鳥居龍蔵 とりい りゅうぞう
1870-1953(明治3.4.4-昭和28.1.14)
人類学者・考古学者。徳島の人。東大助教授・上智大教授などを歴任。中国・シベリア・サハリンから南アメリカでも調査を行い、人類・考古・民族学の研究を進めた。晩年は燕京大学教授として遼文化を研究。著「有史以前の日本」「考古学上より見たる遼之文化」


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。

◇表紙の鈴は、朝鮮咸鏡かんきょう南道・咸興かんこうの巫人の持てるものであって、先端に鈴は群をなし、そのかたわらに小さな鏡が結びつけられ、柄の下端には五色の長い絹の垂れがさがっている。彼女が神前で祈り舞うとき、これを手に持って打ち鳴らすのである。(本文より)



もくじ 
日本周囲民族の原始宗教
神話・宗教の人種学的研究(五)鳥居龍蔵


※ 製作環境
 ・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
 ・ポメラ DM100、ソニー Reader PRS-T2
 ・ソーラーパネル GOAL ZERO NOMAD 7
  (ガイド10プラス)
※ 週刊ミルクティー*第五巻 第四四号より JIS X 0213 文字を画像埋め込み形式にしています。
※ この作品は青空文庫にて入力中です。著作権保護期間を経過したパブリック・ドメイン作品につき、引用・印刷および転載・翻訳・翻案・朗読などの二次利用は自由です。
(c) Copyright this work is public domain.

*凡例〔現代表記版〕
  • ( ):小書き。 〈 〉:割り注。
  • 〔 〕:底本の編集者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送り、読みは現代表記に改めました。
  •    例、云う  → いう / 言う
  •      処   → ところ / 所
  •      有つ  → 持つ
  •      這入る → 入る
  •      円い  → 丸い
  •      室《へや》 → 部屋
  •      大いさ → 大きさ
  •      たれ  → だれ
  •      週期  → 周期
  • 一、同音異義の一部のひらがなを、便宜、漢字に改めました。
  •    例、いった → 行った / 言った
  •      きいた → 聞いた / 効いた
  • 一、英語読みのカタカナ語は一部、一般的な読みに改めました。
  •    例、ホーマー  → ホメロス
  •      プトレミー → プトレマイオス
  •      ケプレル  → ケプラー
  • 一、若干の句読点を改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符・かぎ括弧をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸   → 七〇二戸
  •      二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改め、濁点・半濁点をおぎないました。
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、和歌・俳句・短歌は、音節ごとに半角スペースで句切りました。
  • 一、表や図版キャプションなどの組版は、便宜、改めました。
  • 一、書名・雑誌名・映画などの作品名は『 』、論文・記事名および会話文・強調文は「 」で示しました。
  • 一、「今から○○年前」のような経過年数の表記や、時価金額の表記、郡域・国域など地域の帰属、法人・企業など組織の名称は、底本当時のままにしました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。

*尺貫・度量衡の一覧
  • [長さ]
  • 寸 すん  一寸=約3cm。
  • 尺 しゃく 一尺=約30cm。
  • 丈 じょう (1) 一丈=約3m。尺の10倍。(2) 周尺で、約1.7m。成人男子の身長。
  • 丈六 じょうろく 一丈六尺=4.85m。
  • 歩 ぶ   左右の足を一度ずつ前に出した長さ。6尺。
  • 間 けん  一間=約1.8m。6尺。
  • 町 ちょう (「丁」とも書く) 一町=約109m強。60間。
  • 里 り   一里=約4km(36町)。昔は300歩、今の6町。
  • 尋 ひろ (1) (「広(ひろ)」の意)両手を左右にひろげた時の両手先の間の距離。(2) 縄・水深などをはかる長さの単位。一尋は5尺(1.5m)または6尺(1.8m)で、漁業・釣りでは1.5mとしている。
  • 海里・浬 かいり 一海里=1852m。
  • [面積]
  • 坪 つぼ  一坪=約3.3平方m。歩(ぶ)。6尺四方。
  • 歩 ぶ   一歩は普通、曲尺6尺平方で、一坪に同じ。
  • 畝 せ 段・反の10分の1。一畝は三〇歩で、約0.992アール。
  • 反 たん 一段(反)は三〇〇歩(坪)で、約991.7平方メートル。太閤検地以前は三六〇歩。
  • 町 ちょう 一町=10段(約100アール=1ヘクタール)。令制では3600歩、太閤検地以後は3000歩。
  • 町歩 ちょうぶ 田畑や山林の面積を計算するのに町(ちよう)を単位としていう語。一町=一町歩=約1ヘクタール。
  • 方里 ほうり 縦横1里の面積。平方里。
  • [体積]
  • 合 ごう  一合=約180立方cm。
  • 升 しょう 一升=約1.8リットル。
  • 斗 と   一斗=約18リットル。
  • [重量]
  • 厘 りん  一厘=37.5ミリグラム。貫の10万分の1。1/100匁。
  • 匁 もんめ 一匁=3.75グラム。貫の1000分の1。
  • 銭 せん  古代から近世まで、貫の1000分の1。文(もん)。
  • 貫 かん  一貫=3.75キログラム。
  • [貨幣]
  • 厘 りん 円の1000分の1。銭の10分の1。
  • 銭 せん 円の100分の1。
  • 文 もん 一文=金貨1/4000両、銀貨0.015匁。元禄一三年(1700)のレート。1/1000貫(貫文)(Wikipedia)
  • 一文銭 いちもんせん 1個1文の価の穴明銭。明治時代、10枚を1銭とした。
  • [ヤード‐ポンド法]
  • インチ  inch 一フィートの12分の1。一インチ=2.54cm。
  • フィート feet 一フィート=12インチ=30.48cm。
  • マイル  mile 一マイル=約1.6km。
  • 平方フィート=929.03cm2
  • 平方インチ=6.4516cm2
  • 平方マイル=2.5900km2 =2.6km2
  • 平方メートル=約1,550.38平方インチ。
  • 平方メートル=約10.764平方フィート。
  • 容積トン=100立方フィート=2.832m3
  • 立方尺=0.02782m3=0.98立方フィート(歴史手帳)
  • [温度]
  • 華氏 かし 水の氷点を32度、沸点を212度とする。
  • カ氏温度F=(9/5)セ氏温度C+32
  • 0 = 32
  • 100 = 212
  • 0 = -17.78
  • 100 = 37.78


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『歴史手帳』(吉川弘文館)『理科年表』(丸善、2012)。


*底本

底本:『日本周圍民族の原始宗教』岡書院
   1924(大正13)年9月20日発行
   1924(大正13)年12月1日3版発行
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1214.html

NDC 分類:163(宗教/原始宗教.宗教民族学)
http://yozora.kazumi386.org/1/6/ndc163.html





日本周囲民族の原始宗教
神話・宗教の人種学的研究(五)

鳥居龍蔵

 人種考古学上より観たる鬱陵島うつりょうとう


出雲・隠岐と朝鮮との間、日本海中にただ一つの島がある。これはすなわち鬱陵島うつりょうとうであって、日本の神話のいわゆる宇佐島である。この宇佐島は人種学上、はた考古学上から見ればそもそもいかなる状態であるか、ここにまずその島について話してみたい。宇佐島は彼の済州島が全羅道と九州との中間に存在するごとく、じつに慶尚道けいしょうどう江原道こうげんどうと山陰との中間に存在して、斯学がく上もっともゆるがせにすべからざる大いなる神秘の郷である。

   一、総説


 鬱陵島うつりょうとうという島はごく小さな島であって、ある人から見れば、ほとんど価値のないような島である。けれどもこれを人種学や古代史などの上からるときは、たいへん大切な島なのである。いったい日本と朝鮮(あるいはシベリアの大陸)との連絡についてはいろいろの道筋があるが、一つは全羅ぜんら南道から済州島チェジュドをへて九州にくる線で、もう一つは壱岐いき・対馬をへて日本にいたる線である。けれど、後者はむしろわれわれから見れば人種学上もう島ということはできないので、ほとんど飛び石づたいの状態になっておって、航海はごく容易たやすい。もう一つは、これから述べようとする朝鮮から鬱陵島うつりょうとうにかけて出雲・山陰にくる線である。なおこの他に沿海州のほうから日本の沿岸に向かって、たとえばカラフトよりして北海道などの沿岸を伝わってくる線と、都合つごう四つばかりの道筋があるが、本章においてはそのうちの一つの鬱陵島について述べてみたいと思うのである。
 鬱陵島うつりょうとうは北緯三十七度五十分、東経百三十度五十四分にある。この島は鮮人は古くは于山うざん、なお後には鬱陵島とも武陵島ともいうているが、みな同じ音である。日本人はこれを松島と称し、西洋人は Dagelet island という。
 この島のいちばん近いところはどこかというと、朝鮮の江原道こうげんどうの竹辺というところであって、この間がほとんど八十マイル〔一二八キロメートル〕ばかりである。この島は朝鮮と山陰との間の海中にある唯一の島であって、このほかには島というほどの島はないのである。ただ、この島の少し東南のほうに竹島(Lian courtrocks)という島がある。これはほとんど岩からなりたっていて、アザラシなどが今でもこれに来ているくらいで、水面から出ているのはごくわずかばかりであるが、とにかく小さな島である。それからなお南東のほうに行くと隠岐の島になり、その先に出雲のいわゆる杵築郡、宍道湖しんじこだとか、あるいは美保みほせきなどがある。そうして見るとこの島は小さな島ではあるが、朝鮮の江原こうげん慶尚けいしょう両道から隠岐の島へくる飛び石のような状態になっているといってよいのである。いま述べたように、江原道の竹辺から鬱陵島うつりょうとうまでは八十マイルばかりであるが、鬱陵島から出雲の日御碕ひのみさきまでの距離はまずこの二倍ぐらいと見て間違いはなかろうと思う。さて、この島の周囲がどれほどあるかというと、およそ十四里十八丁、東西が五里、南北が四里ばかり、面積はちょうど九平方里ぐらいしかない〔里の表記は当時の朝鮮の尺貫法によるか。『コンサイス外国地名事典』第三版(三省堂、1998.4)によれば、周囲四一キロメートル、面積七二平方キロメートル〕
 ここの地質は主として安山岩(andesite)からなっていて、もと海中に噴出したところの一つの火山系の島である。そうであるから、この島は小さいが比較的高い山が三つ四つある。ことに羅里山のごときは標高三二三〇フィート〔およそ九六九メートル〕。船に乗って見ると、あたかもシナ人のいわゆる蓬莱山ほうらいさんを望むようなふうになっている。ちょうどその形は、水面の上に浮かび出た亀の背に乗った蓬莱山というような感がおこるのである。地形がすでにこういう屹立きつりつした火山系の型を呈しているから、海岸線に沿うた道路というものがきわめて少ない。わずかに海岸線の人のまっているところは、なかに大きな山があって、この山から小渓が流れている。これはたぶん、むかし噴出した溶岩流の流れた跡のへこみで、これがバレーになっているのだと思われる。であるから往来なども海岸につたってするのであるが、ここもまた岩が出ておって行き止まりのところがある。そのときにはやむを得ずこの高い山を越えて、しかして向こうのほうの村落に下りるというようなふうで、交通はごく不便である。余がここへ行ったのはちょうど迎日湾から船に乗ったのであって、風のおだやかなときであればよいが、風浪の荒いときなどにはとうていこれに上陸することができない。この島には停泊する港がないのである。けれどもこの島は、日本海における唯一の海中に屹立きつりつした島であって、じつに壮観である。
 この島は対馬のほうから流れてくる暖流が付近に流れる関係上、非常に暖かい。冬になると朝鮮の陸地と異なって、ちょうど山陰道あたりと同じように雪が積もり、往来するにはよほど困難で、交通が止まってしまうようになる。そうして濃霧などもかかるというような状態がおこってくる。この関係から、植物帯の上にもよほど変化をおよぼしている。しかし、ここは単に暖流だけが流れているのではなく、北から来るところの寒流がちょうど二十海里〔およそ三七キロメートル〕ばかりの沖にまわっている。船がこの海流に乗るとここへ漂流してくる。もしここへ来なければ、たいがい出雲の杵築郡付近に漂流船の着くことがもうあたりまえのことになっている。現に余が航海した当時、迎日湾から船出して江原道こうげんどうのほうへ行こうとした船が、一朝風浪のために流されて、出雲の八束郡やつかぐん御津浦みつうらの湾内のオシマサと称するところへ流れついたのである。こういう事実は多くあるのである。それで昔から、この北の方からこれへ流されてくることはあるが、日本の方からこれへ流されてきたという例はあまりないようである。
 この島にはどういう樹木があるかというと、まず、ケヤキ、それから白檀ビャクダン俗言ぞくげん五葉松ごようまつ・ツガ・紅葉もみじ・ツバキ・ヤマザクラというようなものである。ケヤキはなかなか多かったらしい。明治の初年に、京都の本願寺があの大きな建築をしたのは、ほとんどまったくここの木を切って持って行ったものである。そういう関係上、樹はだんだん切りつくされ、また、朝鮮の移住民が火田かでんといって火をはなって山畑やまはたにするなどのことからだんだんなくなって、今は昔ほどはないのである。朝鮮人の話によれば、今から十五、六年前までは帽笠をかぶっては樹の多いために往来することができなかったというぐらい、樹が鬱蒼うっそうとしておった島である。鬱陵という文字を島名にしたのもやはり、この形容と見て間違いがない。今日、樹がないといっても、朝鮮の本土から見ればずっと多い。しかして秋などになってカエデ属が紅葉しているところなどは、たいへんきれいである。それから竹などもここに非常に多い。竹の多いことは『高麗史』などにも書いてあるが、なかなか多く生えている。この島のそばに竹島という小島があるが、この島の上はほとんど竹ばかりである。ことに白檀の産出はよほどおもしろいのであって、これは、済州島チェジュドをもしたちばなかおる島というならば、この鬱陵島は白檀の薫る島というてもよいくらいである。まことに武陵ぶりょう桃原とうげん、蓬莱の島、龍宮というような賞賛しょうさんをあたえてもよろしい所である。
 つぎに、動物はどんなものがいるかというと、ここには哺乳動物はほとんどいないといってもよい。『高麗史』を通じて見ると、猫のような鼠がいると書いてあるが、これはいない。今、ヤマネコが一、二匹いるそうである。けれどもこれは、人家で飼っていたものが山に逃れてヤマネコとなっているというのである。これを除いたならば、キツネもいなければ、タヌキもいない。その他の哺乳動物はもちろん、ウサギもシカもいない。また、水陸両生動物とか爬虫類はちゅうるいとかいうもの、ヘビもカエルもこの島にはいない。それからこの島には渓流があるが、この流れに淡水魚もまたいない。鳥の種類になると、これはここにはだいぶ多い。メジロ・スズメ・タカ・ワシなどもいる。それから、キツツキの樹木にくいこんでクチバシの音をしているのを聞くのはよほど閑静でいいものである。ここにおもしろいことは、がんがこの島にはこない。雁はどのみちから日本にくるかということはよほどおもしろい研究であろうが、さて、どうしてこの島には雁が渡らないかというと、あるいは朝鮮と日本との間に足だまりがあまりにない関係であるかもしれない。一年に一、二回、二、三羽の雁の来ることがあっても、これは羽が弱ってしまって、手で捕らえることもできるくらいになっているのである。鳥も通わぬ佐渡が島などというが、これは雁も通わぬ鬱陵が島ということがいえるだろうと思う。この島の海には哺乳動物のクジラや、イカ・マグロ・タイ・タコなどからその他の魚もいる。ここにいる日本の移住民などは、多くイカ釣りをもって職業としていて、イカ釣りで楽に生活ができるくらいである。魚の種類はたいへん多い。ナマコや貝類もだいぶいる。ワカメなどというものは、ここの昔から名高いものになっている。この島の海の幸・山の幸というようなものはまず、だいたいこういう状態である。
 ここに住んでいる人間はどうであるかというと、鮮人と内地人で、政治上からいえば今、朝鮮人も日本人もないが、とにかく、こう二つに分けることができるのである。鮮人と内地人との総人口が一万四七九人である。そのうち鮮人は九一五九人で、内地人が一五一九人、鮮人のほうが多い。戸数は一八九二軒ある。そのうち鮮人が一四九八戸、内地人が三九三戸である。市街村落はおよそ十か所ばかりあるが、内地人の勢力が非常に盛んであって、鮮人の勢力というものはほとんどない。鮮人の住んでいるのは主として谷の上流、あるいは山の非常に高いところで、木を火田かでんに焼きつくして、そうして農をやっている。漁業などということは近ごろやりだしたのであって、住民の生業なりわいは主として農業である。内地人は農業をしているものは少ない。海岸に家を持っていて、イカ釣り業をやっている。鬱陵島のイカ釣りというものはなかなか盛んなものであって、わずかに二、三時間のあいだに十円、二十円の金をあげることは困難でないのである。もし内地でおもしろくない人は、ここでイカ釣りをすれば裕に生活ができるのである。鮮人はそういうふうでほとんど勢力がなく、内地人の勢力というものはなかなか盛んである。ここに来ている内地人はどこの者であるかというと、みな島根県の人ばかり、出雲・隠岐の人である。元島根県の人々がここへ来るのには、小さな舟に乗ってきたものである。いったい島根県の人は、これは朝鮮へ行くとわかるが、江原道・慶尚道・咸鏡道かんきょうどうの沿岸は、ほとんど島根県人の勢力範囲のおよんでいるところである。古史に見える出雲と朝鮮との往来というものは、単に昔ばかりでなく、今日においてもやはりおこなわれていることが認められるのであって、ほとんどこの鬱陵島は出雲の人ばかりである。そうであるからこの島は、内地人といっても島根県の風俗・習慣・言葉で、ことに言葉は出雲なまり、食物の味などでもみな出雲風で、ほとんど出雲の田舎へ行ったような、海岸の田舎へ行ったような感じがする。そうしてここの取り引きがまたよほどおもしろいのであって、この鬱陵島にしばらくおってみると、どうしても島根県に住んでいるような心地ここちがする。この島は、近ごろまでは江原道の蔚珍ウルチンというところの管轄に属しておったのであるが、いまは慶尚北道の管轄になっている。それから、ここにまっている鮮人はどこの者かというと、全羅道・慶尚道・江原道あたりの鮮人が主である。
 この島の島根県人の話によると、風のよいときには小さな舟で一昼夜かかれば出雲の境港さかいみなとまで(三保湾であるが)行ける。また、迎日湾へ行くのにもやはり一昼夜でよい。二十年ほど以前までは、小さな船にむしろの帆をかけて日本海を出雲から鬱陵島へ渡ってきたものであるが、今ではかえって沖船が往来するためにそれをやらないが、今ここにいるものは、汽船などに乗らなくても小船で行けるというので、主に帆前船ほまえせんなどで往来している。そのほか日本の漁船を利用しているが、近ごろ、船が不足なために非常にこまっている。そうして、ここに入っている物品は釜山プサン港を経過しそうなものであるが、みな境港で、取り引きもまたその境港でしている。こういう状態から考えても、この島は出雲との関係を見るによほどおもしろいところである。
 以上は、ただこの鬱陵島という所がどういうところであるかという概念を読者に得てもらいたいためにその背景を記したのであるが、つぎに余の専門にわたってすこしく記してみたいと思う。

