新旧東京雑題
岡本綺堂
祭礼
東京でいちじるしく
震災以後は格別、その以前には型ばかりの祭礼をおこなわないでもなかったが、それは文字どおりの「型ばかり」で、
わたしの記憶しているところでは、神田の祭礼は明治十七年(一八八四)の九月が
山王の祭礼は三大祭りの王たるもので、
深川の八幡はわたしの家から遠いので、くわしいことを知らないが、これも明治二十五年(一八九二)の八月あたりが名残りであったらしく、その後に深川の祭礼がにぎやかにできたという
そういうわけで、明治時代の中ごろから東京には祭礼らしい祭礼はないといってよい。明治の末期や大正時代における型ばかりの祭礼を見たのでは、とても
湯屋
湯屋の二階はいつごろまで残っていたか、わたしにも正確の記憶がないが、明治二十年(一八八七)
五月節句の
むかしは
朝湯は江戸以来の名物で、東京の人間は朝湯のない土地には住めないなどといばったものであるが、その自慢の朝湯も大正八年(一九一九)の十月からいっせいに廃止となった。早朝から風呂をたいては湯屋の経済が立たないというのである。しかし客からの苦情があるので、近年あさ湯を復活したところもあるが、それはきわめて少数で、だいたいにおいては午後一時ごろに行ってもまだ本当に
江戸っ子はさんざんであるが、どうも仕方がない。朝湯は十銭取ったらよかろうなどという説もあるが、これも実行されそうもない。
そば屋
そば屋は昔よりもいちじるしくきれいになった。どういうわけか知らないが、
わたしたちの書生時代には、東京じゅうで有名の幾軒を除いては、どこのそば屋もみな
人間が
地方の人が多くなった証拠として、うどんを食う客が多くなった。そば屋はそばを売るのが商売で、そば屋へ行ってうどんをくれなどというと、
かの鍋焼きうどんなども江戸以来の売り物ではない。
そば屋では大正五、六年(一九一六、一九一七)ごろから天どんや親子どんぶりまでも売りはじめた。そば屋がうどんを売り、さらに飯までも売ることになったのである。こうなると、そばのうまいまずいなどはいよいよ論じていられなくなる。
(昭和2(一九二七)・4『サンデー毎日』)
底本:
1995(平成7)年8月20日初版1刷発行
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:松永正敏
2006年10月31日作成
青空文庫作成ファイル:
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人形の趣味
岡本綺堂
××さん。
どこでお聞きになったのか知りませんが、わたしに何か人形の話をしろというご注文でしたが、じつのところ、わたしは何も専門的に
もちろん、人に
人形にかぎらず、わたしもすべて
そんな関係から、原稿などを書く場合にも、机の上に人形をならべるという習慣が自然につきはじめたので、べつに深い理屈があるわけでもなかったのです。しかし習慣というものはおそろしいもので、それがだんだんに年をへるにしたがって、机の上に人形がないとなんだか物たらないような気分で、ひどく心さびしく感じられるようになってしまいました。それも二つや三つならべるならばまだいいのですが、どうもそれでは物たらない。少なくも七つ八つ、十五か十六も雑然と陳列させるのですから、机の上の混雑はお話になりません。最初のころは、脚本などを書く場合には、半紙の上に粗末な舞台面の図をかいて、
人形とわたしとの関係はそういうわけでありますから、仮にも人形と名のつくものならばなんでもいいので、べつに
その
そのほかの人形は―
なにか特別の理由があって、一つの人形を大切にする人、または
くどくも言うとおり、人形といえば相当に年代の古いものとか、精巧にできているものとか、値段の高いものとか、いちいちそういうむずかしい注文を持ち出すから
不良少年を感化するために、園芸に従事させて
我田引水といわれるのを承知のうえで、私はここに人形趣味をおおいに
(大正9(一九二〇)・10『新家庭』)
この稿を書いたのは、足かけ四年の昔で、それら幾百の人形は大正十二年(一九二三)九月一日をなごりに私と長い別れを
わびしさや 袖 のこげたる 秋の雛
(『十番随筆』所収)
底本:
1995(平成7)年8月20日初版1刷発行
入力:tatsuki、
校正:松永正敏
2001年10月15日公開
2005年11月2日修正
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十番雑記
岡本綺堂
昭和十二年(一九三七)八月三十一日、火曜日。午前は陰、午後は晴れて暑い。
虫干ししながらの書庫の整理も、連日の
わたしは麻布にある間に『十番随筆』という随筆集を発表している。その後にも『
「あしたは九月一日だ。
その前日に、その当時の形見ともいうべき「十番雑記」を発見したのは、偶然とはいいながら一種の因縁がないでもないように思われて、なんだか捨てがたい気にもなったので、その夜の灯のもとで再読、この随筆集に挿入することにした。
仮住居
十月十二日の
今度の家は元来が新しい建物でないうえに、震災以来ほとんどそのままになっていたので、壁はところどころくずれ落ちていた。障子もやぶれていた。
そのかたわらに、わたしは自分の机や書棚やインクスタンドや原稿紙のたぐいを買い歩いた。妻や女中は火鉢や
目白に避難の当時、それぞれに見舞いの品を贈ってくれた人もあった。ここに移転してからも、わざわざ祝いに来てくれた人もあった。それらの人々に対して、妻とわたしとがかわるがわるに答礼に行かなければならなかった。市内の電車は車台の多数を焼失したので、運転系統がいろいろに変更して、以前ならば一直線に行かれたところも、今ではとんでもない方角を迂回して行かなければならない。十分か二十分で行かれたところも、三十分五十分を要することになる。もちろん、どの電車も満員で容易に乗ることはできない。市内の電車がこのありさまであるから、それにつれて省線の電車がまた
「こんな年は早くすぎてしまう方がいい。
まあ、こんなことでも言うよりほかはない。なにしろよほどの老人でないかぎりは、生まれて初めてこんな目に
今はまだ十二年の末であるから、新しい十三年がどんな年で現われてくるかわからない。元旦も晴れか雨か、風か雪か、それすらもまだわからないくらいであるから、今から何もいうことはできないが、いずれにしてもわたしはこの仮住居で新しい年を迎えなければならない。それでもバラックに住む人たちのことを思えば何でもない。たとい家を焼かれても、家財と蔵書いっさいを失っても、わたしの一家は他に比較してまだまだ幸福であるといわなければならない。わたしは今までにも
父祖の代から伝わっている刊本・写本五十余種、その大部分は回収の見込みはない。父が晩年の日記十二冊、わたし自身が十七歳の春から書きはじめた日記三十五冊、これらはもちろんあきらめるよりほかはない。そのほかにもわたしが随時に記入していた雑記帳、随筆、書き抜き帳、おぼえ帳のたぐい三十余冊、これも自分としてはすこぶる大切なものであるが、いまさら
わたしの家では、これまでもあまり正月らしい設備をしたこともないのであるから、この際とても特に例年と変わったことはない。年賀状は廃するつもりであったが、さりとて平生懇親にしている人々に対してぜんぜん
わたしの庭には大きい紅梅がある。家主の話によると、非常にみごとな花をつけるということであるが、元日までにはおそらく咲くまい。
(大正十二年(一九二三)十二月二十日)
箙 の梅
これは、わたしがここへ移転当時の句である。わたしの門前は東西に通ずる横町の細路で、その両端には南へ登る長い坂がある。東の坂はくらやみ坂、西の坂は狸坂とよばれている。今でもかなりに高い、
坂の名ばかりでなく、土地の売り物にもタヌキ
しかし、わたしの横町にも人家が軒なみに建ち続いているばかりか、横町から一歩ふみだせば、
「震災を無事にのがれた者が、ここへ来てケガをしてはつまらないから、気をつけろ。
そうは言っても、買い物が種々あるというので、家内の者はたびたび出てゆく。わたしもやはり出て行く。そうして、なにかしら買って帰るのである。震災に
その
しかも今夜は勇気をふるいおこして、そのぬかるみを踏み、その混雑を
庭の紅梅はまだなかなか咲きそうもないので、灯ともしころにようやく書き終わった原稿をポストに入れながら、夜の七時半ごろに十番の通りへ出てゆくと、きのう一日降り暮らした後であるから、予想以上に路が悪い。
「こんなことなら、あしたの朝にすればよかった。
この源太は二度の
「
「なんといっても、焼けない土地はしあわせだな。
こういいながら、わたしは梅と
(十二月二十三日)
明治座
この二、三日はバカに寒い。けさは
午前八時ごろに十番の通りへ出てみると、末広座の前にはアーチを作っている。劇場の内にも大勢の職人がいそがしそうに働いている。震災以来、破損のままで捨て置かれたのであるが、来年の一月からは明治座と改称して松竹合名会社の手で開場し、
足場をかけてある座の正面には、正月二日開場の
左団次一座が
わたしもその一人であるが、浮かれたような心持ちは他の人々に倍していることを自覚していた。明治座が開場のことも、左団次一座が出演のことも、またその上演の番組のことも、わたしは
わたしの脚本が舞台に上演されたのは、東京だけでもすでに百数十回にのぼっているのと、もう一つにはわたし自身の性格の
「お正月から芝居がはじまる……。左団次が出る……。
わたしは
「いや、まだほかにもある。
こう気がついて、わたしは劇場の前を離れた。横町はまだ
震災の当時、蔵書も原稿もみな焼かれてしまったのであるが、それでもいよいよ立ち
それだけでもつかみ出してきたのは、せめてもの幸いであったと思うにつけて、一種の記念としてそれらを一冊にまとめてみようかと思い立ったが、なにかと多忙に取りまぎれて、今日までそのままになっていたのである。これも失われずに残されている物であると思うと、わたしは急になつかしくなって、その切り抜きをいちいちにひろげて読みかえした。
わたしは今までずいぶんたくさんの雑文を書いている。その全部の中から選み出したらば、いくらか見られるものもできるかと思うのであるが、前にもいうとおり、手あたりしだいにバスケットへつかみこんできたのであるから、中には書き捨ての
こうなると、急に気ぜわしくなって、すぐにその整理に取りかかると、冬の日は短い。おまけに午後には二、三人の来客があったので、いっこうに仕事ははかどらず、どうにかこうにか
さて、まとまったこの雑文集の名を何といっていいかわからない。今の仮住居の地名をそのままに、仮に『十番随筆』ということにしておいた。これもまた記念の意味にほかならない。
(昭和12(一九三七)・10刊『思い出草』所収)
底本:
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風呂を買うまで
岡本綺堂
わたしは入浴が好きで、大正八年(一九一九)の秋以来、あさ湯の廃止されたのを悲しんでいる一人である。
わたしが多年行きなれた麹町の湯屋の主人は、あさ湯廃止、湯銭値上げなどという問題について、いつもまっさきに立って運動する一人であるという
わたしはそれから
二十二日は寒い雨が降った。二十三日は日曜日で晴れていた。どの日もわたしは早く行ったので、風呂の中はさのみに混雑していなかったが、ゆず湯というのは名ばかりで、湯に浮かんでいる
湯屋は大久保駅の近所にあって、わたしの家からは少し遠いので、真夏になってから困ることができた。
わたしの家に湯殿はあるが、
行水をつかって、トウモロコシの青い葉が夕風にほの白くみだれているのを見て、わたしは日露戦争の当時、満州で
しかしそれは二十年のむかしである。今のわたしは
(大正13(一九二四)・7『読売新聞』)
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郊外生活の一年
岡本綺堂
震災以来、諸方を流転して、おちつかない日を送ること一年九か月で、
はじめてここへ移ってきたのは、三月の
「郊外はいやですね。
「むむ。どうも思ったほどによくないな。
「郊外も悪くないな。
五月になると、大久保名物のツツジの色がここら一円をにわかに明るくした。ツツジ園は一軒も残っていないが、今もその名所のなごりをとどめて、すこしでも庭のあるところにツツジの花を見ないことはない。元来の地味がこの花に適しているのであろうが、大きい木にも小さい株にもみな、めざましい花をつけていた。わたしの庭にも紅白はもちろん、むらさきや
庭の広いのと
夏になって、わたしを少しく失望させたのは、
幾月か住んでいるうちに、買い物の不便にもなれた。電車や鉄砲の音にもおどろかなくなった。湯屋が遠いので、自宅で風呂をたくことにした。風呂の話は別に書いたが、夕暮れの
秋になっては、コスモスと
トウモロコシもよく熟したが、その当時わたしは胃腸を害していたので、それを焼く
郊外の冬はあわれである。山里は冬ぞ
郊外に盗難の多いのはしばしば聞くことであるが、ここらも用心のよいほうではない。わたしの横町にも二、三回の被害があって、その賊は密行の刑事巡査に捕らえられたが、それからまもなく、わたしの家でも
