日本歴史物語〈上〉(三)
二十一、外人の渡来 と外国文化の輸入 (五)
その「くれ」の国、すなわちシナは、たいそう早くから文化の開けた国でしたから、直接これと交通するようになってからは、これまで
二十二、外人の渡来 と外国文化の輸入 (六)
かく
わが国の軍隊は、
つまり蝦夷だ熊襲だ、帰化人だなどといっても、みな同じく
二十三、大臣 と大連
むかしは
皇族から
かくて大伴・物部・蘇我の
二十四、仏教の伝来
物部の
仏教はもとインドでおこった宗教で、シナから朝鮮へと
もともと日本では、
第二十九代、
しかし、これはわが国としてははじめてのことでありますから、受けてよいかどうかということに天皇もお
物部氏・中臣氏らは、もちろん仏教に反対いたし、寺を
この戦争のときに、太子も馬子も、もし戦争に勝つことができましたなら、寺や
二十五、聖徳太子と文化の進展 (上)
太子はお生まれつき、いたってご
不幸にして太子は、まだ
太子ははじめて
太子はまた、日本ではじめて歴史をご
太子はまた、シナへ使いをおつかわしになりました。その目的は、これまでのようにあちらの進歩した技術者を
二十六、聖徳太子と文化の進展 (下)
シナは早くから進歩した
もちろん、これは九州地方の有力者が勝手にしたことでありまして、わが朝廷には、いっこうご関係のないことであります。わが朝廷から、直接シナへ使いをおつかわしになったのは応神天皇の
太子のお書きになった
太子は不幸にして、
二十七、大化 の新政 (上)
聖徳太子は、かくわが国のためにいろいろけっこうなことをお残しになりましたが、
もともとわが国では、中央には
また貴族の中にも、
しかるにその物部氏が
そのころ皇室のほうでは
二十八、大化 の新政 (中)
その子
そんなにわがままをおこないますから、入鹿はかねて反対者に
しかし、こうなると
かく
たまたま
そのうちに
このとき入鹿の父
二十九、大化 の新政 (下)
これまでは
大化の新政は、だいたいにおいて聖徳太子の
かくて天下の土地はことごとく
口分田は、人が死ねばこれを
地方では、国造・県主らが自分で自分の土地・人民を領することがなくなりましたから、これを国に
この規則も、口分田がくずれたと同じように、のちには、やはりだんだんくずれてまいりました。のちの世に
三十、朝鮮半島諸国の離反
この際、朝鮮のことについて
これより
このとき新羅のために
天皇
その後、
その後、明治四十三年(一九一〇)にいたり韓国の
しかし、なにしろ約一二五〇年という長い
(つづく)
底本:
1981(昭和56)年6月20日発行
親本:
1928(昭和3)年4月5日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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日本歴史物語〈上〉(三)
喜田貞吉-------------------------------------------------------
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(例)遠《とほ》い/\
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二十一、外人《がいじん》の渡來《とらい》と外國《がいこく》文化《ぶんか》の輸入《ゆにゆう》(五)
應神《おうじん》天皇《てんのう》の御代《みよ》に渡來《とらい》した阿知使主《あちのおみ》の仲間《なかま》は、これももとは支那人《しなじん》ではありますが、朝鮮《ちようせん》の大同江《だいどうこう》附近《ふきん》、即《すなはち》、漢《かん》の時代《じだい》の樂浪《らくろう》、魏《ぎ》の時代《じだい》の帶方《たいほう》から來《き》たもので、古《ふる》くこゝに移住《いじゆう》してゐた漢人《かんじん》の子孫《しそん》でありませう。我《わ》が國《くに》ではこれを、弓月君《ゆつきのきみ》の仲間《なかま》の秦人《はたびと》に對《たい》して、漢人《あやびと》といつてゐます。文字《もじ》に『漢人《かんじん》』と書くのは、支那《しな》漢代《かんだい》の人《ひと》の移住民《いじゆうみん》の子孫《しそん》だからでありませうが、これを我《わ》が國《くに》で『あやびと』といつたのは、かれ等《ら》がいろ/\の模樣《もよう》のついた織《お》り物《もの》を織《お》つたためであります。古《ふる》く我《わ》が國《くに》では、模樣《もよう》のことをあや[#「あや」に傍点]といつたのです。つまり秦人《はたびと》も、漢人《あやびと》も、もとは我《わ》が國《くに》で、おもに織《お》り物《もの》工業《こうぎよう》を職《しよく》としてゐたものでありませう。
漢人《あやびと》の仲間《なかま》は、秦人《はたびと》が衰《おとろ》へて、方々《ほう/″\》に散《ち》らばつたのとは樣子《ようす》が違《ちが》つて、都《みやこ》に近《ちか》い大和《やまと》の國《くに》の、高市郡《たかいちごほり》にまとまつて住《す》んでをりました。今《いま》から千百年《せんひやくねん》ばかり前《まへ》までも、高市郡《たかいちごほり》の住民《じゆうみん》は、十中《じゆうちゆう》の八九《はつく》まで、皆《みな》この仲間《なかま》であつたといふほどにも、かれ等《ら》はこゝで繁昌《はんじよう》したのでした。しかしこれ等《ら》の多數《たすう》の人々《ひと/″\》も、いつの間《ま》にか皆《みな》日本《やまと》民族《みんぞく》の仲間《なかま》になり、外《ほか》の人《ひと》たちと、少《すこ》しも區別《くべつ》のないものになつてしまつてゐるのです。
高市郡《たかいちごほり》の中《なか》では、飛鳥《あすか》が漢人《あやびと》の中心地《ちゆうしんち》でありました。そしてこゝが、久《ひさ》しく我《わ》が國《くに》に於《お》ける文化《ぶんか》の起原地《きげんち》となりました。後《のち》に佛法《ぶつぽう》が傳《つた》はつて來《き》ました時《とき》にも、まづこゝに立派《りつぱ》な寺《てら》が出來《でき》ます。自然《しぜん》政治《せいじ》の上《うへ》にも、社會《しやかい》の上《うへ》にも、勢力《せいりよく》を有《ゆう》することとなり、おしまひには、これまで御代毎《みよごと》に、大抵《たいてい》場所《ばしよ》が變《かは》つてをつた都《みやこ》までが、この飛鳥《あすか》に極《きま》つてしまふといふ程《ほど》の、勢《いきほひ》となりました。
漢人《あやびと》の頭《かしら》なる阿知使主《あちのおみ》、都加使主《つかのおみ》が、文學《ぶんがく》をもつて朝廷《ちようてい》に仕《つか》へて、その子孫《しそん》は文氏《ふみうぢ》として、王仁《わに》の子孫《しそん》と共《とも》に、代々《だい/\》その職《しよく》をついだこと、又《また》この二人《ふたり》が、應神《おうじん》天皇《てんのう》の御代《みよ》に、呉《くれ》の國《くに》へお使《つか》ひして、直接《ちよくせつ》支那《しな》本國《ほんごく》から、織《お》り物《もの》、縫《ぬ》ひ物《もの》の職人《しよくにん》を連《つ》れて來《き》たことは、前《まへ》に述《の》べましたが、雄略《ゆうりやく》天皇《てんのう》の御代《みよ》に、同《おな》じく呉《くれ》の國《くに》にお使《つか》ひして、同《おな》じく織《お》り物《もの》縫《ぬ》ひ物《もの》の職人《しよくにん》を連《つ》れて來《き》た、檜隈《ひのくまの》博徳《はかとこ》、身狹《むさの》青《あを》等《など》も、やはり高市郡《たかいちごほり》の漢人《あやびと》でした。後《のち》に第三十三代《だいさんじゆうさんだい》推古《すいこ》天皇《てんのう》の御代《みよ》に、聖徳《しようとく》太子《たいし》のお指《さ》し圖《ず》で、支那《しな》へ留學《りゆうがく》しました僧侶《そうりよ》や學生《がくせい》等《など》も、やはり皆《みな》この漢人《あやびと》の仲間《なかま》でした。
呉《くれ》の國《くに》とは支那《しな》のことです。このころ支那《しな》は南北《なんぼく》の二《ふた》つの國《くに》に分《わか》れてゐまして、我《わ》が國《くに》から使《つか》ひの參《まゐ》りましたのは、その南朝《なんちよう》の方《ほう》でした。この地方《ちほう》は、昔《むかし》の呉《ご》といふ國《くに》のあつたところですから、それで文字《もじ》には『呉《ご》』と書《か》き、國語《こくご》ではくれ[#「くれ」に傍点]といつてゐたのです。『くれ』とは『暮《くれ》』のことで、我《わ》が日本《につぽん》は東《ひがし》にあつて日出國《ひのでるくに》、支那《しな》は西《にし》にあつて日沒國《ひのいるくに》、日出《ひので》は即《すなはち》、朝《あさ》で、日沒《ひのいり》は暮《くれ》ですから、それで支那《しな》を、暮《くれ》の方《ほう》の國《くに》といふ意味《いみ》で、『くれ』といつたのです。推古《すいこ》天皇《てんのう》の御代《みよ》に、支那《しな》へおつかはしになつた國書《こくしよ》に、「日出《ひい》づる處《ところ》の天子《てんし》、書《しよ》を日沒《ひい》る處《ところ》の天子《てんし》にいたす、つゝがなきや」とお書《か》きになつたのは、これがためでありました。わが國《くに》を日本《につぽん》と申《まを》すのも、東《ひがし》の國《くに》、即《すなはち》、日《ひ》の本《もと》の國《くに》といふことなのです。
その『くれ』の國《くに》、即《すなはち》、支那《しな》は、大《たい》そう早《はや》くから文化《ぶんか》の開《ひら》けた國《くに》でしたから、直接《ちよくせつ》これと交通《こうつう》するようになつてからは、これまで百濟《くだら》や、新羅《しらぎ》の取《と》りつぎで、その文化《ぶんか》を輸入《ゆにゆう》してゐたのとは違《ちが》つて、その本家《ほんけ》本元《ほんもと》から、すぐにこれを傳《つた》へるようになり、我《わ》が國《くに》の文化《ぶんか》は大《おほ》いに進《すゝ》んで參《まゐ》りました。もっともこれまでにも、九州《きゆうしゆう》あたりの人々《ひと/″\》が、朝鮮《ちようせん》へ移住《いじゆう》してゐる漢人《かんじん》等《ら》と貿易《ぼうえき》したり、直接《ちよくせつ》支那《しな》本國《ほんごく》へ行《い》つたり、また支那人《しなじん》がこちらへ來《き》たりしたことはたび/\ありましたが、我《わ》が國《くに》として、直接《ちよくせつ》支那《しな》へ使《つか》ひをおつかはしになり、國《くに》と國《くに》との交通《こうつう》の開《ひら》けたのは、應神《おうじん》天皇《てんのう》の御代《みよ》が初《はじ》めで、それはおもに大和《やまと》の漢人《あやびと》によつて行《おこな》はれたのでした。即《すなはち》、漢人《あやびと》は、我《わ》が國《くに》に於《お》ける支那《しな》文化《ぶんか》のおもなる輸入者《ゆにゆうしや》といつてよいのです。なほこのことは、後《のち》に聖徳《しようとく》太子《たいし》のお話《はなし》の時《とき》に、くはしく述《の》べませう。
二十二、外人《がいじん》の渡來《とらい》と外國《がいこく》文化《ぶんか》の輸入《ゆにゆう》(六)
かく漢人《あやびと》は、文學《ぶんがく》をもつて朝廷《ちようてい》に仕《つか》へ、また支那《しな》文化《ぶんか》を輸入《ゆにゆう》したばかりでなく、一方《いつぽう》にはまた兵士《へいし》として、久《ひさ》しく勢力《せいりよく》を持《も》つてをりました。
我《わ》が國《くに》の軍隊《ぐんたい》は、大昔《おほむかし》には大伴氏《おほともうぢ》、久米氏《くめうぢ》を頭《かしら》として、中《なか》にも久米部《くめべ》の兵士《へいし》が一番《いちばん》有力《ゆうりよく》でありました。これは神武《じんむ》天皇《てんのう》が、九州《きゆうしゆう》からお連《つ》れになつたもので、熊襲《くまそ》などと同《おな》じ民族《みんぞく》のものであつたでありませう。天皇《てんのう》大和《やまと》平野《へいや》御平定《ごへいてい》の後《のち》には、饒速日命《にぎはやびのみこと》の子孫《しそん》の物部氏《ものゝべうぢ》が、宮中《きゆうちゆう》をお護《まも》りする近衞《このえ》のお役《やく》をつとめて、大伴氏《おほともうぢ》と物部氏《ものゝべうぢ》とが、相《あひ》並《なら》んで久《ひさ》しく軍隊《ぐんたい》の頭《かしら》となりましたが、だん/\國《くに》が大《おほ》きくなり、今《いま》までの兵隊《へいたい》だけでは足《た》りなくなりましたので、雄略《ゆうりやく》天皇《てんのう》の御代《みよ》に、蝦夷《えぞ》を徴發《ちようはつ》して、その不足《ふそく》をお補《おぎな》ひになりました。これを佐伯部《さへきべ》と申《まを》します。かく熊襲《くまそ》でも、蝦夷《えぞ》でも、皆《みな》忠勇《ちゆうゆう》なる軍人《ぐんじん》として、國家《こつか》の爲《ため》に御用《ごよう》をつとめたものでした。そしてこれ等《ら》の軍隊《ぐんたい》と並《なら》んで、漢人《あやびと》等《ら》もまた、秦人《はたびと》とともに、兵士《へいし》として御用《ごよう》をつとめたのですが、その中《なか》にも漢人《あやびと》は、都《みやこ》近《ちか》くに大勢《おほぜい》まとまつて住《す》んでゐたのでしたから、なか/\勢力《せいりよく》がありまして、後《のち》には朝廷《ちようてい》でも、お困《こま》りになる程《ほど》の盛《さか》んなものになりました。次《つ》ぎにお話《はなし》する大臣《おほおみ》蘇我氏《そがうぢ》のわがまゝのごときも、そのうしろに、この飛鳥《あすか》の漢人《あやびと》の勢力《せいりよく》がついてゐた爲《ため》であります。
秦人《はたびと》、漢人《あやびと》の外《ほか》にも、百濟《くだら》、新羅《しらぎ》、高麗《こま》などの朝鮮人《ちようせんじん》や、その外《ほか》の支那人《しなじん》なども、多《おほ》く我《わ》が國《くに》に歸化《きか》して參《まゐ》りました。我《わ》が國《くに》では、これ等《ら》の人《ひと》たちを歡迎《かんげい》して、土地《とち》を與《あた》へてお住《す》ませになりましたから、百濟郡《くだらごほり》、新羅郡《しらぎごほり》、高麗郡《こまごほり》などと、これ等《ら》の人《ひと》たちばかりの郡《こほり》も、方々《ほう/″\》に出來《でき》ますし、もちろん、歸化人《きかじん》ばかりの村《むら》も、たくさんありました。その數《かず》がどんなに多《おほ》かつたかといふことは、今《いま》から千年《せんねん》あまり前《まへ》に、都《みやこ》に近《ちか》い山城《やましろ》、大和《やまと》、河内《かはち》、和泉《いづみ》、攝津《せつつ》の五箇國《ごかこく》の、有名《ゆうめい》な人々《ひと/″\》の家柄《いへがら》を調《しら》べましたところが、そのころの名高《なだか》い家《いへ》が千百《せんひやく》八十二《はちじゆうに》氏《うぢ》のうちで、三百《さんびやく》七十三《しちじゆうさん》氏《うぢ》は、歸化人《きかじん》の子孫《しそん》であつたのでもわかりませう。即《すなはち》、總數《そうすう》の三分《さんぶん》の一《いち》にも近《ちか》い程《ほど》の、多數《たすう》の歸化人《きかじん》があつたのです。その中《なか》でも、一番《いちばん》早《はや》くから我《わ》が國《くに》に渡《わた》つて來《き》て、その數《すう》も多《おほ》かつたのは、秦人《はたびと》と漢人《あやびと》とでありますが、これはその前《まへ》に、支那《しな》から朝鮮《ちようせん》へ來《き》てをつた秦韓《しんかん》地方《ちほう》の秦人《しんじん》や、大同江《だいどうこう》附近《ふきん》の漢人《かんじん》が、そのまゝ我《わ》が國《くに》へ移《うつ》つて來《き》たのでありますから、もとは支那人《しなじん》であつても、もう朝鮮人《ちようせんじん》になつてゐたといつてもよろしいのです。そしてそれらの人々《ひと/″\》は、たゞ家柄《いへがら》が支那人《しなじん》だ、朝鮮人《ちようせんじん》だといふだけで、皆《みな》いつの間《ま》にか、日本《やまと》民族《みんぞく》になつてしまひ、その本國《ほんごく》の文化《ぶんか》は、皆《みな》日本《やまと》民族《みんぞく》の文化《ぶんか》となつてしまつたのです。
つまり蝦夷《えぞ》だ、熊襲《くまそ》だ、歸化人《きかじん》だなどといつても、皆《みな》同《おな》じく日本《やまと》民族《みんぞく》の仲間《なかま》でありまして、我《わ》が日本《やまと》民族《みんぞく》は、決《けつ》して異《ちが》つた民族《みんぞく》を毛嫌《けぎら》ひし、これを排斥《はいせき》するようなことはなく、皆《みな》一樣《いちよう》に、暖《あたゝか》い懷《ふところ》に抱《だ》き込《こ》んで、同《おな》じ仲間《なかま》にしてしまつたのです。そして皆《みな》、忠良《ちゆうりよう》なる帝國《ていこく》臣民《しんみん》となつてしまつたのです。
二十三、大臣《おほおみ》と大連《おほむらじ》
昔《むかし》は家柄《いへがら》によつて、職業《しよくぎよう》がきまつてをりまして、神《かみ》を祭《まつ》る家《いへ》は中臣氏《なかとみうぢ》、忌部氏《いんべうぢ》、軍隊《ぐんたい》を率《ひき》ゐる家《いへ》は大伴氏《おほともうぢ》、物部氏《ものゝべうぢ》といふように、その外《ほか》、玉《たま》を造《つく》つたり、弓《ゆみ》を造《つく》つたり、機《はた》を織《お》つたりする職人《しよくにん》などまで、それ/″\家《いへ》がきまつてをりました。その中《なか》にも、軍隊《ぐんたい》の頭《かしら》であるところの大伴氏《おほともうぢ》と、物部氏《ものゝべうぢ》とが、自然《しぜん》に最《もつと》も勢力《せいりよく》がありまして、國《くに》を護《まも》り、朝廷《ちようてい》の御政治《ごせいじ》をお助《たす》けしてをりましたが、一方《いつぽう》では皇族《こうぞく》から分《わか》れ出《で》て、政治《せいじ》にあづかる有力《ゆうりよく》な家《いへ》も、だん/\出來《でき》て參《まゐ》りました。崇神《すじん》天皇《てんのう》の御代《みよ》に、四方《しほう》へお使《つか》ひして、從《したが》はぬものを平《たひら》げた四道《しどう》將軍《しようぐん》は、皆《みな》皇族《こうぞく》のお方々《かた/″\》でした。神功《じんぐう》皇后《こうごう》のお伴《とも》をして、新羅《しらぎ》を討《う》つた武内《たけうちの》宿禰《すくね》も、孝元《こうげん》天皇《てんのう》の御子孫《ごしそん》でした。また地方《ちほう》では國造《くにのみやつこ》、縣主《あがたぬし》などといふのがありまして、それぞれその地方《ちほう》を領《りよう》して、朝廷《ちようてい》にお仕《つか》へ申《まを》してをりましたが、その中《なか》には、土人《どじん》の有力者《ゆうりよくしや》がそれに任《にん》ぜられたのもあれば、また皇族《こうぞく》から分《わか》れ出《で》て、地方《ちほう》を領《りよう》する家《いへ》もたくさんありました。
[#図版(10.png)、武内宿禰]
