竹久夢二 たけひさ ゆめじ
1884-1934(明治17.9.16-昭和9.9.1)
画家・詩人。本名、茂次郎。岡山県生れ。挿絵画家として夢二式と称される女性像を創作し人気を博した。グラフィック‐デザインにもすぐれたものがある。詩画集「夢二画集」など。
◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。
◇表紙絵・挿絵・竹久夢二。
もくじ
クリスマスの贈り物 / 街の子 / 少年・春
竹久夢二
*ミルクティー*現代表記版
クリスマスの贈り物
街の子
少年・春
*オリジナル版
クリスマスの贈物
街の子
少年・春
*
地名 ・
年表 ・
人物一覧 ・
書籍
*
難字、求めよ
*
後記 ・ 次週予告
※ 製作環境
・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
・ ポメラ DM100、ソーラーパネル GOAL ZERO NOMAD 7(ガイド10プラス)
※ 週刊ミルクティー*は、JIS X 0213 文字を使用しています。
※ この作品は青空文庫にて公開中です。著作権保護期間を経過したパブリック・ドメイン作品につき、引用・印刷および転載・翻訳・翻案・朗読などの二次利用は自由です。
(c) Copyright this work is public domain.
*凡例〔現代表記版〕
- ( ):小書き。〈 〉:割り注。
- 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
- 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
- 例、云う → いう / 言う
- 処 → ところ / 所
- 有つ → 持つ
- 這入る → 入る
- 円く → 丸く
- 室 → 部屋
- 一、同音異義の一部のひらがなを、便宜、漢字に改めました。
- 例、いって → 行って / 言って
- きいた → 聞いた / 効いた
- 一、若干の句読点を改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
- 一、漢数字の表記を一部、改めました。
- 例、七百二戸 → 七〇二戸
- 例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
- 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
- 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
- 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
- 一、和歌・俳句・短歌は五七五(七七)の音節ごとに半角スペースで句切りました。
- 一、表や図版キャプションなどの組版は、便宜、改めました。
- 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
- 一、「今から○○年前」のような経過年数の表記や、郡域・国域など地域の帰属、団体法人名・企業名などは、底本当時のままにしました。
- 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。
*尺貫・度量衡の一覧
- 寸 すん 一寸=約3cm。
- 尺 しゃく 一尺=約30cm。
- 丈 じょう (1) 一丈=約3m。尺の10倍。(2) 周尺で、約1.7m。成人男子の身長。
- 歩 ぶ (1) 左右の足を一度ずつ前に出した長さ。6尺。(2) 土地面積の単位。一歩は普通、曲尺6尺平方で、一坪に同じ。
- 間 けん 一間=約1.8m。6尺。
- 町 ちょう (1) 一町=10段(約100アール=1ヘクタール)。令制では3600歩、太閤検地以後は3000歩。(2) (「丁」とも書く) 一町=約109m強。60間。
- 里 り 一里=約4km(36町)。昔は300歩、今の6町。
- 合 ごう 一合=約180立方cm。
- 升 しょう 一升=約1.8リットル。
- 斗 と 一斗=約18リットル。
- 海里・浬 かいり 一海里=1852m。
- 尋 ひろ (1) (「広(ひろ)」の意)両手を左右にひろげた時の両手先の間の距離。(2) 縄・水深などをはかる長さの単位。一尋は5尺(1.5m)または6尺(1.8m)で、漁業・釣りでは1.5mとしている。
- 坪 つぼ 一坪=約3.3平方m。歩(ぶ)。6尺四方。
- 丈六 じょうろく 一丈六尺=4.85m。
*底本
底本:「童話集 春」小学館文庫、小学館
2004(平成16)年8月1日初版第1刷発行
底本の親本:「童話 春」研究社
1926(大正15)年12月
http://www.aozora.gr.jp/cards/000212/card46421.html
http://www.aozora.gr.jp/cards/000212/card46441.html
http://www.aozora.gr.jp/cards/000212/card46451.html
NDC 分類:K913(日本文学 / 小説.物語)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndck913.html
クリスマスの贈り物
竹久夢二
「ねえ、かあさん」
みっちゃんは、お三時のとき、二つめの木の葉パンを半分ほおばりながら、母さまにいいました。
「ねえ、かあさん」
「なあに? みっちゃん」
「あのね、かあさん。もうじきに、クリスマスでしょ」
「ええ、もうじきね」
「どれだけ?」
「みっちゃんの年ほど、おねんねしたら」
「みっちゃんの年ほど?」
「そうですよ」
「じゃあ、かあさん、一つ、二つ、三つ……」とみっちゃんは、自分の年の数ほど、テーブルの上に手をあげて、ゆびをおりながら、勘定をはじめました。
「ひとつ、ふたあつ、みっつ、そいから、ね、かあさん。いつつ、ね、むっつ。ほら、むっつねたらなの? ね、かあさん」
「そうですよ。むっつねたら、クリスマスなのよ」
「ねえ、かあさん」
「まあ、みっちゃん、お茶がこぼれますよ」
「ねえ、かあさん」
「あいよ」
「クリスマスにはねえ。ええと、あたい、なにがほしいだろう?」
「まあ、みっちゃんは、クリスマスの贈り物のことを考えていたの?」
「ねえ、かあさん、なんでしょう?」
「みっちゃんのことだもの。みっちゃんがほしいとおもうものなら、なんでもくださるでしょうよ。サンタクロースのおじいさんは」
「そう? かあさん」
「ほら、お口からお茶がこぼれますよ。さ、ハンカチでおふきなさい。えエえエ、なんでもくださるよ。みっちゃん、何がほしいの?」
「あたいね。金の服をきたフランスの女王さまとね、そいから赤いほっぺをした白いジョーカーと、そいから、おとぎばなしのご本と、そいから、なんだっけ、そいから、ピアノ、そいから、キューピー、そいから……」
「まあ、ずいぶんたくさんなのね」
「ええ、かあさん、もっとたくさんでもいい?」
「えエ、えエ、よござんすとも。だけどかあさんは、そんなにたくさんとてもおぼえきれませんよ」
「でも、かあさん、サンタクロースのおじいさんが持ってきてくださるのでしょう?」
「そりゃあ、そうだけれどもさ、サンタクロースのおじいさんも、そんなにたくさんじゃ、お忘れなさるわ」
「じゃ、かあさん、書いてちょうだいな。そして、サンタクロースのおじいさんに手紙だして、ね」
「はい、はい、さあ書きますよ、みっちゃん、いってちょうだい」
「ピアノよ、キューピーよ、クレヨンね、スケッチ帳ね、きりぬきに、手ぶくろに、リボンに……ねえ、かあさん、お家なんかくださらないの?」
「そうね、お家なんかおもいからねえ。サンタクロースのおじいさんは、おとしよりだから、とても持てないでしょうよ」
「では、ピアノもダメかしら?」
「そうね。そんなおもいものはダメでしょ」
「じゃ、ピアノもお家もよすわ、ああ、ハーモニカ! ハーモニカならかるいわね。そいからサーベルにピストルに……」
「ピストルなんかいるの? みっちゃん」
「だって、おとなりの二郎さんが、悪漢になるとき、いるんだっていったんですもの」
「まあ悪漢ですって。あのね、みっちゃん、悪漢なんかになるのはよくないのよ。それにね、もし二郎さんが悪漢になるのに、どうしてもピストルがいるのだったら、きっとサンタクロースのおじいさんが二郎さんにももってきてくださるわ」
「二郎さんとこへも、サンタクロースのおじいさんくるの?」
「二郎さんのお家へも来ますよ」
「でも二郎さんとこに、煙突がないのよ」
「煙突がないとこは、天窓からはいれるでしょう」
「そうぉ、じゃ、ピストルはよすわ」
「さ、もう、お茶もいいでしょ。お庭へいってお遊びなさい」
みっちゃんはすぐにお庭へいって、二郎さんを呼びました。
「二郎さん、サンタクロースのおじいさんにお手紙かいて?」
「ぼく、知らないや」
「あら、お手紙出さないの? あたし、かあさんがね、お手紙だしたわよ。ハーモニカだの、お人形だの、リボンだの、ナイフだの、人形だの、持ってきてくださいって出したわ」
「おじいさんが、持ってきてくれるの?」
「あら、二郎さん知らないの?」
「どこのおじいさん?」
「サンタクロースのおじいさんだわ」
「サンタクロースのおじいさんて、どこのおじいさん?」
「天からくるんだわ。クリスマスの晩にくるのよ」
「ぼくんとこは、こないや」
「あら、どうして? じゃきっと煙突がないからだわ。でも、かあさんいったわ、煙突のないとこは天窓からくるって」
「ほう、じゃくるかなあ、なにもってくる?」
「なんでもよ」
「ピストルでも?」
「ピストルでもサーベルでも」
「じゃ、ぼく手紙をかこうや」
二郎さんは、大いそぎで家へ飛んで帰りました。二郎さんの綿入をぬっていらした母さんにいいました。
「サンタクロースに手紙をかいてよ、かあさん」