「郊外と市内と、どちらが
わたしはたびたびこう
(大正14(一九二五)・4『読売新聞』)
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新旧東京雑題
岡本綺堂-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)麹町《こうじまち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)竹|竿《ざお》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「馮/几」、第4水準2-3-20]
[#…]:返り点
(例)「虫声満[#レ]地」
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)おでんや/\と呼んで来る。
-------------------------------------------------------
祭礼
東京でいちじるしく廃《すた》れたものは祭礼《まつり》である。江戸以来の三大祭りといえば、麹町の山王《さんのう》、神田の明神《みょうじん》、深川《ふかがわ》の八幡として、ほとんど日本国じゅうに知られていたのであるが、その祭礼はむかしの姿をとどめないほどに衰えてしまった。たとい東京に生まれたといっても、二十代はもちろん、三十代の人では、ほんとうの祭礼らしいものを見た者はあるまい。それほどの遠い昔から、東京の祭礼は衰えてしまったのである。
震災以後は格別、その以前には型ばかりの祭礼を行なわないでもなかったが、それは文字通りの「型ばかり」で、軒提灯に花山車《はなだし》ぐらいにとどまっていた。その花山車も各町内から曳《ひ》き出すというわけではなく、氏子《うじこ》の町々も大体においてひっそり閑としていて、いわゆる天下祭りなどという素晴らしい威勢はどこにも見いだされなかった。
わたしの記憶しているところでは、神田の祭礼は明治十七年の九月が名残《なご》りで、その時には祭礼番附が出来た。その祭礼ちゅうに九月十五日の大風雨《おおあらし》があって、東京府下だけでも丸|潰《つぶ》れ千八十戸、半つぶれ二千二百二十五戸という大被害で、神田の山車小屋などもみな吹き倒された。それでも土地柄だけに、その後も隔年の大祭を怠らなかったが、その繁昌は遂に十七年度の昔をくり返すに至らず、いつとはなしに型ばかりのものになってしまった。
山王の祭礼は三大祭りの王たるもので、氏子の範囲も麹町、四谷、京橋、日本橋にわたって、山の手と下町の中心地区を併合しているので、江戸の祭礼のうちでも最も華麗をきわめたのである。わたしは子供のときから麹町に育って、氏子の一人であったために、この祭礼を最もよく知っているが、これは明治二十年六月の大祭を名残りとして、その後はいちじるしく衰えた。近年は神田よりも寂しいくらいである。
深川の八幡はわたしの家から遠いので、詳しいことを知らないが、これも明治二十五年の八月あたりが名残りであったらしく、その後に深川の祭礼が賑やかに出来たという噂を聞かないようである。ここは山車や踊り屋台よりも各町内の神輿《みこし》が名物で、俗に神輿祭りと呼ばれ、いろいろの由緒つきの神輿が江戸の昔からたくさんに保存されていたのであるが、先年の震災で大かた焼亡《しょうもう》したことと察せられる。
そういうわけで、明治時代の中ごろから東京には祭礼らしい祭礼はないといってよい。明治の末期や大正時代における型ばかりの祭礼を見たのでは、とても昔日《せきじつ》の壮観を想像することは出来ない。京の祇園会《ぎおんえ》や大阪《おおさか》の天満《てんま》祭りは今日どうなっているか知らないが、東京の祭礼は実際においてほろびてしまった。しょせん再興はおぼつかない。
湯屋
湯屋を風呂屋という人が多くなっただけでも、東京の湯屋の変遷が知られる。三馬《さんば》の作に「浮世風呂」の名があっても、それは書物の題号であるからで、それを口にする場合には銭湯《せんとう》とか湯屋《ゆうや》とかいうのが普通で、元禄《げんろく》のむかしは知らず、文化文政《ぶんかぶんせい》から明治に至るまで、東京の人間は風呂屋などと云う者を田舎者として笑ったのである。それが今日では反対になって来たらしい。
湯屋の二階はいつ頃まで残っていたか、わたしにも正確の記憶がないが、明治二十年、東京の湯屋に対して種々のむずかしい規則が発布されてから、おそらくそれと同時に禁止されたのであろう。わたしの子供のときには大抵の湯屋に二階があって、そこには若い女が控えていて、二階にあがった客はそこで新聞をよみ、将棋をさし、ラムネをのみ、麦湯を飲んだりしたのである。それを禁じられたのは無論風俗上の取締りから来たのであるが、たといその取締りがなくても、カフェーやミルクホールの繁昌する時代になっては、とうてい存続すべき性質のものではあるまい。しかし、湯あがりに茶を一ぱい飲むのも悪くはない。湯屋のとなりに軽便な喫茶店を設けたらば、相当に繁昌するであろうと思われるが、東京ではまだそんなことを企てたのはないようである。
五月節句の菖蒲《しょうぶ》湯、土用のうちの桃《もも》湯、冬至の柚《ゆず》湯――そのなかで桃湯は早くすたれた。暑中に桃の葉を沸かした湯にはいると、虫に食われないとか云うのであったが、客が喜ばないのか、湯屋の方で割に合わないのか、いつとはなしに止《や》められてしまったので、今の若い人は桃湯を知らない。菖蒲湯も柚湯も型ばかりになってしまって、これもやがては止められることであろう。
むかしは菖蒲湯または柚湯の日には、湯屋の番台に三方《さんぼう》が据えてあって、客の方では「お拈《ひね》り」と唱え、湯銭を半紙にひねって三方の上に置いてゆく。もちろん、規定の湯銭よりも幾分か余計につつむのである。ところが、近年はそのふうがやんで、菖蒲湯や柚湯の日でも誰もおひねりを置いてゆく者がない。湯屋の方でも三方を出さなくなった。そうなると、湯屋に取っては菖蒲や柚代だけが全然損失に帰《き》するわけになるので、どこの湯屋でもたくさんの菖蒲や柚を入れない。甚だしいのになると、風呂から外へ持ち出されないように、菖蒲をたばねて縄でくくりつけるのもある。柚の実を麻袋に入れてつないで置くのもある。こんな殺風景なことをする程ならば、いっそ桃湯同様に廃止した方がよさそうである。
朝湯は江戸以来の名物で、東京の人間は朝湯のない土地には住めないなどと威張ったものであるが、その自慢の朝湯も大正八年の十月から一斉に廃止となった。早朝から風呂を焚いては湯屋の経済が立たないと云うのである。しかし客からの苦情があるので、近年あさ湯を復活したところもあるが、それは極めて少数で、大体においては午後一時ごろに行ってもまだ本当に沸いていないというのが通例になってしまった。
江戸っ子はさんざんであるが、どうも仕方がない。朝湯は十銭取ったらよかろうなどと云う説もあるが、これも実行されそうもない。
そば屋
そば屋は昔よりもいちじるしく綺麗になった。どういうわけか知らないが、湯屋と蕎麦《そば》屋とその歩調をおなじくするもので、湯銭があがれば蕎麦の代もあがり、蕎麦の代が下がれば湯屋も下がるということになっていたが、近年は湯銭の五銭に対して蕎麦の盛《もり》・掛《かけ》は十銭という倍額になった。もっとも、湯屋の方は公衆の衛生問題という見地から、警視庁でその値あげを許可しないのである。
私たちの書生時代には、東京じゅうで有名の幾軒を除いては、どこの蕎麦屋もみな汚《きたな》いものであった。綺麗な蕎麦屋に蕎麦の旨いのは少ない、旨い蕎麦を食いたければ汚い家へゆけと昔から云い伝えたものであるが、その蕎麦屋がみな綺麗になった。そうして、大体においてまずくなった。まことに古人われを欺《あざむ》かずである。山路愛山《やまじあいざん》氏が何かの雑誌に蕎麦のことを書いて、われわれの子供などは蕎麦は庖丁《ほうちょう》で切るものであると云うことを知らず、機械で切るものと心得て食っているとか云ったが、確かに機械切りの蕎麦は旨くないようである。そば切り庖丁などという詞《ことば》はいつか消滅するであろう。
人間が贅沢になって来たせいか、近年はそば屋で種物《たねもの》を食う人が非常に多くなった。それに応じて種物の種類もすこぶる殖《ふ》えた。カレー南蛮などという不思議なものさえ現われた。ほんとうの蕎麦を味わうものは盛か掛を食うのが普通で、種物などを喜んで食うのは女子供であると云うことになっていたが、近年はそれが一変して、銭《ぜに》のない人間が盛・掛を食うと云うことになったらしい。種物では本当のそばの味はわからない。そば屋が蕎麦を吟味しなくなったのも当然である。
地方の人が多くなった証拠として、饂飩《うどん》を食う客が多くなった。蕎麦屋は蕎麦を売るのが商売で、そば屋へ行って饂飩をくれなどと云うと、田舎者として笑われたものであるが、この頃は普通のそば屋ではみな饂飩を売る。阿亀《おかめ》とか天ぷらとかいって注文すると、おそばでございますか、饂飩台でございますかと聞き返される場合が多い。黙っていれば蕎麦にきまっていると思うが、それでも念のために饂飩であるかないかを確かめる必要がある程に、饂飩を食う客が多くなったのである。
かの鍋焼うどんなども江戸以来の売り物ではない。上方《かみがた》では昔から夜なきうどんの名があったが、江戸は夜そば売りで、俗に風鈴《ふうりん》そばとか夜鷹《よたか》そばとか呼んでいたのである。鍋焼うどんが東京に入り込んで来たのは明治以後のことで、黙阿弥《もくあみ》の「嶋鵆月白浪《しまちどりつきのしらなみ》」は明治十四年の作であるが、その招魂社《しょうこんしゃ》鳥居前の場で、堀の内まいりの男が夜そばを食いながら、以前とちがって夜鷹そばは売り手が少なくなって、その代りに鍋焼うどんが一年増しに多くなった、と話しているのを見ても知られる。その夜そば売りも今ではみな鍋焼うどんに変ってしまった。中にはシュウマイ屋に化けたのもある。
そば屋では大正五、六年頃から天どんや親子どんぶりまでも売りはじめた。そば屋がうどんを売り、さらに飯までも売ることになったのである。こうなると、蕎麦のうまいまずいなどはいよいよ論じていられなくなる。[#地付き](昭和2・4「サンデー毎日」)
[#改ページ]
底本:「綺堂むかし語り」光文社時代小説文庫、光文社
1995(平成7)年8月20日初版1刷発行
※「纏」と「纒」の混用は、統一せず、底本のママとした。
入力:tatsuki、『鳩よ!』編集部(「ゆず湯」のみ)
校正:松永正敏
2001年10月15日公開
2005年11月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
人形の趣味
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)麹町《こうじまち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)竹|竿《ざお》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「馮/几」、第4水準2-3-20]
[#…]:返り点
(例)「虫声満[#レ]地」
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)おでんや/\と呼んで来る。
-------------------------------------------------------
××さん。
どこでお聞きになったのか知りませんが、わたしに何か人形の話をしろという御註文でしたが、実のところ、わたしは何も専門的に玩具《おもちゃ》や人形を研究したり蒐集《しゅうしゅう》したりしているわけではないのです。しかし私がおもちゃを好み、ことに人形を可愛がっているのは事実です。
勿論、人に吹聴《ふいちょう》するような珍しいものもないせいでもありますが、わたしはこれまで自分が人形を可愛がると云うようなことを、あまり吹聴したことはありません。竹田出雲《たけだいずも》は机のうえに人形をならべて浄瑠璃をかいたと伝えられています。イプセンのデスクの傍《わき》にも、熊が踊ったり、猫がオルガンを弾いたりしている人形が控えていたと云います。そんな先例が幾らもあるだけに、わたしも何んだかそれらの大家《たいか》の真似をしているように思われるのも忌《いや》ですから、なるべく人にも吹聴しないようにしていたのですが、書棚などの上にいっぱい列《なら》べてある人形が自然に人の眼について、二、三の雑誌にも玩具の話を書かされたことがあります。しかしそんなわけですから、わたしは単に人形の愛好者というだけのことで、人形の研究者や蒐集家でないことを最初にくれぐれもお断わり申して置きます。したがって、人形や玩具などに就いてなにかの通《つう》をならべるような資格はありません。
