堀 辰雄 ほり たつお
1904-1953(明治37.12.28-昭和28.5.28)
小説家。東京生れ。東大卒。芥川竜之介・室生犀星に師事、日本的風土に近代フランスの知性を定着させ、独自の作風を造型した。作「聖家族」「風立ちぬ」「幼年時代」「菜穂子」など。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。


もくじ 
菜穂子(一) 堀 辰雄


ミルクティー*現代表記版
菜穂子(一)

オリジナル版
菜穂子(一)

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
 ・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
 ・ ポメラ DM100、ソーラーパネル GOAL ZERO NOMAD 7(ガイド10プラス)
※ 週刊ミルクティー*は、JIS X 0213 文字を使用しています。
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(c) Copyright this work is public domain.

*凡例〔現代表記版〕
  • ( ):小書き。〈 〉:割り注。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  •    例、云う → いう / 言う
  •      処  → ところ / 所
  •      有つ → 持つ
  •      這入る → 入る
  •      円く → 丸く
  •      室  → 部屋
  • 一、同音異義の一部のひらがなを、便宜、漢字に改めました。
  •    例、いって → 行って / 言って
  •      きいた → 聞いた / 効いた
  • 一、若干の句読点を改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、和歌・俳句・短歌は五七五(七七)の音節ごとに半角スペースで句切りました。
  • 一、表や図版キャプションなどの組版は、便宜、改めました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、「今から○○年前」のような経過年数の表記や、郡域・国域など地域の帰属、団体法人名・企業名などは、底本当時のままにしました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。

*尺貫・度量衡の一覧
  • 寸 すん  一寸=約3cm。
  • 尺 しゃく 一尺=約30cm。
  • 丈 じょう (1) 一丈=約3m。尺の10倍。(2) 周尺で、約1.7m。成人男子の身長。
  • 歩 ぶ (1) 左右の足を一度ずつ前に出した長さ。6尺。(2) 土地面積の単位。一歩は普通、曲尺6尺平方で、一坪に同じ。
  • 間 けん  一間=約1.8m。6尺。
  • 町 ちょう (1) 一町=10段(約100アール=1ヘクタール)。令制では3600歩、太閤検地以後は3000歩。(2) (「丁」とも書く) 一町=約109m強。60間。
  • 里 り   一里=約4km(36町)。昔は300歩、今の6町。
  • 合 ごう  一合=約180立方cm。
  • 升 しょう 一升=約1.8リットル。
  • 斗 と   一斗=約18リットル。
  • 海里・浬 かいり 一海里=1852m。
  • 尋 ひろ (1) (「広(ひろ)」の意)両手を左右にひろげた時の両手先の間の距離。(2) 縄・水深などをはかる長さの単位。一尋は5尺(1.5m)または6尺(1.8m)で、漁業・釣りでは1.5mとしている。
  • 坪 つぼ 一坪=約3.3平方m。歩(ぶ)。6尺四方。
  • 丈六 じょうろく 一丈六尺=4.85m。



*底本

底本:「昭和文学全集 第6巻」小学館
   1988(昭和63)年6月1日初版第1刷
底本の親本:「堀辰雄全集 第二巻」筑摩書房
   1977(昭和52)年8月30日初版第1刷発行
http://www.aozora.gr.jp/cards/001030/card4805.html

NDC 分類:913(日本文学 / 小説.物語)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndc913.html





菜穂子(一)

堀 辰雄

  にれの家

   第一部


一九二六年九月七日、O村にて 

 菜穂子、
 わたしはこの日記を、おまえにいつか読んでもらうために書いておこうと思う。わたしが死んでから何年かたって、どうしたのか、このごろちっともわたしと口をきこうとはしないおまえにも、もっと打ちとけて話しておけばよかったろうと思うときがくるだろう。そんな折のために、この日記を書いておいてやりたいのだ。そういう折に、思いがけなくこの日記がおまえの手に入るようにさせたいものだが、―そう、わたしはこれを書きあげたら、この山の家の中の、どこか人目につかないところに隠しておいてやろう。……数年間、秋深くなるまで、いつもわたしが一人で居残いのこっていたこの家に、おまえはいつか、おまえの故にわたしの苦しんでいた姿をなつかしむために、しばらくの日をすごしにくるようなことがあるかもしれぬ。そのときまで、この山の家がわたしの生きていたころとそっくりそのままになっていてくれるとよいが。……そうしておまえは、わたしが好んでそこで本を読んだりみ物をしたりしていたにれ木陰こかげの腰かけに、わたしと同じように腰をおろしたり、また、冷えびえとする夜の数時間を暖炉だんろの前でぼんやりすごしたりする。そういうような日々のある夜、おまえは何気なにげなくわたしの使っていた二階の部屋に入って行って、ふと、その一隅ひとすみにこの日記を見つける。……もしかそんな折だったら、おまえは、わたしを自分の母としてばかりではなしに、過失もあった一個の人間として見なおしてくれ、わたしをその人間らしい過失のゆえに、いっそう愛してくれそうな気もするのだ。
 それにしても、このごろのおまえは、どうしてこんなにわたしと言葉をかわすのをけてばかりいるのかしら? なにか、おたがいにきずつけ合いそうなことをわたしから言い出されはせぬかとおそれておいでばかりなのではない。かえって、おまえの方からそういうことを言い出しそうなのを恐れておいでなのだとしか思えない。このごろのこんな気づまりな重苦おもくるしい空気が、みんなわたしから出たことなら、お兄さんやおまえにはほんとうにすまないと思う。こうした鬱陶うっとうしい雰囲気がますます濃くなってきて、なにか、わたしたちには予測できないような悲劇がもちあがろうとしているのか、それとも、わたしたち自身もほとんど知らぬ間にわたしたちのまわりにおこり、そして何ごともなかったように過ぎ去って行った以前の悲劇の影響が、年月のたつにつれてこんなに目立ってきたのであろうか、わたしにはよくわからない。――が、おそらくは、わたしたちにはっきりと気づかれずにいる何かが起こりつつあるのだ。それがどんなものかわからないながら、どうやらそれらしいと感ぜられるものがある。わたしはこの手記で、その正体らしいものをつきとめたいと思うのだ。


 わたしの父は、ある知名の実業家であったが、わたしのまだ娘の時分に、事業のうえで取り返しのつかぬような失敗をした。そこで母は、わたしの行く末を案じて、そのころ流行のミッション・スクールにわたしを入れてくれた。そうしてわたしは、いつもその母に、「おまえは女でも、しっかりしておくれよ。いい成績で卒業して、外国にでも留学するようになっておくれよ」と言い聞かされていた。そのミッション・スクールを出ると、わたしはほどなくこの三村家の人となった。それで、自分はどうしても行かなくてはならないものと思いこんでいたせいか、子どもごころにいっそうおそろしい気のしていた、そんな外国なんかへは行かずにすんだ。そのかわり、この三村の家もそのころは、おじいさんというのがたいへん呑気のんきなお方で、ことに晩年は骨董こっとうなどにおりになり、すっかり家運の傾いた後だったので、おまえのお父さまとわたしとで、それを建てなおすのにずいぶん苦労をしたものだった。二十代、三十代はほとんど息もつかずに、大いそぎで通りすぎてしまった。そうしてやっとわたしたちの生活も楽になり、ホッと一息ひといきついたかと思うと、こんどは、おまえのお父さまがおたおれになってしまったのだ。兄の征雄ゆきおが十八で、おまえが十五のときであった。
 実のところ、わたしはそのときまで、お父さまのほうがおき立ちなされようとは想像だにしていなかった。そうして若いころなどは、わたしが先に死んでしまったならば、お父さまはどんなにおさびしいことだろうと、そのことばかり言い暮らしていたほどであった。それなのに、その病身のわたしのほうが小さなおまえたちとたった三人きり取り残されてしまったのだから、最初のうちはなんだかポカンとしてしまっていた。
 そのうちに、やっとはっきりと古い城かなんぞの中に自分だけで取り残されているようなさびしさがひしひしと感ぜられてきた。この思いがけない出来事は、しかし、まだずいぶんと世間知らずの女であったわたしには、人間の運命のはかなさを何か身にしみるように感じさせただけだった。そうしてお父さまがお亡くなりなさる前に、わたしに向かって、「生きていたら、おまえにもまた何かの希望が出よう」とおっしゃられたお言葉も、わたしには、ただ空虚なものとしか思えないでいた。……

 生前、おまえのお父さまはたいてい夏になると、わたしと子どもたちを上総かずさの海岸にやって、ご自分はおつとめの都合でうちに居残っていらっしゃった。そうして、一週間ぐらい休暇をおとりになると、山がお好きだったので、一人で信濃しなののほうへ出かけられた。しかし、山登りなどをなさるのではなく、ただ山のふもとをドライヴなどなさるのが、お好きなのであった。……わたしはまだそのころは、いつも行きつけているせいか、海のほうが好きだったのだけれど、おまえのお父さまの亡くなられた年の夏、急に山が恋しくなりだした。子どもたちはすこし退屈するかもしれないが、なんだかそんなさびしい山の中で、一夏ぐらいだれとも逢わずに暮らしたかったのだ。わたしはそのとき、ふと、お父さまがよく浅間山のふもとのOという村のことをおほめになっていたことをおもい出した。なんでも昔は有名な宿場だったのだそうだけれど、鉄道ができてから急に衰微しだし、今ではやっと二、三十軒ぐらいしか人家じんかがないという、そんなO村に、わたしは不思議に心をひかれた。なにしろ、お父さまがはじめてその村においでになったのはずいぶん昔のことらしく、それでお父さまは、よく同じ浅間山の麓にある外人の宣教師たちが部落しているK村にお出かけになっていたようであるが、ある年の夏、ちょうどお父さまのご滞在中に、山つなみがおこって、K村一帯がすっかり浸水してしまった。そのおり、お父さまはK村に避暑していた外人の宣教師やなんかとともに、そこから二里ばかり離れたO村まで避難なさったのだった。……そのおり、昔の繁昌はんじょうにひきかえ、今はすっかりさびれ、それがいかにも落ち着いた、いい感じになっているこの小さな村にしばらく滞在し、そしてこの村からは遠近おちこちの山の眺望ちょうぼうがじつによいことをお知りになると、それから急におみつきになられたのだ。そうしてその翌年からは、ほとんど毎夏のようにO村にお出かけになっていたようだった。それから二、三年するかしないうちに、そこにもポツポツ、別荘のようなものが建ち出したという話だった。あの山つなみのおり、そこに避難された方のうちにでも、お父さまと同じようにすっかり好きになった者があるのだろうと笑いながらおっしゃっていた。が、あんまりさびしいところだし、不便なことも不便なので、二、三年人の入ったきりで、そのまま使われずにいる別荘も少なくはないらしかった。――そんな別荘の一つでも買って、気に入るように修繕しゅうぜんしたら、すこし不便なことさえ辛抱しんぼうすれば、結構けっこうわたしたちにも住めるかもしれない。そう思ったものだから、わたしは人に頼んで手頃てごろな家をさがしてもらうことにした。
 わたしはやっと、数本の、大きなにれの木のある、杉皮葺すぎかわぶきの山小屋を、五、六百坪の地所じしょぐるみ手に入れることができた。風雨にさらされて、見かけはかなりいたんでいたけれど、小屋の中はまだ新しくて、思ったより住み心地ごこちがよかった。子どもたちが退屈しはしないかとそれだけが心配だったが、むしろ、そんな山の中ではすべてのものが珍しいと見え、いろんな花だの昆虫などを採ってはおとなしく遊んでいた。霧の中で、ウグイスだの、ヤマバトだのがしきりなしにいた。わたしが名前を知らない小鳥も、わたしたちがその名前を知りたがるような美しい鳴き声でさえずった。流れのふちでくわの葉などを食べていたヤギの子も、わたしたちの姿を見ると人なつこそうに近よってきた。そういう子ヤギとじゃれあっているおまえたちを見ていると、わたしのうちには、悲しみともなんともつかないような気持ちがこみあげてくるのだった。しかしその悲しみに似たものは、そのころわたしにはほとんどこころよいほどのものに、それなくしてはわたしの生活はまったく空虚になるだろうと思えるほどのものになってしまっていた。