「なんですって? この子は」
「ピストルと、靴と、洋服と、ほしいや」
「まあ、なにを言っているの?」
「みっちゃんとこのかあさんも手紙をかいて、サンタクロースにやったって。人形だの、リボンだの、ハーモニカだの。ねえかあさん、ぼく、ピストルとサーベルと、ね……」
「それはね二郎さん、おとなりのお家には煙突があるからサンタクロースのおじいさんがくるのです」
「でもいったよ、みっちゃんのかあさんがね、煙突がないとこは天窓がいいんだって」
「まあ。それじゃ、お手紙をかいてみましょうね。ぼうや」
「うれしいな。ぼく、ピストルにラッパもほしいや」
「そんなにたくさん、よくばる子には、くださらないかもしれませんよ」
「だってぼく、ラッパもほしいんだもの」
「でもね、サンタクロースのおじいさまは、世界じゅうの子どもに贈り物をなさるんだから、一人の子どもが欲ばったら、もらえない子どもができるとわるいでしょう?」
「じゃあ、ぼく一つでいいや、ラッパ。ねえ、かあさん」
「そうそう二郎さんはよい子ね」
「赤い房のついたラッパよ、かあさん」
「えエえエ、赤い房のついたのをね」
「うれしいな」
クリスマスの夜があけて、眼をさますと、二郎さんの枕もとには、りっぱな黄色くひかって赤い房のついたラッパが、ちゃんと二郎さんをまっていました。二郎さんは大よろこびでかあさんを呼びました。
「かあさん、ぼく、吹いてみますよ。チッテ、チッテタ、トッテッ、チッチッ、トッテッチ」
ところが、みっちゃんのほうは、朝、目をさましてみると、リボンと鉛筆とナイフとだけしかありませんでした。
みっちゃんはストーブの煙突をのぞいて見ましたが、ほかには何も出てきませんでした。みっちゃんは泣き出しました。いくらたくさん贈り物があっても、みっちゃんをよろこばせることができないのでした。みっちゃんはいくらでもほしい子でしたから。
(一九二五、九、二五)
底本:「童話集 春」小学館文庫、小学館
2004(平成16)年8月1日初版第1刷発行
底本の親本:「童話 春」研究社
1926(大正15)年12月
入力:noir
校正:noriko saito
2006年7月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
街の子
竹久夢二
それは、土曜日の晩でした。
春太郎は風呂屋から飛んで帰りました。春太郎が、湯からあがって着物をきていると、そこの壁の上に、ジャッキー・クウガンがヴァイオリンを持って街を歩いている絵をかいた大きなポスターが、そこにかかっているのです。
十二月一日より
ジャッキー・クウガン“街の子”
キネマ館にて
と書いてあるのです。それを見た春太郎は、大いそぎで帯をグルグル巻きにして、家へ飛んでかえりました。
春太郎はジャッキー・クウガンが大好きで、ジャッキーの写真はたいてい見ていました。だからもう今では、ジャッキーの顔を見ると、長いあいだのお友だちのような気がするのでした。
「おかあさん、行ってもいいでしょう? ねえ」
春太郎はそう言って、おかあさんにせがみました。
「でも一人ではいけませんよ。おねえさんとならいいけど」
「うん、じゃあ、おねえさんと、ね、そんならいいでしょう?」
春太郎はおねえさんのとこへ飛んで行って、たのみました。
「おかあさんは、行ってもいいっておっしゃったの?」
「ええ、おねえさんとならいいって」
「じゃ、行ってあげるわ」
「うれしいな、これからすぐですよ」
春太郎は、おねえさんにつれられて、キネマ館へゆきました。二階の正面にすわって、ベルの鳴るのをまっていました。
しばらくすると、ベルが鳴って、チカチカチカチカとフィルムのまわる音がしだしたかとおもうと、パッとジャッキーの姿が眼のまえにあらわれました。パチパチパチと、春太郎もおもわず手をたたきました。
「ここに、カリフォルニアの片田舎に、ひとりの少年がありました。その名を……」
と弁士がへんな声を出して、説明をはじめました。春太郎は、弁士の説明なんかどうでもいいのでした。ただ、ジャッキーが出てきて、笑ったり、泣いたり、歩いたり、すわったりすれば、それだけでじゅうぶんいいのでした。ジャッキーが泣くときには、春太郎も悲しくなるし、笑うときには、やはり、うれしくなって笑いだすのでした。
ジャッキーのおかあさんが死んでから、ジャッキーは、育てられたおじいさん、おばあさんに別れて、おかあさんの形見のヴァイオリンを、たった一つ持ったままで、街へ出てゆきました。
ちょうど、これはクリスマスの晩のことで、りっぱな家の窓から暖かそうな明かりがさして、部屋のまんなかには、大きなクリスマス・ツリーが立っていて、いい着物をきた子どもたちは、部屋の中をとびまわっていました。ある家の食堂のほうからは、おいしそうなごちそうのにおいがしているのでした。
「ぼくには、なにもないや。お家も、クリスマス・ツリーも、ごちそうも。おとうさんも、おかあさんもないや、なんにも、ないや」
ジャッキーはとぼとぼと歩きました。そのうちお腹はへってくるし、寒さはさむし、そのうえ雪がだんだん降りつもって、道もわからず、それにいちばんわるいことは、どこへ行ったらいいか、ジャッキーにはあてがないことでした。
おもちゃ屋の飾窓には大きなテディ熊が飾ってあります。おもちゃ屋の中から、大きな包みをもった紳士が子どもの手をひいて出てきました。
「あの大きな包みの中には、きっとたくさんおもちゃがあるんだよ」
ジャッキーは、ぼんやりそれを見ていますと、
「おいおい危ないよ!」
そう言って、馬車の別当がジャッキーをつきとばしました。
どこか遠くのほうで、オルガンの音がする。オルガンに足拍子をとりながら、たくさんの天使がダンスをやっている。そこは、高い青い空で、空にはかぞえきれないほどたくさんの星が、ピカピカひかっています。
「きれいだなあ……」
ジャッキーは、夢を見ているような心持ちで、高い空を見ていました。すると、白いヒゲをはやした一人の老人が、とぼとぼと歩いてきました。
「ああ、サンタクロースのおじいさんだ。きっとそうだよ。ぼくんとこへ、クリスマスの贈り物を持ってくるんだよ。だけどおかしいなあ。袋を持っていないや。」
老人は、だんだんジャッキーのほうへ近づいてきました。そしてジャッキーをだきあげて、自分のうちへつれて帰りました。家といってもまずしい屋根裏で、あくる日からジャッキーは、このおじいさんと二人でヴァイオリンをひいて、街を、はずれからはずれまで歩かねばなりませんでした。
おじいさんは親切ないい人でしたが、ある日、ジャッキーの子守唄を聞きながら、死んでしまいました。ジャッキーは、またある有名な音楽家に救われて、そこの家へ引きとられてゆきました。食堂へ入ると、そこに写真がかかっていました。それは一人の女の肖像でありました。ジャッキーはそれを見て、
「ああ、おかあさんだ!」
その音楽家もびっくりしてしまいました。ジャッキーは、ポケットから一枚の写真を出して、その音楽家に見せました。写真のうらには、
ジャッキーへ、おまえの母より
と書いてあるのでした。その写真と、この額の写真とは、おなじ人でありました。
「おまえはわたしの子だったのか……」
音楽家は、ジャッキーをしっかりだきしめて、ジャッキーの眼からながれるうれし涙をふいてやりました。
おとうさんの音楽家の眼からも、玉のような涙がぽろぽろと流れました。春太郎の眼からも、ポロポロと大きなのがころげました。春太郎のおねえさんも眼にハンカチをあてていました。
春太郎は、学校へゆく道で考えました。早く雪が降ってくれるといいな。そしてクリスマスの晩になるといいな。だけど、ジャッキーはどうしたろう? あれからすっかり幸福になったかしら? まだあの大きなズボンをはいて、ロンドンの街を歩いているのじゃないかしら? ぼくもロンドンへ行きたいな。おねえさんが死んでしまったら、ぼくおねえさんのヴァイオリンをもらおうや。そして、クリスマスの晩、ロンドンの街を歩くんだ。そうすると大きなおもちゃ屋があって、そこの飾窓にテディ熊がいるだろう。「おい、危ない!」で、空には星がキラキラひかっていて、袋を持たないサンタクロースのおじいさんがやってくる。ジャッキーがヴァイオリンをひいているのを、おじいさんが聞きながら、「うまい、うまい。ジャッキーは、いまに大音楽家になるぞ」そう言ってほめました。
きっと、ぼくは大音楽家になるだろう。そして、ぼくのおとうさんも大音楽家なんだ。おや、おや。ぼくのおとうさんは、会社へ出ているんだっけ……、
「カン、カン、カン」
「カン、カン、カン」
そのとき、春太郎は、いつのまにか、学校の前へきていました。
いまちょうど、授業のはじまるベルが鳴っていました。
春太郎は、ジャッキーになることを急に思いとまって、おおいそぎで教室のほうへ走ってゆきました。
底本:「童話集 春」小学館文庫、小学館
2004(平成16)年8月1日初版第1刷発行
底本の親本:「童話 春」研究社
1926(大正15)年12月
入力:noir
校正:noriko saito
2006年7月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
少年・春
竹久夢二
1
「い」とあなたがいうと
「それから」と母さまはおっしゃった。
「ろ」
「それから」
「は」
あなたは母さまのひざに抱っこされていた。外では凩がおそろしくほえ狂うので、地上のありとあらゆる草も木も悲しげに泣きさけんでいる。
そのときあなたは慄えながら、母さまの首へしっかりとしがみつくのでした。
凩がすさまじくほえ狂うと、ランプの光が明るくなって、テーブルの上のリンゴはいよいよ紅く、暖炉の火はだんだん暖かくなった。
あなたのひざの上には絵本が置かれ、悲しい話のところが開かれてあった。それを母さまは読んでくださる。――それは、もうまえに百ぺんも読んでくださった物語であった。――そのときの母さまの顔色の眼はしずんで、声は低く悲しかった。あなたは呼吸をころして一心に聞き入るのでした。
誰ぞ、コマドリを殺せしは?