   二、現住民の移住状態


 いったい鬱陵島に住んでいる鮮人というものは、いつごろからここに住んでいるのであるかということがまず問題である。けれども、この島に住んでいる朝鮮人という者は、今日の古老に聞いてみても四十五、六年このかたであって、いちばん早いのがそれくらいで、それも四十一、二年以上はあまりないのである。まったく今の鬱陵島の鮮人は、昔の鬱陵島の人とは人が入れ替わっていることを知っていなければならない。最初、余はこれについて人体測定をするつもりであったけれども、彼らは近ごろ全羅道・慶尚道・江原道からここに移住していることがわかったから、これらの各道で測定した事実と同じことになるので、余はその仕事をやめた。口碑こうひに伝わっているところでは、今から四十二年以前にはじめて李朝の韓国政府がここに役人を派遣した。これは、この島が近ごろどういう状態になっているかというのを見に来さしたのである。これがまず一番初めである。この四十一年前はどうであるかというと、江原道の平海へいかいの府使と、それから江原道にやはり三渉の万戸ばんこの役所の役人が、三年交代で三年に一度ずつここへ巡視にきた。そのときはまず無人島ということになっているのである。そうしてこの島は、李朝の政策として何人なんぴとも住むことを固く禁じておったのである。というのは、陸地からしばしば賊などが逃れて、これにって各道の沿岸をおびやかす根拠地にするためで、いっさいここには人を置かないという、李朝は政策をったのである。それで江原道の平海の府使、三渉の万戸が始終ここへ行って、人がいるかおらぬかということを調べたことになっている。しかるに今からちょうど四十二年前に、李圭遠という人をここへ派遣した。そのときに派遣された李圭遠の報告には、この島は非常にんでいてよい島である、これは殖民しなければならぬというので、鬱陵開拓使というものがこれにできたのである。そうしてここで開拓の仕事を始めた。あるいは人民を移殖させようということを始めたのである。ところが今より四十二年前、この開拓使ができた当時に無人島であったかというとそうではなかったので、すでにここには人家の数が十戸ばかり存在しておった。そうしてこれは道洞どうどうであるとか――道洞というと今日の島庁のあるところで、この島の役所のある中心地である。それから沙洞・黄洞浦・光岩・昌洞・天府洞・堅達里などに十戸ばかりの家があった。この十戸ばかりの家があっても、住民というのは男ばかりであるのと、女と男と住まっているのとではよほど価値が違うが、すでにここには男女が住まっておった。日本の家もこの時分すでに今日、島庁のある道洞というところに一戸あって、一人の内地人がおった。この人は今、釜山プサンに行ったそうであるが、これが島のいちばん古い内地人ということになっている。今から三十二年前に黄洞浦に役所ができた。この時分には島守しまもりという名前をもってよばれた簡単な役所ができたのである。そうしてそのときには、戸数はほとんど四〇〇戸ばかりになった。つぎに二十二年前には、鬱陵郡という郡がここにできた。その時分には鮮人の家が六〇〇戸、内地人の家が四〇戸ばかり――内地人も来ることになった。このときは、この島は一体に森林をもっておおわれていて、頭に帽笠をかぶって道を歩くことができないというほど樹木が多かったのである。しかるに、伐木および火田のためにこれが今日の状態になってしまったのである。本願寺の木などもまったくこの鬱陵島のケヤキを持って行ったために、アレだけの大きな堂ができたのである。とにかくこういうような状態であるから、今日この島にいる人間という者は歴史がわかっている。しからば、今から四十二年ほど前にどうしてこの島へくるようになったかというと、最初、全羅道の人がワカメりにはじめてこの島へひそかに来たのである。夏にかけてワカメを採って、秋になると帰ったのである。これがだんだん土着性になってきたので、古い家は全羅道の人が多い。朝鮮でも全羅南通の南――済州島とのあいだの多島海は非常に島が多いので、したがって船夫が非常に多く、彼の島民は船の生活をしている。それで、ここの人が初めてきたのである。それで朝鮮船を鬱陵島では羅船といっている。つまり全羅道の船というのであって、ほかの船もそういう名前で呼ぶことになった。何にしても、この島に渡ったものはワカメ採りがいちばん最初であったのである。
 前にも述べたように、この島は海岸線に平地はほとんどなく、親不知おやしらず、子不知などというきわめて危険な所もあって、自由に海岸をまわることができないので、山越やまごえ、それもなかなか高い山を越えて行かなければならない。ずいぶんあゆむには困難な島である。

   三、文献史上に現われたる鬱陵島


 しからばそもそも鬱陵島という島は、もとから無人島であったかというとそうではない。この島は今では鬱陵島ウーリャンというが、むかしは于山島ウサンスム(Usan-Sum)といった。島は鮮語では Sum、日語の Shima と同音である。新羅の『三国史記』にはあきらかに于山島と書いてある。鬱陵島の発音もいささかこれに似ている。彼の日本の宇佐島ウサシマとこれは後に述べるが、非常に関係がある。なお、神話において非常におもしろいところである。とにかく昔は、ここは于山島ウサンスムという名前をもってよばれたのである。そうしてこの島は、朝鮮の新羅にも属しておらなかった一個の独立国とみなされておった。その住民は非常に慓悍ひょうかんであって、しばしば江原道・慶尚道の海岸をおかしていた。ここにおもしろい比較は済州島である。この島は今ではごくつまらない島であるが、奈良の朝までは耽羅国たんらこくといって立派な王国であって、飛鳥朝のころには日本の使者がこれに行っている。また向こうからも八、九度ばかりの使者が往来して日本と交通している。のちに百済が盛んになってこれを征服してしまったが、こういうようにこれも一つの王国であったのである。それから鬱陵島もやはり于山国うざんこくという一つの王国――王国とまではいかないが、とにかく相当の文化を持っておった一つの国であった。こういうことはどうしても頭に入れておかなければなるまいと思う。しかるにこの島も、新羅の智証王智証ちしょう麻立干まりつかんか〕の十二年(五一一)になって征服されてしまったのである。この征服した大将は有名な異斯夫という人で、これは任那みまななどをも陥入おとしいれた人である。『三国史記』を通じて見ると、これを征服したのはじつに馬鹿ばかげたやり方である。船に木造の獅子を載せて行き、海岸に近づいて言うには、なんじら、もしわが新羅に服従しないばあいには、この獅子を放ってみなみ殺さしてしまう」といったので、彼らは恐れてついに降ったということになっている。この新羅の智証王というのはいつごろかというと、西暦の紀元五〇九年、日本の継体天皇の三年で、筑紫つくしの磐井いわいが滅亡したちょうど十七、八年前になるのである。であるから于山島ウサンスムが新羅に統一されてしまったのは、今からちょうど一四一五年前にあたるのである。それからなお降って高麗の太祖十三年(九〇八)、ちょうど九三〇年以前、日本の延喜八年になるが、このころ、その島人の白吉土豆(Pek-kil-tu-tu)という人がきて貢物みつぎものを献じた。この人名は日本の古語によく似たるものがある。これは、鬱陵島と日鮮と連綴れんていするにすこぶる大切な資料である。この Pek-kil は幣具理(He-gu-ri)に似、その下の豆豆ツツ手名椎テナツチなどの Tsu-chi とも解せらる。たとえば He-gu-ri-tsu-chi ともなる。とにかく、この人名はよほどおもしろい。それから毅宗きそうの十三年(一一五九)、ちょうど日本の後白河天皇の平治元年、高麗の毅宗が、この島は土地が広くかつえておって民を移すにたいへんよいということを聞いて、溟洲道監倉かんそう、金柔立をここへやって視させた。このときに金柔立が復命していうには、島中に大きな山がある、山の頂きから東海岸まで一万余歩、西海岸まで一萬三千余歩、南海岸まで一万五千余歩である。村落の基跡が七か所ばかりあって、あるところには石仏、あるところには鉄鐘、石の塔などがあるということを言っている。それから後になお、高麗時代のさい忠献ちゅうけんという人が高麗王に建議している文を見ると、こういうことを書いている。武陵は土壌膏沃こうよくで、珍木ちんぼく海錯かいさくが多い……とある。そこで使いをつかわしてこれを見させたところが、その使者の報告によると、この島には屋基があるが、そのいしずえが破れておって、さながらいつごろの人が住まっておったかわからない……といっている。そこで東郡の民をこの島に移した。これによって見ると、この時分にはすでに人がおらなかったことがわかる。それから李朝になってはどうかというと、李朝の太宗たいそう当時に、流民がこの島に入り込んでこまるので、三渉の麟雨という人を按撫使あんぶしとしてつかわし、これらの流民をことごとくい出してしまったという記事が見える。それから世宗せいそうの二十年、ちょうど一四三八年、後花園天皇の永享えいきょう十年に県人万戸南という人は、命を受けて数百人をひきいてこの島に渡り、そこに渡っている浦民をさがし出して、その頭の浮金丸ほか七十余人を殺してかえった。これがために、ついに島には人影ひとかげがむなしくなったという意味のことが書いてある。睿宗えいそうのとき、すなわち一九一五年、今よりちょうど四五五年前に人を派遣した。このときに一つの地図ができた。これは非常に珍しい地図で、おそらくは歴史地理のほうでは一番古いものであろう。一体、睿宗のときには朝鮮に立派な地図を作ったのである。その後、地図を作ることを禁じたためにその他にはできていないが、この地図は一つの歴史を物語っているものである。この地図によって見ると、やはり人はいない。基址きしというのが各所の谷のところに見える。それから竹田・竹林、あるいは楮田洞―こうぞの野生などがあることがわかる。すなわち紙をつくる原料である。なおおもしろいのは、石葬というものを各所に書いている。これは睿宗のときに行った使者も珍しかったとみえて、地図の上に石葬の名が各所に載せてある。すなわち積石塚つみいしづかcairnケルンのことをいっているのである。とにかく、四五〇年以前の文献においてはそういうものが認められる。彼の地図において今日の土地と比較して見ると、たいがい心当たりがつく。こうしてその後、長い間この島は無人島であったが、今から四十五、六年ほど前からボツボツ、ワカメ採りがひそかに行きはじめ、住民ができたのである。

   四、考古学上に現われたる鬱陵島


 これまで述べたところは歴史の上、あるいは文献の上に現われたものの概略であるが、この島には、考古学上どういう遺跡が存在しているであろうか。このことについて簡単に記してみたいと思う。詳細はべつに論文として発表する考えである。

    于山ウサン国時代の遺跡
     古墳(ケルン)


 この島は調べてみるとなかなか遺跡が多い。これは高麗の時代にあらわされている文献、あるいは李朝時代に著されている文献に見えるように、人の住んでおった跡があちらにもこちらにもある。そして古墳などもある。まずここに注意すべきものは、于山国時代の遺跡のあるかないかという問題である。余はこれを于山国時代というが、この時代の古墳がなかなか多いのである。これはまったく李朝の人の言った石葬(ケルン)で、すべて外部は石を積んでいる。これは非常に珍しいのである。これを掘ってみると中部にチャンバーがあって、中に石槨せっかくができている。そうしてその上に天井石が数枚乗せてある。要するにこれらの古墳は、外部はケルンすなわち積石塚式で、内部は天井石を持った石槨である。これらの古墳はグループをなしておって、あるいはただ一個、あるいは二つ三つばかりも並んでいるところがある。なお、それ以上れをなしているものもある。位置は高い山にもあれば、丘の上にもある。丘のある所はたいがい渓流のあるところであるが、これは海岸に平地がないためである。

    古墳よりの発掘物


 つぎに、余が古墳を発掘した例を記そう。ここに三つばかり古墳がある。最初は外部に石が積んであったが、だんだんこれを取り去って見ると、中に石槨せっかくが現われてきた。なお掘ってみると、入口が開いて、中にいま言ったような石の室(石槨)ができていて、天井石が石橋のように数枚置かれてあった。すなわち、この古墳は一概にいうと、外はケルン―積石塚つみいしづかで、中は石室せきしつである。されば予は鬱陵島の古墳を、「外部石塚・内部石槨式古墳」と言いたいのである。これは非常にめずらしい古墳であって、かくのごとき形式の古墳は、隠岐の島・出雲や山陰地方その他に存在するものとどういう関係があるかということは、将来よほど研究すべき問題である。それからこれを発掘すると、中から日本の古墳や朝鮮の古墳から出るのと同じ祝部いわいべ土器どき須恵器すえきスエ高坏たかつき、その他の土器が出てきた。これらはまったく日本のものとも朝鮮のものとも変わらない。そうであるから古墳の分布――それよりの発掘物からいうと、記録に残っている于山国時代の事柄は、朝鮮と日本とをつなげる立派な事実である。もし、これらの土器を一つ所に出したならば、専門家といえども日本のものであるか、朝鮮のものであるかわからないであろう。ことに慶尚南北道のもの―洛東江らくとうこうの流域あたりのものと非常によく似ているのである。なお、そこから鉄の刀の類であるとか、あるいは鈴などの種類も発掘されている。
 また、北海道に問題になっているストーンサークルのような遺跡もこの島にある。これはあきらかに墳墓ふんぼであって、やはり注意すべきものの一つであろうと思われる。
 以上の古墳は、ほとんど谷間谷間の所にない所はないというてよいくらいであって、非常に貴重なる材料である。この事実から考えてみると、于山国時代は現今の鮮人に比較して、相当に文化が進んでおったものに違いない。

    当時の文化をしのぶべきくわこうぞの野生


 なおここに注意すべきことは、くわの木の野生があって、人家の前に群れをなして生えている。それから、前に述べたこうぞの野生もある。からむしの野生もある。これらは、もと于山国時代に使用しておったものが、今日の野生の状態になっているものであろうと思われる。ここに非常におもしろい地名がある。すなわち「苧浦」というところである。この地名は朝鮮言葉で(MaShi-ke)という。このマは「麻」からむし」のことで、シは「種」のことである。これも当時を考えさせられる。
 以上三項にわたって述べたごとく、本島における古墳の存在、それよりの発掘物、聚洛しゅうらくの跡、当時、栽培植物の野生状態にての残存、さては地名にその植物名のあるなど、すなわち于山国時代の生活――文化をしのぶべきじつによい材料である。この島は小さくはあるが、当時における朝鮮陸地や日本内地と同一程度の文化を有し、刀剣・鈴……あり、祝部いわいべ土器あり、麻布あさふあり、こうぞあり、また、日鮮原史時代と同一なる高塚たかつかの存在するなど、前述せるごとくである。ことになつかしく思うのは、苧浦の名称のあることである。

    新羅時代の遺跡


 つぎに注意すべきものは、新羅が統一してからどうであったかということである。いうまでもなく智証王のつぎ、法興王ほうこうおう〔在位五一四〜五四〇〕のときにははじめて仏教が新羅に入ったものであって、新羅の黄金時代である。そうしてこの王から以後になると、新羅の文化はほとんど仏教と関係してくる。この時代のしのばれるものがここにある。それは余がここでひろった土器の破片である。一見、何の値打ちもないもののようであるが、よく見ればこれに、瓔珞ようらくであるとか西域風の唐草からくさ模様がついておって、仏教の影響をこうむっているものである。これは前に述べたような古墳からは決して出ない。これは于山国に関係なく、新羅統一時代の仏教が入ったときの品物としては、こういうものが残っているのである。これは新羅統一時代のものと見てさしつかえはないが、この破片を新羅の王都たる慶州けいしゅうにいる新羅学者の諸鹿君といっしょに調べてみたが、これとすこしも違わぬものが同地の南山から出る。だからこれは、新羅の慶州製作の物が鬱陵島に行ったものと、こういうことが考えられる。

    石器時代の遺跡


 しからば、于山国うざんこく時代以前のこの島はどうであったかという問題がおこってくる。すなわち、それ以前に人間がおったかどうか。余は于山国時代以前、すなわち有史以前の遺跡を調査したが、さいわいにこれが発見された。ここには石器時代の遺跡がある。ここから出た土器の破片などは、ちょっと見るとつまらぬものであるが、われわれにとっては非常に大切なもので、その当時のことを語る唯一の証拠である。余の掘り出した物の中に赤色の土器の把手とってがあるが、これは土器の口のところである。これらの遺物はわれわれのほうでいうところの包含地で、今日、地下一尺八寸〔五四センチメートル〕とか二尺二、三寸〔六六〜六九センチメートル〕までの間に土でおおわれて保存せられているのである。こういう遺跡があちらこちらに残っている。これらを見ると、すでに于山国の前の頃からここに人がおったことが考えられるのである。そうすると、鬱陵島に人が住まったことは、石器時代のころからと見なければならぬのである。しからば、これら遺物はどこのものに似ているかというと、これは朝鮮の慶尚南北道・江原道以北のものとよく似ている。ことに、この把手とってなどは咸鏡道かんきょうどう豆満江とまんこうの流域の方面のものにもよほどよく似ている。これらから考えると、鬱陵島に有史以前に住んでいた民族は、すでに朝鮮の南北の方面と交通往来があったものと見なければならぬのである。しからば日本とはどうかというと、日本にもやはりこれが出る。これまでわが祖先の日本島に入ってきたのは、金属器を使うようになってからのことであるといっていたが、今日の研究の結果によるとそうではない。すでに有史以前、石器を使うころから日本人があちらにもこちらにも、ポツリポツリ入ってきているのである。この時分のものと鬱陵島のものとはよほど似ている。この点から考えると、鬱陵島と日本との研究は単に鏡や玉や剣などをもちいた時代のものでなくて、もう少し前の頃から関係があるものと見て間違いがないのである。これはもっとも注意を要することである。

   五、于山ウサン」について


日本文献に現われたる宇佐島は鬱陵島うつりょうとうなり。

 最後に、于山という言葉について一言ひとこと述べてみよう。いったい、于山(Usan)というのは日本にどういう関係があるかというと、『日本紀』の中に素盞嗚尊と天照大御神とがウケびをされた条がある。そこに両神が、玉や剣を咀嚼んでいろいろな御子をお生みになったが、天照大神のお生みになった御子たちはみな女の御子、素盞嗚尊のほうは男の御子であるということが書いてある。そこを、

「其素盞嗚尊所生之児。皆己ひこかみ矣。故日神方知素盞嗚尊元有赤心便取其其六男むはしらのひこがみ以為おもえらく日神之子。使。即以神所生三女神者。使居于葦原国之宇佐島うさしま矣。今在うみ北道なか号曰道主貴みちぬしのむち。此築紫水沼みぬま君等祭神是也」