皇族《こうぞく》から分《わか》れ出《で》た家《いへ》の中《なか》では、武内《たけうちの》宿禰《すくね》の子孫《しそん》が、最《もつと》も有力《ゆうりよく》でありました。何《なに》しろ宿禰《すくね》は、新羅《しらぎ》征伐《せいばつ》以來《いらい》引《ひ》き續《つゞ》き朝廷《ちようてい》の御政治《ごせいじ》にあづかり、殊《こと》に應神《おうじん》天皇《てんのう》、仁徳《にんとく》天皇《てんのう》の御代《みよ》の頃《ころ》までも長生《ながい》きをしまして、その大勢《おほぜい》の子《こ》たちも、それ/″\立派《りつぱ》な身分《みぶん》となり、仁徳《にんとく》天皇《てんのう》の皇后《こうごう》は、その孫娘《まごむすめ》に當《あた》るお方《かた》であり、そのお子《こ》はお三人《さんにん》まで、天皇《てんのう》の御位《みくらゐ》にお即《つ》きになつたといふ程《ほど》の、えらい勢《いきほひ》でありましたから、自然《しぜん》に勢力《せいりよく》がその一族《いちぞく》に集《あつま》り、舊家《きゆうか》の大伴氏《おほともうぢ》、物部氏《ものゝべうぢ》と並《なら》んで、共々《とも/″\》に朝廷《ちようてい》の御政治《ごせいじ》を、掌《つかさど》る家《いへ》となつたのです。その宿禰《すくね》の子孫《しそん》の多《おほ》い中《なか》でも、蘇我氏《そがし》が後《のち》には一番《いちばん》勢力《せいりよく》を得《え》まして、蘇我《そがの》稻目《いなめ》、その子《こ》の馬子《うまこ》、孫《まご》の蝦夷《えみし》など、引《ひ》き續《つゞ》き『大臣《おほおみ》』となりました。昔《むかし》は家柄《いへがら》によつて、臣《おみ》とか連《むらじ》とか、いろ/\のとなへがありましたが、武内《たけうちの》宿禰《すくね》の一族《いちぞく》は、その臣《おみ》の方《ほう》で、臣《おみ》の中《なか》でも一番《いちばん》上《うへ》にあつて、朝廷《ちようてい》の御政治《ごせいじ》にあづかるのが『大臣《おほおみ》』です。この一族《いちぞく》に對《たい》して、大伴氏《おほともうぢ》、物部氏《ものゝべうぢ》などは連《むらじ》といふ方《ほう》で、そのうちから『大連《おほむらじ》』が出《で》る。政治《せいじ》はこの大臣《おほおみ》と大連《おほむらじ》とが掌《つかさど》ることとなつたのです。
かくて大伴《おほとも》、物部《ものゝべ》、蘇我《そが》の三氏《さんし》が、鼎《かなへ》の足《あし》のように、相《あひ》並《なら》んで、久《ひさ》しく勢力《せいりよく》を有《ゆう》してをりましたが、第二十六代《だいにじゆうろくだい》繼體《けいたい》天皇《てんのう》の御代《みよ》に、大連《おほむらじ》物部《ものゝべの》麁鹿火《あらかひ》は、九州《きゆうしゆう》の豪族《ごうぞく》筑紫《つくしの》國造《くにのみやつこ》磐井《いはゐ》が、新羅《しらぎ》と結《むす》んで獨立《どくりつ》しようとしたのを平《たひら》げて、大《おほ》きな手柄《てがら》を立《た》てたのに反《はん》して、同《おな》じ大連《おほむらじ》の大伴《おほともの》金村《かなむら》は、朝鮮《ちようせん》の政治《せいじ》の指導《しどう》よろしきを得《え》なかつた責任《せきにん》を負《お》うて、退隱《たいいん》しましたので、大連家《おほむらじけ》の方《ほう》では、大伴氏《おほともうぢ》が勢力《せいりよく》を失《うしな》ひ、物部《ものゝべの》大連《おほむらじ》と、蘇我《そがの》大臣《おほおみ》とばかりが、專《もつぱ》ら政治《せいじ》を掌《つかさど》るようになりました。さあかうなると兩雄《りようゆう》並《なら》び立《た》たずで、お互《たがひ》に權力《けんりよく》爭《あらそ》ひをして、なか/\面倒《めんどう》なことになつて參《まゐ》ります。
二十四、佛教《ぶつきよう》の傳來《でんらい》
物部《ものゝべ》の大連《おほむらじ》と蘇我《そが》の大臣《おほおみ》とが、お互《たがひ》に下《くだ》らず、權力《けんりよく》爭《あらそ》ひをしてゐる時《とき》に、たま/\佛教《ぶつきよう》が百濟《くだら》から日本《につぽん》へ渡《わた》つて參《まゐ》りました。
佛教《ぶつきよう》はもと印度《いんど》で起《おこ》つた宗教《しゆうきよう》で、支那《しな》から、朝鮮《ちようせん》へと、順々《じゆん/\》に傳《つた》はつて來《き》たのでしたが、日本《につぽん》では、支那《しな》から歸化《きか》して來《き》た人《ひと》の中《なか》に、勝手《かつて》にこれを信仰《しんこう》してゐるのがあつたくらゐで、まだ一般《いつぱん》には、一向《いつこう》そんな宗教《しゆうきよう》のあることを知《し》らないでをりましたのです。
もと/\日本《につぽん》では、天津神《あまつかみ》、國津神《くにつかみ》をお祭《まつ》りして、上《かみ》は天皇《てんのう》を始《はじ》め奉《たてまつ》り、下《しも》一般《いつぱん》民衆《みんしゆう》に至《いた》るまで、幸《さいはひ》を求《もと》めるのにも、禍《わざはひ》を避《さ》けるのにも、みなこの神々《かみ/″\》にお祈《いの》りするのでありました。天皇《てんのう》の御政治《ごせいじ》を『まつりごと[#「まつりごと」に傍点]』と申《まを》すのも、天皇《てんのう》が神《かみ》をお祭《まつ》りなされて、そのおぼし召《め》しのまゝに、國《くに》をお治《をさ》めになるといふことなので、即《すなはち》、祭政《さいせい》一致《いつち》と申《まを》すことであります。神武《じんむ》天皇《てんのう》が大和《やまと》平野《へいや》を御平定《ごへいてい》になり、天皇《てんのう》の御位《みくらゐ》につかれまして後《のち》に、鳥見《とみ》の山中《さんちゆう》に御先祖《ごせんぞ》の天津神《あまつかみ》をお祭《まつ》り遊《あそ》ばされて、その御恩《ごおん》を謝《しや》し、その御保護《ごほご》をお願《ねが》ひになりましたのも、これがためです。そこへたま/\佛教《ぶつきよう》が傳《つた》はつて來《き》たのでありました。
[#図版(11.png)、百濟の使者佛像を奉る]
第二十九代《だいにじゆうくだい》欽明《きんめい》天皇《てんのう》の御代《みよ》の頃《ころ》は、百濟《くだら》は聖明王《せいめいおう》といふ王《おう》の時代《じだい》でしたが、北《きた》には高麗《こま》といふ強《つよ》い國《くに》があり、東《ひがし》にも新羅《しらぎ》がだん/\強《つよ》くなつて來《き》まして、次第《しだい》に任那《みまな》の諸小國《しよしようこく》を併合《へいごう》し、しきりに百濟《くだら》にせまつて參《まゐ》ります。百濟《くだら》もこれには困《こま》つて、どうか日本《につぽん》のお助《たす》けを受《う》けて、それでその國《くに》を保《たも》たうと、骨《ほね》を折《を》つてをる時《とき》でした。さればこの聖明王《せいめいおう》は、もとから熱心《ねつしん》な佛教《ぶつきよう》信者《しんじや》でありましたから、かねて我《わ》が天皇《てんのう》の御爲《おんため》に、一丈《いちじよう》六尺《ろくしやく》の佛像《ぶつぞう》を造《つく》つて、天皇《てんのう》の御幸福《ごこうふく》や、日本《につぽん》の屬國《ぞつこく》たる朝鮮《ちようせん》の平和《へいわ》を祈《いの》つた程《ほど》でありましたが、自分《じぶん》で佛《ほとけ》を祭《まつ》るばかりでなく、天皇《てんのう》御自身《ごじしん》にもこれをお祭《まつ》りになりますようにと、わざ/\使《つか》ひをつかはして、佛像《ぶつぞう》や經文《きようもん》や、その外《ほか》佛《ほとけ》を祭《まつ》る道具《どうぐ》などを、さしあげて參《まゐ》りましたのです。
しかしこれは我《わ》が國《くに》としては、初《はじ》めてのことでありますから、受《う》けてよいか、どうかといふことに、天皇《てんのう》もお迷《まよ》ひになり、諸臣《しよしん》の意見《いけん》をお問《と》ひになりました。この時《とき》大連《おほむらじ》は物部《ものゝべ》尾輿《をこし》、大臣《おほおみ》は蘇我《そが》稻目《いなめ》で、蘇我氏《そがし》の方《ほう》は、これまでも外國《がいこく》の事《こと》にも關係《かんけい》し、歸化人《きかじん》等《ら》とも親《した》しみが多《おほ》く、自然《しぜん》外國《がいこく》の樣子《ようす》をも知《し》つてをりましたものですから、稻目《いなめ》は早速《さつそく》、「それはお受《う》けになつて、お祭《まつ》りなさるがおよろしうございませう」と申《まを》しあげました。ところが物部氏《ものゝべし》の方《ほう》は、守舊派《しゆきゆうは》ともいふべき方《ほう》で、なんでもこれまで通《どほ》りで、よくやつて行《ゆ》かうといふのでありましたから、昔《むかし》から神《かみ》を祭《まつ》る家筋《いへすぢ》の、中臣《なかとみの》勝海《かつみ》とともに、熱心《ねつしん》にこれに反對《はんたい》しました。そこで天皇《てんのう》は、大臣《おほおみ》稻目《いなめ》のお願《ねが》ひのまゝに、これを稻目《いなめ》にお與《あた》へになり、稻目《いなめ》は自分《じぶん》の家《いへ》を寺《てら》として、その佛像《ぶつぞう》を祭《まつ》りました。これは我《わ》が國《くに》の寺《てら》の初《はじ》めで、場所《ばしよ》は漢人《あやびと》の根據地《こんきよち》の飛鳥《あすか》の附近《ふきん》でした。
物部氏《ものゝべうぢ》、中臣氏《なかとみうぢ》等《ら》は、もちろん、佛教《ぶつきよう》に反對《はんたい》いたし、寺《てら》を燒《や》いたり、佛像《ぶつぞう》を難波《なには》の堀江《ほりえ》に投《な》げ込《こ》んだりして、ひどく迫害《はくがい》を加《くは》へました。しかしこの時《とき》は、ちょうど佛教《ぶつきよう》が盛《さか》んになる、運《うん》に向《む》いてをつたとでも申《まを》すのでありませうか、この後《のち》も度々《たび/\》百濟《くだら》から佛像《ぶつぞう》が傳《つた》はつて來《く》る、稻目《いなめ》の子《こ》の馬子《うまこ》は、父《ちゝ》についで熱心《ねつしん》にこれを信仰《しんこう》する、信者《しんじや》もだん/\多《おほ》くなる一方《いつぽう》でした。そのうちに蘇我氏《そがうぢ》と物部氏《ものゝべうぢ》との勢力《せいりよく》爭《あらそ》ひが、ます/\烈《はげ》しくなり、蘇我《そがの》大臣《おほおみ》馬子《うまこ》は、ことに佛教《ぶつきよう》を御信仰《ごしんこう》の聖徳《しようとく》太子《たいし》と共《とも》に、佛法《ぶつぽう》嫌《ぎら》ひの物部《ものゝべの》大連《おほむらじ》守屋《もりや》を攻《せ》め滅《ほろ》ぼしましたので、今《いま》や佛法《ぶつぽう》は、誰《たれ》憚《はゞか》らず信仰《しんこう》することが出來《でき》るようになりました。
この戰爭《せんそう》の時《とき》に、太子《たいし》も、馬子《うまこ》も、もし戰爭《せんそう》に勝《か》つことが出來《でき》ましたなら、寺《てら》や塔《とう》を建《た》てませうと、佛《ほとけ》にお祈《いの》りしてをられましたので、守屋《もりや》が殺《ころ》された後《のち》、太子《たいし》は難波《なには》に、四天王寺《してんのうじ》をお建《た》てになり、馬子《うまこ》も飛鳥《あすか》に、法興寺《ほうこうじ》を建《た》てましたが、それから後《のち》、寺《てら》の數《かず》もだんだん増《ま》して來《く》る、出家《しゆつけ》する人《ひと》も殖《ふ》えて來《く》る、佛教《ぶつきよう》が傳《つた》はつてから七十年《しちじゆうねん》ばかりの間《あひだ》に、寺《てら》が四十六《しじゆうろく》、僧《そう》が八百《はつぴやく》十六人《じゆうろくにん》、尼《あま》が五百《ごひやく》六十九人《ろくじゆうくにん》、合《あは》せて千三百《せんさんびやく》八十五人《はちじゆうごにん》の出家《しゆつけ》が出來《でき》たといふ程《ほど》の、盛《さか》んな勢《いきほひ》となりました。
二十五、聖徳《しようとく》太子《たいし》と文化《ぶんか》の進展《しんてん》(上)
聖徳《しようとく》太子《たいし》は第三十一代《だいさんじゆういちだい》用明《ようめい》天皇《てんのう》の皇子《おうじ》であらせられます。第三十二代《だいさんじゆうにだい》崇峻《すしゆん》天皇《てんのう》が、急《きゆう》にお崩《かく》れになりました時《とき》に、皇子《おうじ》はまだ御年《おとし》が二十歳《はたち》にも足《た》らぬ御少年《ごしようねん》であらせられましたから、御叔母樣《おんをばさま》の推古《すいこ》天皇《てんのう》が、御婦人《ごふじん》の御身《おんみ》を以《もつ》て、第三十三代《だいさんじゆうさんだい》の御位《みくらゐ》に即《つ》かれまして、政治《せいじ》はすべて、太子《たいし》にお任《まか》せになるといふことになりました。
太子《たいし》は御生《おうま》れつき、至《いた》つて御聰明《ごそうめい》なお方《かた》で、一度《いちど》に十人《じゆうにん》の申《まを》すことを、よくお聞《き》き分《わ》けになつたと申《まを》された程《ほど》でありました。それで佛教《ぶつきよう》を、高麗《こま》の僧《そう》惠慈《えじ》に、漢學《かんがく》を、博士《はかせ》の覺※[#「加/可」、第3水準1-15-3]《かくか》にお學《まな》びになり、兩方《りようほう》ともによく御上達《ごじようたつ》なさいまして、いろ/\と政治上《せいじじよう》、社會上《しやかいじよう》の、御改革《ごかいかく》を行《おこな》はれました。殊《こと》に太子《たいし》は熱心《ねつしん》に佛教《ぶつきよう》を御信仰《ごしんこう》になり、たくさんの寺《てら》を建《た》て、佛像《ぶつぞう》をお作《つく》りになつて、これを御奬勵《ごしようれい》になりましたので、これから佛教《ぶつきよう》は大《おほ》いに廣《ひろ》まり、建築《けんちく》、彫刻《ちようこく》、繪畫《かいが》など、美術《びじゆつ》工藝《こうげい》の道《みち》も、大《たい》そう進歩《しんぽ》して參《まゐ》りました。なほこのことは後《のち》に述《の》べませう。
不幸《ふこう》にして太子《たいし》は、まだ御位《みくらゐ》に即《つ》かれませぬ前《まへ》に薨去《ごうきよ》[#「ごうきよ」は底本のまま]になりました。この時《とき》、上《かみ》は諸王《しよおう》諸臣《しよしん》から、下《しも》は一般《いつぱん》の百姓《ひやくしよう》に至《いた》るまで、年取《としと》つたものは可愛《かわい》いゝ[#「可愛《かわい》いゝ」は底本のまま]子供《こども》に別《わか》れたように、年《とし》の若《わか》いものは、可愛《かわい》がつてくれた父母《ちゝはゝ》に別《わか》れたように、天下《てんか》の人《ひと》、こと/″\く泣《な》き悲《かな》しんだと申《まを》すのを見《み》ましても、そのお徳《とく》のいかにお高《たか》かつたかゞわかりませう。
太子《たいし》は初《はじ》めて憲法《けんぽう》十七《じゆうしち》箇條《かじよう》をお定《さだ》めになりました。これはおもに官吏《かんり》の心得《こゝろえ》をお述《の》べになつたものでありますが、その中《なか》にも、あつく佛教《ぶつきよう》を信仰《しんこう》すべきことをお述《の》べになつてあります。太子《たいし》は政治《せいじ》をなされるについても、佛教《ぶつきよう》によつて、和《やはら》ぎのある、暖味《あたゝかみ》の多《おほ》いものになされたいとの、お考《かんが》へであつたと見《み》えます。
太子《たいし》は又《また》、日本《につぽん》で初《はじ》めて歴史《れきし》を御編纂《ごへんさん》になりました。日本《につぽん》にはもと文字《もじ》がなく、古《ふる》いことはたゞ親《おや》から子《こ》に、老人《としより》から若《わか》い者《もの》にと、口《くち》から耳《みゝ》へ語《かた》り傳《つた》へるだけでありましたが、支那《しな》から文字《もじ》が傳《つた》はつて來《き》てからは、それを書《か》きとめたものも、だん/\出來《でき》ましたけれども、それはめい/\まち/\であつて、まだ日本《につぽん》の歴史《れきし》といふ纏《まとま》つたものはなかつたのです。太子《たいし》御編纂《ごへんさん》の日本《につぽん》歴史《れきし》は、惜《を》しいことには、後《のち》に蘇我氏《そがし》の滅《ほろ》んだ時《とき》に、大部分《だいぶぶん》燒《や》けてなくなりましたが、しかし日本《につぽん》歴史《れきし》の大《おほ》もとは、これできまりまして、後《のち》に古事記《こじき》や、日本《につぽん》書紀《しよき》のような、いろ/\のものが出來《でき》るようになりました。
[#図版(12.png)、聖徳太子]
太子《たいし》は又《また》、支那《しな》へ使《つか》ひをおつかはしになりました。その目的《もくてき》は、これまでのように、あちらの進歩《しんぽ》した技術者《ぎじゆつしや》を招《まね》いたり、品物《しなもの》を輸入《ゆにゆう》したりするといふばかりではなく、支那《しな》の進《すゝ》んだ政治《せいじ》の樣子《ようす》を御調査《ごちようさ》になる、佛教《ぶつきよう》のお經《きよう》をお求《もと》めになる、更《さら》に八人《はちにん》からの學生《がくせい》や僧侶《そうりよ》を留學《りゆうがく》させて、數年《すうねん》がかりで、直接《ちよくせつ》よい師《し》について、お學《まな》ばせになるといふように、餘程《よほど》御念《ごねん》の入《い》つたなされ方《かた》でありました。殊《こと》にこのたびの使者《ししや》をおつかはしになるについても、私共《わたくしども》の最《もつと》も敬服《けいふく》いたしますことは、太子《たいし》がどこまでも對等《たいとう》の禮儀《れいぎ》を取《と》つて、日本《につぽん》の名譽《めいよ》を、外國《がいこく》にお輝《かゞや》かしになつたことでした。
二十六、聖徳《しようとく》太子《たいし》と文化《ぶんか》の進展《しんてん》(下)
支那《しな》ははやくから進歩《しんぽ》した大國《たいこく》であります。その近所《きんじよ》には、これと肩《かた》を並《なら》べることの出來《でき》るような、開《ひら》けた、強《つよ》い國《くに》は、一《ひと》つもありませんでした。そこで支那人《しなじん》は昔《むかし》から、「天《てん》に二日《にじつ》なく、地《ち》に二王《におう》なし」といふ考《かんが》へで、世界《せかい》に於《お》いて天子《てんし》といふのは、支那《しな》の天子《てんし》ばかり、外《ほか》の國々《くに/″\》は、皆《みな》支那《しな》に屬《ぞく》すべきものだといふ風《ふう》に、大《たい》そう高《たか》ぶつてをりました。今日《こんにち》に於《お》いてこそ、我《わ》が日本《につぽん》は世界《せかい》の強國《きようこく》として、我々《われ/\》國民《こくみん》は、その名譽《めいよ》ある國家《こつか》の民《たみ》であることを、喜《よろこ》んでゐるのでありますが、この頃《ころ》はまだ、日本《につぽん》には人口《じんこう》も少《すくな》く、土地《とち》は、もちろん、支那《しな》と比《くら》べものにならぬ程《ほど》に狹《せま》く、殊《こと》に文化《ぶんか》の點《てん》に於《お》いては、屬國《ぞつこく》たる朝鮮《ちようせん》の諸國《しよこく》にも、及《およ》ばぬ程《ほど》でありましたから、とても支那《しな》とは比《くら》べものになりません。支那《しな》から見《み》れば、丸《まる》で小《ちひ》さい子供《こども》のようなものでありました。それで、昔《むかし》九州《きゆうしゆう》地方《ちほう》の有力者《ゆうりよくしや》が、支那《しな》では漢《かん》とか、魏《ぎ》とかいふ時代《じだい》に、交通《こうつう》しました時《とき》には、支那《しな》の天子《てんし》から、それ/″\その地方《ちほう》の王《おう》の位《くらゐ》を授《さづ》けて貰《もら》つた程《ほど》で、かれ等《ら》は自分《じぶん》で、支那《しな》の屬國《ぞつこく》たることを認《みと》めてゐた形《かたち》でした。