人形に限らず、わたしもすべて玩具のたぐいが子供のときから大好きで、縁日などへゆくと択《よ》り取りの二銭八厘の玩具をむやみに買いあつめて来たものでした。二銭八厘――なんだか奇妙な勘定ですが、わたしの子供の頃、明治十八、九年頃までは、どういう勘定から割り出して来たものか、縁日などで売っている安い玩具は、大抵二銭八厘と相場が決まっていたものでした。更に廉《やす》いのは一銭というのもありました。勿論、それより高価のもありましたが、われわれは大抵二銭八厘から五銭ぐらいの安物をよろこんで買いあつめました。今の子供たちにくらべると、これがほんとうの「幼稚《ようち》」と云うのかも知れません。しかし其の頃のおもちゃは大方すたれてしまって、たまたま縁日の夜店の前などに立っても、もう少年時代のむかしを偲《しの》ぶよすがはありません。とにかく子供のときからそんな習慣が付いているので、わたしは幾つになっても玩具や人形のたぐいに親しみをもっていて、十九《つづ》や二十歳《はたち》の大供《おおども》になってもやはり玩具屋を覗《のぞ》く癖が失《う》せませんでした。
そんな関係から、原稿などをかく場合にも、机の上に人形をならべるという習慣が自然に付きはじめたので、別に深い理屈があるわけでもなかったのです。しかし習慣というものは怖ろしいもので、それがだんだんに年を経るにしたがって、机の上に人形がないと何んだか物足らないような気分で、ひどく心さびしく感じられるようになってしまいました。それも二つや三つ列べるならばまだいいのですが、どうもそれでは物足らない。少なくも七つ八つ、十五か十六も雑然と陳列させるのですから、机の上の混雑はお話になりません。最初の頃は、脚本などをかく場合には、半紙の上に粗末な舞台面の図をかいて、俳優《やくしゃ》の代りにその人形をならべて、その位置や出入りなどを考えながら書いたものですが、今ではそんなことをしません。しかし何かしら人形が控えていないと、なんだか極《き》まりが付かないようで、どうも落ちついた気分になれません。小説をかく場合でもそうです。脚本にしろ、小説にしろ、なにかの原稿を書いていて、ひどく行き詰まったような場合には、棚から手あたり次第に人形をおろして来て、机の上に一面ならべます。自分の書いている原稿紙の上にまでごたごたと陳列します。そうすると、不思議にどうにかこうにか「窮すれば通ず」というようなことになりますから、どうしてもお人形さんに対して敬意を表さなければならないことになるのです。旅行をする場合でも、出先で仕事をすると判っている時にはかならず相当の人形を鞄《かばん》に入れて同道して行きます。
人形とわたしとの関係はそういうわけでありますから、仮りにも人形と名のつくものならば何んでもいいので、別に故事来歴《こじらいれき》などを詮議しているのではありません。要するに店仕舞いのおもちゃ屋という格で、二足三文の瓦楽多《がらくた》がただ雑然と押し合っているだけのことですから、何かおめずらしい人形がありますかなどと訊かれると、早速返事に困ります。それでたびたび赤面したことがあります。おもちゃ箱を引っくり返したようだというのは、全くわたしの書棚で、初めて来た人に、「お子供衆が余程たくさんおありですか」などと訊かれて、いよいよ赤面することがあります。
その瓦楽多のなかでも、わたしが一番可愛がっているのは、シナのあやつり人形の首で、これはちょっと面白いものです。先年三越呉服店で開かれた「劇に関する展覧会」にも出品したことがありました。この人形の首をはじめて見たのは、わたしが日露戦争に従軍した時、満洲の海城《かいじょう》の城外に老子《ろうし》の廟《びょう》があって、その祭日に人形をまわしに来たシナの芸人の箱のなかでした。わたしは例の癖がむらむらと起ったので、そのシナ人に談判して、五つ六つある首のなかから二つだけを無理に売って貰いました。なにしろ土焼きですから、よほど丁寧に保管していたのですが、戦場ではなかなか保護が届かないので、とうとう二つながら毀《こわ》れてしまいました。がっかりしたが仕方がないので、そのまま東京へ帰って来ますと、それから二年ほどたって、「木太刀」の星野麦人《ほしのばくじん》君の手を経て、神戸の堀江《ほりえ》君という未見の人からシナの操り人形の首を十二個送られました。これも三つばかりは毀れていましたが、南京《ナンキン》で買ったのだとか云うことで、わたしが満洲で見たものとちっとも変りませんでした。わたしは一旦紛失したお家《いえ》の宝物《ほうもつ》を再びたずね出したように喜んで、もろもろの瓦楽多のなかでも上坐に押し据えて、今でも最も敬意を表しています。殊にそのなかの孫悟空《そんごくう》は、わたしが申歳《さるどし》の生まれである因縁から、取分けて寵愛《ちょうあい》しているわけです。
そのほかの人形は――京《きょう》、伏見《ふしみ》、奈良《なら》、博多《はかた》、伊勢《いせ》、秋田《あきた》、山形《やまがた》など、どなたも御存知のものばかりで、例の今戸焼《いまどやき》もたくさんあります。シナ、シャム、インド、イギリス、フランスなども少しばかりあります。人形ではやはり伏見が面白いと思うのですが、近年は彩色などがだんだんに悪くなって来たようです。伏見の饅頭《まんじゅう》人形などは取分けて面白いと思います。伊勢の生子《うぶこ》人形も古風で雅味があります。庄内《しょうない》の小芥子《こけし》人形は遠い土地だけに余り世間に知られていないようですが、木製の至極粗末な人形で、赤ん坊のおしゃぶりのようなものですが、その裳《すそ》の方を持って肩をたたくと、その人形の首が丁度いい工合に肩の骨にコツコツとあたります。勿論、非常に小さいものもありますから、肩を叩くのが本来の目的ではありますまいが、その地方では大人でも湯治などに出かける時には持ってゆくと云います。こんなたぐいを穿索《せんさく》したら、各地方にいろいろの面白いものがありましょう。
広東《カントン》製の竹彫りの人形にもなかなか精巧に出来たのがあります。一つの竹の根でいろいろのものを彫り出すのですから、ずいぶん面倒なものであろうかと思いやられますが、わたしの持っているなかでは、蝦蟆《がま》仙人が最も器用に出来ています。先年外国へ行った時にも、なにか面白いものはないかと方々探しあるきましたが、どうもこれはと云うほどのものを見当りませんでした。戦争のために玩具の製造などはほとんど中止されてしまって、どこのおもちゃ屋にも日本製品が跋扈《ばっこ》しているというありさまで、うっかりすると外国からわざわざ日本製を買い込んで来ることになるので、わたしもひどく失望しました。フランスでちっとばかり買って来ましたけれど、取り立てて申し上げるほどのものではありません。
なにか特別の理由があって、一つの人形を大切にする人、または家重代《いえじゅうだい》というようなわけで古い人形を保存する人、一種の骨董《こっとう》趣味で古い人形をあつめる人、ただ何が無しに人形というものに趣味をもって、新古を問わずにあつめる人、かぞえたらばいろいろの種類があることでしょうが、わたしは勿論、その最後の種類に属すべきものです。で、甚だ我田引水《がでんいんすい》のようですが、特別の知識をもって秩序的に研究する人は格別、単にその年代が古いとか、世間にめずらしい品であるとか云うので、特殊の人形を珍重する人はほんとうの人形好きとは云われまいかと思われます。そういう意味で人形を愛するのは、単に一種の骨董癖に過ぎないので、古い硯《すずり》を愛するのも、古い徳利《とっくり》を愛するのも、所詮《しょせん》は同じことになってしまいます。人形はやはりどこまでも人形として可愛がってやらなければなりません。その意味に於いて、人形の新古や、値の高下《こうげ》や、そんなことを論ずるのはそもそも末で、どんな粗製の今戸焼でもどこかに可愛らしいとか面白いとかいう点を発見したならば、連れて帰って可愛がってやることです。
舞楽《ぶがく》の面を毎日眺めていて、とうとう有名な人相見になったとかいう話を聴いていますが、実際いろいろの人形をながめていると、人間というものに就いてなにか悟《さと》るところがあるようにも思われます。少なくも美しい人形や、可愛らしい人形を眺めていると、こっちの心もおのずとやわらげられるのは事実です。わたしは何か気分がむしゃくしゃするような時には、伏見人形の鬼《おに》や、今戸焼の狸《たぬき》などを机のうえに列べます。そうして、その鬼や狸の滑稽《こっけい》な顔をつくづく眺めていると、自然に頭がくつろいで来るように思われます。
くどくも云う通り、人形といえば相当に年代の古いものとか、精巧に出来ているものとか、値段の高いものとか、いちいちそういうむずかしい註文を持出すから面倒になるので、わたしから云えばそれらは真の人形好きではありません。勿論、わたしのように瓦楽多をむやみに陳列するには及びませんが、たとい二つ三つでも自分の気に入った人形を机や書棚のうえに飾って、朝夕に愛玩するのは決して悪いことではないと思います。人形を愛するの心は、すなわち人を愛するの心であります。品の新しいとか古いとか、値の高いとか廉《やす》いとかいうことは問題ではありません。なんでも自分の気に入ったものでさえあればいいのです。廉いものを飾って置いては見っともないなどと云っているようでは、倶《とも》に人形の趣味を語るに足らないと思います。廉い人形でよろしい、せいぜい三十銭か五十銭のものでよろしい、その数《かず》も二つか三つでもよろしい。それを坐右に飾って朝夕に愛玩することを、わたしは皆さんにお勧め申したいと思います。
不良少年を感化するために、園芸に従事させて花卉《かき》に親しませるという方法が近年行なわれて来たようです。わたしは非常によいことだと思います。それとおなじ意味で、世間一般の少年少女にも努めて人形を愛玩させる習慣を作らせたいと思っています。単に不良少女ばかりでなく、大人の方たちにもこれをお勧め申したいと思っています。なんの木偶《でく》の坊《ぼう》――とひと口に云ってしまえばそれ迄《まで》ですが、生きた人間にも木偶の坊に劣ったのがないとは云えません。魂のない木偶の坊から、われわれは却って生きた魂を伝えられることがないとも限りません。
我田引水と云われるのを承知の上で、私はここに人形趣味を大いに鼓吹《こすい》するのであります。[#地付き](大正9・10[#「10」は縦中横]「新家庭」)
この稿をかいたのは、足かけ四年の昔で、それら幾百の人形は大正十二年九月一日をなごりに私と長い別れを告げてしまった。かれらは焼けて砕けて、もとの土に帰ったのである。九月八日、焼け跡の灰かきに行った人たちが、わずかに五つ六つの焦げた人形を掘り出して来てくれた。
[#ここから2字下げ]
わびしさや袖の焦げたる秋の雛《ひな》
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](『十番随筆』所収)
底本:「綺堂むかし語り」光文社時代小説文庫、光文社
1995(平成7)年8月20日初版1刷発行
※「纏」と「纒」の混用は、統一せず、底本のママとした。
入力:tatsuki、『鳩よ!』編集部(「ゆず湯」のみ)
校正:松永正敏
2001年10月15日公開
2005年11月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
十番雑記
岡本綺堂-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)麹町《こうじまち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)竹|竿《ざお》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「馮/几」、第4水準2-3-20]
[#…]:返り点
(例)「虫声満[#レ]地」
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)おでんや/\と呼んで来る。
-------------------------------------------------------
昭和十二年八月三十一日、火曜日。午前は陰、午後は晴れて暑い。
虫干しながらの書庫の整理も、連日の秋暑に疲れ勝ちでとかくに捗取《はかど》らない。いよいよ晦日《みそか》であるから、思い切って今日じゅうに片付けてしまおうと、汗をふきながら整理をつづけていると、手文庫の中から書きさしの原稿類を相当に見いだした。いずれも書き捨ての反古《ほご》同様のものであったが、その中に「十番雑記」というのがある。私は大正十二年の震災に麹町の家を焼かれて、その十月から翌年の三月まで麻布の十番に仮寓《かぐう》していた。唯今見いだしたのは、その当時の雑記である。
わたしは麻布にある間に『十番随筆』という随筆集を発表している。その後にも『猫柳《ねこやなぎ》』という随筆集を出した。しかも「十番雑記」の一文はどれにも編入されていない。傾きかかった古家の薄暗い窓のもとで、師走の夜の寒さにすくみながら、当時の所懐と所見とを書き捨てたままで別にそれを発表しようとも思わず、文庫の底に押込んでしまったのであろう。自分も今まで全く忘れていたのを、十四年後のきょう偶然発見して、いわゆる懐旧の情に堪えなかった。それと同時に、今更のように思い浮かんだのは震災十四周年の当日である。
「あしたは九月一日だ。」