というふうに書いてあるが、その中の「今在海北道中云々うんぬんこれが問題であって、『日本紀』のこの段を、昔からわが国学者は非常に難しくいているのである。というのは、葦原あしはら中国なかつくに宇佐島うさじまくだたまう。今、海の北の道中にあり、道主貴みちぬしむちと号す。水沼みぬま君のいつきまつるところの神である、といっている。今、海の北の道の中とはどういうところかというと、書紀しょき集解しっかい』などにはこれは筑前のある土地のことで、つまり川を海の中といったのであろうと解している。余はこの海の北の道中を日本海と解したい。また、宇佐島は鬱陵島か隠岐の島か――隠岐の島はすでに神代の神の生みませる条にあるが、鬱陵島の于山ウサンはまさしく宇佐と同音である。于山島ウサンスムの音も宇佐島ウサシマの音も同じく、かつ島の音も朝鮮語では Sum である。そうして見れば于山島は Usan-Sum である。ゆえに余はこの島と考えたいのである。この島をほかにしては他に島はないのである。これは単に神話学上の解釈のみに止まらぬのであって、考古学上においてもやはり日本と同じ事実が認められている。であるから、これはやはり鬱陵島のほうに解釈したいのである。このことについては多くの考えもあるが他日にゆずることとする。
 もとより山陰と朝鮮との間、日本海中の一孤島に、于山国時代(原史時代)の文化の遺跡が今に残っているのはきわめておもしろいのであるが、彼らの古墳の形式が、内地のあるものと同じであるということなどは、いよいよこの島がわが神話に出てくる北の海の中にある宇佐島と解してさしつかえないものに思わせるのである。しかも今日なお、盛んに出雲人がここに小船で往来しているのを見ると、当時の状態がしのばれるような気がする。
 なお言い残したが、有史以前の石器時代から、原史時代の高塚築造時代に至るその進歩・発達のぐあいが、どうも同一の民族のように思われる。これで見ると鬱陵島の民衆は、最初から同じ民衆できている。この事実は日鮮の研究上、大切なことと思うからここに付言しておく。(つづく)



底本:『日本周囲民族の原始宗教』岡書院
   1924(大正13)年9月20日発行
   1924(大正13)年12月1日3版発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




日本周圍民族の原始宗教(五)

神話宗教の人種學的研究
鳥居龍藏

 人種考古學上より觀たる欝陵島

[#ここからリード文]
出雲隱岐と朝鮮との間、日本海中に唯だ一つの島がある。這は即ち鬱陵島であつて、日本の神話の所謂宇佐島[#「宇佐島」に傍点]である。此の宇佐島は人種學上、將た考古學上から見れば抑々如何なる状態であるか、茲に先づ其の島に就て話して見たい。宇佐島は彼の濟州島が全羅道と九州との中間に存在する如く、實に慶尚道、江原道と山陰との中間に存在して、斯學上最も忽にすべからざる大なる神秘の郷である。
[#リード文ここまで]

   一 總説

 鬱陵島と云ふ島は極く小さな島であつて、或人から見れば、殆ど價値の無いやうな島である。けれども之れを人種學や、古代史などの上から觀る時は大變大切な島なのである。一體日本と朝鮮(或は西比利亞の大陸)との連絡に就いては色々の道筋があるが、一つは全羅南道から濟州島を經て九州に來る線で、もう一つは壹岐對馬を經て日本に至る線である。けれど後者は寧ろ我々から見れば人種學上もう島と云ふことは出來ないので、殆ど飛石傳ひの状態になつて居つて、航海は極く容易い。もう一つはこれから述べやうとする朝鮮から鬱陵島に掛けて出雲山陰に來る線である。尚此の他に沿海州の方から日本の沿岸に向つて、例へば樺太よりして北海道などの沿岸を傳つて來る線と、都合四つばかりの道筋があるが、本章に於いては其内の一つの鬱陵島について述べて見たいと思ふのである。
 鬱陵島は北韓[#「北韓」は底本のまま]三十七度五十分、東經百三十度五十四分に在る。此の島は鮮人は古くは于山、尚後には鬱陵島とも武陵島とも云うて居るが皆同じ音である。日本人は之れを松島と稱し、西洋人は Dagelet island と云ふ。
 此の島の一番近い所は何處かと云ふと朝鮮の江原道の竹邊と云ふ所であつて、此の間が殆ど八十哩ばかりである。此の島は朝鮮と山陰との間の海中にある唯一の島であつて、此の外には島と云ふ程の島はないのである。唯此の島の少し東南の方に竹島(Lian courtrocks)と云ふ島がある。是は殆ど岩から成立つて居て海豹などが今でも之に來て居る位で、水面から出て居るのは極く僅かばかりであるが兎に角小さな島である。それから尚ほ南東の方に行くと隱岐の島になり、そのさきに出雲の所謂杵築郡、宍道湖だとか或は美保の關などがある。さうして見ると此の島は小さな島ではあるが、朝鮮の江原慶尚兩道から隱岐の島へ來る飛石の樣な状態になつて居ると云つて宜いのである。今述べた樣に江原道の竹邊から鬱陵島までは八十哩許りであるが、鬱陵島から出雲の日御崎までの距離は先づ此の二倍位と見て間違はなからうと思ふ。さて此の島の周圍がどれ程あるかと云ふと凡十四里十八丁、東西が五里、南北が四里ばかり、面積は丁度九平方里位しかない。
 此處の地質は主として安山岩(Andesite)から成つて居て、もと海中に噴出した處の一つの火山系の島である。さうであるから此の島は小さいが比較的高い山が三つ四つある。殊に羅里山の如きは標高三千二百三十呎。船に乘つて見ると恰も支那人の所謂蓬莱山を望むやうな風になつて居る。丁度其形は水面の上に浮び出た龜の背に乘つた蓬莱山と云ふやうな感が起るのである。地形が既に斯ういふ屹立した火山系の型を呈して居るから、海岸線に沿うた道路と云ふものが極めて少い。僅に海岸線の人の住つて居る所は、眞中に大きな山があつて、此の山から小溪が流れて居る。是は多分昔噴出した熔岩流の流れた跡の凹みで、之がバレーになつて居るのだと思はれる。であるから往來なども海岸に傳つてするのであるが、こゝも亦岩が出て居つて往き止りの所がある。其時には已むを得ず此の高い山を越えて、而して向ふの方の村落に下ると云ふ樣な風で、交通は極不便である。余が此處へ行つたのは丁度迎日灣から船に乘つたのであつて、風の穩かな時であれば宜いが、風浪の荒い時などには到底之に上陸することが出來ない。この島には碇泊する港がないのである。けれども此の島は日本海に於ける唯一の海中に屹立した島であつて、實に壯觀である。
 此の島は對馬の方から流れて來る暖流が附近に流れる關係上非常に暖い。冬になると朝鮮の陸地と異つて丁度山陰道邊りと同じやうに雪が積り、往來するには餘程困難で交通が止つてしまふ樣になる。さうして濃霧などもかかると云ふやうな状態が起つて來る。この關係から、植物帶の上にも餘程變化を及してゐる。然し此處は單に暖流だけが流れて居るのではなく、北から來る所の寒流が丁度二十海里ばかりの沖に廻つて居る。船が此の海流に乘ると此所へ漂流して來る。若しこゝへ來なければ、大概出電[#「出電」は底本のまま]の杵築郡附近に漂流船の着く事がもう當り前の事になつて居る。現に余が航海した當時、迎日灣から船出して江原道の方へ行かうとした船が、一朝風浪の爲にながされて、出雲の八束郡御津浦の灣内のオシマサと稱する所へ流れ着いたのである。斯う云ふ事實は多くあるのである。それで昔から此の北の方から是れへ流されて來る事はあるが、日本の方から之へ流されて來たと云ふ例は餘りない樣である。
 此の島にはどう云ふ樹木があるかと云ふと、先づ、欅、それから白檀(俗言)、五葉松、栂、紅葉、椿、山櫻と云ふやうな物である。欅は中々多かつたらしい。明治の初年に、京都の本願寺があの大きな建築をしたのは殆ど全く此處の木を伐つて持つて行つたものである。さう云ふ關係上樹は段々伐り盡され、又朝鮮の移住民が火田と云つて火を放つて山畑にするなどの事から段々なくなつて、今は昔程はないのである。朝鮮人の話によれば、今から十五六年前迄は帽笠を被つては樹の多い爲に往來する事が出來なかつたと云ふ位、樹が鬱蒼として居つた島である。欝陵と云ふ文字を島名にしたのもやはり此の形容と見て間違がない。今日樹がないと云つても朝鮮の本土から見ればずつと多い。而して秋などになつて楓屬が紅葉して居る所などは大變綺麗である。それから竹なども此處に非常に多い。竹の多い事は『高麗史』などにも書いてあるが、中々多く生えて居る。此 [#「此 」は底本のまま]島の傍に竹島と云ふ小島があるが、この島の上は殆ど竹ばかりである。殊に白檀の産出は餘程面白いのであつて、是は濟州島を若し橘の薫る島と云ふならば、此の欝陵島は白檀の薫る島と云うても好い位である。眞に武陵桃原、蓬莱の島、龍宮と云ふやうな賞讃を與へても宜しい所である。
 次に動物はどんなものが居るかと云ふと、此處には哺乳動物は殆ど居ないと云つてもよい。『高麗史』を通じて見ると、猫のやうな鼠が居ると書いてあるが、これは居ない。今山猫が一二疋居るさうである。けれども是は人家で飼つて居たものが山に逃れて山猫となつて居ると云ふのである。之を除いたならば、狐も居なければ、狸も居ない。其外の哺乳動物は勿論兎も鹿も居ない。又水陸兩棲動物とか爬蟲類とか云ふもの、蛇も蛙も此の島には居ない。それから此の島には溪流があるがこの流れに淡水魚も亦居ない。鳥の種類になると之は此處には大分多い。目白、雀、鷹、鷲なども居る。それから啄木鳥の樹木に喰込んで嘴の音をして居るのを聞くのは餘程閑靜で宜いものである。こゝに面白い事は雁が此の島には來ない。雁はどの途から日本に來るかと云ふ事は餘程面白い研究であらうが、さてどうしてこの島には雁が渡らないかと云ふと、或は朝鮮と日本との間に足溜りが餘りにない關係であるかもしれない。一年に一二囘二三羽の雁の來ることがあつても、是は羽が弱つてしまつて手で捕へることも出來る位になつて居るのである。鳥も通はぬ佐渡が島などと云ふが是は雁も通はぬ欝陵が島と言ふことが言へるだらうと思ふ。此の島の海には哺乳動物の鯨や、烏賊、鮪、鯛、章魚等から其の外の魚も居る。此處に居る日本の移住民などは、多く烏賊釣を以て職業として居て、烏賊釣で樂に生活が出來る位である。魚の種類は大變多い、[#読点は底本のまま]海鼠や貝類も大分居る。若布などゝ云ふものは此處の昔から名高いものになつて居る。この島の海の幸、山の幸と云ふやうなものは先づ大體斯う云ふ状態である。
 此處に住んで居る人間はどうであるかと云ふと、鮮人と内地人で、政治上から云へば今朝鮮人も日本人もないが、兎に角斯う二つに分ける事が出來るのである。鮮人と内地人との總人口が一萬四百七十九人である。其中鮮人は九千百五十九人で、内地人が千五百十九人、鮮人の方が多い。戸數は千八百九十二軒ある。其中鮮人が千四百九十八戸、内地人が三百九十三戸である。市街村落は凡そ十ケ所許りあるが、内地人の勢力が非常に盛んであつて、鮮人の勢力と云ふものは殆ど無い。鮮人の住んで居るのは主として谷の上流、或は山の非常に高い所で、木を火田に燒盡して、さうして農をやつて居る。漁業などゝ云ふ事は近頃やり出したのであつて、住民の生業は主として農業である。内地人は農業をして居るものは少ない。海岸に家を有つて居て、烏賊釣業をやつて居る。欝陵島の烏賊釣と云ふものは中々盛んなものであつて、僅に二三時間の間に十圓二十圓の金を擧げることは困難でないのである。若し内地で面白くない人は此處で烏賊釣をすれば裕に生活が出來るのである。鮮人はさう云ふ風で殆ど勢力が無く、内地人の勢力と云ふものは中々盛んである。此處に來て居る内地人は何處の者であるかと云ふと、皆島根縣の人ばかり、出雲隱岐の人である。元島根縣の人々が此處へ來るのには小さな舟に乘つて來たものである。一體島根縣の人は是は朝鮮へ行くと分るが、江原道、慶尚道、咸鏡道の沿岸は殆ど島根縣人の勢力範圍の及んで居る所である。古史に見える出雲と朝鮮との往來と云ふものは、單に昔ばかりでなく、今日に於ても矢張り行はれて居る事が認められるのであつて、殆ど此欝陵島は出雲の人許りである。さうであるから此島は内地人と云つても島根縣の風俗習慣言葉で、殊に言葉は出雲訛り、食物の味などでも皆出雲風で、殆ど出雲の田舍へ行つた樣な、海岸の田舍へ行つたやうな感じがする。さうして此處の取引が又餘程面白いのであつて、此欝陵島に暫く居つて見ると、どうしても島根縣に住んで居る樣な心地がする。此島は近頃迄は江原道の蔚珍と云ふ所の管轄に屬して居つたのであるが、今は慶尚北道の管轄になつて居る。それから此處に住つて居る鮮人は何處の者かと云ふと、全羅道、慶尚道、江原道邊の鮮人が主である。
 此の島の島根縣人の話によると風の好い時には小さな舟で一晝夜掛れば出雲の境港まで(三保灣であるが)行ける。又迎日灣へ行くのにも矢張一晝夜でよい。二十年程以前迄は、小さな船に筵の帆を掛けて日本海を出雲から欝陵島へ渡つて來たものであるが、今では却つて沖船が往來する爲にそれをやらないが、今此處に居るものは汽船などに乘らなくても小船で行けると云ふので、主に帆前船などで往來して居る。其外日本の漁船を利用して居るが、近頃船が不足な爲めに非常に困つて居る。さうして此處に入つて居る物品は釜山港を經過しさうなものであるが、皆境港で、取引も亦その境港でして居る。斯う云ふ状態から考へても、此の島は出雲との關係を見るに餘程面白い所である。
 以上は唯此の欝陵島と云ふ所がどう云ふ所であるかと云ふ概念を讀者に得て貰ひたい爲めに其の背景を記したのであるが、次に余の專門に亘つて少しく記して見たいと思ふ。

   二 現住民の移住状態

 一體欝陵島に住んで居る鮮人と云ふものは、何時頃からこゝに住んで居るのであるかと云ふことが先づ問題である。けれども此島に住んで居る朝鮮人と云ふ者は、今日の古老に聞いて見ても四十五六年此方であつて、一番早いのが其れ位で、それも四十一二年以上はあまりないのである。全く今の欝陵島の鮮人は昔の欝陵島の人とは人が入代つて居ることを知つて居なければならない。最初余はこれに就いて人體測定をする積りであつたけれども、彼等は近頃全羅道、慶尚道、江原道から此處に移住して居る事が分つたから、是等の各道で測定した事實と同じ事になるので、余は其仕事をやめた。口碑に傳はつて居る所では、今から四十二年以前に初めて李朝の韓國政府が此處に役人を派遣した。之れは此の島が近頃どう云ふ状態になつて居るかと云ふのを見に來さしたのである。是が先づ一番初めである。此四十一年前はどうであるかと云ふと、江原道の平海の府使と、それから江原道に矢張三渉の萬戸の役所の役人が、三年交代で三年に一度宛此處へ巡視に來た。其時は先づ無人島と云ふ事になつて居るのである。さうして此島は李朝の政策として何人も住むことを堅く禁じて居つたのである。と云ふのは陸地から屡※[#二の字点]賊などが逃れて、之れに據つて各道の沿岸を脅す根據地にする爲めで、一切此處には人を置かないと云ふ、李朝は政策を採つたのである。それで江原道の平海の府使、三渉の萬戸が始終此所へ行つて、人が居るか居らぬかと云ふことを調べたことになつて居る。然るに今から丁度四十二年前に李圭遠と云ふ人を此處へ派遣した。其時に派遣された李圭遠の報告には、此の島は非常に富むで居て好い島である。是は殖民しなければならぬと云ふので、欝陵開拓使といふものが之に出來たのである。さうして此處で開拓の仕事を始めた。或は人民を移殖させようと云ふことを始めたのである。所が今より四十二年前、此の開拓使が出來た當時に無人島であつたかと云ふとさうではなかつたので、既に此處には人家の數が十戸ばかり存在して居つた。さうして是は道洞であるとか――道洞と云ふと今日の島廳のある處で此の島の役所の在る中心地である。それから沙洞、黄洞浦、光岩、昌洞、天府洞、堅達里等に十戸ばかりの家があつた。此の十戸ばかりの家があつても、住民と云ふのは男ばかりであるのと、女と男と住つて居るのとでは餘程價値が違ふが、既に此處には男女が住つて居つた。日本の家も此時分既に今日島廳の在る道洞と云ふ所に一戸あつて、一人の内地人が居つた。此の人は今釜山に行つたさうであるが、是が島の一番古い内地人と云ふことになつて居る。今から三十二年前に黄洞浦に役所が出來た。此時分には島守と云ふ名前を以て呼ばれた簡單な役所が出來たのである。さうして其時には戸數は殆んど四百戸ばかりになつた。次に二十二年前には欝陵郡と云ふ郡が此處に出來た。其時分には鮮人の家が六百戸、内地人の家が四十戸ばかり――内地人も來ることになつた。此の時は此の島は一體に森林を以て被はれて居て、頭に帽笠を被つて道を歩く事が出來ないと云ふ程樹木が多かつたのである。然るに伐木及び火田の爲に是れが今日の状態になつてしまつたのである。本願寺の木なども全く此欝陵島の欅を持つて行つた爲めにアレだけの大きな堂が出來たのである。兎に角斯う云ふやうな状態であるから今日此の島に居る人間と云ふ者は歴史が分つて居る。然らば今から四十二年程前にどうして此の島へ來る樣になつたかと云ふと、最初全羅道の人が、若布採りに初めて此の島へ密かに來たのである。夏に掛けて若布を採つて、秋になると歸つたのである。是が段々土着性になつて來たので、古い家は全羅道の人が多い。朝鮮でも全羅南通の南――濟州島との間の多島海は非常に島が多いので、從つて船夫が非常に多く、彼の島民は船の生活をして居る。それで此處の人が初めて來たのである。それで朝鮮船 [#「朝鮮船 」は底本のまま]欝陵島では羅船と云つて居る。詰り全羅道の船と云ふのであつて、外の船もさう云ふ名前で呼ぶ事になつた。何にしても此の島に渡つたものは若布採りが一番最初であつたのである。
 前にも述べたやうに此島は海岸線に平地は殆んどなく、親不知、子不知等と云ふ極めて危險な所もあつて、自由に海岸を廻る事が出來ないので、山越其れも中々高い山を越えて行かなければならない。隨分歩むには困難な島である。