もちろん、これは九州《きゆうしゆう》地方《ちほう》の有力者《ゆうりよくしや》が、勝手《かつて》にしたことでありまして、我《わ》が朝廷《ちようてい》には、一向《いつこう》御關係《ごかんけい》のないことであります。我《わ》が朝廷《ちようてい》から、直接《ちよくせつ》支那《しな》へ使《つか》ひをおつかはしになつたのは、應神《おうじん》天皇《てんのう》の御代《みよ》が始《はじ》めで、その後《ご》雄略《ゆうりやく》天皇《てんのう》の御代《みよ》にも、かさねて使《つか》ひをおつかはしになりましたが、これ等《ら》の時《とき》も、たゞあちらの進歩《しんぽ》した技術《ぎじゆつ》を、お求《もと》めになるといふのが御目的《ごもくてき》で、國《くに》と國《くに》との御交際《ごこうさい》といふほどのことではなかつたのであります。隨《したが》つてその使者《ししや》になつた漢人《あやびと》等《ら》が、途中《とちゆう》で都合《つごう》のよいはからひをしまして、技術家《ぎじゆつか》を連《つ》れて來《き》たといふに過《す》ぎませんでした。殊《こと》にその頃《ころ》は、支那《しな》は南《みなみ》と北《きた》とに分《わか》れて爭《あらそ》つてゐる時代《じだい》でありまして、我《わ》が國《くに》は、その南朝《なんちよう》即《すなはち》、呉《くれ》の方《ほう》へ使《つか》ひをおつかはしになつたのでしたから、支那《しな》一統《いつとう》の國《くに》と、御交際《ごこうさい》をお開《ひら》きになつたといふ程《ほど》ではありません。しかるにその後《ご》、支那《しな》には隋《ずい》といふ強《つよ》い國《くに》が出來《でき》まして、南北《なんぼく》の兩朝《りようちよう》を一《ひと》つにし、非常《ひじよう》にいばつてをりましたが、太子《たいし》はこの隋《ずい》に對《たい》して、對等《たいとう》の禮儀《れいぎ》をもつて、國《くに》と國《くに》との御交際《ごこうさい》をお始《はじ》めになつたのでした。
[#図版(13.png)、小野妹子隋の天子に會ふ]
太子《たいし》のお書《か》きになつた國書《こくしよ》には、立派《りつぱ》に、「日出處《ひのでるところ》の天子《てんし》、書《しよ》を日沒處《ひのいるところ》の天子《てんし》に致《いた》す」とお述《の》べになつたのです。これには隋《ずい》の天子《てんし》もひどく怒《おこ》りました。小《ちひ》さい國《くに》の癖《くせ》に、生意氣《なまいき》だといふのです。しかしそこは使者《ししや》に立《た》つた小野《をのゝ》妹子《いもこ》が、上手《じようず》に扱《あつか》ひましたと見《み》えて、隋《ずい》の天子《てんし》の機嫌《きげん》もなほり、隋《ずい》からはその返禮《へんれい》の使者《ししや》が來《く》る。太子《たいし》は再《ふたゝ》び妹子《いもこ》をおつかはしになりました。このたびは、「東《ひがし》の天皇《てんのう》敬《つゝし》んで西《にし》の皇帝《こうてい》に白《まを》す」とお書《か》きになりました。『東《ひがし》』といひ、『西《にし》』といふも、『日出處《ひのでるところ》』といひ、『日沒處《ひのいるところ》』といふも、皆《みな》同《おな》じことで、日本《につぽん》は東《ひがし》にある日《ひ》の本《もと》の國《くに》、支那《しな》は西《にし》にある日《ひ》の沒《い》る國《くに》、即《すなはち》、くれ[#「くれ」に傍点](暮《くれ》)の國《くに》であることを、文字《もじ》にさうお書《か》きになつたのです。小《ちひ》さくても開《ひら》けなくても、日本《につぽん》は立派《りつぱ》な獨立國《どくりつこく》です。支那《しな》では、「天《てん》に二日《にじつ》なく地《ち》に二王《におう》なし」などと勝手《かつて》なことをいひますが、太子《たいし》の憲法《けんぽう》には、「國《くに》に二君《にくん》なし」とあつて、「地《ち》に二君《にくん》なし」などとは仰《おほ》せられません。大化《たいか》の新政《しんせい》の時《とき》にも、中大兄《なかのおほえの》皇子《おうじ》は、「天《てん》に二日《にじつ》なく、國《くに》に二王《におう》なし」と仰《おほ》せられましたが、「地《ち》に二王《におう》なし」とはありません。小《ちひ》さくとも、開《ひら》けなくとも、日本《につぽん》は立派《りつぱ》な獨立國《どくりつこく》です。支那《しな》の皇帝《こうてい》が天子《てんし》であれば、日本《につぽん》の天皇《てんのう》も天子《てんし》であらせられます。太子《たいし》がこのことをよくおわきまへになつて、隋《ずい》からいろ/\のことをお學《まな》びになるにつけても、獨立國《どくりつこく》の體面《たいめん》を重《おも》んぜられて、大國《たいごく》の威《い》に恐《おそ》れず、どこまでも對等《たいとう》の禮儀《れいぎ》を失《うしな》はず、しかも圓滿《えんまん》に御交際《ごこうさい》をなされ、その文化《ぶんか》輸入《ゆにゆう》の目的《もくてき》を達《たつ》せられましたことは、まことに敬服《けいふく》し奉《たてまつ》るべき次第《しだい》であります。
太子《たいし》は不幸《ふこう》にして、御位《みくらゐ》にお即《つ》きにならぬ前《まへ》に薨去《こうきよ》になりましたが、この時《とき》におつかはしになつた留學生《りゆうがくせい》等《ら》は、十分《じゆうぶん》學問《がくもん》をして歸《かへ》つて參《まゐ》りまして、それ/″\その學《まな》んだところをもつて、國《くに》のためにつくしました。後《のち》に行《おこな》はれた大化《たいか》の新政《しんせい》のごときも、これ等《ら》の留學生《りゆうがくせい》の學《まな》んで來《き》たところが本《もと》になつたもので、太子《たいし》ははやくおかくれになりましても、そのお植《う》ゑつけになつた苗《なへ》は、後《のち》にだん/\成長《せいちよう》して、我《わ》が國《くに》の文化《ぶんか》は大《おほ》いに進歩《しんぽ》し、大化《たいか》の新政《しんせい》ともなれば、國家《こつか》の隆盛《りゆうせい》ともなりまして、日本《につぽん》は大《おほ》いに面目《めんもく》を改《あらた》めて參《まゐ》りました。
二十七、大化《たいか》の新政《しんせい》(上)
聖徳《しようとく》太子《たいし》はかく我《わ》が國《くに》の爲《ため》に、いろ/\結構《けつこう》なことをお殘《のこ》しになりましたが、惜《を》しいことには、大臣《おほおみ》蘇我《そがの》馬子《うまこ》のわがまゝだけは、これをどうすることもお出來《でき》にならないうちに、おかくれになりました。しかしその蘇我氏《そがし》のわがまゝの大木《たいぼく》も、太子《たいし》のお植《う》ゑつけになつた苗木《なへぎ》が成長《せいちよう》して、たちまちこれを枯《か》らしてしまひ、日本《につぽん》の政治《せいじ》は根本《こんぽん》から立《た》て直《なほ》しになりました。これ即《すなはち》、大化《たいか》の新政《しんせい》であります。
大昔《おほむかし》に神武《じんむ》天皇《てんのう》が、大和《やまと》平野《へいや》を御平定《ごへいてい》になり、そこで、天皇《てんのう》の御位《みくらゐ》に即《つ》かれましてから後《のち》、國《くに》も次第《しだい》に大《おほ》きくなり、人口《じんこう》も次第《しだい》に殖《ふ》え、世《よ》の中《なか》も大《おほ》いに開《ひら》けて參《まゐ》りましたが、何分《なにぶん》長《なが》い年月《としつき》の間《あひだ》には、いろ/\の弊害《へいがい》もまた起《おこ》つて參《まゐ》ります。
もと/\我《わ》が國《くに》では、中央《ちゆうおう》には臣《おみ》とか連《むらじ》とかいふような貴族《きぞく》があつて、代々《だい/\》その下《した》についてゐる人民《じんみん》を率《ひき》ゐて、天皇《てんのう》にお仕《つか》へ申《まを》し、また地方《ちほう》には國造《くにのみやつこ》とか、縣主《あがたぬし》とかいふものがあつて、これも代々《だい/\》土地《とち》人民《じんみん》を領《りよう》して、天皇《てんのう》にお仕《つか》へ申《まを》す仕組《しく》みでありました。もちろん、その間《あひだ》には、天皇《てんのう》や、皇族方《こうぞくがた》の御領地《ごりようち》もありましたけれども、大體《だいたい》からいへば、「君《きみ》の下《した》に君《きみ》があり、臣《しん》の下《した》に臣《しん》がある」といふ工合《ぐあひ》で、國《くに》は廣《ひろ》くなり、人口《じんこう》は多《おほ》くなりましても、天皇《てんのう》が直接《ちよくせつ》御支配《ごしはい》になるものは、さう多《おほ》くはありませんでした。されば日本《につぽん》の多數《たすう》の民衆《みんしゆう》は、天皇《てんのう》から御覽《ごらん》になれば、陪臣《ばいしん》と申《まを》して、御家來《ごけらい》の又《また》その家來《けらい》といふわけであつたのです。そこで中《なか》に立《た》つた貴族《きぞく》等《ら》の中《なか》には、ずいぶん部下《ぶか》の人民《じんみん》に對《たい》して、わがまゝなことをしたのも多《おほ》かつたらしく、また朝廷《ちようてい》からは、國司《こくし》といふ官吏《かんり》を地方《ちほう》につかはされて、地方《ちほう》の政治《せいじ》を御監督《ごかんとく》になりましたけれども、それもうまくは行《ゆ》かなかつたらしく、聖徳《しようとく》太子《たいし》の憲法《けんぽう》には、しきりにこれを戒《いまし》めてをられます。しかしもと/\君《きみ》の下《した》に君《きみ》があつては、「天《てん》に二日《にじつ》なく、國《くに》に二王《におう》なし」といふ道理《どうり》にもかなひません。いつかは一大《いちだい》改革《かいかく》が、行《おこな》はれなければならぬわけのものでありました。
また貴族《きぞく》の中《なか》にも、大連《おほむらじ》とか大臣《おほおみ》とかいはれる程《ほど》のものは、多《おほ》くの部下《ぶか》をもつて、その勢力《せいりよく》が強《つよ》く、だん/\と他《ほか》の領分《りようぶん》を併合《へいごう》します。ことに大伴氏《おほともし》が衰《おとろ》へて、物部氏《ものゝべし》と蘇我氏《そがし》とばかりが、並《なら》び立《た》つた頃《ころ》になりましては、天下《てんか》はほとんど、この兩氏《りようし》の勢力《せいりよく》に屬《ぞく》するといふ程《ほど》のあり樣《さま》でありました。
しかるに、その物部氏《ものゝべし》が滅《ほろ》び、蘇我氏《そがし》ばかりの時代《じだい》となつたのですからたまりません。蘇我《そがの》大臣《おほおみ》の勢《いきほひ》は、殆《ほとん》ど皇室《こうしつ》以上《いじよう》といふ程《ほど》になりまして、すき勝手《かつて》なわがまゝを致《いた》します。
蘇我《そがの》馬子《うまこ》の妻《つま》は、物部《ものゝべ》守屋《もりや》の妹《いもうと》でありましたから、守屋《もりや》滅《ほろ》んで後《のち》の物部氏《ものゝべし》の財産《ざいさん》は、自然《しぜん》妹《いもうと》の手《て》に入《い》つて、つひには蘇我氏《そがし》のものになり、蘇我氏《そがし》の財産《ざいさん》は大變《たいへん》なものとなつたのです。
その頃《ころ》皇室《こうしつ》の方《ほう》では、萬事《ばんじ》が御儉約《ごけんやく》でありまして、推古《すいこ》天皇《てんのう》は、一天《いつてん》萬乘《ばんじよう》の尊《たふと》い御身《おんみ》であらせられながら、お崩《かく》れの後《のち》には、わざ/\御陵《みさゝぎ》をお作《つく》りにならず、前《まへ》からあつた竹田《たけだの》皇子《おうじ》の御墓《おはか》の中《なか》に、合《あは》せ葬《はうむ》り奉《たてまつ》りますようにと、御遺言《ごゆいごん》遊《あそ》ばされました程《ほど》でした。また聖徳《しようとく》太子《たいし》のお崩《かく》れの時《とき》も、御母君《おんはゝぎみ》たる用明《ようめい》天皇《てんのう》の皇后《こうごう》の御陵《みさゝぎ》の中《なか》に、お妃《きさき》と一《いつ》しよにお葬《はうむ》り申《まを》した程《ほど》でした。しかるに蘇我《そがの》馬子《うまこ》の妹《いもうと》で、欽明《きんめい》天皇《てんのう》の妃《きさき》であらせられた堅鹽媛《きたしひめ》の御葬式《ごそうしき》の時《とき》には、その御陵《みさゝぎ》も大陵《だいりよう》といはれる程《ほど》の大《おほ》きなものであつたばかりでなく、その中《なか》に埋《う》めた衣類《いるい》その他《ほか》の品物《しなもの》の數《かず》が、一萬《いちまん》五千《ごせん》もあつたといふ程《ほど》の大《たい》したものでありました。また馬子《うまこ》自身《じしん》の死《し》にました時《とき》にも、一族《いちぞく》相《あひ》集《あつま》つて非常《ひじよう》に大《おほ》きな墓《はか》を造《つく》りました。その墓《はか》は今《いま》も大和《やまと》の高市郡《たかいちごほり》の、島庄《しまのしよう》の石舞臺《いしぶたい》といつて、もと馬子《うまこ》の家《いへ》のあつた近所《きんじよ》に遺《のこ》つてをりますが、その墓《はか》の中《なか》の石室《せきしつ》のごときは、その時代《じだい》の天皇《てんのう》や、皇族方《こうぞくがた》の御陵墓《ごりようぼ》よりも遙《はる》かに大《おほ》きく、ほとんど外《ほか》に比《くら》べものが少《すくな》いといふ程《ほど》のすばらしいものであります。たゞこれだけのことによつても、蘇我氏《そがし》がいかに富《と》み、いかにわがまゝであつたかゞ知《し》られませう。
二十八、大化《たいか》の新政《しんせい》(中)
馬子《うまこ》の子《こ》蝦夷《えみし》は、父《ちゝ》につぎ、推古《すいこ》天皇《てんのう》の御代《みよ》の末《すゑ》から、第三十四代《だいさんじゆうよだい》欽明《きんめい》天皇《てんのう》、第三十五代《さんじゆうごだい》皇極《こうぎよく》天皇《てんのう》の御代《みよ》にかけて、大臣《おほおみ》となりましたが、そのわがまゝは、父《ちゝ》馬子《うまこ》よりも一層《いつそう》ひどいものでした。皇極《こうぎよく》天皇《てんのう》は女帝《によてい》であらせられましたから、かれはことに心《こゝろ》のまゝにふるまひまして、生《い》きてゐるうちに自分《じぶん》と、入鹿《いるか》と、父子《おやこ》の墓《はか》を造《つく》りますにも、勝手《かつて》に天下《てんか》の人民《じんみん》を使《つか》ひまして、はては聖徳《しようとく》太子《たいし》のお家《いへ》の民《たみ》をまでも狩《か》り出《だ》して、少《すこ》しも御遠慮《ごえんりよ》致《いた》しませんでした。そしてその出來上《できあが》つた墓《はか》は、恐《おそ》れ多《おほ》くも自分《じぶん》のを大陵《だいりよう》、入鹿《いるか》のを小陵《しようりよう》といつて、天皇《てんのう》の御陵《みさゝぎ》になぞらへました。この二《ふた》つの墓《はか》は、今《いま》も大和《やまと》の葛城郡《かつらきごほり》に遺《のこ》つてをります。その大《おほ》きさは馬子《うまこ》のには及《およ》びませんが、石室《せきしつ》の奧行《おくゆ》きだけでも五六間《ごろつけん》もあるといふ、この頃《ころ》のものにしては、すこぶる大規模《だいきぼ》なものです。
蝦夷《えみし》はまた自分《じぶん》が病氣《びようき》になつたといふので、天皇《てんのう》の御許《おゆる》しもなく、大臣《おほおみ》の被《かぶ》る紫《むらさき》の冠《かんむり》を、勝手《かつて》に子《こ》の入鹿《いるか》に與《あた》へて、大臣《おほおみ》の代《かは》りをつとめさせるといふような、ふらち[#「ふらち」に傍点]なことをやつてはゞかりませんでした。
その子《こ》入鹿《いるか》に至《いた》つては、わがまゝが父《ちゝ》の蝦夷《えみし》よりも更《さら》に一層《いつそう》ひどく、自分《じぶん》に縁《ゆかり》のあるお方《かた》を御位《みくらゐ》に即《つ》け奉《たてまつ》らんが爲《ため》に、聖徳《しようとく》太子《たいし》のお子《こ》の、山背《やましろ》大兄王《おほえおう》の御評判《ごひようばん》のおよろしいのを嫌《きら》つて、ふいに攻《せ》めて御一族《ごいちぞく》二十《にじゆう》餘人《よにん》と共《とも》に、悉《こと/″\》くこれを殺《ころ》してしまふといふ程《ほど》の、大逆《たいぎやく》をも平氣《へいき》で行《おこな》ひました。また父《ちゝ》蝦夷《えみし》が自分《じぶん》等《ら》の墓《はか》を陵《みさゝぎ》といつたと同《おな》じように、蝦夷《えみし》の爲《ため》に家《いへ》を建《た》てゝは、これを宮門《みかど》といひ、自分《じぶん》の爲《ため》に家《いへ》を建《た》てゝは、これを谷宮門《はざまのみかど》といひ、また自分《じぶん》の子《こ》を王子《おうじ》と呼《よ》ばせるなど、すべて自分《じぶん》等《ら》が、天子《てんし》であるかのように、かさね/″\不敬《ふけい》極《きは》まることをも行《おこな》ひました。恐《おそ》れ多《おほ》くも天皇《てんのう》は、あれどもなきがごとしといふ御《おん》あり樣《さま》です。
そんなにわがまゝを行《おこな》ひますから、入鹿《いるか》はかねて反對者《はんたいしや》に憎《にく》まれ、恨《うら》まれることを覺悟《かくご》して、これに對《たい》する用意《ようい》を怠《おこた》りませんでした。かれはその家《いへ》を、城《しろ》のように嚴重《げんじゆう》に構《かま》へて、飛鳥《あすか》に勢力《せいりよく》のあつた漢人《あやびと》等《ら》を身方《みかた》につけ、常《つね》に大勢《おほぜい》の兵士《へいし》をして、これを守《まも》らしてをりました。また外出《がいしゆつ》する時《とき》にも、いつも五十人《ごじゆうにん》の護衞兵《ごえいへい》を從《したが》へて、十分《じゆうぶん》の用意《ようい》をしてをりました。ですから、世間《せけん》にそのわがまゝのひどいのを憤慨《ふんがい》するものがありましても、これをどうすることも出來《でき》ませんでした。
しかし、かうなると申《まを》すのも、實《じつ》は「君《きみ》の下《した》に君《きみ》があり、臣《しん》の下《した》に臣《しん》がある」といふ、世《よ》の中《なか》の仕組《しく》みの弊害《へいがい》がひどくなつた爲《ため》でありますから、いつかは世《よ》の中《なか》の作《つく》り直《なほ》しが、起《おこ》らねばならない場合《ばあひ》となつて來《き》たのでありました。
