銃のうろたえ弾などに当たりはしない。 しかし、ノブはディスの位置を大まかに掴んでいるのが判った。 そう思わせる事が狙いだと言う事も判った。 狙撃の機会を瞬間の中で図る。 こんな馬鹿でかい対戦車ライフルのマズルフラッシュは日の光の下でも目立つ。 ノブが大まかな狙撃点にあたりを付けている以上、必ず発見される。 撃てば正面戦闘になるのは避けられない。 撃つか、ここは見逃すか……。 ディスは引き金から指を外す。三人は建物の中に入った。 すぐさま、ディスはPTRS-1941を解体にかかる。銃身が熱く焼けている。 おとうさんはこの銃を芸術品だと呼んでいたけど、旧い銃である事はどうしても否めない。 ヘビーバレルもサーマルジャケットもなかった時代の産物なのだ。連射すればすぐさま熱を持つ。 ディスは大きな掌で焼けた銃身を掴み、ネジを回していく。 硬く握り締めた心の前では熱くない。 それよりも、一度取り逃がした相手をどうやって追い詰めるか……その事にディスは考えが及んでいた。 対するのが姉弟だと言う事よりも、ずっと強く、逃がした相手を見つけて殺す事に気持ちが向かっていた。 「で、どうする?」 としあきたちは、老舗の洋食屋の二階に逃げ込んでいた。 三人揃って一番安いプレーンオムレツを注文し、顔を突き合せて話しこむ。 600円×3で1800円の出費か……と、としあきは懐不具合を顧みながらトホホと思う。 「逃げ切れば勝ちよ。なんとか駅まで行って、電車で逃げるの」とメイジ。 「いや。相手は、僕らがどこに住んでいるか知っていたと観るべきだと思います。  この間の組織の追っ手の事もありますし、このまま家に帰る事はかえって危険です」とノブ。 「じゃ、どーすんだよ」としあきが頭をかく。オムレツはまだ来ない。 「消極案ですがとりあえずここで時間を稼いで、相手が警察を厄介に思う隙に別の街に移動しましょう」 「かくれんぼだな。まるで…さ」 メイジとノブは不思議そうな顔をした。日本の伝統的な子どもの遊びは知らないらしい。 ――階下で扉が開くベルが鳴り。 おひとり様ですかー? カウンターへどうぞー。 「いや、待ち合わせだ。二階席はあるか?」……太い声。メイジとノブはそれぞれ懐に手を伸ばす。 やばいのだろうか……としあきはメイジとノブの表情が硬直したのを感じて息を呑む。 重そうに、木の階段が軋んで、誰かが登ってくる。 やがて。 チェロケースを背負った身長2メートルの男が、としあきたちの席の近くにどかりと座った。 ご注文はお決まりですかぁ? と妙になれなれしいウェイターに、男はメニューをざっと見て、 「ステーキ」 と言った。 すいませぇん、肉の良いのがなくてステーキはやってないんですぅ、とウェイターの中年は笑った。 「なら、ロールキャベツ」 かしこまりましたぁ。ウェイターはインターカムで階下に注文を伝えた。 明らかに怪しいが、確証はない。ぎちぎちと緊張が高まっていく音を、としあきは聴いた。 例え、襲撃者本人であったとして、どうやって路地裏に位置するこの店の位置を掴んだのだろうかと思う。 ――ディスはひたすらに愚直だった。確実で、質実な方法を選んだ。 方法はしらみつぶし。ただそれだけだった。 外国人の少年と少女を連れていれば往来では目立つ。かといって人数を分ければ戦闘力の低下。 なら、どこか目立たず、外から覗けない建物の中に隠れるのではと踏んだ。 そして時間と行動の関連曲線を推理に加えれば、どの店に隠れているかはおのずと限定される。 そして見つけた。 おねえちゃんは、まだぼくがディスだと、判っていない。 オムレツみっつ、おまちどうさまでぇす。 空気を読まないウェイターがとしあきたちの席に、 ラグビー場に持って行けばボールに間違われそうな見事な形をしたオムレツを運んできた。 「……さ、喰おうぜ。この店のオムレツ最高なんだよ」 迂闊な事が言えない状況は苦しい。としあきはぎこちなくナイフとフォークを取る間に、 「美味しい!」 メイジはもうオムレツにぱくついていた。 としあきは引き攣るように笑い、 「だ、だろ? 前にスープから喰った事があって、美味すぎてそりゃもうやばくて……」 ……しまった。メイジがとしあきをじーっと見詰めてきた。 ノブは、メイジに目配せを送るがメイジはこれを全く無視した。 本当なら、さっさと店から立ち去るのが上策である。長く店に居座るほど、危険が増す。 チェロケースの男にプレッシャーを感じつつ、としあきは腹を決めた。 メニュー立てからメニューを取る。 「折角の休みの昼飯だからな。気合入れて行くか」 強がってみるが、財布の中の野口英世が何枚飛ぶか、考えただけでも恐ろしい。 「すいません、追加で注文を――」 「こちらもだ」 チェロケースの男が、軽く手を挙げた。 狙ったようなタイミングだった。 ノブが気色ばみ、としあきは胃が痛くなり、メイジはうきうきとウェイターを待っている。 胃に染み渡るポタージュがみっつ、旨みと香りの濃いハッシュドビーフライスもみっつ、 そして拳骨二つ分はありそうな巨大なロールキャベツを三人で分ける。 としあきは神経が磨りへりそうだったので、キリンクラシックラガーを中瓶二本注文した。 美味い。美味いが、財布の中身を投げ打つヤケクソ感とプレッシャーとアルコールの酩酊で、 としあきは正体不明になりつつあった。 チェロケースの男は、テーブル一杯の料理を黙々と口に運ぶ。 ノブは平常心を装っているが、メイジは眼をきらきらさせていてプレッシャーなど微塵もなさそうだ。 三人が注文を全て平らげ、としあきは神経の限界に達した。 「……ちょっと、トイレ」 よろよろと席を立つ。ノブが止してと目配せしてきたが、正直もうどうでも良かった。 トイレを叩くのが暗殺者でもかまわない。とりあえずプレッシャーから逃げたい。支払いを忘れたい。 二階席の奥にある個室にぱたりととしあきは逃げ込んだ。 メイジは満腹の喜びでとろんとしながら 「美味しかったよね――ディス」 二階の二つの席の景色が凍った。 ディスは筋肉がぎちぎちとはちきれそうな腕を組みながら、しかし僅かに震えたようだった。 ノブはただ驚愕し、変わり果てた自分の弟を観る。 「お姉ちゃんが、大切な弟の仕草を忘れると思った? 立派になったね。おっきくなったね」 メイジは頬杖をつきながら、優しげにディスの方を見ずに言った。 「今の人が、あたしたちをかくまってくれてる人。すっごく優しいの。  美味しいもの一杯知ってて、色んな事教えてくれて、あたし、今すっごくしあわせ。  ……一緒に住もうよ。としあきとだったら、優しく暮らしていけるの。  あたしはだめなお姉ちゃんだったから、ディスに優しく出来たかなんて自信ないけど、  でも、としあきと一緒ならディスに優しくできるよ。絶対」 メイジはそっと、変わり果てたディスを包むように、視線を合わせた。 ディスは、腕を組んで黙っていたが、立ち上がった。ノブがジャケットの脇に手を伸ばす。 メイジは、そのままだった。 「勘定」 ごとり、とチェロケースを持ち上げ、背負う。 メイジに背を向けて、階段へ向かう。 「気が変わったらいつでもおいでね」 メイジは背中に優しく声をかける。 ディスは立ち止まり、言った。 振り向かなかった。 「ぼくは、おとなになる。かならず……」 個室で頭を抱えて唸っていたとしあきが意を決してトイレから出て外界にアクセスする。 矢でも鉄砲でも持って来い、と思った。 しかし、チェロケースの男はもう居なくて、としあきに待っていたのは昼食としては破格の出費、 〆て総額7000円だけだった。 ----------------------------------------- 3.『あわせあう』 「お、署で合うとは珍しいな。腕の怪我はまだみてーだな。肩甲骨やっちまったとか」 「あんたとまた組む事になるとはね……」 腕を三角に吊った制服の女が、私服の男を一瞥すると溜息をついた。 ――ある警察署での事だった。 「あ? なんだって? 俺と組む? 聞き間違いかな? やっと俺の愛に気付いたってか?」 「クソ馬鹿」 大仰に肩をすくめる同期の男に、制服の女――“あの夜”の婦警さんは容赦なく吐き捨てた。 「だってよー、あたしぃー交番勤務の優しいぃー婦警さんになるんだしぃー、とか言って出てったろーが。  そうかそうか、婚期逃すと色々大変だもんな婦警さんって職業はさー。  今なら俺はお買い得だぜー、安定収入公務員、老後の恩給までばっちり……」 「誰が『マル暴』の刑事と結婚する話をしてんのよ……異動要望書出したら呼び出されたの。それだけ。  あんたとまた一緒だと思うと吐き気がするわ」 刑事はふっと笑って、右手をまっすぐ差し出す――「よろしくな、相棒」 婦警さんは手を引っ込めたまま――「やめなさいよキモチワルイ。異動が正式に決まった訳でもないし」 「お前さんの成績なら十割行けるって。俺が保証してやるよ。  違反車轢いちまうんじゃないかってハナシ聞いてるぜ?」 「それほめてないでしょうが」 「ま、お前さんは昔ッから熱くなると警察官らしくなるよ」 ――軽々しい口を叩いたかと思えば、正確に相手を評価する。眼が良いのだ。 捉え所のない男だった。ずっと背中を任せあってきた。彼が悪を眼で見つけ、私が悪を投げ飛ばす。 でも、捉え所がない彼が怖くて、私はぴったり合わせた彼の背中から離れた……。 ……婦警さんは露骨に舌打ちした。何が悲しくて悲恋にもならなかった話を思い出さねばならんのか。 刑事は、おっとそういや忙しかったんだ、と腕の時計を観る。 「わりーな、これから聞き込みだよ。今度は街中で14.5ミリだとさ……狂ってやがる」 「北欧人絡み?」婦警さんが、吊った腕をそっと、撫でる。 「多分そうだな。最近、俺らの縄張りで妙に多い……カタキ、取ってきてやるよ」 刑事は、ぽんと婦警さんの痛めていない方の肩を優しく叩いて去った。 婦警さんは、刑事が叩いてくれた肩を指でなぞろう……としたがやめて、ふんと息をついた。 婦警さんは定時で仕事が上がり一人住まいのアパートに帰ってくるとパソコンの電源を入れる。 ブーティングの間に冷蔵庫から六甲の美味しい水のボトルを取り出した。軟水が好みなのだ。 行儀悪くラッパ呑みでちびちびと口をつけながら、起動完了を待ってネットに繋いだ。 ――『ふたばちゃんは生まれたばかりの掲示板です 応援して下さいね☆』 いつまで生まれたばかりの気でいるのよ、と何となく思ってみる。 ――『お友達にもここを教えて上げてくださいね』 現職警官がこんな公序良俗にケンカを売るサイトを知人に教えるものか、と思った所で、 ――二次裏歴はどんぐらいになんの? あーもう、と呻いて頭を振る。今日は調子が悪い。 二次裏の各サーバーのカタログをざっと観ると、ひとつのスレ画像を見つける。クリック。 『ガバメントと大麻とぬいぐるみを持ってふたなりの女の子が家に転がり込んできた。どうしよう』 知らんがな。タブウィンドウを消し、スレ立てする事に決めた。右手だけだとタイピングがつらい。 『たまには達人について語ってみようぜ』……画像は、在りし日の塩屋剛三先生のお写真だ。 ホテルのエレベーターに昼に婦警さんと会った刑事と、配属されたばかりの後輩が乗った。 「先輩の読み通りでしたね」 「ああ。あんな馬鹿でかい弾をぶっ放すとなりゃ銃座クラスだがそんなもんビルの上からは無理だ。  なら、対戦車ライフルって訳だ」 「そしてそれを立射するなら体格は限定される……そして外国人に絞って行けば、と」 「捜査は、眼で観察、頭で推理、足で追跡だからな。全く、27件も調べさせてくれちゃって」 二人は、エレベーターを三階で降りた。ご丁寧に非常階段の脇の部屋を指定したらしい。 「応援、呼んだ方がいいんじゃないんですか?」 「力は数値だけじゃない。タイミングが重要だってよ」 「なんですかそれ?」 「昔の相棒の口癖」 謎かけのような事を呟き、刑事はドアをノック。持ち出し許可を取ったニューナンブを意識する。 「お休みの所すいません、少し宜しいで――」 轟音。 「……あれ?」 ドアに風穴が開き、ふとゆっくりと刑事が後ろを向くと壁にも風穴が開いていて、 向かいの部屋の中が見えた。外の夜景も見えた。 熱い。肩が熱い。刑事が手を見ようとすると信じられない視覚。 右肩から先が、なくなっていた。膝の力が抜けた。止めようもなく、血と力が抜けていく。 刑事はどさりと倒れた。意識がぐるぐると掻き回されたが、気は何故か保ったままだった。 「貴様ァ!」 後輩が壊れた扉を蹴破って突入する――ばか、よせ、と思うと案の定、 また轟音が鳴って後輩の上半身が消え失せた。 ディスは、静かになった事を知るとPTRS-1941を素早く解体した。 盗聴器の受信機から伸びたイヤホンを外し、ジャケットのポケットに仕舞った。 盗聴器はフロントとエレベーターと階段に仕込んでいた。当然の仕込みだ。 チェロケースを担ぎ、部屋から用心深く出て、非常階段に向かう――。 ディスは気配を察して振り向く。太い腕を顔の前にかざした。 弾が下腕にめり込んだ。浅い。筋肉を張っていれば小口径の弾など。 片腕がなくなった刑事が、ふらふらと銃口を彷徨わせている。 「現こう犯でたいほする、うごくなよぉ……」 呂律が回っていない刑事を、ディスは直視して、言った。 「追ってこい。追ってきたおまえをのりこえれば、ぼくはまたすこし、大人になれる」 言うが早いが、ディスは非常階段の扉を蹴り壊して去った。刑事の手からごとりと銃が落ちる。 何言ってんだろ、デカいナリして子どもかよ…あんな子どもはいない……でも、子どもだ……。 携帯どこやったっけ、体中と頭が熱い。片手は不便だ、あいつも不便だったんだな、 声が聞きたい、あいつの声が――。 久しぶりにスレ立てをしたら荒らしが沸いた。名誉毀損の現行犯で逮捕してやろうか、 と思いながらしかし華麗にスルー。グロ画像もなんのその。現職を舐めんな。 白熱してきた。片手で、恐ろしい勢いでキーボードを叩く。赤木リツコもびっくりと自分で思う。 ――電話が鳴った。着信を観る。しぶしぶとった。 「もしもし? 今忙しいの、食事とかなら切るわよ」――あー、じゃ、いーや……うたれた。 愛車のニュービートルを片手運転で法定速度違反でぶっ飛ばして、病院まで飛んで行った。 撃たれたのが同僚だと消防に事情を説明して聞き出した搬送先の病院についたのは、 救急車がつくのと殆ど同時だった。 ストレッチャーに乗せられて、緊急口から運び込まれるあいつは……右肩から先がなかった。 「利樹!」――名前を叫びながらストレッチャーに併走して齧りつく。 「……やっちまった。やっぱがいじんだ、ラテンで身長2メートルほど、チェロケース…でも子ども…」 「しゃべんな馬鹿!」 「おれのさいごの仕事だったのかもな……手がなくなっちまった、退官かなあ、やだな……」 「私があんたの手になってやるから、すぐに戻ってこい!」 「いいね……そりゃいいや……“としあきデカ”再びって訳だ……秋香」 「その名前カッコ悪いからやめろっていつもいつもいつも言ってたでしょおが!」 秋香は絶叫し、手術室に突っ込まれていく相棒を見送った。 利樹……泣かないでいようと思っていた、今更涙が頬を伝った。 あいつに涙を見せなくて良かったのだろうか。後悔を感じて、くずおれた。 「……生きて戻って来い、馬鹿」 ――へぇ、女子あきだったのか。 昼食を取って、昼休みが暇なので秋香が自分の机のネットをいじっていた所を利樹に見られた。 ――べ、別にいいでしょ! 利樹はにやりと笑い、小声で耳打ちしてきた――声がデカいと課長に聞かれるぜ? ぐ、と秋香は言葉に詰まって物凄い眼で利樹を観るのだけど、利樹はにやにやと受け流し、 ――そうだな。“としあきデカ”って訳だ。 ――は? 何言ってんの? 脳がついに腐った? ――俺も良く行くんだよ。それにさ……お前と俺の名前の頭のとこだよ。 ふと利樹は優しい顔をした。 利樹が急に、秋香の中に入ってきた気がして、秋香は心とは反対に睨んでしまっていた。 ――それ、センス最悪。 ----------------------------------------------- 4.『さまよう』 朝の空気もだんだんと冷えてきた。夏はもう終わったと言いたげだ。 ベッドの上で目覚めたとしあきは、メイジを抱き寄せた。暖かい……熱いぐらいだ。 白く透き通り冷たそうな肌でも、子どもの体温は高いと言うのは本当らしい。 或いは、としあき自身がこの温もりを大切に思っているから、そう感じるのか……。 「……今朝は、あたしとしたいの……?」 寝起き特有のとろりとした目で、メイジが囁いてくる。 「……わかんねぇ。俺は、どうしたらいいんだろうな……体のデカい変な奴は来るしさ……わかんねぇ」 メイジは、ディスの事か、と思いながら、としあきを小さな胸に抱き寄せた。 「大丈夫……何も怖い事なんてないよ。あたしがしてあげる。愛してあげる。だから…悲しい顔しないで」 メイジが、としあきの額に唇を寄せ、舌を這わせた。愛されているような気持ち、欲情する心、 としあきは、ゆっくりと、引き裂かれていく……。 俺に何が出来る。 メイジの柔らかくぬるんだ口で男根を愛撫されながら、寝乱れたブロンドを撫でて、としあきは思う。 集中治療室で、五日間、利樹は目を覚まさなかった。 全く使わない有給を、秋香はためらいなく突っ込んだ。 意識が微弱に戻ったと担当医に聞いた時は不覚にも涙が出た。涙はあいつが死ぬまで教えない、と決める。 それから交番勤務の夜間当直を進んで買って出て、寝不足の体を引きずって病院まで通った。 あいつのためじゃない、と自分に言い聞かせる。 死なれたら目覚めが悪い、自分の為だ。それに利樹の腕を飛ばした犯人の事も詳しく聞きたかった。 メロンなんて勿体無すぎるから、青森産の甘い林檎をバスケットに入れて、今日は目覚めるだろうかと、 病室の扉をノックもなく開くと、 ……利樹が、体を起こしてなくなった右肩の断面を、包帯越しに押さえていた。 俯き、暗い眼に、秋香は心が震えるのを覚えた。 「……あら、生きてたの」 林檎が沢山詰まったバスケットを後ろ手に隠して、秋香はそう吐き捨てるフリをして言った。 「――ぐちゃぐちゃ、ぐちゃぐちゃ、ねえねえ、ぐちゃぐちゃだよ……」 メイジは息荒く囁き、としあきに腰を撃ちつける。 メイジに肛門を犯されるのには慣れた筈なのに……いや、慣れたからだろうか、ぎちぎちと出入りする度、 背筋と耳元がぞくぞくと震えて、メイジに開発されてしまった身体の事を思う。 その蕩けるような気持ちでとしあきは、迷いを忘れようとする。 俺に何が出来る……愛する事ぐらいなら出来る筈だ。 メイジに突かれる度に愛しさが込み上げる、シーツに組み敷かれて少女に攻められる事に安らぎを憶える。 俺は、この少女の愛を受け止める事が出来る。そう信じたい。なのに……引き裂かれていく。 ――それだけで、いいのか。 奥の歯をきつく噛み合わせ、シーツに顔を埋める自分は、泣きそうな顔をしていると思う。高まる。 ドライオルガスムで喉の奥から卑屈な声が出た。言葉にならない声、メイジがとしあきの背中にくっつく。 「いくよ、ね? いくよ、あ、は――」 ノブは寝たふりをしながら、そんなとしあきを想う。としあきの心を、想う――。 秋香はそれとなく、林檎を病室の片隅に置く事に成功した。ベッドの脇の椅子に大雑把な仕草で腰掛ける。 熱はひいたみたいね。と前置きをしてから。 「一週間眠ってたのよ、あんた」 利樹は、ふと一瞬で、暗い眼を隠すようにお茶らけて、 「へぇ、そいつは道理だ。死んだ婆さんが手ェ振ってるのが何度か見えたぜ」 「追い返されたでしょ?」 「全くだ。まだ死ぬなってスゲー顔で怒りやがんの」 利樹の乾いた笑いが白い病室に沁みて消えた。 生きろと言ったのは私だよ……そう言いたいのだけど、秋香は溜息と言葉で塗り隠す。 「ま、悪運強いあんたが生きてたから、課長が話を聞きに来ると思うけど、その前にさ。  あんたの目の前の、まだ町のお巡りさんやってる私に犯人の事詳しく教えなさいよ」 「辞めとけ。ヤバ過ぎる」 「寝てた間に脳が腐ったみたいね」 はぐらかして逃げようとする利樹を、秋香は追い詰めるように視線をまっすぐ刺した。 「カタキ、取ってやろうって言ってんのよ」 「相手は馬鹿みてーにデケー外人で、オマケに腕ぐらい軽く千切る対戦車ライフル付きだ。  ニューナンブ一丁で勝てる相手じゃ……」 「“力は数値じゃなくてタイミング”よ。賢い生き方って奴。つまり、『合気』ね」 秋香は強がりのように言った。 「ヤー様のポン刀だって私はいなして来たんだから。さて、どうやって対戦車ライフルを捌こうかしらね」 語っていると何か胸の中に湧き上がるものを覚えて、少し獰猛な顔をして、秋香は笑う。 朝、メイジとむつみあったとしあきは、三人でせっせと作ったサンドイッチを齧ってから大学に行く。 行ってきます。行ってらっしゃい。