   三 文献史上に現はれたる欝陵島

 然らば抑※[#二の字点]欝陵島と云ふ島は元から無人島であつたかと云ふとさうではない。此島は今では欝陵島《ウーリヤン》と云ふが昔は于山島《ウサンスム》(Usan-Sum)と云つた。島は鮮語では Sum、日語の Shima と同音である。新羅の『三國史記』には明かに于山島と書いてある。欝陵島の發音も聊か之に似て居る。彼の日本の宇佐島《ウサシマ》と此れは後に述べるが、非常に關係がある。尚ほ神話に於て非常に面白い所である。兎に角昔は此處は于山島《ウサンスム》と云ふ名前を以て呼ばれたのである。さうして此の島は朝鮮の新羅にも屬して居らなかつた一個の獨立國と見做されて居つた。其住民は非常に慓悍であつて、屡々江原道慶尚道の海岸を侵して居た。此處に面白い比較は濟州島である。此島は今では極く詰らない島であるが、奈良の朝迄は耽羅國と云つて、立派な王國であつて、飛鳥朝の頃には日本の使者が之に行つて居る。又向ふからも八九度ばかりの使者が往來して日本と交通して居る。後に百濟が盛んになつて之を征服してしまつたが、かう云ふやうに是も一つの王國であつたのである。それから欝陵島も矢張り于山國と云ふ一つの王國――王國とまでは往かないが、兎に角相當の文化を有つて居つた一つの國であつた。斯う云ふことはどうしても頭に入れて置かなければなるまいと思ふ。然るに此島も新羅の智證王の十二年になつて征服されてしまつたのである。此の征服した大將は有名な異斯夫と云ふ人で、是は任那などをも陷入れた人である。『三國史記』を通じて見ると、之を征服したのは實に馬鹿げたやり方である。船に木造の獅子を載せて往き海岸に近づいて言ふには「汝等若し我が新羅に服從しない場合には、此の獅子を放つて皆噛殺さしてしまふ」と言つたので、彼等は恐れて遂に降つたと云ふことになつて居る。此の新羅の智證王と云ふのは何時頃かと云ふと、西暦の紀元五百〇九年、日本の繼體天皇の三年で、筑紫の磐井が滅亡した丁度十七八年前になるのである。であるから于山島《ウサンスム》が新羅に統一されてしまつたのは今から丁度千四百十五年前にあたるのである。それから尚ほ降つて高麗の太祖十三年、丁度九百三十年以前、日本の延喜八年になるが、この頃其島人の白吉土豆(Pek-kil-tu-tu)と云ふ人が來て貢物を獻じた。この人名は日本の古語によく似たるものがある。這は欝陵島と日鮮と連綴するに頗ぶる大切な資料である。この Pek-kil は幣具理(He-gu-ri)に似、其の下の豆豆《ツツ》は手名推《テナツチ》[#「手名推」は底本のまま]などの Tsu-chi とも解せらる。たとへば He-gu-ri-tsu-chi ともなる。兎に角この人名は餘程面白い。それから毅宗の十三年、丁度日本の後白河天皇の平治元年、高麗の毅宗が此の島は土地が廣く且つ肥えて居つて民を移すに大變宜いと云ふ事を聞いて、溟洲道監倉、金柔立を此處へ遣つて視させた。此の時に金柔立が復命して云ふには、島中に大きな山がある、山の頂から東海岸迄一萬餘歩、西海岸まで一萬三千餘歩、南海岸まで一萬五千餘歩である。村落の基址が七箇所ばかりあつて、或所に [#「に 」は底本のまま]石佛、或所には鐵鐘、石の塔など [#「など 」は底本のまま]あると云ふことを言つて居る。それから後に尚ほ高麗時代の崔忠獻と云ふ人が高麗王に建議して居る文を見ると、斯う云ふ事を書いて居る、[#読点は底本のまま]武陵は土壤膏沃で、珍木海錯が多い………とある。其處で使を遣はして之を見させた所が其の使者の報告によると、此の島には屋基があるが、其礎が破れて居つて、宛然何つ頃の人が住つて居つたか分らない………と云つて居る。そこで東郡の民を此の島に移した。此れによつて見ると此時分には既に人が居らなかつた事が分る。それから李朝になつてはどうかと云ふと、李朝の太宗當時に、流民が此島に入り込んで困るので、三渉の麟雨と云ふ人を按撫使として遣し、此等の流民を悉く逐ひ出してしまつたと云ふ記事が見える。それから世宗の二十年、丁度一千四百三十八年、後花園天皇の永享十年に縣人萬戸南と云ふ人は、命を受けて數百人を率ゐて此の島に渡り其所に渡つて居る浦民を搜し出して、其の頭の浮金丸外七十餘人を殺して還つた。これが爲めに遂に島には人影が空しくなつたと云ふ意味の事が書いてある。睿宗の時即ち一千九百十五年、今より丁度四百五十五年前に人を派遣した。此の時に一つの地圖が出來た。是は非常に珍しい地圖で恐らくは歴史地理の方では一番古いものであらう。一體睿宗の時には朝鮮に立派な地圖を作つたのである。其後地圖を作ることを禁じた爲に其他には出來て居ないが、此地圖は一つの歴史を物語つて居るものである。此地圖に依つて見ると、矢張り人は居ない。基址と云ふのが各所の谷の所に見える。それから竹田竹林、或は楮田洞――楮の野生などがあることが分る。即ち紙を造る原料である。尚ほ面白いのは石葬と云ふものを各所に書いて居る。是は睿宗の時に行つた使者も珍しかつたと見えて、地圖の上に石葬の名が各所に載せてある。即ち積石塚(Cairn)の事を言つて居るのである。兎に角四百五十年以前の文獻に於てはさう云ふものが認められる。彼の地圖に於て今日の土地と比較して見ると、大概心當りが付く。かうして其後長い間此の島は無人島であつたが、今から四十五六年程前から、ボツ/\若布採りが密かに行き始め、住民が出來たのである。

   四 考古學上に現はれたる欝陵島

 是れまで述べた所は歴史の上、或は文獻の上に現はれたものの概略であるが、此の島には考古學上どう云ふ遺跡が存在して居るであらうか。此の事について簡單に記して見たいと思ふ。詳細は別に論文として發表する考である。

    于山《ウサン》國時代の遺跡
     古墳(ケールン)

 此の島は調べて見ると中々遺跡が多い。是は高麗の時代に著はされて居る文献、或は李朝時代に著されて居る文献に見える樣に、人の住んで居つた跡が彼方にも此方にもある。そして古墳などもある。先づ此處に注意すべきものは、于山國時代の遺跡の有るか無いかと云ふ問題である。余は之れを于山國時代と云ふが、此の時代の古墳が中々多いのである。之れは全く李朝の人の云つた石葬(ケールン)で、總て外部は石を積んで居る。是は非常に珍しいのである。之を堀つて見ると中部にチヤンバーがあつて、中に石槨が出來て居る。さうして其上に天井石が數枚のせてある。要するに是等の古墳は外部はケールン即ち積石塚式で、内部は天井石を有つた石槨である。是等の古墳はグループを成して居つて或は唯一個、或は二つ三つばかりも列んで居る所がある。尚ほ其れ以上群を成して居るものもある。位置は高い山にもあれば、丘の上にもある。丘のある所は大概溪流のある所であるが、之は海岸に平地がない爲めである。

    古墳よりの發掘物

 次に、余が古墳を發掘した例を記さう。此處に三つばかり古墳がある。最初は外部に石が積んであつたが、段々之を取り去つて見ると中に石槨が現はれて來た。尚ほ掘つて見ると、入口が開いて中に今云つた樣な石の室(石槨)が出來て居て、天井石が石橋のやうに數枚置かれてあつた。即ち此の古墳は一概に云ふと、外はケールン――積石塚で中は石室である。されば予は欝陵島の古墳を、『外部石塚内部石槨式古墳』と云ひたいのである。是は非常に珍しい古墳であつて、斯くの如き形式の古墳は隱岐の島、出雲や山陰地方其の他に存在するものと、何う云ふ關係があるかと云ふ事は將來餘程研究すべき問題である。それから之を發掘すると、中から日本の古墳や朝鮮の古墳から出るのと同じ祝部土器(陶《スエ》)の高坏、其他の土器が出て來た。是等は全く日本の物とも朝鮮のものとも變らない。さうであるから古墳の分布――其れよりの發掘物から云ふと、記録に殘つて居る于山國時代の事柄は、朝鮮と日本とを繋げる立派な事實である。若しこれ等の土器を一つ所に出したならば、專門家と雖も日本の物であるか、朝鮮の物であるか分らないであらう。殊に慶尚南北道の物――洛東江の流域邊りの物と非常によく似て居るのである。なほ其所から鐵の刀の類であるとか、或は鈴などの種類も發掘されて居る。
 又北海道に問題になつて居る、ストーンサークルのやうな遺跡も此の島にある。是は明かに墳墓であつて矢張注意すべきものの一つであらうと思はれる。
 以上の古墳は殆ど谷間々々の所に無い所は無いと云うて宜い位であつて、非常に貴重なる材料である。此事實から考へて見ると、于山國時代は現今の鮮人に比較して、相當に文化が進んで居つたものに違ひない。

    當時の文化を偲ぶべき桑、楮の野生

 尚ほ此處に注意すべき事は桑の木 [#「木 」は底本のまま]野生があつて、人家の前に群を成して生えて居る。それから前に述べた楮の野生もある。苧の野生もある。是等は元と于山國時代に使用して居つたものが、今日の野生の状態になつて居るものであらうと思はれる。茲に非常に面白い地名がある。即ち「苧浦」と云ふ所である。この地名は朝鮮言葉で(MaShi-ke)と云ふ。このマは「麻」「苧」のことで、シは「種」のことである。之も當時を考へさせられる。
 以上三項に亘つて述べた如く、本島に於ける古墳の存在、其れよりの發掘物、聚洛の跡、當時栽培植物の野生状體[#「状體」は底本のまま]にての殘存、さては地名に其植物名のある等即ち于山國時代の生活――文化を偲ぶべき實によい材料である。此の島は小さくはあるが、當時に於ける朝鮮陸地や日本内地と同一程度の文化を有し、刀劍鈴……あり、祝部土器あり、麻布あり、楮あり、又日鮮原史時代と同一なる高塚の存在する等、前述せる如くである。殊に懷しく思ふのは、苧浦の名稱のある事である。

    新羅時代の遺跡

 次に注意すべきものは、新羅が統一してからどうであつたかと云ふことである。云ふ迄でもなく智證王の次、法興王の時には始めて佛教が新羅に入つたものであつて、新羅の黄金時代である。さうして此の王から以後になると新羅の文化は殆ど佛教と關係して來る。此時代の偲ばれるものが此處にある。それは余が此處で拾つた土器の破片である。一見何の値打もないもののやうであるが、よく見れば之れに、瓔珞であるとか西域風の唐草模樣が附いて居つて、佛教の影響を蒙つて居るものである。是は前に述べた樣な古墳からは決して出ない。之れは于山國に關係なく、新羅統一時代の佛教が入つた時の品物としては斯う云ふものが殘つて居るのである。是は新羅統一時代のものと見て差支はないが、此破片を新羅の王都たる慶州に居る新羅學者の諸鹿君と一緒に調べて見たが、是と少しも違はぬ物が同地の南山から出る。だから是は新羅の慶州製作の物が欝陵島に行つたものと斯う云ふことが考へられる。

    石器時代の遺跡

 然らば于山國時代以前の此の島はどうであつたかと云ふ問題が起つて來る。即ち其以前に人間が居つたかどうか。余は于山國時代以前、即ち有史以前の遺蹟を調査したが、幸に之が發見された。此處には石器時代の遺蹟がある。此處から出た土器の破片などは一寸見ると詰らぬ物であるが、我々にとつては非常に大切なもので、其の當時の事を語る唯一の證據である。余の掘り出した物の中に、赤色の土器の把手があるが、是は土器の口の所である。是等の遺物は我々の方で言ふ所の包含地で、今日地下一尺八寸とか二尺二三寸迄の間に土で被はれて保存せられて居るのである。斯う云ふ遺跡が彼方此方に殘つて居る。是等を見ると、既に于山國の前の頃から此處に人が居つた事が考へられるのである。さうすると欝陵島に人が住つた事は、石器時代の頃からと見なければならぬのである。然らば是等遺物は何處の物に似て居るかと云ふと、是は朝鮮の慶尚南北道、江原道以北のものとよく似て居る。殊に此の把手などは咸鏡道の豆滿江の流域の方面のものにも餘程よく似て居る。是等から考へると、欝陵島に有史以前に住んで居た民族は、既に朝鮮の南北の方面と交通往來があつたものと見なければならぬのである。然らば日本とはどうかと云ふと、日本にも矢張之れが出る。是迄我が祖先の日本島に這入つて來たのは、金屬器を使ふ樣になつてからの事であると云つて居たが、今日の研究の結果に依るとさうではない、[#読点は底本のまま]既に有史以前、石器を使ふ頃から日本人が彼方にも此方にもポツリ/\入つて來て居るのである。此の時分の物と欝陵島の物とは餘程似て居る。此の點から考へると、欝陵島と日本との研究は單に鏡や玉や劍などを用ゐた時代のものでなくて、もう少し前の頃から關係があるものと見て間違がないのである。是は最も注意を要することである。

   五 『于山《ウサン》に就て』

[#ここからリード文]
日本文献に現はれたる宇佐島は鬱陵島なり
[#リード文ここまで]

 最後に于山と云ふ言葉に就いて一言述べてみよう。一體于山(Usan)と云ふのは日本にどう云ふ關係があるかと云ふと、『日本紀』の中に素盞鳴尊[#「鳴」は底本のまま]と天照大御神とが誓《ウケ》びをされた條がある。其所に兩神が玉や劍を咀嚼《は》んで色々な御子を御生みになつたが、天照大神の御生みになつた御子達は皆女の御子、素盞鳴尊[#「鳴」は底本のまま]の方は男の御子であると云ふ事が書いてある。其處を「其素盞尊[#「鳴」は底本のまま]所[#レ]生之兒。皆己|男《ヒコカミ》矣。故日神方知[#三]素盞嗚尊元有[#二]赤心[#一]便取[#二]其其|六男《ムハシラノヒコガミ》[#一]以爲[#二]日神[#(ノ)]之子[#一]。使[#レ]治[#二]天[#(ノ)]原[#一]。即以[#二]日[#(ノ)]神所[#レ]生三[#(ノ)]女神[#一]者。使[#レ]降[#二]居于葦原[#(ノ)]中[#(ツ)]國之|宇佐島《ウサシマ》[#一]矣。今在[#二]海《ウミ》[#(ノ)]北道|中《ナカ》[#一]號曰[#二]道主貴《ミチヌシノムチ》[#一]。此築紫|水沼《ミヌマ》君等祭神是也」と云ふ風に書いてあるが、其中の「今在[#二]海北道中[#一]」云々是が問題であつて、『日本紀』の此段を昔から我が國學者は非常に難しく説いて居るのである。と云ふのは葦原の中國《ナカツクニ》の宇佐島《ウサジマ》に降し給ふ。今海の北の道中に在り。道主貴《ミチヌシムチ》と號す。水沼《ミヌマ》君のいつき祭る所の神である。[#句点は底本のまま]と云つて居る。今海の北の道の[#「海の北の道の」に傍点]中との[#「との」は底本のまま]どう云ふ所かと云ふと、『書紀集解』などには是は筑前の或土地の事で、詰り川を海の中と云つたのであらうと解して居る。余はこの海の北の道中を日本海と解したい。又宇佐島は欝陵島か隱岐の島か――隱岐の島は既に神代の神の生みませる條にあるが、欝陵島の于山《ウサン》はまさしく宇佐と同音である。于山島《ウサンスム》の音も宇佐島《ウサシマ》の音も同じく、且つ島の音も朝鮮語では Sum である。さうして見れば于山島は Usan-Sum である。故に余は此島と考へたいのである。この島を外にしては他に島はないのである。是は單に神話學上の解釋のみに止まらぬのであつて、考古學上に於ても矢張日本と同じ事實が認められて居る。であるから是は矢張欝陵島の方に解釋したいのである。此事に就ては多くの考へもあるが他日に讓ることゝする。
 固より山陰と朝鮮との間、日本海中の一孤島に、于山國時代(原史時代)の文化の遺跡が、今に殘つて居るのは極めて面白いのであるが、彼等の古墳の形式が、内地の或るものと同じであると云ふこと等は、愈※[#二の字点]此の島が我が神話 [#「神話 」は底本のまま]出て來る北の海の中に在る宇佐島と解して差支ないものに思はせるのである。而かも今日尚ほ盛んに出雲人が此處に小船で往來して居るのを見ると當時の状態が偲ばれる樣な氣がする。
 尚ほ云ひ殘したが、有史以前の石器時代から、原史時代の高塚築造時代に至る其の進歩發達の工合が、何うも同一の民族のやうに思はれる。是れで見ると欝陵島の民衆は、最初から同じ民衆で來て居る。此の事實は日鮮の研究上大切な事と思ふから茲に附言して置く。
(つづく)