かく蘇我氏《そがし》のわがまゝな行《おこな》ひの、重《かさ》なるにつきまして、最《もつと》もこれを憤慨《ふんがい》し、これを心配《しんぱい》したのは、大昔《おほむかし》から神《かみ》を祭《まつ》る家筋《いへすぢ》の、中臣《なかとみの》鎌足《かまたり》でした。蘇我氏《そがし》父子《おやこ》の不敬《ふけい》の罪《つみ》は、到底《とうてい》これを許《ゆる》すことは出來《でき》ぬ、もしこのまゝに打《う》っちやつて置《お》いたならば、おしまひには皇室《こうしつ》に對《たい》し奉《たてまつ》つて、どんなことをするかも知《し》れぬ、國民《こくみん》はどんなに苦《くる》しめられるかも知《し》れぬ、これはぜひかれ等《ら》を殺《ころ》してしまはねばならぬと、堅《かた》い/\決心《けつしん》を致《いた》しました。しかし入鹿《いるか》は、前《まへ》申《まを》す通《とほ》り、家《いへ》にゐても、外出《がいしゆつ》の時《とき》でも、いつも嚴重《げんじゆう》に護衞《ごえい》がついてゐるものですから、鎌足《かまたり》がいかに憤慨《ふんがい》しても、自分《じぶん》だけの力《ちから》では、これをどうすることも出來《でき》ません。そこで鎌足《かまたり》は、皇族《こうぞく》の御方々《おんかた/″\》の中《なか》で、しかるべきお方《かた》に本心《ほんしん》をお打《う》ちあけ申《まを》して、とも/″\にこの大目的《だいもくてき》を達《たつ》したいと考《かんが》へました。この頃《ころ》皇族《こうぞく》の中《なか》では、舒明《じよめい》天皇《てんのう》と皇極《こうぎよく》天皇《てんのう》との御間《おんあひだ》にお生《うま》れになりました中大兄《なかのおほえの》皇子《おうじ》が、一番《いちばん》しっかりしてをられますし、また蘇我氏《そがし》のわがままをひどくお憎《にく》みになつてをられましたから、鎌足《かまたり》は、この皇子《おうじ》にお近付《ちかづ》きになり、御相談《ごそうだん》を申《まを》し上《あ》げたいと思《おも》ひましたが、なか/\その機會《きかい》がありません。
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たま/\法興寺《ほうごうじ》の庭《には》で、皇子《おうじ》が蹴鞠《けまり》のお遊《あそ》びをしてをられました時《とき》に、鎌足《かまたり》も、その仲間《なかま》に加《くは》はつてをりましたが、どうかした拍子《ひようし》に、皇子《おうじ》のお靴《くつ》が脱《ぬ》げて飛《と》んだのを、鎌足《かまたり》は拾《ひろ》つて、うや/\しくさし上《あ》げましたのが本《もと》となつて、これからだん/\皇子《おうじ》とお親《した》しくなりました。しかし何分《なにぶん》にも入鹿《いるか》の警戒《けいかい》が嚴重《げんじゆう》で、反對者《はんたいしや》に對《たい》して注意《ちゆうい》を怠《おこた》りませんから、人目《ひとめ》を避《さ》けて御相談《ごそうだん》申《まを》すことは容易《ようい》でありません。そこで鎌足《かまたり》は、皇子《おうじ》と共《とも》に、さきに聖徳《しようとく》太子《たいし》のおさしずで隋《ずい》に留學《りゆうがく》してゐた、南淵《みなぶちの》請安《せいあん》といふ學者《がくしや》のところへ、漢學《かんがく》を學《まな》びに參《まゐ》るといふことにしまして、その往復《おうふく》の途中《とちゆう》で、いろ/\とお打《う》ち合《あは》せをして、入鹿《いるか》の警戒《けいかい》のない折《を》りを見定《みさだ》めて、ふいにこれを殺《ころ》さうといふことになりました。
そのうちに三韓《さんかん》から、貢《みつ》ぎ物《もの》をさし上《あ》げるといふ日《ひ》が參《まゐ》りました。天皇《てんのう》は大極殿《だいごくでん》にお出《で》ましになり、入鹿《いるか》は大臣《おほおみ》の代理《だいり》として、その御前《ごぜん》におひかへ申《まを》し、そこで献上物《けんじようぶつ》を御披露《ごひろう》申《まを》し上《あ》げるのですから、この時《とき》ばかりはさすがの入鹿《いるか》も、護衞兵《ごえいへい》を連《つ》れてはをりません。この時《とき》こそと、かねて手筈《てはず》をきめまして、皇子《おうじ》御自身《ごじしん》、ふいに入鹿《いるか》をお斬《き》りになりました。天皇《てんのう》の玉座《ぎよくざ》の御前《ごぜん》に於《お》いて、時《とき》の大臣《おほおみ》を斬《き》り、大極殿《だいごくでん》の上《うへ》を、血《ち》で穢《けが》すといふことは、いかに皇子《おうじ》と申《まを》しても、不敬《ふけい》の甚《はなは》だしい次第《しだい》ではありますが、實際《じつさい》この外《ほか》に、入鹿《いるか》を殺《ころ》すことは出來《でき》なかつたのです。そこで皇子《おうじ》は、謹《つゝし》んで入鹿《いるか》の惡逆《あくぎやく》無道《むどう》の次第《しだい》を申《まを》し上《あ》げ、天皇《てんのう》のお許《ゆる》しを願《ねが》ひました。
この時《とき》入鹿《いるか》の父《ちゝ》蝦夷《えみし》は家《いへ》にをり、飛鳥《あすか》の漢人《あやびと》等《ら》が武裝《ぶそう》してこれを護《まも》つて、皇子《おうじ》の兵隊《へいたい》の攻《せ》めて來《く》るのを待《ま》ち受《う》けてをりました。しかし皇子《おうじ》が人《ひと》をおつかはしになつて、我《わ》が國《くに》では大昔《おほむかし》から、君《きみ》と臣《しん》との別《べつ》がはっきりとしてゐること、蘇我氏《そがし》の大逆《だいぎやく》無道《むどう》のことなどを、お聞《き》かせになりましたから、漢人《あやびと》等《ら》もこれを聞《き》いて退散《たいさん》し、蝦夷《えみし》はつひに殺《ころ》されました。この時《とき》聖徳《しようとく》太子《たいし》御編纂《ごへんさん》の歴史《れきし》は、蝦夷《えみし》がおあづかりしてゐたので、蝦夷《えみし》が殺《ころ》される時《とき》に、それを燒《や》いてしまつたのは、惜《を》しいことでした。
二十九、大化《たいか》の新政《しんせい》(下)
多年《たねん》わがまゝを極《きは》めた蘇我《そがの》入鹿《いるか》と、その父《ちゝ》蝦夷《えみし》とが殺《ころ》されましたので、それを機會《きかい》に皇極《こうぎよく》天皇《てんのう》は、第三十代《だいさんじゆうだい》敏達《びたつ》[#「びたつ」は底本のまま]天皇《てんのう》の皇子《おうじ》で、天皇《てんのう》には御弟《おんおとうと》に當《あた》らせられる輕皇子《かるのおうじ》に、御位《みくらゐ》をおゆづりになりました。これを第三十六代《さんじゆうろくだい》孝徳《こうとく》天皇《てんのう》と申《まを》し上《あ》げます。中大兄《なかのおほえの》皇子《おうじ》は皇太子《こうたいし》となり、天皇《てんのう》を輔《たす》け奉《たてまつ》つて、大《おほ》いに世《よ》の中《なか》の立《た》て直《なほ》しを行《おこな》はれました。この時《とき》始《はじ》めて大化《たいか》といふ年號《ねんごう》をお定《さだ》めになりましたので、これを『大化《たいか》の新政《しんせい》』と申《まを》します。
これまでは久《ひさ》しい間《あひだ》、都《みやこ》は大抵《たいてい》大和《やまと》にありまして、ことに推古《すいこ》天皇《てんのう》の御代《みよ》以來《いらい》は、漢人《あやびと》の根據地《こんきよち》の、飛鳥《あすか》の地《ち》にきまつてしまひ、蘇我《そが》の大臣《おほおみ》はその漢人《あやびと》等《ら》を後援《こうえん》として、わがままの限《かぎ》りを極《きは》めたのでした。そこで蘇我氏《そがし》の滅《ほろ》んだについて、皇太子《こうたいし》は、飛鳥《あすか》から遠《とほ》く離《はな》れた難波《なには》に都《みやこ》をおうつしになり、邪魔《じやま》になるもののをらぬところで、御心《みこゝろ》のまゝのあたらしい政治《せいじ》をなさることになりました。難波《なには》は今《いま》の大阪《おほさか》のことです。
大化《たいか》の新政《しんせい》は、大體《だいたい》に於《お》いて、聖徳《しようとく》太子《たいし》の隋《ずい》におつかはしになつた留學生《りゆうがくせい》等《ら》が、あちらで學《まな》んで來《き》たところを參考《さんこう》としたものでした。その中《なか》でも最《もつと》も大切《たいせつ》なことは、これまでは君《きみ》の下《した》に君《きみ》があり、臣《しん》の下《した》に臣《しん》があるといふ工合《ぐあひ》で、天皇《てんのう》と一般《いつぱん》民衆《みんしゆう》との間《あひだ》に、臣《おみ》とか、連《むらじ》とか、國造《くにのみやつこ》とか、縣主《あがたぬし》とかいふものがはさまり、また土地《とち》も、これ等《ら》の貴族《きぞく》等《ら》が自分《じぶん》のものとして、勝手《かつて》に支配《しはい》してをつたのを、この時《とき》こと/″\く御廢止《ごはいし》になつたことです。
中大兄《なかのおほえ》皇太子《こうたいし》は、「天《てん》に二《ふた》つの日《ひ》なく、國《くに》に二《ふた》つの君《きみ》なし、天下《てんか》を兼《か》ね併《あは》せて、萬民《ばんみん》を使《つか》ふべきものは、たゞ天皇《てんのう》ましますのみ」と仰《おほ》せられまして、御自身《ごじしん》の土地《とち》人民《じんみん》を、皆《みな》天皇《てんのう》にお返《かへ》しになりました。もっともこの時《とき》までは、蘇我《そが》の大臣《おほおみ》が一番《いちばん》勢力《せいりよく》がありまして、天下《てんか》の土地《とち》人民《じんみん》は、大《おほ》かたその下《した》についてゐたのでありますから、その蘇我氏《そがし》といふ大《おほ》きな頭《あたま》がなくなりますと、その下《した》についてゐたものは、皆《みな》天皇《てんのう》の土地《とち》、天皇《てんのう》の人民《じんみん》といふことになりましたので、その外《ほか》の小《ちひ》さいものは、容易《ようい》に朝廷《ちようてい》にお收《をさ》めになることが出來《でき》たのでありました。しかしそれも、たゞお取《と》り上《あ》げになつたのではなく、國造《くにのみやつこ》、縣主《あがたぬし》等《ら》は、大抵《たいてい》郡司《ぐんじ》となつて、もとの土地《とち》人民《じんみん》を治《をさ》める、その外《ほか》のものも、それ/″\身分《みぶん》に應《おう》じて、相當《そうとう》のお手當《てあて》がありましたので、誰《たれ》もさう不平《ふへい》を申《まを》すものがなかつたのであります。
かくて天下《てんか》の土地《とち》はこと/″\く公《おほやけ》の土地《とち》となり、天下《てんか》の人民《じんみん》はこと/″\く公《おほやけ》の人民《じんみん》となりましたから、その土地《とち》を、男《をとこ》には二反《にたん》づゝ、女《をんな》には一反《いつたん》百二十歩《ひやくにじゆうぶ》づゝ、みんな同《おな》じように、すべての人民《じんみん》に、お分《わ》け與《あた》へになるといふことになりました。これを『口分田《くぶんでん》』と申《まを》します。
口分田《くぶんでん》は、人《ひと》が死《し》ねばこれを公《おほやけ》に收《をさ》め、人《ひと》が生《うま》れゝば與《あた》へるといふのでありますから、どの家《いへ》にも、家族《かぞく》の數《かず》に應《おう》じて、同《おな》じ割《わ》りあひの田地《でんじ》があり、それを耕作《こうさく》して、その一部分《いちぶぶん》を租税《そぜい》に納《をさ》めれば、その殘《のこ》りで、日本《につぽん》國中《こくじゆう》のすべての人《ひと》が、安全《あんぜん》に生《い》きて行《ゆ》くことが出來《でき》るわけで、食《く》ふに困《こま》るといふような貧乏人《びんぼうにん》は、一人《ひとり》もない筈《はず》だといふ、まことに結構《けつこう》な仕組《しく》みであります。しかし人間《にんげん》には、勤勉《きんべん》なものもあれば、怠《なま》けものもある、強《つよ》いものもあれば、弱《よわ》いものもある。達者《たつしや》なものもあれば、病身《びようしん》なものもある、人《ひと》の分《ぶん》までも取《と》らうといふ、横着者《おうちやくもの》もあれば、自分《じぶん》のものをも持《も》ちかねるといふ、意氣地《いくじ》なしもあるのでありますから、この結構《けつこう》な仕組《しく》みも、いつまでも規則《きそく》通《どほ》りには行《おこな》はれず、いつの間《ま》にか崩《くづ》れてしまつたのは、まことに止《や》むを得《え》ない次第《しだい》でした。
地方《ちほう》では、國造《くにのみやつこ》、縣主《あがたぬし》等《ら》が、自分《じぶん》で自分《じぶん》の土地《とち》人民《じんみん》を領《りよう》することがなくなりましたから、これを國《くに》に分《わ》け、國《くに》を更《さら》に郡《こほり》に分《わ》けて、國《くに》には國司《こくし》、郡《こほり》には郡司《ぐんじ》を置《お》いて、これを治《をさ》めしめることになりました。國司《こくし》は今《いま》の府《ふ》や縣《けん》の知事《ちじ》や、部長《ぶちよう》、事務官《じむかん》のように、中央《ちゆうおう》政府《せいふ》から任命《にんめい》せられ、年限《ねんげん》を定《さだ》めて地方《ちほう》へ出《で》かけたものです。その一番《いちばん》上《うへ》に立《た》つのが守《かみ》、その次《つ》ぎのを介《すけ》といひます。よく武藏守《むさしのかみ》だとか、上野介《かうづけのすけ》だとかいふのはこれです。郡司《ぐんじ》は前《まへ》に申《まを》した通《とほ》り、その地方《ちほう》の有力者《ゆうりよくしや》を任命《にんめい》したもので、まづもつてもとの國造《くにのみやつこ》等《ら》の一族《いちぞく》を取《と》り、代々《だい/\》その職《しよく》をつがしめたのでありますから、これは大體《だいたい》、昔《むかし》のまゝの引《ひ》きつゞきといつてよいのでした。しかし前《まへ》の國造《くにのみやつこ》の時《とき》には、めい/\自分《じぶん》の土地《とち》人民《じんみん》を、自分《じぶん》の勝手《かつて》に治《をさ》めてゐたのでありましたが、今度《こんど》は國家《こつか》の官吏《かんり》として、國家《こつか》の規則《きそく》によつて、國家《こつか》の土地《とち》人民《じんみん》を支配《しはい》することになつたので、大分《だいぶ》性質《せいしつ》は違《ちが》ひます。
この規則《きそく》も、口分田《くぶんでん》が崩《くづ》れたと同《おな》じように、後《のち》には、やはりだん/\崩《くづ》れて參《まゐ》りました。後《のち》の世《よ》に高《こうの》武藏守《むさしのかみ》とか、吉良《きら》上野介《かうづけのすけ》とかいひましても、それはたゞ名前《なまへ》ばかりで、實際《じつさい》にかれ等《ら》は、武藏《むさし》や上野《かうづけ》へ行《い》つて、これを治《をさ》めるのではなくなつてしまつたのです。
三十、朝鮮《ちようせん》半島《はんとう》諸國《しよこく》の離反《りはん》
孝徳《こうとく》天皇《てんのう》が都《みやこ》を難波《なには》におうつしになり、こゝで大化《たいか》の新政《しんせい》は行《おこな》はれましたが、もとの都《みやこ》の飛鳥《あすか》には、有力《ゆうりよく》な大寺《おほてら》も多《おほ》く、また昔《むかし》ながらの漢人《あやびと》等《ら》の勢力《せいりよく》も、やはり大《たい》そう強《つよ》かつたものと見《み》えまして、せっかく出來上《できあが》つたこの難波《なには》の新都《しんと》も、ながくは續《つゞ》かず、都《みやこ》は再《ふたゝ》びもとの飛鳥《あすか》へ戻《もど》ることとなりました。たま/\孝徳《こうとく》天皇《てんのう》がお崩《かく》れになりまして、前《まへ》の皇極《こうぎよく》天皇《てんのう》が、再《ふたゝ》び御位《みくらゐ》にお即《つ》きになりました。これを第三十七代《だいさんじゆうしちだい》齊明《さいめい》天皇《てんのう》と申《まを》し上《あ》げます。中大兄《なかのおほえの》皇子《おうじ》は、引《ひ》き續《つゞ》き皇太子《こうたいし》のまゝで、政治《せいじ》をお輔《たす》けになります。何分《なにぶん》にも世《よ》の中《なか》の立《た》て直《なほ》しといふ、大《おほ》きな爲事《しごと》がありますので、この方《ほう》が、御都合《ごつごう》がおよろしかつたのでありませう。
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この際《さい》、朝鮮《ちようせん》のことについて、面倒《めんどう》な問題《もんだい》が起《おこ》つて參《まゐ》りました。
これより先《さき》朝鮮《ちようせん》では、新羅《しらぎ》がだん/\強《つよ》くなつて、任那《みまな》や百濟《くだら》の方《ほう》へせまつて參《まゐ》ります。すでに欽明《きんめい》天皇《てんのう》の御代《みよ》には、百濟《くだら》の聖明王《せいめいおう》も殺《ころ》されますし、任那《みまな》の諸國《しよこく》は、皆《みな》新羅《しらぎ》の爲《ため》に併合《へいごう》せられて、任那《みまな》の日本府《につぽんふ》も引《ひ》きあげなければならぬようになつてをつたのです。そこで我《わ》が國《くに》からは、たび/\兵隊《へいたい》をさし向《む》けて、百濟《くだら》を助《たす》け、任那《みまな》を再興《さいこう》しようとなされましたけれども、何分《なにぶん》遠方《えんぽう》のことではあり、新羅《しらぎ》の勢《いきほひ》は強《つよ》くて、なか/\思《おも》ふようにはなりませず、朝鮮《ちようせん》は日本《につぽん》に取《と》つて、かなり厄介《やつかい》ものとなつて參《まゐ》りました。
この時《とき》新羅《しらぎ》の爲《ため》に捕虜《ほりよ》になつた兵士《へいし》のうちに、調《つきの》伊企儺《いきな》といふ人《ひと》がありました。なかなか元氣《げんき》の盛《さか》んな人《ひと》で、いくら責《せ》められても、降參《こうさん》致《いた》しません。新羅《しらぎ》の將《しよう》は、いかにもして伊企儺《いきな》を恐《おそ》れ入《い》らさうとして、刀《かたな》を拔《ぬ》いてこれをおびやかし、日本《につぽん》の方《ほう》へ尻《しり》をむけさせて、「日本《につぽん》の將《しよう》我《わ》が尻《しり》を食《くら》へ」といへとせまりましたところが、伊企儺《いきな》はさっそく反對《はんたい》の方《ほう》へ尻《しり》を向《む》けて、「新羅王《しらぎおう》我《わ》が尻《しり》を食《くら》へ」と罵《のゝし》りました。何度《なんど》責《せ》められても、同《おな》じことを繰《く》り返《かへ》すので、とう/\殺《ころ》されたといふ、勇《いさま》しい美談《びだん》も殘《のこ》つてをります。