ぱたり、と玄関が閉じられ…… 「何故、ディスの事をとしあきさんに伏せる?」 ノブは、としあきに手を小さく振った姿勢のまま、メイジに尋ねた。 「あたしの問題だもん」メイジはノブと同じポーズで、即答した。 「ノブだってさ、あたしたちでディスを救いたいと思うでしょ?」 メイジは気負い過ぎている、とノブは思う。姉として振舞おうとしている。大人になった弟を前に……。 -------------------------------------------------- 5.『やさしくなれる』 ――曇天の下。 こうべを垂れ始めた稲穂に隠れ、メイジは走っていた。 幾つもの質量を持ったものが高速で擦過し、その内の幾つかはぬかるんだ足元を吹き飛ばした。 足をもつらせる事もなく、メイジはただ、走る。 彼方で、何かが破裂するような音が幾つも、風に巻かれて歪んで届いた。 音が後からついてくる。飛んでくる物――弾が音速を超えている証拠だ。 彼方では――田んぼの中を、大きな人影がゆっくりと進んでくる。 ディス――その手には槍斧の如き長砲身――対戦車ライフルPTRS-1941。 撃てば撃つほどに銃身が焼ける。 ただまっすぐ、メイジと砲口を繋げ。 壊されたスコープを千切り捨て、裸眼を凝らして、ノブは彼方の稲穂の茂みを狙う。 空を薄雲が高く覆い、その下には幾つもの千切れた雲が舞う。 強く押し付ける風が吹く。 嵐が来ようとしていた。 プリペイド携帯が鳴った。 ノブは机の上の携帯を見て、少しの躊躇いの間の後、それを取った。 「もしもし。としあきさん?」 ――おう、俺だ。学校が台風の所為で半ドンでさ、今から帰るよ。 ノブは唇をそうとは知らず噛み締める。自分は今から裏切りをするのだと思う。 「出来るだけ早く、帰ってきてください……お願いします」 ――雨が降り出す前にな。じゃ。 電話が切られ、ノブは独りの部屋で祈るように携帯を握り締めた。 郵便受けの中に放り込まれていた、筆圧の高いへたくそな書き付けを読んで、 メイジは行ってしまった。 その事を、としあきに伝えなかった。 としあきが帰ってきたら、自分は嘘をつくのだろう。 メイジは遊びに行ったきり帰ってこないと、嘘をつくのだろう。 例え、これからずっと、メイジが帰ってこなくても……嘘をつき続けるのだろう。 ノブはメイジを止めた。 だが、メイジは聞かなかった。 ――だって、何かをしてあげたいじゃない。 追い詰められたような表情で、でも優しく、強いのか弱いのかそれも判らぬ、 そんな笑みを浮かべて、出て行った。 弟のために――ディスのために。 偽りの兄弟、模造された12人の家族。 優しさも、愛も、怒りも、憎しみも、全てが模造品だった。 ノブは、少なくともそう感じていた。 でも、今ならメイジの心が判る……胸を締め上げる。 生きて帰ってきて――偽りの姉と思っていたメイジの事が、こんなにも愛しく、 ノブの心を締め上げる。 外は、ついに雨が降りだした。 強く、窓ガラスを大きな雨粒が叩いていた。 土砂降りの雨の中、稲穂にメイジが頭を隠して気配を探るほんの10分前に戻る。 「約束通り、ひとりだよ」 メイジは、としあきのアパートから遠く離れた田園地帯に立ち、 ディスの眼を見上げていた。 「ね、ディス。考え直してくれないかな?」 メイジは少し、困った顔をしていた。 「お姉ちゃんはね……ディスの気持ち、判るよ。  つらかったもんね、悲しかった。兄弟みんなであそこにいても、なんだか……  凄く、つらかった。  誰かを殺して騙して帰ってきて、みんなでつらい気持ちで膝を抱えてた。  なんで、子どもでいるだけで、こんなにつらいんだろうって、思った。  なぜこの運命に生まれたのか、なぜあたしはまだ子どもなんだろうか。  お姉ちゃんも早く、大人になりたかった。  もっと強くなれば、人を殺す事にも、誰かを騙す事にも耐えられる気がしたから。  でもね……ディス。子どもは、子どものままでもいいんだよ」 ディスは、自分よりはるかに小さな姉を、ただ観ている。 「優しくなれるの。あたしたちだって、誰かに優しく出来るの。  優しくしてくれるの……暖かいの。胸がきゅんってするの。  子どもでいる今を、受け止めてもらえるの……帰りたいって思う家があるの。  素敵な事なの。だから、ディスには――としあきを殺すなんて、言って欲しくなかった」 メイジの眼に涙が潤んだ。 ――ひとりで来なければ、おねえちゃんの好きな人を殺す。 それが、ディスがメイジに通告した別れの句だ。 「まだ、大丈夫。やりなおせるよ、あたしたち。お姉ちゃんとディスに戻ろうよ。  優しかった、子どものディスに戻って。お願い……お願いだよう」 ――ディスの脚が、斧の重さと鞭のしなやかさを兼ね備えた動きで、唸った。 メイジが吹き飛ばされる。本当に宙を舞った。 10メートルは飛んだ。 「……何もしないで蹴りを受けてあげられたらよかったのにね」 メイジの体に染み付いた闘争の技術は、蹴り上げられる瞬間に腕を出して体を庇い、 重心を瞬間的に浮き揚げて吹き飛ぶ事で威力を殺し、 転ぶ時にはしっかり受身を取ってしまっていた。 ディスは、その一瞬でチェロケースからPTRS-1941を取り出し、 銃身のネジを締める所に掛かっていた。腰溜めに構える。 ディスとメイジが無言で対峙する。 メイジには、ディスの無言の言葉が聞こえる。 難しそうな顔で黙っていた可愛い顔の男の子は、いつも無言で語りかけてきたのだ。 深く刻まれた眼窩が、全てを語るのだ。 判る。今も聴こえる。 ――ぼくは、大人になりたい。 ――どこに行っても逃げられない。 ――だから、大人になりたい。 ――子どもで居た事を忘れたい。 ――甘く優しかった、あの時を、忘れたい。 ――もっと強くなれたら、ぼくはきっと、世の中のかなしくてつらいことぜんぶにかてるきがする。 メイジには、彼が次に言葉を口に出す事と、そのタイミングまで判った。 ――ぼくはおねえちゃんがだいすきだった。やさしくしてくれた。 「ぼくはおねえちゃんがだいすきだった。やさしくしてくれた」 ――ぼくは、 「ぼくは、大人になったおねえちゃんと、けっこんしたかった」 メイジは、心が繋がっていると思ったディスが、予想外の事を言っていて愕然とした。 「でも、さようなら。おねえちゃん。もう、おねえちゃんはぼくのみらいから、離れてしまった。  大人になったぼくが抱き締めると、おねえちゃん、こわれちゃうから――さよなら」 メイジがノーモーションで左に二メートル、直立したまま跳躍し、ディスが引き金を絞った。 マズルブレーキから燃えたガスが凄まじく噴出し、メイジの脇を物凄い速度で物凄く重い物が、 掠め飛んで行った。殆ど同時に起こった二人のアクションはメイジの方が早かった。 メイジはガバメントを抜き、撃つ、スコープを砕いたのが見えた。 メイジは走る、田んぼに飛び込む、隠れながら遠くへ走る。 ディスの事は全部判っていると思っていた。 大切な弟だったから優しくしたいと、ずっと思ってた。 なのに……何にも判ってなんてなかったじゃない。 「遅いな……メイジの奴、何やってんだろ」 としあきの眼はふと心配そうに、風雨が叩き付ける窓ガラスに向いた。 ノブは、何も言わない。 「……ちょっと迎えに行ってくるかな。河も増水してるし……」 「待って、下さい」 ノブが神妙な顔をしているので、としあきは訝しく思う。 「どうした?」 「……抱いて下さい。その……嵐が不安で……」 ぎゅっと。 としあきはノブの細く、震えた肩を抱いた。 「なんだよ……お前にも怖いものってあんだな」 「……はい」 ノブの肩が震えているのは台風の所為ではなく、こうして嘘をつき続ける不安なのに。 としあきの体温がふわりとかかって、ノブは包んでくれるやさしさに涙が出そうになる。 ノブは、そんな資格なんてないのかも知れないと思いながら、 自分からとしあきの唇に、唇で触れた――。 舌を絡めた後、としあきは、ノブの細い喉を優しく舐めてやった。 ふるり、とノブが震えて、吐息がとしあきの額にかかる。 ノブのシャツのボタンをひとつずつ外して、そして二人はベッドにそっと倒れこんだ――。 嘘をつく不安も、愛される事で全て消し去りたい。 ノブは薄い胸を震わせながら、思う……。 雨に濡れ、体温が下がっていく――寒い、メイジは左手で右肩を抱いた。 右手にはガバメント。硬く体を縮こまらせている、筋肉が冷え切ったら動けない。 早く、早く……轟々と鳴る風の音に紛れて、少しずつ近付いてくる重い足音を待つ。 撃つのか。 弟を殺すのか。 殺されそうになったから撃ち殺すのか。 弟なのに……眉間に風穴を開けるのか。 一生後悔して暮らすのか。 いつだって、誰だって殺してきた。 それを忘れて生きてきた。 血まみれの小さな手を、やさしく包んでくれる人がいる――としあき。 としあきがいるから、あたしは死ねない。 大切な人を蹴落としてでも、としあきだけは守りたい――。 グリップを握りなおす。ごめん、ディス。悪いのはあたし。死ねないのもあたし。 あなたを殺すのも、あたし。 最後まであたしは、悪いおねえちゃんだった。 後一歩、踏み込んでくれば確実に命を取れる。 そう、思った。 その時。 ディスが発砲した。 隠れた場所がばれている? 危機感が今更急騰するが、しかし何かが違う。 対戦車ライフルの発砲音に紛れて、何か金属質のものが削れる音がする。 何?――そう思った時、物凄いきしみが聴覚に飛び込んでいた。 音源を観る――納得した。呆れるほど納得した。 ディスはただ、メイジを追ってがむしゃらに撃つだけではなかったのだと。 ずっと、メイジが田んぼの中から抜けられない事を知り、入念に罠に嵌めたのだと。 田んぼの脇に異様な存在感で突っ立っている高圧電線の鉄塔が、メイジに向かって倒れ掛かってきた。 ゆっくりと、ゆっくりと時間が流れた。 メイジは縮めた体を爆発的に動かした。ディスはほとんど目の前に居た。 鉄塔が倒れてくる。 ディスは砲口で横凪にする勢いでメイジに狙いを合わせる。 間に合え、メイジはその更に一歩先に飛び込もうとする。 電線がスパークするノイズが聴こえた。 ディスが引き金を絞り切る――轟音と共に弾が飛び出す。 耳が砕けるような音が間近で聞こえた。外れた。マズルブレーキから飛び出した高圧高熱のガス、 その内側にメイジは滑り込んだ。踏み込みの速度が僅かに勝った。 メイジは引き金を引く――1,2,3,4,5! そのまま体当たりにもつれ込む。 