底本:『日本周圍民族の原始宗教』岡書院
   1924(大正13)年9月20日發行
   1924(大正13)年12月1日三版發行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。
  • 鬱陵島 うつりょうとう/ウルルンド (Ullung-do) 朝鮮半島の東岸から東方約140kmにある火山島。慶尚北道に属する。漁業の根拠地。日本では時代により磯竹島・竹島・松島など異なった名称で呼んだ。/ウーリャン。(本文)
  • 于山 Usan
  • 于山島 ウサンスム Usan-Sum
  • 于山国 うざんこく
  • 武陵島
  • 松島 まつしま? 鬱陵島の旧称。(外国コン、p.112)
  • Dagelet island
  • 羅里山
  • 迎日湾
  • 道洞 どうどう Dodong =鬱陵(外国コン、p.623)/現、鬱陵。ウルルン。Ulreung。韓国東部、慶尚北道北東部、鬱陵郡の中心地。鬱陵島南東岸に位置。鬱陵の旧称。人口1.5万人('90)。島内唯一の港をもち、材木・牛・海産物を移出し、衣料・建材を移入。近海はイカの好漁場。(外国コン)
  • 沙洞
  • 黄洞浦
  • 光岩
  • 昌洞
  • 天府洞
  • 堅達里
  • 鬱陵郡 うつりょうぐん 大韓民国慶尚北道の郡。陸地(本土)から約150キロ東方の日本海に浮かぶ鬱陵島と付属島嶼からなる。日本と国境紛争のある独島(日本名、竹島)を郡域に含む。面積72.518平方キロ、人口9,252人。鬱陵邑(町)、北面(村)、西面(村)の1邑2面で構成される。(Wikipedia)
  • 親不知、子不知
  • 苧浦 MaShi-ke カラムシ浦の意。(本文)
  • 溟洲道 〓 溟州道。のちの江陵道か。(Wikipedia)
  • 竹島 Lian courtrocks たけしま (1) 日本海、隠岐諸島の北西方にある島。日本では古くから知られ、また、1849年(嘉永2)フランス船リアンクール号が発見しリアンクール岩と命名したことにより、ヨーロッパにも知られた。1905年(明治38)島根県に編入。韓国・北朝鮮が独立後、その領土権を主張して係争中。面積0.2平方km。(2) 鬱陵島の別称。
  • 葦原の中国 あしはらの なかつくに 葦原の中つ国 (「中つ国」は、天上の高天原と地下の黄泉の国との中間にある、地上の世界の意)(→)「葦原の国」に同じ。
  • 葦原の国 あしはらのくに 記紀神話などに見える、日本国の称。
  • 宇佐島 ウサシマ/ウサジマ
  • 山陰
  • 山陰道
  • [島根県]
  • 出雲 いずも 旧国名。今の島根県の東部。雲州。
  • 杵築 きづき 島根県出雲市大社町の古地名。出雲大社の所在地。/現、簸川郡大社町。島根半島の北西端、現大社町に鎮座する杵築大社(出雲大社)を中心とする地域。中世以降都市的景観がみられ、同社の門前町として栄え、杵築町とも称された。中世に入り、『出雲国風土記』や『和名抄』にみえる古代の神門郡杵築郷が、新しく再編成され国衙領として成立した。しかし、中世出雲国の国鎮守(一宮)杵築大社が鎮座することから、一般の国衙領とは異なる神聖な領域(境内は神域)とされ、郷名を冠さず杵築とよぶのが一般的であった。
  • 杵築郡 きづきぐん? → 杵築
  • 宍道湖 しんじこ 島根半島南側にある汽水湖。最大深度6m。面積79平方km。風光明媚。ヤマトシジミを産する。
  • 美保の関 みおのせき/みほのせき 美保関。島根県松江市の地名。島根半島東端の漁港で、船の出入を監視する海関を置いたので関の名がある。美保神社・関の五本松などで知られる。隠岐島への連絡港。
  • 日御崎 ひのみさき → 日御碕
  • 日御碕 ひのみさき 島根県出雲市大社町にある岬。島根半島の北西端。高さ44mの灯台がある。付近の経島はウミネコの繁殖地で、天然記念物に指定。/現、島根県簸川郡大社町日御碕。島根半島の北西端に位置し、岬としての日御碕は地内北西端から日本海に突き出す。『出雲国風土記』にみえる出雲郡支豆支(きづき)の御崎・杵築御崎は日御碕に比定され、朝鮮半島の志羅紀(新羅)から佐比売山(三瓶山)を杭とし、園長浜を綱として引き寄せたのが支豆支の御崎であるという国引き神話が載る。
  • 八束郡 やつかぐん 県の北東部の郡名。日本海に面し、宍道湖・中海の周辺に広がる。明治29(1896)秋鹿(あいか)・島根・意宇(おう)の三郡が合併して成立。
  • 御津浦 みつうら 現、島根県平田市三津町三津浦。唯浦の東、三津川の流域を占め、東は小伊津浦。北は日本海に面した浦方で、近世には楯縫郡に属した。三浦・御津浦とも記した。
  • オシマサ
  • 境港 さかいみなと 鳥取県北西部、弓ヶ浜(夜見ヶ浜)先端の市。日本海沿岸の主要漁業基地で水産加工業が発達。人口3万6千。
  • 三保湾 美保湾?
  • 隠岐 おき 中国地方の島。旧国名。山陰道の一国。今、島根県に属する。隠州。
  • 隠岐の島 おきのしま 島根県に属し、本州の北約50km沖にある島。最大島の島後と島群である島前とから成る。後鳥羽上皇・後醍醐天皇の流された地。大山隠岐国立公園に属する。隠岐諸島。
  • [九州]
  • 壱岐 いき 九州と朝鮮との間に対馬とともに飛石状をなす島。もと壱岐国。九州本土から約25km離れる。緩やかな丘陵・台地が多い。面積134平方km。壱州。
  • 対馬 つしま (一説に、津島の意という) 旧国名。九州と朝鮮半島との間にある島。主島は上島・下島。今は長崎県の一部。中心地は厳原。対州。
  • 筑前 ちくぜん 旧国名。今の福岡県の北西部。
  • [京都]
  • 本願寺 ほんがんじ 浄土真宗の本山。親鸞の死後、1272年(文永9)京都東山大谷に御影堂を建てたのに始まり、1478年(文明10)より蓮如が京都山科に再興。次いで大坂石山に移ったが、1602年(慶長7)に東西に分立。
  • 佐渡が島 さどがしま 佐渡島。新潟県に属し、新潟市の北西方にある日本海最大の島。
  • 日本海 にほんかい アジア大陸の東、朝鮮半島と日本列島との間にある海。面積約100万平方km。間宮・宗谷・津軽・朝鮮の諸海峡によってオホーツク海・太平洋・東シナ海に通ずる。水深は平均1667m、最深部は3796m。
  • [朝鮮]
  • 済州島 さいしゅうとう/チェジュド (Cheju-do) 朝鮮半島の南西海上にある大火山島。面積1840平方km。古くは耽羅(たんら)国が成立していたが、高麗により併合。1948年、南朝鮮単独選挙に反対する武装蜂起(四‐三蜂起)の舞台となる。付近海域はアジ・サバの好漁場。観光地として有名。周辺の島嶼と共に済州道をなす。
  • 耽羅 たんら 韓国の済州島の古名および国名。耽牟羅・羅とも書き、「とむら・たむろ」ともいう。「三国志」魏書の韓伝には「言語は韓と同じからず」「船に乗りて往来し、韓中に市買す」とあり、古来韓と倭の海上交通の要衝であった。5世紀末から百済に従属し、百済滅亡後は日本に通交したが、679年新羅に降って属国となる。1105年に高麗の耽羅郡に編成され、13世紀からはモンゴルの支配をうけて、半島内部とは異なる独自の社会を形成した。(日本史)
  • 咸鏡道 かんきょうどう 李氏朝鮮の道の一つ。現在の咸鏡北道・咸鏡南道にあたる。
  • 豆満江 とまんこう/トゥマンガン (Tuman-gang) 朝鮮半島の大河。白頭山に発源、中国東北部およびロシアの沿海州(プリモルスキー)地方との国境をなし、日本海に注ぐ。長さ521km。中国名、図們江。
  • 全羅道 ぜんらどう
  • 全羅南道 ぜんら なんどう/チョルラ ナムド (Cholla-nam-do) 韓国南西部、黄海と済州海峡に面する道。道庁所在地は光州(クァンジュ)。農業が盛んで、石油化学コンビナートも立地。
  • 多島海
  • 慶尚道 けいしょうどう 高麗、李氏朝鮮のころ、朝鮮半島の南東部に置かれた道。北西部に大白山脈が、西境に小白山脈が走り、洛東江が貫流する。古代の辰韓の地で、慶州には新羅の首都が置かれていた。韓国併合後に南北二つの道に分けられた。
  • 慶尚北道 けいしょう ほくどう/キョンサン プクト (Kyongsang-puk-to) 韓国南東部の道。日本海に臨む。古代、新羅の本拠地。浦項(ポハン)・亀尾(クミ)など工業都市が多い。道庁所在地は大邱(テグ)。
  • 慶州 けいしゅう (Kyongju) 韓国慶尚北道南東部の都市。新羅900年間の都。新羅時代は金城・金京と称した。付近に法興王と武烈王の陵、仏国寺・石窟庵・金冠塚などの史跡が多い。人口27万6千(2000)。キョンジュ。
  • 南山
  • 江原道 こうげんどう/カンウォンド (Kangwon-do) 朝鮮半島中部、日本海に臨む道。中央を北西から南東に太白山脈が走る。林産・鉱産資源に富む。軍事境界線によって南北に分けられ、北側の道庁所在地は元山(ウォンサン)、南側は春川(チュンチョン)。
  • 竹辺
  • 蔚珍 ウルチン/うつちん Uljin 韓国東部、慶尚北道北東部、蔚珍郡(人口6.9万 '90)の中心地。日本海沿岸に位置。付近の物資の集散地。石灰を産する。原子力発電所がある。古墳の多い景勝地。(外国コン)
  • 平海 へいかい/ペョンヘ Pyeonghae 韓国東部、慶尚北道北部、蔚珍郡の中心地。蔚珍の南に位置。平海川流域における農産物の取引中心地。厚浦海水浴場・平海温泉があり、付近の月松亭は嶺東の景勝地。(外国コン)
  • 三渉 → 三陟か
  • 三陟 サムチョク 大韓民国江原道南部にある市。太白山脈の東側に位置し、日本海(韓国名:東海)に面している。漁業、農業、石灰岩・セメントなどの鉱業が主産業で、長い砂浜の海水浴場と石灰岩の洞窟(鍾乳洞)が有名な観光地でもある。かつては石炭の産出も盛んだった。(Wikipedia)
  • 釜山港 → 釜山
  • 釜山 プサン/ふざん (Pusan) 朝鮮半島の南東端に位置する港湾都市。広域市。東港は商港、南港は漁港。日韓交通の関門。京釜鉄道の起点。人口366万3千(2000)。/韓国南東部の直轄市、貿易港。朝鮮海峡に臨み、日本の対馬に対する。人口384.7万人('94)。港は三方を山が囲み、南方に影島を控える天然の良港。関釜フェリーの埠頭があり、西港は北方の蔚山沖から南西の巨済島沖に出漁する漁船の基地。市街はこの港湾地域と背後の山地との間に展開しており、坂道と屈曲の多いことや家屋の密集が特色。釜山港は東・西の2港に分かれ、東港は韓国屈指の貿易港。李朝三浦の一つ。大陸に遠征した豊臣秀吉の上陸地点。(外国コン)
  • 洛東江 らくとうこう/ナクトンガン (Naktong-gang) 朝鮮半島南東部の大河。太白山脈・小白山脈に発源、朝鮮海峡に注ぐ。流域肥沃、古くより舟運が発達。全長525km。
  • シベリア Siberia・西比利亜 アジア北部、ウラル山脈からベーリング海にわたる広大な地域。ロシア連邦の一地方でシベリア連邦管区を構成。西シベリア平原・中央シベリア高原・東シベリアに三分される。面積約1000万平方km。十月革命までは極東も含めてシベリアと称した。ロシア語名シビーリ。
  • 沿海州 えんかいしゅう プリモルスキーの訳名。
  • プリモルスキー Primorskii ロシア、シベリアの南東端、黒竜江(アムール川)・ウスリー川・日本海に囲まれた地方。1860年北京条約によりロシア領となる。中心都市ウラジヴォストーク。沿海地方。沿海州。
  • カラフト 樺太。サハリンの日本語名。唐太。
  • サハリン Sakhalin 東はオホーツク海、西は間宮(タタール)海峡の間にある細長い島。1875年(明治8)ロシアと協約して日露両国人雑居の本島をロシア領北千島と交換、1905年ポーツマス条約により北緯50度以南は日本領土となり、第二次大戦後、ソ連領に編入。現ロシア連邦サハリン州の主島。北部に油田がある。面積7万6000平方km。樺太。サガレン。
  • 北海道


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。『コンサイス外国地名事典』第三版(三省堂、1998.4)『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)




*年表

  • 新羅 しらぎ (古くはシラキ) 古代朝鮮の国名。三国の一つ。前57年頃、慶州の地に赫居世が建てた斯盧国に始まり、4世紀、辰韓諸部を統一して新羅と号した。6世紀以降伽(加羅)諸国を滅ぼし、また唐と結んで百済・高句麗を征服、668年朝鮮全土を統一。さらに唐の勢力を半島より駆逐。935年、56代で高麗の王建に滅ぼされた。中国から取り入れた儒教・仏教・律令制などを独自に発展させ、日本への文化的・社会的影響大。しんら。(356〜935)
  • 百済 くだら (クダラは日本での称) 古代朝鮮の国名。三国の一つ。4〜7世紀、朝鮮半島の南西部に拠った国。4世紀半ば馬韓の1国から勢力を拡大、371年漢山城に都した。後、泗城(現、忠清南道扶余)に遷都。その王室は中国東北部から移った扶余族といわれる。高句麗・新羅に対抗するため倭・大和王朝と提携する一方、儒教・仏教を大和王朝に伝えた。唐・新羅の連合軍に破れ、660年31代で滅亡。ひゃくさい。はくさい。( 〜660)
  • 任那 みまな 4〜6世紀頃、朝鮮半島の南部にあった伽耶諸国の日本での呼称。実際には同諸国のうちの金官国(現、慶尚南道金海)の別称だったが、日本書紀では4世紀後半に大和政権の支配下に入り、日本府という軍政府を置いたとされる。この任那日本府については定説がないが、伽耶諸国と同盟を結んだ倭・大和政権の使節団を指すものと考えられる。にんな。
  • 奈良の朝 → 奈良時代
  • 奈良時代 なら じだい 平城京すなわち奈良に都した時代。元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁の7代七十余年間(710〜784)。美術史では白鳳時代を奈良時代前期、この時代を後期として、天平時代ともいう。奈良朝。
  • 飛鳥朝 → 飛鳥時代
  • 飛鳥時代 あすか じだい 奈良盆地南部の飛鳥地方を都とした推古朝前後の時代。もとは美術史の時代区分で、推古朝を中心に仏教渡来から平城遷都まで広く含めたが、今では政治史や文化史でも6世紀末から7世紀前半までとするのが普通。推古時代。
  • 于山国時代
  • 新羅統一時代
  • 高麗 こうらい (1) (ア) 朝鮮の王朝の一つ。王建が918年王位につき建国、936年半島を統一。都は開城(旧名、松岳・松都)。仏教を国教とし、建築・美術も栄え、後期には元に服属、34代で李成桂に滅ぼされた。高麗。(918〜1392)(イ) 高句麗。また、一般に朝鮮の称。
  • 李朝 りちょう 朝鮮の最後の王朝。1392年李成桂が高麗に代わって建て、対外的には朝鮮国と称す。1897年に国号を大韓帝国と改め、1910年(明治43)日本に併合されて、27代519年で滅んだ。国教は朱子学(儒学)。都は漢城(現ソウル)。朝鮮王朝。李氏朝鮮。(1392〜1910)


◇参照:『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • 李圭遠
  • 智証王 ちしょうおう? → 智証麻立干か
  • 智証麻立干 ちしょう まりつかん 437-514 新羅の第22代の王(在位:500年 - 514年)。第17代奈勿尼師今の曾孫。国号・王号の統一や軍制・官制などの整備を通して、新羅の国家形成を飛躍的に進めたと見られている。(Wikipedia)
  • 異斯夫 いしふ ?-? 苔宗(いそう)・伊宗とも。6世紀の新羅の将軍。『日本書紀』は伊叱夫礼智干岐(いしぶれちかんき)と記す。512年に于山国(鬱陵島)を服属させ、562年にも主将として加羅(任那)を征服したほか、高句麗・百済との戦争でも活躍。また545年、彼の奏上により居夫が国史を編纂したという。(日本史)
  • 継体天皇 けいたい てんのう 記紀に記された6世紀前半の天皇。彦主人王の第1王子。応神天皇の5代の孫という。名は男大迹。
  • 筑紫の磐井 つくしの いわい → 筑紫君磐井
  • 筑紫君磐井 つくしのきみ いわい ?-528? 古墳時代末の九州の豪族。『日本書紀』によれば朝鮮半島南部の任那へ渡航しようとするヤマト政権軍をはばむ磐井の乱を起こし、物部麁鹿火によって討たれたとされる。
  • 高麗の太祖 → 王建
  • 王建 おうけん 877-943 高麗の太祖。松岳(開城)の人。高麗を建国、935年新羅を併合、翌年、後百済(ごくだら)を従えて半島を統一。仏教を崇信。(在位918〜943)
  • 白吉土豆 Pek-kil-tu-tu 于山島の人。(本文)
  • 後白河天皇 ごしらかわ てんのう 1127-1192 平安後期の天皇。鳥羽天皇の第4皇子。名は雅仁。即位の翌年、保元の乱が起こる。二条天皇に譲位後、5代34年にわたって院政。1169年(嘉応1)法皇となり、造寺・造仏を盛んに行い、今様を好んで「梁塵秘抄」を撰す。(在位1155〜1158)
  • 毅宗 きそう 1127-1173 高麗第18代の王(在位1146〜1173)。貴族政治衰頽期に出で文人とともに遊宴に耽り、文人を尊び武人を賤しめたので、武人鄭仲夫らは怒り、ついに文臣多数を殺し、王を巨済島に流して王弟の明宗を擁立した。のちに王は癸巳の乱(1173)に李義方に殺された。(東洋史)
  • 金柔立 〓 溟洲道監倉。(本文)
  • 崔忠献 さい ちゅうけん 1149-1219 高麗中期の武人政治家。毅宗以来政権は武臣の手に移り、互いに抗争をくりかえすなかに、彼は1196年将軍李義を襲殺し、さらに反対派を圧服するために都房を作り、明宗を廃し神宗を迎え、神宗が死ぬと煕宗を擁立して権力をふるった。(東洋史)
  • 高麗王
  • 李朝の太宗 たいそう 1367-1422 朝鮮王朝第3代王。在位1400-1418。太祖李成桂の息子。異母弟との戦いに勝って王位に即く。私兵を禁じて王権を強化し、官僚制を整備して新王朝の基盤を固めた。鋳字所を設けて出版事業を活発化した。明から冊封され、国際的に承認を受けた。(世界史)
  • 麟雨 〓 三渉の人。按撫使。(本文)
  • 世宗 せいそう 1397-1450 朝鮮王朝第4代王。在位1418-1450。仏教を統制して儒学を奨めた。集賢殿を設置するなどして文化活動を活発化させ、朝鮮文字ハングルの創制、雨量計・天体観測器など科学機器の発明、金属活字による『竜飛御天歌』など各種編纂出版事業をはじめとして大きな成果をあげた。北方への領土拡大に成功し、また倭寇対策のため南部海岸に開港場を設け、日本と勘合貿易をおこなった。韓国では偉人の一人として高い評価を受けている。(世界史)
  • 後花園天皇 ごはなぞの てんのう 1419-1470 室町時代の天皇。貞成親王(後崇光院)の第1王子。後小松天皇の猶子。名は彦仁。(在位1428〜1464)
  • 県人万戸南
  • 浮金丸
  • 睿宗 えいそう 662-716 唐第5代の皇帝(在位684-690、710-712)。諱は旦。高宗の第八子。母は則天武后。684年(嗣聖元)武后が中宗を廃したあと、帝位についたが、たちまち武周革命によって廃され、武氏と改姓され皇嗣となった。中宗の復位によって退けられたが、710年(景雲元)子の玄宗が韋氏を誅滅して、ふたたび天子の位に復させた。712年(先天元)玄宗に位を譲って太上皇となり、太平公主派のロボットに擁せられたが、翌年玄宗が公主一派を誅すると全く勢力を失い、まもなく死んだ。(東洋史)
  • 法興王 ほうこうおう ?-540 新羅第23代の王。律令と衣冠制を公布、官僚制を整備し、年号を創始するなど、王権の独立・強化につくした。仏教を公認したことでも知られる。(在位514〜540)
  • 諸鹿君 〓 慶州にいる新羅学者。(本文)
  • 素戔嗚尊 すさのおのみこと 素戔嗚尊・須佐之男命。日本神話で、伊弉諾尊の子。天照大神の弟。凶暴で、天の岩屋戸の事件を起こした結果、高天原から追放され、出雲国で八岐大蛇を斬って天叢雲剣を得、天照大神に献じた。また新羅に渡って、船材の樹木を持ち帰り、植林の道を教えたという。
  • 天照大御神 あまてらす おおみかみ 天照大神・天照大御神。伊弉諾尊の女。高天原の主神。皇室の祖神。大日貴とも号す。日の神と仰がれ、伊勢の皇大神宮(内宮)に祀り、皇室崇敬の中心とされた。
  • 道主貴 ミチヌシムチ
  • 筑紫水沼君 つくしの みぬまのきみ? → 水沼氏
  • 水沼氏 みぬまうじ 水間氏とも。古代、筑後国三瀦(みぬま)郡(現、福岡県久留米市・筑後市の一部から三瀦郡にかけての地域)を本拠とした氏族。姓は君。『日本書紀』神代上に筑紫の水沼君が宗像三女神を祭ることがみえ、雄略10年9月には呉からもたらされた鵞鳥を水間君の犬がかみ殺したとある。久留米市大善寺町宮本にある御塚・権現塚古墳(国史跡)は水沼君の墳墓と推定される。(日本史)


