堀 辰雄 ほり たつお
1904-1953(明治37.12.28-昭和28.5.28)
小説家。東京生れ。東大卒。芥川竜之介・室生犀星に師事、日本的風土に近代フランスの知性を定着させ、独自の作風を造型した。作「聖家族」「風立ちぬ」「幼年時代」「菜穂子」など。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。


もくじ 
菜穂子(二) 堀 辰雄


ミルクティー*現代表記版
菜穂子(二)

オリジナル版
菜穂子(二)

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
 ・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
 ・ ポメラ DM100、ソーラーパネル GOAL ZERO NOMAD 7(ガイド10プラス)
※ 週刊ミルクティー*は、JIS X 0213 文字を使用しています。
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*凡例〔現代表記版〕
  • ( ):小書き。〈 〉:割り注。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  •    例、云う → いう / 言う
  •      処  → ところ / 所
  •      有つ → 持つ
  •      這入る → 入る
  •      円く → 丸く
  •      室  → 部屋
  • 一、同音異義の一部のひらがなを、便宜、漢字に改めました。
  •    例、いって → 行って / 言って
  •      きいた → 聞いた / 効いた
  • 一、若干の句読点を改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、和歌・俳句・短歌は五七五(七七)の音節ごとに半角スペースで句切りました。
  • 一、表や図版キャプションなどの組版は、便宜、改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、「今から○○年前」のような経過年数の表記や、郡域・国域など地域の帰属、団体法人名・企業名などは、底本当時のままにしました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。

*尺貫・度量衡の一覧
  • 寸 すん  一寸=約3cm。
  • 尺 しゃく 一尺=約30cm。
  • 丈 じょう (1) 一丈=約3m。尺の10倍。(2) 周尺で、約1.7m。成人男子の身長。
  • 歩 ぶ (1) 左右の足を一度ずつ前に出した長さ。6尺。(2) 土地面積の単位。一歩は普通、曲尺6尺平方で、一坪に同じ。
  • 間 けん  一間=約1.8m。6尺。
  • 町 ちょう (1) 一町=10段(約100アール=1ヘクタール)。令制では3600歩、太閤検地以後は3000歩。(2) (「丁」とも書く) 一町=約109m強。60間。
  • 里 り   一里=約4km(36町)。昔は300歩、今の6町。
  • 合 ごう  一合=約180立方cm。
  • 升 しょう 一升=約1.8リットル。
  • 斗 と   一斗=約18リットル。
  • 海里・浬 かいり 一海里=1852m。
  • 尋 ひろ (1) (「広(ひろ)」の意)両手を左右にひろげた時の両手先の間の距離。(2) 縄・水深などをはかる長さの単位。一尋は5尺(1.5m)または6尺(1.8m)で、漁業・釣りでは1.5mとしている。
  • 坪 つぼ 一坪=約3.3平方m。歩(ぶ)。6尺四方。
  • 丈六 じょうろく 一丈六尺=4.85m。



*底本

底本:「昭和文学全集 第6巻」小学館
   1988(昭和63)年6月1日初版第1刷
底本の親本:「堀辰雄全集 第二巻」筑摩書房
   1977(昭和52)年8月30日初版第1刷発行
http://www.aozora.gr.jp/cards/001030/card4805.html

NDC 分類:913(日本文学 / 小説.物語)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc913.html





菜穂子(二)

堀 辰雄

  にれの家

   第二部


一九二八年九月二十三日、O村にて 

 この日記にふたたび自分がもどってくることがあろうなどとは、わたしはこの二、三年思ってもみなかった。去年のいまごろ、このO村で、ふとしたことからしばらく忘れていたこの日記のことを思い出させられて、なんともいえない慙愧ざんきのあまりにこれを焼いてしまおうかと思ったことはあった。が、そのとき、それを焼く前に一度読みかえしておこうと思って、それすらためらわれているうちに焼く機会さえ失ってしまったくらいで、よもや自分がそれをふたたび取り上げて書き続けるようなことになろうとは夢にも思わなかったのである。それをこうやってふたたび自分の気持ちにむち打つようにしながら書き続けようとする理由は、これを読んでゆくうちにおまえにはわかっていただけるのではないかと思う。