その前日に、その当時の形見ともいうべき「十番雑記」を発見したのは、偶然とはいいながら一種の因縁がないでも無いように思われて、なんだか捨て難い気にもなったので、その夜の灯のもとで再読、この随筆集に挿入することにした。
仮住居
十月十二日の時雨《しぐれ》ふる朝に、私たちは目白《めじろ》の額田六福《ぬかだろっぷく》方を立ち退いて、麻布|宮村町《みやむらちょう》へ引き移ることになった。日蓮宗の寺の門前で、玄関が三畳、茶の間が六畳、座敷六畳、書斎が四畳半、女中部屋が二畳で、家賃四十五円の貸家である。裏は高い崖《がけ》になっていて、南向きの庭には崖の裾の草堤が斜めに押し寄せていた。
崖下の家はあまり嬉しくないなどと贅沢を云っている場合でない。なにしろ大震災の後、どこにも滅多《めった》に空家のあろう筈はなく、さんざんに探し抜いた揚句の果てに、河野義博《こうのよしひろ》君の紹介でようよう此処《ここ》に落着くことになったのは、まだしもの幸いであると云わなければなるまい。これでともかくも一時の居どころは定まったが、心はまだ本当に定まらない。文字通りに、箸一つ持たない丸焼けの一家族であるから、たとい仮住居にしても一戸を持つとなれば、何かと面倒なことが多い。ふだんでも冬の設けに忙がしい時節であるのに、新世帯もちの我々はいよいよ心ぜわしい日を送らねばならなかった。
今度の家は元来が新しい建物でない上に、震災以来ほとんどそのままになっていたので、壁はところどころ崩れ落ちていた。障子も破れていた。襖《ふすま》も傷《いた》んでいた。庭には秋草が一面に生いしげっていた。移転の日に若い人たちがあつまって、庭の草はどうにか綺麗に刈り取ってくれた。壁の崩れたところも一部分は貼ってくれた。襖だけは家主から経師屋《きょうじや》の職人をよこして応急の修繕をしてくれたが、それも一度ぎりで姿をみせないので、家内総がかりで貼り残しの壁を貼ることにした。幸いに女中が器用なので、まず日本紙で下貼りをして、その上を新聞紙で貼りつめて、さらに壁紙で上貼りをして、これもどうにか斯《こ》うにか見苦しくないようになった。そのあくる日には障子も貼りかえた。
その傍らに、わたしは自分の机や書棚やインクスタンドや原稿紙のたぐいを買いあるいた。妻や女中は火鉢や盥《たらい》やバケツや七輪《しちりん》のたぐいを毎日買いあるいた。これで先ず不完全ながらも文房具や世帯道具がひと通り整うと、今度は冬の近いのに脅《おびや》かされなければならなかった。一枚の冬着さえ持たない我々は、どんな粗末なものでも好《よ》いから寒さを防ぐ準備をしなければならない。夜具の類は出来合いを買って間にあわせることにしたが、一家内の者の羽織や綿入れや襦袢《じゅばん》や、その針仕事に女たちはまた忙がしく追い使われた。
目白に避難の当時、それぞれに見舞いの品を贈ってくれた人もあった。ここに移転してからも、わざわざ祝いに来てくれた人もあった。それらの人々に対して、妻とわたしとが代るがわるに答礼に行かなければならなかった。市内の電車は車台の多数を焼失したので、運転系統がいろいろに変更して、以前ならば一直線にゆかれたところも、今では飛んでもない方角を迂回して行かなければならない。十分か二十分でゆかれたところも、三十分五十分を要することになる。勿論どの電車も満員で容易に乗ることは出来ない。市内の電車がこのありさまであるから、それに連れて省線の電車がまた未曾有《みぞう》の混雑を来たしている。それらの不便のために、一日いらいら[#「いらいら」に傍点]ながら駈けあるいても、わずかに二軒か三軒しか廻り切れないような時もある。又そのあいだには旧宅の焼け跡の整理もしなければならない。震災に因って生じたもろもろの事件の始末も付けなければならない。こうして私も妻も女中らも無暗《むやみ》にあわただしい日を送っているうちに、大正十二年も暮れて行くのである。
「こんな年は早く過ぎてしまう方がいい。」
まあ、こんなことでも云うよりほかはない。なにしろ余ほどの老人でない限りは、生まれて初めてこんな目に出逢ったのであるから、狼狽混乱、どうにも仕様のないのが当りまえであるかも知れないが、罹災《りさい》以来そのあと始末に四ヵ月を費して、まだほんとうに落着かないのは、まったく困ったことである。年が改《あらた》まったと云って、すぐに世のなかが改まるわけでないのは判り切っているが、それでも年があらたまったらば、心持だけでも何とか新しくなり得るかと思うが故に、こんな不祥《ふしょう》な年は早く送ってしまいたいと云うのも普通の人情かも知れない。
今はまだ十二年の末であるから、新しい十三年がどんな年で現われてくるか判らない。元旦も晴か雨か、風か雪か、それすらもまだ判らない位であるから、今から何も云うことは出来ないが、いずれにしても私はこの仮住居で新しい年を迎えなければならない。それでもバラックに住む人たちのことを思えば何でもない。たとい家を焼かれても、家財と蔵書いっさいをうしなっても、わたしの一家は他に比較してまだまだ幸福であると云わなければならない。わたしは今までにも奢侈《おごり》の生活を送っていなかったのであるから、今後も特に節約をしようとも思わない。しかし今度の震災のために直接間接に多大の損害をうけているから、その幾分を回復するべく大いに働かなければならない。まず第一に書庫の復興を計らなければならない。
父祖の代から伝わっている刊本写本五十余種、その大部分は回収の見込みはない。父が晩年の日記十二冊、わたし自身が十七歳の春から書きはじめた日記三十五冊、これらは勿論あきらめるよりほかはない。そのほかにも私が随時に記入していた雑記帳、随筆、書抜き帳、おぼえ帳のたぐい三十余冊、これも自分としてはすこぶる大切なものであるが、今さら悔むのは愚痴である。せめてはその他の刊本写本だけでもだんだんに買い戻したいと念じているが、その三分の一も容易に回収は覚束なそうである。この頃になって書棚の寂しいのがひどく眼についてならない。諸君が汲々《きゅうきゅう》として帝都復興の策を講じているあいだに、わたしも勉強して書庫の復興を計らなければならない。それがやはりなんらかの意義、なんらかの形式に於いて、帝都復興の上にも貢献するところがあろうと信じている。
わたしの家では、これまでも余り正月らしい設備をしたこともないのであるから、この際とても特に例年と変ったことはない。年賀状は廃するつもりであったが、さりとて平生懇親にしている人々に対して全然無沙汰で打ち過ぎるのも何だか心苦しいので、震災後まだほんとうに一身一家の安定を得ないので歳末年始の礼を欠くことを葉書にしたためて、年内に発送することにした。そのほかには、春に対する準備もない。
わたしの庭には大きい紅梅がある。家主の話によると、非常に美事な花をつけると云うことであるが、元日までには恐らく咲くまい。[#地付き](大正十二年十二月二十日)
箙《えびら》の梅
[#天から2字下げ]狸坂くらやみ坂や秋の暮
これは私がここへ移転当時の句である。わたしの門前は東西に通ずる横町の細路で、その両端には南へ登る長い坂がある。東の坂はくらやみ坂、西の坂は狸坂と呼ばれている。今でもかなりに高い、薄暗いような坂路であるから、昔はさこそと推し量られて、狸坂くらやみ坂の名も偶然でないことを思わせた。時は晩秋、今のわたしの身に取っては、この二つの坂の名がいっそう幽暗の感を深うしたのであった。
坂の名ばかりでなく、土地の売り物にも狸羊羹、狸せんべいなどがある。カフェー・たぬき[#「たぬき」に傍点]と云うのも出来た。子供たちも「麻布十番狸が通る」などと歌っている。狸はここらの名物であるらしい。地形から考えても、今は格別、むかし狐や狸の巣窟《そうくつ》であったらしく思われる。私もここに長く住むようならば、綺堂をあらためて狸堂とか狐堂とか云わなければなるまいかなどとも考える。それと同時に、「狐に穴あり、人の子は枕する所無し」が、今の場合まったく痛切に感じられた。
しかし私の横町にも人家が軒なみに建ち続いているばかりか、横町から一歩ふみ出せば、麻布第一の繁華の地と称せらるる十番の大通りが眼の前に拡がっている。ここらは震災の被害も少なく、もちろん火災にも逢わなかったのであるから、この頃は私たちのような避難者がおびただしく流れ込んで来て、平常よりも更に幾層の繁昌をましている。殊に歳の暮れに押し詰まって、ここらの繁昌と混雑はひと通りでない。余り広くもない往来の両側に、居付きの商店と大道の露店とが二重に隙間もなく列《なら》んでいるあいだを、大勢の人が押し合って通る。又そのなかを自動車、自転車、人力車、荷車が絶えず往来するのであるから、油断をすれば車輪に轢《ひ》かれるか、路ばたの大溝《おおどぶ》へでも転げ落ちないとも限らない。実に物凄いほどの混雑で、麻布十番狸が通るなどは、まさに数百年のむかしの夢である。
「震災を無事にのがれた者が、ここへ来て怪我をしては詰まらないから、気をつけろ。」と、わたしは家内の者にむかって注意している。
そうは云っても、買物が種々あるというので、家内の者はたびたび出てゆく。わたしもやはり出て行く。そうして、何かしら買って帰るのである。震災に懲りたのと、経済上の都合とで、無用の品物はいっさい買い込まないことに決めているのであるが、それでも当然買わなければ済まないような必要品が次から次へと現われて来て、いつまで経っても果てしが無いように思われる。ひと口に瓦楽多《がらくた》というが、その瓦楽多道具をよほどたくさんに貯えなければ、人間の家一戸を支えて行かれないものであると云うことを、この頃になってつくづく悟《さと》った。私たちばかりでなく、すべての罹災者は皆どこかで此の失費と面倒とを繰り返しているのであろう。どう考えても、怖るべき禍いであった。
その鬱憤《うっぷん》をここに洩らすわけではないが、十番の大通りはひどく路の悪い所である。震災以後、路普請なども何分手廻り兼ねるのであろうが、雨が降ったが最後、そこらは見渡す限り一面の泥濘《ぬかるみ》で、ほとんど足の踏みどころもないと云ってよい。その泥濘のなかにも露店が出る、買物の人も出る。売る人も、買う人も、足もとの悪いなどには頓着していられないのであろうが、私のような気の弱い者はその泥濘におびやかされて、途中から空《むな》しく引っ返して来ることがしばしばある。
しかも今夜は勇気をふるい起して、そのぬかるみを踏み、その混雑を冒して、やや無用に類するものを買って来た。わたしの外套の袖の下に忍ばせている梅の枝と寒菊の花がそれである。移転以来、花を生けて眺めるという気分にもなれず、花を生けるような物も具えていないので、さきごろの天長《てんちょう》祝日に町内の青年団から避難者に対して戸毎に菊の花を分配してくれた時にも、その厚意を感謝しながらも、花束のままで庭の土に挿し込んで置くに過ぎなかった。それがどういう気まぐれか、二、三日前に古道具屋の店先で徳利のような花瓶を見つけて、ふとそれを買い込んで来たのが始まりで、急に花を生けて見たくなったのである。
庭の紅梅はまだなかなか咲きそうもないので、灯ともし頃にようやく書き終った原稿をポストに入れながら、夜の七時半頃に十番の通りへ出てゆくと、きのう一日降り暮らした後であるから、予想以上に路が悪い。師走《しわす》もだんだんに数《かぞ》え日《び》に迫ったので、混雑もまた予想以上である。そのあいだをどうにか斯《こ》うにか潜りぬけて、夜店の切花屋で梅と寒菊とを買うには買ったが、それを無事に保護して帰るのがすこぶる困難であった。甲の男のかかえて来るチャブ台に突き当るやら、乙の女の提げてくる風呂敷づつみに擦れ合うやら、ようようのことで安田銀行支店の角まで帰り着いて、人通りのやや少ないところで袖の下からかの花を把《と》り出して、電燈のひかりに照らしてみると、寒菊はまず無難であったが、梅は小枝の折れたのもあるばかりか、花も蕾《つぼみ》もかなりに傷められて、梶原源太《かじわらげんた》が「箙《えびら》の梅」という形になっていた。
「こんなことなら、あしたの朝にすればよかった。」
この源太は二度の駆けをする勇気もないので、寒菊の無難をせめてもの幸いに、箙の梅をたずさえて今夜はそのまま帰ってくると、家には中嶋俊雄《なかじまとしお》が来て待っていた。
「渋谷《しぶや》の道玄坂《どうげんざか》辺は大変な繁昌で、どうして、どうして、この辺どころじゃありませんよ。」と、彼は云った。
「なんと云っても、焼けない土地は仕合せだな。」
こう云いながら、わたしは梅と寒菊とを書斎の花瓶にさした。底冷えのする宵である。[#地付き](十二月二十三日)
明治座
この二、三日は馬鹿に寒い。けさは手水鉢《ちょうずばち》に厚い氷を見た。
午前八時頃に十番の通りへ出てみると、末広座の前にはアーチを作っている。劇場の内にも大勢の職人が忙がしそうに働いている。震災以来、破損のままで捨て置かれたのであるが、来年の一月からは明治座と改称して松竹合名会社の手で開場し、左団次一座が出演することになったので、俄かに修繕工事に取りかかったのである。今までは繁華の町のまんなかに、死んだ物のように寂寞《せきばく》として横たわっていた建物が、急に生き返って動き出したかとも見えて、あたりが明るくなったように活気を生じた。焚火《たきび》の烟《けむ》りが威勢よく舞いあがっている前に、ゆうべは夜明かしであったと笑いながら話している職人もある。立ち停まって珍しそうにそれを眺めている人たちもある。