齊明《さいめい》天皇《てんのう》の御代《みよ》の頃《ころ》になりましては、新羅《しらぎ》の勢《いきほひ》ます/\強《つよ》くなりましたが、この頃《ころ》支那《しな》は、隋《ずい》が亡《ほろ》んで、唐《とう》の代《よ》となり、國《くに》の勢《いきほひ》が大《たい》そう盛《さか》んでありましたので、新羅《しらぎ》はその助《たす》けを借《か》りて、ます/\百濟《くだら》へ逼《せま》つて參《まゐ》ります。そこで皇太子《こうたいし》は、百濟《くだら》をお助《たす》けになる爲《ため》に、齊明《さいめい》天皇《てんのう》のお供《とも》をして、九州《きゆうしゆう》までお出《で》ましになりました。天皇《てんのう》が御婦人《ごふじん》の御身《おんみ》をもつて、殊《こと》に御年《おんとし》六十八《ろくじゆうはち》と申《まを》すような、御高齡《ごこうれい》の御身《おんみ》を以《もつ》て、はる/″\百濟《くだら》をお救《すく》ひにと、九州《きゆうしゆう》までお出《で》ましになりましたことは、昔《むかし》神功《じんぐう》皇后《こうごう》が、御婦人《ごふじん》の御身《おんみ》で、新羅《しらぎ》をお從《したが》へになりました以上《いじよう》の御盛《ごさか》んなことで、天皇《てんのう》の御決心《ごけつしん》の程《ほど》、まことに恐《おそ》れ多《おほ》い次第《しだい》でありましたが、不幸《ふこう》にして天皇《てんのう》は、御病氣《ごびようき》のために、九州《きゆうしゆう》でお崩《かく》れになりました。これが爲《ため》に天皇《てんのう》は、昔《むかし》の神功《じんぐう》皇后《こうごう》のような、花々《はな/″\》しい御成功《ごせいこう》をお收《をさ》めになることが出來《でき》ませんでしたのは、かへす/″\もお痛《いた》はしく、また殘念《ざんねん》な次第《しだい》であります。
天皇《てんのう》崩御《ほうぎよ》の後《のち》、皇太子《こうたいし》は兵隊《へいたい》をおつかはしになつて、百濟《くだら》を助《たす》け、唐《とう》の兵《へい》と度々《たび/\》戰爭《せんそう》がありましたが、何分《なにぶん》にも、相手《あひて》は唐《とう》といふ大國《たいこく》であり、それに新羅《しらぎ》も侮《あなど》り難《がた》い勢《いきほひ》を持《も》つてをります上《うへ》に、この頃《ころ》日本《につぽん》では、大化《たいか》の新政《しんせい》の跡始末《あとしまつ》もしなければならず、また東北《とうほく》の蝦夷《えぞ》の方《ほう》にも、いろ/\事件《じけん》が起《おこ》つてをりまして、力《ちから》を朝鮮《ちようせん》の方《ほう》にのみ、用《もち》ひることが出來《でき》ません。我《わ》が軍《ぐん》つひに利《り》を失《うしな》つて、百濟《くだら》はとう/\滅《ほろ》びてしまひました。皇太子《こうたいし》は時《とき》の勢《いきほひ》をお察《さつ》しになつて、我《わ》が軍《ぐん》を長《なが》く朝鮮《ちようせん》の方《ほう》にのみ勞《つか》れしめるよりも、むしろこの多年《たねん》の厄介《やつかい》ものをお見捨《みす》てになつた方《ほう》が、國《くに》の爲《ため》に利益《りえき》であると思《おぼ》し召《め》され、つひにこれをお引《ひ》きあげになりました。
その後《ご》高麗《こま》も、また唐《とう》の爲《ため》に滅《ほろ》ぼされて、新羅《しらぎ》ばかりが殘《のこ》り、かくて久《ひさ》しく我《わ》が屬國《ぞつこく》となつてをつた朝鮮《ちようせん》半島《はんとう》も、これから全《まつた》く離《はな》れてしまひました。そこで百濟《くだら》の王族《おうぞく》や、臣民《しんみん》等《など》が、大勢《おほぜい》我《わ》が國《くに》に移住《いじゆう》して參《まゐ》りましたが、その中《なか》には、學者《がくしや》を始《はじ》めとして、いろ/\の道《みち》に長《ちよう》じた人々《ひと/″\》が多《おほ》く、かへつて日本《につぽん》の爲《ため》になつたことが、少《すくな》くありませんでした。殊《こと》にその百濟《くだら》王族《おうぞく》の家《いへ》からは、後《のち》に第五十代《だいごじゆうだい》桓武《かんむ》天皇《てんのう》の、御母君《おんはゝぎみ》のようなお方《かた》も御出《おで》ましになりました。
その後《ご》明治《めいじ》四十三年《しじゆうさんねん》に至《いた》り、韓國《かんこく》の併合《へいごう》があり、朝鮮《ちようせん》は日本《につぽん》と一《ひと》つになつてしまひました。これは千二百《せんにひやく》五十年《ごじゆうねん》ばかり前《まへ》に、一旦《いつたん》離《はな》れたこの朝鮮《ちようせん》が、本通《もとどほ》りになつたものでありまして、神功《じんぐう》皇后《こうごう》の古《いにしへ》に返《かへ》つたと、申《まを》してよろしいのであります。
しかし、何《なに》しろ約《やく》千二百《せんにひやく》五十年《ごじゆうねん》といふ、長《なが》い年月《としつき》の間《あひだ》、別《べつ》の國《くに》になつてをつたものですから、朝鮮人《ちようせんじん》といへば、なんだか内地人《ないちじん》とは、違《ちが》つた民族《みんぞく》のように考《かんが》へるものもありませう。が、前《まへ》に繰《く》り返《かへ》し述《の》べましたように、朝鮮人《ちようせんじん》といつたとて、人種《じんしゆ》の上《うへ》で、日本《やまと》民族《みんぞく》とさう區別《くべつ》があるものでなく、現《げん》に神功《じんぐう》皇后《こうごう》の御母君《おんはゝぎみ》は、新羅《しらぎ》の王子《おうじ》だといはれた天日槍《あめのひぼこ》の御子孫《ごしそん》であり、桓武《かんむ》天皇《てんのう》の御母君《おんはゝぎみ》も、百濟《くだら》王家《おうけ》のお方《かた》でおはしたと申《まを》す程《ほど》で、恐《おそ》れ多《おほ》くも皇室《こうしつ》の御血《おんち》の中《なか》にまで、朝鮮人《ちようせんじん》の血《ち》は流《なが》れてゐるのであります。その朝鮮《ちようせん》が併合《へいごう》によつて、日本《につぽん》の一部《いちぶ》となりましたのは、久《ひさ》しく家出《いへで》してゐた家族《かぞく》が、久《ひさ》し振《ぶ》りに、暖《あたゝか》い家庭《かてい》へ戻《もど》つて來《き》たようなものであります。
(つづく)
底本:
1981(昭和56)年6月20日発行
親本:
1928(昭和3)年4月5日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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*地名
(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。- [朝鮮]
- 朝鮮半島 ちょうせん はんとう アジア大陸の東部にある半島。黄海と日本海とをわける。朝鮮海峡を隔てて日本と対する。
- 大同江 だいどうこう/テドンガン (Taedong-gang) 朝鮮半島北西部、平安南道の大河。慈江道・咸鏡南道境の小白山に発源、平壌市街を貫流して黄海に注ぐ。長さ約430km。
- 楽浪 らくろう 前108年、前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして今の平壌付近に置いた郡。後漢末の204年頃、楽浪郡を支配した公孫康はその南半を割いて帯方郡を設置。313年高句麗に滅ぼされた。遺跡は墳墓・土城・碑などを主とし、古墳群からは漢代の文化を示す貴重な遺物を出土。なお、楽浪の位置を中国の遼河付近とする説もある。
- 帯方 たいほう 古代朝鮮に置かれた中国の郡名。後漢末、遼東太守の公孫康が楽浪郡を領有、204年頃、その南半部を割いて帯方郡を分置。313年まで存続。今の黄海南道・黄海北道を中心とする地方と推定されるが、中国の遼河付近とする説もある。
- 百済 くだら (クダラは日本での称) (1) 古代朝鮮の国名。三国の一つ。4〜7世紀、朝鮮半島の南西部に拠った国。4世紀半ば馬韓の1国から勢力を拡大、371年漢山城に都した。後、泗�(しひ)城(現、忠清南道扶余)に遷都。その王室は中国東北部から移った扶余族といわれる。高句麗・新羅に対抗するため倭・大和王朝と提携する一方、儒教・仏教を大和王朝に伝えた。唐・新羅の連合軍に破れ、660年31代で滅亡。ひゃくさい。はくさい。
( 〜660)(2) (1) などからの渡来人の居住した土地の名。(ア) 奈良県北葛城郡広陵町の一地区。(イ) 大阪市生野区鶴橋付近の地。百済王氏の氏寺があったという。 - 新羅 しらぎ (古くはシラキ)古代朝鮮の国名。三国の一つ。前57年頃、慶州の地に赫居世が建てた斯盧国に始まり、4世紀、辰韓諸部を統一して新羅と号した。6世紀以降伽�(加羅)諸国を滅ぼし、また唐と結んで百済・高句麗を征服、668年朝鮮全土を統一。さらに唐の勢力を半島より駆逐。935年、56代で高麗の王建に滅ぼされた。中国から取り入れた儒教・仏教・律令制などを独自に発展させ、日本への文化的・社会的影響大。しんら。
(356〜935) - 高麗 こま/こうらい (1) (ア) 朝鮮の王朝の一つ。王建が918年王位につき建国、936年半島を統一。都は開城(旧名、松岳・松都)。仏教を国教とし、建築・美術も栄え、後期には元に服属、34代で李成桂に滅ぼされた。
(918〜1392)(イ) 高句麗。また、一般に朝鮮の称。 - 秦韓 しんかん → 辰韓
- 辰韓 しんかん 古代朝鮮の三韓の一つ。漢江以南、今の慶尚北道東北部にあった部族国家(3世紀ごろ12国に分立)の総称。この中の斯盧によって統合され、356年、新羅となった。
- 任那 みまな 4〜6世紀頃、朝鮮半島の南部にあった伽耶諸国の日本での呼称。実際には同諸国のうちの金官国(現、慶尚南道金海)の別称だったが、日本書紀では4世紀後半に大和政権の支配下に入り、日本府という軍政府を置いたとされる。この任那日本府については定説がないが、伽耶諸国と同盟を結んだ倭・大和政権の使節団を指すものと考えられる。にんな。
- 三韓 さんかん (1) 古代朝鮮南半部に拠った馬韓・辰韓・弁韓の総称。それぞれが数十の部族国家に分かれていた。(2) 新羅・百済・高句麗の総称。
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- [日本]
- 百済郡 くだらごおり 百済などからの渡来人の居住した土地の名。(ア) 奈良県北葛城郡広陵町の一地区。(イ) 大阪市生野区鶴橋付近の地。百済王氏の氏寺があったという。
- 新羅郡 しらぎごおり
- 高麗郡 こまごおり/こまぐん 武蔵国中央部にあった郡。現在の埼玉県飯能市・鶴ヶ島市・日高市・狭山市などにあたる。716(霊亀2)駿河国など7国の高麗人7000余人を移して高麗郡をたてた。1896(明治29)入間郡に合併して郡名消失。
(日本史) - [上野] こうづけ/こうずけ (カミツケノ(上毛野)の略カミツケの転) 旧国名。今の群馬県。上州。
- [武蔵] むさし (古くはムザシ) 旧国名。大部分は今の東京都・埼玉県、一部は神奈川県に属する。武州。
- [山城] やましろ 山城・山背。旧国名。五畿の一つ。今の京都府の南部。山州。城州。雍州。
- [大和] やまと 大和・倭。(
「山処(やまと) 」の意か) 旧国名。今の奈良県の管轄。もと、天理市付近の地名から起こる。初め「倭」と書いたが、元明天皇のとき国名に2字を用いることが定められ、 「倭」に通じる「和」に「大」の字を冠して大和とし、また「大倭」とも書いた。和州。 - 高市郡 たかいちごおり/たけち (現在はタカイチ) 奈良県中部の郡。巨勢・桧前・久米など7郷に分かれていた。石舞台・高松塚などの古墳、飛鳥寺・川原寺などの古寺があり、板蓋宮・浄御原宮などの宮趾がある。
- 飛鳥 あすか 明日香。奈良盆地南部の一地方。畝傍山および香具山付近以南の飛鳥川流域の小盆地。推古天皇以後百余年間にわたって断続的に宮殿が造営された。
- 法興寺 ほうこうじ 飛鳥寺の別称。
- 飛鳥寺 あすかでら 奈良県高市郡明日香村にあった寺。現在は旧地に飛鳥大仏を本尊とする真言宗の安居院がある。596年、蘇我馬子が創建した日本最初の本格的寺院。法興寺ともいい、718年(養老2)平城京に移して元興寺と称して後は、本元興寺とも呼ばれた。
- 大和平野 やまと へいや
- 島庄 しまのしょう 現、奈良県明日香村。飛鳥川上流右岸一帯は、古代から島とよばれ、島大臣とよばれた蘇我馬子の邸宅や中大兄皇子の宮殿、天武天皇・草壁皇子の島宮などがあった。
(日本史) - 石舞台 いしぶたい → 石舞台古墳
- 石舞台古墳 いしぶたい こふん 奈良県高市郡明日香村島庄にある7世紀の古墳。巨大な横穴式石室が露出。方墳または上円下方墳とされる。一説に蘇我馬子の墓。
- 葛城郡 かつらきごおり
- 葛城 かつらぎ (古くはカヅラキ) 奈良県御所市・葛城市ほか奈良盆地南西部一帯の古地名。
- 谷宮門 はざまのみかど
- 大極殿 だいごくでん (ダイギョクデンとも) 古代、大内裏の朝堂院(八省院)の北部中央にあった正殿。殿内中央に高御座を置く。ここで天皇が政務を執り、または賀正・即位などの大礼を行なった。平安京のは東西11間、南北4間。碧瓦で棟の両端に金銅の鵄尾があり、前方の東西に蒼竜・白虎の二楼を置く。丹楹粉壁。1177年(治承1)焼失、再び造営されなかった。旧称、大安殿。
- 鳥見 とみ 登美・鳥見・迹見。鳥見山に同じ。
- 鳥見山 とみやま 奈良県桜井市にある丘陵。高さ245m。神武天皇関係の伝承がある。とみのやま。
- [河内] かわち (古くカフチとも) 旧国名。五畿の一つ。今の大阪府の東部。河州。
- [難波] なにわ 難波・浪速・浪花。(一説に「魚(な)庭(にわ)
」の意という) 大阪市およびその付近の古称。 - 四天王寺 してんのうじ 大阪市天王寺区にある和宗の総本山。山号は荒陵山。聖徳太子の建立と伝え、623年頃までに成立。奈良時代には五大寺に次ぐ地位にあり、平安時代には極楽の東門とされて信仰を集めた。伽藍配置は塔・金堂・講堂を中心線上に並べた、四天王寺式と称する古制を示す。堂宇は幾度も焼失したが、第二次大戦後、飛鳥様式に復原建造。扇面法華経冊子などを所蔵。荒陵寺。難波寺。御津寺。堀江寺。天王寺。
- [和泉] いずみ (
「和泉」は713年(和銅6)の詔により2字にしたもので、 「和」は読まない) 旧国名。五畿の一つ。今の大阪府の南部。泉州。 - [摂津] せっつ 旧国名。五畿の一つ。一部は今の大阪府、一部は兵庫県に属する。摂州。津国(つのくに)。
- [筑紫] つくし 九州の古称。また、筑前(ちくぜん)
・筑後を指す。 - -----------------------------------
- [中国]
- 呉 くれ (1) 中国南北朝時代の南朝およびその支配した江南の地域を日本でいう称。また、広く中国の称。
- しな 支那 (
「秦(しん) 」の転訛) 外国人の中国に対する呼称。初めインドの仏典に現れ、日本では江戸中期以来第二次大戦末まで用いられた。戦後は「支那」の表記を避けて多く「シナ」と書く。 - -----------------------------------
- [インド]
- 新羅 しらぎ (古くはシラキ)古代朝鮮の国名。三国の一つ。前57年頃、慶州の地に赫居世が建てた斯盧国に始まり、4世紀、辰韓諸部を統一して新羅と号した。6世紀以降伽�(加羅)諸国を滅ぼし、また唐と結んで百済・高句麗を征服、668年朝鮮全土を統一。さらに唐の勢力を半島より駆逐。935年、56代で高麗の王建に滅ぼされた。中国から取り入れた儒教・仏教・律令制などを独自に発展させ、日本への文化的・社会的影響大。しんら。
◇参照:Wikipedia、
*年表
- 漢 かん 秦につづく統一王朝。前漢(西漢)
・後漢(東漢)に分ける。 - 魏 ぎ (1) 中国古代、戦国七雄の一つ。晋の六卿の一人、魏斯(文侯)が、韓・趙とともに晋を分割し、安邑に都した。のち大梁(河南開封)に遷る。山西の南部から陝西の東部および河南の北部を占めた。後に秦に滅ぼされた。
(前403〜前225)(2) 中国、三国時代の国名。後漢の末、198年曹操が献帝を奉じて天下の実権を握って魏王となり、その子丕に至って帝位についた。都は洛陽。江北の地を領有。5世で晋に禅る。曹魏。 (220〜265) - 隋 ずい 中国の王朝の一つ。北周の武将の楊堅(文帝)が静帝の禅譲を受けて建てた。都は大興(長安)。陳を併せて南北を統一(589年)
、中央集権的帝国を樹立したが、2世煬帝の末から乱れ、3世で滅んだ。律令・科挙などその諸制度は唐制の基礎となり、また、日本と国交を結んだ。 (581〜619) - 磐井の乱 いわいのらん 6世紀前半、継体天皇の時代に、筑紫国造磐井(石井)が北九州に起こした叛乱。大和政権の朝鮮経営の失敗によって、負担の大きくなった北九州地方の不満を代表したものと見られ、新羅と通謀したともいう。物部氏らによって平定。
- 大化 たいか 孝徳天皇朝の年号。公的に採用された年号としては日本最初。皇極天皇4年6月19日(645年7月17日)建元、大化6年2月15日(650年3月22日)白雉に改元。
- 大化の新政 たいかの しんせい → 大化改新
- 大化改新 たいかの かいしん 大化元年(645)夏、中大兄皇子(のちの天智天皇)を中心に、中臣(藤原)鎌足ら革新的な豪族が蘇我大臣家を滅ぼして開始した古代政治史上の大改革。孝徳天皇を立て都を難波に移し、翌春、私有地・私有民の廃止、国・郡・里制による地方行政権の中央集中、戸籍の作成や耕地の調査による班田収授法の実施、調・庸など税制の統一、の4綱目から成る改新の詔を公布、古代東アジア的な中央集権国家成立の出発点となった。しかし、律令国家の形成には、壬申の乱(672年)後の天武・持統朝の改革が必要であった。大化新政。大化革新。
- 韓国併合 かんこく へいごう 朝鮮支配を企図した日本が、1904年(明治37)以降韓国(正式には大韓帝国)の内政・外交権を次第に掌握した末、韓国併合条約により韓国を領有したこと。
- 魏 ぎ (1) 中国古代、戦国七雄の一つ。晋の六卿の一人、魏斯(文侯)が、韓・趙とともに晋を分割し、安邑に都した。のち大梁(河南開封)に遷る。山西の南部から陝西の東部および河南の北部を占めた。後に秦に滅ぼされた。
◇参照:Wikipedia、
*人物一覧
(人名、および組織・団体名・神名)- 応神天皇 おうじん てんのう 記紀に記された天皇。5世紀前後に比定。名は誉田別。仲哀天皇の第4皇子。母は神功皇后とされるが、天皇の誕生については伝説的な色彩が濃い。倭の五王のうち「讃」にあてる説がある。異称、胎中天皇。
- 阿知使主 あちのおみ 応神天皇の時の渡来人。後漢の霊帝の曾孫ともいう。のち呉に使して織女・縫女を連れ帰ったと伝えられる。古代の最も有力な渡来人の一族、東漢直の祖という。
- 弓月君 ゆつきのきみ/ゆづきのきみ 秦氏の祖とされる伝説上の人物。秦の始皇帝の子孫で、百済に移住していた秦人・漢人から成る127県の民を率いて応神朝に来朝したという。融通王。
- 都加使主 つかのおみ 東漢掬とも。生没年不詳。東漢氏の祖阿知使主の子とされる渡来人。紀の応神20年9月条に父とともに党類17県を率いて渡来、同37年2月条には縫工女を求め父と呉(くれ、中国の江南地方)に派遣されたとある。雄略7年詔により今来才伎を上桃原・下桃原・真神原に遷居させ、同23年8月天皇の遺詔に従い、皇太子(清寧天皇)を奉じ星川皇子を滅ぼした。雄略朝頃の人だが、東漢氏発展の基礎を築いたため渡来伝承に盛り込まれたか。
(日本史) - 王仁 わに 古代、百済からの渡来人。漢の高祖の裔で、応神天皇の時に来朝し、