 それから、なにやかやしているうちに数年がすぎたのであった。とうとう征雄ゆきおは大学の医科に入った。将来何をするか、わたしはまったく自由に選ばせておいたのだった。が、その医科に入った動機というのが、その学業にとくに興味をいだいているからではなくて、むしろ、物質的な気持ちが主になっているのを知ったとき、わたしは、なんだか胸の痛くなるような気がした。それは、このままに暮らしていたのでは、わたしたちのわずかな財産もだんだん減るばかりなので、わたしはそれを一人で気をもんでいたけれど、そんな心配はいっぺんもまだ子どもたちにもらしたことなどないはずであった。が、征雄はそういう点にかけては、これまでも不思議なくらい敏感であった。そういう征雄がどちらかというと一体に性質がおとなしすぎて困るのに反して、妹のおまえはおまえで、子どものうちから気が強かった。なにか気に入らないことでもあると、一日じゅうだまっておいでだった。そういうおまえが、わたしにはだんだん気づまりになってくる一方だった。最初はおまえが年ごろになるにつれ、ますますわたしに似てくるので、なんだかわたしの考えていることが、そっくりおまえに見透みすかされているような気がするせいかもしれないと思っていた。が、そのうちわたしはやっと、おまえとわたしの似ているのはほんの表面うわべだけで、わたしたちの意見が一致するときでも、わたしが主として感情から入って行っているのに、おまえのほうはいつも、理性からきているという相違に気がつきだした。それがわたしたちの気持ちを、どうかすると妙にちぐはぐにさせるのだろう。

 たしか、征雄が大学を卒業して、T病院の助手になったので、おまえとわたしだけでその夏をO村にすごしに行くようになった最初の年であった。となりのK村にはそのころ、おまえのお父さまの生きていらしった時分の知り合いがだいぶ避暑に来るようになっていた。その日も、お父さまのもとの同僚だった方の、あるティー・パーティに招かれて、わたしはおまえをともなって、そこのホテルに出かけたのだった。まだ定刻にすこし間があったので、わたしたちはベランダに出て待っていた。その時わたしはひょっくり、ミッション・スクール時代のお友だちで、今は知名のピアニストになっていられる安宅あたかさんにお会いした。安宅あたかさんはそのとき、三十七、八の、背の高い、やせぎすの男の方と立ち話をされていた。それは、わたしも一面識のある森於菟彦さんだった。わたしよりも五つか六つ年下で、まだ御独身おひとりみの方だけれど、brilliantブリリアント という字の化身のようなそのお方としたしくお話をするだけの勇気は、わたしにはなかった。安宅あたかさんとなにやら気のきいた常談じょうだんをかわしていらっしゃるらしいのを、わたしたちだけは無骨者ぶこつものらしい顔をしてながめていた。しかし森さんは、わたしたちのそんな気持ちがおわかりだったと見え、安宅あたかさんがなにか用事があってその場をはずされると、わたしたちのそばに近づかれて二言三言話しかけられたが、それは決してわたしたちを困らせるようなお話し方ではなかった。
 それでわたしもつい気やすくなり、その方のお話相手になっていた。聞かれるままにわたしどものいるO村のことをお話すると、たいへん好奇心をお持ちになったようだった。そのうち安宅あたかさんをおさそいしておたずねしたいと思いますがよろしゅうございますか? 安宅あたかさんが行かれなかったらわたし一人でもまいりますよ、などとまでおっしゃった。ほんの気まぐれからそうおっしゃったのではなく、なんだか、お一人でもいらっしゃりそうな気がしたほどだった。

 それから一週間ばかりたった、ある日の午後だった。わたしの別荘の裏の、雑木林の中で自動車の爆音らしいものがおこった。車などの入ってこられそうもないところだのに、誰がそんなところに自動車を乗り入れたのだろう、道でも間違えたのかしらと思いながら、ちょうどわたしは二階の部屋にいたので窓から見おろすと、雑木林の中にはさまってとうとう身動きがとれなくなってしまっている自動車の中から、森さんが一人で降りてこられた。そしてわたしのいる窓のほうをお見上げになったが、ちょうど一本のにれの木の陰になって、むこうではわたしにお気づきにならないらしかった。それに、うちの庭と、いまあの方の立っていらっしゃる場所との間には、すすきだの、細かい花を咲かせた灌木かんぼくだのが一面においしげっていた。――そのため、間違った道へ自動車を乗り入られたあの方は、わたしの家のすぐ裏の、ついそこまで来ていながら、それらにさえぎられて、いつまでもこちらへいらっしゃれずにいた。それがわたしには心なしか、なんだかお一人でわたしのところへいらっしゃるのを躊躇ちゅうちょなさっていられるようにも思えた。
 わたしはそれから階下へおりていって、とりらかした茶テーブルの上などをかたづけながら、何食わぬ顔をしてお待ちしていた。やっとにれの木の下に森さんが現われた。わたしははじめて気がついたように、あわててあの方をお迎えした。
「どうも、とんだところへ入りこんでしまいまして……」
 あの方は、わたしの前に突っ立ったまま、灌木かんぼくのしげみの向こうにまだ車体の一部をのぞかせながら、しきりなしに爆音を立てている車のほうを振り向いていた。
 わたしはともかくあの方をおげしておいて、それからおとなりへ遊びに行っているおまえを呼びにでもやろうと思っているうちに、さっきからすこしあやしかった空が急に暗くなってきて、いまにも夕立ゆうだちのきそうな空合そらあいになった。森さんは、なんだか困ったような顔つきをなさって、
安宅あたかさんをお誘いしたら、なんだか夕立ゆうだちがきそうだからいやだといっていましたが、どうも安宅さんのほうが当たったようですな……」
 そう言われながら、たえずその暗くなった空を気になさっていた。
 向こうの雑木林の上方に、いちめんに古綿のような雲がおおいかぶさっていたが、一瞬間、稲妻いなずまがそれをジグザグに引きいた。と思うと、そのあたりですさまじい雷鳴がした。それから突然、屋根板に一つかみの小石がたえず投げつけられるような音がしだした。……わたしたちはしばらくうつけたように、お互いに顔を見あわせていた。それは非常に長い時間に見えた。……それまでちょっとエンジンの音を止めていた自動車が、不意に野獣のようにあばれだした。木の枝の折れる音が続けざまにわたしたちの耳にも入った。
「だいぶ、木の枝を折ったようですな……」
「うちのだか、どこのだかわからないんですから、ようございますわ」
 稲妻いなずまがときどき、枝を折られたそれらの灌木かんぼくを照らしていた。
 それから、まだしばらく雷鳴がしていたが、やっとのことで向こうの雑木林の上方がうっすらと明るくなりだした。わたしたちはなんだかホッとしたような気持ちがした。そうして、だんだん草の葉が日にひかりだすのをまぶしそうに見ていると、またしても、屋根板にパラパラと大きな音がした。わたしたちは思わず顔を見あわせた。が、それはにれの木の葉のしずくする音だった……
「雨があがったようですから、すこしそこいらを歩いてご覧になりません?」
 そう言ってわたしは、あの方と向かい合った椅子いすからそっと離れた。そうしておとなりへおまえを迎えにやっておいて、一足先に、村の中をご案内していることにした。
 村はちょうど養蚕のはじまっている最中だった。家並はみなで三十軒たらずで、そのうえ、たいていの家はいまにも崩壊しそうで、なかにはもうなかば傾き出しているのさえあった。そんな廃屋に近いものを取り囲みながら、ただ豆畑やトウキビ畑だけは猛烈に繁茂はんもしていた。それは、わたしたちの気持ちに妙にこたえてくるようなながめだった。途中で、桑の葉を重たそうに背負ってくる、汚れた顔をした若い娘たちと幾人もすれちがいながら、わたしたちはとうとう、村はずれのわかみちまで来た。北よりには浅間山がまだ一面に雨雲をかぶりながら、その赤らんだ肌をところどころのぞかせていた。しかし、南のほうはもうすっかり晴れわたり、いつもよりちかぢかと見える真向うの小山の上にき雲がひとかたまり残っているきりだった。わたしたちがそこにぼんやりと立ったまま、気持ちよさそうにつめたい風に吹かれていると、ちょうどその瞬間、その真向うの小山のてっぺんからすこし手前の松林にかけて、あたかもそれを待ちもうけでもしていたかのように、ひとすじの虹がほのかに見えだした。
「まあ、きれいな虹だこと……」思わずそう口に出しながらわたしは、パラソルの中からそれを見上げた。森さんもわたしのそばに立ったまま、まぶしそうにその虹を見上げていた。そうしてなんだか非常におだやかな、そのくせ妙に興奮なさっていらっしゃるような面持おももちをしていられた。
 そのうち向こうの村道から、一台の自動車が光りながら走ってきた。その中でだれかが、わたしたちに向かって手をふっているのが認められた。それは森さんのお車に乗せてもらってきたおまえとおとなりのあきらさんだった。明さんは写真機を持っていらしった。そうしておまえが耳打ちすると、明さんはその写真機をあの方に横から向けたりした。わたしは叱言こごとも言えずに、ハラハラして、おまえたちのそんな子どもらしいはしゃぎ方を見ているよりしようがなかった。あの方はしかし、それにはお気がつかないような様子をなすって、すこし神経質そうに足もとの草をステッキで突いたり、ときどき、わたしと言葉をかわしたりしながら、おまえたちに撮られるがままになっていられた。

 それから三、四日、午後になると、いっぺんはきまって夕立ゆうだちがした。夕立ちはどうもくせになるらしい。そのたびごとに、はげしい雷鳴もした。わたしは窓ぎわに腰かけながら、にれの木ごしに向こうの雑木林の上にひらめく無気味なデッサンを、さもおもしろいものでも見るように見入っていた。これまではあんなに雷をこわがったくせに。……
 翌日は、霧がふかく、終日、近くの山々すら見えなかった。その翌日も、朝のうちはふかい霧がかかっていたが、正午近くなってから西風が吹き出し、いつのまにか気持ちよく晴れあがった。
 おまえは二、三日前からK村に行きたがっておいでだったが、わたしはお天気がよくなってからにしたらといって止めていたところ、その日もおまえがそれを言い出したので、「なんだか今日は疲れていて、わたしは行きたくないから、それじゃ、明さんにいっしょに行っていただいたら……」と、わたしはすすめてみた。最初のうちは「そんなら行きたくはないわ」と、すねておいでだったが、午後になると、急に機嫌きげんをなおして、明さんを誘っていっしょに出かけていった。
 が、一時間もするかしないうちに、おまえたちは帰ってきてしまった。あんなに行きたがっていたくせに、あんまり帰りが早すぎるし、おまえがなんだか不機嫌ふきげんそうに顔を赤くし、いつも元気のいい明さんまでが、すこしふさいでいるように見えるので、途中で、おまえたちの間に、なにか気まずいことでもあったのかしらとわたしは思った。明さんは、その日はおあがりにもならないで、そのまますぐ帰って行かれた。
 その晩、おまえはわたしにその日の出来事を自分から話し出した。おまえはK村に行くと、さきに森さんのところへお寄りする気になって、ホテルの外で明さんに待っていただいて、一人で中に入って行った。ちょうど午餐ごさん後だったので、ホテルの中はひっそりとしていた。ボーイらしいものの姿も見えないので、帳場ちょう居睡いねむりをしていた背広服の男に、森さんの部屋の番号を教わると、一人で二階に上がって行った。そして教わった番号の部屋のドアをたたくと、中からあの方らしい声がしたので、いきなりそのドアを開けた。おまえをボーイかなんかだと思われていたらしく、あの方はベッドに横になったまま、なにやら本を読んでいた。おまえが入ってゆくのを見ると、あの方はビックリなさったように、ベッドの上にすわり直された。
「おやすみだったんですか?」
「いいえ、こうやって本を読んでいただけなんです」
 そういいながら、あの方はしばらく、おまえの背後にジッと眼をやっていた。それからやっと気がついたように、
「おひとりなんですか?」と、おまえに聞いた。
「ええ……」おまえはなんだか当惑しながら、そのまま南向きの窓のふちに近よって行った。
「まあ、山百合やまゆりがよくにおいますこと」
 すると、あの方もベッドから降りていらしって、おまえのとなりにお立ちになった。
「わたしはどうもそれをいでいると頭痛がしてくるんです」
「お母さんも、ユリのにおいはお嫌いよ」
「お母さんもね……」
 あの方はなぜかしら、ひどく素気のない返事をなさった。おまえはすこしムッとした。……そのとき、向こうのてい木蔦きづたのからんだ四目垣よつめがきごしに、写真機を手にしたあきらさんの姿がチラチラと見えたり隠れたりしているのにおまえは気がついた。あんなにホテルの外で待っているとおまえに固く約束しておきながら、いつのまにかホテルの庭へ入り込んでいるそんな明さんの姿を認めると、おまえは、おまえのいくぶんこじれた気持ちを今度は明さんのほうへ向け出していた。
「あれは明さんでしょう?」
 あの方はそれに気がつくと、いきなりおまえにそうおっしゃった。そうしてそれから急になんだかおまえに興味をお持ちになったように、じっとおまえを見つめ出した。おまえは思わず真っ赤な顔をして、あの方の部屋を飛び出してしまった。……
 そんな短い物語を聞きながら、わたしは、おまえはなんてまあ子どもらしいんだろうと思った。そしてそれがいかにも自然に見えたので、このごろ、どうかするとおまえは妙に大人おとなびて見えたりしたのは、まったくわたしの思いちがいだったのかしらと思われるくらいであった。そうしてわたしは、おまえ自身にもよくわからないらしかった、あのときのはずかしさとも怒りともつかないものの原因を、それ以上知ろうとはしなかった。