足場をかけてある座の正面には、正月二日開場の口上看板がもう揚がっている。二部興行で、昼の部は忠信《ただのぶ》の道行《みちゆき》、躄《いざり》の仇討、鳥辺山《とりべやま》心中、夜の部は信長記《しんちょうき》、浪華《なにわ》の春雨《はるさめ》、双面《ふたおもて》という番組も大きく貼り出してある。
左団次一座が麻布の劇場に出勤するのは今度が初めである上に、震災以後東京で興行するのもこれが初めであるから、その前景気は甚だ盛んで、麻布十番の繁昌にまた一層の光彩を添えた観がある。どの人も浮かれたような心持で、劇場の前に群れ集まって来て、なにを見るとも無しにたたずんでいるのである。
私もその一人であるが、浮かれたような心持は他の人々に倍していることを自覚していた。明治座が開場のことも、左団次一座が出演のことも、又その上演の番組のことも、わたしは疾《と》うから承知しているのではあるが、今やこの小さい新装の劇場の前に立った時に、復興とか復活とか云うような、新しく勇ましい心持が胸いっぱいに漲《みなぎ》るのを覚えた。
わたしの脚本が舞台に上演されたのは、東京だけでもすでに百数十回にのぼっているのと、もう一つには私自身の性格の然らしむるところとで、わたしは従来自分の作物《さくぶつ》の上演ということに就いては余りに敏感でない方である。勿論、不愉快なことではないが、又さのみに愉快とも感じていないのであった。それが今日にかぎって一種の昂奮を感じるように覚えるのは、単にその上演目録のうちに鳥辺山心中と、信長記と、浪華の春雨と、わたしの作物が三種までも加わっていると云うばかりでなく、震災のために自分の物いっさいを失ったように感じていた私に取って、自分はやはり何物をか失わずにいたと云うことを心強く感じさせたからである。以上の三種が自分の作として、得意の物であるか不得意の物であるかを考えている暇《ひま》はない。わたしは焼け跡の灰の中から自分の財を拾い出したように感じたのであった。
「お正月から芝居がはじまる……。左団次が出る……。」と、そこらに群がっている人の口から、一種の待つある如きさざめきが伝えられている。
わたしは愉快にそれを聴いた。私もそれを待っているのである。少年時代のむかしに復《かえ》って、春を待つという若やいだ心が私の胸に浮き立った。幸か不幸か、これも震災の賜物である。
「いや、まだほかにもある。」
こう気がついて、わたしは劇場の前を離れた。横町はまだ滑りそうに凍っているその細い路を、わたしの下駄はカチカチと踏んで急いだ。家へ帰ると、すぐに書斎の戸棚から古いバスケットを取り出した。
震災の当時、蔵書も原稿もみな焼かれてしまったのであるが、それでもいよいよ立ち退くというまぎわに、書斎の戸棚の片隅に押し込んである雑誌や新聞の切抜きを手あたり次第にバスケットへつかみ込んで来た。それから紀尾井町、目白、麻布と転々する間に、そのバスケットの底を丁寧に調べてみる気も起らなかったが、麻布にひとまず落着いて、はじめてそれを検査すると、幾束かの切抜きがあらわれた。それは何かの参考のために諸新聞や雑誌を切り抜いて保存して置いたもので、自分自身の書いたものは二束に過ぎないばかりか、戯曲や小説のたぐいは一つもない、すべてが随筆めいた雑文ばかりである。その随筆も勿論全部ではない、おそらく三分の一か四分の一ぐらいでもあろうかと思われた。
それだけでも掴み出して来たのは、せめてもの幸いであったと思うにつけて、一種の記念としてそれらを一冊に纏めてみようかと思い立ったが、何かと多忙に取りまぎれて、きょうまで其の儘《まま》になっていたのである。これも失われずに残されている物であると思うと、わたしは急になつかしくなって、その切抜きをいちいちにひろげて読みかえした。
わたしは今まで随分たくさんの雑文をかいている。その全部のなかから撰み出したらば、いくらか見られるものも出来るかと思うのであるが、前にもいう通り、手あたり次第にバスケットへつかみ込んで来たのであるから、なかには書き捨ての反古《ほご》同様なものもある。その反古も今のわたしにはまた捨て難い形見のようにも思われるので、なんでもかまわずに掻きあつめることにした。
こうなると、急に気ぜわしくなって、すぐにその整理に取りかかると、冬の日は短い。おまけに午後には二、三人の来客があったので、一向に仕事は捗取らず、どうにか斯《こ》うにか片付いたのは夜の九時頃である。それでも門前には往来の足音が忙がしそうに聞える。北の窓をあけて見ると、大通りの空は灯のひかりで一面に明るい。明治座は今夜も夜業《よなべ》をしているのであろうなどとも思った。
さて纏まったこの雑文集の名をなんと云っていいか判らない。今の仮住居の地名をそのままに、仮に『十番随筆』ということにして置いた。これもまた記念の意味にほかならない。[#地付き](昭和12[#「12」は縦中横]・10[#「10」は縦中横]刊『思い出草』所収)
底本:「綺堂むかし語り」光文社時代小説文庫、光文社
1995(平成7)年8月20日初版1刷発行
※「纏」と「纒」の混用は、統一せず、底本のママとした。
入力:tatsuki、『鳩よ!』編集部(「ゆず湯」のみ)
校正:松永正敏
2001年10月15日公開
2005年11月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
風呂を買うまで
岡本綺堂-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)麹町《こうじまち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)竹|竿《ざお》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「馮/几」、第4水準2-3-20]
[#…]:返り点
(例)「虫声満[#レ]地」
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)おでんや/\と呼んで来る。
-------------------------------------------------------
わたしは入浴が好きで、大正八年の秋以来あさ湯の廃止されたのを悲しんでいる一人である。浅草千束町《あさくさせんぞくまち》辺の湯屋では依然として朝湯を焚くという話をきいて、山の手から遠くそれを羨《うらや》んでいたのであるが、そこも震災後はどうなったか知らない。
わたしが多年ゆき馴れた麹町の湯屋の主人は、あさ湯廃止、湯銭値上げなどという問題について、いつも真っさきに立って運動する一人であるという噂を聞いて、どうもよくない男だとわたしは自分勝手に彼を呪《のろ》っていたのであるが、呪われた彼も、呪ったわたしも、時をおなじゅうして震災の火に焼かれてしまった。その後わたしは目白に一旦立ち退いて、雑司ヶ谷《ぞうしがや》の鬼子母神《きしもじん》附近の湯屋にゆくことになった。震災後どこの湯屋も一週間ないし十日間休業したが、各組合で申し合せでもしたのか知れない、再び開業するときには大抵その初日と二日目とを無料入浴デーにしたのが多い。わたしも雑司ヶ谷の御園湯《みそのゆ》という湯屋でその二日間無料の恩恵を蒙った。恩恵に浴すとはまったく此の事であろう。それから十月の初めまで私は毎日この湯にかよっていた。九月二十五日は旧暦の十五夜で、わたしはこの湯屋の前で薄《すすき》を持っている若い婦人に出逢った。その婦人もこの近所に避難している人であることを予《かね》て知っているので、薄《うす》ら寒い秋風に靡《なび》いているその薄の葉摺れが、わたしの暗いこころをひとしお寂しくさせたことを記憶している。
わたしはそれから河野義博君の世話で麻布の十番に近いところに貸家を見つけて、どうにか先ず新世帯を持つことになった。十番は平生でも繁昌している土地であるが、震災後の繁昌と混雑はまた一層甚だしいものであった。ここらにも避難者がたくさん集まっているので、どこの湯屋も少しおくれて行くと、芋を洗うような雑沓《ざっとう》で、入浴する方が却って不潔ではないかと思われるくらいであったが、わたしはやはり毎日かかさずに入浴した。ここでは越《こし》の湯《ゆ》と日の出湯というのにかよって、十二月二十二、二十三の両日は日の出湯で柚《ゆず》湯にはいった。わたしは二十何年ぶりで、ほかの土地のゆず湯を浴びたのである。柚湯、菖蒲《しょうぶ》湯、なんとなく江戸らしいような気分を誘い出すもので、わたしは「本日ゆず湯」のビラをなつかしく眺めながら、湯屋の新しい硝子戸をくぐった。
[#天から2字下げ]宿無しも今日はゆず湯の男哉
二十二日は寒い雨が降った。二十三日は日曜日で晴れていた。どの日もわたしは早く行ったので、風呂のなかはさのみに混雑していなかったが、ゆず湯というのは名ばかりで、湯に浮かんでいる柚の数のあまりに少ないのにやや失望させられた。それでも新しい湯にほんのりと匂う柚の香は、この頃とかくに尖《とが》り勝ちなわたしの神経を不思議にやわらげて、震災以来初めてほんとうに入浴したような、安らかな爽《さわや》かな気分になった。
麻布で今年の正月をむかえたわたしは、その十五日に再びかなりの強震に逢った。去年の大震で傷んでいる家屋が更に破損して、長く住むには堪えられなくなった。家主も建て直したいというので、いよいよ三月なかばにここを立ち退いて、さらに現在の大久保百人町《おおくぼひゃくにんまち》に移転することになった。いわゆる東移西転、どこにどう落着くか判らない不安をいだきながら、ともかくもここを仮りの宿りと定めているうちに、庭の桜はあわただしく散って、ここらの躑躅《つつじ》の咲きほこる五月となった。その四日と五日は菖蒲湯である。ここでは都湯というのに毎日かよっていたが、麻布のゆず湯とは違って、ここの菖蒲は風呂いっぱいに青い葉をうかべているのが見るから快《こころよ》かった。大かた子供たちの仕事であろうが、青々とぬれた菖蒲の幾束が小桶に挿してあったのも、なんとなく田舎めいて面白かった。四日も五日もあいにくに陰っていたが、これで湯あがりに仰ぎ視る大空も青々と晴れていたら、さらに爽快であろうと思われた。
湯屋は大久保駅の近所にあって、わたしの家からは少し遠いので、真夏になってから困ることが出来た。日盛りに行っては往復がなにぶんにも暑い。ここらは勤め人が多いので、夕方から夜にかけては湯屋がひどく混雑する。
わたしの家に湯殿はあるが、据風呂がないので内湯を焚くわけに行かない。幸いに井戸の水は良いので、七月から湯殿で行水《ぎょうずい》を使うことにした。大盥《おおだらい》に湯をなみなみと湛《たた》えさせて、遠慮なしにざぶざぶ浴びてみたが、どうも思うように行かない。行水――これも一種の俳味を帯びているものには相違ないので、わたしは行水にちなんだ古人の俳句をそれからそれへと繰り出して、努《つと》めて俳味をよび起そうとした。わたしの家の畑には唐もろこしもある、小さい夕顔棚もある、虫の声もきこえる。月並ながらも行水というものに相当した季題の道具立てはまずひと通り揃っているのであるが、どうも一向に俳味も俳趣も泛《う》かび出さない。
行水をつかって、唐もろこしの青い葉が夕風にほの白くみだれているのを見て、わたしは日露戦争の当時、満洲で野天風呂を浴びたことを思い出した。海城、遼陽その他の城内にシナ人の湯屋があるが、城から遠い村落に湯屋というものはない。幸いに大抵の民家には大きい甕《かめ》が一つ二つは据えてあるので、その甕を畑のなかへ持ち出して、高梁《コウリャン》を焚いて湯を沸かした。満洲の空は高い、月は鏡のように澄んでいる。畑には西瓜《すいか》や唐茄子《とうなす》が蔓を這わせて転がっている。そのなかで甕から首を出して鼻唄を歌っていると、まるで狐に化かされたような形であるが、それも陣中の一興《いっきょう》として、その愉快は今でも忘れない。甕は焼き物であるから、湯があまりに沸き過ぎた時、うかつにその縁《ふち》などに手足を触れると、火傷《やけど》をしそうな熱さで思わず飛びあがることもあった。
しかしそれは二十年のむかしである。今のわたしは野天風呂で鼻唄をうたっている勇気はない。行水も思ったほどに風流でない。狭くても窮屈でも、やはり据風呂を買おうかと思っている。そこでまた宿無しが一句うかんだ。
[#ここから2字下げ]
宿無しが風呂桶を買ふ暑さ哉
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き](大正13[#「13」は縦中横]・7「読売新聞」)
底本:「綺堂むかし語り」光文社時代小説文庫、光文社
1995(平成7)年8月20日初版1刷発行
※「纏」と「纒」の混用は、統一せず、底本のママとした。
入力:tatsuki、『鳩よ!』編集部(「ゆず湯」のみ)
校正:松永正敏
2001年10月15日公開
2005年11月2日修正
青空文庫作成ファイル:
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郊外生活の一年