鉄塔が倒壊した。 ディスの重い体を引きずり、スパークしている電線から逃れてあぜ道までのぼった。 最後で甘さが出たのだと思う。 銃弾は、ノブの両肩を砕くだけに留まっていた。AP弾は貫通するのでこういう意図の時に便利だ。 「おねえちゃんの勝ち」 強がって、メイジが言った。 「殺して。おねえちゃん」 ディスが、大人の声で、子どもの口調でメイジに訴えた。 「やーだ」 アドレナリンが回った凶暴な目つきでメイジは笑むと、問答無用でディスの唇を奪った。 ディスの眼が見開かれる。 メイジは強引に舌を入れた、年上のキス。ねちり、と唇を離す。 「貰っちゃった……キスもした事ないディスに、おねえちゃんは負けないんだから」 ふふん、と無い胸を張って思いっきり強がる。 「あたしと結婚したいなら、もっといい男になって帰ってくる事。いつでもいいよ」 じゃーね。投げキスひとつオマケに決めて、メイジは踵を返す。 ディスは、メイジの後姿を想う。 「ありがとう、おねえちゃん」 メイジは照れくさそうに、振り向く事無く手をひらひらさせた。 ------------------------------------------------- 6.『あらわる』 「すみません、ちょっといいですか?」 砕かれた両肩をもぐりの医者に治療して貰った帰りだった。ディスは振り向く。 秋香は、なるほど、と思った。図体ばかりでかいが、子どもの眼をしている。 「喧嘩に負けたって顔ね。ぼーや」 秋香は思いっきりハッタリをかまして観た。ディスの表情が動く……当たりだ、と直観した。 訝しがるではなく、むすくれた顔をしたのだ。こいつが、利樹の片腕を飛ばしたラテン系の巨大な子ども。 私服だったが、こんな事もあろうかと制服から抜いてきた手帳を見せる。 「ちょっと職務質問、いいかしら?」 ディスが気色ばむのが秋香には判った。 まだ秋香の右の肩甲骨にはボルトが入っていて、三角に吊ったままだ。対してディスは両肩を吊っていた。 不利はお互いに。ならば、技能と肉体の勝負だ。 足だな。足が来る。先の先を取る。相手が意を発する兆しを見逃すな……。 合気道五段と言う、かなりとんでもない帯を持つ秋香は張り詰めて行く緊張感に身震いした。 秋香は全身の力を抜き、筋繊維の隅々まで意識を通した。 コマ落しを観ているみたいだった。 対峙した秋香とディスの間に、ひとりの少女が現れた。 「なっ?!」秋香が声を上げる。馬鹿な、五感を余さず駆使して世界を感覚していたのに見逃したとは。 「二の……おねえちゃん?」ディスの声は震えていた。 「お姉ちゃん、お巡りさんなの?」 細い金髪を結った、まだ10歳にも達していないような少女は、天使そのものの無垢な笑顔で秋香を見上げた。 「そこ、あぶないよ?」 秋香は驚愕していても、硬直していなかったのは流石だった。目端で、何かが反射するひかりを拾った。 スコープだ――! 秋香は横に思いっきり飛んだ。 動こうとしたディスが、崩れた。発砲音が遅れて届いた。狙撃されている。 何故か人通りの絶えた真昼の駅前に、秋香とディスを囲むように、少年と少女たちがいつのまにか――。 8人。 何者だ、こいつら。 秋香は体勢を鮮やかな受身で立て直し、いつ打ち掛かられてもいなせる体を作りながら目でざっと観る。 みな、歳の上下はあるが子ども、外国人だ。白人が多い……。 すぐに秋香は、昨今この町を騒がせる北欧系の武装組織の事が連想された。 だが、みな子どもじゃないか……なのに、誰一人として目が尋常じゃないと思った。 こいつらは強い。目をみりゃ大概の事は秋香には判る。黒帯は伊達じゃない。 子どもの皮を被った、もっと別の何かだ。 勝てるか、逃げられるか、死なずにいられるか。護身が試される……絶望的だ。 「……マーチ。狙撃は待てよ」 一番年かさの少年が、耳のインカムを押さえて軽く、ふざけるように言った。 「負け犬が帰るのはマイホームじゃないわ……地獄よ!」ダンサーみたいに手足の細い少女が前に一歩出た。 「連れ帰るのが御父様のご命令です。殺すことは……」深い灰色の眼をした少女が静かに眼鏡の弦をつまむ。 「まーでも、正直ディスも良く頑張ったんじゃねーの?」大柄な少年が肩をすくめた。 「結果が出せなきゃミンチです! ばらばらにするです!」何故かメイドさんの格好をした少女が騒ぐ。 「やっぱり、連れ帰った方が……」本当に小さな、性別不詳の綺麗な子どもが落ち着いた声で。 「決定事項は問答するまでも無い」スキンヘッドの少年が色の薄いサングラスを息をついて押し上げた。 『なんでもいーから、撃つか帰るかハッキリしろよなー』無線の向こうで浮かれた少年の声。 「おっきいから、ころすのたいへんそうだねっ」天使のような笑顔で幼女が笑う。 「まぁ待てや。一番のアニキは今、俺だぜ?」 一番年かさの少年がナイフをいつの間にか抜いていて、ぺろりとエッジの腹を舐めた。 「オクタ。死なない程度に痛めつけろ。任せるぜ」 ナイフのエッジの鋭さにどこか狂った眼を注いでいた年かさの少年が言うと、 「そこの婦警さんはどうするの?」 ダンサーのような少女――オクタが、ひっつめたプラチナのポニーテールを揺らして前に一歩、進んだ。 「ほっとけ。どうせ、何も出来んし」 こともなげにナイフの少年が言い捨て、秋香は投げ飛ばそうと思ったが、鍛え上げた武術家の本能が拒否した。 「判ったわ。兄さん」 もう一歩、オクタが前に進む。 ディスが、撃ち抜かれた膝を騙して、立ち上がる。眼は熱く、まだ負けを認めてはいない。 はっ、オクタは嘲って短く笑う。負け犬と、笑う。 「見せてあげる……私の“バレット・バレエ”」 長く細い、そして白く透けるような肌の色の手足が、光のように奔った。 秋香は見た。武術家としての能力がオクタの神速の動きの全てを観察していた。 片方の掌に二つのコンパクトな拳銃。それを両手。計四つ。全て同じ型だ……ベレッタ社の物にみえる。 銃器スレは、二次裏にアクセスする時学習のためについチェックしてしまうスレだったから、判る。 それを、オクタと呼ばれた少女は、文字通り踊りながら、撃ちまくっていた。 綺麗。 秋香は一瞬見とれかけた。 しかし何で踊る必要があるのか、秋香は我にかえり彼女の正気を疑った。しかしまるで手品のように、 大柄なディスの四肢にのみ均等に命中していた。 訳が判らない。 丸太のように太いディスの四肢の筋肉が血しぶきを上げて断裂していく。 瞬間だったのか、数分だったのか、良く判らない。 オクタは足をバレエの五番のポジションに収め、長い両腕を白鳥の羽のようにすらりと伸ばし、 ディスはどさりと、倒れた。 「イイ見ものだったろ?」 ナイフの少年が、秋香に向かって軽口を叩いた。 「……お前たち。こんな事をしてただで済むと……」 「思ってるに決まってるだろ?」 マーチ撤収だ、車を回せ。インカムに呟くとナイフを収めて、年かさの少年が秋香に向かって鼻を鳴らした。 「逆に、あんたは俺らを追い切れると思ってるワケ?……無理無理。駐禁でも追っかけてろって」 ナイフの少年は笑う。秋香は何言ってんだこいつと思う。 「例えば、あんたのボスは信頼出来るかも知れない。でも、その上はどうだろうな?  警察は結局、縦組織だろ? ねーさんが幾ら頑張っても無理なものは無理だって事さ」 「私の相棒の腕を吹っ飛ばしたあんたらを、私が逃がすと思うなよ」 「怖いね……ま、無駄なものは無駄なんだけどな」 少年の後ろに、ベンツのGクラスが停車した。少年と少女たちが乗り込む。 意識を失ったディスを、よっこいしょとか軽く、幼女がトランクに放り込んだ。 ハンチング帽を被った少年が左ハンドルから身を乗り出して、オクタちゃんナイスダンス&ナイスデコ! とか、大変に嬉しそうにオクタの頭を抱こうとした。 やめてよマーチ兄さん。私のおでこは高いんだから。オクタがまとわりつく腕を振り払って唇を尖らせる。 「じゃ、さよなら。婦警さん」 ナイフの少年がドアを閉めると、ベンツは発進し遠ざかって行った。 ナンバープレートを絶対に忘れない。秋香は無駄だと判っていながら、唇を噛む。 ------------------------------------------------------------------------ 7.『せのびする』 「待ちなさい、メイジ」 としあきとメイジとノブで、駅前の路地にあるうどん屋に行こうかと言う夕暮れだった。 ふふん、と背すじを反り返りそうな位伸ばして、プラチナブロンドをひっつめにしたロシアっぽい少女が、 挑戦的な目つきをメイジに向けている。 「……知り合いか?」 としあきがメイジに、随分細っこい娘だな、と思いながら訊く。挑戦的な眼の上のおでこが広くて、可愛い。 「まぁね……で、うどん屋さんってここ?」 暖簾をくぐって引き戸をあけようとしたメイジに、 「待って待って待って待ちなさいよ! 無視しないでよ!」 じたばた。本当に地団駄を踏む人って居たんだなと、としあきは少し的外れに感動した。 メイジは、面倒くさそうに溜息をついて、 「用は何? オクタちゃん」 「姉さんと呼びなさい。お姉さんと」 ふう、と息を整えてオクタはまた、細い背すじをピンと貼り詰めて挑戦的な視線に戻した。 「単刀直入に言うわ。死んで頂戴」 決まった。決まりすぎるくらいに決まった。オクタ本人は、その感動を表情に出さないように、 心の中でじーんとしているのだが、メイジはオクタがそんな風に浸っている事を良く判っていた。 「……バレット・バレエが完成したの?」 メイジが、眉を細めて訊く。 メイジの案の定、オクタはまた、ふふんと笑った。 「芸術に完成は無いわ。得ようとしても得られぬもの、決して手に届かないものを追い求める行為、  それこそがすなわち芸術そのものよ。つまり、私の生の葛藤、感動、悲しみと喜び、  あらゆる私の心を表現する事。そしてそれを銃弾に乗せて撃ちまくる破壊と殺戮への昇華、  それこそが私のバレット・バレエ! ねえ知ってる? 当時ソヴィエト連邦だったロシアに生まれた、  ひとりのダンサーの事を。彼女はこう言ったわ。『常に既存と反対をしなさい。それが一番新しい』  銃撃とバレエの融合、創造と殺戮の調和、だれも未だかつてやった事のない試みよ。  私は今芸術史の最先端に居るわ。私の持つ八本の拳銃が今正にメイジ、あなたを唯の物体に還してあげる、  感動しながら死になさい!」 ぱん、と一発乾いた音がした。 