 それから数日後、東京から電報がきて、征雄ゆきおが腸カタルをおこして寝こんでいるから、だれか一人帰ってくれというので、とりあえず、おまえだけが帰京した。おまえの出発したあとへ、森さんからお手紙がきた。

 先日はいろいろありがとうございました。
 O村は、わたしもたいへん好きになりました。わたしも、ああいうところに隠遁いんとんできたらとがらにないことまで考えています。しかし、このごろの気持ちはかえってふたたび二十四、五になったような、なにやら、わけのわからぬ興奮を感じているくらいです。
 ことに、あの村はずれでご一緒いっしょに美しい虹をあおいだときは、ほんとうにこれまで、なにやら行きづまっていたようで暗澹あんたんとしていたわたしの気持ちも急に開けだしたような気がしました。これはまったくあなたのおかげだと思っております。あの折、わたしはある自叙伝風な小説のヒントをまで得ました。
 明日、わたしは帰京いたすつもりですが、いずれまた、お目にかかってゆっくりお話したいと思います。数日前、おじょうさんがお見えになりましたが、わたしの知らない間に、お帰りになっていました。どうなさったのですか?

 わたしがこの手紙を読むそばに、もしおまえがおいでだったら、わたしにはこの手紙はもっと深い意味のものに取れたかもしれない。しかし、わたし一人きりだったことが、読んだあとで平気でそれを他の郵便物といっしょに机の上に放り出させておいた。それがわたしに、この手紙をごく何でもないもののように思い込ませてくれた。
 同じ日の午後、明さんがいらしって、おまえがもう帰京されたことを知ると、そんな突然の出発がなんだかご自分のせいではないかと疑うような、悲しそうな顔をして、おあがりにもならずに帰って行かれた。明さんはいい方だけれど、早くから両親をなくなされたせいか、どうもすこし神経質すぎるようだ。……
 この二、三日で、ほんとうに秋めいてきてしまった。朝など、こうして窓ぎわに一人きりでなんということなしに物思ものおもいにふけっていると、向こうの雑木林の間から、これまではぼんやりとしか見えなかった山々のひだまでが一つ一つ、くっきりと見えてくるように、過ぎ去った日々のとりとめのない思い出が、その微細なものまでわたしに思い出されてくるような気がする。が、それはそんな気持ちのするだけで、わたしのうちにはただ、なんともいいようのないいのようなものがいてくるばかりだ。
 日暮れどきなど、南の方でしきりなしに稲光いなびかりがする。音もなく。わたしはぼんやりほおづえをついて、若いころよくそうするくせがあったように、窓ガラスに自分の額を押しつけながら、それをかずにながめている。痙攣的けいれんてきに目たたきをしている、あおざめた一つの顔をガラスの向こうに浮かべながら……


 その冬になってから、わたしはある雑誌に森さんの『半生』という小説を読んだ。これがあのO村で暗示を得たとおっしゃっていた作品なのであろうと思われた。ご自分の半生を小説的にお書きなさろうとしたものらしかったが、それにはまだ、ずっとお小さい時のことしか出てこなかった。そういう一部分だけでも、あの方がどういうものをお書きになろうとしているのか見当のつかないこともなかった。が、この作品の調子には、これまであの方の作品についぞ見たことのないような、不思議にゆううつなものがあった。しかしその見知らないものは、ずっと前からあの方の作品のうちに深く潜在していたものであって、ただ、われわれの前にあの方のいつわれていた brilliant な調子のため、すっかりおおいかくされていたにすぎないように思われるものだった。――こういうなまな調子でお書きになるのは、あの方としてはたいへんお苦しいだろうとはお察しするが、どうか完成なさるようにと、心からお祈りしていた。が、その『半生』は最初の部分が発表されたきりで、とうとうそのまま投げ出されたようだった。それは何かわたしには、あの方の前途の多難なことを予感させるようでならなかった。
 二月の末、森さんがその年になってからの初めてのお手紙をくださった。わたしの差し上げた年賀状にも返事の書けなかったおわびやら、暮れからずっと神経衰弱でお悩みになっていられることなど書きえられ、それになにか雑誌の切り抜きのようなものを同封されていた。なにげなくそれをひらいてみると、それはある年上の女に与えられた一連いちれんの恋愛詩のようなものであった。なんだってこんなものをわたしのところにお送りになったのかしらといぶかりながら、ふと最後の一節、―「いかでしむべきほどのわが身かは。ただうれう、君が名の……」という句をなんのことやらわからずに口ずさんでいるうち、これはひょっとするとわたしにてられたものかも知れないと思い出した。そう思うと、わたしは最初、なんともいえずバツの悪いような気がした。――それから今度は、それがもしほんとうにそうなのなら、こんなことをお書きになったりしては困るという、ごく世間なみの感情がわたしを支配し出した。……たとえ、そういうお気持ちがおありだったにせよ、そのままそっとしておいたら、誰も知らず、わたしも知らず、そしておそらくあの方自身も知らぬ間にそれは忘れ去られ、葬られてしまうにちがいない。なぜ、そんな移ろいやすいようなお気持ちを、こんな婉曲えんきょくな方法にせよ、わたしにお打ち明けになったのだろう? いままでのように、向こうもこちらも、そういう気持ちを意識せずにおつきあいしているのならいいが、いったん意識しあったうえでは、もうこれからはおいすることさえできない。……
 そうしてわたしは、あの方のそんなひとりよがりをおめしたい気持ちでいっぱいになっていた。しかし、そういうあの方をわたしは、どうしてもにくむような気持ちにはなれなかった。そこにわたしの弱みがあったように思われる。……が、わたしはその数編の詩がわたしにてられたものであることを知りうるのは、おそらくわたし一人ぐらいなものであろうことに気がつくと、何かホッとしながら、その紙片を破らずに自分の机の抽出ひきだしのずっと奥のほうにしまってしまった。そうしてわたしは、なんともないようなふうをしていた。
 ちょうど、おまえたちと夕方の食事に向かっているときだった。わたしはスープをすすろうとしかけたとき、ふと、あの紙片が『すばる』からの切り抜きであったことをおもい出した。(それまでもそれに気がついていたが、それが何の雑誌だろうと、わたしはべつに問題にしていなかったのだ。)そしてその雑誌なら、毎号わたしのところにも送ってきてあるはずだが、このごろ手にもとらずに放ってあるので、もしかしたらわたしの知らぬ間に、兄さんはともかく、おまえはもう、その詩を読んでいるかもしれなかった。これはとんでもないことになった、と、わたしははじめて考え出した。なんだか気のせいか、おまえはさっきからわたしのほうを見て見ないふりをしておいでのようでならなかった。すると突然、わたしのうちに、誰にともつかない怒りがこみあげてきた。しかしわたしは、いかにもつつましそうにスープのさじを動かしていた。……

 その日からというもの、わたしはあの方がわたしのまわりにおひろげになった、見知らない、なんとなく胸苦しいような雰囲気のなかに暮らしだした。わたしのおいする人たちといえば、だれもかも、みんながわたしを何か、けげんそうな顔をして見ているような気がされてならなかった。そうしてそれから数週間というものは、わたしはおまえたちに顔をあわせるのさえけるようにして、自分の部屋にじこもっていた。わたしはただじっとして、わたしの身に迫ろうとしている、何やらわたしにも分からないものから身をはずしながら、それがわたしたちのそばを通りすぎてしまうのを待っているよりほかはないような気がした。とにかくそれを、わたしたちの中に入りこませ、もつれさせさえしなければ、わたしたちは救われる。そうわたしは信じていた。
 そうしてわたしは、こんな思いをしているよりもいっそうのこと、早く年をとってしまえたらとさえ思った。自分さえもっと年をとってしまい、そうしてもう女らしくなくなってしまえたら、たとえ、どこであの方とお逢いしようとも、わたしは静かな気持ちでお話ができるだろう。――しかし今のわたしは、どうも年が中途半端なのがいけないのだ。ああ、いっぺんに年がとってしまえるものなら……
 そんなことまで思いつめるようにしながら、わたしはこの日ごろ、すこし前よりもせ、静脈のいくぶん浮きだしてきた自分の手を、しげしげと見守っていることが多かった。

 その年は空梅雨からつゆであった。そうして六月の末から七月のはじめにかけて、真夏のように暑い日照ひでりが続いていた。わたしはめっきり身体が衰えたような気がし、一人だけ先に、早めにO村に出かけた。が、それから一週間するかしないうちに、急に梅雨気味の雨がふりだし、それが毎日のように降り続いた。間欠的かんけつてき小止こやみにはなったが、しかしそんなときは霧がひどくて、近くの山々すらほとんどその姿を見せずにいた。
 わたしはそんなうっとうしいお天気をかえってよいことにしていた。それがわたしの孤独を完全に守っていてくれたからだった。一日はほかの日に似ていた。ひえびえとした雨があちらこちらにたまっているにれの落ち葉をくさらせ、それを一面ににおわせていた。ただ小鳥だけは毎日異なったのが、かわるがわる、庭のこずえにやってきて異なった声でいていた。わたしは窓に近よりながら、どんな小鳥だろうと見ようとすると、このごろすこし眼が悪くなってきたのか、いつまでもそれが見あたらずにいることがあった。そのことは、なかばわたしを悲しませ、半ばわたしの気に入った。が、そうしていつまでもうつけたように、かすかにれ動いているこずえを見上げていると、いきなりわたしの眼の前に、クモが長く糸をひきながら落ちてきて、わたしをビックリさせたりした。
 そのうちに、こんなに悪い陽気だけれど、ぼつぼつと別荘の人たちも来だしたらしい。二、三度、わたしは裏の雑木林のなかを、さみしそうにレインコートをひっかけたきりで通って行くあきらさんらしい姿をお見かけしたが、まだ、わたしきりなことを知っていらっしゃるからか、いつもうちへはお立ち寄りにならなかった。
 八月に入っても、まだ梅雨じみた天候がつづいていた。そのうちにおまえもやってきたし、森さんがまたK村にいらしっているとか、これからいらっしゃるのだとか、あんまりはっきりしないうわさを耳にした。なぜまたこんな悪い陽気だのにあの方はいらっしゃるのかしら? あそこまでいらっしたら、こちらへもお見えになるかもしれないが、わたしはいまのような気持ちでは、まだお目にかからないほうがいいと思う。しかし、そんな手紙をわざわざ差し上げるのもなんだから、いらしったらいらしったでいい、そのときこそ、わたしはあの方によくお話をしよう。その場に菜穂子も呼んで、あの子によく納得できるように、お話をしよう。何を言おうかなどとは考えないほうがいい。放っておけば、言うことはひとりでに出てくるものだ……。