 森さんが突然、北京ペキンでおくなりになったのをわたしが新聞で知ったのは、去年の七月の、朝から息苦しいほど暑かった日であった。その夏になる前に征雄ゆきおは台湾の大学に赴任したばかりのうえ、ちょうどおまえもその数日前から一人でO村の山の家に出かけており、雑司ヶ谷ぞうしがやのだだっぴろい家には、わたしひとりきり取り残されていたのだった。その新聞の記事で見ると、この一か年ほとんどシナでばかりお暮らしになって、作品もあまり発表せられなくなっていられた森さんは、古い北京のある物静かなホテルで、宿痾しゅくあのために数週間病床に就かれたまま、何者かの来るのを死の直前まで待たれるようにしながら、むなしく最後の息を引きとって行かれたとのことだった。
 一年前、何者かから逃れるように日本を去られて、シナへおもむかれてからも、二、三度、森さんはわたしのところにもお便りをくだすった。シナのほかのところはあまりお好きでないらしかったが、都市全体が「古い森林のような」感じのする北京だけは、よほどお気に入られたとみえ、自分はこういうところで孤独な晩年をすごしながら、誰にも知られずに死んでゆきたいなどとご常談じょうだんのようにお書きになってよこされたこともあったが、まさか今が今、こんなことになろうとは、わたしには考えられなかった。あるいは森さんは北京をはじめて見られて、そんなことをわたしに書いておこしになったときから、すでにご自分の運命を見とおされていたのかもしれなかった。……
 わたしは一昨々年さきおととしの夏、O村で森さんにお会いしたきりで、その後はときおりなにか人生に疲れきったような、同時にそういうご自分を自嘲じちょうせられるような、いかにも痛々いたいたしい感じのするお便りばかりをいただいていた。それに対してわたしなどに、あの方をおなぐさめできるような返事などがどうして書けたろう? ことにシナへ突然出立される前に、なにか非常にわたしにもおいになりたがっていられたようだったが(どうしてそんな心の余裕がおありになったのかしら?)、わたしはまだ、先のことがあってからあの方にさっぱりとした気持ちでお逢いできないような気がして、それは婉曲えんきょくにおことわりした。そんな機会にでももう一度お逢いしていたら、と今になってみればいくぶん悔やまれる。が、直接お逢いしてみたところで、手紙以上のことがどうしてあの方に向かってわたしに言えただろう? ……
 森さんの孤独な死について、わたしがともかくも、そんなことをなかば後悔こうかいめいた気持ちでいろいろ考え得られるようになったのは、その朝の新聞を見るなり、急に胸をおしつけられるようになって、気味悪いほどあせをかいたまま、しばらく長椅子の上にたおれていた、そんな突然わたしをおびやかした胸の発作がどうにかしずまってからであった。
 思えば、それがわたしの狭心症の最初の軽微な発作だったのだろうが、それまではそれについて何の予兆もなかったので、そのときはただ自分の驚愕きょうがくのためかと思った。そのとき自分の家にわたしひとりきりであったのが、かえってわたしにはその発作に対して無頓着とんじゃくでいさせたのだ。わたしは女中も呼ばず、しばらく一人で我慢がまんしていてから、やがてすぐ、もとどおりになった。わたしはそのことは誰にも言わなかった。……
 菜穂子、おまえはO村で一人きりでそういう森さんの死を知ったとき、どんな異常な衝動を受けたであろうか。少なくともこのときおまえは、おまえ自身のことよりかわたしのことを、―それからわたしが打ちのめされながらじっとそれをえている、見るに見かねるような様子をなかば気づかいながら、なか苦々にがにがしく思いながら一人で想像していたろうことは考えられる。……が、おまえはそれについてはぜんぜん沈黙を守っており、これまではほんの申訣もうしわけのように書いてよこした端書はがきの便りさえ、そのとききり書いてよこさなくなってしまった。わたしには、このときはそのほうがかえってよかった。自然なようにさえ思えた。あの方がもうお亡くなりになったうえは、いつかは、あの方のことについてもおまえと心をひらいて語り合うこともできよう。――そうわたしは思って、そのうちわたしたちがO村ででもいっしょに暮らしているうちに、それを語り合うにもっともよい夕のあることを信じていた。が、八月のなかばごろになってまっていた用事がかたづいたので、やっとのことでO村へ行けるようになったわたしと入れちがいに、おまえが前もって何も知らせずに東京へ帰ってきてしまったことを知ったときは、さすがのわたしもすこし憤慨ふんがいした。そうして、わたしたちの不和ももうどうにもならないところまで行っているのを、そのことでおまえにあらわに見せつけられたような気がしたのだった。
 平野の真ん中のどこかの駅と駅との間でたがいにすれちがったまま、わたしはおまえと入れかわってO村でじいやたちを相手に暮らすようになり、おまえもおまえで、強情ごうじょうそうに一人きりで生活し、それからは一度もO村へ来ようとはしなかったので、それなりわたしたちは秋までいっぺんも顔をあわせずにしまった。わたしはその夏も、ほとんど山の家に閉じこもったままでいた。八月の間は、村をあちこちと二、三人ずつ組んで散歩をしている学生たちの白絣姿しろがすりすがたが、わたしを村へ出てゆくことを億劫おっくうにさせていた。九月になって、その学生たちがひきあげてしまうと、例年のように霖雨りんうがきて、こんどはもう出ようにも出られなかった。じいやたちも、わたしがあんまり所在なさそうにしているので陰では心配しているらしかったが、わたし自身にはそうやって病後の人のように暮らしているのが一番よかった。わたしはときどきじいやの留守などに、おまえの部屋に入って、おまえが何気なにげなくそこに置いていった本だとか、そこの窓からながめられるかぎりの雑木の一本一本の枝ぶりなどを見ながら、おまえがその夏、この部屋でどういう考えをもって暮らしていたかを、それらのものから読みとろうとしたりしながら、なにか、切ないものでいっぱいになって、知らずらずのうちにそこで長い時間をすごしていることがあった。……
 そのうちに雨がやっとのことであがって、はじめて秋らしい日が続き出した。何日も何日も濃い霧につつまれていた山々や遠くの雑木林が突然、わたしたちの目の前に、もうなかば黄ばみかけた姿を見せ出した。わたしはやっぱり何かホッとし、朝夕、あちこちの林の中などへ散歩に行くことが多くなった。余儀なく家にばかり閉じこもらされていたときは、そんな静かな時間を自分に与えられたことをありがたがっていたのだったけれど、こうして林の中を一人で歩きながら何もかも忘れ去ったような気分になっていると、こういう日々もなかなかよく、どうしてこの間までは、あんなに陰気に暮らしていられたのだろうとわれながら不思議にさえ思われてくるぐらいで、人間というものはずいぶん勝手なものだとわたしは考えた。わたしの好んで行った山よりの落葉松林からまつばやしは、ときおり林の切れ目から薄赤い穂を出したすすきの向こうに浅間のあざやかな山肌をのぞかせながら、どこまでもまっすぐに続いていた。その林がずっと先のほうでその村の墓地の横手へ出られるようになっていることは知っていたけれど、ある日わたしは、いい気持ちになって歩いているうちにその墓地近くまで来てしまい、急に林の奥で人ごえのするのにおどろいて、あわててそこから引っ返してきた。ちょうどその日は、お彼岸の中日だったのだ。わたしはその帰り道、急に林の切れ目のすすきの間から、一人の土地の者らしくない身なりをした中年の女が出てきたのにバッタリと出会った。向こうでも、わたしのような女を見てちょっとおどろいたらしかったが、それは村の本陣のおようさんだった。
「お彼岸だものですから、お墓詣はかまいりに一人で出てきたついでに、あんまり気持ちがよいので、ついいつまでも家に帰らずにフラフラしていました。」おようさんは顔を薄赤くしながらそういって、なにげなさそうな笑い方をした。「こんなにのんびりとした気持ちになれたことは、このごろめったにないことです。……」
 おようさんは長年病身の一人娘をかかえて、わたし同様、ほとんど外出することもないらしいので、ここ四、五年というものは、わたしたちはときおりお互いのうわさを聞きあうくらいで、こうして顔を合わせたことはついぞなかったのだ。わたしたちはそれだものだから、なつかしそうについ長い立ち話をして、それからようやくのことで分かれた。
 わたしは一人で家路につきながら、途々みちみち、いま分かれてきたばかりのおようさんが、数年前にったときから見ると顔などいくぶんけたようだが、わたしとはただの五つちがいとはどうしても思われぬくらい、素振そぶりなどがいかにも娘々しているのを心によみがえらせているうちに、自分などの知っているかぎりだけでもずいぶん不為合ふしあわせな目にばかりあってきたらしいのに、いくら勝ち気だとはいえ、どうしてああ単純な、なにげない様子をしていられるのだろうと不思議に思われてならなかった。それにくらべれば、わたしたちはまあどんなに、自分の運命を感謝していいのだろう。それだのに、始終、そうでもしていなければ気がすまなくなっているかのように、もう、どうでもいいようなことをいつまでも心痛している、―そういう自分たちが、いかにも異様にわたしに感ぜられてきだした。
 林の中から出きらないうちに、もう日がすっかり傾いていた。わたしは突然、ある決心をしながら、おもわず足を早めて帰ってきた。家につくと、わたしはすぐ二階の自分の部屋にあがって行って、この手帳を用箪笥ようだんの奥から取り出してきた。この数日、日が山に入ると急に大気が冷え冷えとしてくるので、いつもわたしが夕方の散歩から帰るまでに、じいやに暖炉だんろに火をたいておくようにいいつけてあったが、その日にかぎってじいやは他の用事に追われて、まだ火をたきつけていなかった。わたしは、いますぐにもその手帳を暖炉だんろに投げ込んでしまいたかったのだ。が、わたしはかたわらの椅子いすに腰かけたまま、その手帳を無雑作むぞうさに手に丸めて持ちながら、一種、いらだたしいような気持ちで、じいやがまきをたきつけているのを見ているほかはなかった。
 じいやは、そういうイライラしているわたしのほうを一度も振りかえろうとはせずに、だまってまきを動かしていたが、この人のいい単純な老人には、わたしはそんな瞬間にもふだんの物静かな奥様にしか見えていなかったろう。……それからこの夏、わたしの来るまでここで一人で本ばかり読んで暮らしていたらしい菜穂子だって、わたしにはあんなに手のつけようのない娘にしか思われないのに、このじいやにはやっぱり、わたしと同じような物静かな娘に見えていたのだったろう。そしてこういう単純な人たちの目には、いつもわたしたちは「おしあわせな」人たちなのだ。わたしたちがどんなに仲の悪い母娘であるかということをいくら言って聞かせてみても、この人たちにはそんなことはとうてい信ぜられないだろう。……そのときふと、こういう気がわたしにされてきた。じつはそういう人たち――いわば純粋な第三者の目に、もっとも生き生きとうつっているだろうおそらくはしあわせな奥様としてのわたしだけがこの世に実在しているので、なにかとえず生の不安におびやかされているわたしのもう一つの姿は、わたしが自分勝手に作り上げている架空の姿にすぎないのではないか。……今日、おようさんを見たときから、わたしにそんな考えがきざしてきだしていたのだと見える。おようさんにはおようさん自身が、どんな姿で感ぜられているか知らない。しかし、わたしにはおようさんは勝ち気な性分で、自分の背負っている運命なんぞはなんでもないと思っているような人に見える。おそらくは誰の目にもそうと見えるにちがいない。そんなふうに、誰の目にもはっきりそうと見えるその人の姿だけがこの世に実在しているのではないか。そうすると、わたしだってもそれは人生なかばにして夫に死別し、その後は多少さびしい生涯だったが、ともかくも二人の子どもを立派に育てあげた堅実な寡婦かふ―それだけがわたしの本来の姿で、そのほかの姿、殊にこの手帳に描かれてあるようなわたしの悲劇的な姿なんぞは、ほんの気まぐれな仮象かしょうにしかすぎないのだ。この手帳さえなければ、そんなわたしはこの地上から永久に姿を消してしまう。そうだ、こんなものはひと思いに焼いてしまうほかはない。ほんとうに、いますぐにも焼いてしまおう。……
 それが夕方の散歩から帰ってきたときからの、わたしの決心だったのだ。それだのに、わたしはじいやがそこを立ち去ったあとも、ちょっとその機会を失ってしまったかのように、その手帳をぼんやりと手にしたまま火の中へ投ぜずにいた。わたしにはすでに反省がきていた。わたしたちのような女は、そうしようと思った瞬間なら自分たちにできそうもないことでもしでかし、それをした理由だってあとからいくらでも考え出せるが、自分がこれからしようとしていることを考え出したら最後、もう、すべてのことが逡巡ためらわれてくる。そのときも、わたしは、いざこれからこの手帳を火に投じようとしかけたとき、ふいともう一度それを読み返して、それが長いことわたしを苦しめていた正体を、現在のこのようなめた心で確かめてからでも遅くはあるまいと考えた。しかし、わたしはそうは思ったものの、そのときの気分ではそれをどうしても読み返してみる気にはなれなかった。そうしてわたしはそれをそのまま、マントル・ピースの上に置いておいた。その夜のうちにも、ふいとそれを手にとって読んで見るような気になるまいものでもないと思ったからであった。が、その夜遅く、わたしは寝るときにそれを、自分の部屋の元あった場所にもどしておくよりほかはなかった。
 そんなことがあってから二、三日たつかたたないうちのことだったのだ。ある夕方、わたしがいつものように散歩をして帰ってきてみると、いつ東京からきたのか、おまえがいつもわたしの腰かけることにしている椅子いすにもたれたまま、いましがたパチパチ音を立てながら燃え出したばかりらしい暖炉だんろの火をじっと見守っていたのは……
 その夜遅くまでのおまえとの息苦しい対話は、その翌朝、突然わたしの肉体に現われた著しい変化とともに、わたしの老いかけた心にとっては最も大きな傷手いたでをあたえたのだった。その記憶もようやく遠のいて、わたしの心のうちでそれが全体としてはっきりと見えやすいようになりだした、それから約一年後の今夜、その同じ山の家の同じ暖炉だんろの前で、わたしはこうして一度は焼いてしまおうと決心しかけたこの手帳をふたたび自分の前にひらいて、こんどこそはわたしのしたことのすべてをつぐなうつもりで、自分の最後の日の近づいてくるのをひたすら待ちながら、こうして自分の無気力な気持ちにむちうちつつ、その日頃ひごろの出来事をつとめてありのままに書きはじめているのだ。