先ほどまで情熱に任せて熱弁をふるっていたオクタが、うつ伏せに倒れていた。 「……痛いぃ……」 「両脇に銃を二つずつ吊ってるのは、あいかわらずみたいね。死にはしないわよ、オクタちゃん」 「い、いきなり撃つなんて卑怯よ……それにお姉ちゃんって呼びなさいよぉ……」 メイジは呆れ果てて、海の底よりも深い溜息をついた。 「バレエに台詞は無いでしょ。後、対面した時はもうベルが鳴った時……せいぜい頑張って腕を磨いてね」 がらり、と引き戸を開けてメイジがうどん屋の暖簾をくぐる。 いいのか? と心配そうなとしあきに、メイジはうんざりしたように、 「あの子、昔からちょっと馬鹿なの」 そう言うメイジの顔は、言うほど嫌そうじゃないなと、としあきは思ったけれど。 ---------------------------------------------------------------------- 8.『せりあう』 「今をときめく“組織”の方から直接のご縁とはね」 「『EN』?」 「うちらの国の古い考えさ……ま、俺は好きなんだがな。世知辛い渡世、これ位信じてもいいだろうって」 「ああ。『一期一会』、ですか?」 へぇ、とオーダーメイドのソフトスーツに身を固めたオールバックの男が、驚いた。 「随分と詳しいな」 「我々の“組織”は、創立以来、この国と深い関係がありますから」 ししおどし、などと言うありふれ過ぎて記号的な物は用意しない料亭だった。 整理された白州の庭には、ただ秋の虫の染み入るような歌が満ちている。 ユダヤ系特有の灰色の深い眼差し、少女は眼鏡の弦をそっと、持ち上げた。 「では、商談成立ですね。こちらにサインを」 少女は、座布団の横に置いていたフォルダケースから一枚の書類を取り出す。 フォルダの横には皮の装丁の分厚い本が、何故か置いてある。 「アキツ」腹の底に響くような低い声で男が言うと、男の後ろに親指をついて正座で控えていた男が、 「へい」ずらりと、匕首を取り出す……正真正銘、ヤクザの持ち物、所謂『ドス』である。 ぴくりと少女の眉が動くのを、髪を撫で付けた若い男は見逃さない。 「お嬢さん。驚かねぇで下さいよ」 かつ、と木と鉄が擦れ合う音がして、匕首が抜かれた。 オールバックの男は、親指を浅く、しかしためらう事無く斬る。 「血判て言いましてね……俺らの流儀ですわ」 丸く吹いた血が指紋に隅々行き渡るように、人差し指で軽く親指をなぞり、書類の末尾に押し付けた。 血の印か、と少女は納得する。 「これで契約は成立した訳だが……こんな紙切れ一枚で何が決まる?」 「書類は神聖なものです。約束と同義で……」 「違うな。言ったでしょう? 心で繋がる事を俺らは好むちゅう話ですよ」 アキツ。男は、後ろに控えている剃刀のような眼をした男に声をかける。 「へい」 卓の脇に置いていた盆から、徳利ひとつと杯をふたつとり、卓に静かに乗せた。 「固めの杯ちゅう奴ですわ。観た所お若いようだし、どうしてもと言うなら水杯でも……」 「お酒で結構です」灰色の眼差しが深く、男の静かな暴力が満ちた眼を見返した。 お互いの手でシャッフルされた杯が、同時に干される。 「は。いい呑みっぷりだ。お嬢さん」 「これで……宜しいですか?」 朱塗りの杯を音もなく卓に置き、少女は眼鏡の鼻を押し上げた。 「ああ。確かに、俺らの組は“組織”の大麻のルートを買い取った……しかし、白い大麻とはね」 「契約通りレシピは秘密とさせて頂きます」 「大方、遺伝子改造で作った新種植物って所か……」 失言、と男は思う。図書館辺りに居そうな少女が隠した、強い心胆に惚れ始めた己を見つけてしまう。 「とにかくだ。ひとつの卓の上の食事を共にする。俺らのルールだ」 襖が、計ったように開けられ、仲居が料理を運んできた。 「ええ。貴方の隠された望みを、ゆっくり伺いましょう」 失言には失言で返すか、と男は思う。喰えないメスガキだ、と思う。 「年寄りはここには居ねぇ……俺らの未来に。セプトさんよ」 「ええ。敏道さん」少女、12兄妹のひとりセプトは正座を苦とも思わず、頑なで自然な居住まいで応じた。 ------------------------------------------------------------------ 9.『ふれあったきがする』 うどんを楽しげに啜っているメイジたちを、窓の外から無茶苦茶に撃ち殺してやろうかと思ったが、 それはもう、負けた事に対する言い訳でしかない気がして、どうしても出来なかった。 電信柱の影に隠れて、メイジたちがうどん屋を去るのをオクタは見送った。 その後、ひとりでうどん屋に入ってみた。美味しかった。涙が出そうになったけど頑張って我慢した。 何にも出来ずに負けた事。調子に乗っていたら足元をすくわれた事。 メイジに、年下のメイジに良いように調子に乗せられた事。 悔しい。 迷子になった猫のように、ふらふらと彷徨いながらも、心はずっとひとつの事を持て余す。 悔しい。 強くなれたと思ったのに。今度こそ、メイジにお姉さんと呼ばせたかったのに。 聞き慣れた、戦車のように太いV8気筒のエンジン音が後ろから来た。メルセデスのGクラスAMG55ロング。 「どうした? オクタちゃん」 「……マーチ兄さん」 ホッとしすぎてべそをかきそうで、それが嫌で、俯いてしまって……。 「ディスの奴は国に送ったよ。クール便でさー」 冗談なのか本当なのか、良く判らない軽口を叩きながらマーチは重いハンドルを片手で転がしている。 「全く、この国は道路が狭いなー。折角の車が泣くぜー」 渋滞に引っ掛かってしまって、マーチは溜息しきり。 助手席で細い体を小さくしていたオクタには、関係のない話をする事でいたわってくれる兄の心が判る。 でも、不安が勝った。 「……私、負けちゃった」 ぽつりと言うと、その小さな言葉はたちまちオクタの心を影で塗りつぶした。 「負けちゃったよ……何にもしてないのに。踊ってもいなかったのに。鼻であしらわれちゃった。  メイジに負けちゃった。何も出来なかった。私も……私も、私がディスにしたみたいに、  誰かにぐさぐさに傷付けられて送り返されるのかな……やだよぅ……私まだ何にもしてないよぅ!」 赤信号でなくても、マーチはオクタを抱き締めただろう。オクタは触れ合う温かさに眼を閉じた。 「……兄さんになら私、殺されたっていい。殺してよ……お願い」 「まだ勝負はついてねーよ」 「だって、オクタちゃん、まだ生きてるじゃん。どっか痛むか? 戦えないか? 踊んの無理か?」 「……ううん。腋が凄く痛んだけど、もう治った」 「なら、ここからが本当の勝負だぜ。メイジは調子くれて見逃したつもりだろうけどさ、  まだオクタちゃんの強くなった所も知らないんだぜ。いや、違う。  オクタちゃんは、まだ強くなれる。いつだって前だけ観てるだろ?  俺は、そんなオクタちゃんの踊りが好きだから、良く知ってるよ」 細い肩を、ぽんぽん、とマーチは叩いてやった。 「……ありがとう。優しくしてくれるの、マーチ兄さんとオゥガス兄さんくらいだから」 オゥガス。ぴくり、とマーチはオクタの肩に乗せた顔の眉を僅かに動かした。 「ああ……そだな。でも、オゥガスだって、セプトだって絶対メイジに手こずるだろうからさ。  機会を窺ってじっくり、長い眼で攻めて行こうぜ」 「うん……兄さん。おまじない、して」 マーチはハンチング帽を取ると、オクタの広いおでこにそっと、キスした。ふるり、とオクタが震えた。 「もっと……特別の奴」 安らぎと無垢で眼を閉じたままのオクタを観て、マーチは少し、後ろめたさを思う。 渋滞から抜けて路地に入り、河原までGクラスを転がした。エンジンを切り、二人で後席に移った。 「いいのか? おでこ、安くないんだろ?」「励ましてくれたお礼」 じ。そっと音を立ててズボンのジッパーを降ろした。眼を閉じているオクタが音に気付いて小さく身震いした。 「やるぞ」「……うん」 後席で横になったオクタの上半身に、マーチは覆いかぶさる。 降ろしたファスナーから取り出した男根はもう熱く昂ぶり、マーチの呼吸も荒くなっていた。 オクタの額にあてがう。きゅっとオクタが体を小さく痙攣させた。「……熱いよ」 怯えたような、待ち侘びるようなか細い声が呼び水になった。薄闇の中の白い額を視線でねぶり、 男根を押し当てて猛烈にしごき立てる。つるつるとした広い額と男根が、次第に粘りを帯びてきた。 「ねちゃねちゃ、いってる……ぅ」 眼をぎゅっと瞑って、オクタは額に押し当てられた熱さに、とろりとした吐息をこぼした。 なぜ額なのだろう、良く判らない。だがマーチが今オクタの額に注ぐ眼は、 ぐちゃぐちゃに捩れた性欲で見開かれ、無垢を犯す獣そのものだった。 高まる。とめどなく。 来る。額を犯すという己の浅ましさの自覚が却って性感を跳ね上げる。喉の底からかすれた卑屈な声が漏れた。 「ぁ…………が……いくぞ、だすぞ……っ」「きて……!」 一キロ先の人間の頭を吹っ飛ばすよりも強烈な快感がマーチの五体を突き抜けた。 「あおおおおおあ――っ!!!} 「――ああは…あっ出てる……熱い、あついよぉ兄さん、好きぃ好き――っっっ!!」 撃った、出た、飛び出した、かかる、まだ出る、尿道が吹き飛びそうな止めどない快楽が持続する。 何十秒か、それとも一瞬だったのか、一体どれほど酔い痴れていたのか、絶頂する時はいつも時間の感覚がない。 次第に、気だるく、暗いものが耳から入ってくる気がして、マーチは頭を軽くサイドの窓にぶつけて脱力した。 ……また、してしまった。己の歪んだ変態性欲で妹を犯してしまった。 オクタは、とろりとした眼をあけた。 「……ありがとう。兄さん」 誉められた事じゃない。でも、悲しそうな顔をしているだろう自分の顔を、妹に見せるのは嫌だった。 「気持ち、良かったよ……オクタちゃん」 「兄さんが愛してくれるから……私まだ、頑張れるから」 白濁した欲望の汁を額と前髪に浴びても、オクタは優しい笑顔だった。 ぬめる笑顔にまた欲情する……マーチは両の目頭を押さえて耐える。 ------------------------------------------------------------------- 10.『すみこむ』 「なぁ……ノブの奴、最近どっかおかしかねーか?」としあき、玄関で靴を履きながら、朝。 「そうかな? あたしはそう思うわないけど」メイジが、んー、と顎に指を当てて考える、フリ。 