 そのうち、ときどき晴れ間も見えるようになり、どうかすると庭の面にうっすらと日の射し込んでくるようなこともあった。すぐまたそれはかげりはしたけれど。わたしは、このごろ庭の真んなかのにれの木の下に丸木のベンチを作らせた、そのベンチの上ににれの木の影がうっすらとあたったり、それがまたしだいに弱まりながら、だんだん消えてゆきそうになる――そういうえ間のない変化を、なにかにおびやかされているような気持ちがしながら見守っていた。あたかも、このごろの自分の不安な、おちつかない心をそっくりそのまま、それに見い出しでもしているように。

 それから数日後、カアッと日のりつけるような日が続きだした。しかし、その日ざしはすでに秋の日ざしであった。まだ日中はとても暑かったけれども。――森さんが突然、お見えになったのは、そんな日の、それも暑いさかりの正午近くであった。
 あの方は、おどろくほど憔悴しょうすいなすっていられるように見えた。そのおせ方やお顔色の悪いことは、わたしの胸をいっぱいにさせた。あの方にお逢いするまでは、このごろ、目立つほどふけだしたわたしの様子を、あの方がどんな眼でお見になるかとかなり気にもしていたが、わたしはそんなことはすっかり忘れてしまったくらいであった。そうしてわたしは、気を引き立てるようにしてあの方と世間なみのあいさつなどをかわしているうちに、その間わたしの方をしげしげと見ていらっしゃるあの方の暗いまなざしに、わたしのやつれた様子があの方をも同じように悲しませているらしいことをやっと気づき出した。わたしは、心のおしつぶされそうなのをやっとたえながら、表面だけはいかにもものしずかな様子をいつわっていた。が、わたしにはそのときそれがせいいっぱいで、あの方がいらしったらお話をしようと決心していたことなどは、とてもいま切り出すだけの勇気はないように思えた。
 やっと、菜穂子が女中に紅茶の道具を持たせて出てきた。わたしはそれを受け取って、あの方におすすめしながら、おまえが何かあの方に無愛想なことでもなさりはすまいかと、かえってそんなことを気にしていた。が、そのとき、わたしのまったく思いがけなかったことには、おまえはいかにも機嫌よさそうに、しかも、おどろくほどたくみな話しぶりであの方の相手をなさりだしたのだ。このごろ、自分のことばかりにこだわっていて、おまえたちのことはちっともかまわずにいたことを反省させられたほど、そのときのおまえのおとなびた様子は、わたしには思いがけなかった。――そういうおまえを相手になさっているほうがあの方にもよほど気軽だと見え、わたしだけを相手にされていたときよりもずっとお元気になられたようだった。
 そのうちに、話がちょっと途絶とだえると、あの方はひどくお疲れになっていられるようなご様子だのに、急に立ち上がられて、もう一度、去年見た村の古い家並いえなみが見てきたいとおっしゃられるので、わたしたちもそこまでおともをすることにした。しかしちょうど日ざかりで、砂の白く乾いた道の上には、わたしたちの影すらほとんど落ちないくらいだった。ところどころに馬糞ばふんが光っていた。そうしてその上には、いくつも小さな白い蝶がむらがっていた。やっと村に入ると、わたしたちはときどき日をけるため道ばたの農家の前に立ち止まって、去年と同じようにかいこを飼っている家のなかの様子をうかがったり、わたしたちの頭の上に、いまにもくずれてきそうなくらいに傾いた古いのき格子こうしを見上げたり、また、去年まではまだわずかに残っていた砂壁すなかべが、いまはもう跡方あとかたもなくなって、そこがすっかりトウキビ畑になっているのを認めたりしながら、なんということもなしに目を見あわせたりした。とうとう去年の村はずれまできた。浅間山はわたしたちのすぐ目の前に、気味悪いくらい大きい感じで、松林の上にくっきりと盛り上がっていた。それには何か、そのときのわたしの気持ちに妙にこたえてくるものがあった。
 しばらくの間、わたしたちはその村はずれのかれ道に、自分たちが無言でいることも忘れたように、うつけた様子で立ちつくしていた。そのとき、村の真ん中から正午を知らせるにぶい鐘の音がだしぬけに聞こえてきた。それが、そんな沈黙をやっとわたしたちにも気づかせた。森さんはときどき気になるように、向こうの白く乾いた村道を見ていられた。迎えの自動車がもう来るはずだったのだ。――やがてそれらしい自動車が、猛烈なほこりをあげながら飛んでくるのが見え出した。そのほこりけようとして、わたしたちは道ばたの草の中へ入った。が、誰ひとりその自動車を呼び止めようともしないで、そのまま、草の中にぼんやりと突っ立っていた。それは、ほんのわずかな時間だったのだろうけれど、わたしには長いことのように思えた。その間、わたしは何かせつないような夢を見ながら、それからめたいのだが、いつまでもそれが続いていて醒められないような気さえしていた。……
 自動車は、ずっと向こうまで行きすぎてから、やっとわたしたちに気がついて引っ返してきた。その車の中によろめくようにお乗りになってから、森さんは、わたしたちのほうへ帽子にちょっと手をかけて会釈えしゃくされたきりだった。……その車がまたほこりをあげながら立ち去った後も、わたしたちは二人ともパラソルでそのほこりけながら、いつまでもだまって草の中に立っていた。
 去年と同じ村はずれでの、去年とほとんど同じようなわかれ、―それだのに、まあなんと去年のそのときとは何もかもが変わってしまっているのだろう。何がわたしたちの上に起こり、そして過ぎ去ったのであろう?
「さっき、ここいらで昼顔ひるがおを見たんだけれど、もうないわね」
 わたしは、そんな考えから自分の心をそらせようとして、ほとんど口からでまかせに言った。
昼顔ひるがお?」
「だって、さっき、昼顔ひるがおいていると言ったのはおまえじゃなかった?」
「わたし、知らないわ……」
 おまえは、わたしのほうをけげんそうに見つめた。さっき、どうしても見たような気のしたその花は、しかし、いくらそこらを眼でさがしてみても、もう見つからなかった。わたしにはそれが、なんだかひどく奇妙なことのように思われた。が、つぎの瞬間には、こんなことをひどく奇妙に思ったりするのは、よほどわたし自身の気持ちがどうかしているのだろうという気がしだしていた。……

 それから二、三日するかしないうちに、森さんから、これから急に木曽きそのほうへ立たれるというお端書はがきをいただいた。わたしは、あの方にお逢いしたらあれほどお話しておこうと決心していたのだが、変にはぐれてしまったのをなにか後悔したいような気持ちであった。が、一方では、ああやって何ごともなかったようにお逢いし、そうして何ごともなかったようにおわかれしたのもかえってよいことだったかもしれない、―そう、自分自身にいって聞かせながら、いくぶん自分に安心をいるような気持ちでいた。そうしてその一方、わたしは、自分たちの運命にも関するような何物かが――今日でなければ、明日にもその正体がはっきりとなりそうな、しかし、そうなることがわたしたちの運命をよくさせるか、悪くさせるか、それすらわからないような何物かが――ひとしずくの雨をも落とさずに村の上をぎってゆく暗い雲のように、自分たちの上を通りすぎて行ってしまうようにとねがっていた。……
 ある晩のことであった。わたしはもうみんなが寝静まったあとも、なんだか胸苦しくて眠れそうもなかったので、一人でこっそり戸外に出て行った。そうして、しばらく真っ暗な林の中を一人で歩いているうちにようやく心持ちがよくなってきたので、家のほうへ戻ってくると、さっき出がけにみんな消してきたはずの広間の電気が、いつのまにか一つだけいているのに気がついた。おまえはもう寝てしまったとばかり思っていたので、誰だろうと思いながら、にれの木の下にちょっと立ち止まったまま見ていると、いつもわたしのすわりつけている窓ぎわで、わたしがよくそうしているように窓ガラスに自分の額を押しつけながら、菜穂子がじっとくうを見つめているらしいのが認められた。
 おまえの顔はほとんど逆光線になっているので、どんな表情をしているのかぜんぜんわからなかったが、にれの木の下に立っているわたしにも、おまえはまだすこしも気づいていないらしかった。――そういうおまえの物思ものおもわしげな姿はなんだか、そんなときのわたしにそっくりのような気がされた。
 そのとき、一つの想念がわたしをとらえた。それは、さっきわたしが戸外に出て行ったのを知ると、おまえは何か急に気がかりになって、そこへ下りてきて、わたしのことをずっと考えておいでだったにちがいないという想念であった。おそらく、おまえはそれと知らずに、そんなわたしとそっくりな姿勢をしているのだろうが、それは、おまえがわたしのことを立ち入って考えているうちに、らずらずわたしと同化しているためにちがいなかった。いま、おまえはわたしのことを考えておいでなのだ。もうすっかりおまえの心のそとへ出て行ってしまって、もう取り返しのつかなくなったものでもあるかのように、わたしのことを考えておいでなのだ。
 いいえ、わたしはおまえのそばから決して離れようとはしませぬ。それだのにおまえの方でこのごろ、わたしをけようとしてばかりいる。それがわたしに、まるで自分のことを罪深い女かなんぞのように怖れさせだしているだけなのだ。ああ、わたしたちは、どうしてもっとほかの人たちのように虚心に生きられないのかしら? ……
 そう、心の中でおまえにうったえかけながら、わたしは、いかにもなにげないように家の中に入って行き、無言のままでおまえの背後を通りぬけようとすると、おまえはいきなりわたしのほうを向いて、ほとんどなじるような語気で、
「どこへ行っていらしったの?」と、わたしにいた。わたしは、おまえがわたしのことでどんなに苦い気持ちにさせられているかを、切ないほどはっきり感じた。
(つづく)



底本:「昭和文学全集 第6巻」小学館
   1988(昭和63)年6月1日初版第1刷
底本の親本:「堀辰雄全集 第二巻」筑摩書房
   1977(昭和52)年8月30日初版第1刷発行
初出:楡の家 第一部「物語の女」山本書店(「物語の女」の表題で。
   1934(昭和9)年11月
   楡の家 第二部「文学界」「目覚め」の表題で。
   1941(昭和16)年9月号
   菜穂子「中央公論」
   1941(昭和16)年3月号
初収単行本:「菜穂子」創元社
   1941(昭和16)年11月18日
※創元社版の「菜穂子」には、山本書店版「物語の女」が「楡の家」第一部として、「文学界」掲載の「目覚め」が「楡の家」第二部として、「中央公論」掲載の「菜穂子」がそのままの表題で収録された。
※底本の親本の筑摩全集版は創元社版を底本とする。
※初出情報は、「堀辰雄全集 第二巻」(1977(昭和52)年8月30日、筑摩書房)解題による。
※訂正注記に際しては、底本の親本を参照しました。
入力:kompass
校正:浅原庸子
2004年1月21日作成
2012年4月14日修正
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菜穂子(一)

堀辰雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)その儘《まま》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)丁度|午餐《ごさん》後

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号またはUnicode、底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]
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[#2字下げ]楡の家[#「楡の家」は大見出し]

[#3字下げ]第一部[#「第一部」は中見出し]