「論語」10巻、 「千字文」1巻をもたらしたという。和邇吉師。 - 雄略天皇 ゆうりゃく てんのう 記紀に記された5世紀後半の天皇。允恭天皇の第5皇子。名は大泊瀬幼武。対立する皇位継承候補を一掃して即位。478年中国へ遣使した倭王「武」、また辛亥(471年か)の銘のある埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣に見える「獲加多支鹵大王」に比定される。
- 檜隈博徳 ひのくま はかとこ → 檜隈民使博徳
- 檜隈民使博徳 ひのくまの たみのつかい はかとこ 雄略天皇に寵愛された東漢氏配下の渡来人。雄略8年、身狭村主青(むさのすぐりあお)とともに呉(くれ)に派遣され、10年、呉から鵞鳥を持ち帰ったが、筑紫の水間君の犬に食われた。12年にも派遣され、14年に手末才伎の漢織・呉織や衣縫の兄媛・弟媛を連れ帰ったという。
(日本史) - 身狭青 むさの あお 雄略天皇の寵愛された東漢(やまとのあや)氏配下の渡来人。身狭は大和国高市郡の地名で、史部として朝廷の記録・外交を担当。姓は村主(すぐり)。雄略8年、檜隈民使博徳とともに呉に派遣され、同10年に呉から鵞鳥を持ち帰る。同12年にも呉に派遣され、同14年に手末才伎の漢織・呉織や衣縫の兄媛・弟媛を連れ帰ったという。
(日本史) - 推古天皇 すいこ てんのう 554-628 記紀に記された6世紀末・7世紀初の天皇。最初の女帝。欽明天皇の第3皇女。母は堅塩媛(蘇我稲目の娘)。名は豊御食炊屋姫。また、額田部皇女。敏達天皇の皇后。崇峻天皇暗殺の後を受けて大和国の豊浦宮で即位。後に同国の小墾田宮に遷る。聖徳太子を摂政とし、冠位十二階の制定、十七条憲法の発布などを行う。
(在位592〜628) - 聖徳太子 しょうとく たいし 574-622 用明天皇の皇子。母は穴穂部間人皇后。名は厩戸。厩戸王・豊聡耳皇子・法大王・上宮太子とも称される。内外の学問に通じ、深く仏教に帰依。推古天皇の即位とともに皇太子となり、摂政として政治を行い、冠位十二階・憲法十七条を制定、遣隋使を派遣、また仏教興隆に力を尽くし、多くの寺院を建立、
「三経義疏」を著すと伝える。なお、その事績とされるものには、伝説が多く含まれる。 - 中臣氏 なかとみうじ 古代の氏族。天児屋根命の子孫と称し、朝廷の祭祀を担当。はじめ中臣連、後に中臣朝臣、さらに大中臣朝臣となる。なお、中臣鎌足は藤原と賜姓され、その子孫は中臣氏と分かれて藤原氏となった。
- 忌部氏 いんべうじ 斎部・忌部。(1) 古代の氏族の一つ。朝廷の祭祀に奉仕。伝承上の祖は天太玉命。姓は連・首など。連は天武天皇のときに宿祢に昇格。(2) 斎部氏の率いる品部。出雲・紀伊などに分布。
- 大伴氏 おおともうじ 姓氏の一つ。古代の豪族。来目部・靫負部・佐伯部などを率いて大和政権に仕え、大連となるものがあった。のち伴氏。
- 物部氏 もののべうじ 古代の大豪族。姓は連。饒速日命の子孫と称し、天皇の親衛軍を率い、連姓諸氏の中では大伴氏と共に最有力となって、族長は代々大連に就任したが、6世紀半ば仏教受容に反対、大連の守屋は大臣の蘇我馬子および皇族らの連合軍と戦って敗死。律令時代には、一族の石上・榎井氏らが朝廷に復帰。
- 崇神天皇 すじん てんのう 記紀伝承上の天皇。開化天皇の第2皇子。名は御間城入彦五十瓊殖。
- 神功皇后 じんぐう こうごう 仲哀天皇の皇后。名は息長足媛。開化天皇第5世の孫、息長宿祢王の女。天皇とともに熊襲征服に向かい、天皇が香椎宮で死去した後、新羅を攻略して凱旋し、誉田別皇子(応神天皇)を筑紫で出産、摂政70年にして没。
(記紀伝承による) - 武内宿祢 たけうちの すくね 大和政権の初期に活躍したという記紀伝承上の人物。孝元天皇の曾孫(一説に孫)で、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5朝に仕え、偉功があったという。その子孫と称するものに葛城・巨勢・平群・紀・蘇我の諸氏がある。
- 孝元天皇 こうげん てんのう 記紀伝承上の天皇。孝霊天皇の第1皇子。名は大日本根子彦国牽。
- 久米氏 くめうじ 久米(来目)部の伴造氏族。姓は直。紀では大伴氏の遠祖天忍日命が来目部の遠祖天�津大来目を率いて天降ったとあるが、記では久米氏と大伴氏とを対等にあつかい、ともに靫・太刀・弓矢をもって降臨に供奉したことになっている。また神武東征説話にみえる久米歌や、後世の戦闘歌舞である久米舞などは、久米氏や久米部の軍事氏族としての性格をあらわしている。
(日本史) - 久米部 くめべ 来目部。大和政権の親衛軍の一つ。神話・伝説に活躍の様が描かれる。統率者は久米氏、のち大伴氏。おおくめべ。
- 饒速日命 にぎはやびのみこと 記紀神話で、天孫降臨に先だち天より降り、長髄彦の妹三炊屋姫を妃としたが、神武天皇東征の時、長髄彦を誅して天皇に帰順したという。物部氏の始祖と伝える。
- 佐伯部 さえきべ/さえぎべ 大化前代の部。捕虜にした蝦夷を編成した部とされ、宮廷警衛、大王・皇族の護衛など軍事的な面で奉仕した。
『日本書紀』景行天皇51年条には、日本武尊が伊勢神宮に献じた蝦夷が播磨・讃岐・伊予( 「新撰姓氏録」では伊勢) ・安芸・阿波の五か国に移され、佐伯部の祖となったと記される。 (日本史) - 蘇我氏 そがうじ 古代の有力豪族。祖は武内宿祢といわれ、大和国高市郡曾我を本拠とする。7世紀末から嫡流は石川朝臣と称した。
- 仁徳天皇 にんとく てんのう 記紀に記された5世紀前半の天皇。応神天皇の第4皇子。名は大鷦鷯。難波に都した最初の天皇。租税を3年間免除したなどの聖帝伝承がある。倭の五王のうちの「讃」または「珍」とする説がある。
- 蘇我稲目 そがの いなめ ?-570 飛鳥時代の豪族。宣化・欽明両朝の大臣。物部尾輿と対立して、仏教受容を主張、仏像を向原の家に安置して向原寺(後の豊浦寺)としたという。
- 蘇我馬子 そがの うまこ ?-626 飛鳥時代の豪族。稲目の子。敏達天皇以下4代の大臣。仏法興隆に尽力。一方、物部守屋を討滅、また、崇峻天皇を暗殺。
- 蘇我蝦夷 そがの えみし ?-645 飛鳥時代の豪族。馬子の子。推古・舒明・皇極3代の大臣。自分の墓を陵と称し、子の入鹿に紫冠を授けて大臣に擬したといわれる。入鹿が討たれた時、自邸を焼いて自刃。
- 継体天皇 けいたい てんのう 記紀に記された6世紀前半の天皇。彦主人王の第1王子。応神天皇の5代の孫という。名は男大迹。
- 物部麁鹿火 もののべの あらかい 物部荒甲(記)。大連。武烈天皇の死後、継体天皇の擁立を働きかけ、その即位後に大伴金村と共に再び大連に任ぜられる。
- 磐井 いわい → 筑紫君磐井
- 筑紫君磐井 つくしのきみ いわい ?-528? 古墳時代末の九州の豪族。
『日本書紀』によれば朝鮮半島南部の任那へ渡航しようとするヤマト政権軍をはばむ磐井の乱を起こし、物部麁鹿火によって討たれたとされる。 - 大伴金村 おおともの かなむら 大和政権時代の豪族。武烈天皇から欽明天皇に至る5代の間、大連として権勢を張ったが対朝鮮政策につまずいて失脚。生没年未詳。
- 欽明天皇 きんめい てんのう ?-571 記紀に記された6世紀中頃の天皇。継体天皇の第4皇子。名は天国排開広庭。即位は539年(一説に531年)という。日本書紀によれば天皇の13年(552年、上宮聖徳法王帝説によれば538年)
、百済の聖明王が使を遣わして仏典・仏像を献じ、日本の朝廷に初めて仏教が渡来(仏教の公伝)。 (在位 〜571) - 聖明王 せいめいおう ?-554 百済第26代の王。538年(一説に552年)
、欽明天皇の時、釈迦仏金銅像・経論などを送り、仏教を伝えたとされる。後に新羅と戦って敗死。聖王。 (在位523〜554) - 物部尾輿 もののべの おこし 欽明天皇朝の大連。任那に対する政策をめぐって大連大伴金村を失脚させ、また日本に仏教伝来の際は蘇我稲目に反対し、排仏を主張したという。生没年未詳。
- 中臣勝海 なかとみの かつみ ?-587 6世紀後半の廷臣。系譜不明。敏達14年2月、蘇我馬子は塔を築いて仏舎利を納めたところ病を得、さらに仏像を礼拝したが疫病が流行。翌月、勝海は物部守屋とともに馬子の仏法崇拝が疫病流行の原因だと奏上。用明2年天皇の病に際し、嵩仏をめぐり馬子と守屋が再び対立。勝海ははじめ守屋側についたが、押坂彦人(おしさかひこひと)皇子を訪ねた帰途、舎人(とねり)の迹見赤檮(とみのいちい)に殺された。
(日本史) - 物部守屋 もののべの もりや ?-587 敏達・用明天皇朝の大連。尾輿の子。仏教を排斥して蘇我氏と争い、塔を壊し仏像を焼く。用明天皇の没後、穴穂部皇子を奉じて兵を挙げたが、蘇我氏のために滅ぼされた。
- 用明天皇 ようめい てんのう ?-587 記紀に記された6世紀末の天皇。欽明天皇の第4皇子。聖徳太子の父。皇后は穴穂部間人皇女。名は橘豊日。皇居は大和国磐余の池辺双槻宮。在位中は蘇我馬子と物部守屋が激しく対立。
(在位585〜587) - 崇峻天皇 すしゅん てんのう ?-592 記紀に記された6世紀末の天皇。欽明天皇の皇子。名は泊瀬部。皇居は大和国倉梯の柴垣宮。蘇我馬子の専横を憤り、これを倒そうとして、かえって馬子のために暗殺された。
(在位587〜592) - 恵慈 えじ 慧慈。高句麗の僧。595年来日。法興寺に住し、聖徳太子の師となる。615年帰国。
- 覚�B かくか 生没年不詳。聖徳太子の師。太子は外典(仏教以外の書籍)を博士覚�Bに学んだとされるが、詳細は不明。五経博士の一人か。
「聖徳太子伝暦」は学架と記す。13世紀前半成立の「聖徳太子伝仏記」には「五徳博士学呵」とあり、物部守屋との交戦にも参加したとするが、伝承である。 (日本史) - 小野妹子 おのの いもこ 飛鳥時代の官人。遣隋使となり607年隋に渡り、翌年隋使の裴世清とともに帰国。同年隋使・留学僧らとともに再び隋に赴く。隋では蘇因高と称した。609年帰国。墓誌の出土した毛人の父。生没年未詳。
- 中大兄皇子 なかのおおえの おうじ 天智天皇の名。
- 天智天皇 てんじ てんのう 626-671 7世紀中頃の天皇。舒明天皇の第2皇子。名は天命開別、また葛城・中大兄。中臣鎌足と図って蘇我氏を滅ぼし、ついで皇太子として大化改新を断行。661年、母斉明天皇の没後、称制。667年、近江国滋賀の大津宮に遷り、翌年即位。庚午年籍を作り、近江令を制定して内政を整えた。
(在位668〜671) - 竹田皇子 たけだの おうじ 竹田王。別名、オカイの王。敏達天皇の子。母は豊御食炊屋比売命。紀では物部守屋の討伐軍に加わっている。
(神名) - 堅塩媛 きたしひめ 蘇我堅塩媛。生没年不詳。飛鳥時代の皇妃。欽明天皇の妃。用明天皇、推古天皇の母。父は蘇我稲目。姉妹に同じく欽明天皇の妃になった蘇我小姉君、弟に蘇我馬子がいる。
- 皇極天皇 こうぎょく てんのう 594-661 7世紀前半の女帝。茅渟王の第1王女。舒明天皇の皇后。天智・天武天皇の母。名は天豊財重日足姫、また宝皇女。皇居は飛鳥の板蓋宮。孝徳天皇に譲位。のち重祚して斉明天皇。
(在位642〜645) - 山背大兄王 やましろの おおえのおう ?-643 聖徳太子の子。母は蘇我馬子の女。皇位継承の有力候補だったが、蘇我蝦夷は王を退け、舒明天皇を立てた。643年蘇我入鹿の兵に攻められ、斑鳩寺で一族とともに自殺。
- 中臣鎌足 なかとみの かまたり → 藤原鎌足
- 藤原鎌足 ふじわらの かまたり 614-669 藤原氏の祖。はじめ中臣氏。鎌子という。中大兄皇子をたすけて蘇我大臣家を滅ぼし、大化改新に大功をたて、内臣に任じられた。天智天皇の時、大織冠。談山神社に祀る。中臣鎌足。
- 舒明天皇 じょめい てんのう 593-641 飛鳥時代の天皇。押坂彦人大兄皇子(敏達天皇の皇子)の第1王子。名は息長足日広額、また田村皇子。皇居は大和国飛鳥の岡本宮。
(在位629〜641) - 南淵請安 みなぶちの せいあん/しょうあん 飛鳥時代の学問僧。608年隋に渡り、640年帰国。中大兄皇子・中臣鎌足らに儒学を授けた。生没年未詳。
- 敏達天皇 びだつ てんのう 538-585 記紀に記された6世紀後半の天皇。欽明天皇の第2皇子。名は訳語田渟中倉太珠敷。
(在位572〜585) - 軽皇子 かるのおうじ → 孝徳天皇
- 孝徳天皇 こうとく てんのう 596?-654 7世紀中頃の天皇。茅渟王の第1王子。名は天万豊日、また軽皇子。大化改新を行う。皇居は飛鳥より難波長柄豊碕宮に移す。
(在位645〜654) - 高武蔵守 こうの むさしのかみ
- 吉良上野介 きら こうづけのすけ/こうずけのすけ 吉良義央の通称。
- 吉良義央 きら よしなか 1641-1702 (義央はヨシヒサとも) 江戸中期の幕臣。高家として幕府の典礼・儀式を司る。通称、上野介。1701年(元禄14)勅使接待役浅野長矩に江戸城殿中で斬りつけられ、負傷し辞職。翌年長矩の遺臣大石良雄らに殺された。
- 斉明天皇 さいめい てんのう 594-661 7世紀中頃の天皇。皇極天皇の重祚。孝徳天皇の没後、飛鳥の板蓋宮で即位。翌年飛鳥の岡本宮に移る。百済救援のため筑紫の朝倉宮に移り、その地に没す。
(在位655〜661) - 調伊企儺 つきの いきな ?-562 6世紀の武将。吉士(きし)姓。紀によれば、新羅征討軍として派遣されたが、欽明23年7月、川辺瓊缶(かわべのにえ)の失策で妻の大葉子(おおばこ)とともに捕虜となった。新羅の将に降伏せず、殺されたという。
(日本史) - 百済王族 くだらおうぞく → 百済王氏、百済氏
- 百済王氏 くだらのこにきしうじ 「くだらのこきし」とも(古代朝鮮語)。百済最後の国王義慈王の皇子善光(ぜんこう)王を祖とする氏族。旧姓余(よ)。舒明朝に兄豊璋(ほうしょう)とともに日本に渡った善光は、百済の滅亡、白村江の戦ののちも残留し、百済王と称され諸蕃賓客として遇されたが、持統朝に百済王姓を賜与され、内化民とされた。8〜9世紀前半には朝堂において重要な位置を占め、聖武天皇の寵臣であった敬福(きょうふく)のほか、衛府や出羽・陸奥国司など軍事関係の要職に就いた者も多い。桓武・嵯峨両朝には後宮にも勢力をもった。そのほか百済系氏族の宗家的役割もはたしていたと考えられる。系図として「百済王三松氏系図」が存在するが、史料的には疑問もある。
(日本史) - 百済氏 くだらうじ 百済を氏名とする氏族。いずれも百済系と考えられる。姓には王(こにきし)
・朝臣(あそん) ・宿祢(すくね) ・公(きみ) ・造(みやつこ) ・伎(てひと)などがあり、無姓も多い。また百済安宿(あすかべ)公などの複姓もある。王姓は善光王の子孫。8〜9世紀の賜姓記事によれば、朝臣姓は百済王族の子孫と考えられる余(よ)氏に、公姓は余氏のほか鬼室(きしつ) ・百済部氏に、宿祢姓は余・飛鳥戸(あすかべ)造氏に与えられている。なお864(貞観6)には百済宿祢有世が御春(みはる)朝臣に改姓した。以上の姓には上中級官人・高級技術者が多い。造姓は683(天武12)連(むらじ)姓を賜った。伎姓は大蔵省や内蔵寮にみられる百済手部(くだらのてひとべ) ・百済戸との関係が想定される。無姓は正倉院文書などに舎人・校生として散見されるほか、養老律令編者の一人百済人成(ひとなり) (のち山田白金と改名)もいる。 (日本史) - 桓武天皇 かんむ てんのう 737-806 奈良後期〜平安初期の天皇。柏原天皇とも。光仁天皇の第1皇子。母は高野新笠。名は山部。坂上田村麻呂を征夷大将軍として東北に派遣、794年(延暦13)都を山城国宇太に遷した(平安京)。
(在位781〜806) - 天日槍 あめのひぼこ 天之日矛。記紀説話中に新羅の王子で、垂仁朝に日本に渡来し、兵庫県の出石にとどまったという人。風土記説話では、国占拠の争いをする神。
- 王仁 わに 古代、百済からの渡来人。漢の高祖の裔で、応神天皇の時に来朝し、
◇参照:Wikipedia、
*書籍
(書名、雑誌名、論文名、映画・能・狂言・謡曲などの作品名)- 『憲法十七条』 けんぽう じゅうしちじょう 604年、聖徳太子制定とされる17カ条の道徳的規範。官人への訓戒で、和の精神を基とし、儒・仏の思想を調和し、君臣の道および諸人の則るべき道徳を示したもの。十七条憲法。
- 『古事記』 こじき 現存する日本最古の歴史書。3巻。稗田阿礼が天武天皇の勅により誦習した帝紀および先代の旧辞を、太安万侶が元明天皇の勅により撰録して712年(和銅5)献上。上巻は天地開闢から鵜葺草葺不合命まで、中巻は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までの記事を収め、神話・伝説と多数の歌謡とを含みながら、天皇を中心とする日本の統一の由来を物語る。ふることぶみ。
- 『日本書紀』 にほん しょき 六国史の一つ。奈良時代に完成した日本最古の勅撰の正史。神代から持統天皇までの朝廷に伝わった神話・伝説・記録などを修飾の多い漢文で記述した編年体の史書。30巻。720年(養老4)舎人親王らの撰。日本紀。
◇参照:
*難字、求めよ
- 漢人 あやびと/あやひと (1) 古代の渡来系氏族。東漢直の祖阿知使主に率いられて渡来したと称する。東漢氏の配下にあって、錦・綾の生産、武具・革具などの手工業を職とした。(2) 古代の中国系と称する渡来人の通称。
- 秦人 はたびと → 秦
- 秦 はた (古くはハダ) 姓氏の一つ。古代の渡来系の氏族。応神天皇のとき渡来した弓月君の子孫と称するが、確かではない。5世紀後半頃より、伴造として多数の秦部を管理し、織物の生産などにたずさわった。
- 文氏 ふみうじ → (1) 河内の文氏。(2) 大和の文氏。
- 河内の文氏 かわちの ふみうじ 西文氏。古代の渡来系氏族。河内国古市郡に住む。主に文筆・記録で朝廷に仕え、首の姓を称した。王仁の子孫と伝える。
- 大和の文氏 やまとのふみうじ 東文氏。倭書氏・倭漢文(書)氏とも。応神朝に来朝したと伝える阿知使主を祖とする渡来系氏族。東漢氏の同族。姓ははじめ直、685年(天武14)6月に忌寸を賜ったと推定され、785年(延暦4)6月には宿祢に改姓。
「古語拾遺」は雄略朝に西(かわち)文氏とともに三蔵の簿を勘録したと伝える。令制でも両文氏は東西史部と並称され、その子は大学入学の有資格者となった。 (日本史) - 忠良 ちゅうりょう 忠義の心厚く善良なこと。また、その人。
- 四道将軍 しどう しょうぐん 記紀伝承で、崇神天皇の時、四方の征討に派遣されたという将軍。北陸は大彦命、東海は武渟川別命、西道(山陽)は吉備津彦命、丹波(山陰)は丹波道主命。古事記は西道を欠く。
- 国造 くにのみやつこ (
「国の御奴」の意) 古代の世襲の地方官。ほぼ1郡を領し、大化改新以後は多く郡司となった。大化改新後も1国一人ずつ残された国造は、祭祀に関与し、行政には無関係の世襲の職とされた。 - 県主 あがたぬし 大和時代の県の支配者。後に姓の一つとなった。