◇参照:『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)『新編東洋史辞典』(東京創元社、1980)『角川世界史辞典』(2001.10)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、映画・能・狂言・謡曲などの作品名)
  • 『高麗史』 こうらいし 高麗朝の紀伝体の史書。139巻。1451年、李朝文宗の時に、鄭麟趾らが奉勅撰。
  • 『三国史記』 さんごくしき 朝鮮の現存最古の史書。50巻。高麗の仁宗の命で金富軾らが撰。1145年成る。新羅・高句麗・百済の三国の歴史を紀伝体に記す。
  • 『日本紀』 にほんぎ (1) 日本の歴史を記した書の意で、六国史のこと。(2) 日本書紀のこと。
  • 『書紀集解』 しょき しっかい 『日本書紀』の注釈書。30巻。著者は名古屋藩士で国学者の河村秀根(かわむら・ひでね)と子の益根(ますね)。1765-66年(明和2〜安永5)に執筆された『日本書紀集解』をもとに、益根の訓詁学をとりいれてまとめられた。1785年(天明5)原稿本成立。『日本書紀』の辞句の古訓を重視せず、辞句の出典を博捜し訓詁的方法を用いて解釈することに努めている。国民精神文化研究所から刊行。(日本史)


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)。



*難字、求めよ

  • 人種考古学 じんしゅ こうこがく → 参考、人種学
  • 人種学 じんしゅがく 現生諸人種ばかりでなく、過去の人の自然群を含めて、その形成の時期・地域・移動・分化などを調べ、相互の身体的特徴を考究する学問。
  • 斯学 しがく この学問。
  • 人種学 じんしゅがく (Rassenkunde ドイツ) 人類学の一部門。人種の分類・起原などを研究する。
  • 鮮人 せんじん → 朝鮮人
  • 朝鮮人 ちょうせんじん 朝鮮の人。朝鮮半島および周辺の島に分布する韓民族集団の総称。人種的にはモンゴロイド(蒙古人種)に属し、黒色・直毛の頭髪、高いほお骨などを特徴とする。
  • アザラシ 海豹。食肉類アザラシ科の哺乳類の総称。10属19種。体長1〜2mで、キタゾウアザラシやミナミゾウアザラシは6mに達する。泳ぎに適した体形で、耳介がなく、首は短い。後足は完全に後向き。寒帯の海にすむが、出産は陸上または氷上。北海道近海にはゴマフアザラシ・ワモンアザラシ・ゼニガタアザラシなどがいる。脂肪は保革油などに用いる。ネツブ。
  • 安山岩 andesite あんざんがん (もとアンデス山系で発見され、andesiteに由来する) 火山岩の一種。暗灰色で緻密。斜長石・角閃石・黒雲母・輝石などを含み、板状・柱状等の節理がある。造山帯に産出。広く土木・建築に使用。
  • シナ人 支那人。中国人の呼称として用いられた語。
  • 中国人 ちゅうごくじん 中国国籍を有する人。中国を構成する漢民族を中心として五〇あまりの民族を含めての総称。
  • 漢族 かんぞく 中国文化と中国国家を形成してきた主要民族。現在中国全人口の約9割を占める。その祖は人種的には新石器時代にさかのぼるが、共通の民族意識が成立するのは、春秋時代に自らを諸夏・華夏とよぶようになって以降。それらを漢人・漢族と称するのは、漢王朝成立以後。その後も漢化政策により多くの非漢族が漢族に同化した。
  • 蓬莱山 ほうらいさん (1) (→)蓬莱 (1) に同じ。(2) 霊山の美称。
  • 蓬莱 ほうらい (1)[史記秦始皇本紀]三神山の一つ。中国の伝説で、東海中にあって仙人が住み、不老不死の地とされる霊山。蓬莱山。蓬莱島。よもぎがしま。
  • 屹立 きつりつ (1) 山などが高くそびえ立つこと。(2) 人が少しも動かず直立しているさま。
  • 小渓 しょうけい?
  • 溶岩流 ようがんりゅう 火山噴火の際、火口から流出する溶岩、またはその冷却固結したもの。
  • 白檀 ビャクダン (sandalwood) ビャクダン科の半寄生常緑高木。インドネシア原産で近縁種とともに香料植物として栽培。高さ6m余。葉は対生し黄緑色。雌雄異株。花は初め淡黄色、のち赤色。芯材は帯黄白色で香気が強い。古くから日本へも渡来、薫物(たきもの)とし、また、仏像・器具などを作る。皮も香料・薬料に供する。ハワイ・小笠原に近縁種がある。「栴檀は双葉より芳し」の栴檀は、この白檀のこと。
  • 俗言 ぞくげん (1) 俗世間で用いることば。俗語。←→雅言。(2) ちまたの風説。俗評。
  • 五葉松 ごようまつ (1)(→)ヒメコマツの別称。(2) マツ科マツ属の植物のうち5枚の葉がまとまって生ずる一群の総称。ハイマツ・ヒメコマツ・チョウセンゴヨウなど。五葉の松。
  • 姫小松 ひめこまつ (2) マツ科の常緑高木。日本各地の山地に自生。高さ20m以上になるものもある。樹皮は暗灰色で鱗状、葉は針形で5個ずつ一所に叢生し、柔らかく緑色。花は単性、雌雄同株。長卵形の球果を結ぶ。建築材・器具材。ゴヨウマツ。
  • ツガ 栂 (トガとも) マツ科ツガ属の常緑高木。西日本の山地に自生し、高さ30m以上に達する。雌雄同株。雄花穂は円錐形、雌花穂は紫色、楕円形。球果は親指頭大で下垂。材は建築・器具製造・製紙用。樹皮からタンニンを採り、漁網の染料とする。栂松。ツガノキ。
  • 火田 かでん 朝鮮、主にその北部で行われた一種の焼畑。森林を伐採して(もしくは伐採せずに)焼き、その跡に粟・ジャガイモなどを栽培し、4〜5年後、地力の尽きた頃に他へ移る。
  • 山畑 やまはた 山にある畑。山間の畑。←→野畑
  • 帽笠 ぼうがさ?
  • 武陵桃原 ぶりょう とうげん [陶淵明、桃花源記]世間とかけはなれた別天地。理想郷。桃源郷。
  • 蓬莱 ほうらい (1) [史記秦始皇本紀]三神山の一つ。中国の伝説で、東海中にあって仙人が住み、不老不死の地とされる霊山。蓬莱山。蓬莱島。よもぎがしま。
  • 龍宮 りゅうぐう 深海の底にあって竜神の住むという宮殿。浦島太郎の説話で名高い。うみのみやこ。たつの都。たつの宮。たつのみやい。
  • ヤマネコ 山猫。ネコ科のうち、小形の野生種の総称。ツシマヤマネコ・イリオモテヤマネコ・ヨーロッパヤマネコなど。
  • 雁・鴈 がん カモ目カモ科の鳥のうち、比較的大形の水鳥の総称。ハクチョウより小さく、カモより大きい。体形・生活状態はカモ類に似るが普通雌雄同色。北半球北部で繁殖し、日本では冬鳥。マガン・ヒシクイなどが多い。かり。かりがね。
  • 足だまり あしだまり 足溜り。(1) しばらく足をとどめる所。転じて、ある行動のための根拠地。(2) 足をかけるところ。あしがかり。
  • 内地人 ないちじん 内地 (2) に居住する人。また、内地 (2) 出身の人。北海道、沖縄では本州に居住する日本人をさしてもいう。
  • 内地 ないち (2) 一国の領土が数個に分かれている場合、憲法の定める通常の法律がおこなわれる区域。旧憲法下の北海道・本州・四国・九州がこれにあたる。本土←→外地。
  • 沖船 おきふね?
  • 帆前船 ほまえせん 西洋式帆船の称。帆に受ける風力を利用して航走する船。帆の張り方によってシップ・バーク・スクーナー・スループなど各種の形式がある。ほぶね。はんせん。
  • すこしく 少しく すこし。わずかに。
  • 口碑 こうひ (碑に刻みつけたように口から口へ永く世に言い伝わる意) 昔からの言い伝え。伝説。
  • 府使 ふし?
  • 万戸 ばんこ (1) 多くの家。すべての家。(2) 1万戸を有する領地。
  • 万戸侯 ばんここう 1万戸を領する諸侯。知行の多い大名。大大名。
  • 鬱陵開拓使 うつりょう かいたくし?
  • 島守 しまもり 島の番人。島人。
  • 羅船 らせん?
  • 慓悍 ひょうかん 剽悍・慓悍。すばやくて強いこと。荒々しく強いこと。
  • 幣具理 He-gu-ri
  • 手名椎 テナツチ → 参照:足名椎
  • 足名椎 あしなづち/あしなずち 足名椎・脚摩乳。記紀神話で出雲の国つ神大山祇神の子。簸川の川上に住んだ。妻は手名椎。娘奇稲田媛は素戔嗚尊と結婚。
  • 監倉 かんそう 檻倉。牢屋。獄屋。ひとや。
  • 基跡 → 基址か 墓跡か
  • 膏沃 こうよく (「膏」は肥える意) 土地が肥えて、作物のよく生育すること。膏腴(こうゆ)。
  • 珍木 ちんぼく めずらしい樹木。奇木。
  • 海錯 かいさく 種々の豊かな海産物。
  • 屋基
  • 按撫使 あんぶし (1) なでたりさすったりすること。(2) 人民をいたわり、付き従わせること。
  • 一体 いったい (二) (1) (多く「に」を伴って) おしなべて。総じて。
  • 基址 きし 土台。基礎。
  • 竹田 ちくでん 竹やぶ。
  • 竹林 ちくりん 竹の林。たけやぶ。
  • 楮田洞
  • 楮 こうぞ (カミソ(紙麻)の音便) クワ科の落葉低木。西日本の山地に自生し、繊維作物として各地で栽培。高さ約3mに達する。葉は桑に似て質はやや薄く粗い。雌雄同株。6月頃、淡黄緑色の花を開く。果実は赤熟、桑の実に似る。樹皮は和紙の原料。かぞ。かんず。
  • 石葬 せきそう?
  • 積石塚 つみいしづか 墓の上を盛り土でなく自然石で厚く覆ったもの。時には土に石をまぜるものをもいう。
  • ケルン cairn 石を積み上げて塚としたもの。連続して境界線とし、また、山頂や登降路を示す積石。
  • 古墳 こふん 高く土盛りした古代の墳墓。日本では3〜7世紀に当時の豪族ら有力者が盛んに造営した。その形状により円墳・方墳・前方後円墳・前方後方墳・上円下方墳などがある。高塚。
  • チャンバー → チェンバー
  • チェンバー chamber (1) 室。会議室。
  • チェンバートゥーム chamber tomb (考古)主としてブリテン島および西ヨーロッパにみられる後期新石器時代から青銅時代の墓室をもった墓趾。通例、土盛りでおおわれた巨石からなり、時には装飾が施され、何世代にもわたり家族・氏族の埋葬用に使用された。(英和)
  • 石槨 せっかく 墓室内で棺を納める石造施設。古墳時代の小形の石室や石棺をいうこともある。
  • 天井石 てんじょういし?
  • 石室 せきしつ (1) 石造の室。いしむろ。いわむろ。(2) 石で構造した墓室。竪穴式と横穴式とがある。
  • 祝部土器 いわいべ どき (→)須恵器に同じ。
  • 須恵器・陶器 すえき 古墳時代中・後期から奈良・平安時代に作られた、朝鮮半島系技術による素焼の土器。良質粘土で、成形にはろくろを使用、あな窯を使い高温の還元炎で焼くため暗青色のものが一般的。食器や貯蔵用の壺・甕が多く、祭器もある。祝部土器。斎瓮。
  • 陶 スエ やきもの。陶器。すえもの。
  • 高坏 たかつき 食物を盛る脚つきの台。縄文・弥生時代はもっぱら土器であったが、後には木製の平台で、脚を作り付けにして漆塗りなどとなった。角高坏を公式、丸高坏を略式とする。現在は神饌を盛る。たかすき。こしだか。
  • ストーンサークル stone circle 巨石記念物の一種。柱状または板状の石を環状に立て並べたもので、新石器時代から初期金属器時代の祭祀・埋葬に関連する遺構。ヨーロッパ・アジアに広く分布し、イギリスのストーンヘンジはその代表。日本では北日本の縄文時代後期・晩期に多い。環状列石・環状石籬ともいう。
  • 墳墓 ふんぼ (「墳」は盛土のある墓所、「墓」は盛土のない墓所) (1) 人を葬るはか。(2)[史記留侯世家「其親戚を離れ、墳墓を棄て、故旧を去る」]祖先代々の墓。また、その墓のある土地。故郷。
  • 桑 くわ クワ科の落葉高木クワ類の総称。ヤマグワおよびその栽培品種がもっとも普通だが、別種のハチジョウグワ、中国産の魯桑なども栽培され、改良品種も多い。養蚕のために刈りとるから長大なものは少ない。樹皮は淡褐色、葉は深い切れ込みのあるものと全縁のものとある。春、淡黄緑色の単性花を穂状に綴る。雌雄異株、稀に同株。花後、小さい実を結び、熟すれば紫黒色を呈し、味は甘い。材は諸種の用に供し、特に自生樹は硬く、工芸用材として珍重。樹皮の繊維は製紙の原料。殊に葉は養蚕用として重要。四木の一つ。
  • カラムシ 苧・ (「むし」は朝鮮語mosi(苧)の転か、あるいはアイヌ語mose(蕁麻)の転か) イラクサ科の多年草。茎は多少木質で、高さ約1.5m。葉は下面白色、細毛が密生。夏秋の頃、葉腋に淡緑色の小花を穂状につける。雌雄同株。茎の皮から繊維(青苧)を採り、糸を製して越後縮などの布を織る。木綿以前の代表的繊維で、現在も栽培される。苧麻。草真麻。
  • 聚洛 しゅうらく 集落・聚落。「じゅうらく」とも)(1) 人が集まり住んでいるところ。人家がむらがり集まっているところ。山寺など寺院聖域に対して在家の村落をいう。村落。じゅらく。(2)地理学で、人間が共同生活をおこなうための住居の集まりをいう。付随する土地、道路、水路などの場所を含み、人口集団の大小や居住様式、分布、機能などから村落、都市の二大類型に分けられる。
  • 麻布 あさふ 大麻、苧麻、綱麻、亜麻などを材料にした布。特に夏用の着衣その他に使われる。
  • 高塚 たかつか (タカヅカとも) 盛り土のある塚。主に墳丘をもつ古墳を指し、前方後円墳・円墳・方墳・前方後方墳・上円下方墳・双円墳などが含まれる。
  • 云ふ迄でも いうまでも? いうまででも?
  • 仏教 ぶっきょう (Buddhism) 仏陀(釈迦牟尼)を開祖とする世界宗教。前5世紀頃インドに興った。もともとは、仏陀の説いた教えの意。四諦の真理に目覚め、八正道の実践を行うことによって、苦悩から解放された涅槃の境地を目指す。紀元前後には大乗仏教とよばれる新たな仏教が誕生、さらに7〜8世紀には密教へと展開した。13世紀にはインド亜大陸からすがたを消したのと対照的に、インドを超えてアジア全域に広まり、各地の文化や信仰と融合しながら、東南アジア、東アジア、チベットなどに、それぞれ独自の形態を発展させた。
  • 瓔珞 ようらく (1) インドの貴族男女が珠玉や貴金属に糸を通して作った装身具。頭・首・胸にかける。また、仏像などの装飾ともなった。瑶珞。(2) 仏像の天蓋、また建築物の破風などに付ける垂れ飾り。
  • 西域 せいいき (サイイキとも) 中国の西方諸国を中国人が呼んだ汎称。広義にはペルシア・小アジア・シリア・エジプト方面まで含む。狭義にはタリム盆地(東トルキスタン)をいい、漢代にはオアシスにイラン系諸族が分散・定住して小都市国家が分立、西域三十六国と総称され、唐代にかけて東西交通の要衝。
  • 唐草模様 からくさ もよう 織物・染物・蒔絵などで、蔓草のからみ這う形を描いた文様。唐草。忍冬唐草・葡萄唐草・宝相華唐草・蓮華唐草など種類が多い。
  • 石器時代 せっき じだい 考古学上の時代区分の一つ。人類文化の第1段階。まだ金属の使用を知らず、石で利器を作った時代。旧石器時代・新石器時代に大別。
  • 包含地 ほうがんち?
  • 誓び うけび → うけい、か
  • 祈請・誓約 うけい (動詞ウケフの連用形から) 神に祈って成否や吉凶を占うこと。
  • 咀嚼んで かんで?
  • 原史時代 げんし じだい 先史時代と有史時代の中間に位置づけられる、文献的史料の断片的に存在する時代。日本では弥生中期頃から古墳時代に当たる。


◇参照:『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


書きかえメモ。
欝陵島 → 鬱陵島
日御崎 → 日御碕
Andesite → andesite
Cairn → cairn
ケールン → ケルン
堀つて → 掘って
『于山に就て』 → 「于山」について

※ 各章題に読点をおぎなった。


 本文中、鬱陵島の面積は「九平方里ぐらい」とある。いっぽう、『コンサイス外国地名事典』第三版(三省堂、1998.4)は「72km2」、 Wikipedia「鬱陵島」にも「72.82km2」とある。
 一平方里は四キロメートル四方のことだから一六平方キロメートルのはず。そこで七二平方キロメートルを一六で割っても「四.五」にしかならない。仮に本文にしたがって「九平方里」を一六倍すると「一四四平方キロメートル」で、二倍もの差が生じることになる。どこか計算違いか、さもなければ……。
 
 おっと、ここへきて「一里≠四キロメートル」だったことに気がついた。Wikipedia「里」によれば、「現在の日本では約4km、中国では500m、朝鮮では約400mに相当する」とあるではないか。
 とゆーことは、再度やりなおし。
 朝鮮の尺貫法にしたがえば、一平方里は四〇〇メートル四方のことらしいから〇.一六平方キロメートルになる? これもなんかあやしい?
 「一平方里=四キロメートル四方」換算で面積に二倍の差が生じたってことは、本文にしたがえば「一平方里=√8キロメートル四方」???
 そもそも「九平方里」は「三里×三里」だから三里四方ってことになる。三里四方=七二平方キロメートルということは……一里=三キロメートル弱???
 