 おまえは暖炉だんろのかたわらに腰かけたまま、そこに近づいて行ったわたしのほうへは何か怒ったような大きいまなざしを向けたきり、なんとも言い出さなかった。わたしもわたしで、まるで昨日もわたしたちがそうしていたように、押しだまったまま、おまえのとなりへ他の椅子いすを持って行ってしずかに腰をおろした。わたしはなぜか、おまえの目つきからすぐおまえの苦しんでいるのを感じ、どんなにかおまえの心の求めているような言葉をかけてやりたかったろう。が、同時に、おまえの目つきにはわたしの口の先まで出かかっている言葉を、そこにそのまま凍らせてしまうようなきびしさがあった。どうしてそんなふうに突然こちらへ来たのかを、率直におまえに問うことさえわたしにはできにくかった。おまえも、それがひとりでにわかるまではなんとも言おうとしないように見えた。やっとのことでわたしたちが二言三言話しあったのは雑司ヶ谷ぞうしがやの人たちの上ぐらいで、あとは、それが毎日の習慣でもあるかのように、二人ならんで黙って焚火たきびを見つめていた。
 日はれていった。しかし、わたしたちはどちらも明かりをけに立とうとはしないで、そのまま暖炉だんろに向かっていた。外が暗くなりだすにつれて、おまえの押しだまった顔を照らしている火かげがだんだん強く光り出していた。ときおりほのおのぐあいでその光のゆらぐのが、おまえが無表情な顔をしていればいるほど、おまえの心の動揺をいっそう示すような気がされてならなかった。
 だが、山家やまがらしい質素な食事に、二人であいかわらず口数くちかずすくなく向かったあと、わたしたちがふたたび暖炉だんろの前に帰って行ってから、だいぶたってからだった。ときどき目をつぶったりして、いかにも疲れてねむたげにしていたおまえが、突然、なんだかうわずったような声で、しかし、じいやたちに聞かれたくないように調子を低くしながら話し出した。それはわたしもうすうす察していたように、やっぱりおまえの縁談についてだった。それまでも二、三度そんな話を他から頼まれて持ってきたが、いつもわたしたちが相手にならなかった高輪たかなわのおまえのおばが、この夏もまた新しい縁談をわたしのところに持ってきたが、ちょうど森さんが北京でお亡くなりになったりしたときだったので、わたしもおちついてその話を聞いてはいられなかった。しかし二度も三度もうるさく言ってくるものだから、しまいにはわたしもつい面倒めんどうになって、菜穂子の結婚のことは当人の考えにまかせることにしてありますから、といって帰した。ところがおまえが八月になってわたしと入れかわりに東京へ帰ったのを知ると、すぐ、おまえのところに直接その縁談をすすめにきたらしかった。そしてそのとき、わたしがなにもかもおまえの考えのままにさせてあると言ったことを妙にたてにとって、おまえがそれまでどんな縁談を持ちこまれてもみんな断わってしまうのを、わたしまでがそれをおまえのわがままのせいにしているようにおまえに向かってめたらしかった。わたしがそう言ったのは、なにもそんなつもりではないくらいなことは、おまえも承知していていいはずだった。それだのに、おまえはそのときおまえのおばにそんなことでつっこまれた腹立ちまぎれに、わたしの何の悪気もなしに言った言葉をもおまえへの中傷のようにとったのだろうか。少なくとも、いまおまえのわたしに向かってその話をしている話し方には、わたしのその言葉をも含めて怒っているらしいのが感ぜられる。……
 そんな話の中途から、おまえは急に幾分いくぶんひきつったような顔をわたしのほうへもちあげた。
「その話、お母さまはいったいどうお思いになって?」
「さあ、わたしにはわからないわ。それはあなたの……」いつもおまえの不機嫌ふきげんそうなときに言うようなオドオドした口調でそう言いさして、わたしは急に口をつぐんだ。こんなおまえをけるような態度でばかりは、もうだんじておまえに対すまい、わたしは今宵こよいこそはおまえに言いたいだけのことを言わせるようにし、自分もおまえに言っておくべきことだけは残らず言っておこう。わたしは、おまえのどんな手きびしい攻撃の矢先にもまともにえて立っていようと決心した。で、わたしは自分にむちうつような強い語気で言い続けた。「……わたしはほんとうのところをいうとね、そのお方がいくら一人息子でも、そうやって母親と二人きりで、いつまでも独身でおとなしく暮らしていらしったというのが気になるのよ。なんだか話の様子では、母親に負けているような気がしますわ、そのお方が……」
 おまえは、そうわたしに思いがけず強く出られると、なにか考え深そうになって燃えしきっているまきを見つめていた。二人はまたしばらく黙っていた。それから急に、いかにもその場でとっさに思いついたような不確かな調子でおまえが言った。
「そういうおとなしすぎるぐらいの人のほうが、かえってよさそうね。わたしなんぞのような、気ばかし強いものの結婚の相手には……」
 わたしは、おまえがそんなことを本気で言っているのかどうか試めすようにおまえの顔を見た。おまえは、あいかわらずパチパチ音を立てて燃えているまきを見すえるようにしながら、しかもそれを見ていないような、空虚なまなざしで自分の前方をキッと見ていた。それはなにか思いつめているような様子をおまえに与えていた。いま、おまえの言ったような考え方がわたしへの厭味いやみではなしに、おまえの本気から出ているのだとすれば、わたしはそれには迂闊うかつに答えられないような気がして、すぐにはなんとも返事がせられずにいた。
 おまえが言いした。「わたしは、自分で自分のことがよくわかっていますもの。
「…………」わたしはいよいよ、なんと返事をしたらいいかわからなくなって、ただじっと、おまえのほうを見ていた。
「わたし、このごろこんな気がするわ、男でも、女でも結婚しないでいるうちはかえって何かに束縛そくばくされているような……始終、もろい、移りやすいようなもの、たとえば幸福なんていう幻影イリュージョンとらわれているような……そうではないのかしら? しかし結婚してしまえば、少なくともそんな果敢はかないものからは自由になれるような気がするわ……」
 わたしは、すぐにはそういうおまえの新しい考えについては行かれなかった。わたしはそれを聞きながら、おまえが自分の結婚ということを当面の問題として真剣になって考えているらしいのに、何よりもおどろいた。その点は、わたしはすこし認識がたりなかった。しかし、いまおまえの言ったような結婚に対する見方が、おまえ自身の未経験な生活からひとりでにできてきたものかどうかということになると、いささか懐疑的だった。――わたしとしては、このままこうしてわたしのそばでおまえがイライラしながら暮らしていたら、たがいに気持ちをこじらせあったまま、自分で自分がどんなところへ行ってしまうかわからないといったような、そんな不安な思いからおまえが苦しまぎれにすがりついている、成熟した他人の思想としてしか見えないのだ……「そういう考え方は、それはそれとしてうなずけるようだけれど、なにもその考えのためにおまえのように結婚をむきになって考えることはないと思うわ……」わたしは、そう自分の感じたとおりのことをいった。「……もうすこし、おまえ、なんていったらいいか、もうすこし、そうね、暢気のんきになれないこと?」
 おまえは顔に反射している火かげのなかで、一種の複雑な笑いのようなものをひらめかせながら、
「お母さまは、結婚なさる前にも暢気のんきでいられた?」とつっこんできた。
「そうね……わたしはずいぶん暢気のんきなほうだったんでしょう、なにしろまだ十九かそこいらだったから。……学校を出ると、うちが貧乏のため母の理想の洋行にやらせられずに、すぐおよめにゆかせられるようになったのを大喜びしていたくらいでしたもの。……」
「でも、それは、お父さまがいいお方なことがおわかりになっていられたからではなくって?」
 おまえのいいお父さまの話が、いかにも自然にわたしたちの話題にのぼったことが、急にわたしをいつになくおまえの前で生き生きとさせだした。
「ほんとうにわたしにはもったいないくらいに、いいお父さまでした。わたしの結婚生活が最初から最後まで順調に行ったのも、わたしの運がよかったのだなどとは一度もわたしに思わせず、そうなるのがさもあたりまえのように考えさせたのが、お父さまの性格でした。ことにわたしがいまでもお父さまに感謝しているのは、結婚したてはまだほんの小娘にすぎなかったわたしを、はじめからどんな場合にでも、一個の女性としてばかりでなく、一個の人間として相手にしてくだすったことでした。わたしはそのおかげで、だんだん人間としての自信がついてきました。……」
「いいお父さまだったのね。……」おまえまでが、いつになく昔を懐かしがるような調子になって言った。「わたしは子どもの時分、よくお父さまのところへおよめに行きたいなあと思っていたものだわ。……」
「…………」わたしは思わず、生き生きした微笑をしながらだまっていた。が、こういう昔話の出たさいに、もうすこしお父さまの生きていらしったころのことや、お亡くなりになった後のことについて、おまえに言っておかなければならないことがあると思った。
 が、おまえがそういうわたしの先を越して言った。こんどは何か、わたしにつっかかるようなしゃがれ声だった。
「それでは、お母さまは、森さんのことはどうお思いになっていらっしゃるの?」
「森さんのこと? ……」わたしはちょっと意外な問いにとまどいながら、おまえのほうへしずかに目を持って行った。
「…………」こんどはおまえが黙ってうなずいた。
「それとこれとは、おまえ、全然……」わたしは、なんとなくあいまいな調子でそう言いかけているうちに、急にいまのおまえのこだわったようなものの問い方で、森さんがわたしたちの不和の原因となったとおまえの思いこんでいたものが、はっきりとわかったような気がした。ずっと前に亡くなられたお父さまのことが、いつまでもおまえの念頭から離れなかったのだ。あのころのおまえは、わたしというものが、おまえの考えている母というものから抜け出して行ってしまいそうだったので気が気でなかったのだ。それがおまえの思いすごしであったことは、いまのおまえならよくわかるだろう。けれども、そのときはわたしもまたわたしで、おまえにそれがそうであることを率直に言ってやれなかった、どうしてだか、そんなことまでが自分の思うように言えないように事物をすこし込み入らせてわたしは考えがちであった、いわば、わたしの唯一の過失はそこにこそあったのだ。いま、わたしはそれをおまえにも、またわたし自身にもはっきりと言い聞かしておかなければならないと思った。「……いいえ、そんな言いようはもうしますまい。それはほんとうに何でもないことだったのがわたしたちにはっきりわかってきているのですから、何でもないこととして言います。森さんがわたしにお求めになったのは、結局のところ、年上の女性としてのお話し相手でした。わたしなんぞのような世間知らずの女が気どらずに申し上げたことが、かえってなんとなく身にしみてお感ぜられになっただけなのです。それだけのことだったのがそのときはあの方にもわからず、わたし自身にもわからなかったのです。それは、ただの話し相手は話し相手でも、あの方がわたしにどこまでも、一個の女性としての相手を望まれていたのがいけなかったのでした。それが、わたしをだんだん窮屈きゅうくつにさせていったのです。……」そう、息もつかずに言いながら、わたしはあんまり暖炉だんろの火をまともに見つづけていたので、目が痛くなってきて、それを言い終わるとしばらく目を閉じていた。ふたたびそれを開けたときは、こんどはわたしはおまえの顔の方へそれを向けながら、「……わたしはね、菜穂子、このごろになってやっと女ではなくなったのよ。わたしは、ずいぶんそういう年になるのを待っていました。……わたしは自分がそういう年になれてから、もう一度、森さんにお目にかかって心おきなくお話の相手をして、それから最後のお別れをしたかったのですけれど……」
 おまえはしかし、押しだまって暖炉だんろの火に向かったまま、その顔にかげのゆらめきとも、また一種の表情とも分かちがたいものをうかべながら、あいかわらず自分の前を見すえているきりだった。
 その沈黙のうちに、いまわたしが、すこしばかりうわずったような声で言った言葉がいつまでも空虚に響いているような気がして、急に胸がしめつけられるようになった。わたしは、おまえのいま考えていることをなんとでもして知りたくなって、そんなことをくつもりもなしにいた。
「おまえは森さんのことを、どうお考えなの?」
「わたし? ……」おまえはくちびるをかんだまま、しばらくはなんとも言い出さなかった。
「……そうね、お母さまの前ですけれど、わたしはああいうお方は敬遠しておきたいわ。それはお書きになるものはおもしろいと思って読むけれども、あのお方とおつきあいしたいとは思いませんでしたわ。なんでもご自分のなさりたいと思うことをしていいと思っているような天才なんていうものは、わたしはすこしも自分のそばに持ちたいとは思っていませんわ。……」
 おまえのそういう一語一語が、わたしの胸を異様に打った。わたしはもう、しようがないといったふうにふたたび目を閉じたまま、いまこそわたしとの不和がおまえからうばったものをはっきりと知った。それは母としてのわたしではない、断じてそうでない、それは人生のもっとも崇高なものに対する、女らしい信従なのである。母としてのわたしはふたたびおまえに戻されても、そういう人生への信従はもう容易には返されないのではなかろうか?……
 もう夜もだいぶふけたらしく、小屋の中までかなり冷えこんできていた。先に寝かせてあったじいやがもうひと寝入りしてから、ふと目を覚ましたようで、台所部屋のほうから年よりらしいせきばらいのするのが聞こえ出した。わたしたちはそれに気づくと、もう、どちらからともなく暖炉だんろまきを加えるのをやめていたが、だんだん衰え出した火力がわたしたちの身体を知らずらず、たがいに近よらせだしていた。心と心とはいつか、自分自分の奥深くに引き込ませてしまいながら……