[#地から1字上げ]一九二六年九月七日、O村にて

 菜穂子、
 私はこの日記をお前にいつか読んで貰うために書いておこうと思う。私が死んでから何年か立って、どうしたのかこの頃ちっとも私と口を利こうとはしないお前にも、もっと打ちとけて話しておけばよかったろうと思う時が来るだろう。そんな折のために、この日記を書いておいてやりたいのだ。そういう折に思いがけなくこの日記がお前の手に入るようにさせたいものだが、――そう、私はこれを書き上げたら、この山の家の中の何処か人目につかないところに隠して置いてやろう。……数年間秋深くなるまでいつも私が一人で居残っていたこの家に、お前はいつかお前の故に私の苦しんでいた姿をなつかしむために、しばらくの日を過しに来るようなことがあるかも知れぬ。その時までこの山の家が私の生きていた頃とそっくりその儘《まま》になっていてくれると好いが。……そうしてお前は私が好んでそこで本を読んだり編物をしたりしていた楡《にれ》の木陰の腰掛けに私と同じように腰を下ろしたり、又、冷えびえとする夜の数時間を暖炉の前でぼんやり過ごしたりする。そういうような日々の或る夜、お前は何気なく私の使っていた二階の部屋にはいって行って、ふとその一隅にこの日記を見つける。……若《も》しかそんな折だったら、お前は私を自分の母としてばかりではなしに、過失もあった一個の人間として見直してくれ、私をその人間らしい過失のゆえに一層愛してくれそうな気もするのだ。
 それにしても、この頃のお前はどうしてこんなに私と言葉を交わすのを避けてばかりいるのかしら? 何かお互に傷つけ合いそうなことを私から云い出されはせぬかと恐れておいでばかりなのではない。かえってお前の方からそういうことを云い出しそうなのを恐れておいでなのだとしか思えない。この頃のこんな気づまりな重苦しい空気が、みんな私から出たことなら、お兄さんやお前にはほんとうにすまないと思う。こうした鬱陶《うっとう》しい雰囲気がますます濃くなって来て、何か私たちには予測できないような悲劇がもちあがろうとしているのか、それとも私たち自身もほとんど知らぬ間に私たちのまわりに起り、そして何事もなかったように過ぎ去って行った以前の悲劇の影響が、年月の立つにつれてこんなに目立って来たのであろうか、私にはよく分らない。――が、恐らくは、私たちにはっきりと気づかれずにいる何かが起りつつあるのだ。それがどんなものか分らないながら、どうやらそれらしいと感ぜられるものがある。私はこの手記でその正体らしいものを突き止めたいと思うのだ。


 私の父は或る知名の実業家であったが、私のまだ娘の時分に、事業の上で取り返しのつかぬような失敗をした。そこで母は私の行末を案じて、その頃流行のミッション・スクールに私を入れてくれた。そうして私はいつもその母に「お前は女でもしっかりしておくれよ。いい成績で卒業して外国にでも留学するようになっておくれよ」と云い聞かされていた。そのミッション・スクールを出ると、私は程なくこの三村家の人となった。それで、自分はどうしても行かなくてはならないものと思いこんでいたせいか、子供ごころに一層恐ろしい気のしていた、そんな外国なんかへは行かずにすんだ。その代り、この三村の家もその頃は、おじいさんと云うのが大へん呑気《のんき》なお方で、ことに晩年は骨董《こっとう》などにお凝りになり、すっかり家運の傾いた後だったので、お前のお父様と私とで、それを建て直すのに随分苦労をしたものだった。二十代、三十代はほとんど息もつかずに、大いそぎで通り過ぎてしまった。そうしてやっと私たちの生活も楽になり、ほっと一息ついたかと思うと、こんどはお前のお父様がお倒れになってしまったのだ。兄の征雄《ゆきお》が十八で、お前が十五のときであった。
 実のところ、私はその時までお父様の方がお先き立ちなされようとは想像だにしていなかった。そうして若い頃などは、私が先きに死んでしまったならば、お父様はどんなにお淋しいことだろうと、そのことばかり云い暮らしていた程であった。それなのにその病身の私の方が小さなお前たちとたった三人きり取り残されてしまったのだから、最初のうちは何だかぽかんとしてしまっていた。
 そのうちに漸《や》っとはっきりと古い城かなんぞの中に自分だけで取り残されているような寂しさがひしひしと感ぜられて来た。この思いがけない出来事は、しかし、まだずいぶんと世間知らずの女であった私には、人間の運命のはかなさを何か身にしみるように感じさせただけだった。そうしてお父様がお亡くなりなさる前に、私に向って「生きていたらお前にもまた何かの希望が出よう」と仰しゃられたお言葉も、私にはただ空虚なものとしか思えないでいた。……

 生前、お前のお父様は大抵夏になると、私と子供たちを上総の海岸にやって、御自分はお勤めの都合でうちに居残っていらっしゃった。そうして、一週間ぐらい休暇をおとりになると、山がお好きだったので、一人で信濃の方へ出かけられた。しかし山登りなどをなさるのではなく、ただ山の麓《ふもと》をドライヴなどなさるのが、お好きなのであった。……私はまだその頃は、いつも行きつけているせいか、海の方が好きだったのだけれど、お前のお父様の亡くなられた年の夏、急に山が恋しくなりだした。子供たちは少し退屈するかも知れないが、何んだかそんなさびしい山の中で、一夏ぐらい誰とも逢わずに暮らしたかったのだ。私はその時ふとお父様がよく浅間山の麓のOという村のことをお褒めになっていたことを憶《おも》い出《だ》した。何んでも昔は有名な宿場だったのだそうだけれど、鉄道が出来てから急に衰微し出し、今ではやっと二三十軒位しか人家がないと云う、そんなO村に、私は不思議に心を惹《ひ》かれた。何しろお父様が初めてその村においでになったのは随分昔のことらしく、それでお父様はよく同じ浅間山の麓にある外人の宣教師たちが部落しているK村にお出かけになっていたようであるが、或る年の夏、丁度お父様の御滞在中に、山つなみが起って、K村一帯がすっかり浸水してしまった。その折、お父様はK村に避暑していた外人の宣教師やなんかと共に、其処から二里ばかり離れたO村まで避難なさったのだった。……その折、昔の繁昌《はんじょう》にひきかえ、今はすっかり寂れ、それがいかにも落着いた、いい感じになっているこの小さな村にしばらく滞在し、そしてこの村からは遠近の山の眺望が実によいことをお知りになると、それから急にお病みつきになられたのだ。そうしてその翌年からは、殆んど毎夏のようにO村にお出かけになっていたようだった。それから二三年するかしないうちに、そこにもぽつぽつ別荘のようなものが建ち出したという話だった。あの山つなみの折、そこに避難された方のうちにでもお父様と同じようにすっかり好きになった者があるのだろうと笑いながら仰しゃっていた。が、あんまり淋しいところだし、不便なことも不便なので、二三年人のはいったきりで、そのまま使われずにいる別荘も少くはないらしかった。――そんな別荘の一つでも買って、気に入るように修繕したら、少し不便なことさえ辛抱すれば、結構私たちにも住めるかも知れない。そう思ったものだから、私は人に頼んで手頃な家を捜して貰うことにした。
 私は漸っと、数本の、大きな楡《にれ》の木のある、杉皮葺《すぎかわぶ》きの山小屋を、五六百坪の地所ぐるみ手に入れることが出来た。風雨にさらされて、見かけはかなり傷んでいたけれど、小屋のなかはまだ新しくて、思ったより住み心地がよかった。子供たちが退屈しはしないかとそれだけが心配だったが、むしろそんな山の中ではすべてのものが珍らしいと見え、いろんな花だの昆虫などを採っては大人しく遊んでいた。霧のなかで、うぐいすだの、山鳩だのがしきりなしに啼《な》いた。私が名前を知らない小鳥も、私たちがその名前を知りたがるような美しい啼き声で囀《さえず》った。流れのふちで桑の葉などを食べていた山羊の仔も、私たちの姿を見ると人なつこそうに近よってきた。そういう仔山羊とじゃれあっているお前たちを見ていると、私のうちには悲しみともなんともつかないような気もちがこみ上げてくるのだった。しかしその悲しみに似たものは、その頃私には殆んど快いほどのものに、それなくしては私の生活は全く空虚になるだろうと思えるほどのものになってしまっていた。

 それから何やかやしているうちに数年が過ぎたのであった。とうとう征雄は大学の医科にはいった。将来何をするか、私は全く自由に選ばせて置いたのだった。が、その医科にはいった動機と云うのが、その学業に特に興味を抱いているからではなくて、むしろ物質的な気もちが主になっているのを知った時、私は、なんだか胸の痛くなるような気がした。それはこのままに暮らしていたのでは私たちの僅かな財産もだんだん減るばかりなので、私はそれを一人で気を揉《も》んでいたけれど、そんな心配は一ぺんもまだ子供たちに洩らしたことなど無い筈であった。が、征雄はそういう点にかけては、これまでも不思議なくらい敏感であった。そういう征雄がどちらかと云うと一体に性質がおとなしすぎて困るのに反して、妹のお前はお前で、子供のうちから気が強かった。何か気に入らないことでもあると、一日中黙っておいでだった。そういうお前が私にはだんだん気づまりになって来る一方だった。最初はお前が年頃になるにつれ、ますます私に似てくるので、何んだか私の考えていることが、そっくりお前に見透かされているような気がするせいかも知れないと思っていた。が、そのうち私はやっと、お前と私の似ているのはほんの表面《うわべ》だけで、私たちの意見が一致する時でも、私が主として感情からはいって行っているのに、お前の方はいつも理性から来ていると云う相違に気がつきだした。それが私たちの気もちをどうかすると妙にちぐはぐにさせるのだろう。

 たしか、征雄が大学を卒業して、T病院の助手になったので、お前と私だけでその夏をO村に過しに行くようになった最初の年であった。隣りのK村にはそのころ、お前のお父様の生きていらしった時分の知合がだいぶ避暑に来るようになっていた。その日も、お父様のもとの同僚だった方の、或るティ・パアティに招かれて、私はお前を伴って、そこのホテルに出かけたのだった。まだ定刻に少し間があったので、私たちはヴェランダに出て待っていた。その時私はひょっくりミッション・スクール時代のお友達で、今は知名のピアニストになっていられる安宅さんにお会いした。安宅さんはその時、三十七八の、背の高い、痩《や》せぎすの男の方と立ち話をされていた。それは私も一面識のある森於菟彦さんだった。私よりも五つか六つ年下で、まだ御独身《おひとりみ》の方だけれど、brilliant という字の化身のようなそのお方と親しくお話をするだけの勇気は私には無かった。安宅さんと何やら気の利いた常談を交わしていらっしゃるらしいのを、私たちだけは無骨者らしい顔をして眺めていた。しかし森さんは私たちのそんな気持がおわかりだったと見え、安宅さんが何か用事があってその場を外されると、私たちの傍に近づかれて二言三言話しかけられたが、それは決して私たちを困らせるようなお話し方ではなかった。
 それで私もつい気やすくなり、その方のお話相手になっていた。聞かれるままに私どものいるO村のことをお話すると、大へん好奇心をお持ちになったようだった。そのうち安宅さんをお誘いしてお訪ねしたいと思いますがよろしゅうございますか、安宅さんが行かれなかったら私一人でも参りますよ、などとまで仰しゃった。ほんの気まぐれからそう仰しゃったのではなく、何んだかお一人でもいらっしゃりそうな気がしたほどだった。