岡本綺堂-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)麹町《こうじまち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)竹|竿《ざお》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「馮/几」、第4水準2-3-20]
[#…]:返り点
(例)「虫声満[#レ]地」
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)おでんや/\と呼んで来る。
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震災以来、諸方を流転して、おちつかない日を送ること一年九ヵ月で、月並の文句ではあるが光陰流水の感に堪えない。大久保へ流れ込んで来たのは十三年の三月で、もう一年以上になる。東京市内に生まれて、東京市内に生活して、郊外というところは友人の家をたずねるか、あるいは春秋の天気のよい日に散歩にでも出かける所であると思っていた者が、測《はか》らずも郊外生活一年の経験を積むことを得たのは、これも震災の賜物《たまもの》と云っていいかも知れない。勿論、その賜物に対してかなりの高価を支払ってはいるが……。
はじめてここへ移って来たのは、三月の春寒《はるさむ》がまだ去りやらない頃で、その月末の二十五、二十六、二十七の三日間は毎日つづいて寒い雨が降った。二十八日も朝から陰って、ときどきに雪を飛ばした。わたしの家の裏庭から北に見渡される戸山ヶ原には、春らしい青い色はちっとも見えなかった。尾州《びしゅう》侯の山荘以来の遺物かと思われる古木が、なんの風情も無しに大きい枯れ枝を突き出しているのと、陸軍科学研究所の四角張った赤煉瓦《あかれんが》の建築と、東洋製菓会社の工場に聳えている大煙突と、風の吹く日には原一面に白く巻きあがる砂煙りと、これだけの道具を列べただけでも大抵は想像が付くであろう。実に荒涼|索莫《さくばく》、わたしは遠い昔にさまよい歩いた満洲の冬を思い出して、今年の春の寒さがひとしお身にしみるように感じた。
「郊外はいやですね。」と、市内に住み馴れている家内の女たちは云った。
「むむ。どうも思ったほどによくないな。」と、わたしも少しく顔をしかめた。
省線電車や貨物列車のひびきも愉快ではなかった。陸軍の射的場《しゃてきば》のひびきも随分騒がしかった。戸山ヶ原で夜間演習のときは、小銃を乱射するにも驚かされた。湯屋の遠いことや、買物の不便なことや、いちいち数え立てたらいろいろあるので、わたしも此処《ここ》まで引っ込んで来たのを悔むような気にもなったが、馴れたらどうにかなるだろうと思っているうちに、郊外にも四月の春が来て、庭にある桜の大木二本が満開になった。枝は低い生垣《いけがき》を越えて往来へ高く突き出しているので、外から遠く見あげると、その花の下かげに小さく横たわっている私の家は絵のようにみえた。戸山ヶ原にも春の草が萌《も》え出して、その青々とした原の上に、市内ではこのごろ滅多に見られない大きい鳶《とんび》が悠々と高く舞っていた。
「郊外も悪くないな。」と、わたしはまた思い直した。
五月になると、大久保名物の躑躅《つつじ》の色がここら一円を俄かに明るくした。躑躅園は一軒も残っていないが、今もその名所のなごりをとどめて、少しでも庭のあるところに躑躅の花を見ないことはない。元来の地味がこの花に適しているのであろうが、大きい木にも小さい株にも皆めざましい花を付けていた。わたしの庭にも紅白は勿論、むらさきや樺色《かばいろ》の変り種も乱れて咲き出した。わたしは急に眼がさめたような心持になって、自分の庭のうちを散歩するばかりでなく、暇さえあれば近所をうろついて、そこらの家々の垣根のあいだを覗《のぞ》きあるいた。
庭の広いのと空地《あきち》の多いのとを利用して、わたしも近所の人真似に花壇や畑を作った。花壇には和洋の草花の種をめちゃくちゃにまいた。畑には唐蜀黍《とうもろこし》や夏大根の種をまき、茄子《なす》や瓜《うり》の苗を植えた。ゆうがおの種も播《ま》き、へちまの棚も作った。不精者《ぶしょうもの》のわたしに取っては、それらの世話がなかなかの面倒であったが、いやしくも郊外に住む以上、それが当然の仕事のようにも思われて、わたしは朝晩の泥いじりを厭《いと》わなかった。六月の梅雨のころになると、花壇や畑には茎《くき》や蔓《つる》がのび、葉や枝がひろがって、庭一面に濡れていた。
夏になって、わたしを少しく失望させたのは、蛙《かわず》の一向に鳴かないことであった。筋向うの家の土手下の溝《どぶ》で、二、三度その鳴き声を聴いたことがあったが、そのほかにはほとんど聞えなかった。麹町辺でも震災前には随分その声を聴いたものであるが、郊外のここらでどうして鳴かないのかと、わたしは案外に思った。蛍《ほたる》も飛ばなかった。よそから貰った蛍を庭に放したが、そのひかりはひと晩ぎりで皆どこへか消え失せてしまった。さみだれの夜に、しずかに蛙を聴き、ほたるを眺めようとしていた私の期待は裏切られた。その代りに犬は多い。飼い犬と野良犬がしきりに吠えている。
幾月か住んでいるうちに、買物の不便にも馴れた。電車や鉄砲の音にも驚かなくなった。湯屋が遠いので、自宅で風呂を焚くことにした。風呂の話は別に書いたが、ゆうぐれの涼しい風にみだれる唐蜀黍の花や葉をながめながら、小さい風呂にゆっくりと浸っているのも、いわゆる郊外気分というのであろうと、暢気《のんき》に悟るようにもなった。しかもそう暢気に構えてばかりもいられない時が来た。八月になると旱《ひでり》つづきで、さなきだに水に乏しいここら一帯の居住者は、水を憂いずにはいられなくなった。どこの家でも井戸の底を覗くようになって、わたしの家主の親類の家などでは、駅を越えた遠方から私の井戸の水を貰いに来た。この井戸は水の質も良く、水の量も比較的に多いので、覿面《てきめん》に苦しむほどのことはなかったが、一日のうちで二時間ないし三時間は汲めないような日もあった。庭の撒水《まきみず》を倹約する日もあった。折角の風呂も休まなければならないような日もあった。わたしも一日に一度ずつは井戸をのぞきに行った。夏ばかりでなく、冬でも少し照りつづくと、ここらは水切れに脅《おびや》かされるのであると、土地の人は話した。
蛙や蛍とおなじように、ここでは虫の声もあまり多く聞かれなかった。全然鳴かないと云うのではないが、思ったほどには鳴かなかった。麹町にいた時には、秋の初めになると機織虫《はたおりむし》などが無暗《むやみ》に飛び込んで来たものであるが、ここではその鳴く声さえも聴いたことはなかった。庭も広く、草も深いのに、秋の虫が多く聴かれないのは、わたしの心を寂しくさせた。虫が少ないと共に、藪蚊《やぶか》も案外に少なかった。わたしの家で蚊やりを焚いたのは、前後ふた月に過ぎなかったように記憶している。
秋になっては、コスモスと紫苑《しおん》がわたしの庭を賑わした。夏の日ざかりに向日葵《ひまわり》が軒を越えるほど高く大きく咲いたのも愉快であったが、紫苑が枝や葉をひろげて高く咲き誇ったのも私をよろこばせた。紫苑といえば、いかにも秋らしい弱々しい姿をのみ描かれているが、それが十分に生長して、五株六株あるいは十株も叢《むら》をなしているときは、かの向日葵などと一様に、むしろ男性的の雄大な趣を示すものである。薄むらさきの小さい花が一つにかたまって、青い大きい葉の蔭から雲のようにたなびき出ているのを遠く眺めると、さながら松のあいだから桜を望むようにも感じられる。世間一般からは余りに高く評価されない花ではあるが、ここへ来てから私はこの紫苑がひどく好きになった。どこへ行っても、わたしは紫苑を栽《う》えたいと思っている。
唐蜀黍もよく熟したが、その当時わたしは胃腸を害していたので、それを焼く煙りを唯ながめているばかりであった。糸瓜《へちま》も大きいのが七、八本ぶらさがって、そのなかには二尺を越えたのもあった。
郊外の冬はあわれである。山里は冬ぞ寂しさまさりける――まさかにそれほどでもないが、庭の枯れ芒《すすき》が木枯らしを恐れるようになると、再びかの荒涼索莫がくり返されて、宵々ごとに一種の霜気《そうき》が圧して来る。朝々ごとに庭の霜柱が深くなる。晴れた日にも珍しい小鳥がさえずって来ない。戸山ヶ原は青い衣をはがれて、古木もその葉をふるい落すと、わずかに生き残った枯れ草が北風と砂煙りに悼《いた》ましくむせんで、かの科学研究所の煉瓦や製菓会社の煙突が再び眼立って来る。夜は火の廻りの柝《き》の音が絶えずきこえて、霜に吠える家々の犬の声がけわしくなる。朝夕の寒気は市内よりも確かに強いので、感冒にかかり易いわたしは大いに用心しなければならなかった。
郊外に盗難の多いのはしばしば聞くことであるが、ここらも用心のよい方ではない。わたしの横町にも二、三回の被害があって、その賊は密行の刑事巡査に捕えられたが、それから間もなく、わたしの家でも窃盗《せっとう》に見舞われた。夜が明けてから発見したのであるが、賊はなぜか一物《いちもつ》をも奪い取らないで、新しいメリンスの覆面頭巾を残して立ち去った。一応それを届けて置くと、警察からは幾人の刑事巡査が来て丁寧に現場を調べて行ったが、賊は不良青年の群れで、その後に中野《なかの》の町で捕われたように聞いた。わたしの家の女中のひとりが午後十時ごろに外から帰って来る途中、横町の暗いところで例の痴漢に襲われかかったが、折りよく巡査が巡回して来たので救われた。とかくにこの種の痴漢が出没するから婦人の夜間外出は注意しろと、町内の組合からも謄写版《とうしゃばん》の通知書をまわして来たことがある。わたしの住んでいる百人町には幸いに火災はないが、淀橋辺には頻繁の火事沙汰がある。こうした事件は冬の初めが最も多い。
「郊外と市内と、どちらが好《よ》うございます。」
私はたびたびこう訊かれることがある。それに対して、どちらも同じことですねと私は答えている。郊外生活と市内生活と、所詮《しょせん》は一長一短で、公平に云えば、どちらも住みにくいと云うのほかはない。その住みにくいのを忍ぶとすれば、郊外か市内か、おのおのその好むところに従えばよいのである。[#地付き](大正14[#「14」は縦中横]・4「読売新聞」)
底本:「綺堂むかし語り」光文社時代小説文庫、光文社
1995(平成7)年8月20日初版1刷発行
※「纏」と「纒」の混用は、統一せず、底本のママとした。
入力:tatsuki、『鳩よ!』編集部(「ゆず湯」のみ)
校正:松永正敏
2001年10月15日公開
2005年11月2日修正
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このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
*地名
(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。- -----------------------------------
- 新旧東京雑題
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- 麹町の山王 さんのう → 山王祭
- 山王祭 さんのう まつり 山王権現の例祭。陰暦4月中の申の日。東京の日枝神社では、6月15日。
- 麹町 こうじまち 東京都千代田区の一地区。もと東京市35区の一つ。
- 神田明神 かんだ みょうじん 東京都千代田区外神田にある元府社。祭神は大己貴命・少彦名命。平将門をもまつる。神田神社。
- 神田祭 かんだ まつり 東京の神田明神の祭礼。5月15日(もと9月15日)。本祭と陰祭とを隔年に行い、神輿巡幸・山車・踊などでにぎわう。山王祭と共に天下祭と呼ばれ、江戸の祭の代表。
- 深川 ふかがわ 東京都江東区の一地区。もと東京市35区の一つ。
- 深川の八幡 → 富岡八幡宮
- 富岡八幡宮 とみおか はちまんぐう 東京都江東区富岡にある元府社。応神天皇ほかをまつる。歴代横綱の碑があり、8月15日の深川祭が有名。深川八幡。
- 四谷 よつや 東京都新宿区内の一地区。もと東京市35区の一つ。
- 京橋 きょうばし (1) 東京都中央区にあった橋。江戸時代、東海道で京へ上る際に日本橋を起点として最初に渡った。(2) もと東京市35区の一つ。京橋 (1) を中心とする地帯で、昔から繁華な所。
- 日本橋 にほんばし (1) 東京都中央区にある橋。隅田川と外濠とを結ぶ日本橋川に架かり、橋の中央に全国への道路元標がある。1603年(慶長8)創設。現在の橋は1911年(明治44)架設、花崗岩欧風アーチ型。(2) 東京都中央区の一地区。もと東京市35区の一つ。23区の中央部を占め、金融・商業の中枢をなし、日本銀行その他の銀行やデパートが多い。
- [京都]
- 祇園会 ぎおんえ 京都の八坂神社の祭礼。昔は6月7日から14日、今は7月17日から24日まで行う。山鉾巡行などは有名。祇園御霊会。祇園祭。
- [大阪]