 その夜は、もう十二時をすぎてから各自の寝室に引き上げたあとも、わたしはどうにも目がさえて、ほとんどまんじりともできなかった。わたしは隣のおまえの部屋でも、夜どおし寝台のきしるのを耳にしていた。それでも明け方、ようやく窓のあたりがしらんでくるのを認めると、なにかホッとしたせいか、わたしはついうとうととまどろんだ。が、それからどのくらいたったか覚えていないが、わたしは急に何者かが自分のかたわらに立ちはだかっているような気がして、おもわず目を覚ました。そこに髪をふりみだしながら立っている真白まっしろな姿が、だんだん寝巻のままのおまえに見えだした。おまえは、わたしがやっとおまえを認めたことに気がつくと、急におこったような切口上きりこうじょうで言い出した。
「……わたしには、お母さまのことはよくわかっているのよ。でも、お母さまには、わたしのことがちっともわからないの。何ひとつだってわかってくださらないのね。……けれども、これだけは事実としておわかりになっておいてちょうだい。わたし、こちらへくる前に、じつはおば様にさっきのお話の承諾しょうだくをしてきました。……」
 夢ともうつつともつかないようなうつろなまなざしで、おまえをじっと見つめているわたしの目を、おまえは何かせつなげな目つきで受けとめていた。わたしはおまえの言っていることがよくわからないように、そしてそれをいっそうよく聞こうとするかのように、ほとんど無意識に寝台の上になかば身をおこそうとした。
 しかし、そのときはおまえはもう、わたしのほうをふりむきもしないで、すばやく扉のうしろに姿を消していた。
 下の台所ではさっきからもうじいやたちが起きて、ゴソゴソと何やら物音を立て出していた。それがわたしに、そのまま起きておまえのあとを追って行くことをためらわせた。

 わたしはその朝も七時になると、いつものように身だしなみをして、階下におりて行った。わたしはその前にしばらく、おまえの寝室の気配に耳をかたむけてみたが、夜じゅうときどき思い出したようにきしっていた寝台の音も、いまはすっかりしなくなっていた。わたしはおまえがその寝台の上で、眠られぬ夜のあとで、かきみだれた髪の中に顔をうずめているうちに、さすがに若さから正体もなく寝入ってしまうと、まもなく日が顔にいっぱいあたり出して、涙をそれとなく乾かしている……そんなおまえのしどけない寝姿さえ想像されたが、そのままおまえをしずかに寝かせておくため、足音をしのばせて階下におりてゆき、じいやには、菜穂子の起きてくるまでわたしたちの朝飯の用意をするのを待っているようにいいつけておいて、わたしは一人で秋らしい日の斜めにさして木かげのいっぱいにひろがった庭の中へ出て行った。寝不足の目には、その木かげに点々と落ちこぼれている日の光のぐあいが言いようもなくさわやかだった。わたしは、もうすっかり葉の黄いろくなったにれの木の下のベンチに腰をおろして、けさの寝ざめの重たい気分とはあまりにかけはなれた、そういうかがやかしい日和ひよりをなにか心臓がドキドキするほど美しく感じながら、かわいそうなおまえの起きてくるのを心待ちに待っていた。おまえがわたしに対する反抗的な気持ちからあまりにもむこうみずなことをしようとしているのを、断然おまえに諫止かんししなければならないと思った。その結婚をすれば、おまえがかならず不幸になるとわたしの考える理由は何ひとつない、ただ、わたしはそんな気がするだけなのだ。――わたしはおまえの心を閉じてしまわせずに、そこのところをよくわかってもらうためには、どういうところから言い出したらいいのであろうか。いまからその言葉を用意しておいたって、それを一つ一つおまえに向かって言えようとは思えない、―それよりか、おまえの顔を見てから、こちらが自分をすっかりなくして、なんの心用意もせずにおまえに立ち向かいながら、その場で自分に浮かんでくることをそのまま言ったほうがおまえの心を動かすことが言えるのではないか、と考えた。……そう考えてからは、わたしはつとめておまえのことから心をそらせて、自分の頭上の真黄いろなにれの木の葉がサラサラと音を立てながら、たえずわたしの肩のあたりにらしている細かい日の光をなんて気持ちがいいんだろうと思っているうちに、自分の心臓が何度目かにはげしくしめつけられるのを感じた。が、こんどはそれはすぐまず、まあ、これはいったいどうしたのだろうと思い出したほど、長くつづいていた。わたしはその腰かけの背に両手をかけてやっとのことで上半身をささえていたが、その両手に急に力がなくなって……

   菜穂子の追記


 ここで、母の日記は中絶している。その日記のいちばん終わりに記されてある、ある秋の日の小さな出来事があってから、ちょうど一か年たって、やはり同じ山の家で、母がその日のことを何を思いたたれてか急にお書き出しになっていらっしった折りも折り、再度の狭心症の発作におそわれてそのままおたおれになった。この手帳はその意識を失われた母のかたわらに、書きかけのまま開かれてあったのをじいやが見つけたものである。
 母の危篤きとくの知らせにおどろいて東京からけつけたわたしは、母の死後、じいやから渡された手帳が母の最近の日記らしいのをすぐ認めたが、そのときはなにかすぐ、それを読んでみようという気にはなれなかった。わたしはそのまま、それをO村の小屋に残してきた。わたしはその数か月前にすでに、母の意に反した結婚をしてしまっていた。そのときはまだ自分の新しい道をひらこうとして努力している最中だったので、ひとたび葬った自分の過去をふたたびふりかえって見るようなことは、わたしにはたえがたいことだったからだ。……
 そのつぎにまたO村の家に残しておいたものの整理に一人できたとき、わたしははじめてその母の日記を読んだ。この前のときからまだ半年とはたっていなかったが、わたしは母が気づかったように、自分の前途のきわめて困難であるのをようやく身にしみて知り出していた折りでもあった。わたしはなかばその母に対する一種のなつかしさ、なかば自分に対する悔恨かいこんから、その手帳をはじめて手にとったが、それを読みはじめるやいなや、わたしはそこに描かれている当時の少女になったようになって、やはり母の一言ひとこと一言に小さな反抗を感ぜずにはいられない自分を見い出した。わたしはなんとしても、いまだにこの日記の母をうけいれるわけにはいかないのである。――お母さま、この日記の中でのように、わたしがお母さまから逃げまわっていたのはお母さま自身からなのです。それはお母さまのお心のうちにだけあるわたしの、悩める姿からなのです。わたしはそんなことでもって一度も、そんなに苦しんだり悩んだりしたことはございませんもの。……
 わたしはそう心のなかで、思わず母によびかけては、なんべんもその手帳を中途で手放そうと思いながら、やっぱり最後まで読んでしまった。読みおわっても、それを読みはじめたときからわたしの胸をいっぱいにさせていた憤懣ふんまんに近いものは、なかなか消え去るようには見えなかった。
 しかし気がついてみると、わたしはこの日記を手にしたまま、いつか知らずらずのうちに、一昨年おととしの秋のある朝、母がそこに腰かけてわたしを待ちながら最初の発作におそわれた、大きなにれの木の下に来ていた。いまはまだ春先はるさきで、そのにれの木はすっかり葉を失っていた。ただそのときの丸木の腰かけだけが、なかばこわれながら元の場所に残っていた。
 わたしが、そのなかば毀れた母の腰かけを認めた瞬間であった。この日記読了後の一種、説明しがたい母への同化、それゆえにこそまた同時にそれに対するほとんど嫌悪にさえ近いものが、突然わたしの手にしていた日記をそのまま、そのにれの木の下に埋めることをわたしに思い立たせた。……
(つづく)



底本:「昭和文学全集 第6巻」小学館
   1988(昭和63)年6月1日初版第1刷
底本の親本:「堀辰雄全集 第二巻」筑摩書房
   1977(昭和52)年8月30日初版第1刷発行
初出:楡の家 第一部「物語の女」山本書店(「物語の女」の表題で。
   1934(昭和9)年11月
   楡の家 第二部「文学界」「目覚め」の表題で。
   1941(昭和16)年9月号
   菜穂子「中央公論」
   1941(昭和16)年3月号
初収単行本:「菜穂子」創元社
   1941(昭和16)年11月18日
※創元社版の「菜穂子」には、山本書店版「物語の女」が「楡の家」第一部として、「文学界」掲載の「目覚め」が「楡の家」第二部として、「中央公論」掲載の「菜穂子」がそのままの表題で収録された。
※底本の親本の筑摩全集版は創元社版を底本とする。
※初出情報は、「堀辰雄全集 第二巻」(1977(昭和52)年8月30日、筑摩書房)解題による。
※訂正注記に際しては、底本の親本を参照しました。
入力:kompass
校正:浅原庸子
2004年1月21日作成
2012年4月14日修正
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菜穂子(二)

堀辰雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)その儘《まま》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)丁度|午餐《ごさん》後

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]
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[#2字下げ]楡の家[#「楡の家」は大見出し]

[#3字下げ]第二部[#「第二部」は中見出し]

[#地から1字上げ]一九二八年九月二十三日、O村にて

 この日記に再び自分が戻って来ることがあろうなどとは私はこの二三年思ってもみなかった。去年のいま頃、このO村でふとしたことから暫く忘れていたこの日記のことを思い出させられて、何とも云えない慚愧《ざんき》のあまりにこれを焼いてしまおうかと思ったことはあった。が、そのときそれを焼く前に一度読み返しておこうと思って、それすらためらわれているうちに焼く機会さえ失ってしまった位で、よもや自分がそれを再び取り上げて書き続けるような事になろうとは夢にも思わなかったのである。それをこうやって再び自分の気持に鞭《むち》うつようにしながら書き続けようとする理由は、これを読んでゆくうちにお前には分かっていただけるのではないかと思う。