「何かこう、思いつめてるっつーか、影が薄くなったっつーか……悩み事かな」 そのノブは、今朝早くに出て行った。用があるとかで。 「どうなんだろーね。それよりも、としあき忘れ物」 メイジが、としあきの背中から、携帯電話をシャツの胸ポケットに突っ込んだ。 「お、サンキュ」 「ついでに、お守り」 振り向いたとしあきの唇に、メイジは元気よくキスした。触れ合う。 柔らかい唇を堪能したとしあきが、体を離そうとした時、メイジは屈み込んでとしあきの頭を抱いた。 メイジの手が背中に這い、腋を抜けて、シャツのボタンにかかった。一限目はサボるかなと、としあきは思う。 がちゃり、と玄関が開いた。 としあきとメイジが玄関を観ると、 表情が硬直したオクタが、棒のように突っ立っていたのである。 「不潔不潔不潔不潔不潔不潔!」 あ、地団駄踏んでる。としあきは、また的外れな感動を覚えた。 メイジの知り合いだったか、思った事がすぐ体にでる娘なんだなと、としあきは思う。 きぃいいい! 火を吹きそうな眼でオクタはメイジととしあきを睨み付けると、びしっと指差し、 「ベタベタするの、禁止!」 「……何か用? オクタちゃん」 ふん、と軽く鼻をならして、ずかずか土足で部屋に上がり込んで背中を伸ばすいつものポーズを取る。 「今日から私も養ってもらうから、そのつもりで」 「……あたしに負けたから組織を抜けるの?」 「勘違いしないで。まだ勝負はついてないわ。今度こそ正々堂々と勝負するために、この国で腕を磨く。  あなたを逃がさない為に一緒に暮らすの。後、私の事はお姉ちゃんと呼びなさい、いい?」 としあきは、靴を脱いで立ち上がり、オクタの前に立つ。勿論、としあきの方が背が高い。 「な、何よ……今メイジと話してるんだから邪魔しないでよ」 「……この国のルールだ。とりあえず、靴を脱いで家に上がれよ」 「そんな事知らないわよ! 痛っ!」 叩き易そうだと思ったオクタの広いオデコをぺしり。 「OK?」 としあきは、オクタの蒼い目をまっすぐ観て話す。 「そんで、汚した所、後で掃除しとけ」 「なんで私がそんな事しなくちゃ行けないのよ! 痛っ!」 叩き易いオクタの広いオデコをもう一度ぺしり。 「OK?」 「うるさい暴力馬鹿! 痛っ!」 もういちどぺしり。オデコを叩くと軽く掌を鳴らすような手触り、ちょっと感動。 「暴力馬鹿でも一応ここの家主だからな。ここで暮らしたいってんなら、最低限のルールぐらいは、  守ってもらう。OK?」 きいいいいいい。唇を噛んでとしあきを睨み返していたオクタは、渋々と、 「……Да(ダー)。痛っ!」 ぺしり。 流石に四回も叩くのはやりすぎかなと、としあき自身思った。でも、退いてはダメだと思う。 「日本語で言え。この家の標準語は日本語、ないし日本語化した外国語だ。OK?」 しかし何でロシア語なんだろうと、としあきは思ったがすぐに判った。 鼻っ柱の強い娘なんだと、思う。素直に認めたくないんだろうと。ロシアの娘なのかな、と思う。 オクタは、何故こんなに、いいように、何の戦闘能力も持たないような男にあしらわれているのかと思いながら、 日本語で、誠に心苦しく、しかしこれは契約だと思いながら、 「……判りました  ……いいや、判ったわよ」 「OK」 としあきは、散々叩いたおでこを、同じ手で包むように優しく撫でた。 むずがゆそうに、オクタは眼をきゅっと瞑る。 --------------------------------------------- 11.『まどう』 コンビニでプレーンソーダをレジに持って行ったら、レジの男から薬を買わないか、と持ちかけられた。 ノブは、頷いた。 ゴミ掃除で店の外に出た時に……と、男がノブを待たせて、ノブはソーダを舐めながら駐車場で待っていた。 男が、店の通用口に案内する。人目がなくなった所でノブは男を叩きのめした。 子どもだと高を括っていたのだろう。それにしても素人だった。末端の売人なんてこんなものか。 ブローニングハイパワーを突き付け、薬の現物を一口分せしめる。 麻の匂いがする、白い粉だった。 見間違えようがない……“組織”の作った薬だ。 薬のルートを言え、と迫ると男は怯えて渋ったので、ブローニングのグリップで頭を割らない程度に殴る。 男は自分の上役の事をあっさりと歌った。 地元のヤクザ、らしい。ノブが過去にメイジの情報を得るために叩き潰した組とは別だった。 “組織”が、本格的に薬を卸し始めたか……と思う。 ノブは、怯える男を置き捨てて、コンビニから立ち去った。 プレーンソーダのペットボトルは、ちゃんと分別して捨てた。彼も、そうなるだろう。 としあきの家に戻ろうとノブが帰路についていると、地元の小学生に混じって缶蹴りをしているメイジが居た。 最近、下校途中の小学生を捕まえて遊ぶ事をメイジは覚えたらしい。 子どもなんだな、とノブは思う。 ノブはと言えば、さっきだって売人がノブに薬を売りつけようとしたのは、 ノブが10歳に見えてなかった為だろう。 大人びている、とノブは良く言われたし、組織の十二人の兄妹たちは歳相応に見られないのが普通だった。 ディスのように肉体をいじられているようなケースは別だが、やはり『眼』なのだと思う。 過酷な状況に置かれた子どもの眼は、時として大人よりも硬い何かを秘めている。 ニュース映像で流れる紛争地帯や貧困国の子どもの眼と、この国の平和の中で生きている子どもの眼、 そして兄妹たちの眼を比較してノブ自身、大人より硬い何かを秘めた眼で、思うのだ。 だが、メイジは何かが違う。 屈託のない子どもの眼をしたかと思った次の瞬間には、人を殺せる眼になっている。 としあきがメイジに惹かれるのは、そんなメイジの眼の秘密にあるのではないかと思う。 うらやましい、と思う。ノブは不器用な自分の事を少しだけ、悔やんだ。 「どうしたの? ノブ」 小学生たちに手を振って一抜けしたメイジが、屈託のない子どもの眼でノブの眼を覗き込んで来る。 「……オクタの事、いいのかな? としあきさんにやっぱり、ちゃんと説明した方が……」 「いいのよ」 ぴしゃり、とメイジが打ち消す。ほら、気がつけば眼の表情が変わっている。 「オクタちゃんはただ、あたしを超えたくてこの国に来ただけ。それでいいの。  本当にその通りだし、もともととしあきに何の関係もないじゃない。兄妹たちがあたしを狙う事って」 「だけど、いつかとしあきさんに累が及ぶかも知れない」 「その前に、あたしたちで止めるの。絶対、としあきを守るの」 「……僕はもう、嘘をつくのは嫌だ。はじめて優しくしてくれた人を騙すのはもう、嫌なんだ」 「……本当に、としあきの事が好きなのね」 メイジはそう言うのだけど、言葉の中に譲れない響きがあるとノブは思った。 「僕はメイジほど魅力的じゃないから、こんな事続けてるといつか棄てられそうで……ごめん」 ノブは、家路とは逆方向に走り出した。メイジは、遠ざかる背中に声をかけられない。 それからノブはコンビニに取ってかえし、失態で死にそうな顔をしている先ほどの売人に目配せした。 表に出ろ、と。 薬を売人に蒔いているヤクザと接触する。ヤクザの人となりと、いつも接触する時間と場所を聞き出した。 夜の一見平和そうな駅前の通りの小さな本屋で、 ノブはNEWTONとNATUREとSCIENCEの英語版を立ち読みしながら辛抱強く待った。 専門誌は時間潰しと教養に最適だ。子どものやる事じゃないとも思う。歳相応なら漫画誌でも読むのか。 そう言えば、としあきの家に結構な所蔵があるコミックスを殆ど読んでいない自分を思った所で、 「ヤクザなら、来ません」 不覚を取った。思い詰めればすぐ隙が出る。ノブの悪い癖だ。振り向く。 「……セプト」 「久しぶりですね、ノヴェンヴァ」 眼鏡の弦を持ち上げて、手には英字原書の絵本を三冊持ったユダヤ系の少女が、深い眼でノブを観ていた。 「キミも、メイジを追って来たのか」 「いいえ。それだけが“組織”の目的ではありませんから」 閉店間際の喫茶店に入り、ノブとセプトは揃って苦くて熱いコーヒーを注文した。 「信用できない。だってキミは、『嘘吐き』だ」 ノブの蒼い眼が、セプトの眼鏡の下の灰色の瞳を射抜く。セプトは、平然とそれを受ける。 「私の能力は、良くご存知ですよね」 「組織でキミといつも組んでいたのは僕だったから。キミは、言葉を駆使する。  少女の外見で相手を騙し、いつも交渉を有利に運ぶ嘘を平然とつく。一緒の僕も何度も騙されたよね。  ……今、僕とキミは敵同士だ。だから僕はキミを信用しない」 「なら何故、私の前にいるのですか?」 セプトはコーヒーカップで冷性の手を温めて、ぐさりと言葉を刺す。 邪魔なら撃ち殺せばいい。そうしない自分がいる……何故だ、ノブは一瞬戸惑ったが、 「魔女は自らの魔法で滅ぶ……キミは言葉で敗北するべきなんだよ、セプト」 「だからこうして話し合うと? 嘘ですね。貴方は、私に会って、ホッとした顔をしました」 セプトは表情を全く変えない。まずい、引き込まれていく……ノブは静かに焦りを覚えた。 顔には出さないように勤めているノブの焦りを見透かしているのか、セプトはいきなり、 「私、貴方の事が好きでした。ノヴェンヴァ」 「黙れ」 今まで一度も、ノブの事を愛称で呼んだ事がないセプトが、表情も変えずにそんな事を言う。 ノブは苛立ち、声が高くなっている事にも気付かない。 「本当です。ずっと、貴方だけを観てました」 「黙れ!」 弾かれたように席を立つ――急に、立ちくらみをおこした。驚愕する。 「な、に……? 馬鹿な……いつ、一服盛った……」 「偶然、この喫茶店に入ったと思うのですか? 相変わらずですね、ノヴェンヴァ。常に、根回しです」 セプトが、眼鏡の弦をつまんで軽く持ち上げた。 ノブはそれを観る事はなかった。がくり、とテーブルに頭を打ち付けるように倒れ、気を失った。 誰も、ノブとセプト以外客がいない喫茶店で、セプトは涼しい顔でコーヒーの香りを楽しんでから、 一口、音もなく飲んだ。 彼女は、意識を失ったノブに、囁く。 「愛しています……本当に――」 悪い夢を見ていた気がする。こんな夢だった。 貴方は騙されています、と眼鏡が物を言う。 優しい貴方はいつも騙されています、と眼鏡が宙にふよふよと浮いている。 嘘をついていると嘆く貴方は、実はいつも嘘をつかれて騙されているのです。 でも大丈夫です、眼鏡は静かな知恵を湛えた天使のように囁く。 貴方は嘘をつく必要はありません。心のままに、嘘をつく者たちを全て、殺しなさい……。 