- 天満祭 てんま まつり 大阪の天満宮の夏祭すなわち天神祭のこと。7月25日、昔は陰暦6月。神輿の川渡御を中心行事として江戸時代を通じて盛ん。天満の船祭。天満天神祭。
- 招魂社 しょうこんしゃ 明治維新前後から、国家のために殉難した人の霊を祀った神社。1868年(明治1)各地の招魂場を改称。1939年(昭和14)さらに護国神社と改称。靖国神社も招魂社の一つであるが護国神社と改称しなかった。
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- 人形の趣味
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- 三越呉服店 みつこしごふくてん? 三越。東京都中央区日本橋室町に本店がある百貨店。延宝元年(1673)三井高利創業の呉服商越後屋に始まる。明治37(1904)三越呉服店と改称し、昭和3(1928)三越となる。
- 満州 まんしゅう 満州・満洲。中国の東北一帯の俗称。もと民族名。行政上は東北三省(遼寧・吉林・黒竜江)と内モンゴル自治区の一部にわたり、中国では東北と呼ぶ。
- 海城 かいじょう/ハイチォン 中国、東北地区南部、遼寧省東部の都市。鞍山の南西約30km。沙河の左岸に位置。中長鉄道に沿い、小麦・大豆などの農産物を集散。柞蚕糸・絹織物・灯油・滑石酒類などを産する。漢の遼東郡の地、晋以後は高句麗が支配、唐に至ってその統治を脱した。遼代には海州、金代には橙州となり、明代には海州衛が置かれ、清朝に至って海城県と改められた。1985年、市となる。
(地名コン) - 南京 ナンキン (Nanjing; Nanking)中国江蘇省南西部にある省都。長江に臨み、古来、政治・軍事の要地。古く金陵・建業・建康などと称し、明代に北京に対して南京と称。中華民国国民政府時代の首都。化学工業などが盛ん。人口362万4千(2000)。別称、寧。
- 広東 カントン (1) (Guangdong)中国南部の省。省都は広州。面積約18万平方km。別称、粤。華僑の出身地として古くから知られ、海外との経済交流が盛ん。民国時代には孫文ら革命派の根拠地として、北方軍閥に対立する革命勢力の拠点となった。(2) (Canton)広州の別称。
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- 十番雑記
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- 麹町 こうじまち 東京都千代田区の一地区。もと東京市35区の一つ。
- 麻布十番 あざぶ じゅうばん 現、港区。一〜四丁目か。旧麻布区は、現港区の中央部西寄りを占める地域。麻布は、日清・日露の戦争前後から隣接する赤坂とともに軍都の一部、軍隊の街として変貌した地域。
- 麻布宮村町 あざぶ みやむらちょう 現、港区六本木六丁目・元麻布二〜三丁目。麻布台地の頂部周辺にあり、片側町が分散している。
- 目白 → 目白台か
- 目白台 めじろだい 文京区関口台町。現、文京区目白台。新長谷寺の目白不動にちなみ目白台とも通称された。
- 安田銀行 やすだ ぎんこう 両替営業を主とする安田商店をもとに、1880(明治13)1月、安田善次郎によって創設された銀行。第三銀行ほか多数の関係銀行をもち、多くの中小銀行の危機救済に関与しながら安田財閥の中心として発展。1923(大正12)11月、安田系11行の合併により、全国一の規模をもつ株式会社安田銀行となった。第二次大戦後の48年(昭和23)に富士銀行と改称。
(日本史) - 渋谷 しぶや 東京都23区の一つ。渋谷駅付近は交通の結節点で、副都心の一つとして繁栄。明治神宮・代々木公園などがある。
- 道玄坂 どうげんざか 東京都渋谷区南西部、JR渋谷駅の西側にある坂。また、その周辺の地名。
- 末広座
- 明治座 めいじざ 東京の日本橋浜町にある劇場。1873年(明治6)喜昇座として開場、93年現名に改称。
- 松竹合名会社
- 松竹 しょうちく 演劇・映画・演芸の興行会社。1902年(明治35)創立の松竹合名社に始まる。白井松次郎と大谷竹次郎の名前の1文字目を組み合わせたもの。
- 紀尾井町 きおいちょう 東京都千代田区。主に大学と商業地域になっており、ビルのほか地域南部には日本を代表する高級ホテルがあるところとして知られる。地名は当地にかつてあった紀州徳川家中屋敷、尾張徳川家中屋敷、彦根井伊家中屋敷に由来。
- 麻布 あざぶ 東京都港区の一地区。もと東京市35区の一つ。江戸時代からの名称。高級住宅地で外国大公使館などが多い。
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- 風呂を買うまで
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- 浅草千束町 あさくさ せんぞくまち 現、台東区浅草・千束・竜泉・東浅草・日本堤・清川・荒川区南千住。明治12(1879)千束村が浅草六軒町と合併。同22年には下谷区・浅草区にそれぞれ一部が属して下谷区下谷竜泉寺町、浅草区浅草南千束町。浅草北千束町などとなり、北豊島郡に残った分の一部は合併して南千住町となった。同24年には浅草区の千束村の大部分は浅草千束町一〜三丁目となり、残りは浅草町・浅草田中町へそれぞれ合併した。
- 雑司ヶ谷 ぞうしがや 東京都豊島区南東部の住宅地区。雑司ヶ谷霊園や鬼子母神がある。
- 雑司ヶ谷鬼子母神 ぞうしがや きしぼじん 現、豊島区雑司ヶ谷三丁目、法明寺。かつての雑司ヶ谷村のほぼ中央に位置する。威光山と号し、日蓮宗。江戸時代、当寺境内の南方に祀られていた鬼子母神は雑司ヶ谷鬼子母神の名で広く知られ、江戸市中からも多くの参詣客が訪れた。
- 御園湯 みそのゆ
- 越の湯 こしのゆ
- 日の出湯
- 大久保百人町 おおくぼ ひゃくにんまち 「ひゃくにんちょう」
。現、新宿区百人町一〜四丁目など。明治初年に百人組同心大縄地を合わせて成立。早くから里俗に百人町とよばれ、また東西路によって大きく三つの区画に分かれ、南から南百人町・中百人町・北百人町ともよばれていた。 - 都湯
- 大久保駅
- [満州]
- 遼陽 りょうよう (Liaoyang)中国遼寧省の都市。瀋陽の南、旧満鉄沿線の要地。遼・金時代には東京と称した。日露戦争の激戦地。人口72万8千(2000)。
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- 郊外生活の一年
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- 戸山ヶ原 とやまがはら 東京都新宿区中央部を占める地区。もと原野で練兵場など陸軍の施設があった。
- 陸軍科学研究所
- 東洋製菓会社
- 中野 なかの 東京都23区の一つ。新宿区の西に位置し、中央本線沿線の住宅地域。宝仙寺・新井薬師・哲学堂などがある。
- 淀橋 よどばし (1) もと東京都新宿区の一地区。東は新宿の繁華街に接し、青梅街道が東西に貫通。浄水場の跡地に都庁が移転。この地区を中心に新宿新都心と俗に呼ばれる超高層ビル群を形成。(2) もと東京市35区の一つ。
◇参照:Wikipedia、
*年表
- 明治五(一八七二)一〇月 岡本綺堂、生まれる。
- 一八八一(明治一四) 黙阿弥の『嶋鵆月白浪』作。
- 一八八四(明治一七)九月 神田の祭礼の名残り。祭礼番付ができる。祭礼中に九月十五日の大風雨があって、東京府下だけでも丸潰れ一〇八〇戸、半つぶれ二二二五戸という大被害で、神田の山車小屋などもみな吹き倒される。
- 一八八五、一八八六(明治一八、九)ごろまで 縁日などで売っている安い玩具は、たいてい二銭八厘と相場が決まっていた。
- 一八八七(明治二〇)六月 山王の祭礼、この後はいちじるしく衰える。
- 一八八七(明治二〇) 東京の湯屋に対して種々のむずかしい規則が発布。
- 一八九二(明治二五)八月 深川の八幡、このころが名残りか。
- 一九〇四〜〇五(明治三七〜三八) 日露戦争。
- 一九一六、一九一七(大正五、六)ごろ そば屋で天どんや親子どんぶりを売りはじめる。
- 一九一九(大正八)一〇月 東京の朝湯、いっせいに廃止。のち、客からの苦情があるので、近年あさ湯を復活したところもある。
- 一九二〇(大正九)一〇月 綺堂「人形の趣味」
『新家庭』。 - 一九二三(大正一二)九月一日 関東大震災。綺堂、震災に麹町の家を焼かれる。
- 一九二三(大正一二)九月八日 焼け跡の灰かきに行った人たちが、わずかに五つ六つのこげた人形を掘り出してきてくれる。
- 一九二三(大正一二)一〇月のはじめまで 綺堂、雑司ヶ谷の御園湯にかよう。
- 一九二三(大正一二)一〇月一二日 時雨ふる朝、目白の額田六福方を立ち退いて、麻布宮村町(麻布十番近く)へ引き移る。翌年の三月まで仮寓。越の湯と日の出湯へかよう。
- 一九二四(大正一三)一月二日 末広座が明治座と改称して松竹合名会社の手で開場、左団次一座が出演。
- 一九二四(大正一三)一月一五日 ふたたびかなりの強震。
- 一九二四(大正一三)三月なかば 麻布を立ち退いて、大久保百人町に移転。都湯に毎日かよう。七月から湯殿で行水。
- 一九二四(大正一三)三月二八日 朝から陰って、ときどき雪。
- 一九二四(大正一三)五月 大久保名物のツツジの色が一円をにわかに明るくした。ツツジ園は一軒も残っていない。
- 一九二四(大正一三)七月 綺堂「風呂を買うまで」
『読売新聞』。 - 一九二五(大正一四)四月 綺堂「郊外生活の一年」
『読売新聞』。 - 一九二七(昭和二)四月 綺堂「新旧東京雑題」
『サンデー毎日』。 - 一九三七(昭和一二)八月三一日 書庫の整理。
- 一九三七(昭和一二)一〇月 綺堂『思い出草』刊。
◇参照:Wikipedia、
*人物一覧
(人名、および組織・団体名・神名)- -----------------------------------
- 新旧東京雑題
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- 式亭三馬 しきてい さんば 1776-1822 江戸後期の草双紙・滑稽本作者。本名、菊地久徳。別号、遊戯堂・洒落斎など。江戸の人。初め書肆を、のち薬商を営み、かたわら著作に従事。
「雷太郎強悪物語」を書いて合巻流行のいとぐちを開く。作「浮世風呂」 「浮世床」など。 - 山路愛山 やまじ あいざん 1864-1917 ジャーナリスト・著作家。本名、弥吉。江戸生れ。幕臣の子。キリスト教徒。民友社に入り、国民新聞などの記者として、異色ある史論・文学論を発表。信濃毎日新聞主筆。雑誌「独立評論」を刊行。著「足利尊氏」
「現代金権史」 「社会主義管見」など。 - 黙阿弥 もくあみ → 河竹黙阿弥
- 河竹黙阿弥 かわたけ もくあみ 1816-1893 歌舞伎脚本作者。本姓吉村、のち古河。幼名、芳三郎。作者名、勝諺蔵・柴晋輔ほか。江戸の人。5世鶴屋南北に師事し、2世河竹新七を襲名。作劇技巧にすぐれ、詞藻豊か。生世話物を得意とし、明治の新社会劇散切物や新史劇活歴物を始めた。
「船弁慶」など松羽目物にも新境地を開く。作「三人吉三廓初買」 「白浪五人男」 「島鵆月白浪」など。 - -----------------------------------
- 人形の趣味
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- 竹田出雲 たけだ いずも 浄瑠璃作者。(1) (初世)俳号、奚疑。竹本座の座元で作者を兼ねた。作「蘆屋道満大内鑑」など。
(?〜1747)(2) (2世)初世の子。名は清定。初め小出雲と名乗る。座元と作者とを兼ね、人形芝居の最盛期を画した。 「菅原伝授手習鑑」 「義経千本桜」 「仮名手本忠臣蔵」などは一代の名作。 (1691〜1756) - イプセン Henrik Ibsen 1828-1906 ノルウェーの劇作家。当初は韻文劇も書いたが、後に散文写実劇に専念して一連の市民劇や社会問題劇を発表。近代劇の父と称される。
「ペール=ギュント」 「人形の家」 「幽霊」 「野鴨」 「ヘッダ=ガブラー」など。 - 星野麦人 ほしの ばくじん 1877-1965 俳人。本名仙吉。東京水道町生まれ。明治34年『俳藪』を創刊、のち秋声会機関誌『卯杖』と合併して『木太刀』と改題、大正期をへて没するに至るまでこれを主宰し、明治・大正・昭和の三代にわたって俳壇の長老と目された。句風は温和平明。句集『あぢさゐ』
『草笛』 『松の春』の他、 『俳諧年表』 『紅葉句帳』 『蕉門十哲句集』の編著等多い。 (人名) - 堀江 ほりえ 神戸住。
- 孫悟空 そんごくう 中国の長編小説「西遊記」の中で中心的役割をする怪猿。七十二般変化の術とカ斗雲の法とを修得して天宮を騒がせ、斉天大聖と号したが、釈尊の法力によって鎮圧され、後に玄奘三蔵の天竺行きに随伴し、大小八十一難を凌いで、5048巻の経典を授けられるのを助けた。孫行者。