 ところで『世界大百科事典』(2007)では、鬱陵島は「朝鮮半島の東岸から東方40km」とある。こっちは「140km」の単純誤植だろう。平凡社のチョンボみっけ。




*次週予告


第五巻 第五〇号 
日本周囲民族の原始宗教(六)鳥居龍蔵


第五巻 第五〇号は、
二〇一三年七月六日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第五巻 第四九号
日本周囲民族の原始宗教(五)鳥居龍蔵
発行:二〇一三年六月二九日(土)
編集:しだひろし / PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。



  • T-Time マガジン 週刊ミルクティー *99 出版
  • バックナンバー

    ※ おわびと訂正
     長らく、創刊号と第一巻第六号の url 記述が誤っていたことに気がつきませんでした。アクセスを試みてくださったみなさま、申しわけありませんでした。(しょぼーん)/2012.3.2 しだ

  • 第一巻
  • 創刊号 竹取物語 和田万吉
  • 第二号 竹取物語小論 島津久基(210円)
  • 第三号 竹取物語の再検討(一)橘 純一(210円)
  • 第四号 竹取物語の再検討(二)橘 純一(210円)
  •  「絵合」『源氏物語』より 紫式部・与謝野晶子(訳)
  • 第五号 『国文学の新考察』より 島津久基(210円)
  •  昔物語と歌物語 / 古代・中世の「作り物語」/
  •  平安朝文学の弾力 / 散逸物語三つ
  • 第六号 特集 コロボックル考 石器時代総論要領 / コロボックル北海道に住みしなるべし 坪井正五郎 マナイタのばけた話 小熊秀雄 親しく見聞したアイヌの生活 / 風に乗って来るコロポックル 宮本百合子
  • 第七号 コロボックル風俗考(一〜三)坪井正五郎(210円)
  •  シペ物語 / カナメの跡 工藤梅次郎
  • 第八号 コロボックル風俗考(四〜六)坪井正五郎(210円)
  • 第九号 コロボックル風俗考(七〜十)坪井正五郎(210円)
  • 第十号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
  •  日本太古の民族について / 日本民族概論 / 土蜘蛛種族論につきて
  • 第十一号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
  •  東北民族研究序論 / 猪名部と佐伯部 / 吉野の国巣と国樔部
  • 第十二号 日高見国の研究 喜田貞吉
  • 第十三号 夷俘・俘囚の考 喜田貞吉
  • 第十四号 東人考     喜田貞吉
  • 第十五号 奥州における御館藤原氏 喜田貞吉
  • 第十六号 考古学と古代史 喜田貞吉
  • 第十七号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  遺物・遺蹟と歴史研究 / 日本における史前時代の歴史研究について / 奥羽北部の石器時代文化における古代シナ文化の影響について
  • 第十八号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  日本石器時代の終末期について /「あばた」も「えくぼ」、「えくぼ」も「あばた」――日本石器時代終末期―
  • 第十九号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  本邦における一種の古代文明 ――銅鐸に関する管見―― /
  •  銅鐸民族研究の一断片
  • 第二〇号 特集 考古学 喜田貞吉
  •  「鐵」の字の古体と古代の文化 / 石上神宮の神宝七枝刀 /
  •  八坂瓊之曲玉考
  • 第二一号 博物館(一)浜田青陵
  • 第二二号 博物館(二)浜田青陵
  • 第二三号 博物館(三)浜田青陵
  • 第二四号 博物館(四)浜田青陵
  • 第二五号 博物館(五)浜田青陵
  • 第二六号 墨子(一)幸田露伴
  • 第二七号 墨子(二)幸田露伴
  • 第二八号 墨子(三)幸田露伴
  • 第二九号 道教について(一)幸田露伴
  • 第三〇号 道教について(二)幸田露伴
  • 第三一号 道教について(三)幸田露伴
  • 第三二号 光をかかぐる人々(一)徳永 直
  • 第三三号 光をかかぐる人々(二)徳永 直
  • 第三四号 東洋人の発明 桑原隲蔵
  • 第三五号 堤中納言物語(一)池田亀鑑(訳)
  • 第三六号 堤中納言物語(二)池田亀鑑(訳)
  • 第三七号 堤中納言物語(三)池田亀鑑(訳)
  • 第三八号 歌の話(一)折口信夫
  • 第三九号 歌の話(二)折口信夫
  • 第四〇号 歌の話(三)・花の話 折口信夫
  • 第四一号 枕詞と序詞(一)福井久蔵
  • 第四二号 枕詞と序詞(二)福井久蔵
  • 第四三号 本朝変態葬礼史 / 死体と民俗 中山太郎
  • 第四四号 特集 おっぱい接吻  
  •  乳房の室 / 女の情欲を笑う 小熊秀雄
  •  女体 芥川龍之介
  •  接吻 / 接吻の後 北原白秋
  •  接吻 斎藤茂吉
  • 第四五号 幕末志士の歌 森 繁夫
  • 第四六号 特集 フィクション・サムライ 愛国歌小観 / 愛国百人一首に関連して / 愛国百人一首評釈 斎藤茂吉
  • 第四七号 「侍」字訓義考 / 多賀祢考 安藤正次
  • 第四八号 幣束から旗さし物へ / ゴロツキの話 折口信夫
  • 第四九号 平将門 幸田露伴
  • 第五〇号 光をかかぐる人々(三)徳永 直
  • 第五一号 光をかかぐる人々(四)徳永 直
  • 第五二号 「印刷文化」について 徳永 直
  •  書籍の風俗 恩地孝四郎
  • 第二巻
  • 第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン
  • 第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン
  • 第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 楠山正雄(訳)
  • 第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 小酒井不木 / 折口信夫 / 坂口安吾
  • 第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 海野十三 / 折口信夫 / 斎藤茂吉
  • 第六号 新羅人の武士的精神について 池内 宏
  • 第七号 新羅の花郎について     池内 宏
  • 第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉
  • 第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治
  • 第一〇号 風の又三郎 宮沢賢治
  • 第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎
  • 第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎
  • 第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎
  • 第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎
  • 第一五号 能久親王事跡(五)森 林太郎
  • 第一六号 能久親王事跡(六)森 林太郎
  • 第一七号 赤毛連盟       コナン・ドイル
  • 第一八号 ボヘミアの醜聞    コナン・ドイル
  • 第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル
  • 第二〇号 暗号舞踏人の謎    コナン・ドイル
  • 第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉
  • 第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉
  • 第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太
  • 第二四号 まれびとの歴史 /「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫
  • 第二五号 払田柵跡について二、三の考察 / 山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉
  • 第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎
  • 第二七号 種山ヶ原 / イギリス海岸 宮沢賢治
  • 第二八号 翁の発生 / 鬼の話 折口信夫
  • 第二九号 生物の歴史(一)石川千代松
  • 第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松
  • 第三一号 生物の歴史(三)石川千代松
  • 第三二号 生物の歴史(四)石川千代松
  • 第三三号 特集 ひなまつり
  •  雛 芥川龍之介 / 雛がたり 泉鏡花 / ひなまつりの話 折口信夫
  • 第三四号 特集 ひなまつり
  •  人形の話 / 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫
  • 第三五号 右大臣実朝(一)太宰 治
  • 第三六号 右大臣実朝(二)太宰 治
  • 第三七号 右大臣実朝(三)太宰 治
  • 第三八号 清河八郎(一)大川周明
  • 第三九号 清河八郎(二)大川周明
  • 第四〇号 清河八郎(三)大川周明
  • 第四一号 清河八郎(四)大川周明
  • 第四二号 清河八郎(五)大川周明
  • 第四三号 清河八郎(六)大川周明
  • 第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉
  • 第四五号 火葬と大蔵 / 人身御供と人柱 喜田貞吉
  • 第四六号 手長と足長 / くぐつ名義考  喜田貞吉
  • 第四七号 「日本民族」とは何ぞや / 本州における蝦夷の末路 喜田貞吉
  • 第四八号 若草物語(一)L.M. オルコット
  • 第四九号 若草物語(二)L.M. オルコット
  • 第五〇号 若草物語(三)L.M. オルコット
  • 第五一号 若草物語(四)L.M. オルコット
  • 第五二号 若草物語(五)L.M. オルコット
  • 第五三号 二人の女歌人 / 東北の家 片山広子
  • 第三巻
  • 第一号 星と空の話(一)山本一清
  • 第二号 星と空の話(二)山本一清
  • 第三号 星と空の話(三)山本一清
  • 第四号 獅子舞雑考 / 穀神としての牛に関する民俗 中山太郎
  • 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治 / 奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
  • 第六号 魏志倭人伝 / 後漢書倭伝 / 宋書倭国伝 / 隋書倭国伝
  • 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南
  • 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南
  • 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南
  • 第一〇号 最古日本の女性生活の根底 / 稲むらの陰にて 折口信夫
  • 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦
  •  瀬戸内海の潮と潮流 / コーヒー哲学序説 /
  •  神話と地球物理学 / ウジの効用
  • 第一二号 日本人の自然観 / 天文と俳句 寺田寅彦
  • 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉
  • 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉
  • 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉
  •  倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う /
  •  倭奴国および邪馬台国に関する誤解
  • 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)
  • 第一七号 高山の雪 小島烏水
  • 第一八号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(一)徳永 直
  • 第一九号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(二)徳永 直
  • 第二〇号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(三)徳永 直
  • 第二一号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(四)徳永 直
  • 第二二号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(五)徳永 直
  • 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治
  • 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治
  • 第二五号 ドングリと山猫 / 雪渡り 宮沢賢治
  • 第二六号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(六)徳永 直
  • 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫
  •  黒川能・観点の置き所 / 村で見た黒川能
  •  能舞台の解説 / 春日若宮御祭の研究
  • 第二八号 面とペルソナ / 人物埴輪の眼 他 和辻哲郎
  •  面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
  •  能面の様式 / 人物埴輪の眼
  • 第二九号 火山の話 今村明恒
  • 第三〇号 現代語訳『古事記』(一)上巻(前編)武田祐吉(訳)
  • 第三一号 現代語訳『古事記』(二)上巻(後編)武田祐吉(訳)
  • 第三二号 現代語訳『古事記』(三)中巻(前編)武田祐吉(訳)
  • 第三三号 現代語訳『古事記』(四)中巻(後編)武田祐吉(訳)
  • 第三四号 山椒大夫 森 鴎外
  • 第三五号 地震の話(一)今村明恒
  • 第三六号 地震の話(二)今村明恒
  • 第三七号 津波と人間 / 天災と国防 / 災難雑考 寺田寅彦
  • 第三八号 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉
  • 第三九号 キュリー夫人 / はるかな道(他)宮本百合子
  • 第四〇号 大正十二年九月一日よりの東京・横浜間 大震火災についての記録 / 私の覚え書 宮本百合子
  • 第四一号 グスコーブドリの伝記 宮沢賢治
  • 第四二号 ラジウムの雁 / シグナルとシグナレス(他)宮沢賢治
  • 第四三号 智恵子抄(一)高村光太郎
  • 第四四号 智恵子抄(二)高村光太郎
  • 第四五号 ヴェスヴィオ山 / 日本大地震(他)斎藤茂吉
  • 第四六号 上代肉食考 / 青屋考 喜田貞吉
  • 第四七号 地震雑感 / 静岡地震被害見学記(他)寺田寅彦
  • 第四八号 自然現象の予報 / 火山の名について 寺田寅彦
  • 第四九号 地震の国(一)今村明恒
  • 第五〇号 地震の国(二)今村明恒
  • 第五一号 現代語訳『古事記』(五)下巻(前編)武田祐吉(訳)
  • 第五二号 現代語訳『古事記』(六)下巻(後編)武田祐吉(訳)
  • 第四巻
  • 第一号 日本昔話集 沖縄編(一)伊波普猷・前川千帆(絵)
  • 第二号 日本昔話集 沖縄編(二)伊波普猷
  • 第三号 アインシュタイン(一)寺田寅彦
  •  物質とエネルギー / 科学上における権威の価値と弊害 /
  •  アインシュタインの教育観
  • 第四号 アインシュタイン(二)寺田寅彦
  •  アインシュタイン / 相対性原理側面観
  • 第五号 作家のみた科学者の文学的活動 / 科学の常識のため 宮本百合子
  • 第六号 地震の国(三)今村明恒
  • 第七号 地震の国(四)今村明恒
  • 第八号 地震の国(五)今村明恒
  • 第九号 地震の国(六)今村明恒
  • 第一〇号 土神と狐 / フランドン農学校の豚 宮沢賢治
  • 第一一号 地震学の角度から見た城輪柵趾 今村明恒
  • 第一二号 庄内と日高見(一)喜田貞吉
  • 第一三号 庄内と日高見(二)喜田貞吉
  • 第一四号 庄内と日高見(三)喜田貞吉
  • 第一五号 私は海をだきしめてゐたい / 安吾巷談・ストリップ罵倒 坂口安吾
  • 第一六号 三筋町界隈 / 孫 斎藤茂吉
  • 第一七号 原子力の管理(他)仁科芳雄
  •  原子力の管理 / 日本再建と科学 / 国民の人格向上と科学技術 /
  •  ユネスコと科学
  • 第一八号 J・J・トムソン伝(他)長岡半太郎
  •  J・J・トムソン伝 / アインシュタイン博士のこと 
  • 第一九号 原子核探求の思い出(他)長岡半太郎
  •  総合研究の必要 / 基礎研究とその応用 / 原子核探求の思い出
  • 第二〇号 蒲生氏郷(一)幸田露伴
  • 第二一号 蒲生氏郷(二)幸田露伴
  • 第二二号 蒲生氏郷(三)幸田露伴
  • 第二三号 科学の不思議(一)アンリ・ファーブル
  • 第二四号 科学の不思議(二)アンリ・ファーブル
  • 第二五号 ラザフォード卿を憶う(他)長岡半太郎
  •  ラザフォード卿を憶う / ノーベル小伝とノーベル賞 / 湯川博士の受賞を祝す
  • 第二六号 追遠記 / わたしの子ども時分 伊波普猷
  • 第二七号 ユタの歴史的研究 伊波普猷
  • 第二八号 科学の不思議(三)アンリ・ファーブル
  • 第二九号 南島の黥 / 琉球女人の被服 伊波普猷
  • 第三〇号 『古事記』解説 / 上代人の民族信仰 武田祐吉・宇野円空
  • 第三一号 科学の不思議(四)アンリ・ファーブル
  • 第三二号 科学の不思議(五)アンリ・ファーブル
  • 第三三号 厄年と etc. / 断水の日 / 塵埃と光 寺田寅彦
  • 第三四号 石油ランプ / 流言蜚語 / 時事雑感 寺田寅彦
  • 第三五号 火事教育 / 函館の大火について 寺田寅彦
  • 第三六号 台風雑俎 / 震災日記より    寺田寅彦
  • 第三七号 火事とポチ / 水害雑録 有島武郎・伊藤左千夫
  • 第三八号 特集・安達が原の黒塚 楠山正雄・喜田貞吉・中山太郎
  • 第三九号 大地震調査日記(一)今村明恒
  • 第四〇号 大地震調査日記(二)今村明恒
  • 第四一号 大地震調査日記(続)今村明恒
  • 第四二号 科学の不思議(六)アンリ・ファーブル
  • 第四三号 科学の不思議(七)アンリ・ファーブル
  • 第四四号 震災の記 / 指輪一つ   岡本綺堂
  • 第四五号 仙台五色筆 / ランス紀行 岡本綺堂
  • 第四六号 東洋歴史物語(一)藤田豊八
  • 第四七号 東洋歴史物語(二)藤田豊八
  • 第四八号 東洋歴史物語(三)藤田豊八
  • 第四九号 東洋歴史物語(四)藤田豊八
  • 第五〇号 東洋歴史物語(五)藤田豊八
  • 第五一号 科学の不思議(八)アンリ・ファーブル
  • 第五二号 科学の不思議(九)アンリ・ファーブル
    • 第五巻
    • 第一号 校註『古事記』(一)武田祐吉
    • 第二号 校註『古事記』(二)武田祐吉
    • 第三号 校註『古事記』(三)武田祐吉
    • 第四号 兜 / 島原の夢 / 昔の小学生より / 三崎町の原 岡本綺堂
    • 第五号 新旧東京雑題 / 人形の趣味(他)岡本綺堂
    • 第六号 大震火災記 鈴木三重吉
    • 第七号 校註『古事記』(四)武田祐吉
    • 第八号 校註『古事記』(五)武田祐吉
    • 第九号 校註『古事記』(六)武田祐吉
    • 第一〇号 校註『古事記』(七)武田祐吉
    • 第一一号 大正十二年九月一日の大震に際して(他)芥川龍之介
    •  オウム――大震覚え書きの一つ―
    • 第一二号 日本歴史物語〈上〉(一)喜田貞吉
    • 第一三号 日本歴史物語〈上〉(二)喜田貞吉
    • 第一四号 日本歴史物語〈上〉(三)喜田貞吉
    • 第一五号 日本歴史物語〈上〉(四)喜田貞吉
    • 第一六号 校註『古事記』(八)武田祐吉
    • 第一七号 校註『古事記』(九)武田祐吉