 それから一週間ばかり立った、或る日の午後だった。私の別荘の裏の、雑木林のなかで自動車の爆音らしいものが起った。車などのはいって来られそうもないところだのに誰がそんなところに自動車を乗り入れたのだろう、道でも間違えたのかしらと思いながら、丁度私は二階の部屋にいたので窓から見下ろすと、雑木林の中にはさまってとうとう身動きがとれなくなってしまっている自動車の中から、森さんが一人で降りて来られた。そして私のいる窓の方をお見上げになったが、丁度一本の楡《にれ》の木の陰になって、向うでは私にお気づきにならないらしかった。それに、うちの庭と、いまあの方の立っていらっしゃる場所との間には、薄《すすき》だの、細かい花を咲かせた灌木《かんぼく》だのが一面に生い茂っていた。――そのため、間違った道へ自動車を乗り入られたあの方は、私の家のすぐ裏の、ついそこまで来ていながら、それらに遮ぎられて、いつまでもこちらへいらっしゃれずにいた。それが私には心なしか、なんだかお一人で私のところへいらっしゃるのを躊躇《ちゅうちょ》なさっていられるようにも思えた。
 私はそれから階下へ降りていって、とり散らかした茶テエブルの上などを片づけながら、何喰わぬ顔をしてお待ちしていた。やっと楡の木の下に森さんが現われた。私ははじめて気がついたように、惶《あわ》ててあの方をお迎えした。
「どうも、飛んだところへはいり込んでしまいまして……」
 あの方は、私の前に突立ったまま、灌木の茂みの向うにまだ車体の一部を覗かせながら、しきりなしに爆音を立てている車の方を振り向いていた。
 私はともかくあの方をお上げして置いて、それからお隣りへ遊びに行っているお前を呼びにでもやろうと思っているうちに、さっきからすこし怪しかった空が急に暗くなって来て、いまにも夕立の来そうな空合いになった。森さんは何だか困ったような顔つきをなさって、
「安宅さんをお誘いしたら、何んだか夕立が来そうだから厭《いや》だと云っていましたが、どうも安宅さんの方が当ったようですな……」
 そう云われながら、絶えずその暗くなった空を気になさっていた。
 向うの雑木林の上方に、いちめんに古綿のような雲が掩《おお》いかぶさっていたが、一瞬間、稲妻がそれをジグザグに引き裂いた。と思うと、そのあたりで凄《すさ》まじい雷鳴がした。それから突然、屋根板に一つかみの小石が絶えず投げつけられるような音がしだした。……私たちはしばらくうつけたように、お互に顔を見合わせていた。それは非常に長い時間に見えた。……それまでちょっとエンジンの音を止めていた自動車が、不意に野獣のようにあばれ出した。木の枝の折れる音が続けざまに私たちの耳にもはいった。
「だいぶ木の枝を折ったようですな……」
「うちのだか何処のだか分らないんですから、ようございますわ」
 稲妻がときどき枝を折られたそれらの灌木を照らしていた。
 それからまだしばらく雷鳴がしていたが、やっとのことで向うの雑木林の上方がうっすらと明るくなりだした。私たちは何んだかほっとしたような気持がした。そうしてだんだん草の葉が日にひかり出すのをまぶしそうに見ていると、又しても、屋根板にぱらぱらと大きな音がした。私たちは思わず顔を見合わせた。が、それは楡の木の葉のしずくする音だった……
「雨が上ったようですから、少しそこいらを歩いて御覧になりません?」
 そう云って私はあの方と向い合った椅子からそっと離れた。そうしてお隣りへお前を迎えにやって置いて、一足先きに、村のなかを御案内していることにした。
 村は丁度養蚕の始まっている最中だった。家並は皆で三十軒足らずで、その上大抵の家はいまにも崩壊しそうで、中にはもう半ば傾き出しているのさえあった。そんな廃屋に近いものを取り囲みながら、ただ豆畑や唐黍畑《とうきびばたけ》だけは猛烈に繁茂していた。それは私たちの気もちに妙にこたえて来るような眺めだった。途中で、桑の葉を重たそうに背負ってくる、汚れた顔をした若い娘たちと幾人もすれちがいながら、私たちはとうとう村はずれの岐《わか》れ道《みち》まで来た。北よりには浅間山がまだ一面に雨雲をかぶりながら、その赤らんだ肌をところどころ覗かせていた。しかし南の方はもうすっかり晴れ渡り、いつもよりちかぢかと見える真向うの小山の上に捲き雲が一かたまり残っているきりだった。私たちが其処にぼんやりと立ったまま、気持よさそうにつめたい風に吹かれていると、丁度その瞬間、その真向うの小山のてっぺんから少し手前の松林にかけて、あたかもそれを待ち設けでもしていたかのように、一すじの虹がほのかに見えだした。
「まあ綺麗な虹だこと……」思わずそう口に出しながら私はパラソルのなかからそれを見上げた。森さんも私のそばに立ったまま、まぶしそうにその虹を見上げていた。そうして何だか非常に穏かな、そのくせ妙に興奮なさっていらっしゃるような面持をしていられた。
 そのうち向うの村道から一台の自動車が光りながら走って来た。その中で誰かが私たちに向って手をふっているのが認められた。それは森さんのお車に乗せて貰って来たお前とお隣りの明《あきら》さんだった。明さんは写真機を持っていらしった。そうしてお前が耳打ちすると、明さんはその写真機をあの方に横から向けたりした。私は叱言《こごと》も言えずに、はらはらしてお前たちのそんな子供らしいはしゃぎ方を見ているよりしようがなかった。あの方はしかしそれにはお気がつかないような様子をなすって、すこし神経質そうに足もとの草をステッキで突いたり、ときどき私と言葉を交わしたりしながら、お前たちに撮られるがままになっていられた。

 それから三四日、午後になると、一ぺんはきまって夕立がした。夕立はどうも癖になるらしい。その度毎に、はげしい雷鳴もした。私は窓ぎわに腰かけながら、楡の木ごしに向うの雑木林の上にひらめく無気味なデッサンを、さも面白いものでも見るように見入っていた。これまではあんなに雷を恐がった癖に。……
 翌日は、霧がふかく、終日、近くの山々すら見えなかった。その翌日も、朝のうちはふかい霧がかかっていたが、正午近くなってから西風が吹き出し、いつのまにか気もちよく晴れ上った。
 お前は二三日前からK村に行きたがっておいでだったが、私はお天気がよくなってからにしたらと云って止めていたところ、その日もお前がそれを云い出したので、「なんだか今日は疲れていて、私は行きたくないから、それじゃ、明さんに一緒に行っていただいたら……」と私は勧めて見た。最初のうちは「そんなら行きたくはないわ」と拗《す》ねておいでだったが、午後になると、急に機嫌を直して、明さんを誘って一緒に出かけていった。
 が、一時間もするかしないうちに、お前たちは帰って来てしまった。あんなに行きたがっていた癖に、あんまり帰りが早過ぎるし、お前がなんだか不機嫌そうに顔を赤くし、いつも元気のいい明さんまでが、すこし鬱《ふさ》いでいるように見えるので、途中で、お前たちの間に、何か気まずいことでもあったのかしらと私は思った。明さんは、その日はおあがりにもならないで、そのまますぐ帰って行かれた。
 その晩、お前は私にその日の出来事を自分から話し出した。お前はK村に行くと、真っ先きに森さんのところへお寄りする気になって、ホテルの外で明さんに待っていただいて、一人で中にはいっていった。丁度|午餐《ごさん》後だったので、ホテルの中はひっそりとしていた。ボオイらしいものの姿も見えないので、帳場で居睡りをしていた背広服の男に、森さんの部屋の番号を教わると、一人で二階に上っていった。そして教わった番号の部屋のドアを叩くと、中からあの方らしい声がしたので、いきなりそのドアを開けた。お前をボオイかなんかだと思われていたらしく、あの方はベッドに横になったまま、何やら本を読んでいた。お前がはいってゆくのを見ると、あの方はびっくりなさったように、ベッドの上に坐り直された。
「おやすみだったんですか?」
「いいえ、こうやって本を読んでいただけなんです」
 そう云いながら、あの方はしばらくお前の背後にじっと眼をやっていた。それからやっと気がついたように、
「おひとりなんですか?」とお前にきいた。
「ええ……」お前はなんだか当惑しながら、そのまま南向きの窓のふちに近よっていった。
「まあ、山百合がよくにおいますこと」
 すると、あの方もベッドから降りていらしって、お前のとなりにお立ちになった。
「私はどうもそれを嗅《か》いでいると頭痛がしてくるんです」
「お母さんも、百合のにおいはお嫌いよ」
「お母さんもね……」
 あの方は何故かしらひどく素気のない返事をなさった。お前は少しむっとした。……その時、向うの亭の木蔦《きづた》のからんだ四目垣《よつめがき》ごしに、写真機を手にした明さんの姿がちらちらと見えたり隠れたりしているのにお前は気がついた。あんなにホテルの外で待っているとお前に固く約束しておきながら、いつのまにかホテルの庭へはいり込んでいるそんな明さんの姿を認めると、お前はお前の幾分こじれた気もちを今度は明さんの方へ向けだしていた。
「あれは明さんでしょう?」
 あの方はそれに気がつくと、いきなりお前にそう仰しゃった。そうしてそれから急になんだかお前に興味をお持ちになったように、じっとお前を見つめ出した。お前は思わず真っ赤な顔をして、あの方の部屋を飛び出してしまった。……
 そんな短い物語を聞きながら、私はお前は何んてまあ子供らしいんだろうと思った。そしてそれがいかにも自然に見えたので、この頃どうかするとお前は妙に大人びて見えたりしたのは全く私の思い違いだったのかしらと思われる位であった。そうして私はお前自身にもよく分らないらしかった、あの時の羞《はず》かしさとも怒りともつかないものの原因をそれ以上知ろうとはしなかった。

 それから数日後、東京から電報が来て、征雄が腸カタルを起して寝こんでいるから、誰か一人帰ってくれというので、とりあえずお前だけが帰京した。お前の出発したあとへ、森さんからお手紙が来た。

 先日はいろいろ有難うございました。
 O村は私もたいへん好きになりました。私もああいうところに隠遁《いんとん》できたらと柄にないことまで考えています。然しこの頃の気もちは却《かえ》って再び二十四五になったような、何やら訣《わけ》の分らぬ興奮を感じている位です。
 殊にあの村はずれで御一緒に美しい虹を仰いだときは、本当にこれまで何やら行き詰まっていたようで暗澹《あんたん》としていた私の気もちも急に開けだしたような気がしました。これは全くあなたのお陰だと思って居ります。あの折、私は或る自叙伝風な小説のヒントをまで得ました。
 明日、私は帰京いたす積りですが、いずれ又、お目にかかってゆっくりお話したいと思います。数日前お嬢さんがお見えになりましたが、私の知らない間に、お帰りになっていました。どうなさったのですか?

 私がこの手紙を読むそばに、若《も》しお前がおいでだったら、私にはこの手紙はもっと深い意味のものにとれたかも知れない。しかし、私一人きりだったことが、読んだあとで平気でそれを他の郵便物と一緒に机の上に放り出させて置いた。それが私にこの手紙をごく何んでもないもののように思い込ませて呉れた。
 同じ日の午後、明さんがいらしって、お前がもう帰京されたことを知ると、そんな突然の出発が何んだか御自分のせいではないかと疑うような、悲しそうな顔をして、お上りにもならずに帰って行かれた。明さんはいい方だけれど、早くから両親を失くなされたせいか、どうもすこし神経質すぎるようだ。……
 この二三日で、ほんとうに秋めいて来てしまった。朝など、こうして窓ぎわに一人きりで何んということなしに物思いに耽《ふけ》っていると、向うの雑木林の間からこれまではぼんやりとしか見えなかった山々の襞《ひだ》までが一つ一つくっきりと見えてくるように、過ぎ去った日々のとりとめのない思い出が、その微細なものまで私に思い出されてくるような気がする。が、それはそんな気もちのするだけで、私のうちにはただ、何んとも云いようのない悔いのようなものが湧いてくるばかりだ。
 日暮れどきなど、南の方でしきりなしに稲光りがする。音もなく。私はぼんやり頬杖をついて、若い頃よくそうする癖があったように窓硝子《まどガラス》に自分の額を押しつけながら、それを飽かずに眺めている。痙攣的《けいれんてき》に目たたきをしている、蒼ざめた一つの顔を硝子の向うに浮べながら……