ノブはとしあきの家で目覚めた。もう、昼過ぎだった。珍しく寝坊をしてしまったらしい。 としあきは学校に、メイジは何処かに遊びに、オクタは早速見つけたバレエの教室に行っている時間だ。 テーブルの上に、としあきが焼いたのか綺麗な目玉焼きとサラダがラッピングされて乗っている。 ノブは、空腹と言うより……何かの渇きを覚えた。 頭の中にぼんやりと、コンビニと白い粉のイメージが浮かび上がる。 ノブは着替えて靴を履き、コンビニに向かった――渇く。どうしようもなく、渇く。 -------------------------------------------------------------- 12.『ちぎれる』 もう、コンビニにおでんが姿を現す季節だ。としあきは、ふと夕飯をおでんにした。 いつもパスタやうどんを茹でるのに使う背の高い鍋にぎゅうぎゅうと具材を詰めて、煮込んだ。 「美味しいじゃない……ふ、ふん、あなたを誉めたんじゃないんだからね!」 箸ひとつ使いこなすのも現代の淑女のたしなみか、オクタは大根を綺麗に割って食べる。 「ほら、としあき。あーんして、あーん。ちくわーっ」 メイジがいつもよりべたべたととしあきに絡む。 「そこ、いちゃいちゃしないの!」 きぃ! まなじりを吊り上げてオクタが箸でメイジを指す。 「箸で人を指すなよ、縁起悪ィな……」 「ごちそうさまでした」ノブが、箸を置いて合掌した。 「どうした、もういいのか?」「ええ……何だか食欲がなくて」 ノブは、少しふらふらと立ち上がると、ベッドにのぼって壁際に背中をもたせかけた。 「風邪か? 季節の変わり目だからな……気をつけろよ」 「ええ……先に、少し寝ます」 布団ぐらいかけろよなー、と言うとしあきの言葉を聴く前に、本当にノブは横になり眠ってしまった。 としあきとメイジはベッドで、オクタは床に広げた布団で眠っている。 ノブは、暗い部屋の中でむくりと、体を起こした。暗いままの室内を、音もなく動く。 自分のバッグの中に隠していた、『それ』を取りだす。針は、使用した後に熱湯で消毒しておいた。 用意を手早く済ませると、ユニットバスにこもる。 夕食後に洗浄済みのおでんをとった小皿に粉を空け、ミネラルウォーターで溶く。 本来、大麻は血管注射して摂取しないものだ。 しかし、“組織”が栽培する白い大麻は水に溶ける。煙で吸うよりも格段に、効く。 注射針で溶液を吸い、迷う事なく腕の静脈につきたてた。 衝撃がくる間に、ノブは全裸になる。細い膝と自分の体温を抱いている。 ――来た。 ぐにゃりと、蕩ける。 恍惚めいた喘ぎを漏らす。ノブの男根が屹立して行く……熱いそれを、ノブは硬く握った。 強烈に倍増した性感に悲鳴が出そうになる、喉を嗚咽するように鳴らして堪えた。 ――眼鏡のヴィジョンが、見えてきた。 さあ、殺しなさい、眼鏡の幻覚が物を言う。 何かを台無しにする時、それはとても気持ちが良いのではないかと、ノブは痴呆のように涎を垂らし思う。 全てぶち壊せと凶暴な思いがノブを突き上げる。 もっと自由になりなさい、眼鏡の声は優しく甘い。 脳髄に直接響くその声が聴こえた時、ノブは絶頂に達した。精液が飛び散る、物凄い勢いで。 尿道に刺すような痛みさえ覚えた。それさえも快感だった。全てが真っ白く塗りつぶされて行く。 何か叫んで居たかも知れない、頭を振ると壁で打った。痛みにすら喜びを覚える。そうだ壊せ、もっと! 強烈な快感が引く。正気が若干差した。 ――騙されるな。 もうひとりの自分が、見えた。 急激に嘔吐が込み上げて来た。よろよろとバスタブから這い出し、トイレの蓋を開け――。 それから夜が開けるまで、ノブは膝を抱えてバスタブの中で震えていた。 殺すな、殺せ、壊すな、壊せ……そんな自分の声を聞きながら、ずっと、震えていた。 ------------------------------------------------------------------- 13.『すてる』 いつ終わるとも知れない悪夢のバッドトリップに、震えて膝を抱く事だけでただ耐えた。 精神がうねる異常な波が静かに落ち着いてきた時にバスタブの中で眠りこけなかったのは、 ノブの精神力の証だった。 シャワーを使い、冷え切った体温を上げて血流を回す。 血管にしぶとく残った快楽物質の残りを、代謝を上げる事で燃やしきる。 湯煙の向こうで、逃げようとしても無駄だよ、ともう一人の自分が言っていた。 もう眼鏡のヴィジョンは見えない。 ユニットバスから這い出すと夜が白んでいた。まだ、三人は何も知らず夢の中だ。 湯を沸かして注射針を消毒する……しようとして辞めた。 コンロの火を落とし、注射針はへし折った。後で棄てに行こうと思う。 いや、後でなどと言うと挫けてしまうのは目に見えていた。 疲れ切った細い体を拭き、服を着る。 コンビニ袋に注射器だったものを詰め込み、玄関から出て、合鍵でしっかり戸締りした。 雨が降っていた。秋の時雨。傘もささず、ノブは歩いた。 明ける夜と雨を見ながら、馬鹿みたいに明るいコンビニのネオンの軒下で、 ノブは温かい無糖コーヒーをゆっくりと飲んだ。薄っぺらい苦味と香りを、ゆっくりと味わった。 飲み終わる時には、もう、心は決まっていた。 細かく折った注射針を、缶コーヒーの空き缶に入れて燃えないゴミに出した。 ポリ製の注射器は燃えるゴミだ。ダイオキシンが多分発生するだろう。 本当は医療ゴミなのだが、残念ながらそこまで徹底は出来ない。 残りの薬も未練なく燃えるゴミに出した。後で、あの失態続きの売人店員が慌てて回収するのだろうか。 分別は間違っているけれど、命を棄てる覚悟は、正しく決まった。 ノブがとりあえず一眠りしようと、としあきの家に戻ると、 意外な事にとしあきが起きていた。 灯りをつけない朝の室内の薄闇の中でベッドに腰掛け、ノブに静かな視線を注いでいる。 「おはようございます。としあきさん」 「ああ……おはよう。散歩か?」 としあきの声は、心配そうで。 ノブは平然と嘘をつく。 「ええ。少し、体が楽になったと思ったんですが……まだですね。もう少し、寝かせてください」 ノブは嘘をついている。 ためらいはもう、ない。 ――あの時、メイジを抹殺に来た夏の日の中と同じように。 ノブは、嘘くさくもない爽やかな笑みを浮かべていた。 としあきはゆらりと立ち上がり、抱き締めようと前に出て、 でも、ノブはそれをさりげなくかわして、ベッドに静かに横たわった。 「おやすみなさい。としあきさん」 蒼い瞳を閉じる。としあきがどんな顔をしているのか、もう観る事はないだろう。 ここで温かさに包まれてしまったなら……もう、死ににいけないから。 挫ける前に、さようなら。 ノブは、眠りに落ちる前に、その言葉を頭の中で何度も繰り返した。 涙はなかった。熱いものが心を震わせる――ノブは、悲しい夢ではなく、勇ましい夢を見た。 ――夢を見た気がして、目覚めた。曇天で陽が弱いが、もう昼だった。 としあきは学校に、メイジはどこかに遊びに、オクタはバレエの教室にレッスンを受けに。 ノブは独り。 鏡の前に立ち、支度する。 『本日休館』 そう立て札が掛かっている市営図書館。 ノブはためらわず扉を押した――案の上、開いた。 中へと。ノブが最期と定めた場所へと。 セプトが待っていた。 ---------------------------------------------------------- 14.『うそをつく』 「殺してきましたか?」 誰も居なくて静寂が耳に痛い広大な図書館の中で、セプトが言う。 「ぼくはみんなを殺さない。キミの催眠には屈しない。喫茶店で僕を拉致し、キミは僕に暗示をかけた。  メイジや、としあきさんを殺す暗示を……キミを殺して暗示を解く」 ノブは、ブローニングハイパワーを抜き、両手で保持してセプトに突き付けた。 セプトは、銃口と硬い意思が宿った蒼い視線をまっすぐに受け止めた。 セプトは何も、対処のアクションを取らない。 大きくて分厚い革張りの本を横にして、両手でスカートの前に持っている。 「催眠暗示に気付くとは流石ですね、ノヴェンヴァ。貴方は本当にまっすぐです」 「例え死んでも、キミを殺す。ぼくがみんなを守る」 「どうぞ」 ノブは撃った。 フェルトのタイルブロックと本の群れの中で、銃声はとても小さく、吸い込まれて消えた。 「どうしました? しっかり、狙ってください」 セプトは表情ひとつ変えない。 革の装丁の本に、弾痕が穿たれているが、それだけだ。 まずい――呑み込まれそうだ、抗うようにノブは立て続けに発砲した。 弾は全て、本の表紙に精密なワンホールを刻んで吸い込まれた。 貫通もしないのか、衝撃はないのか、セプトはまるで、炸薬と弾丸の物理法則から解き放たれたように、 微動だにせず立っている。 気がつけば、ブローニングハイパワーはスライドが後退している。弾が切れたのだ。 コンバットロードした14発も撃ったのに、ちゃんと眼鏡が乗っている頭を狙ったのに。 「暗示がひとつだけだと、思いましたか?」 セプトの魔性の言葉が、ノブの耳朶にずるりと這入ってくる。 「貴方に私は殺せません」 魔女だ。魔女がいる。目の前にいるのは、紛れもなく、そこに立ち居振る舞うだけで、 全てを呑み喰らう、そんな闇を秘めた、魔女だ。 吐息、言葉、眼差し、笑み……全てが黒く暗く深く、向き合うものの心を狂わせる。 ノブは銃口が震えないように、必死で押し止めている。 恐怖を。 「もう一度言います。私は、貴方の事が、好きです」 「……嘘だ」 「私がここにいる理由は、貴方を連れ戻すためです。貴方と一緒にいたい……」 「嘘だ」 「戻ってきて下さい。ノヴェンヴァ。また一緒に、二人で……」 「嘘をつくな!」 ノブはかぶりを振って叫び、マグリリースボタンを押し、弾装を素早く代えた。 「僕は、信じない!」 スライドストッパーを降ろしスライドを戻す。銃口をセプトの頭に保持したままにじり寄る。 「ノヴェンヴァの、嘘つき」 ぞっとするほど暗い言葉が、ノブの脳を直接刺した。 ノブは言葉の闇に耐えながら、セプトの額に銃口を突き付けた。 かちかちと震える銃口が、セプトの灰色がかった黒髪の生え際のうぶ毛を荒らした。 ――トリガー出来ない。 「貴方は今、死にました」 どさりと本が床に落ち。 いつの間にか、ノブの細い顎の下に、セプトが銃をつき付けていた。 Cz75前期型。 ブローニングハイパワーを姉に持つ、東欧の傑作オートマチックピストル。 