- 熊襲 くまそ 記紀伝説に見える九州南部の地名、またそこに居住した種族。肥後の球磨と大隅の贈於か。日本武尊の征討伝説で著名。
- 近衛 このえ (コンヱの転。皇居に近く伺候して警衛する意) 近衛府・近衛師団・近衛兵の略。
- 蝦夷 えぞ (1) 古代の奥羽から北海道にかけて住み、言語や風俗を異にして中央政権に服従しなかった人びと。えみし。
- 徴発 ちょうはつ (1) 呼び出すこと。兵士などを強制的に召し出すこと。(2) 他人から物を強制的に取り立てること。
- 忠勇 ちゅうゆう 忠義と勇気。忠義で勇気があること。
- 臣 おみ (1) 朝廷に仕える人。臣下。(2) 古代の姓の一つ。各地の有力豪族に与えられ、姓の中で最も尊重されたが、天武天皇の時、臣の一部は朝臣に昇格、もとの臣は第6等の姓となる。
- 大臣 おおおみ 大和政権の執政者。臣の姓を持つ諸氏中の最も有力な者が任ぜられ、記紀伝承では武内宿祢に始まり、その子孫の諸氏が世襲したという。大化改新の際に滅ぼされた蘇我蝦夷が最後。
- 連 むらじ 古代の姓の一種。大和政権時代に、主として神別の諸氏が称した。臣と並ぶ有力豪族が多く、大伴連・物部連からは大連が任ぜられて政務を担当。684年の八色姓では第7位。大伴・石上(物部)ら有力な連は第3位の宿祢に昇格した。
- 大連 おおむらじ 大和政権の執政者。連の姓を持つ諸氏中の最有力者が任ぜられ、ふつう世襲する。記紀伝承では物部・大伴両氏から出て大臣と共に執政したが、6世紀末に大連物部守屋が大臣蘇我馬子らに滅ぼされたのを最後とする。
- 仏教 ぶっきょう (Buddhism) 仏陀(釈迦牟尼)を開祖とする世界宗教。前5世紀頃インドに興った。もともとは、仏陀の説いた教えの意。四諦の真理に目覚め、八正道の実践を行うことによって、苦悩から解放された涅槃の境地を目指す。紀元前後には大乗仏教とよばれる新たな仏教が誕生、さらに7〜8世紀には密教へと展開した。13世紀にはインド亜大陸からすがたを消したのと対照的に、インドを超えてアジア全域に広まり、各地の文化や信仰と融合しながら、東南アジア、東アジア、チベットなどに、それぞれ独自の形態を発展させた。
- 天つ神 あまつかみ 天にいる神。高天原の神。また、高天原から降臨した神、また、その子孫。←
→国つ神。 - 国つ神・地祇 くにつかみ (1) 国土を守護する神。地神。(2) 天孫降臨以前からこの国土に土着し、一地方を治めた神。国神。←
→天つ神。 - 祭政一致 さいせい‐いっち 神祇の祭祀と国家の政治とが一致するという思想ならびに政治形態。古代社会に多く見られる。政教一致。
- 官吏 かんり (1) 役人。官人。官員。(2) 明治憲法下、国家に対し忠順勤勉に職務をつくすため、国家によって特に選任された者。現在では行政部内に勤務する国家公務員とほぼ同義。←
→公吏。 - 天子 てんし (1) (天帝の子の意) 天命を受けて人民を治める者。国の君主。(2) 天皇。
- 陪臣 ばいしん (1) 臣下の臣。又家来。又者。(2) 諸大名の直臣を将軍に対して呼んだ称。←
→直参 - 国司 こくし 律令制で、朝廷から諸国に赴任させた地方官。守・介・掾・目の四等官と、その下に史生があった。その役所を国衙、国衙のある所を国府と称した。くにのつかさ。
- 一天万乗 いってん ばんじょう (
「乗」は車。天子は兵車1万輛を出す国土を有したからいう) 天下を統治する天子。天皇。 - 御陵 みささぎ/ごりょう 天皇・皇后・皇太后・太皇太后の墓所。
- 悪逆無道 あくぎゃく むどう (
「無道」は古くブドウとも) 悪逆で道理にはずれたこと。 - 大逆無道 たいぎゃく むどう 甚だしく人倫にそむき、道理を無視した行為。
- 郡司 ぐんじ (1) 律令時代の地方行政官。国司の下にあって郡を治めた。地方の有力者から任命し、大領・少領・主政・主帳の四等官から成る。こおりのみやつこ。(2) 郡司 (1) のうち大領・少領をいう。
- 口分田 くぶんでん (1) 律令制で、班田収授法に基づいて、満6歳以上のすべての人民に割り当てられた田。良民の男子には2段(約23アール)
、女子にはその3分の2(1段120歩) 、賤民のうちで官有の官戸・官奴婢は良民と同額、私有の家人・私奴婢は良民の3分の1を基準として与え、その収穫の約3%を田租として徴収した。(2) 唐代の均田制で、耕作者に給した農地(北朝時代には露田と称)。ほかに永業田が割り当てられた。その額は時代・年齢・身分等により異なるが、丁男は口分80畝・永業110畝(合計約580アール)。 - 守 かみ 長官。(上の意) 律令制の四等官の最上の官。役所によって文字を異にし、太政官では「大臣」、神祇官では「伯」、省では「卿」、弾正台では「尹」、坊・職では「大夫」、寮では「頭」、司では「正」、近衛府では「大将」、兵衛府・衛門府などでは「督」、国では「守」
(826年以降、上総・常陸・上野では介を守、長官を太守と称)と書く。 - 守 かみ 地方行政官。日本の令制で、国司の長官。かみ。中国では郡の長官。
- 介 すけ すけ。令制で、諸国の次官。
- 武蔵守 むさしのかみ
- 上野介 こうづけのすけ
- 内地人 ないちじん 内地 (2) に居住する人。また、内地 (2) 出身の人。北海道、沖縄では本州に居住する日本人をさしてもいう。
- 内地 ないち (2) 一国の領土が数個に分かれている場合、憲法の定める通常の法律がおこなわれる区域。旧憲法下の北海道、本州、四国、九州がこれにあたる。本土←
→外地。
◇参照:Wikipedia、
*後記(工作員 日記)
本書を含む「日本児童文庫」シリーズを読んでいる最中、この感覚は何かに似ている、何だろう……と記憶をたどってみてわかった。映画『インディー・ジョーンズ』だ。魔宮の内部にはさまざまなトラップがしかけられていて、一歩一歩、たしかめながら前進する。さながら、明治維新(1868)と現代(2012)とのちょうど中間地点を舞台としたロールプレイング・アドベンチャー・ゲーム。
昭和初期のナショナリズムや軍国主義のトラップはまだわかりやすい。専門分野ごとの当時の科学的成果のトラップが随所にあるし、著者個人の見解のトラップももちろんある。社会的・時代的な通俗概念のちがいというトラップもあるし、それが児童・生徒向けに平易な言葉づかいで表現されているというのも大きなくせもの。
難解、
赤坂憲雄・小熊英二(編)
小熊(p.325)
10.27(土)晴れ。東北文化の日。県立博物館、特別展「出羽国成立一三〇〇年」
10.28(日)雨。東北民俗芸能大会。天童市民文化会館。観客より無粋な警備員のほうが多い気配。存在を意識させるような警備は、興をそぐに十分。
*次週予告
第五巻 第一五号
日本歴史物語
第五巻 第一五号は、
二〇一二年一一月三日(土)発行予定です。
定価:200円
T-Time マガジン 週刊ミルクティー* 第五巻 第一四号
日本歴史物語
発行:二〇一二年一〇月二七日(土)
編集:しだひろし / PoorBook G3'99
http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目
アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。
- T-Time マガジン 週刊ミルクティー* *99 出版
- バックナンバー
※ おわびと訂正
長らく、創刊号と第一巻第六号の url 記述が誤っていたことに気がつきませんでした。アクセスを試みてくださったみなさま、申しわけありませんでした。(しょぼーん)/2012.3.2 しだ
- 第一巻
- 創刊号 竹取物語 和田万吉
- 第二号 竹取物語小論 島津久基(210円)
- 第三号 竹取物語の再検討(一)橘 純一(210円)
- 第四号 竹取物語の再検討(二)橘 純一(210円)
「絵合」 『源氏物語』より 紫式部・与謝野晶子(訳) - 第五号
『国文学の新考察』より 島津久基(210円)- 昔物語と歌物語 / 古代・中世の「作り物語」/
- 平安朝文学の弾力 / 散逸物語三つ
- 第六号 特集 コロボックル考 石器時代総論要領 / コロボックル北海道に住みしなるべし 坪井正五郎 マナイタのばけた話 小熊秀雄 親しく見聞したアイヌの生活 / 風に乗って来るコロポックル 宮本百合子
- 第七号 コロボックル風俗考(一〜三)坪井正五郎(210円)
- シペ物語 / カナメの跡 工藤梅次郎
- 第八号 コロボックル風俗考(四〜六)坪井正五郎(210円)
- 第九号 コロボックル風俗考(七〜十)坪井正五郎(210円)
- 第十号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
- 日本太古の民族について / 日本民族概論 / 土蜘蛛種族論につきて
- 第十一号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
- 東北民族研究序論 / 猪名部と佐伯部 / 吉野の国巣と国樔部
- 第十二号 日高見国の研究 喜田貞吉
- 第十三号 夷俘・俘囚の考 喜田貞吉
- 第十四号 東人考 喜田貞吉
- 第十五号 奥州における御館藤原氏 喜田貞吉
- 第十六号 考古学と古代史 喜田貞吉
- 第十七号 特集 考古学 喜田貞吉
- 遺物・遺蹟と歴史研究 / 日本における史前時代の歴史研究について / 奥羽北部の石器時代文化における古代シナ文化の影響について
- 第十八号 特集 考古学 喜田貞吉
- 日本石器時代の終末期について /「あばた」も「えくぼ」、
「えくぼ」も「あばた」― ―日本石器時代終末期― ― - 第十九号 特集 考古学 喜田貞吉
- 本邦における一種の古代文明 ―
―銅鐸に関する管見― ― / - 銅鐸民族研究の一断片
- 第二〇号 特集 考古学 喜田貞吉
「鐵」の字の古体と古代の文化 / 石上神宮の神宝七枝刀 / - 八坂瓊之曲玉考
- 第二一号 博物館(一)浜田青陵
- 第二二号 博物館(二)浜田青陵
- 第二三号 博物館(三)浜田青陵
- 第二四号 博物館(四)浜田青陵
- 第二五号 博物館(五)浜田青陵
- 第二六号 墨子(一)幸田露伴
- 第二七号 墨子(二)幸田露伴
- 第二八号 墨子(三)幸田露伴
- 第二九号 道教について(一)幸田露伴
- 第三〇号 道教について(二)幸田露伴
- 第三一号 道教について(三)幸田露伴
- 第三二号 光をかかぐる人々(一)徳永 直
- 第三三号 光をかかぐる人々(二)徳永 直
- 第三四号 東洋人の発明 桑原隲蔵
- 第三五号 堤中納言物語(一)池田亀鑑(訳)
- 第三六号 堤中納言物語(二)池田亀鑑(訳)
- 第三七号 堤中納言物語(三)池田亀鑑(訳)
- 第三八号 歌の話(一)折口信夫
- 第三九号 歌の話(二)折口信夫
- 第四〇号 歌の話(三)
・花の話 折口信夫- 第四一号 枕詞と序詞(一)福井久蔵
- 第四二号 枕詞と序詞(二)福井久蔵
- 第四三号 本朝変態葬礼史 / 死体と民俗 中山太郎
- 第四四号 特集 おっぱい接吻
- 乳房の室 / 女の情欲を笑う 小熊秀雄
- 女体 芥川龍之介
- 接吻 / 接吻の後 北原白秋
- 接吻 斎藤茂吉
- 第四五号 幕末志士の歌 森 繁夫
- 第四六号 特集 フィクション・サムライ 愛国歌小観 / 愛国百人一首に関連して / 愛国百人一首評釈 斎藤茂吉
- 第四七号
「侍」字訓義考 / 多賀祢考 安藤正次- 第四八号 幣束から旗さし物へ / ゴロツキの話 折口信夫
- 第四九号 平将門 幸田露伴
- 第五〇号 光をかかぐる人々(三)徳永 直
- 第五一号 光をかかぐる人々(四)徳永 直
- 第五二号
「印刷文化」について 徳永 直- 書籍の風俗 恩地孝四郎
- 第二巻
- 第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン
- 第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン
- 第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 楠山正雄(訳)
- 第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 小酒井不木 / 折口信夫 / 坂口安吾
- 第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 海野十三 / 折口信夫 / 斎藤茂吉
- 第六号 新羅人の武士的精神について 池内 宏
- 第七号 新羅の花郎について 池内 宏
- 第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉
- 第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治
- 第一〇号 風の又三郎 宮沢賢治
- 第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎
- 第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎
- 第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎
- 第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎
- 第一五号 能久親王事跡(五)森 林太郎
- 第一六号 能久親王事跡(六)森 林太郎
- 第一七号 赤毛連盟 コナン・ドイル
- 第一八号 ボヘミアの醜聞 コナン・ドイル
- 第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル
- 第二〇号 暗号舞踏人の謎 コナン・ドイル
- 第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉
- 第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉
- 第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太
- 第二四号 まれびとの歴史 /「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫
- 第二五号 払田柵跡について二、三の考察 / 山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉
- 第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎
- 第二七号 種山ヶ原 / イギリス海岸 宮沢賢治
- 第二八号 翁の発生 / 鬼の話 折口信夫
- 第二九号 生物の歴史(一)石川千代松
- 第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松
- 第三一号 生物の歴史(三)石川千代松
- 第三二号 生物の歴史(四)石川千代松
- 第三三号 特集 ひなまつり
- 雛 芥川龍之介 / 雛がたり 泉鏡花 / ひなまつりの話 折口信夫
- 第三四号 特集 ひなまつり
- 人形の話 / 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫
- 第三五号 右大臣実朝(一)太宰 治
- 第三六号 右大臣実朝(二)太宰 治
- 第三七号 右大臣実朝(三)太宰 治
- 第三八号 清河八郎(一)大川周明
- 第三九号 清河八郎(二)大川周明
- 第四〇号 清河八郎(三)大川周明
- 第四一号 清河八郎(四)大川周明
- 第四二号 清河八郎(五)大川周明
- 第四三号 清河八郎(六)大川周明
- 第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉
- 第四五号 火葬と大蔵 / 人身御供と人柱 喜田貞吉
- 第四六号 手長と足長 / くぐつ名義考 喜田貞吉
- 第四七号
「日本民族」とは何ぞや / 本州における蝦夷の末路 喜田貞吉- 第四八号 若草物語(一)L.M. オルコット
- 第四九号 若草物語(二)L.M. オルコット
- 第五〇号 若草物語(三)L.M. オルコット
- 第五一号 若草物語(四)L.M. オルコット
- 第五二号 若草物語(五)L.M. オルコット
- 第五三号 二人の女歌人 / 東北の家 片山広子
- 第三巻
- 第一号 星と空の話(一)山本一清
- 第二号 星と空の話(二)山本一清
- 第三号 星と空の話(三)山本一清
- 第四号 獅子舞雑考 / 穀神としての牛に関する民俗 中山太郎
- 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治 / 奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
- 第六号 魏志倭人伝 / 後漢書倭伝 / 宋書倭国伝 / 隋書倭国伝
- 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南
- 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南
- 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南
- 第一〇号 最古日本の女性生活の根底 / 稲むらの陰にて 折口信夫
- 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦
- 瀬戸内海の潮と潮流 / コーヒー哲学序説 /
- 神話と地球物理学 / ウジの効用
- 第一二号 日本人の自然観 / 天文と俳句 寺田寅彦
- 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉
- 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉
- 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉
- 倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う /
- 倭奴国および邪馬台国に関する誤解
- 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)
- 第一七号 高山の雪 小島烏水
- 第一八号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(一)徳永 直