 森さんが突然|北京《ペキン》でお逝《な》くなりになったのを私が新聞で知ったのは、去年の七月の朝から息苦しいほど暑かった日であった。その夏になる前に征雄は台湾の大学に赴任したばかりの上、丁度お前もその数日前から一人でO村の山の家に出掛けて居り、雑司ヶ谷のだだっ広い家には私ひとりきり取り残されていたのだった。その新聞の記事で見ると、この一箇年殆ど支那でばかりお暮らしになって、作品もあまり発表せられなくなっていられた森さんは、古い北京の或物静かなホテルで、宿痾《しゅくあ》のために数週間病床に就かれたまま、何者かの来るのを死の直前まで待たれるようにしながら、空しく最後の息を引きとって行かれたとの事だった。
 一年前、何者かから逃れるように日本を去られて、支那へ赴かれてからも、二三度森さんは私のところにもお便りを下すった。支那の外のところはあまりお好きでないらしかったが、都市全体が「古い森林のような」感じのする北京だけはよほどお気に入られたと見え、自分はこういうところで孤独な晩年を過ごしながら誰にも知られずに死んでゆきたいなどと御常談のようにお書きになって寄こされたこともあったが、まさか今が今こんな事になろうとは私には考えられなかった。或は森さんは北京をはじめて見られてそんな事を私に書いてお寄こしになったときから、既に御自分の運命を見透されていたのかも知れなかった。……
 私は一昨々年の夏、O村で森さんにお会いしたきりで、その後はときおり何か人生に疲れ切ったような、同時にそういう御自分を自嘲せられるような、いかにも痛々しい感じのするお便りばかりをいただいていた。それに対して私などにあの方をお慰めできるような返事などがどうして書けたろう? 殊に支那へ突然出立される前に、何か非常に私にもお逢いになりたがっていられたようだったが(どうしてそんな心の余裕がおありになったのかしら?)、私はまだ先の事があってからあの方にさっぱりとした気持でお逢い出来ないような気がして、それは婉曲《えんきょく》におことわりした。そんな機会にでももう一度お逢いしていたら、と今になって見れば幾分悔やまれる。が、直接お逢いしてみたところで、手紙以上のことがどうしてあの方に向って私に云えただろう? ……
 森さんの孤独な死について、私がともかくもそんな事を半ば後悔めいた気持でいろいろ考え得られるようになったのは、その朝の新聞を見るなり、急に胸を圧《お》しつけられるようになって、気味悪いほど冷汗を掻いたまま、しばらく長椅子の上に倒れていた、そんな突然私を怯《おび》やかした胸の発作がどうにか鎮まってからであった。
 思えば、それが私の狭心症の最初の軽微な発作だったのだろうが、それまではそれについて何んの予兆もなかったので、そのときはただ自分の驚愕《きょうがく》のためかと思った。そのとき自分の家に私ひとりきりであったのが却《かえ》って私にはその発作に対して無頓着《むとんじゃく》でいさせたのだ。私は女中も呼ばず、しばらく一人で我慢していてから、やがてすぐ元通りになった。私はそのことは誰にも云わなかった。……
 菜穂子、お前はO村で一人きりでそういう森さんの死を知ったとき、どんな異常な衝動を受けたであろうか。少くともこのときお前はお前自身のことよりか私のことを、――それから私が打ちのめされながらじっとそれを耐えている、見るに見かねるような様子を半ば気づかいながら、半ば苦々しく思いながら一人で想像していたろうことは考えられる。……が、お前はそれに就いては全然沈黙を守っており、これまではほんの申訣《もうしわけ》のように書いてよこした端書《はがき》の便りさえそのとききり書いてよこさなくなってしまった。私にはこのときはその方が却って好かった。自然なようにさえ思えた。あの方がもうお亡くなりになった上は、いつかはあの方の事に就いてもお前と心をひらいて語り合うことも出来よう。――そう私は思って、そのうち私達がO村ででも一しょに暮らしているうちに、それを語り合うに最もよい夕のあることを信じていた。が、八月の半ば頃になって溜《た》まっていた用事が片づいたので、漸《や》っとの事でO村へ行けるようになった私と入れちがいにお前が前もって何も知らせずに東京へ帰って来てしまったことを知ったときは、流石《さすが》の私もすこし憤慨した。そうして私達の不和ももうどうにもならないところまで行っているのをその事でお前に露わに見せつけられたような気がしたのだった。
 平野の真ん中の何処かの駅と駅との間で互にすれちがった儘《まま》、私はお前と入れ代ってO村で爺やたちを相手に暮らすようになり、お前もお前で、強情そうに一人きりで生活し、それからは一度もO村へ来ようとはしなかったので、それなり私達は秋まで一遍も顔を合わせずにしまった。私はその夏も殆ど山の家に閉じこもった儘でいた。八月の間は、村をあちこちと二三人ずつ組んで散歩をしている学生たちの白絣姿《しろがすりすがた》が私を村へ出てゆくことを億劫《おっくう》にさせていた。九月になって、その学生たちが引き上げてしまうと、例年のように霖雨《りんう》が来て、こんどはもう出ようにも出られなかった。爺やたちも私があんまり所在なさそうにしているので陰では心配しているらしかったが、私自身にはそうやって病後の人のように暮らしているのが一番好かった。私はときどき爺やの留守などに、お前の部屋にはいって、お前が何気なくそこに置いていった本だとか、そこの窓から眺められるかぎりの雑木の一本一本の枝ぶりなどを見ながら、お前がその夏この部屋でどういう考えをもって暮らしていたかを、それ等のものから読みとろうとしたりしながら、何か切ないもので一ぱいになって、知《し》らず識《し》らずの裡《うち》に其処で長い時間を過ごしていることがあった。……
 そのうちに雨が漸《や》っとの事で上がって、はじめて秋らしい日が続き出した。何日も何日も濃い霧につつまれていた山々や遠くの雑木林が突然、私達の目の前にもう半ば黄ばみかけた姿を見せ出した。私は矢っ張何かほっとし、朝夕、あちこちの林の中などへ散歩に行くことが多くなった。余儀なく家にばかり閉じこもらされていたときはそんな静かな時間を自分に与えられたことを有難がっていたのだったけれど、こうして林の中を一人で歩きながら何もかも忘れ去ったような気分になっていると、こういう日々もなかなか好く、どうしてこの間まではあんなに陰気に暮らしていられたのだろうと我ながら不思議にさえ思われてくる位で、人間というものは随分勝手なものだと私は考えた。私の好んで行った山よりの落葉松林《からまつばやし》は、ときおり林の切れ目から薄赤い穂を出した芒《すすき》の向うに浅間の鮮な山肌をのぞかせながら、何処までも真直に続いていた。その林がずっと先きの方でその村の墓地の横手へ出られるようになっていることは知っていたけれど、或日私は好い気持になって歩いているうちにその墓地近くまで来てしまい、急に林の奥で人ごえのするのに驚いて、惶《あわ》ててそこから引っ返して来た。丁度その日はお彼岸の中日だったのだ。私はその帰り道、急に林の切れ目の芒の間から一人の土地の者らしくない身なりをした中年の女が出てきたのにばったりと出会った。向うでも私のような女を見てちょっと驚いたらしかったが、それは村の本陣のおようさんだった。
「お彼岸だものですから、お墓詣《はかまいり》に一人で出て来たついでに、あんまり気持が佳《よ》いのでつい何時までも家に帰らずにふらふらしていました。」おようさんは顔を薄赤くしながらそう云って何気なさそうな笑い方をした。「こんなにのんびりとした気持になれたことはこの頃滅多にないことです。……」
 おようさんは長年病身の一人娘をかかえて、私同様、殆ど外出することもないらしいので、ここ四五年と云うものは私達はときおりお互の噂を聞き合う位で、こうして顔を合わせたことはついぞなかったのだ。私達はそれだものだから、なつかしそうについ長い立ち話をして、それから漸《ようや》くの事で分かれた。
 私は一人で家路に著《つ》きながら、途々《みちみち》、いま分かれてきたばかりのおようさんが、数年前に逢ったときから見ると顔など幾分|老《ふ》けたようだが、私とは只の五つ違いとはどうしても思われぬ位、素振りなどがいかにも娘々しているのを心に蘇《よみがえ》らせているうちに、自分などの知っているかぎりだけでも随分|不為合《ふしあわ》せな目にばかり逢って来たらしいのに、いくら勝気だとはいえ、どうしてああ単純な何気ない様子をしていられるのだろうと不思議に思われてならなかった。それに比べれば、私達はまあどんなに自分の運命を感謝していいのだろう。それだのに、始終、そうでもしていなければ気がすまなくなっているかのように、もうどうでも好いような事をいつまでも心痛している、――そういう自分達がいかにも異様に私に感ぜられて来だした。
 林の中から出きらないうちに、もう日がすっかり傾いていた。私は突然或決心をしながら、おもわず足を早めて帰ってきた。家に著くと、私はすぐ二階の自分の部屋に上がっていって、此の手帳を用箪笥《ようだんす》の奥から取り出してきた。この数日、日が山にはいると急に大気が冷え冷えとしてくるので、いつも私が夕方の散歩から帰るまでに爺やに暖炉に火を焚《た》いて置くように云いつけてあったが、その日に限って爺やは他の用事に追われて、まだ火を焚きつけていなかった。私はいますぐにもその手帳を暖炉に投げ込んでしまいたかったのだ。が、私は傍らの椅子に腰かけたまま、その手帳を無雑作に手に丸めて持ちながら、一種|苛《い》ら立《だ》たしいような気持で、爺やが薪を焚きつけているのを見ている外はなかった。
 爺やはそういう苛ら苛らしている私の方を一度も振りかえろうとはせずに、黙って薪を動かしていたが、この人の好い単純な老人には私はそんな瞬間にもふだんの物静かな奥様にしか見えていなかったろう。……それからこの夏私の来るまで此処で一人で本ばかり読んで暮らしていたらしい菜穂子だって私にはあんなに手のつけようのない娘にしか思われないのに、この爺やには矢っ張私と同じような物静かな娘に見えていたのだったろう。そしてこういう単純な人達の目には、いつも私達は「お為合《しあ》わせな」人達なのだ。私達がどんなに仲の悪い母娘であるかと云う事をいくら云って聞かせてみても此人達にはそんな事は到底信ぜられないだろう。……そのときふとこういう気が私にされてきた。実はそういう人達――いわば純粋な第三者の目に最も生き生きと映っているだろう恐らくは為合わせな奥様としての私だけがこの世に実在しているので、何かと絶えず生の不安に怯《おび》やかされている私のもう一つの姿は、私が自分勝手に作り上げている架空の姿に過ぎないのではないか。……きょうおようさんを見たときから、私にそんな考えが萌《きざ》して来だしていたのだと見える。おようさんにはおようさん自身がどんな姿で感ぜられているか知らない。しかし私にはおようさんは勝気な性分で、自分の背負っている運命なんぞは何んでもないと思っているような人に見える。恐らくは誰の目にもそうと見えるにちがいない。そんな風に誰の目にもはっきりそうと見えるその人の姿だけがこの世に実在しているのではないか。そうすると、私だってもそれは人生半ばにして夫に死別し、その後は多少寂しい生涯だったが、ともかくも二人の子供を立派に育て上げた堅実な寡婦、――それだけが私の本来の姿で、そのほかの姿、殊に此の手帳に描かれてあるような私の悲劇的な姿なんぞはほんの気まぐれな仮象にしか過ぎないのだ。此の手帳さえなければ、そんな私はこの地上から永久に姿を消してしまう。そうだ、こんなものは一思いに焼いてしまうほかはない。本当にいますぐにも焼いてしまおう。……
 それが夕方の散歩から帰って来たときからの私の決心だったのだ。それだのに、私は爺やが其処を立ち去った後も、ちょっとその機会を失ってしまったかのように、その手帳をぼんやりと手にしたまま火の中へ投ぜずにいた。私には既に反省が来ていた。私達のような女は、そうしようと思った瞬間なら自分達にできそうもない事でもしでかし、それをした理由だってあとからいくらでも考え出せるが、自分がこれからしようとしている事を考え出したら最後、もうすべての事が逡巡《ためら》われてくる。そのときも、私はいざこれから此の手帳を火に投じようとしかけた時、ふいともう一度それを読み返して、それが長いこと私を苦しめていた正体を現在のこのような醒《さ》めた心で確かめてからでも遅くはあるまいと考えた。しかし、私はそうは思ったものの、そのときの気分ではそれをどうしても読み返してみる気にはなれなかった。そうして私はそれをその儘《まま》、マントル・ピイスの上に置いておいた。その夜のうちにも、ふいとそれを手にとって読んで見るような気になるまいものでもないと思ったからであった。が、その夜遅く、私は寝るときにそれを自分の部屋の元あった場所に戻しておくより外はなかった。
 そんな事があってから二三日立つか立たないうちの事だったのだ。或夕方、私がいつものように散歩をして帰って来てみると、いつ東京から来たのか、お前がいつも私の腰かけることにしている椅子に靠《もた》れたまま、いましがたぱちぱち音を立てながら燃え出したばかりらしい暖炉の火をじっと見守っていたのは……
 その夜遅くまでのお前との息苦しい対話は、その翌朝突然私の肉体に現われた著しい変化と共に、私の老いかけた心にとっては最も大きな傷手を与えたのだった。その記憶も漸《ようや》く遠のいて私の心の裡《うち》でそれが全体としてはっきりと見え易いようになり出した、それから約一年後の今夜、その同じ山の家の同じ暖炉の前で、私はこうして一度は焼いてしまおうと決心しかけた此の手帳を再び自分の前にひらいて、こんどこそは私のしたことのすべてを贖《つぐな》うつもりで、自分の最後の日の近づいてくるのをひたすら待ちながら、こうして自分の無気力な気持に鞭《むち》うちつつその日頃の出来事をつとめて有りの儘《まま》に書きはじめているのだ。