スズメはいいぬ、われこそ! と
わがこの弓と矢をもちて
わがコマドリを殺しけり。
これがあなたの、虐殺者というものを聞き知った最初であった。
あなたはこのおそろしい光景を残りなく胸に描き得た。この憎むべき矢に射貫かれた美しいあたたかい紅の胸を、この刺客の手にたおれた、あわれなやわらかい小鳥の骸を。
咽喉が急にふさがって、涙があなたの眼にうかぶ。一滴また一滴、それがほおをつたって流れては、熱い、しかも悲しいしたたりが、絵本のうえに雨だれのように落ちた。
「母さま、コマドリは可哀そうねェ」
「ぼうや、泣くんじゃないよ」
「でも母さま、スズメが……スズメが……こ……殺しちゃったんだもの」
「ああ、そうなの。スズメが殺してしまったのよ。本にはそう書いてありますけれど、ぼうやは聞いたことがありますか?」
「なあに?」
絵本は、その悲しい話の半面を語ったにすぎなかった。ほかの半面は母さまが知っていなさった。コマドリは殺された。殺されて冷たい血汐のなかに横たわったことは事実であった。けれども慈悲深い死の翼あるその矢のために、コマドリは正直な鳥の、つねに行くべきところへ行った。そしてそこで――ああうれしい――彼は先へ行っていた自分の最愛の妻と子にそこで逢ったのでした。
「コマドリの親子は、いまはみんなそこにいるんですよ。この世に住んだうちではいちばんしあわせなコマドリなんだよ」と、母さまはあなたの涙にぬれたほおにキッスしながらおっしゃった。
大きく見ひらいたあなたの眼には、もう涙は消えていた。あなたは正直な鳥の行くべきところにいるコマドリのことを遠く思いやった。コマドリの眼、コマドリの紅い胸はふたたび輝いていた。彼はさえずり、歌い、そして妻子をつれて枝から枝へと飛び移った。小さい話をつくろうことも、小さい人の心をつくろうことも、小さい靴下をつくろうことのように母さまはじつにお手に入ったものであった。こんなときにはいつも、あなたの靴下からはひざ小僧がのぞいていた。日の暮れには、きまって靴下に穴があいて、そこから泥だらけなひざが見えるのでした。
「まあちょっとごらんなさい、たったいま洗ってあげたばかりじゃありませんか」といって、母さまはあなたがおよる前に、湯殿へつれておいでになる。あなたは大きな盥のふちに腰かけて、脚で水をボチャボチャいわせながら、母さまの横顔を見ていた。
「まあ、きたない児だねえ」とおっしゃって、母さまはあなたの生傷のついてる真っ黒なひざを洗っておやりになった。そしてきれいになったところで、いつでもこう言いなさる。
「まあ、うちの光る児!」
そしてあなたの靴下は、あなたが朝、お家を飛び出すときにはいくらきれいであっても、夕方またお家へ帰ってくるときには、もう見るかげもなく汚れているのでした。そこで例によって、それ糸巻はどこにある? 糸は? 針は? というさわぎがはじまるのです。
夏の朝、母さまは庭のはなれでお針箱をそばへ置いて、ぬいものをなさるのが常だった。太陽は網の目のようになっている木々の緑をとおして、金色の光を投げた。鳥もさえずりにあき、風もまどろむおやつのときにも、母さまはなおやめずに針を動かしておいでだった。日が暮れてお夕餉がすんでもなお母さまは、黄色いランプの光のしたに針を動かしておいでだった。
「母さまは、なぜそんなにチクチクばかりしてるの?」
「ぼうやには青い水兵服と、嬢には紫のお被布をこしらえてあげようと思ってさ」
「母さまはチクチクが好きなの?」
「そうとも思わないけれどね」
「だって……母さまはあきないの?」
「ああ、そりゃ、ときどきはねえ」
「じゃ、おやすみなさいよ。ねえ母さま」
「おやすみって? ぼうや。ああ休みましょう。いますこしぬって、そしたら遊びましょう」
「だって、母さまは、いますこし、いますこしって、一日かかっちまうんだもの、ねえ、母さまってば、母さま」
あなたはすこし考えて、
「もう、縫わなくってもいいのよ」
「もういいって? この児は……」と母さまはお笑いなすった。あなたも笑った。
後にあなたは、
「母さまとは、わたしの面倒を見てくださって、わたしを可愛がって、そして、いますこし、もうすこしって――終日――縫い物をしている人です」
と、人びとに話して聞かせたのでした。そうすると、その人たちは、母さまが子どもたちの面倒を見てくださるからには、子どもたちもまた母さまのためにしてあげなければなりません。とあなたに話しました。そして、あなたはじつにその言葉のとおりにやった。母さまのまえに立ちふさがって、あなたはいさましく拳をにぎりしめた。
「わたしの母さまにさわっちゃいけません!」
あなたの唇はわななき、眼は怒と涙で輝いていた。けれども、母さまはあなたをかばいながら、
「パパさんは、串談なんですよ」母さまはあなたを胸にだきよせて、
「ごらんよ、パパは笑ってらっしゃるよ」とおっしゃった。
パパは、
「やアい、こわっぱ、パパは串談でやってるんだよ」
母さまは、ほほえみながら、しかもほこりがに、あなたの涙をぬぐっておやりになった。あなたは、あなたのほうへ手をさしだしているパパを、いぶかしげに見やった。そして母さまに押されながら、おずおずとパパのところへ行った。
パパはおっしゃった。
「おまえはいつでも今のように母さまにつくさなければなりません。そしてパパがいないときには、だれでもよその人に、母さまがいじめられないようにするんですよ」
母さまはあなたの額にキッスして、
「母さまをまもる軍人なんだもの」
そしてこれからのちは、あなたが近くにいるときには、母さまに心配はなかった。
「ああ、あの荒木のおくさん、あれにはまた弱ってしまうねえ」
と母さまは低い声でおっしゃったけれど、あなたはそれを聞き逃さなかった。そして小さい全精神をあげて荒木夫人を憎んだ。ついにそのおくさんの勘定日がきて、おくさん自身やってきた。母さまは庭にいて聞きつけなかった。あなたは自分であいさつに出た。
「母さまには、今日は、逢えやしないよ」あなたがしゃちこばっていうと、
「それは変ですねえ」と、荒木夫人は一足進んで言った。
「ダメだい!」あなたは力いっぱいにドアにつかまって、声をはりあげた。
「ダメだよ! 入っちゃいけないよ」
「おせっかいだっちゃありゃしない」荒木夫人は、おどしつけるようにいったけれど、あなたは、めげずに睨めつけて、声をはりあげ、
「もう、ぼくの母さまにゃ逢えやしないよ!」
と断乎してくりかえした。
「なぜですか? うけたまわりたいものですが」と荒木夫人はみるみるふくれあがった。
「いったいどうしてなのです? それを聞きましょう」
「なぜって、父さまがいないときには母さまの面倒をぼうやが見てあげるんだい。母さまが逢いたくないようなやつに母さまがいじめられないようにしろって父さまが言ったんだもの」
文句が長かったので、一息でいってしまうのはたいていのことではなかった。
荒木夫人はひからびたような嘲笑をもらして、
「ああ、そういうんですか? それでおまえさんは、なぜ、おまえさんのお母さまがわたしにあいたくないのか、そのわけを知っていなさるかえ?」
「だって――母さま、そう言ったもの!」
あなたの言ったことはきれぎれで、ちょうど「いろは」のご本を読むようだったので、荒木夫人は飲みこめなかったかもしれなかった。
しかし、とにかく、うまくいった。荒木夫人は火のように怒って、鼻息を荒くしながら、すそを蹴返して帰って行った。
「もう決して決して……」といって、門の戸をピシャリとしめた。
あなたはしずかにドアをしめた。
戦いは勝てり!
あなたは庭へ引き返した。
「もうすんだ、もうすんじゃった。」
「なにがもうすんだっての? ぼうや」
「荒木のおくさん」とあなたは答えた。
こんなふうにあなたは母さまにつくした。母さまは、ますますあなたを可愛がり、あなたも、ますます母さまにつくしたのでした。この日頃あなたは病気ではあったものの、なおかつ機嫌がよかった。なぜって母さまがおいしい物をこしらえては、お茶碗に散蓮華〔さじ〕をそえて持ってきてくださるたんびに、おかわりのいるほど食べた――死なないって証拠のように。そうしては、やわらかい枕をして母さまが手ずから〔自分の手で〕こしらえたツギハギの丹前〔ドテラ〕をかけて横になった。枕もとには母さまが嫁入りのときに着たキモノの絹の小さなキレや、母さまがずっとむかし、まだ桃割を結ってた時分の、よそ行きのお羽織の紺青色のキレがあった。まだまだ、おばあさんのキモノのやわらかい鼠色のキレや、春さんののであったピカピカひかる桃色ののや、父さまが若かった男盛りのころのネクタイだった条のあるのや、藍色ののや黄色いのもあった。病に疲れてものうく〔なんとなく気がすすまなく〕、眠む気がさして、うっとりとしてくるにつれて、その嫁入り衣装のキレは冷たい真白な雪にかわる。するとソリの鈴の音が聞こえてくる。
すみっこのほうに小さな教会のついているクリスマスカードが見える。その教会の塔は凍っていたけれど、その窓はクリスマスの輝きで明るく暖かかった。
つぎに紺青色のは空であった。
そして、それを見ていると、小鳥や、星や、三月弥生のことなどが思い出されるのであった。
もし、おばあさまののであった鼠色のキレに眼をうつすならば、緑色だった空はたちまち暗くなって雨が降ってくる。
けれどもお春さんののであった桃色のキレや、父さまのだった藍色ののや黄色のを見さえすれば、すぐに花がさいた、おひさまがまた輝くのでした。
やがていろんな色がごっちゃになって、こんがらがってしまう、タンポポがチャラチャラと鳴ったり、ソリの鈴やスミレが雪のなかで花を開いたり。そしてあなたは眠ります。その眠りが小さな子どもを健康にするのでした。
2
春がきた。
桜の枝にはハチと風とが音を立てている。庭にはあなたと母さまと二人きり、白い花弁が雪のように音もなく散りかかる。
小鳥は朝の輝きのうちにさえずっていた。
あなたはおどり、笑い、かつ歌った。
あなたの大きくみひらいた眼には、はてなき大空の藍色と見わたす草原の緑とがうつり、紅をさしたほおには、日の光とそよ風とが知られた。
「母さま見てごらんなさい、ぼうやが飛びあがりますよ」
「まあ」
「今度はさかだち」
「まあ、おじょうずだこと」
「母さま、ぼうやは大きくなってから何になるか知ってますよ」
「何になるの?」
「曲馬師になるの」
「まあ」
「大きい白い馬に乗って、ねえ母さま」
「まあ、いいことね」
「そして、お月さまなんか、飛びこしっちまうんだ」
「お月さまを、まあ」
「ええ、お月さまを、見てごらんなさい」と言ってあなたは、外にあった熊手の柄を飛びこえた。
それがお月さまを飛びこす下稽古でした。
「けども、ぼうやは曲馬師にはならないかもしれないの、きっと、ねえ母さま」
「曲馬師にならないって?」
「ぼくは、ジョージ・ワシントンのように大統領になるの。父さまがなれるっていいましたもの、なれるでしょうか? え、母さま」
「そうね、なれましょうよ、いつか」
「だけども次郎坊なんかなれやしませんね、母さま」
「なぜ、次郎さんはなれないの?」
「だって次郎坊は、約束してもすぐ嘘いうんだもの。ぼくは言わないの、ジョージ・ワシントンも言わなかったから」
「そうそう、そのほうがいいんですよ、曲馬師と大統領とはまるでくらべものになりません」
「ぼくは母さま、ぼくきっと大統領になりますよ」
「まあいいこと、きっとなるんですよ」
母さまは、はなれで縫い物をはじめなさる。
「母さま」
「はあい」
「今から歌を歌いますよ」
ほどよい庭へまっすぐに立ち、踵をそろえ、両手をまっすぐにたれて、「気をつけ」の姿勢であなたは歌いはじめた。