- 第一九号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(二)徳永 直
- 第二〇号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(三)徳永 直
- 第二一号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(四)徳永 直
- 第二二号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(五)徳永 直
- 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治
- 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治
- 第二五号 ドングリと山猫 / 雪渡り 宮沢賢治
- 第二六号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(六)徳永 直
- 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫
- 黒川能・観点の置き所 / 村で見た黒川能
- 能舞台の解説 / 春日若宮御祭の研究
- 第二八号 面とペルソナ / 人物埴輪の眼 他 和辻哲郎
- 面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
- 能面の様式 / 人物埴輪の眼
- 第二九号 火山の話 今村明恒
- 第三〇号 現代語訳『古事記』
(一)上巻(前編) 武田祐吉(訳)- 第三一号 現代語訳『古事記』
(二)上巻(後編) 武田祐吉(訳)- 第三二号 現代語訳『古事記』
(三)中巻(前編) 武田祐吉(訳)- 第三三号 現代語訳『古事記』
(四)中巻(後編) 武田祐吉(訳)- 第三四号 山椒大夫 森 鴎外
- 第三五号 地震の話(一)今村明恒
- 第三六号 地震の話(二)今村明恒
- 第三七号 津波と人間 / 天災と国防 / 災難雑考 寺田寅彦
- 第三八号 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉
- 第三九号 キュリー夫人 / はるかな道(他)宮本百合子
- 第四〇号 大正十二年九月一日よりの東京・横浜間 大震火災についての記録 / 私の覚え書 宮本百合子
- 第四一号 グスコーブドリの伝記 宮沢賢治
- 第四二号 ラジウムの雁 / シグナルとシグナレス(他)宮沢賢治
- 第四三号 智恵子抄(一)高村光太郎
- 第四四号 智恵子抄(二)高村光太郎
- 第四五号 ヴェスヴィオ山 / 日本大地震(他)斎藤茂吉
- 第四六号 上代肉食考 / 青屋考 喜田貞吉
- 第四七号 地震雑感 / 静岡地震被害見学記(他)寺田寅彦
- 第四八号 自然現象の予報 / 火山の名について 寺田寅彦
- 第四九号 地震の国(一)今村明恒
- 第五〇号 地震の国(二)今村明恒
- 第五一号 現代語訳『古事記』
(五)下巻(前編) 武田祐吉(訳)- 第五二号 現代語訳『古事記』
(六)下巻(後編) 武田祐吉(訳)
- 第四巻
- 第一号 日本昔話集 沖縄編(一)伊波普猷・前川千帆(絵)
- 第二号 日本昔話集 沖縄編(二)伊波普猷
- 第三号 アインシュタイン(一)寺田寅彦
- 物質とエネルギー / 科学上における権威の価値と弊害 /
- アインシュタインの教育観
- 第四号 アインシュタイン(二)寺田寅彦
- アインシュタイン / 相対性原理側面観
- 第五号 作家のみた科学者の文学的活動 / 科学の常識のため 宮本百合子
- 第六号 地震の国(三)今村明恒
- 第七号 地震の国(四)今村明恒
- 第八号 地震の国(五)今村明恒
- 第九号 地震の国(六)今村明恒
- 第一〇号 土神と狐 / フランドン農学校の豚 宮沢賢治
- 第一一号 地震学の角度から見た城輪柵趾 今村明恒
- 第一二号 庄内と日高見(一)喜田貞吉
- 第一三号 庄内と日高見(二)喜田貞吉
- 第一四号 庄内と日高見(三)喜田貞吉
- 第一五号 私は海をだきしめてゐたい / 安吾巷談・ストリップ罵倒 坂口安吾
- 第一六号 三筋町界隈 / 孫 斎藤茂吉
- 第一七号 原子力の管理(他)仁科芳雄
- 原子力の管理 / 日本再建と科学 / 国民の人格向上と科学技術 /
- ユネスコと科学
- 第一八号 J・J・トムソン伝(他)長岡半太郎
- J・J・トムソン伝 / アインシュタイン博士のこと
- 第一九号 原子核探求の思い出(他)長岡半太郎
- 総合研究の必要 / 基礎研究とその応用 / 原子核探求の思い出
- 第二〇号 蒲生氏郷(一)幸田露伴
- 第二一号 蒲生氏郷(二)幸田露伴
- 第二二号 蒲生氏郷(三)幸田露伴
- 第二三号 科学の不思議(一)アンリ・ファーブル
- 第二四号 科学の不思議(二)アンリ・ファーブル
- 第二五号 ラザフォード卿を憶う(他)長岡半太郎
- ラザフォード卿を憶う / ノーベル小伝とノーベル賞 / 湯川博士の受賞を祝す
- 第二六号 追遠記 / わたしの子ども時分 伊波普猷
- 第二七号 ユタの歴史的研究 伊波普猷
- 第二八号 科学の不思議(三)アンリ・ファーブル
- 第二九号 南島の黥 / 琉球女人の被服 伊波普猷
- 第三〇号
『古事記』解説 / 上代人の民族信仰 武田祐吉・宇野円空 - 第三一号 科学の不思議(四)アンリ・ファーブル
- 第三二号 科学の不思議(五)アンリ・ファーブル
- 第三三号 厄年と etc. / 断水の日 / 塵埃と光 寺田寅彦
- 第三四号 石油ランプ / 流言蜚語 / 時事雑感 寺田寅彦
- 第三五号 火事教育 / 函館の大火について 寺田寅彦
- 第三六号 台風雑俎 / 震災日記より 寺田寅彦
- 第三七号 火事とポチ / 水害雑録 有島武郎・伊藤左千夫
- 第三八号 特集・安達が原の黒塚 楠山正雄・喜田貞吉・中山太郎
- 第三九号 大地震調査日記(一)今村明恒
- 第四〇号 大地震調査日記(二)今村明恒
- 第四一号 大地震調査日記(続)今村明恒
- 第四二号 科学の不思議(六)アンリ・ファーブル
- 第四三号 科学の不思議(七)アンリ・ファーブル
- 第四四号 震災の記 / 指輪一つ 岡本綺堂
- 第四五号 仙台五色筆 / ランス紀行 岡本綺堂
- 第四六号 東洋歴史物語(一)藤田豊八
- 第四七号 東洋歴史物語(二)藤田豊八
- 第四八号 東洋歴史物語(三)藤田豊八
- 第四九号 東洋歴史物語(四)藤田豊八
- 第五〇号 東洋歴史物語(五)藤田豊八
- 第五一号 科学の不思議(八)アンリ・ファーブル
- 第五二号 科学の不思議(九)アンリ・ファーブル
- 第五巻
- 第一号 校註『古事記』
(一) 武田祐吉- 第二号 校註『古事記』
(二) 武田祐吉- 第三号 校註『古事記』
(三) 武田祐吉- 第四号 兜 / 島原の夢 / 昔の小学生より / 三崎町の原 岡本綺堂
- 第五号 新旧東京雑題 / 人形の趣味(他)岡本綺堂
- 第六号 大震火災記 鈴木三重吉
- 第七号 校註『古事記』
(四) 武田祐吉- 第八号 校註『古事記』
(五) 武田祐吉- 第五巻 第九号 校註『古事記』
(六) 武田祐吉- 古事記 中つ巻
- 五、景行天皇・成務天皇
- 后妃と皇子女
- 倭建の命の西征
- 出雲建
- 倭建の命の東征
- 思国歌
- 白鳥の陵
- 倭建の命の系譜
- 成務天皇
- 六、仲哀天皇
- 后妃と皇子女
- 神功皇后
- 鎮懐石と釣り魚
- 香坂の王と忍熊の王
- 気比の大神
- 酒楽の歌曲
- その太后息長帯日売の命〔神功皇后〕は、当時神帰せしたまいき。かれ天皇〔仲哀天皇〕、筑紫の訶志比の宮にましまして熊曽の国を撃たんとしたまうときに、天皇御琴を控かして、建内の宿祢の大臣沙庭にいて、神の命を請いまつりき。ここに太后、神帰せして、言教え覚し詔りたまいつらくは、
「西の方に国あり。金銀をはじめて、目耀く種々の珍宝その国に多なるを、吾今その国を帰せたまわん」と詔りたまいつ。ここに天皇、答え白したまわく、 「高き地に登りて西の方を見れば、国は見えず、ただ大海のみあり」と白して、いつわりせす神と思おして、御琴を押し退けて、控きたまわず、黙いましき。ここにその神いたく忿りて詔りたまわく、 「およそこの天の下は、汝の知らすべき国にあらず、汝は一道〔一説に、死出の道。冥土〕に向かいたまえ」と詔りたまいき。ここに建内の宿祢の大臣白さく、 「恐し、わが天皇。なおその大御琴あそばせ」ともうす。ここにややにその御琴を取りよせて、なまなまに控きいます。かれ、幾時もあらずて、御琴の音聞こえずなりぬ。すなわち火をあげて見まつれば、すでに崩りたまいつ。 - 第五巻 第一〇号 校註『古事記』
(七) 武田祐吉- 古事記 中つ巻
- 七、応神天皇
- 后妃と皇子女
- 大山守の命と大雀の命
- 葛野の歌
- 蟹の歌
- 髪長比売
- 国主歌
- 文化の渡来
- 大山守の命と宇遅の和紀郎子
- 天の日矛
- 秋山の下氷壮夫と春山の霞壮夫
- 系譜
- また昔、新羅の国主の子、名は天の日矛というあり。この人まい渡り来つ。まい渡り来つる故は、新羅の国に一つの沼あり、名を阿具沼という。この沼のほとりに、ある賤の女昼寝したり。ここに日の耀虹のごと、その陰上にさしたるを、またある賤の男、そのさまを異しと思いて、つねにその女人のおこないをうかがいき。かれこの女人、その昼寝したりしときより妊みて赤玉を生みぬ。ここにそのうかがえる賤の男、その玉を乞い取りて、つねに裹みて腰につけたり。この人、山谷の間に田を作りければ、耕人どもの飲食を牛に負せて、山谷の中に入るに、その国主の子天の日矛に遇いき。ここにその人に問いていわく、
「何ぞ汝飲食を牛に負せて山谷の中に入る。汝かならずこの牛を殺して食うならん」といいて、すなわちその人を捕らえて、獄内に入れんとしければ、その人答えていわく、 「吾、牛を殺さんとにはあらず、ただ田人の食を送りつらくのみ」という。しかれどもなおゆるさざりければ、ここにその腰なる玉を解きて、その国主の子に幣しつ。かれその賤の夫をゆるして、その玉を持ち来て、床の辺に置きしかば、すなわち顔美き嬢子になりぬ。よりて婚して嫡妻とす。ここにその嬢子、つねに種々の珍つ味を設けて、つねにその夫に食わしめき。かれその国主の子心おごりて、妻を詈りしかば、その女人の言わく、 「およそ吾は、汝の妻になるべき女にあらず。わが祖の国に行かん」といいて、すなわち窃びて小船に乗りて、逃れ渡り来て、難波に留まりぬ。 〈こは難波の比売碁曽の社にます阿加流比売という神なり。 〉 - ここに天の日矛、その妻の遁れしことを聞きて、すなわち追い渡りきて、難波にいたらんとするほどに、その渡りの神塞えて入れざりき。かれさらに還りて、多遅摩の国に泊てつ。すなわちその国に留まりて、多遅摩の俣尾が女、名は前津見に娶いて生める子、多遅摩母呂須玖。これが子多遅摩斐泥。これが子多遅摩比那良岐。これが子多遅摩毛理、つぎに多遅摩比多訶、つぎに清日子〈三柱〉。この清日子、当摩の�@斐に娶いて生める子、酢鹿の諸男、つぎに妹菅竃由良度美、かれ上にいえる多遅摩比多訶、その姪由良度美に娶いて生める子、葛城の高額比売の命。
〈こは息長帯比売の命の御祖なり。 〉 - かれその天の日矛の持ち渡り来つる物は、玉つ宝といいて、珠二貫、また浪振る比礼、浪切る比礼、風振る比礼、風切る比礼、また奥つ鏡、辺つ鏡、あわせて八種なり。
〈こは伊豆志の八前の大神なり。 〉 - 第五巻 第一一号 大正十二年九月一日の大震に際して(他)芥川龍之介
- オウム ―
―大震覚え書きの一つ― ― - 大正十二年九月一日の大震に際して
- 一 大震雑記
- 二 大震日録
- 三 大震に際せる感想
- 四 東京人
- 五 廃都東京
- 六 震災の文芸に与うる影響
- 七 古書の焼失を惜しむ
- 今度の地震で古美術品と古書との滅びたのは非常に残念に思う。表慶館に陳列されていた陶器類はほとんど破損したということであるが、その他にも損害は多いにちがいない。しかし古美術品のことはしばらくおき、古書のことを考えると黒川家の蔵書も焼け、安田家の蔵書も焼け、大学の図書館の蔵書も焼けたのは取り返しのつかない損害だろう。商売人でも村幸とか浅倉屋とか吉吉だとかいうのが焼けたから、そのほうの罹害も多いにちがいない。個人の蔵書はともかくも、大学図書館の蔵書の焼かれたことはなんといっても大学の手落ちである。図書館の位置が火災の原因になりやすい医科大学の薬品のあるところと接近しているのもよろしくない。休日などには図書館に小使いくらいしかいないのもよろしくない、
(そのために今度のような火災にもどういう本が貴重かがわからず、したがって貴重な本を出すこともできなかったらしい。 )書庫そのものの構造のゾンザイなのもよろしくない。それよりももっとつきつめたことをいえば、大学が古書を高閣に束ねるばかりで古書の覆刻をさかんにしなかったのもよろしくない。いたずら材料を他に示すことを惜しんで、ついにその材料を烏有に帰せしめた学者の罪は、鼓をならして攻むべきである。大野洒竹の一生の苦心になった洒竹文庫の焼け失せただけでも残念でたまらぬ。 「八九間雨柳」という士朗〔井上士朗か〕の編んだ俳書などは、勝峰晋風氏の文庫と天下に二冊しかなかったように記憶しているが、それも今は一冊になってしまったわけだ。 ( 「七 古書の焼失を惜しむ」より) - 第五巻 第一二号 日本歴史物語〈上〉
(一) 喜田貞吉- 児童たちへ
- 一、万世一系の天皇陛下
- 二、日本民族(上)
- 三、日本民族(下)
- 四、天照大神
- 五、天の岩屋戸ごもり
- 六、八岐の大蛇退治
- 七、因幡の白兎
- 八、出雲の大社
- 九、天孫降臨と三種の神器
- (略)そこで天照大神は、いよいよ御孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)をこの国にお降しになって、これを安い国として平らかにお治めしめなさることになりましたが、それにはまずもって、大国主神の国をたてまつらしめなければなりません。これがために、三度まで使いをつかわしになりました。しかし、なにぶん大国主神の威勢がさかんなものですから、使いの神もその方へついてしまって帰ってまいりませんでした。最後に武甕槌神と経津主神とがお使いに立ちました。武甕槌神はのちに常陸の鹿島神宮に、また経津主神はのちに下総の香取神宮に、それぞれ軍神としておまつり申したほどの武勇すぐれた神々でありましたから、大国主神の威勢にもおそれず、よく利害をお説きになり、国を天孫にたてまつるようにとお諭しになりました。天孫とは瓊瓊杵尊の御事を申すのです。しかしこれは大国主神にとってはまことに重大な事件です。ご自身だけのお考えでは、おはからいかねになりました。そこでまずもって御子の事代主神のご意見をお問いになりましたところが、このとき出雲の美保が崎で、魚を釣っておられました事代主神は、
- 「それはもちろん、大神のおおせにしたがいますよう」
- と、いさぎよくご同意申し上げました。出雲の美保神社は、ここで釣りをしておられました縁故で、この事代主神をおまつりしてあるのです。
- かく事代主神がご賛成申したので、大国主神も今はご異存もなく、久しく治めておられました国を天孫にさしあげましたが、事代主神の弟神の建御名方神は、たいそう元気のさかんな神でありましたから、なかなかそれを承知いたしません。
- 「それなら大神のお使いの神たちと、力競べをしてみよう」
- と申しました。しかし建御名方神の力は、とても武甕槌神にかないっこはありません。とうとう信濃の諏訪まで逃げて行って、そこでおそれ入りました。今の諏訪神社は、その土地にこの神をおまつり申したのです。
- 大国主神は、いよいよその国をさしあげましたについて、杵築の宮にお引きこもりになりました。これは今の出雲の大社で、その御殿は天孫のご宮殿と同じようにお造り申したということであります。命(みこと)が大神の命を奉じて、いさぎよくその国を治めることを天孫におまかせ申しあげましたので、天孫の方からは、特別の尊敬をもってこれをご待遇なされましたわけなのです。
( 「八、出雲の大社」より) - 第五巻 第一三号 日本歴史物語〈上〉
(二) 喜田貞吉- 十、山幸彦と海幸彦
- 十一、金鵄(きんし)の光
- 十二、熊襲と蝦夷(一)
- 十三、熊襲と蝦夷(二)
- 十四、熊襲と蝦夷(三)
- 十五、熊襲と蝦夷(四)
- 十六、朝鮮半島諸国の服属
- 十七、外人の渡来と外国文化の輸入(一)
- 十八、外人の渡来と外国文化の輸入(二)
- 十九、外人の渡来と外国文化の輸入(三)
- 二十、外人の渡来と外国文化の輸入(四)
- 今は帝国の一部となっている朝鮮半島にも、大昔にはたくさんの国がありました。その南のほうは馬韓・弁辰〔弁韓〕・秦韓〔辰韓〕の三つに分かれて、それを三韓と申しましたが、そのうちでも名のわかっているものが馬韓五十四国、これは半島の西南部に、弁辰十二国、秦韓十二国、これは半島の東南部に、三韓あわせて七十八か国ありました。またその北には高麗という強い国があり、そのほかにもまだ多くの国々がありまして、天孫降臨以前の日本内地と同じように、統一がなくておたがいに争うておりました。そのなかでも秦韓人は、シナの秦という時代に移住したシナ人の末で、その秦韓の中の新羅という国がだんだん強くなり、しだいに近所の国を併合します。また馬韓の中の百済という国もだんだん強くなって近所の国々を併合しまして、朝鮮半島には北に高麗、東南に新羅、西南に百済と、三つの強い国が鼎の足のように並んでいるというありさまとなりました。
( 「十六、朝鮮半島諸国の服属」より) - シナ人でいちばん古く朝鮮半島に移住したのは、前に申した秦韓人で、これはシナでは秦という時代の人々だといわれておりますが、その後今から二〇〇〇年ばかり前、秦が滅んで漢の時代となり、その漢の武帝という偉い天子のときに朝鮮を伐って、さかんに漢人の移住がありました。
- この人たちは、朝鮮半島の西北部にある大同江の付近、楽浪という所におもに住んでおりましたので、今にその地の古い墓の中から漢時代の文化を見るべき立派な品物がたくさん掘り出されまして、近ごろ日本の大学の学者たちが熱心にそれを研究しております。すなわち朝鮮には秦人と漢人と、同じシナ人でも時代が違い、しぜん文化も違った二通りの人たちが秦韓と楽浪とに移住していたのです。
- その秦人のいた秦韓の地は、のちに新羅の国となったところですが、ここからはいちばん早く日本へ移住民がありました。天日槍(あめのひぼこ)のお話はそのことを語っているものであります。
( 「十七、外人の渡来と外国文化の輸入(一) 」より)
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