 その冬になってから、私は或る雑誌に森さんの「半生」という小説を読んだ。これがあのO村で暗示を得たと仰しゃっていた作品なのであろうと思われた。御自分の半生を小説的にお書きなさろうとしたものらしかったが、それにはまだずっとお小さい時のことしか出て来なかった。そういう一部分だけでも、あの方がどういうものをお書きになろうとしているのか見当のつかない事もなかった。が、この作品の調子には、これまであの方の作品についぞ見たことのないような不思議に憂鬱《ゆううつ》なものがあった。しかしその見知らないものは、ずっと前からあの方の作品のうちに深く潜在していたものであって、唯、われわれの前にあの方の佯《いつ》われていた brilliant な調子のためすっかり掩《おお》いかくされていたに過ぎないように思われるものだった。――こういう生《なま》な調子でお書きになるのはあの方としては大へんお苦しいだろうとはお察しするが、どうか完成なさるようにと心からお祈りしていた。が、その「半生」は最初の部分が発表されたきりで、とうとうそのまま投げ出されたようだった。それは何か私にはあの方の前途の多難なことを予感させるようでならなかった。
 二月の末、森さんがその年になってからの初めてのお手紙を下さった。私の差し上げた年賀状にも返事の書けなかったお詫《わ》びやら、暮からずっと神経衰弱でお悩みになっていられることなど書き添えられ、それに何か雑誌の切り抜きのようなものを同封されていた。何気なくそれを披《ひら》いてみると、それは或る年上の女に与えられた一聯《いちれん》の恋愛詩のようなものであった。何んだってこんなものを私のところにお送りになったのかしらといぶかりながら、ふと最後の一節、――「いかで惜しむべきほどのわが身かは。ただ憂ふ、君が名の……」という句を何んの事やら分らずに口ずさんでいるうち、これはひょっとすると私に宛てられたものかも知れないと思い出した。そう思うと、私は最初何んとも云えずばつの悪いような気がした。――それから今度は、それが若《も》し本当にそうなのなら、こんなことをお書きになったりしては困ると云う、ごく世間並みの感情が私を支配し出した。……たとえ、そういうお気持がおありだったにせよ、そのままそっとしておいたら、誰も知らず、私も知らず、そして恐らくあの方自身も知らぬ間にそれは忘れ去られ、葬られてしまうにちがいない。何故そんな移ろい易いようなお気持を、こんな婉曲《えんきょく》な方法にせよ、私にお打ち明けになったのだろう? いままでのように、向うもこちらもそういう気持を意識せずにおつきあいしているのならいいが、いったん意識し合った上では、もうこれからはお逢いすることさえ出来ない。……
 そうして私はあの方のそんな一人よがりをお責めしたい気もちで一ぱいになっていた。しかし、そういうあの方を私はどうしても憎むような気もちにはなれなかった。そこに私の弱みがあったように思われる。……が、私はその数篇の詩が私に宛てられたものであることを知り得るのは、恐らく私一人ぐらいなものであろうことに気がつくと、何かほっとしながら、その紙片を破らずに自分の机の抽出《ひきだ》しのずっと奥の方に蔵《しま》ってしまった。そうして私は何んともないような風をしていた。
 丁度、お前たちと夕方の食事に向っている時だった。私はスウプを啜《すす》ろうとしかけたとき、ふとあの紙片が「昴《すばる》」からの切り抜きであったことを憶《おも》い出《だ》した。(それまでもそれに気がついていたが、それが何んの雑誌だろうと私は別に問題にしていなかったのだ。)そしてその雑誌なら、毎号私のところにも送ってきてある筈だが、この頃手にもとらずに放ってあるので、若しかしたら私の知らぬ間に、兄さんはともかく、お前はもうその詩を読んでいるかも知れなかった。これは飛んでもないことになった、と私ははじめて考え出した。何んだか気のせいか、お前はさっきから私の方を見て見ないふりをしておいでのようでならなかった。すると突然、私のうちに誰にともつかない怒りがこみ上げてきた。しかし私はいかにも虔《つつ》ましそうにスウプの匙《さじ》を動かしていた。……

 その日からというもの、私はあの方が私のまわりにお拡げになった、見知らない、なんとなく胸苦しいような雰囲気のなかに暮らしだした。私のお逢いする人達といえば、誰もかもみんなが私を何かけげんそうな顔をして見ているような気がされてならなかった。そうしてそれから数週間というものは、私はお前たちに顔を合わせるのさえ避けるようにして、自分の部屋に閉《と》じ籠《こも》っていた。私はただじっとして私の身に迫ろうとしている何やら私にも分からないものから身をはずしながら、それが私たちの傍を通り過ぎてしまうのを待っているより他はないような気がした。とにかくそれを私たちの中にはいりこませ、縺《もつ》れさせさえしなければ、私たちは救われる。そう私は信じていた。
 そうして私はこんな思いをしているよりも一層のこと早く年をとってしまえたらとさえ思った。自分さえもっと年をとってしまい、そうしてもう女らしくなくなってしまえたら、たとえ何処であの方とお逢いしようとも、私は静かな気もちでお話が出来るだろう。――しかし今の私は、どうも年が中途半端なのがいけないのだ。ああ、一ぺんに年がとってしまえるものなら……
 そんなことまで思いつめるようにしながら、私はこの日頃、すこし前よりも痩《や》せ、静脈のいくぶん浮きだしてきた自分の手をしげしげと見守っていることが多かった。

 その年は空梅雨であった。そうして六月の末から七月のはじめにかけて、真夏のように暑い日照りが続いていた。私はめっきり身体が衰えたような気がし、一人だけ先きに、早目にO村に出かけた。が、それから一週間するかしないうちに、急に梅雨気味の雨がふりだし、それが毎日のように降り続いた。間歇的《かんけつてき》に小止みにはなったが、しかしそんなときは霧がひどくて、近くの山々すら殆んどその姿を見せずにいた。
 私はそんな鬱陶しいお天気をかえって好いことにしていた。それが私の孤独を完全に守っていて呉れたからだった。一日は他の日に似ていた。ひえびえとした雨があちらこちらに溜《たま》っている楡《にれ》の落葉を腐らせ、それを一面に臭わせていた。ただ小鳥だけは毎日異ったのが、かわるがわる、庭の梢にやってきて異った声で啼《な》いていた。私は窓に近よりながら、どんな小鳥だろうと見ようとすると、この頃すこし眼が悪くなってきたのか、いつまでもそれが見あたらずにいることがあった。そのことは半ば私を悲しませ、半ば私の気に入った。が、そうしていつまでもうつけたように、かすかに揺れ動いている梢を見上げていると、いきなり私の眼の前に、蜘蛛《くも》が長く糸をひきながら落ちてきて、私をびっくりさせたりした。
 そのうちに、こんなに悪い陽気だけれど、ぼつぼつと別荘の人たちも来だしたらしい。二三度、私は裏の雑木林のなかを、淋しそうにレエンコオトをひっかけたきりで通って行く明さんらしい姿をお見かけしたが、まだ私きりなことを知っていらっしゃるからか、いつもうちへはお立寄りにならなかった。
 八月にはいっても、まだ梅雨じみた天候がつづいていた。そのうちにお前もやって来たし、森さんがまたK村にいらしっているとか、これからいらっしゃるのだとか、あんまりはっきりしない噂を耳にした。何故またこんな悪い陽気だのにあの方はいらっしゃるのかしら? あそこまでいらっしたら、こちらへもお見えになるかも知れないが、私はいまのような気もちではまだお目にかからない方がいいと思う。しかしそんな手紙をわざわざ差し上げるのも何んだから、いらしったらいらしったでいい、その時こそ、私はあの方によくお話をしよう。その場に菜穂子も呼んで、あの子によく納得できるように、お話をしよう。何を云おうかなどとは考えない方がいい。放っておけば、云うことはひとりでに出てくるものだ……。

 そのうちときどき晴れ間も見えるようになり、どうかすると庭の面にうっすらと日の射し込んでくるようなこともあった。すぐまたそれは翳《かげ》りはしたけれど。私は、この頃庭の真んなかの楡の木の下に丸木のベンチを作らせた、そのベンチの上に楡《にれ》の木の影がうっすらとあたったり、それがまた次第に弱まりながら、だんだん消えてゆきそうになる――そういう絶え間のない変化を、何かに怯《おび》やかされているような気もちがしながら見守っていた。あたかもこの頃の自分の不安な、落ちつかない心をそっくりそのままそれに見出しでもしているように。

 それから数日後、かあっと日の照りつけるような日が続きだした。しかしその日ざしはすでに秋の日ざしであった。まだ日中はとても暑かったけれども。――森さんが突然お見えになったのは、そんな日の、それも暑いさかりの正午近くであった。
 あの方は驚くほど憔悴《しょうすい》なすっていられるように見えた。そのお痩《や》せ方やお顔色の悪いことは、私の胸を一ぱいにさせた。あの方にお逢いするまでは、この頃、目立つほど老けだした私の様子を、あの方がどんな眼でお見になるかとかなり気にもしていたが、私はそんなことはすっかり忘れてしまった位であった。そうして私は気を引き立てるようにしてあの方と世間並みの挨拶などを交わしているうちに、その間私の方をしげしげと見ていらっしゃるあの方の暗い眼ざしに私の窶《やつ》れた様子があの方をも同じように悲しませているらしいことをやっと気づき出した。私は心の圧《お》しつぶされそうなのをやっと耐えながら、表面だけはいかにももの静かな様子を佯っていた。が、私にはその時それが精一ぱいで、あの方がいらしったらお話をしようと決心していたことなどは、とてもいま切り出すだけの勇気はないように思えた。
 やっと菜穂子が女中に紅茶の道具を持たせて出て来た。私はそれを受取って、あの方にお勧めしながら、お前が何かあの方に無愛想なことでもなさりはすまいかと、かえってそんなことを気にしていた。が、その時、私の全く思いがけなかったことには、お前はいかにも機嫌よさそうに、しかも驚くほど巧みな話しぶりであの方の相手をなさり出したのだ。この頃自分のことばかりにこだわっていて、お前たちのことはちっとも構わずにいたことを反省させられたほど、そのときのお前のおとなびた様子は私には思いがけなかった。――そう云うお前を相手になさっている方があの方にもよほど気軽だと見え、私だけを相手にされていた時よりもずっと御元気になられたようだった。
 そのうちに話がちょっと途絶えると、あの方はひどくお疲れになっていられるような御様子だのに、急に立ち上がられて、もう一度去年見た村の古い家並みが見てきたいと仰しゃられるので、私たちもそこまでお伴《とも》をすることにした。しかし丁度日ざかりで、砂の白く乾いた道の上には私たちの影すらほとんど落ちない位だった。ところどころに馬糞《ばふん》が光っていた。そうしてその上にはいくつも小さな白い蝶がむらがっていた。やっと村にはいると、私たちはときどき日を除《よ》けるため道ばたの農家の前に立ち止まって、去年と同じように蚕を飼っている家のなかの様子を窺《うかが》ったり、私たちの頭の上にいまにも崩れて来そうな位に傾いた古い軒の格子を見上げたり、又、去年まではまだ僅かに残っていた砂壁がいまはもう跡方もなくなって、其処がすっかり唐黍畑《とうきびばたけ》になっているのを認めたりしながら、何ということもなしに目を見合わせたりした。とうとう去年の村はずれまで来た。浅間山は私たちのすぐ目の前に、気味悪いくらい大きい感じで、松林の上にくっきりと盛り上っていた。それには何かそのときの私の気もちに妙にこたえてくるものがあった。
 暫くの間、私たちはその村はずれの分かれ道に、自分たちが無言でいることも忘れたように、うつけた様子で立ちつくしていた。そのとき村の真ん中から正午を知らせる鈍い鐘の音が出し抜けに聞えてきた。それがそんな沈黙をやっと私たちにも気づかせた。森さんはときどき気になるように向うの白く乾いた村道を見ていられた。迎えの自動車がもう来る筈だったのだ。――やがてそれらしい自動車が猛烈な埃《ほこ》りを上げながら飛んで来るのが見え出した。その埃りを避けようとして、私たちは道ばたの草の中へはいった。が、誰ひとりその自動車を呼び止めようともしないで、そのまま草の中にぼんやりと突立っていた。それはほんの僅かな時間だったのだろうけれど、私には長いことのように思えた。その間私は何か切ないような夢を見ながら、それから醒《さ》めたいのだが、いつまでもそれが続いていて醒められないような気さえしていた。……
 自動車は、ずっと向うまで行き過ぎてから、やっと私たちに気がついて引っ返して来た。その車の中によろめくようにお乗りになってから、森さんは私たちの方へ帽子にちょっと手をかけて会釈されたきりだった。……その車が又埃りを上げながら立ち去った後も、私たちは二人ともパラソルでその埃りを避けながら、何時までも黙って草の中に立っていた。
 去年と同じ村はずれでの、去年と殆ど同じような分かれ、――それだのに、まあ何んと去年のそのときとは何もかもが変ってしまっているのだろう。何が私たちの上に起り、そして過ぎ去ったのであろう?
「さっき此処いらで昼顔を見たんだけれど、もうないわね」
 私はそんな考えから自分の心を外らせようとして、殆ど口から出まかせに云った。
「昼顔?」
「だって、さっき昼顔が咲いていると云ったのはお前じゃなかった?」
「私、知らないわ……」
 お前は私の方をけげんそうに見つめた。さっきどうしても見たような気のしたその花は、しかし、いくらそこらを眼で捜して見てももう見つからなかった。私にはそれが何んだかひどく奇妙なことのように思われた。が、次ぎの瞬間にはこんなことをひどく奇妙に思ったりするのは、よほど私自身の気もちがどうかしているのだろうという気がしだしていた。……