天はゆるさじ 良民の
自由をなみする 虐政を
十三州の 血はほとばしり
「もうすこし、しずかにお歌いなさいな」と、母さまがおっしゃった。
天はゆるさじ 良民の……
「それじゃあ、聞こえやしないわ」と、母さまはお笑いになった。あなたはちょっと、妙な笑いかたをして、また声をはりあげる。
自由をなみする 虐政を
十三州の 血はほとばしり
ここに立ちたる ワシントン
「まあ、おじょうずだねえ」と母さまはおっしゃる。
「さあ、こんどは母さまの番だよ。母さま、なにかお話」
「お話」
「ええ、あのスミレのお話」
「スミレの……」といって母さまは、夢見るように針の手をとめて、
「青い青いスミレが――」
「空のように青いのねえ、母さま」とあなたは口を入れた。
「空のように青い、そうむかしはね、この世界にスミレが一つもなかったの」
「それからお星さまもねえ、母さま」
「ええ、スミレもお星さまもこの世界になかったの。そこでねえぼうや、青い空をすこしばかりわけてもらって、それを世界じゅうに輝かしたものがあるの。それがスミレのいちばんはじまりなんだよ」
「それからお星さまは?」
「ぼうやは知ってるじゃありませんか。お星さまはね、青い空の小さな穴ですよ。そこから天の光が輝く小さな穴ですよ」
「ほんとう? 母さま」とあなたは言って母さまを見あげる。
母さまの眼はスミレのように青く、星のように輝いていた。天の光が輝いておったから。
母さまは世界じゅうでいちばん不思議な人であった。
母さまは、かつて悪いことをしたことがなかった。そして、いろんなことを知っていた。夜も昼も子どものことを見ておいでなさる神さまをも知っていた。また神さまは、あなたの髪の毛の数さえも知っておいでなさるのみならず、子鳥が死ぬのをも一羽だっても、神さまの知っていなさらぬことはないと母さまは話して聞かせなされた。
「そんならねえ母さま、神さまは、あのコマドリの死んだ時をも知っているの?」
「知ってなさるとも」
「それじゃあ、ぼくが指をいためた時をも、知っているの?」
「ああ、なんでも知っていなさいますよ」
「そんなら、ぼくが指をいためたときには、可愛そうと思ったでしょうか? え母さま」
「それは、可愛そうだと思いなされたともね」
「じゃ、なぜ神さまは、ぼくの指をいためるようになされたの?」
しばらく母さまはだまっておいでだった。
「まあぼうやは、それは母さまにはわからないわ。神さまよりほかには誰も知らないことがたくさんあるのです」
あなたは母さまの言葉をあやしみながら、母さまのひざのうえに抱かれていた。
空のどこかに、雲のうえの輝きわたる大きなお宮の中に、金のかんむりを戴いた神さまがいらっしゃることをあなたは知っていた。そしてその下の緑の世界には、小鳥が死んだり、小さな子どもが指をいためて、母さまに抱かれて泣いたりするのです。
神さまはすべてのこと、すべての人を視ていらっしゃった。けれどもそれを助けはなさらなかった。
あなたは、母さまの首に両手をまわして、母さまの胸にかじりついた。
「母さま! ぼく神さまはいや、神さまはいや!」
「なぜ、ぼうやはそんなこというの? 神さまはぼうやを可愛がってらっしゃるのに」
「だって、だって、母さま、母さまがなさるようじゃないもの、神さまは母さまのようじゃないんだもの」
ハチと風とは、リンゴの枝に音を立てていた。もう五月になったのだ。庭にはあなたと母さまとただ二人、真白な花びらが雪のようにみだれて散る。あなたは、おじいさまがこしらえてくだすったブランコに乗った。
青葉の影はそよ風につれてゆれる。あなたの心はあなたの夢みるままにゆれた。
風はリンゴの枝に歌い、花のたわわな枝は風にゆれ、風にしなった。
あなたの頭上はすべてこれ空飛ぶ鳥と、鳥の歌。あなたのまわりはすべてこれ、風にひかる草の原であった。
あなたはブランコがゆれるままに、いつかしら、藍色のキモノに身をつつんで、藍色の大海原を帆走る一個の船夫であった。
風は帆綱に鳴り、白帆はじゅうぶん風をはらんだ。船はひらめく飛沫をとばして駛せた。カモメは鳴いて大空に輪を描いた。そうしてあなたは、海の風に髪をなぶらせつつ、どこまでもと、ひた駛せに駛せた。
船は錨をおろした。
動揺はやんだ。
あなたは、もとの子どもであった。
「母さま」
と夢心地で、あなたはしずかに言った。声はまだ眠そうだった。母さまは聞きつけなかった。母さまはやはり、はなれで笑いながら座っておいでなされた。針の手は鈍って縫い物がひざからすべり落ちそうであった。
あなたの母さまは世界でいちばんやさしい人、あなたはその母さまの秘蔵っ子であったことを、今こそ知ってはいるものの、あなたはそのとき、まだそれを知らなかった。
母さまの庭で、母さまのひざの上で、母さまの手に抱かれて、母さまのほおにあなたは両手をあてながら、母さまの眼の藍色のゆかしさをあやしみつつ見つめた。そして、情あふれる母さまの声をうれしく聞いた。
「可愛いいぼうや」
「え」
「わたしの大切〔たいせつ〕な大切な、可愛いいぼうや」
といって、母さまはあなたを胸に抱きよせて、ほおずりをなさる。
「いつかねえ、このお庭で、このはなれで母さまはぼうやの夢を見たのよ」
「ぼうやの夢を? えッ母さま」
「ああ、ぼうやの。ちょうどこの庭でね、そこの月見草が花ざかりで鳥が鳴いていたの。母さまは、ぼうやが小さな赤ん坊だったところを夢に見たの。ああ、そのときに、風は月見草の花に歌をうたってきかせていましたよ。母さまはねえ。ぼうやにねんねこ歌を歌ってきかせたのよ。そうするとねえ、ぼうやがわたしのほうへ手を伸べて笑ったの、それから……ねえ、ぼうや……」
「でも母さま、それは夢だったの?」
「それはほんとの夢だったの。そしてそれがほんとうになったの。それは六月のある晩にほんとうになったの。――六月のおついたちに……」
「ぼくの誕生日に」
「ぼうやの誕生日に」
息もつがず、あなたは言った。
「母さま、美しい夢ね」
底本:「童話集 春」小学館文庫、小学館
2004(平成16)年8月1日初版第1刷発行
底本の親本:「童話 春」研究社
1926(大正15)年12月
入力:noir
校正:noriko saito
2006年7月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
クリスマスの贈物
竹久夢二
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)お三時《やつ》のとき
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)半分|頬《ほお》ばりながら
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き](一九二五、九、二五)
-------------------------------------------------------
「ねえ、かあさん」
みっちゃんは、お三時《やつ》のとき、二つ目の木の葉パンを半分|頬《ほお》ばりながら、母様にいいました。
「ねえ、かあさん」
「なあに、みっちゃん」
「あのね、かあさん。もうじきに、クリスマスでしょ」
「ええ、もうじきね」
「どれだけ?」
「みっちゃんの年ほど、おねんねしたら」
「みっちゃんの年ほど?」
「そうですよ」
「じゃあ、かあさん、一つ二つ三つ……」とみっちゃんは、自分の年の数ほど、テーブルの上に手をあげて、指を折りながら、勘定をはじめました。
「ひとつ、ふたあつ、みっつ、そいから、ね、かあさん。いつつ、ね、むっつ。ほら、むっつねたらなの? ね、かあさん」
「そうですよ。むっつねたら、クリスマスなのよ」
「ねえ、かあさん」
「まあ、みっちゃん、お茶がこぼれますよ」
「ねえ、かあさん」
「あいよ」
「クリスマスにはねえ。ええと、あたいなにがほしいだろう」
「まあ、みっちゃんは、クリスマスの贈物のことを考えていたの」
「ねえ、かあさん、何でしょう」
「みっちゃんのことだもの。みっちゃんが、ほしいとおもうものなら、何でも下さるでしょうよ。サンタクロスのお爺《じい》さんは」
「そう? かあさん」
「ほら、お口からお茶がこぼれますよ。さ、ハンカチでおふきなさい。えエえエ、なんでも下さるよ。みっちゃん、何がほしいの」
「あたいね。金の服をきたフランスの女王様とね、そいから赤い頬《ほっ》ぺをした白いジョーカーと、そいから、お伽《とぎ》ばなしの御本と、そいから、なんだっけそいから、ピアノ、そいから、キュピー、そいから……」
「まあ、ずいぶんたくさんなのね」
「ええ、かあさん、もっとたくさんでもいい?」
「えエ、えエ、よござんすとも。だけどかあさんはそんなにたくさんとてもおぼえきれませんよ」
「でも、かあさん、サンタクロスのお爺さんが持ってきて下さるのでしょう」
「そりゃあ、そうだけれどもさ、サンタクロスのお爺さんも、そんなにたくさんじゃ、お忘れなさるわ」
「じゃ、かあさん、書いて頂戴《ちょうだい》な。そして、サンタクロスのお爺さんに手紙だして、ね」
「はい、はい、さあ書きますよ、みっちゃん、いってちょうだい」
「ピアノよ、キュピーよ、クレヨンね、スケッチ帖《ちょう》ね、きりぬきに、手袋に、リボンに……ねえかあさん、お家《うち》なんかくださらないの」
「そうね、お家《うち》なんかおもいからねえ。サンタクロスのお爺《じい》さんは、お年寄りだから、とても持てないでしょうよ」
「では、ピアノも駄目かしら」
「そうね。そんなおもいものは駄目でしょ」
「じゃピアノもお家もよすわ、ああ、ハーモニカ! ハーモニカならかるいわね。そいからサーベルにピストルに……」
「ピストルなんかいるの、みっちゃん」
「だって、おとなりの二郎《じろう》さんが、悪漢《わるもの》になるとき、いるんだっていったんですもの」
「まあ悪漢ですって。あのね、みっちゃん、悪漢なんかになるのはよくないのよ。それにね、もし二郎さんが悪漢になるのに、どうしてもピストルがいるのだったら、きっとサンタクロスのお爺さんが二郎さんにももってきて下さるわ」
「二郎さんとこへも、サンタクロスのお爺さんくるの」
「二郎さんのお家へも来ますよ」
「でも二郎さんとこに、煙突がないのよ」
「煙突がないとこは、天窓からはいれるでしょう」
「そうお、じゃ、ピストルはよすわ」
「さ、もう、お茶もいいでしょ。お庭へいってお遊びなさい」
みっちゃんはすぐにお庭へいって、二郎さんを呼びました。
「二郎さん、サンタクロスのお爺さんにお手紙かいて?」
「ぼく知らないや」
「あら、お手紙出さないの。あたしかあさんがね、お手紙だしたわよ。ハーモニカだの、お人形だの、リボンだの、ナイフだの、人形だの、持ってきて下さいって出したわ」
「お爺さんが、持ってきてくれるの?」
「あら、二郎さん知らないの」
「どこのお爺さん?」
「サンタクロスのお爺さんだわ」
「サンタクロスのお爺さんて、どこのお爺さん?」
「天からくるんだわ。クリスマスの晩にくるのよ」
「ぼくんとこは来ないや」
「あら、どうして? じゃきっと煙突がないからだわ。でも、かあさんいったわ、煙突のないとこは天窓からくるって」
「ほう、じゃくるかなあ、何もってくる?」
「なんでもよ」
「ピストルでも?」
「ピストルでもサーベルでも」
「じゃ、ぼく手紙をかこうや」
二郎《じろう》さんは、大急ぎで家《うち》へ飛んで帰りました。二郎さんの綿入をぬっていらした母さんにいいました。
「サンタクロスに手紙をかいてよ、かあさん」
「なんですって、この子は」