ノブの背中を、命を獲られた恐怖が駆け上った。 「貴方は私を嘘つきと罵るけれど、貴方自身、いつも嘘をつきます。  嘘をつき続ければそれが本当になると信じて。  かわいそうなノヴェンヴァ。私の気持ちが本当は判っているのに……嘘をついています」 こきり、とセプトがハンマーを起こす。声がノブの精神を浸食する。一言一句が刺さる。 「貴方を拉致したあの夜、私が貴方を抱かなかった理由も判っていますね?  貴方の本当の心を手に入れたいからです。  粘膜で絡み合うだけなんて、つまらないからです。  貴方を平伏させ、貴方を犯し、心を食べてしまいたい。  貴方が怯えと恐怖と、真に私を愛する以外にもう何もないと言う事を刻み付けたい。  嘘も、偽りもない私の愛で、貴方を呑み込みたい……どんな恋愛小説よりも素敵に、  グロテスクに、決して離れられない主従の愛で……ノヴェンヴァ、貴方を犯したい」 セプトの白い指がトリガーにかかる。 ノブの魂に直接響く、冷たくかすかな息吹で、セプトは微笑した。 「優しくなんてしてあげません。一生、忘れたくても忘れられない悪夢のようなセックスにしましょう。  貴方の悲鳴が聞きたい……硝子細工を掻くような綺麗な悲鳴が聞きたいの。  とても小さなノヴェンヴァ。とてもかわいそうなノヴェンヴァ。  ああ、嘘つきの孤独で擦り切れそうな悲しい魂のノヴェンヴァ……弱い弱いノヴェンヴァ。  愛しています。心から」 セプトの灰色の瞳は、甘く観る夢で狂う。 文学少女は、物語に観る夢で蕩けて狂うのだ。 ――耐え切った。 ノブは、セプトの本当の言葉の暗闇に耐え切った。 「“キミは言葉で敗北するべきなんだよ”」 ――きり。 ノブの指先でトリガーが軋んだ。 トリガーが絞られる、その一瞬と言う時間が粘りを帯びて遅延した。 きりきりきりきりきりきりきりきり……。 愛を語り暗く酔い痴れるセプトは、本当に僅かな塵芥の時だけ、 反応が遅れた。 あり得ない、そう思いながらもセプトは身についた戦闘の反射で頭を振った。 眼鏡が耳から外れて宙に置き去りにされた。 同時に暗く深く澄み切った夜の闇のような愛を一瞬で棄てる絶頂にも似た感覚を得ながら、 セプトもトリガーを絞る。 長い、長い、一瞬だった。 きりきりと、きりきりと。ふたつのトリガーが絞られ、シアーが開放されんとするその音が、 小さく、小さく軋み、 ――かちん。 シアーが開放され、ハンマーが落ち、ふたつ爆炸した。 ノブはのけぞり、セプトは頭を横に逃がした。 共に弾から逃れ、共に外したと知るや相手よりも早く突き付けようと、 銃口を流水の如き動きで空間に滑らせる。 セプトはノブの頭に、しかしノブはセプトの銃そのものを先に捉えた。 ノブが発砲した。 セプトの手が衝撃で後ろに千切れそうな勢いで跳ねる。 しかし手に吸いつくようなグリップを握り落さない。 ノブがセプトの眼鏡が落ちた頭に銃口を向ける、ノブはトリガーをためらったとセプトは観た、 セプトは腕を強引に戻しノブの頭に殴りつけるように銃口を向けて、トリガーを絞る、発射、 しかし零距離での銃の撃ち合い、ノブは素早く身を潜め、銃口の線の下に潜り込む。 セプトは詰めを取ったと確信した。 零距離での撃ち合いは“組織”が重要視し、兄妹たちに施したスキル。 一撃を避けて反撃を窺い、一撃を外しても相手を追い詰め、そして確実に追撃して仕留める。 今度こそ、セプトはノブの綺麗な金髪のつむじに狙いをつけて―― Cz75は作動しない。 「キミの負けだ。セプト」 Cz75。精密過ぎる工法ゆえに、強い衝撃を受けるだけでフレームが簡単に歪む。 ノブがフレームへと加えた一撃の所為で、 再度発砲した後にスライドが完全に初期位置に戻らず、チェンバーが閉鎖不良を起していた。 「何故……私の暗示を破る事が出来たのですか? 貴方が読みきれなかった、  私を殺せないと言う暗示までも……私の暗示は完璧なのに……」 ノブは、濃密なアドレナリンがちりちりと頭皮を騒がせるのを覚えながら、ふと冷静に息を取り、 「キミは嘘と催眠で人を惑わす魔女だ。  だが、キミは僕に本当を語ろうとした。矛盾している。キミは弱点をさらけ出した。  キミ自身の強くて、切なくて、弱い心を……僕の事を好きだと言う想いを。その言葉を。  嘘つきに本当の愛は語れない。本当の愛を語るものは、嘘つきじゃないんだ。  もし、キミが最後まで嘘をつき続ければ……そして、キミの本当の言葉に僕が屈すれば、  僕が、僕自身にかけた暗示は作動しなかっただろうね」 ノブは、彼女の愛が本物である事を受け止め、その闇を乗り越えたのだ。 セプトの膝の力が抜け、その場にへたり込んだ。 ノブは、ブローニングをホルスターに戻した。 「“キミは言葉で敗北するべきなんだよ”……これが、僕が僕にかけた暗示の起点さ」 ――夜の喫茶店で、暗示をかけられる前にセプトに言った言葉。 今日目覚めて、鏡の前で、鏡の奥にセプトを思い言った言葉。 何よりも、セプト自身の矛盾をあからさまにする、その言葉。 「キミが僕にかけた暗示はもう、全て乗り越えた。薬を欲しがる事も、  トリップしてとしあきさんとメイジを殺したくなる事も、、  キミを殺せない事も、他にもあるかも知れないけれど、全てね。  キミをもう、僕は怖いとは思わない」 ノブは踵を返す。図書館から出て行く。 どこまでも、ノブの背中は気負わず、まっすぐだった。 いつだって、ノブは、まっすぐなのだ。 弱くたって、心の軋みに苛まれたって、ただまっすぐに生きて行けばいい。 セプトは、その背中に言葉をぶつけた。 「殺して! 好きなの、ノヴェンヴァ!」 ノブは、立ち止まり、そして振り向いた。狂おしいまでのひずんだ愛に焦がれる灰色の眼を直視する。 「応えられないよ。僕には、好きな人がいるから……優しく抱いてくれる人がいるから、  僕は死ねないよ。  その人のもとに、暖かい気持ちで帰りたいから、キミも殺さない」 としあきのぶっきらぼうで、さりげない笑顔を想う。優しい気持ちになれるのだ。 自然と笑顔がこぼれた。ノブだけの、優しい笑顔が。 セプトと共に戦い、嘘と偽りの中でお互いを探って心が擦れ違う日々には無かったもの……笑顔。 「……僕は嘘をまだ、つき続けるだろう。でもそれは、優しい嘘だけにする。  僕の嘘を、キミなら優しく受け止めてくれると思ったけど、やっぱり違うんだね。  嘘をついても、それで笑顔を守れるなら、喜んで悲しみに耐える。  キミと僕の道は余りにも違う。さようなら」 ノブは、去る。 セプトは、惨めなほどに身を焦がす嫉妬で、傍らに落ちていた本を取る。ロックを外し、 中にページを切り抜いて仕込んでいたリボルバーを抜いた。現代工業が生み出した複雑な機構。 マテバ=セイウニカ。 セイウニカ……六発と言う意味と『あなただけのもの』と言う意味のダブルミーニング。 眼鏡を落として滲む視界、それにしては嫌に滲む視界の中でノブの背中を捉える。 オートマチックリボルバーと言う複雑な構造は、ダブルアクションで発砲可能。 セプトはトリガーを無茶苦茶に引こうと、重いトリガーにかけた指、指に力が、 ――出来ない。 銃が重くて、余りにも重くて、保持出来なくなって、力無く手が下がった。 ノブは行ってしまう。言葉でも銃弾でも、彼を止められない。 例え殺しても、ノブはセプトのものにはならないのだ。ノブの背中はそれを知っている。 涙をようやく自覚する。ぬぐう、やるせなくマテバを観ると、ハンマーが折れていた。 偶然にも見放された。 鉄板を仕込んだセプトの切り札としての『本』が、ノブの精密なワンホール射撃で表側が貫通し、 中のマテバを破壊していたのは偶然に過ぎない。 言葉と言うロジックを駆使し、ロジックにまみれた暗い愛ゆえに負け、 ロジックゆえに最後の激情を解き放てなかった。 そしてロジックをいとも容易く破る偶然にさえ突き落とされる。 ノブが居なくなった書の迷宮の中で、セプトはロジックでは形に出来ない想いで、 迷い子のように声を上げて泣いた。 --------------------------------------------------------- 外伝壱! 『魔法少女バッドトリップメイジさん 最終話! 涅槃の彼方にランナウェイGOGO!』 「覚悟しなさい! 暗黒お父様大魔王!」 ずびしっ、とメイジが謎の大魔王らしい壮年の男性を指差す。カメラアングルは呷り、斜め四十五度。 大魔王であるらしい謎のお父様は、ぬっふふっふ、と若本っぽく見事なテノールで笑った。 「よぉくぞここまでぇ、四天王を含む私の十二神将を倒してやってきたものだ……んー流石私の最高傑作」 「お黙りなさい! 例え仏法が許しても、あたしはお父様を許しはしないわ! 観よ仏の力悟りの境地!」 メイジは啖呵を一発切ると、何を思ったか明らかに危ない煙草を三本ポッケから取り出して口に咥えた。 魔法のステッキで点火! 「……あー、いーわー、回ってきたわー、アラニスが手を振ってるわー。サンキューインディア……」 えへえへ、と危ない目つきで謎の呟きを垂れ流し、煙をキメているメイジを、謎のお父様は少し心配そうに 「……オーヴァードゥーズは良くないぞぉー。セッティングが命だぁー」 くわっ。メイジがいきなり眼を見開く。 「超、開眼! 三昧(サマディ)!!」 ぼわわん、とメイジの回りに何故か紫のスモークが焚かれたように出現した! ――魔法少女バッドトリップメイジさん、続く! 「脳神経をフル活用! 怪しい薬で超昇天!」 つるぺたの体が、みるみる内に加速度的に成長、胸が超デカイ! 「魔法少女バッドトリップメイジさん、ここに推参! この世の悪を皆殺し、大人の体で少女です!」 きらーん。魔法の杖『ガヴァメント』の太く硬い銃身を謎のお父様に向けて構えた!(作画、大張正巳) 『メイジさんー、先手必勝だー。撃ちまくれー』 異様な顔面の兎のぬいぐるみがいつの間にかメイジさんの肩に乗っていて、 やる気なさそうにお父様を指差した。 「言われなくてもOVAだから尺が短いのよっ!」 トリガートリガートリガートリガー! カキンカキンカキンカキン! なんと! お父様は全ての必殺呪弾を手に持っていたポン刀で叩き落としていた!(ナレーション千葉繁) 「ぬふふぅ……お前の力はそんなものか……今こそ真価を見せろぉ!」 「勝負よ、暗黒お父様大魔王!」 ……夢だった。少し、続きが気になるけど……としあきは溜息をついてメイジの寝顔を小突いた。