    • 第一八号 校註『古事記』(一〇)武田祐吉
    • 第一九号 校註『古事記』(一一)武田祐吉
    •  語句索引 / 歌謡各句索引
    • 第二〇号 日本歴史物語〈上〉(五)喜田貞吉
    • 第二一号 日本歴史物語〈上〉(六)喜田貞吉
    • 第二二号 日本歴史物語〈上〉索引 喜田貞吉
    •  語句索引 / 人名索引 / 地名一覧
    • 第二三号 クリスマスの贈り物/街の子/少年・春 竹久夢二
    • 第二四号 風立ちぬ(一)堀 辰雄
    • 第二五号 風立ちぬ(二)堀 辰雄
    • 第二六号 風立ちぬ(三)堀 辰雄
    • 第二七号 山の科学・山と川(一)今井半次郎
    • 第二八号 山の科学・山と川(二)今井半次郎
    • 第二九号 山の科学・山と川(三)今井半次郎
    • 第三〇号 菜穂子(一)堀 辰雄
    • 第三一号 菜穂子(二)堀 辰雄
    • 第三二号 菜穂子(三)堀 辰雄
    • 第三三号 菜穂子(四)堀 辰雄
    • 第三四号 菜穂子(五)堀 辰雄
    • 第三五号 山の科学・湖と沼(一)田中阿歌麿
    • 第三六号 山の科学・湖と沼(二)田中阿歌麿
    • 第三七号 恐怖について / 寺田先生と僕(他)海野十三
    • 第五巻 第三八号 電気物語(一)石原 純
    •    緒言
    •   一、電気および磁気に関する古代の知識
    •   二、電気学および磁気学研究の曙光
    •   三、電気に関する最初の仮説
    •   四、電気の重要な基本現象
    •   五、電池の発明
    •  
    •  今日の世の中は「電気の世界」であるといってもよいほどに、われわれは日常の生活で電気を取りあつかい、始終これに接触するようになっている。誰でも電灯のスイッチをひねらないものはないだろうし、電話器を手に取らないものもまれである。家の中や往来でラジオの発声を聞くのも普通であるし、電車の走ることなどはもう、どんな子どもでも不思議がらない。大きなビルディングへ行くと、どこでもエレベーターがわれわれを運んでくれるし、電熱を利用した暖炉や煮沸器などもだんだんおこなわれてくる。電気はまったくわれわれ人間にとって便利な必需品になってしまった。だが、電気がどうしてこんな作用を持つのであろうか、電気とはそもそも何であるか、また、どうしてこれらの応用が発明されるようになったか、そういう疑問に対して一般の人々はまだまだそれほど明瞭には答えることができないであろう。わたしはここで、電気の性質についてできるだけわかりやすく物語ってみたいと思う。電気のいっさいの取りあつかいを学者や技術者だけに任せきりにした時代はすでに過ぎ去っているので、われわれの家庭の中にまで電気器械が入りこんでくるようになると、誰でもこれに対するひととおりの知識をそなえて、少しぐらいの故障は自分でなおしたり、漏電などの災害に対する予防にも注意することが必要になるのである。また、すでに電気について学んだ人々にしても、その知識をいっそう正確にして自然の不思議な本質についてじゅうぶんの理解を得るようにすることは、はなはだ望ましいしだいである。この物語がこれらの意味でなんらかの役に立てばさいわいであるとわたしは思っている。「緒言」より)
    • 第五巻 第三九号 電気物語(二)石原 純
    •    六、電流の法則
    •    七、電流の化学作用
    •    八、電流による熱と光、熱電流
    •    九、電流の磁気作用(一)
    •   一〇、電流の磁気作用(二)
    •  電気分解の現象は、最初ドイツのグロートゥス(一八〇五年)によって、ちょうど磁石の極が鉄に力をおよぼすと同様に、分解せられる各成分が両極から引力および斥力を受けるためであると解せられ、また、イギリスのハンフリー・デヴィーによって同様の解釈があたえられたが、成分がなにゆえに電気力に働かれるかについてじゅうぶん明らかでなかった。ところが一八三三年にいたってファラデーがはじめて、溶液内では電解質の分子成分が最初から解離して存在しており、すなわち、おのおの陽および陰電気を有する二種のイオンを形づくっていることを仮定し、これらが電流の通過にともなう電位差のためにそれぞれ陰極および陽極に運ばれるのであると説明してから、今日までこのイオン解離説が信ぜられている。(略)
    •  電気分解は種々の実用に応用せられる。硫酸銅・硝酸銀・塩化金などの溶液を分解すると、それぞれ銅・銀・金などの金属が陰極に集まるから、陰極導体の表面はこれらの金属でメッキせられる。このばあいに陽極としてはメッキする金属の板をもちいて溶液から費消せられる金属をおぎなうようにする。また電鋳術〔電気鋳造〕ではロウや石膏で木板または彫刻などの型を取り、その表面に石墨を塗って導体としたものを陰極とし、電気メッキと同様にしてその表面に銅を厚く付着させ、電気銅版や銅像などをつくる。さらに電気冶金としては、金属化合物の溶液から電気分解によって金属を陰極に析出させ、これを精製する目的にもちいられ、またこの方法で種々の物質の純粋結晶をつくることもできる。「七、電流の化学作用」より)
    • 第五巻 第四〇号 電気物語(三)石原 純
    •   一一、磁気および電気の場、地球磁気
    •   一二、媒質論の発展
    •   一三、感応電流
    •   一四、電流の自己感応および交流
    •   一五、放電
    •   一六、電気振動、電波
    •   一七、真空放電、陰極線
    •   一八、陽放射線
    •  ライデン瓶の放電やそのほかの火花放電を肉眼で見ると、一瞬時のあいだしか続かないで、その短い時間に電気がひと飛びに中和してしまうように思われるけれども、これを非常に早く回転する回転鏡に映してみると、両極のあいだに多くの往復振動をなして漸次に減衰するものであることがわかる。
    •  この事実は、一八四二年にアメリカのジョセフ・ヘンリーがはじめて鋼鉄針の不規則な磁化によってあきらかにしたのであり、その後、一八五三年イギリスのケルビン卿〔ウィリアム・トムソン〕によって理論的に研究せられ、一八五八年ドイツのフェツ・ダーセンによって回転鏡による実験が工夫せられたのであった。これはちょうど、振子の球を鉛直からはずして離すばあいに直接に静止の位置に達することなく、かえって数回の往復振動をくり返して漸次に止まるのとまったく同様の現象であり、振子の球と等しく電気の運動に対しても一種の惰性の存在するためであることが確かめられる。電流の自己感応もまた、かような惰性のためにおこることはすでに述べたところであるが、交流を断絶したさいに電流が同様の減衰振動をなして後に〇(ゼロ)に達することも実験的に示される。「一六、電気振動、電波」より)
    • 第五巻 第四一号 電気物語(四)石原 純
    •   一九、X線および放射能
    •   二〇、光電気効果、リチャードソン効果
    •   二一、電気素量、電子の性質
    •   二二、物質の電子論およびその発展
    •   二三、電子の波動性
    •   二四、宇宙線
    •  一九〇二年に、ラザフォードおよびソッディーはこれらの事実にもとづいて、放射性物質の変脱理論を提出し、物質元素に関する従来の化学上の見解に対してまったく新しい変革をあたえた。すなわち放射性物質の原子は、放射線を放出するとともに異なった原子に崩壊変脱してゆくものであるというのである。この理論は実際に、かような変脱によって生成せられてゆく多くの物質が実験的に確定せられ、その原子量や化学的性質や光のスペクトルなどがあきらかにせられるにしたがって漸次、動かすことのできないものとなった。今日われわれは変脱系列として、ウラニウム・ラジウム系列、トリウム系列、アクチニウム系列の三つを知り、それらの中にそれぞれ十数個の元素を見い出すにいたった。そして変脱の最後において、これらの系列のいずれもが鉛を生ずることは一つの注目すべき事実である。「一九、X線および放射能」より)
    • 第五巻 第四二号 電気物語(五)総索引 石原 純
    •  語句索引 / 人名索引 / 地名一覧
    • 第五巻 第四三号 森林と樹木と動物(一)本多静六
    •   (一)森林の効用
    •   (二)山を愛せよ
    •   樹木の話
    •   (一)伝説の巨木
    •   (二)大きさによる樹木の区別
    •   (三)葉の形による樹木の区別
    •   (四)春のおとずれ
    •   (五)新緑
    •   (六)夏の景色
    •   (七)秋の紅葉
    •   (八)冬の森
    •   (九)老樹・名木の話
    •  また森林が海岸にあれば、天災中の、おそろしい「津波」の害も少なくなります。かの明治二十九年(一八九六)の三陸地方の津波の被害区域は長さ一五〇マイル〔およそ二四〇キロメートル〕にわたり、死者二万二〇〇〇人、重傷者四四〇〇人、家や船の流されたもの、農地の損失などで損害総額は数千万円にのぼりました。こんな津波などは、とうてい人間の力で防ぎ止めることはできませんが、しかし、もし海岸に沿うて帯のように森林があれば、非常な速力でおし寄せてくる潮水のいきおいをそぎ、したがって惨害も少なくなる道理です。(一)森林の効用」より)
    •  
    •  海岸には、枝ぶりのうつくしいクロマツがつらなり生えたりしています。同じマツでもアカマツは山に適していますが、クロマツは潮風にもっとも強い木です。その林があるので、ただに景色がいいばかりでなく、前にもお話したように津波の害を防ぐこともできます。また海のつよい風は浜辺の砂を吹き飛ばして砂丘をつくったり、その砂丘の砂をまた方々へ吹き運んで、だいじな田や畑や、ときによると人家までもうずめてしまうことがあります。海岸のクロマツの林は、そういう砂の飛来を防ぎとめる役目をもするのです。(六)夏の景色」より)
    • 第五巻 第四四号 森林と樹木と動物(二)本多静六
    •   日本森林植物帯の話
    •   (一)森林植物帯とは何か
    •   (二)日本の森林帯
    •   (三)富士山の森林植物帯
    •   山の動物
    •   (一)山の獣
    •   (二)山の鳥
    •   (三)山の魚
    • (ヘ)草本帯(高山植物)。 (略)草本帯には、乾燥したところに生える植物、すなわち「乾生」のものと、湿気のあるところに生える「湿生」のものとの区別があって、前者は岩石や砂地の乾燥した場所に生え、後者は湿気のある中凹(なかくぼ)みのあるところに生えるのです。
    •  高山にはよくそういう凹地に水をたたえて、ときには沼地を形づくり、付近の岩のあいだに雪をためていたりするところがあります。沼地にはこの雪が溶け流れこむので、その沼水の温度はひじょうに低く、ひどく冷たいわけになります。
    •  乾燥地すなわち岩地・砂地の水分の少ないところでは、植物もたくさんむらがって生えることができなくて、そこここと岩石地に根をおろし、風が強いので葉は地にへばりついており、根は茎にくらべて非常に太く長くなり、岩の裂け目などに深くもぐりこんでいます。この植物のうち、岩のくだけて積もった上に生えるものには、花が赤くて紅緑の葉を持った優美なコマクサや、ノコギリ葉の四出した茎の先に赤い唇形の花がむらがっているミヤマシオガマ、ウメに似た黄色い花をひらきノコギリ歯のある丸い葉を三つずつ、糸のような茎につけたミヤマキンバイ、小さい芝のようなミヤマツメクサ・タカネツメクサなどがあります。
    •  また岩のすき間には、青紫のチシマギキョウ・イワギキョウ、花は白梅に似て、葉は豆のように厚ぼったいイワウメ、ノコギリ歯のある腎臓形の葉を根元に出して、茎の上に黄色の五弁の花をつけるミヤマダイコンや、ハハコグサに似て白フランネルのような葉を持っているミヤマウスユキソウなどが生えます。(二)日本の森林帯」より)
    • 第五巻 第四五号 日本周囲民族の原始宗教(一)鳥居龍蔵
    •   序言
    •   日本周囲民族の原始宗教
    •    一、緒言
    •    二、東北アジア民族の宗教
    •     東北アジア民族の分類
    •     カムチャツカ 付 アラスカ、ベーリング
    •      チュクチ、コリヤーク、エスキモー、ツリンキツト、
    •      ハイダ、チムシャン
    •     千島、北海道、カラフト
    •      アイヌ、ギリヤーク、オロッコ
    •     極東シベリア
    •      ツングース、オロッコ、ゴリド
    •     満州
    •      満州人
    •     朝鮮
    •      朝鮮人
    •     沖縄諸島
    •      沖縄人
    •     モンゴル
    •      モンゴル人
    •     中部シベリア 付 露領トルキスタン
    •      ソロン、バラカ、ブリヤート、ヤクート、トルコ人
    • (略)シャーマンには二種あり、一つはファミリー・シャーマン、一つはプロフェッショナルのシャーマンである。前者には時に巫人として神に仕える専門的のものなく、各自の家々にて祈祷・禁厭(きんえん)をおこない病気をなおすのであって、これを家族的のシャーマンといい、後者の職業的シャーマンは、この家族的シャーマンの一歩進んだもので、専門的の巫人があって神に仕えることをして、一般民衆のために加持・祈祷・占いなど種々のことを営むのである。チュクチ、コリヤークのシャーマンは全く家族的シャーマンに属するのであって、たとえば一家に病人のあるばあいには、その家の娘が主なる巫人となり、両親が神に供物(くもつ)をささげたり、太鼓を打ったりする役をつとめてシャーマンの儀式が成り立つので、きわめて簡単である。太鼓は自家に持っているものもあるが、多くは一村共通で、ある場所に備えつけてあるのを諸所の家から借りにくるのである。この太鼓は、彼らの間には神聖な威力を持ったものと考えられておって、シャーマンには必須のつきものである。悪魔は太鼓の音を聞けば退散するという。(略)
    •  しかるに神というのは何であるかというに、その形は人間の目に見えないものであるが、石を見ると石そのものを神とし、海岸の岩に対して供物などをささげ、岩石と神とを区別しない。木・川・海などの神もまたそうである。これらの物質そのものと神そのものとの区別の立たぬのがおもしろいところで、新シベリア族のほうでは、たとえば石・岡・山・川・木などにしても、それらの内にそれぞれの神が宿っているのであるという思想を持っている。チュクチ、コリヤークになるとこれよりもいっそう原始的であって、物質と神との区別を認めないのである。「二、東北アジア民族の宗教――東北アジア民族の分類」「カムチャツカ」より)
    • 第五巻 第四六号 日本周囲民族の原始宗教(二)鳥居龍蔵
    •   日本周囲民族の原始宗教
    •    三、中部、南シナ民族の宗教
    •     中部南シナ
    •      漢族、苗(ミャオ)族、(ロロ)
    •    四、南東アジア諸島民族の宗教
    •     フィリピン――北部ルソン
    •      イゴロ人
    •     台湾 付 紅頭嶼(こうとうしょ)
    •      インドネジアン――生蕃、熟蕃
    •     太平洋諸島 付、ニュージーランド
    •      マレー・ポリネシア族、マオリー人
    •    五、結論
    •    
    •   朝鮮の巫覡(ふげき)
    •    一、緒言――朝鮮の宗教
    •    二、巫人――巫覡
    •     巫人の社会的地位
    •     巫の呼び方
    •     巫・覡の区別
    •    三、巫(ふ)――女巫(おんなみこ)
    •     祈祷(きとう)
    •    四、覡(げき)――男覡
    •     祈祷
    •    五、結論
    •  なお、台湾の離れ島である紅頭嶼のヤミの方ではいかがかというに、そこでは死者を恐れることがはなはだしい。彼らは生蕃中でもっとも原始的状態にあるもので、この点はわれわれは大いに参考となるのである。予は二か月ほどこの地におって調べたが、人が死ぬと立て膝にしたままで布にて巻き、それを墓場へ持っていくのであるが、その際には二人で死体をかつぎ、他の数人これにしたがい、あるものは刀をぬいて前に進み、あるものは長い鎗をたずさえてこれを守って行く。そして海岸パンダナスの林の中にある墓場に埋める。この途中で、死者が生前の食事にもちいた茶碗・その他の品を路傍に捨て、これに触れぬようにする。死者を埋めて土をかぶせ、その上に一つの石を置き終わると、武装した五、六の会葬人が刀を振りまわしたり、鎗をもって突く真似をしたり、不自然な態度で狂気のごとくに踊り狂う。これは霊魂に対する威嚇であって、これによって生きている人間が霊魂の害を防ぐのであるとしている。かくて一種の叫び声を放ちつつ、自分の家に帰るのである。死者のあった家の軒先にはかならず一本の鎗(Shishikud)を立てておく。鎗に対する神秘的の考えは、前にフィリピン島のイゴロ人のところで述べた、鎗を魔除けにするということと同じ思想である。「四、南東アジア諸島民族の宗教――フィリピン」「台湾」より)
    • 第五巻 第四七号 日本周囲民族の原始宗教(三)鳥居龍蔵
    •   シベリアのシャーマン教より見たる朝鮮の巫覡(ふげき)
    •    一、シャーマニズムとシャーマン
    •    二、シャーマンの種類
    •    三、シャーマンの性
    •     女巫より男覡へ
    •    四、鏡・太鼓・鈴とシャーマン
    •    五、シャーマンの称呼
    •    六、シャーマニズムより来たれる朝鮮現存の習俗
    • (略)巫子が鏡を持っているということは、ひとり朝鮮ばかりでなく、モンゴルのシャーマンも同様である。モンゴルにおいては今日、ラマの仏教〔チベット仏教〕が盛んであるけれども、興安嶺の中やその他にはまだラマの入らぬ以前のシャーマンがある。それも朝鮮の巫子と同様に鏡を持っている。この鏡は非常に威力のあるもので、悪魔をはらい、悪い霊魂を退ける一つの神体になっている。日本の神体にも鏡になっているのがたくさんあるが、シャーマンを信ずるところでは鏡を非常に威力あるものとしている。朝鮮の巫子もその一例であって、鏡は是非なければならぬものとなっている。そのほかシャーマンに必要なものは太鼓である。もっとも、朝鮮のシャーマンではこれはさほど値打ちのあるものとなっていないが、アジア東北方の古アジア民族やウラル・アルタイ民族の間には太鼓に対する信仰が盛んであって、シャーマンには太鼓が必要なものとなっている。太鼓の音は善良なる神霊は喜ぶけれども、悪い神霊は非常にこれを恐れるというので、きわめて神聖のものになっている。それからいま一つは鈴であるが、この鈴も朝鮮の巫子に必要なる物となっていて、鈴はシャーマンの一つのシンボルといってもよいくらいである。鈴の音は悪魔がもっとも嫌うところのものであるから、祈祷をするときにはかならず鈴を振るのである。日本の巫子も同様に鈴を持っている。しかしてこの鈴は日本のそれと同一の形状である。「四、鏡・太鼓・鈴とシャーマン」より)
    • 第五巻 第四八号 日本周囲民族の原始宗教(四)鳥居龍蔵
    •   シベリアのシャーマン教より見たる朝鮮の巫覡(ふげき)
    •    一、シャーマニズムとシャーマン
    •    二、シャーマンの種類
    •    三、シャーマンの性
    •     女巫より男覡へ
    •    四、鏡・太鼓・鈴とシャーマン
    •    五、シャーマンの称呼
    •    六、シャーマニズムより来たれる朝鮮現存の習俗
    • (略)巫子が鏡を持っているということは、ひとり朝鮮ばかりでなく、モンゴルのシャーマンも同様である。モンゴルにおいては今日、ラマの仏教〔チベット仏教〕が盛んであるけれども、興安嶺の中やその他にはまだラマの入らぬ以前のシャーマンがある。それも朝鮮の巫子と同様に鏡を持っている。この鏡は非常に威力のあるもので、悪魔をはらい、悪い霊魂を退ける一つの神体になっている。日本の神体にも鏡になっているのがたくさんあるが、シャーマンを信ずるところでは鏡を非常に威力あるものとしている。朝鮮の巫子もその一例であって、鏡は是非なければならぬものとなっている。そのほかシャーマンに必要なものは太鼓である。もっとも、朝鮮のシャーマンではこれはさほど値打ちのあるものとなっていないが、アジア東北方の古アジア民族やウラル・アルタイ民族の間には太鼓に対する信仰が盛んであって、シャーマンには太鼓が必要なものとなっている。太鼓の音は善良なる神霊は喜ぶけれども、悪い神霊は非常にこれを恐れるというので、きわめて神聖のものになっている。それからいま一つは鈴であるが、この鈴も朝鮮の巫子に必要なる物となっていて、鈴はシャーマンの一つのシンボルといってもよいくらいである。鈴の音は悪魔がもっとも嫌うところのものであるから、祈祷をするときにはかならず鈴を振るのである。日本の巫子も同様に鈴を持っている。しかしてこの鈴は日本のそれと同一の形状である。「四、鏡・太鼓・鈴とシャーマン」より)

    ※ 定価二〇〇円。価格は税込みです。
    ※ タイトルをクリックすると、月末週無料号(赤で号数表示) はダウンロードを開始、有料号および1MB以上の無料号はダウンロードサイトへジャンプします。(更新の都合上、新刊リンク URL が無効のばあいがあります。ご了承ください)