「ピストルと、靴と、洋服と、ほしいや」
「まあ、何を言っているの」
「みっちゃんとこのかあさんも手紙をかいて、サンタクロスにやったって、人形だの、リボンだの、ハーモニカだの、ねえかあさん、ぼく、ピストルとサーベルと、ね……」
「それはね二郎さん、お隣のお家には煙突があるからサンタクロスのお爺《じい》さんが来るのです」
「でもいったよ、みっちゃんのかあさんがね、煙突がないとこは天窓がいいんだって」
「まあ。それじゃお手紙をかいてみましょうね。坊や」
「嬉《うれ》しいな。ぼくピストルにラッパもほしいや」
「そんなにたくさん、よくばる子には、下さらないかも知れませんよ」
「だってぼく、ラッパもほしいんだもの」
「でもね、サンタクロスのお爺様は、世界中の子供に贈物をなさるんだから、一人の子供が欲ばったら貰《もら》えない子供ができると悪いでしょう」
「じゃあぼく一つでいいや、ラッパ。ねえかあさん」
「そうそう二郎さんは好《よ》い子ね」
「赤い房のついたラッパよ、かあさん」
「えエえエ、赤い房のついたのをね」
「うれしいな」
クリスマスの夜があけて、眼《め》をさますと、二郎さんの枕《まくら》もとには、立派な黄色く光って赤い房のついたラッパが、ちゃんと二郎さんを待っていました。二郎さんは大喜びでかあさんを呼びました。
「かあさん、ぼく吹いてみますよ。チッテ、チッテタ、トッテッ、チッチッ、トッテッチ」
ところが、みっちゃんの方は、朝、目をさまして見ると、リボンと鉛筆とナイフとだけしかありませんでした。
みっちゃんはストーブの煙突をのぞいて見ましたが、外には何も出てきませんでした。みっちゃんは泣き出しました。いくらたくさん贈物があっても、みっちゃんを喜ばせることが出来ないのでした。みっちゃんはいくらでもほしい子でしたから。
[#地付き](一九二五、九、二五)
底本:「童話集 春」小学館文庫、小学館
2004(平成16)年8月1日初版第1刷発行
底本の親本:「童話 春」研究社
1926(大正15)年12月
入力:noir
校正:noriko saito
2006年7月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
街の子
竹久夢二
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)春太郎《はるたろう》は
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから3字下げ]
-------------------------------------------------------
それは、土曜日の晩でした。
春太郎《はるたろう》は風呂屋から飛んで帰りました。春太郎が、湯から上《あが》って着物をきていると、そこの壁の上にジャッキイ・クウガンが、ヴァイオリンを持って、街を歩いている絵をかいた、大きなポスターが、そこにかかっているのです。
[#ここから3字下げ]
十二月一日より
ジャッキイ・クウガン 街の子[#「街の子」は3段階大きな文字]
キネマ館にて
[#ここで字下げ終わり]
と書いてあるのです。それを見た春太郎は、大急ぎで帯をぐるぐる巻きにして、家《うち》へ飛んでかえりました。
春太郎は、ジャッキイ・クウガンが大好きで、ジャッキイの写真はたいてい見ていました。だからもう今では、ジャッキイの顔を見ると、長い間のお友達のような気がするのでした。
「お母様《かあさん》、いってもいいでしょうねえ」
春太郎《はるたろう》はそう言って、お母様にせがみました。
「でも一人ではいけませんよ。お姉様《ねえさん》とならいいけど」
「うん、じゃあお姉様と、ね、そんならいいでしょう」
春太郎はお姉様のとこへ飛んでいって、たのみました。
「お母様は、行ってもいいっておっしゃったの?」
「ええ、お姉様とならいいって」
「じゃ、行ってあげるわ」
「うれしいな、これからすぐですよ」
春太郎は、お姉様につれられて、キネマ館へゆきました。二階の正面に坐《すわ》って、ベルの鳴るのを待っていました。
しばらくすると、ベルが鳴って、ちかちかちかちかと、フィルムの廻《まわ》る音がしだしたかとおもうと、ぱっと、ジャッキイの姿が、眼《め》のまえにあらわれました。ぱちぱちぱちと、春太郎も思わず手をたたきました。
「ここに、カリフォルニアの片田舎《かたいなか》に、ひとりの少年がありました。その名を……」
と弁士がへんな声を出して、説明をはじめました。春太郎は、弁士の説明なんかどうでもいいのでした。ただ、ジャッキイが出てきて、笑ったり、泣いたり、歩いたり、坐ったりすれば、それだけで十分いいのでした。ジャッキイが泣くときには、春太郎も悲しくなるし、笑うときには、やはりうれしくなって笑いだすのでした。
ジャッキイのお母様が死んでから、ジャッキイは、育てられたお祖父《じい》さんお祖母《ばあ》さんに別れて、お母様の形見のヴァイオリンを、たった一つ持ったままで、街へ出てゆきました。
ちょうど、これはクリスマスの晩のことで、立派な家の窓から暖かそうな明りがさして、部屋のまん中には、大きなクリスマス・ツリーが立っていていい着物をきた子供たちは、部屋の中を飛廻っていました。ある家の食堂の方からは、おいしそうな御馳走《ごちそう》の匂《におい》がしているのでした。
「ぼくには、何にもないや。お家《うち》も、クリスマス・ツリーも、御馳走も。お父様《とうさん》も、お母様もないや、なんにも、ないや」
ジャッキイはとぼとぼと歩きました。そのうちお腹《なか》はへってくるし、寒さはさむし、そのうえ雪がだんだん降りつもって、道もわからず、それに一番わるいことは、どこへいったらいいか、ジャッキイにはあてがないことでした。
玩具屋《おもちゃや》の飾窓《ショウウィンドウ》には大きなテッディ熊《ベア》が飾ってあります。玩具屋の中から、大きな包をもった紳士が子供の手を引いて出てきました。
「あの大きな包の中にはきっとたくさん玩具があるんだよ」
ジャッキイは、ぼんやりそれを見ていますと、
「おいおい危《あぶな》いよ」
そう言って、馬車の別当が、ジャッキイをつき飛ばしました。
どこか遠くの方で、オルガンの音がする。オルガンに足拍子をとりながら、沢山の天使がダンスをやっている。そこは、高い青い空で、空には数えきれないほどたくさんの星が、ぴかぴか光っています。
「きれいだなあ」
ジャッキイは、夢を見ているような心持で、高い空を見ていました。すると、白い髯《ひげ》をはやした一人の老人《としより》が、とぼとぼと歩いてきました。
「ああ、サンタクロスのお爺《じい》さんだ。きっとそうだよ。ぼくんとこへ、クリスマスの贈物を持ってくるんだよ。だけどおかしいなあ。袋を持っていないや。」
老人は、だんだんジャッキイの方へ近づいてきました。そしてジャッキイをだきあげて、自分のうちへつれて帰りました。家《うち》といっても貧しい屋根裏で、あくる日からジャッキイは、このお爺さんと二人で、ヴァイオリンをひいて、街を、はずれからはずれまで歩かねばなりませんでした。
お爺さんは、親切ないい人でしたが、ある日ジャッキイの子守唄《こもりうた》をききながら、死んでしまいました。ジャッキイは、またある有名な音楽家に救われて、そこの家《うち》へ引取られてゆきました。食堂へはいると、そこに写真がかかっていました。それは一人の女の肖像でありました。ジャッキイはそれを見て
「ああ、お母様《かあさん》だ!」
その音楽家もびっくりしてしまいました。ジャッキイは、ポケットから、一枚の写真を出して、その音楽家に見せました。写真のうらには
[#天から3字下げ]ジャッキイへ、お前の母より
と書いてあるのでした。その写真と、この額の写真とは、おなじ人でありました。
「お前はわたしの子だったのか」
音楽家は、ジャッキイをしっかり抱きしめて、ジャッキイの眼《め》からながれる嬉《うれ》し涙を、ふいてやりました。
お父さんの音楽家の眼からも、玉のような涙がぽろぽろと流れました。春太郎《はるたろう》の眼からも、ぽろぽろと大きなのがころげました。春太郎のお姉様《ねえさん》も眼にハンケチをあてていました。
春太郎《はるたろう》は、学校へゆく道で考えました。早く雪が降ってくれるといいな。そしてクリスマスの晩になるといいな。だけど、ジャッキイはどうしたろう。あれからすっかり幸福《しあわせ》になったかしら。まだあの大きなズボンをはいて、ロンドンの街を歩いているのじゃないかしら。ぼくもロンドンへゆきたいな。お姉さんが死んでしまったら、ぼくお姉様のヴァイオリンを貰《もら》おうや。そして、クリスマスの晩、ロンドンの街を歩くんだ。そうすると大きな、玩具屋《おもちゃや》があって、そこの飾窓《ショウウィンドウ》に、テッディ熊《ベア》がいるだろう。「おい危《あぶな》い」で、空には星が、きらきら光っていて、袋を持たないサンタクロスのお爺《じい》さんがやってくる。ジャッキイがヴァイオリンをひいているのを、お爺さんがききながら、「うまい、うまい。ジャッキイは、今に大音楽家になるぞ」そう言ってほめました。
きっと、ぼくは大音楽家になるだろう。そして、ぼくのお父様《とうさん》も大音楽家なんだ。おや、おや。ぼくのお父様は、会社へ出ているんだっけ、
「カン、カン、カン」
「カン、カン、カン」
その時、春太郎は、いつの間にか、学校の前へ来ていました。
いま恰度《ちょうど》、授業のはじまるベルが鳴っていました。
春太郎は、ジャッキイになることを急に思いとまって、おおいそぎで教室の方へ走ってゆきました。
底本:「童話集 春」小学館文庫、小学館
2004(平成16)年8月1日初版第1刷発行
底本の親本:「童話 春」研究社
1926(大正15)年12月
入力:noir
校正:noriko saito
2006年7月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
少年・春
竹久夢二
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)仰言《おっしゃ》った
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)子供|達《たち》もまた
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから4字下げ]
-------------------------------------------------------
1
「い」とあなたがいうと
「それから」と母様は仰言《おっしゃ》った。
「ろ」
「それから」
「は」
あなたは母様の膝《ひざ》に抱っこされて居た。そとでは凩《こがらし》が恐《おそろ》しく吼《ほ》え狂うので、地上のありとあらゆる草も木も悲しげに泣き叫んでいる。
その時あなたは慄《ふる》えながら、母様の頸《くび》へしっかりとしがみつくのでした。
凩が凄《すさま》じく吼え狂うと、洋燈《ランプ》の光が明るくなって、卓《テーブル》の上の林檎《りんご》はいよいよ紅《あか》く暖炉の火はだんだん暖《あたたか》くなった。
あなたの膝《ひざ》の上には絵本が置かれ、悲しい語《はなし》のところが開かれてあった。それを母様は読んで下さる。――それはもうまえに百遍も読んで下さった物語であった。――その時の母様の顔色の眼《め》は沈んで、声は低く悲しかった。あなたは呼吸《いき》をころして一心に聴入るのでした。
[#ここから4字下げ]
誰《た》ぞ、駒鳥《こまどり》を殺せしは?