 お前は暖炉の傍らに腰かけたまま、そこに近づいていった私の方へは何か怒ったような大きい目ざしを向けたきり、何んとも云い出さなかった。私も私で、まるできのうも私達がそうしていたように、押し黙ったまま、お前の隣りへ他の椅子をもっていって徐《しず》かに腰を下ろした。私はなぜかお前の目つきからすぐお前の苦しんでいるのを感じ、どんなにかお前の心の求めているような言葉をかけてやりたかったろう。が、同時に、お前の目つきには私の口の先まで出かかっている言葉をそこにそのまま凍らせてしまうようなきびしさがあった。どうしてそんな風に突然こちらへ来たのかを率直にお前に問うことさえ私には出来悪《できにく》かった。お前もそれがひとりでに分かるまでは何んとも云おうとしないように見えた。漸《や》っとの事で私達が二言三言話し合ったのは雑司ヶ谷の人達の上ぐらいで、あとはそれが毎日の習慣でもあるかのように二人並んで黙って焚火《たきび》を見つめていた。
 日は昏《く》れていった。しかし、私達はどちらもあかりを点《つ》けに立とうとはしないで、そのまま暖炉に向っていた。外が暗くなり出すにつれて、お前の押し黙った顔を照らしている火かげがだんだん強く光り出していた。ときおり焔《ほのお》の工合でその光の揺らぐのが、お前が無表情な顔をしていればいるほど、お前の心の動揺を一層示すような気がされてならなかった。
 だが、山家らしい質素な食事に二人で相変らず口数|寡《すくな》く向った後、私達が再び暖炉の前に帰っていってから大ぶ立ってからだった。ときどき目をつぶったりして、いかにも疲れて睡たげにしていたお前が、突然、なんだか上ずったような声で、しかし爺やたちに聞かれたくないように調子を低くしながら話し出した。それは私もうすうす察していたように、矢っ張お前の縁談についてだった。それまでも二三度そんな話を他から頼まれて持ってきたが、いつも私達が相手にならなかった高輪のお前のおばが、この夏もまた新しい縁談を私のところに持ってきたが、丁度森さんが北京でお亡くなりになったりした時だったので、私も落ち着いてその話を聞いてはいられなかった。しかし二度も三度もうるさく云って来るものだから、しまいには私もつい面倒になって、菜穂子の結婚のことは当人の考えに任せる事にしてありますから、と云って帰した。ところがお前が八月になって私と入れ代りに東京へ帰ったのを知ると、すぐお前のところに直接その縁談を勧めに来たらしかった。そしてそのとき私が何もかもお前の考えの儘にさせてあると云った事を妙に楯《たて》にとって、お前がそれまでどんな縁談を持ちこまれてもみんな断ってしまうのを私までがそれをお前の我儘のせいにしているようにお前に向って責めたらしかった。私がそう云ったのは、何もそんなつもりではない位な事は、お前も承知していていい筈だった。それだのに、お前はそのときお前のおばにそんな事で突込まれた腹立ちまぎれに、私の何んの悪気もなしに云った言葉をもお前への中傷のようにとったのだろうか。少くとも、いまお前の私に向ってその話をしている話し方には、私のその言葉をも含めて怒っているらしいのが感ぜられる。……
 そんな話の中途から、お前は急に幾分ひきつったような顔を私の方へもち上げた。
「その話、お母様は一体どうお思いになって?」
「さあ、私には分からないわ。それはあなたの……」いつもお前の不機嫌そうなときに云うようなおどおどした口調でそう云いさして、私は急に口をつぐんだ。こんなお前を避けるような態度でばかりはもう断じてお前に対すまい、私は今宵こそはお前に云いたいだけのことを云わせるようにし、自分もお前に云っておくべきことだけは残らず云っておこう。私はお前のどんな手きびしい攻撃の矢先にもまともに耐えて立っていようと決心した。で、私は自分に鞭うつような強い語気で云い続けた。「……私は本当のところをいうとね、その御方がいくら一人息子でも、そうやって母親と二人きりで、いつまでも独身でおとなしく暮らしていらしったというのが気になるのよ。なんだか話の様子では、母親に負けているような気がしますわ、その御方が……」
 お前はそう私に思いがけず強く出られると、何か考え深そうになって燃えしきっている薪を見つめていた。二人は又しばらく黙っていた。それから急にいかにもその場で咄嗟《とっさ》に思いついたような不確かな調子でお前が云った。
「そういうおとなし過ぎる位の人の方がかえって好さそうね。私なんぞのような気ばかし強いものの結婚の相手には……」
 私はお前がそんなことを本気で云っているのかどうか試めすようにお前の顔を見た。お前は相変らずぱちぱち音を立てて燃えている薪を見据えるようにしながら、しかもそれを見ていないような、空虚な目ざしで自分の前方をきっと見ていた。それは何か思いつめているような様子をお前に与えていた。いまお前の云ったような考え方が私への厭味《いやみ》ではなしに、お前の本気から出ているのだとすれば、私はそれには迂闊《うかつ》に答えられないような気がして、すぐには何んとも返事がせられずにいた。
 お前が云い足した。「私は自分で自分のことがよく分かっていますもの。」
「…………」私はいよいよ何んと返事をしたらいいか分からなくなって、ただじっとお前の方を見ていた。
「私、この頃こんな気がするわ、男でも、女でも結婚しないでいるうちはかえって何かに束縛されているような……始終、脆《もろ》い、移り易いようなもの、例えば幸福なんていう幻影《イリュウジョン》に囚《とら》われているような……そうではないのかしら? しかし結婚してしまえば、少くともそんな果敢《はか》ないものからは自由になれるような気がするわ……」
 私はすぐにはそういうお前の新しい考えについては行かれなかった。私はそれを聞きながら、お前が自分の結婚ということを当面の問題として真剣になって考えているらしいのに何よりも驚いた。その点は、私はすこし認識が足りなかった。しかし、いまお前の云ったような結婚に対する見方がお前自身の未経験な生活からひとりでに出来てきたものかどうかと云うことになるといささか懐疑的だった。――私としては、この儘こうして私の傍でお前がいらいらしながら暮らしていたら、互に気持をこじらせ合ったまま、自分で自分がどんなところへ行ってしまうか分からないと云ったような、そんな不安な思いからお前が苦しまぎれに縋《すが》りついている、成熟した他人の思想としてしか見えないのだ……「そういう考え方はそれはそれとして肯《うなず》けるようだけれど、何もその考えのためにお前のように結婚を向きになって考えることはないと思うわ……」私はそう自分の感じたとおりのことを云った。「……もうすこし、お前、なんていったらいいか、もうすこし、そうね、暢気《のんき》になれないこと?」
 お前は顔に反射している火かげのなかで、一種の複雑な笑いのようなものを閃《ひらめ》かせながら、
「お母様は結婚なさる前にも暢気でいられた?」と突込んで来た。
「そうね……私は随分暢気な方だったんでしょう、なにしろまだ十九かそこいらだったから。……学校を出ると、うちが貧乏のため母の理想の洋行にやらせられずに、すぐお嫁にゆかせられるようになったのを大喜びしていた位でしたもの。……」
「でも、それはお父様が好いお方なことがお分かりになっていられたからではなくって?」
 お前の好いお父様の話がいかにも自然に私達の話題に上ったことが急に私をいつになくお前のまえで生き生きとさせ出した。
「本当に私にはもったいない位に好いお父様でした。私の結婚生活が最初から最後まで順調に行ったのも、私の運が好かったのだなどとは一度も私に思わせず、そうなるのがさも当り前のように考えさせたのが、お父様の性格でした。ことに私がいまでもお父様に感謝しているのは、結婚したてはまだほんの小娘に過ぎなかった私を、はじめからどんな場合にでも、一個の女性としてばかりでなく、一個の人間として相手にして下すったことでした。私はそのおかげでだんだん人間としての自信がついてきました。……」
「好いお父様だったのね。……」お前までがいつになく昔を懐しがるような調子になって云った。「私は子供の時分よくお父様のところへお嫁に行きたいなあと思っていたものだわ。……」
「…………」私は思わず生き生きした微笑をしながら黙っていた。が、こういう昔話の出た際に、もうすこしお父様の生きていらしった頃のことや、お亡くなりになった後のことについてお前に云って置かなければならない事があると思った。
 が、お前がそういう私の先を越して云った。こんどは何か私に突っかかるような嗄《しゃ》がれ声《ごえ》だった。
「それでは、お母様は森さんのことはどうお思いになっていらっしゃるの?」
「森さんのこと? ……」私はちょっと意外な問いに戸惑いながら、お前の方へ徐《しず》かに目をもっていった。
「…………」こんどはお前が黙って頷《うなず》いた。
「それとこれとは、お前、全然……」私は何んとなく曖昧《あいまい》な調子でそう云いかけているうちに、急にいまのお前のこだわったようなものの問い方で、森さんが私達の不和の原因となったとお前の思い込んでいたものがはっきりと分かったような気がした。ずっと前に亡くなられたお父様のことがいつまでもお前の念頭から離れなかったのだ。あの頃のお前は私というものがお前の考えている母というものから抜け出して行ってしまいそうだったので気が気でなかったのだ。それがお前の思い過ごしであったことは、いまのお前ならよく分かるだろう。けれども、そのときは私もまた私でお前にそれがそうであることを率直に云ってやれなかった、どうしてだかそんな事までが自分の思うように云えないように事物をすこし込み入らせて私は考えがちであった、いわば私の唯一の過失はそこにこそあったのだ。いま、私はそれをお前にも、また私自身にもはっきりと云い聞かしておかなければならないと思った。「……いいえ、そんな云いようはもうしますまい。それは本当に何でもない事だったのが私達にはっきり分かって来ているのですから、何でもない事として云います。森さんが私にお求めになったのは、結局のところ、年上の女性としてのお話し相手でした。私なんぞのような世間知らずの女が気どらずに申し上げたことが反って何んとなく身にしみてお感ぜられになっただけなのです。それだけの事だったのがそのときはあの方にも分からず、私自身にも分からなかったのです。それは只の話し相手は話し相手でも、あの方が私にどこまでも一個の女性としての相手を望まれていたのがいけなかったのでした。それが私をだんだん窮屈にさせていったのです。……」そう息もつかずに云いながら、私はあんまり暖炉の火をまともに見つづけていたので、目が痛くなって来て、それを云い終るとしばらく目を閉じていた。再びそれを開けたときは、こんどは私はお前の顔の方へそれを向けながら、「……私はね、菜穂子、この頃になって漸《や》っと女ではなくなったのよ。私は随分そういう年になるのを待っていました。……私は自分がそういう年になれてから、もう一度森さんにお目にかかって心おきなくお話の相手をして、それから最後のお分かれをしたかったのですけれど……」
 お前はしかし押し黙って暖炉の火に向った儘《まま》、その顔に火かげのゆらめきとも、又一種の表情とも分かちがたいものを浮べながら、相変らず自分の前を見据えているきりだった。
 その沈黙のうちに、いま私が少し許《ばか》り上ずったような声で云った言葉がいつまでも空虚に響いているような気がして、急に胸がしめつけられるようになった。私はお前のいま考えていることを何んとでもして知りたくなって、そんな事を訊《き》くつもりもなしに訊いた。
「お前は森さんのことをどうお考えなの?」
「私? ……」お前は脣《くちびる》を噛んだまま、しばらくは何んとも云い出さなかった。
「……そうね、お母様の前ですけれど、私はああいう御方は敬遠して置きたいわ。それはお書きになるものは面白いと思って読むけれども、あの御方とお附き合いしたいとは思いませんでしたわ。なんでも御自分のなさりたいと思うことをしていいと思っているような天才なんていうものは、私は少しも自分の側《そば》にもちたいとは思っていませんわ。……」
 お前のそういう一語一語が私の胸を異様に打った。私はもう為様《しよう》がないといった風に再び目を閉じたまま、いまこそ私との不和がお前から奪ったものをはっきりと知った。それは母としての私ではない、断じてそうでない、それは人生の最も崇高なものに対する女らしい信従なのである。母としての私は再びお前に戻されても、そういう人生への信従はもう容易には返されないのではなかろうか?……
 もう夜もだいぶ更けたらしく、小屋の中までかなり冷え込んできていた。さきに寝かせてあった爺やがもう一寝入りしてから、ふと目を覚ましたようで、台所部屋の方から年よりらしい咳払いのするのが聞え出した。私達はそれに気づくと、もうどちらからともなく暖炉に薪を加えるのを止めていたが、だんだん衰え出した火力が私達の身体を知《し》らず識《し》らず互に近よらせ出していた。心と心とはいつか自分自分の奥深くに引き込ませてしまいながら……