 それから二三日するかしないうちに、森さんからこれから急に木曾の方へ立たれると云うお端書《はがき》をいただいた。私はあの方にお逢いしたらあれほどお話しておこうと決心していたのだが、変にはぐれてしまったのを何か後悔したいような気もちであった。が、一方では、ああやって何事もなかったようにお逢いし、そうして何事もなかったようにお分れしたのもかえって好いことだったかも知れない、――そう、自分自身に云って聞かせながら、いくぶん自分に安心を強いるような気もちでいた。そうしてその一方、私は、自分たちの運命にも関するような何物かが――今日でなければ、明日にもその正体がはっきりとなりそうな、しかしそうなることが私たちの運命を好くさせるか、悪くさせるかそれすら分らないような何物かが――一滴の雨をも落さずに村の上を過《よ》ぎってゆく暗い雲のように、自分たちの上を通り過ぎていってしまうようにと希《ねが》っていた。……
 或る晩のことであった。私はもうみんなが寝静まったあとも、何んだか胸苦しくて眠れそうもなかったので一人でこっそり戸外に出て行った。そうして、しばらく真っ暗な林の中を一人で歩いているうちに漸《ようや》く心もちが好くなって来たので、家の方へ戻って来ると、さっき出がけにみんな消して来た筈の広間の電気が、いつの間にか一つだけ点《つ》いているのに気がついた。お前はもう寝てしまったとばかり思っていたので、誰だろうと思いながら、楡の木の下にちょっと立ち止まったまま見ていると、いつも私のすわりつけている窓ぎわで、私がよくそうしているように窓硝子《まどガラス》に自分の額を押しつけながら、菜穂子がじっと空《くう》を見つめているらしいのが認められた。
 お前の顔は殆ど逆光線になっているので、どんな表情をしているのか全然分からなかったが、楡《にれ》の木の下に立っている私にも、お前はまだ少しも気づいていないらしかった。――そういうお前の物思わしげな姿はなんだかそんなときの私にそっくりのような気がされた。
 その時、一つの想念が私をとらえた。それはさっき私が戸外に出て行ったのを知ると、お前は何か急に気がかりになって、其処へ下りて来て、私のことをずっと考えておいでだったにちがいないと云う想念であった。恐らくお前はそれと知らずにそんな私とそっくりな姿勢をしているのだろうが、それはお前が私のことを立ち入って考えているうちに知《し》らず識《し》らず私と同化しているためにちがいなかった。いま、お前は私のことを考えておいでなのだ。もうすっかりお前の心のそとへ出て行ってしまって、もう取り返しのつかなくなったものでもあるかのように、私のことを考えておいでなのだ。
 いいえ、私はお前の傍から決して離れようとはしませぬ。それだのにお前の方でこの頃私を避けようとしてばかりいる。それが私にまるで自分のことを罪深い女かなんぞのように怖れさせ出しているだけなのだ。ああ、私たちはどうしてもっと他の人達のように虚心に生きられないのかしら? ……
 そう心の中でお前に訴えかけながら、私はいかにも何気ないように家の中にはいって行き、無言のままでお前の背後を通り抜けようとすると、お前はいきなり私の方を向いて、殆んどなじるような語気で、
「何処へ行っていらしったの?」と私に訊《き》いた。私はお前が私のことでどんなに苦い気もちにさせられているかを切ないほどはっきり感じた。
(つづく)



底本:「昭和文学全集 第6巻」小学館
   1988(昭和63)年6月1日初版第1刷
底本の親本:「堀辰雄全集 第二巻」筑摩書房
   1977(昭和52)年8月30日初版第1刷発行
初出:楡の家 第一部「物語の女」山本書店(「物語の女」の表題で。)
   1934(昭和9)年11月
   楡の家 第二部「文学界」(「目覚め」の表題で。)
   1941(昭和16)年9月号
   菜穂子「中央公論」
   1941(昭和16)年3月号
初収単行本:「菜穂子」創元社
   1941(昭和16)年11月18日
※創元社版の「菜穂子」には、山本書店版「物語の女」が「楡の家」第一部として、「文学界」掲載の「目覚め」が「楡の家」第二部として、「中央公論」掲載の「菜穂子」がそのままの表題で収録された。
※底本の親本の筑摩全集版は創元社版を底本とする。
※初出情報は、「堀辰雄全集 第二巻」(1977(昭和52)年8月30日、筑摩書房)解題による。
※訂正注記に際しては、底本の親本を参照しました。
入力:kompass
校正:浅原庸子
2004年1月21日作成
2012年4月14日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。
  • 上総 かずさ (カミツフサの転) 旧国名。今の千葉県の中央部。
  • 信濃 しなの 旧国名。いまの長野県。科野。信州。
  • 浅間山 あさまやま 長野・群馬両県にまたがる三重式の活火山。標高2568m。しばしば噴火、1783年(天明3)には大爆発し死者約2000人を出した。斜面は酪農や高冷地野菜栽培に利用され、南麓に避暑地の軽井沢高原が展開。浅間岳。
  • O村
  • K村
  • T病院
  • 木曽 きそ → きそだに(木曾谷)
  • 木曾谷 きそだに 長野県の南西部、木曾川上流の渓谷一帯の総称。古来中山道が通じ、重要な交通路をなす。木曾桟道・寝覚の床・小野滝の三絶勝があり、ヒノキその他の良材の産地。木曾。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。




*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
  • 三村家
  • 征雄 ゆきお 菜穂子の兄。
  • 安宅 あたか ピアニスト。ミッション・スクール時代の友だち。
  • 森於菟彦 もり おとひこ? 森鴎外の長男・森於菟と関係あるか。
  • 森於菟 もり おと 1890-1967 医学者。専門は解剖学。作家森鴎外と最初の妻・登志子との息子で、鴎外にとっては長男。東京府生まれ。東大助教授を経て1945年の終戦まで台北帝国大学(現・台湾大学)の医学部教授。戦後は台湾大学医学院教授(1947年まで)、帝国女子医学専門学校長、東邦大学医学部教授などを歴任した。
  • 明 あきら 隣人。


◇参照:『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、映画・能・狂言・謡曲などの作品名)
  • 『半生』 作中、森の書いた小説のタイトル。
  • 『昴』 すばる 石川啄木・木下杢太郎・平野万里・吉井勇らを同人とする文芸雑誌。1909年(明治42)1月創刊、13年(大正2)12月廃刊。「明星」廃刊後、その関係詩人が集まり、後には森鴎外が中心、与謝野寛・同晶子・上田敏らも後援。明治末期のいわゆる新浪漫主義思潮を起こし、スバル派の称を生んだ。


◇参照:『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*難字、求めよ

  • 楡 にれ ニレ属の落葉高木の総称。ハルニレ・アキニレ・オヒョウなど。材は堅く建築材・器具材。樹皮は強靱で、紙・縄・織布などとし、また、利尿・去痰剤とする。狭義にはハルニレを指す。
  • ミッション・スクール mission-school キリスト教団体が異教徒の多い国に布教の目的で設立した学校。
  • 宣教師 せんきょうし (missionary) キリスト教の伝道に従事する司祭・牧師。特に欧米の教会から派遣され、アジア・アフリカなど各地に宣教に行く人々。
  • 部落 ぶらく (1) 比較的少数の家を構成要素とする地縁団体。共同体としてまとまりをもった民家の一群。村の一部。
  • 山津波・山津浪 やまつなみ 山崩れの大規模なもので、多量の土砂や岩屑が山地から急激に押し出すこと。豪雨の後や大地震などで起こりやすい。
  • 遠近・彼方此方 おちこち (1) 遠い所と近い所。あちらこちら。ここかしこ。
  • 眺望 ちょうぼう 遠く見渡すこと。見渡したながめ。みはらし。
  • 地所 じしょ (家を建てる)土地。地面。ちしょ。
  • ひょっくり 「ひょっこり」に同じ。
  • 痩せぎす やせぎす 体がやせて骨ばって見えること。また、そのような人。
  • brilliant ブリリアント 輝かしいさま。見事なこと。
  • 灌木 かんぼく (1) 枝がむらがり生える樹木。(2) 低木に同じ。←→喬木。
  • 茶テーブル
  • 捲き雲 まきぐも 巻雲・捲雲。
  • 巻雲 けんうん 十種雲級の一つ。上層雲に属し、繊維状にかかる白雲。中緯度帯では5〜13kmの高さに現れる。極めて小さい氷の結晶から成る。すじ雲。まきぐも。記号Ci
  • まちもうける 待ち設ける (1) 用意して待つ。まちうける。(2) そうなるだろうと心に望んで待つ。期待する。
  • 居睡り いねむり 居眠り。
  • 亭 てい (1) 屋敷。住居。
  • 木蔦 きづた ウコギ科キヅタ属(学名ヘデラ)の蔓性常緑木本。多数の付着根を茎から出し、樹木にからんで高く登る。葉は長柄、革質で光沢がある。晩秋に、黄緑色の小花を密につけ、花後、黒色球状の液果を結ぶ。同属の数種を、園芸上ヘデラと通称し、観葉植物として栽培。フユヅタ。
  • 四つ目垣 よつめがき 竹垣の一種。丸太の杭を立て、その間に竹を縦横に粗く組んで四角の目を表した垣。
  • 腸カタル ちょうカタル 腸炎に同じ。
  • 腸炎 ちょうえん 腸の粘膜もしくは粘膜下におよぶ炎症。小腸炎・大腸炎など。腸カタル。
  • 佯 いつわる。あざむく。ふりをする。
  • 引き立てる ひきたてる (1) 横になっているものをひきおこして立てる。(3) はげます。鼓舞する。(4) 目をかけて挙げ用いる。力を添えて助ける。ひいきにする。(5) 特に見ばえのよくなるようにする。きわだつようにする。(6) 無理に連れて行く。ひったてる。
  • 虚心 きょしん 心に何のわだかまりもないこと。先入観を持たないで、すなおな心でいること。


◇参照:『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 Inkscape を使って日本地図を作成。縮尺と方位を入れるのを忘れる。pdf 形式で保存するが、Adobe Acrobat Reader では問題なく開くのに、OS X のプレビューでは白紙表示になる。eps 形式で保存したファイルは、自動変換後に開く。そのあと pdf 形式で保存できるからいいといえばいいけれど。。。ふしぎな仕様だ。
 ソニー Reader で問題なく表示。ベジェ・ライン、オープンタイプ・フォント(ヒラギノ)ともにクリア。ベクター画像はどんだけ拡大してもきれいに表示できることがウリのはずなのに、Reader では pdf ファイルの拡大表示に200%リミットがある模様。ドットブックや EPUB では体感1000%ぐらいまで拡大できるにかかわらず。。。すてきな仕様だ。
 つまり大きな日本地図・世界地図を苦労して一枚で作ったとしても、ソニー Reader 側でズームリミットがあるので、特定の小さなスポットを表示するのには向いていない。ソニー Reader で閲覧することが目的ならば、Inkscape 制作段階で小分け保存、もしくはプレビューでトリミングして再保存、という手順になる。このあたり、Kindle や Kobo でも同じなんだろうか。。。

 手書きのベジェ・ライン(クローズしてないオブジェクト)同士をつなぐ手順がいまだにわからない。。。書店でガイド本をチラ見するもわからず。ほぼ完成してるように見えながら、じつは海岸線を一本に連結できてないので、塗りを設定することができない=海にグレーのアミ指定ができない。
 それにしても、ジャギーのまったくない画像が手持ちの電子本やプリンターで表現できてしまうっていうのは、わかってはいても感動もの。

 ウェブ用画像は、pdf 表示からキャプチャーを撮って用意した。そのさいに GraphicConverter で海をグレーで塗りつぶし、火山と火山湖を赤丸で追記マーク。火山と火山湖は Wikipedia の同項目を参照した。




*次週予告


第五巻 第三一号 
菜穂子(二)堀 辰雄


第五巻 第三一号は、
二〇一三年二月二三日(土)発行予定です。
月末最終号:無料


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第五巻 第三〇号
菜穂子(一)堀 辰雄
発行:二〇一三年二月一六日(土)
編集:しだひろし / PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。