雀《すずめ》はいいぬ、われこそ! と
わがこの弓と矢をもちて
わが駒鳥を殺しけり。
[#ここで字下げ終わり]
これがあなたの虐殺者というものを聴知った最初であった。
あなたはこの恐ろしい光景を残りなく胸に描き得た。この憎むべき矢に射貫《いぬ》かれた美しい暖い紅の胸を、この刺客の手に仆《たお》れた憐《あわ》れな柔かい小鳥の骸《むくろ》を。
咽喉《のど》が急に塞《ふさ》がって、涙があなたの眼に浮かぶ。一滴また一滴、それが頬《ほお》を伝って流れては、熱いしかも悲しい滴りが、絵本のうえに雨だれのように落ちた。
「母様、駒鳥は可哀《かあい》そうねエ」
「坊や、泣くんじゃないよ」
「でも母様、雀が……雀が……こ……殺しちゃったんだもの」
「ああ、そうなの。雀が殺してしまったのよ。本にはそう書いてありますけれど、坊やは聞いたことがありますか」
「何《な》あに」
絵本は、その悲しい話の半面を語ったに過ぎなかった。他の半面は母様が知っていなさった。駒鳥は殺された。殺されて冷《つめた》い血汐《ちしお》のなかに横《よこた》わったことは事実であった。けれども慈悲深い死の翼あるその矢のために、駒鳥は正直な鳥の、常に行くべき処《ところ》へ行った。そしてそこで――ああ嬉《うれ》しい――彼は先へ行って居た自分の最愛の妻と子にそこで逢《あ》ったのでした。
「駒鳥の親子は、今はみんなそこに居るんですよ。この世に住んだうちでは一番しあわせな駒鳥なんだよ」と母様はあなたの涙に濡《ぬ》れた頬にキッスしながら仰言《おっしゃ》った。
大きく見ひらいたあなたの眼には、もう涙は消えていた。あなたは正直な鳥の行くべき処に居る駒鳥のことを遠く思いやった。駒鳥の眼、駒鳥の紅《あか》い胸は再び輝いて居た。彼は囀《さえず》り、歌い、そして妻子を連れて枝から枝へと飛び移った。小さい話を繕うことも、小さい人の心を繕うことも、小さい靴下を繕うことのように母様は実にお手に入ったものであった。こんな時にはいつも、あなたの靴下からは膝小僧が覗《のぞ》いて居た。日の暮れには、きまって靴下に穴があいて、そこから泥だらけな膝《ひざ》が見えるのでした。
「まあちょっと御覧なさい、たった今洗ってあげたばかりじゃありませんか」といって、母様はあなたがおよる前に、湯殿へ連れておいでになる。あなたは大きな盥《たらい》の縁に腰かけて、脚で水をぼちゃぼちゃいわせながら、母様の横顔を見ていた。
「まあ汚い児《こ》だねえ」と仰言《おっしゃ》って、母様はあなたの生傷のついてる真黒《まっくろ》な膝を洗っておやりになった。そして綺麗《きれい》になったところで、いつでもこう言いなさる。
「まあ、うちの光る児!」
そしてあなたの靴下は、あなたが朝お家《うち》を飛出す時にはいくら綺麗であっても、夕方またお家へ帰って来る時には、もう見るかげもなく汚れているのでした。そこで例によって、それ糸巻はどこにある? 糸は? 針は? という騒ぎが始まるのです。
夏の朝、母様は庭の離れでお針箱を側《そば》へ置いて縫物をなさるのが常だった。太陽は網の目のようになって居る木木の緑を透《とお》して金色《こんじき》の光を投げた。鳥も囀《さえず》りに倦《あ》き、風もまどろむおやつの時にも、母様はなおやめずに針を動かしておいでだった。日が暮れてお夕餉《ゆうはん》が済んでもなお母様は、黄色い洋燈《ランプ》の光のしたに針を動かしておいでだった。
「母様はなぜそんなにチクチクばかりしてるの?」
「坊やには青い水兵服と、嬢には紫のお被布を拵《こしら》えてあげようと思ってさ」
「母様はチクチクが好きなの?」
「そうとも思わないけれどね」
「だって……母様は飽きないの?」
「ああ、そりゃ時時はねえ」
「じゃお休みなさいよ。ねえ母様」
「お休みって? 坊や。ああ休みましょう。いま少し縫って、そしたら遊びましょう」
「だって、母様は、いま少し、いま少しって、一日かかっちまうんだもの、ねえ、母様てば、母様」
あなたは少し考えて
「もう縫わなくってもいいのよ」
「もういいって? この児は」と母様はお笑いなすった。あなたも笑った。
後にあなたは、
「母様とは私の面倒を見て下さって、私を可愛《かあい》がって、そして、いま少し、もう少しって――終日《いちにち》――縫物をして居る人です」
と人人に話してきかせたのでした。そうすると、その人達は、母様が子供達の面倒を見て下さるからには、子供|達《たち》もまた母様の為《ため》にしてあげなければなりません。とあなたに話しました。そして、あなたは実にその言葉の通りにやった。母様のまえに立塞《たちふさが》って、あなたは勇ましく拳《こぶし》を握りしめた。
「私の母様に触っちゃいけません!」
あなたの唇はわななき、眼《め》は怒《いかり》と涙で輝いて居た。けれども、母様はあなたをかばいながら、
「パパさんは、串談《じょうだん》なんですよ」母様はあなたを胸に抱きよせて、
「御覧よ、パパは笑ってらっしゃるよ」と仰言《おっしゃ》った。
パパは
「やアい、こわっぱ、パパは串談でやってるんだよ」
母様は、ほほえみながら、しかもほこりがに、あなたの涙を拭《ぬぐ》っておやりになった。あなたは、あなたの方へ手を差出して居るパパを、いぶかしげに見やった。そして母様に押されながら、おずおずとパパのところへ行った。
パパは仰言った。
「お前はいつでも今のように母様に尽さなければなりません。そしてパパが居ない時には、誰《だれ》でも他処《よそ》の人に、母様がいじめられないようにするんですよ」
母様はあなたの額にキッスして、
「母様を護《まも》る軍人なんだもの」
そしてこれからのちは、あなたが近くに居る時には、母様に心配はなかった。
「ああ、あの荒木《あらき》の奥さん、あれにはまた弱って仕舞うねえ」
と母様は低い声で仰言ったけれど、あなたはそれをきき逃さなかった。そして小さい全精神をあげて荒木夫人を憎んだ。ついにその奥さんの勘定日が来て、奥さん自身やって来た。母様は庭に居て聞きつけなかった。あなたは自分で挨拶《あいさつ》に出た。
「母様には、今日は、逢《あ》えやしないよ」あなたがしゃちこばっていうと
「それは変ですねえ」と荒木夫人は一足進んで言った。
「駄目だい」あなたは力一杯にドアにつかまって、声を張りあげた。
「駄目だよ。這入《はい》っちゃいけないよ」
「おせっかいだっちゃありゃしない」荒木夫人は、威《おど》しつけるようにいったけれど、あなたは、めげずに睨《ね》めつけて、声を張りあげ、
「もう、僕の母様にゃ逢《あ》えやしないよ」
と断乎《きっと》して繰りかえした。
「何故《なぜ》ですか? 承りたいものですが」と荒木《あらき》夫人はみるみるふくれあがった。
「いったい如何《どう》してなのです? それを聞きましょう」
「何故って、父様がいない時には母様の面倒を坊やが見てあげるんだい。母様が逢いたくないような奴《やつ》に母様がいじめられないようにしろって父様が言ったんだもの」
文句が長かったので、一息でいってしまうのは大抵の事ではなかった。
荒木夫人は干からびたような嘲笑《わらい》を洩《もら》して
「ああそういうんですか? それでお前さんは、何故お前さんのお母様が私に逢いたくないのか、その訳を知っていなさるかえ?」
「だって――母様、そう言ったもの!」
あなたの言ったことはきれぎれで恰度《ちょうど》「いろは」の御本を読むようだったので、荒木夫人は呑込《のみこ》めなかったかもしれなかった。
しかし、兎《と》に角《かく》、うまく行った。荒木夫人は火のように怒って、鼻息を荒くしながら、裾《すそ》を蹴返《けかえ》して帰って行った。
「もう決して決して」といって、門の戸をピシャリと閉めた。
あなたは静かにドアをしめた。
戦《たたかい》は勝てり!