 その夜は、もう十二時を過ぎてから各自の寝室に引き上げた後も、私はどうにも目が冴えて、殆どまんじりとも出来なかった。私は隣りのお前の部屋でも夜どおし寝台のきしるのを耳にしていた。それでも明け方、漸《ようや》く窓のあたりが白んでくるのを認めると、何かほっとしたせいか、私はついうとうとと睡《まどろ》んだ。が、それからどの位立ったか覚えていないが、私は急に何者かが自分の傍らに立ちはだかっているような気がして、おもわず目を覚ました。そこに髪をふりみだしながら立っている真白な姿が、だんだん寝巻のままのお前に見え出した。お前は私がやっとお前を認めたことに気がつくと、急におこったような切口上で云い出した。
「……私にはお母様のことはよく分かっているのよ。でも、お母様には、私のことがちっとも分からないの。何ひとつだって分かって下さらないのね。……けれども、これだけは事実としてお分かりになっておいて頂戴。私、こちらへ来る前に実はおば様にさっきのお話の承諾をして来ました。……」
 夢とも現《うつつ》ともつかないような空《うつ》ろな目ざしでお前をじっと見つめている私の目を、お前は何か切なげな目つきで受けとめていた。私はお前の云っている事がよく分からないように、そしてそれを一層よく聞こうとするかのように、殆ど無意識に寝台の上に半ば身を起そうとした。
 しかし、そのときはお前はもう私の方をふりむきもしないで、素早く扉のうしろに姿を消していた。
 下の台所ではさっきからもう爺やたちが起きてごそごそと何やら物音を立て出していた。それが私にその儘《まま》起きてお前のあとを追って行くことをためらわせた。

 私はその朝も七時になると、いつものように身だしなみをして、階下に降りていった。私はその前にしばらくお前の寝室の気配に耳を傾けてみたが、夜じゅうときどき思い出したようにきしっていた寝台の音も今はすっかりしなくなっていた。私はお前がその寝台の上で、眠られぬ夜のあとで、かきみだれた髪の中に顔を埋めているうちに、さすがに若さから正体もなく寝入ってしまうと、間もなく日が顔に一ぱいあたり出して、涙をそれとなく乾かしている……そんなお前のしどけない寝姿さえ想像されたが、そのままお前を静かに寝かせておくため、足音を忍ばせて階下に降りてゆき、爺やには菜穂子の起きてくるまで私達の朝飯の用意をするのを待っているように云いつけておいて、私は一人で秋らしい日の斜めに射して木かげの一ぱいに拡がった庭の中へ出て行った。寝不足の目には、その木かげに点々と落ちこぼれている日の光の工合が云いようもなく爽《さわ》やかだった。私はもうすっかり葉の黄いろくなった楡《にれ》の木の下のベンチに腰を下ろして、けさの寝ざめの重たい気分とはあまりにかけはなれた、そういう赫《かがや》かしい日和《ひより》を何か心臓がどきどきするほど美しく感じながら、かわいそうなお前の起きてくるのを心待ちに待っていた。お前が私に対する反抗的な気持からあまりにも向う見ずな事をしようとしているのを断然お前に諫止《かんし》しなければならないと思った。その結婚をすればお前がかならず不幸になると私の考える理由は何ひとつない、ただ私はそんな気がするだけなのだ。――私はお前の心を閉じてしまわせずに、そこのところをよく分かって貰うためには、どういうところから云い出したらいいのであろうか。いまからその言葉を用意しておいたって、それを一つ一つお前に向って云えようとは思えない、――それよりか、お前の顔を見てから、こちらが自分をすっかり無くして、なんの心用意もせずにお前に立ち向いながら、その場で自分に浮んでくることをその儘云った方がお前の心を動かすことが云えるのではないかと考えた。……そう考えてからは、私はつとめてお前のことから心を外らせて、自分の頭上の真黄いろな楡の木の葉がさらさらと音を立てながら絶えず私の肩のあたりに撒《ま》き散《ち》らしている細かい日の光をなんて気持がいいんだろうと思っているうちに、自分の心臓が何度目かに劇《はげ》しくしめつけられるのを感じた。が、こんどはそれはすぐ止まず、まあこれは一体どうしたのだろうと思い出した程、長くつづいていた。私はその腰かけの背に両手をかけて漸《や》っとの事で上半身を支えていたが、その両手に急に力がなくなって……


[#3字下げ]菜穂子の追記[#「菜穂子の追記」は中見出し]

 此処で、母の日記は中絶している。その日記の一番終りに記されてある或秋の日の小さな出来事があってから、丁度一箇年立って、やはり同じ山の家で、母がその日のことを何を思い立たれてか急にお書き出しになっていらっしった折も折、再度の狭心症の発作に襲われてその儘お倒れになった。此の手帳はその意識を失われた母の傍らに、書きかけのまま開かれてあったのを爺やが見つけたものである。
 母の危篤の知らせに驚いて東京から駈けつけた私は、母の死後、爺やから渡された手帳が母の最近の日記らしいのをすぐ認めたが、そのときは何かすぐそれを読んで見ようという気にはなれなかった。私はその儘、それをO村の小屋に残してきた。私はその数箇月前に既に母の意に反した結婚をしてしまっていた。その時はまだ自分の新しい道を伐《き》り拓《ひら》こうとして努力している最中だったので、一たび葬った自分の過去を再びふりかえって見るような事は私には堪え難いことだったからだ。……
 その次ぎに又O村の家に残して置いたものの整理に一人で来たとき、私ははじめてその母の日記を読んだ。この前のときからまだ半年とは立っていなかったが、私は母が気づかったように自分の前途の極めて困難であるのを漸《ようや》く身にしみて知り出していた折でもあった。私は半ばその母に対する一種のなつかしさ、半ば自分に対する悔恨から、その手帳をはじめて手にとったが、それを読みはじめるや否や、私はそこに描かれている当時の少女になったようになって、やはり母の一言一言に小さな反抗を感ぜずにはいられない自分を見出した。私は何んとしてもいまだに此の日記の母をうけいれるわけにはいかないのである。――お母様、この日記の中でのように、私がお母様から逃げまわっていたのはお母様自身からなのです。それはお母様のお心のうちにだけ在る私の悩める姿からなのです。私はそんな事でもって一度もそんなに苦しんだり悩んだりした事はございませんもの。……
 私はそう心のなかで、思わず母に呼びかけては、何遍もその手帳を中途で手放そうと思いながら、矢っ張最後まで読んでしまった。読《よ》み了《おわ》っても、それを読みはじめたときから私の胸を一ぱいにさせていた憤懣《ふんまん》に近いものはなかなか消え去るようには見えなかった。
 しかし気がついてみると、私はこの日記を手にしたまま、いつか知《し》らず識《し》らずのうちに、一昨年の秋の或る朝、母がそこに腰かけて私を待ちながら最初の発作に襲われた、大きな楡の木の下に来ていた。いまはまだ春先きで、その楡の木はすっかり葉を失っていた。ただそのときの丸木の腰かけだけが半ば毀《こわ》れながら元の場所に残っていた。
 私がその半ば毀れた母の腰かけを認めた瞬間であった。この日記読了後の一種説明しがたい母への同化、それ故にこそ又同時にそれに対する殆ど嫌悪にさえ近いものが、突然私の手にしていた日記をその儘その楡の木の下に埋めることを私に思い立たせた。……
[#改ページ]
(つづく)



底本:「昭和文学全集 第6巻」小学館
   1988(昭和63)年6月1日初版第1刷
底本の親本:「堀辰雄全集 第二巻」筑摩書房
   1977(昭和52)年8月30日初版第1刷発行
初出:楡の家 第一部「物語の女」山本書店(「物語の女」の表題で。)
   1934(昭和9)年11月
   楡の家 第二部「文学界」(「目覚め」の表題で。)
   1941(昭和16)年9月号
   菜穂子「中央公論」
   1941(昭和16)年3月号
初収単行本:「菜穂子」創元社
   1941(昭和16)年11月18日
※創元社版の「菜穂子」には、山本書店版「物語の女」が「楡の家」第一部として、「文学界」掲載の「目覚め」が「楡の家」第二部として、「中央公論」掲載の「菜穂子」がそのままの表題で収録された。
※底本の親本の筑摩全集版は創元社版を底本とする。
※初出情報は、「堀辰雄全集 第二巻」(1977(昭和52)年8月30日、筑摩書房)解題による。
※訂正注記に際しては、底本の親本を参照しました。
入力:kompass
校正:浅原庸子
2004年1月21日作成
2012年4月14日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。
  • 北京 ペキン (Beijing; Peking) 中華人民共和国の首都。河北省中央部に位置し、中央政府直轄市。遼・金・元・明・清の古都で、明代に至り北京と称し、1928年南京(ナンキン)に国民政府が成立して北平(ペーピン)と改称、49年北京の称に復す。政治・文化・教育・経済・交通の大中心地。面積1万7000平方km。人口1151万(2000)。
  • 台湾 (Taiwan) 中国福建省と台湾海峡をへだてて東方200kmにある島。台湾本島・澎湖列島および他の付属島から成る。総面積3万6000平方km。明末・清初、鄭成功がオランダ植民者を追い出して中国領となったが、日清戦争の結果1895年日本の植民地となり、1945年日本の敗戦によって中国に復帰し、49年国民党政権がここに移った。60年代以降、経済発展が著しい。人口2288万(2006)。フォルモサ。
  • シナ 支那 (「秦(しん)」の転訛) 外国人の中国に対する呼称。初めインドの仏典に現れ、日本では江戸中期以来第二次大戦末まで用いられた。戦後は「支那」の表記を避けて多く「シナ」と書く。
  • 雑司ヶ谷 ぞうしがや 東京都豊島区南東部の住宅地区。雑司ヶ谷霊園や鬼子母神がある。
  • 高輪 たかなわ 東京都港区南部の地名。近世は東京湾に臨む景勝地。泉岳寺・東禅寺などがあり、明治以降は住宅地。
  • O村
  • 浅間 あさま 浅間山の略。
  • 浅間山 あさまやま 長野・群馬両県にまたがる三重式の活火山。標高2568m。しばしば噴火、1783年(天明3)には大爆発し死者約2000人を出した。斜面は酪農や高冷地野菜栽培に利用され、南麓に避暑地の軽井沢高原が展開。浅間岳。(歌枕)


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。




*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • 森さん → 森於菟彦
  • 森於菟彦 もり おとひこ? 森鴎外の長男・森於菟と関係あるか。
  • 征雄 ゆきお 菜穂子の兄。
  • おようさん 村の本陣。
  • 爺や じいや


◇参照:『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*難字、求めよ

  • 慙愧 ざんき 慙愧・慚愧。(中世にはザンギ) (1) 恥じ入ること。(2) 悪口を言うこと。そしること。
  • 宿痾 しゅくあ ながい間なおらない病気。宿病。宿疾。持病。痼疾。
  • 常談 じょうだん (1) つねの話。普通の話。(2) 冗談に同じ。
  • 狭心症 きょうしんしょう 心臓部に起こる激烈な疼痛発作。痛みは多く左腕に放散する。冠状動脈の痙攣・硬化・狭窄などにより、心臓への血流が妨げられることによって起こる。
  • 霖雨 りんう 幾日も降りつづく雨。ながあめ。淫雨。
  • 本陣 ほんじん (1) 一軍の大将がいる陣所。本営。(2) 江戸時代の宿駅で、大名・幕府役人・勅使・宮門跡などが休泊した公認の宿舎。門構え・玄関・上段の間を備える。大旅籠屋。
  • 寡婦 かふ 夫と死別または離婚して再婚していない女。やもめ。未亡人。
  • 仮象 かしょう (Schein ドイツ) 仮の形。感覚的現象。鏡像や虹のように、対応すべき客観的実在性を欠いた、単なる主観的表象。
  • マントル・ピース mantelpiece 暖炉の前飾り。壁付暖炉の上に設けた飾り棚。マンテルピース。
  • 山家 やまが 山中や山里にある家。また、山里。
  • 言いさす いいさす 言いかけて途中でやめる。
  • 信従
  • 切口上 きりこうじょう 一語一句のくぎりをはっきりさせて言う言葉つき。改まった堅苦しい口調。無愛想で突き放したような口のきき方。
  • しどけない (1) 身なりなどが乱雑でしまりがない。(2) しっかりしていない。分別のない。
  • 諫止 かんし いさめて思いとどまらせること。
  • 心用意
  • 悔恨 かいこん 後悔して残念に思うこと。


◇参照:『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 調子に乗りすぎて、Reader へテキストやら pdf やら画像やらいろいろつめこんでいるうちに、とうとう読み込みがハングアップ。「Content Browser が予期せず停止しました。やり直してください」エラーを連発。その後、以前のファイルは問題なく読めるが、新規ファイルの読み込みをいっさい受け付けなくなった。
 リセットボタン、初期設定、いずれもためしてみるがダメ。使いはじめて二か月。最大の危機!
 最終手段。データすべてPC側へバックアップをとり、そのうえで Reader 内蔵メモリを初期化。ああ、無常。ここで、SDカードを差し込んでみる。ようやくつっかえていた読み込みがスムーズに流れ出す。
 内蔵メモリへのデータ転送は、主に OS 9 からだったので、そちらからコピーした pdf かテキストファイルあたりの不具合か……と推察。しばらくは OS 9 からの内蔵メモリへのアクセスをひかえ、OS X からのSDカードアクセスのみにする。
 
Reader マニュアルより。
「本機にコンテンツを転送するには、eBook Transfer for Readerを使う方法とドラッグアンドドロップで転送する方法があります。
「eBook Transfer for Reader以外で転送したファイルは正しく表示できないことがあります。eBook Transfer for Readerを使って転送することをおすすめします。
「ドラッグアンドドロップで転送したコンテンツは、ファイル形式によっては本機で表示できない場合やサムネイルが正しく表示されない場合があります。コンテンツの転送にはeBook Transfer for Readerを使うことをおすすめします。
「eBook Transfer for Readerは以下の環境での動作は保証されませ ん。「上記(OS X v10.5.8 Leopard〜)以外のOS」

 まあ、早めにトラブルに遭遇できたことをラッキーと思うことにしよう。

 追記。
 Wi-Fi オフ時で最長1.5〜2か月の持続使用可能と公称されているが、昨年末購入して二か月使用してみたところでは、平均20日前後、三週間程度しかバッテリーが持たない。もちろん、ネットワークはつないでない。一日だいたい二時間ぐらい。
 たぶん、pdf ファイルの閲覧メインのせいと推測。
 テキスト主体のファイルならば「画面のリフレッシュ」をコントロールセーブできるが、pdf のばあい、ページめくりのたび、ページ内の移動のたびに画面を一度白黒反転させ「画面のリフレッシュ」をおこなってる模様。たぶんこのあたりが「公称」の数値にはるかにおよばない理由かと。




*次週予告


第五巻 第三二号 
菜穂子(三)堀 辰雄


第五巻 第三二号は、
二〇一三年三月二日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第五巻 第三一号
菜穂子(二)堀 辰雄
発行:二〇一三年二月二三日(土)
編集:しだひろし / PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。