あなたは庭へ引返した。
「もう済んだ、もう済んじゃった。」
「何がもう済んだっての、坊や」
「荒木の奥さん」とあなたは答えた。
こんな風にあなたは母様に尽した。母様はますますあなたを可愛《かあい》がり、あなたもますます母様に尽したのでした。この日頃《ひごろ》あなたは病気ではあったものの、なお且《かつ》機嫌がよかった。何故って母様がおいしい物を拵《こしら》えては、お茶碗《ちゃわん》に散蓮華《ちりれんげ》を添えて持って来て下さるたんびに、お代りのいるほど食べた――死なないって証拠のように。そうしては柔かい枕《まくら》をして母様が手づから拵えたツギハギの丹前を掛けて横になった。枕もとには母様が嫁入の時に着たキモノの絹の小さなキレや、母様がずっと昔、まだ桃割を結ってた時分の、他処行《よそゆき》のお羽織の紺青色のキレがあった。まだまだお祖母《ばあ》さんのキモノの柔かい鼠色《ねずみいろ》のキレや、春さんののであったピカピカ光る桃色ののや、父様が若かった男盛の頃《ころ》のネクタイだった條《すじ》のあるのや、藍色《あいいろ》ののや黄色いのもあった。病に疲れてものうく、眠《ね》む気《け》がさして、うっとりとして来るにつれて、その嫁入衣裳のキレは冷たい真白《まっしろ》な雪に変る。すると橇《そり》の鈴の音が聞えて来る。
隅っこの方に小さな教会のついて居るクリスマスカードが見える。その教会の塔は凍って居たけれど、その窓はクリスマスの輝きで明るく暖かかった。
つぎに紺青色のは空であった。
そして、それを見て居ると、小鳥や、星や、三月|弥生《やよい》のことなどが思い出されるのであった。
もしお祖母《ばあ》様ののであった鼠色《ねずみいろ》のキレに眼《め》を移すならば、緑色だった空は忽《たちま》ち暗くなって雨が降って来る。
けれどもお春さんののであった桃色のキレや、父様のだった藍色ののや黄色のを見さえすれば、すぐに花が咲いた、お日様がまた輝くのでした。
やがていろんな色がごっちゃになって、こんがらがってしまう、蒲公英《たんぽぽ》がちゃらちゃらと鳴ったり、橇の鈴や菫《すみれ》が雪のなかで花を開いたり。そしてあなたは眠ります。その眠りが小さな子供を健康にするのでした。
2
春が来た。
桜の枝には蜂《はち》と風とが音《ね》を立てて居る。庭にはあなたと母様と二人きり白い花弁が雪のように音もなく散りかかる。
小鳥は朝の輝きのうちに囀《さえず》っていた。
あなたは躍り、笑い、且《かつ》歌った。
あなたの大きくみひらいた眼には、果てなき大空の藍色と見渡す草原の緑とが映り紅を潮《さ》した頬《ほお》には日の光と微風《そよかぜ》とが知られた。
「母様見て御覧なさい、坊やが飛上りますよ」
「まあ」
「今度は逆立ち」
「まあ、お上手だこと」
「母様、坊やは大きくなってから何になるか知ってますよ」
「何になるの」
「曲馬師になるの」
「まあ」
「大きい白い馬に乗って、ねえ母様」
「まあいいことね」
「そしてお月様なんか飛越しっちまうんだ」
「お月様を、まあ」
「ええお月様を、見て御覧なさい」と言ってあなたはそとにあった熊手《くまで》の柄を飛越えた。
それがお月様を飛越す下稽古《したげいこ》でした。
「けども坊やは曲馬師にはならないかも知れないの、きっと、ねえ母様」
「曲馬師にならないって」
「ぼくは、ジョージ、ワシントンのように大統領になるの、父様がなれるっていいましたもの、なれるでしょうか、え、母様」
「そうね、なれましょうよ、何時《いつ》か」
「だけども次郎坊《じろうぼう》なんかなれやしませんね、母様」
「何故《なぜ》次郎さんはなれないの」
「だって次郎坊は約束してもすぐ嘘《うそ》いうんだもの。ぼくは言わないの、ジョージ、ワシントンも言わなかったから」
「そうそうその方がいいんですよ、曲馬師と大統領とはまるで較《くら》べものになりません」
「ぼくは母様、ぼくきっと大統領になりますよ」
「まあいいこと、屹度《きっと》なるんですよ」
母様は離れで縫物を始めなさる。
「母様」
「はあい」
「今から歌を歌いますよ」
ほどよい庭へ真直《まっすぐ》に立ち、踵《きびす》を揃《そろ》へ両手を真直に垂れて「気を付け」の姿勢であなたは歌いはじめた。
[#ここから4字下げ]
天はゆるさじ良民の
自由をなみする虐政を
十三州の血はほとばしり
[#ここで字下げ終わり]
「もう少し静かにお歌いなさいな」と母様が仰言《おっしゃ》った。
[#天から4字下げ]天はゆるさじ良民の……
「それじゃあ聞えやしないわ」と母様はお笑いになった。あなたはちょっと、妙な笑いかたをしてまた声を張りあげる。
[#ここから4字下げ]
自由をなみする虐政を
十三州の血はほとばしり
ここに立ちたるワシントン
[#ここで字下げ終わり]
「まあお上手だねえ」と母様は仰言《おっしゃ》る。
「さあ今度は母様の番だよ。母様何かお噺《はなし》」
「お噺」
「ええあの菫《すみれ》のお噺」
「菫の」といって母様は、夢見るように針の手をとめて、
「青い青い菫が――」
「空のように青いのねえ、母様」とあなたは口を入れた。
「空のように青い、そう昔はね、この世界に菫が一つも無かったの」
「それからお星様もねえ、母様」
「ええ菫もお星様もこの世界になかったの。そこでねえ坊や、青い空をすこしばかり分けて貰《もら》ってそれを世界中に輝《かがやか》したものがあるの。それが菫の一番はじまりなんだよ」
「それからお星様は?」
「坊やは知ってるじゃありませんか。お星様はね、青い空の小さな穴ですよ。そこから天の光が輝く小さな穴ですよ」
「ほんとう、母様」とあなたは言って母様を見あげる。
母様の眼《め》は菫のように青く、星の様に輝いて居た。天《そら》の光が輝いて居ったから。
母様は世界中で一番不思議な人であった。
母様は嘗《かつ》て悪い事をしたことがなかった。そしていろんな事を知って居た。夜も昼も子供のことを見ておいでなさる神様をも知って居た。また神様はあなたの髪の毛の数さえも知っておいでなさるのみならず、子鳥が死ぬのをも一羽だっても、神様の知って居なさらぬことはないと母様は話してきかせなされた。
「そんならねえ母様、神様は、あの駒鳥《こまどり》の死んだ時をも知っているの?」
「知ってなさるとも」
「それじゃあ、ぼくが指を傷めた時をも、知っているの?」
「ああ、何でも知っていなさいますよ」
「そんなら、ぼくが指を傷めた時には、可愛《かあい》そうと思ったでしょうか、え母様」
「それは可愛そうだと思いなされたともね」
「じゃ、何故《なぜ》神様はぼくの指を傷める様になされたの?」
暫《しばら》く母様は黙っておいでだった。
「まあ坊やは、それは母様には解《わか》らないわ。神様より外には誰《だれ》も知らない事が沢山あるのです」
あなたは母様の言葉をあやしみながら、母様の膝《ひざ》のうえに抱かれて居た。
空のどこかに、雲のうえの輝き渡る大きなお宮の中に、金の冠を戴《いただ》いた神様がいらっしゃることをあなたは知って居た。そしてその下の緑の世界には、小鳥が死んだり、小さな子供が指を傷めて、母様に抱かれて泣いたりするのです。
神様はすべての事、すべての人を視《み》ていらっしゃった。けれどもそれを助けはなさらなかった。
あなたは、母様の頸《くび》に両手をまわして母様の胸に噛《かじ》りついた。
「母様! ぼく神様はいや、神様はいや!」
「何故坊やはそんな事いうの? 神様は坊やを可愛がってらっしゃるのに」
「だって、だって、母様、母様がなさる様じゃないもの、神様は母様のようじゃないんだもの」
蜂《はち》と風とは林檎《りんご》の枝に音を立てて居た。もう五月になったのだ。庭にはあなたと母様とただ二人、真白《まっしろ》な花びらが雪のように乱れて散る。あなたはお祖父《じい》様が拵《こしら》えて下すったブランコに乗った。
青葉の影はそよ風につれて揺れる。あなたの心はあなたの夢みるままに揺れた。
風は林檎の枝に歌い、花のたわわな枝は風に揺れ、風に撓《しな》った。
あなたの頭上はすべてこれ空飛ぶ鳥と、鳥の歌。あなたの周囲《まわり》はすべてこれ、風に光る草の原であった。
あなたはブランコが揺れるままに、何時《いつ》かしら、藍色《あいいろ》のキモノに身を包んで藍色の大海原を帆走る一個の船夫《かこ》であった。
風は帆綱に鳴り、白帆は十分風を孕《はら》んだ。船は閃《ひらめ》く飛沫《しぶき》を飛ばして駛《は》せた。鴎《かもめ》は鳴いて大空に輪を描《か》いた。そうしてあなたは、海の風に髪をなぶらせつつ、何処《どこ》までもと、ひた駛せに駛せた。
船は錨《いかり》を下した。
動揺は止んだ。
あなたはもとの子供であった。
「母様」
と夢心地であなたは静かに言った。声はまだ眠そうだった。母様は聞きつけなかった。母様はやはり離れで笑いながら坐《すわ》っておいでなされた。針の手は鈍って縫物が膝《ひざ》からすべり落ちそうであった。
あなたの母様は世界で一番優しい人、あなたはその母様の秘蔵っ子であったことを、今こそ知っては居るものの、あなたはその時まだそれを知らなかった。
母様の庭で、母様の膝の上で、母様の手に抱かれて、母様の頬《ほお》にあなたは両手をあてながら、母様の眼《め》の藍色《あいいろ》の床しさをあやしみつつ見詰めた。そして情あふれる母様の声を嬉《うれ》しくきいた。
「可愛《かあ》いい坊や」
「え」
「私の大切《だいじ》な大切な可愛いい坊や」
といって母様はあなたを胸に抱きよせて、頬ずりをなさる。
「何日《いつ》かねえ、このお庭で、この離れで母様は坊やの夢を見たのよ」
「坊やの夢を? えッ母様」
「ああ坊やの。恰度《ちょうど》この庭でね、そこの月見草が花盛りで鳥が鳴いて居たの。母様は、坊やが小さな赤ん坊だったところを夢に見たの。ああ、その時に風は月見草の花に歌をうたってきかせて居ましたよ。母様はねえ。坊やにねんねこ歌を歌ってきかせたのよ。そうするとねえ、坊やが私の方へ手を伸べて笑ったの、それから……ねえ、坊や……」
「でも母様、それは夢だったの」
「それはほんとの夢だったの、そしてそれがほんとうになったの。それは六月のある晩にほんとうになったの。――六月のおついたちに……」
「ぼくの誕生日に」
「坊やの誕生日に」
息もつがずあなたは言った。
「母様、美しい夢ね」
底本:「童話集 春」小学館文庫、小学館
2004(平成16)年8月1日初版第1刷発行
底本の親本:「童話 春」研究社
1926(大正15)年12月
入力:noir
校正:noriko saito
2006年7月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
*地名
(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。)
- [アメリカ]
- カリフォルニア California アメリカ合衆国太平洋岸の州。州都サクラメント。経済規模は合衆国の州のうち最大。農業のほか電子工業・航空宇宙産業が盛ん。加州。
- [イギリス]
- ロンドン London・倫敦 イギリス連合王国の首都。イングランド南東部、テムズ川にまたがる大都市。都心はシティーと呼ばれ、世界経済の中心地の一つでイングランド銀行・取引所などが集まり、バロック様式のセント‐ポール大聖堂がある。インナー‐ロンドンはシティー以外の12の区(borough)を含み、ウェストミンスター寺院・国会議事堂・諸官庁・大英博物館などがある。周辺地域を含む大ロンドン(Greater London)はシティー・インナー‐ロンドンおよび20区を有するアウター‐ロンドンから成り、面積1610平方km、人口707万4千(1996)。かつては濃霧と煤煙に包まれる日が多く、「霧の都」と呼ばれた。
◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。
*人物一覧
(人名、および組織・団体名・神名)
- ジャッキー・クウガン
- -----------------------------------
- ジョージ・ワシントン George Washington 1732-1799 アメリカ合衆国初代大統領(1789〜1797)。1775年以来独立戦争を指揮し、83年独立を成就、アメリカ建国の父と呼ばれる。孤立主義外交を強調した訣別の辞を公表して引退。
◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。
*難字、求めよ
- テディー・ベア teddy bear 熊のぬいぐるみの一種。テディーは、狩猟好きのアメリカ大統領T.ルーズヴェルト(愛称テディー)が木につながれた子熊の命を助けたという「ワシントンポスト」紙の漫画に因む名。
- -----------------------------------
- 光る児 ひかるこ
- 被風・被布・披風 ひふ 着物の上にはおる衣服。羽織に似るが、衽(おくみ)深く左右に合わせ、盤領(まるえり)のもの。江戸末期より剃髪・総髪の茶人や俳人などが着用。のち婦人・子どもの外出用、ついで洋風を加味して東(あずま)コートに変わった。
- 串談 じょうだん 冗談。
- ほこりが 誇りが。(「ほこりがお(誇顔)」と類義であるところから、「誇顔」「誇貌」などとも書かれた)「ほこりか(誇りか)」の変化した語。
- 誇りか ほこりか 得意げなさま。自信満々。/(「か」は接尾語)ほこらしいさま。得意なさま。ほこらか。ほこりが。
- 睨め付ける ねめつける にらみつける。
- 断乎して きっとして
- 散蓮華 ちりれんげ 散った蓮華の花弁に似た形の陶製の匙(さじ)。れんげ。
- 手ずから てずから (ズの歴史的仮名遣ツは格助詞。カラは助詞「から」と同源。→から) (1) 直接自分の手を使って。自分の手で。(2) みずから。自身で。
- 丹前 たんぜん (1) 厚く綿を入れた広袖風のもので、衣服の上におおうもの。「丹前風」から起こるという。江戸に始まり京坂に流行した。主として京坂での名称。江戸で「どてら」と称するもの。(2) 雪踏(せった)の鼻緒の一種。丹前風の人の用いたもの。(3) 歌舞伎の特殊演技の一つ。丹前風から舞踊化された特殊な手の振り方と足の踏み方。丹前六法。丹前振。(4) 歌舞伎舞踊の丹前振に用いる三味線入の合方。丹前合方。
- どてら 褞袍 普通の着物よりやや長く大きく仕立て、綿を入れた広袖の着物。防寒用・寝具用。丹前(たんぜん)。
- 桃割れ ももわれ 16、7歳位の少女の髪の結い方。左右に髪を分けて輪にして後頭上部で結び、鬢(びん)をふくらませたもの。明治・大正期に行われた。
- ものうい 物憂い・懶い (1) 心がはれやかでない。何となく気がすすまない。(2) つらい。
- 紅を潮し べにをさし
- 曲馬師 きょくばし 曲馬を演ずる芸人。
- なみする 無みする・蔑する さげすんで、その人が居ても居ないように振る舞う。ないがしろにする。
- 帆走る ほばしる
- 船夫 かこ 水夫・水手 (「か」は楫(かじ)、「こ」は人の意) 船をこぐ者。ふなのり。すいふ。
- 帆綱 ほづな 帆を上下し、またはつなぎ止める綱。
- 白帆 しらほ 船に張った白い帆。
- なぶらせ
- ゆかしい 床しい・懐しい (動詞「行く」から。「床し」は当て字) (1) 何となく知りたい、見たい、聞きたい。好奇心がもたれる。(2) 何となくなつかしい。何となくしたわしい。心がひかれる。(3) 上品ですぐれている。
◇参照:『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)。
*後記(工作員日記)
西行。俗名、佐藤義清(のりきよ)。
奥羽へは二度旅したらしく、最初は天養元年(1144)ごろ。つぎが文治2年(1186)東大寺勧進のため。清盛の没年は1181年。
Wikipedia の「西行」には記載がないが、出自が気になって図書館の別冊太陽『西行』を見ると、西行は藤原秀郷(俵藤太)の息子・千常の末裔であり、奥州藤原氏と近い関係になる。
「奥州における藤原基衡・秀衡らが夷狄・匈奴として認められたことは、上文引ける公家の日記によっても明白な事実である。しからば彼らははたして俘囚すなわち熟蝦夷(にぎえみし)の種であったのであろうか。系図の伝うるところによれば、彼らは正しく田原藤太秀郷の後裔であったという(略)西行法師が秀郷の後裔であることは、『吾妻鏡』(文治二年(一一八六)八月十五日条)に、彼の言として、「弓馬のことは在俗の当初愁に家風を伝うといえども、保延三年(一一三七)八月遁世之時、秀郷朝臣以来九代嫡家相承の兵法焼失す」とあるによってあきらかで、しかも同書に、「陸奥守秀衡入道は上人(西行)の一族なり」とあってみれば、当時すでに秀衡が秀郷の後裔であることが、認められていたに疑いはない。」(週刊ミルクティー* 第一巻第十五号 喜田貞吉「奥州における御館藤原氏」より)
義経にしたがった継信・忠信兄弟。父は佐藤基治。奥州藤原氏のもと信夫郡、現在の福島県福島市飯坂町を所領。所伝によれば佐藤氏は奥州藤原氏との近親であることが示唆されている。西行(佐藤義清)と奥州佐藤氏……。
ところで藤原秀衡の妻は、陸奥守として下向した院近臣・藤原基成(もとなり)の娘。基成の異母兄弟は平治の乱の首魁であった“裸の大将”藤原信頼。好演・怪演が記憶に新しい。
基成は1143年に陸奥守・鎮守府将軍兼任で奥州平泉へ下向。1153年に帰洛するが、1159年の平治の乱で敗れた兄・藤原信頼に縁座によって陸奥に流された。以降、秀衡の岳父として衣川館に住む。1189年の奥州合戦で3人の息子とともに降伏し捕縛。後に釈放され帰京しているが、以後の消息は不明。(以上、Wikipedia「藤原基成」)
このあたり、『炎立つ』『義経』に見た記憶がなく、今回の大河の中でいよいよ平家・清盛と奥州との関係、朝廷藤原氏と奥州との関係が描かれるかと期待していた点、かえすがえすも残念。東日本震災と平泉の世界遺産登録とあったわけだから……。清盛や頼朝らにとって、奥州とは俗にいわれるような「蝦夷・夷狄の住む土地」だけの存在だったのか。それとも。。。
*次週予告
第五巻 第二四号
風立ちぬ(一)堀 辰雄
第五巻 第二四号は、
二〇一三年一月五日(土)発行予定です。
定価:200円
T-Time マガジン 週刊ミルクティー* 第五巻 第二三号
クリスマスの贈物(他)竹久夢二
発行:二〇一二年一二月二九日(土)
編集:しだひろし / PoorBook G3'99
http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目
アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。