- 蝦蟆仙人 がま せんにん (1) がまを使う仙人。とくに中国三国時代、呉の葛玄、および五代後梁の劉海蟾をさす。がません。(2) 画題の一つ。劉海蟾、呂洞賓、李鉄拐をいっしょに描くもの。
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- 十番雑記
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- 額田六福 ぬかだ ろっぷく 1890-1948 劇作家。本名、六福(むつとみ)。岡山県生まれ。明治44年処女作『踏絵』を書き、翌年上京して岡本綺堂の門下に入った。脚本『出陣』が大正6年1月、五代中村歌右衛門により歌舞伎座で上演され、劇作家としての地位を確立。同9年、早大卒業後はもっぱら創作に従い、歌舞伎、新派、新国劇など商業演劇のため多くの戯曲を執筆した。代表作として『真如』
『冬木心中』 『天一坊』 『宇都宮城史』、翻案劇『白野弁十郎』などのほか、 『毒鼓』 『風流一代男』 『諸国捕物帳』 『相馬大作』などの大衆小説がある。新歌舞伎の正統な継承者として綺堂と同じく最も史劇に長じ、綺堂没後も雑誌『舞台』の主宰者として後進の指導に努めた。 (人名) - 河野義博 こうの よしひろ 1890-? 大正期の劇作家。代表作は「日本戯曲全集」第18科巻に収録。東山梨郡の町村会長を務める。
(人レ) - 梶原源太 かじわら げんた → 梶原景季
- 梶原景季 かじわら かげすえ 1162-1200 鎌倉初期の武将。源頼朝の臣。景時の子。源太と称。騎射および和歌に長じた。宇治川の戦に先陣の功を佐々木高綱に奪われた。また、一谷・生田の森の合戦に箙に梅花の枝をさして奮戦。
- 中島俊雄 なかじま としお
- 左団次 → 市川左団次か
- 市川左団次 いちかわ さだんじ 歌舞伎俳優。屋号、高島屋。(1) (初代)新作を得意とし9代市川団十郎・5代尾上菊五郎とともに明治の三名優と称せられた。明治座を創設・経営。
(1842〜1904)(2) (2代)初代の子。岡本綺堂・真山青果と提携して新歌舞伎を開拓、小山内薫と自由劇場を組織して西洋近代劇を紹介。 (1880〜1940)(3) (3代)6代市川門之助の養子。立役から女形まで広い芸域を持ち、6代尾上菊五郎没後は菊五郎劇団の重鎮。 (1898〜1969) - -----------------------------------
- 風呂を買うまで
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- 郊外生活の一年
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- 尾州侯 びしゅうこう → 尾州家か
- 尾州家 びしゅうけ 徳川氏三家の一つ。徳川家康の第9子義直を祖とする。尾張・美濃および信濃の一部を領した。石高61万9000石。尾張家。
- 山路愛山 やまじ あいざん 1864-1917 ジャーナリスト・著作家。本名、弥吉。江戸生れ。幕臣の子。キリスト教徒。民友社に入り、国民新聞などの記者として、異色ある史論・文学論を発表。信濃毎日新聞主筆。雑誌「独立評論」を刊行。著「足利尊氏」
◇参照:Wikipedia、
*書籍
(書名、雑誌名、論文名、映画・能・狂言・謡曲などの作品名)- -----------------------------------
- 新旧東京雑題
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- 『浮世風呂』 うきよぶろ 滑稽本。詳しくは、諢話浮世風呂。式亭三馬作。4編9冊。1809〜13年(文化6〜10)刊。町人の社交場であった銭湯における会話を通じて、庶民生活の種々相を描く。
- 『嶋鵆月白浪』 しまちどり つきのしらなみ 島鵆月白浪。歌舞伎脚本。5幕。河竹黙阿弥作の散切物。1881年(明治14)初演。盗賊明石の島蔵が因果の道理を知り改心し、仲間の松島千太らをも改心させる筋。
- 『サンデー毎日』 サンデー まいにち 毎日新聞社発行の週刊誌。1922年に大阪毎日新聞(現・毎日新聞大阪本社)の新社屋(大阪市北区堂島)の落成記念の一環として、
「点字毎日」などと共に創刊され、週刊朝日と並ぶ、日本の週刊誌の老舗。 - -----------------------------------
- 人形の趣味
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- 「木太刀」 きだち? 星野麦人の著? 雑誌名?
- 『新家庭』 しんかてい? 大正5(1916)
、ジャーナリストの結城礼一郎が玄文社の主幹として招かれ、 『新演芸』と共に創刊。同10年8月、結城は主幹を辞して顧問となる。 (国史) - 『十番随筆』 岡本綺堂の随筆集。
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- 十番雑記
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- 『十番随筆』 岡本綺堂の随筆集。
- 『猫柳』 ねこやなぎ 岡本綺堂の随筆集。
- 「忠信の道行」 ただのぶの みちゆき
- 「躄の仇討ち」 いざりのあだうち 浄瑠璃。
「箱根霊験躄仇討」の通称。 - 「箱根霊験躄仇討」 はこね れいげん いざりの あだうち 浄瑠璃。時代物。十二段。司馬芝叟作。享和元(1801)初演。座名は不明。同年大坂道頓堀東芝居で再演。歌舞伎でもすぐ上演された。天正18(1590)飯沼勝五郎が兄の敵加藤幸助を討った実説によるという。病気で足がなえ、零落した勝五郎が女房初花の献身で箱根権現の利生を受け、滝口上野と改名した敵を討つ「箱根滝の段」が名高い。通称「躄勝五郎」
「躄の仇討」 。 - 「鳥辺山心中」 とりべやま しんじゅう (1) 歌舞伎脚本。1706年(宝永3)京ではおまん源五兵衛の心中とし、同年夏大坂ではお染半九郎の心中と変わる。(2) 2代市川左団次の杏花戯曲十種の一つ。1幕。岡本綺堂作の新歌舞伎。1915年(大正4)初演。将軍のお供で上洛した旗本菊地半九郎が、祇園の遊女お染と鳥辺山で心中する筋。
- 『信長記』 しんちょうき 「信長公記」参照。
- 『信長公記』 しんちょうこうき 織田信長の一代記。首巻とも16巻。太田牛一著。1600年(慶長5)頃の成立。また「信長記」
(15巻)は小瀬甫庵がこれに基づいて加筆論述し、22年(元和8)に刊行したもの。 - 「浪華の春雨」 なにわの はるさめ
- 「双面」 ふたおもて → 「両顔月姿絵」か
- 「両顔月姿絵」 ふたおもて つきのすがたえ 常磐津。初世河竹新七作詞。木村円夫増補、二世岸沢古式部作曲。二世西川扇蔵振付。寛政10(1798)江戸森田座初演。お組を恋する法界坊の霊と若松の許嫁野分姫の霊とが一つに合して、お組と同一姿で現われ、荵(しのぶ)売りに身をやつしたお組と若松を悩ます。別名題「双面水照月(ふたおもてみずにてるつき)
」。通称「荵売」 。 - 『思い出草』
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- 風呂を買うまで
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- 『読売新聞』 よみうり しんぶん 日本の主要新聞の一つ。1874年(明治7)子安峻・本野盛亨らが創刊。明治後期、尾崎紅葉らが作品を発表。大正末、正力松太郎が社長になってより大幅に部数を伸ばす。1942年(昭和17)報知新聞を合併。現在は、日本最大の全国紙。
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- 郊外生活の一年
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◇参照:Wikipedia、
*難字、求めよ
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- 新旧東京雑題
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- 花山車 はなだし 花などで飾った山車。
- 氏子 うじこ (1) 氏神すなわち祖神の子孫。藤原氏の春日神社における、橘氏の梅宮神社における類。うじびと。氏の子。(2) 産土神が守ってくれる地に住む人。
- ミルク‐ホール (和製語milk hall)牛乳を飲ませ、パンなども売る簡易な飲食店。明治末期から大正期に流行。
- 桃湯 ももゆ 夏の土用中に桃の葉を入れて沸かした浴湯。汗疹を治す効があるという。
- 三方 さんぼう (1) (サンポウとも)三つの方向。三つの面。(2) 衝重の一種。神仏または貴人に供物を奉り、または儀式で物をのせる台。方形の折敷を桧の白木で造り、前・左・右の三方に刳形のある台を取り付けたもの。古くは食事をする台に用いた。
- 湯銭 ゆせん 銭湯に入浴する料金。入浴料。
- 種物 たねもの (2) てんぷら・玉子とじなど、他の材料の入っている汁蕎麦または汁饂飩。
- 阿亀蕎麦 おかめそば かまぼこ・椎茸・湯葉などを入れたつゆそば。おかめ。
- うどん台
- 夜なきうどん よなきうどん 夜鳴饂飩。夜間、深更まで路上で蕎麦・饂飩を売り歩く人。また、その饂飩。夜鳴蕎麦ともいう。
- 風鈴そば ふうりん そば 風鈴蕎麦。夜なき蕎麦の一種。行商するものが、その荷に風鈴をつけて歩くからいう。
- 夜鷹そば よたか そば 夜鷹蕎麦。夜ふけまで街上を売り歩く蕎麦屋。また、その売っている蕎麦。夜鳴蕎麦。
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- 人形の趣味
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- 今戸焼 いまどやき (1) 江戸浅草の今戸で作られた素焼の土器。土風炉・灯心皿・人形などのほか、釉を施した楽焼風の雑器も産出。(2) (今戸人形の顔にたとえていう)不美人。醜い女。
- 伏見人形 ふしみ にんぎょう 安土桃山時代頃より京都伏見で作られる、形・彩色の素朴な土製の人形。稲荷人形。伏見雛。
- 饅頭人形 まんじゅう にんぎょう
- 生子人形 うぶこ にんぎょう
- 雅味 がみ 上品で風流な趣。
- 小芥子 こけし 郷土人形の一つ。東北地方の特産。木地を轆轤で挽いた円筒状の胴に丸い頭をつけ、簡単な彩色をして女児の姿を表す。土湯系・弥治郎系など10の系統に分かれる。小芥子這子。こけし人形。木ぼこ。木でこ。
- 家重代 いえ じゅうだい 家に代々伝わっていること。
- 舞楽面 ぶがくめん 舞楽に使用する仮面。表情は象徴的で、伎楽面より小さく薄手。陵王・納曾利・還城楽・新鳥蘇・案摩など十数曲で用いる。
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- 十番雑記
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- 秋暑 しゅうしょ 秋の暑さ。立秋が過ぎてからの暑さ。残暑。
- 書きさし かきさし 書止、か。書いて途中でやめること。また、途中で書きやめたもの。
- 所懐 しょかい 心におもうところ。所感。
- 草堤 くさづつみ 「くさどて(草土手)
」に同じ。草のおいしげっている土手。 - 経師屋 きょうじや 経師を職業とする人。表具屋。大経師。
- 省線 しょうせん (1) 鉄道省の経営した汽車または電車の線路。鉄道院時代には院線と言った。(2) 省線電車の略。国鉄時代の国電に相当する。
- さこそ 然こそ (1) まったくそのように(は)。あんなに。(2) (推量の表現を伴って)さだめし。さぞ。どんなにか。(3) いくら(…でも)。
- 狸羊羹 たぬき ようかん
- 狸せんべい たぬき せんべい 木更津市の名物煎餅。証城寺にちなむ。
- 居着き・居付き いつき (1) いつくこと。(2) 一定の場所に常棲する魚。根付魚。
- 寒菊 かんぎく アブラギクを改良した黄花の園芸品種。冬咲き。ほかに、晩生のキクで、冬まで開花を続けるものをもいう。残菊。冬菊。
- 天長 てんちょう → 天長祭、天長節
- 天長祭 てんちょうさい 天皇誕生日に宮中三殿で行われる祭祀。小祭の一つ。旧制では天長節祭と称した。
- 天長節 てんちょうせつ 四大節の一つ。天皇誕生の祝日。1868年(明治1)制定。第二次大戦後、天皇誕生日と改称。
- 降り暮らす ふりくらす 雨・雪などが朝から夕まで一日中降り続く。
- 数え日 かぞえび (1) その年内の残りの日を指折り数えること。また、その残り少ない日。(2) 利益の多い日。書入れ日。
- 箙の梅 えびらのうめ 生田の森の源平の戦で、梶原源太景季が箙に梅の枝を挿して奮戦した故事。能「箙」、浄瑠璃「ひらかな盛衰記」、常磐津舞踊「源太」などに作られ、また画題にされる。
- 手水鉢 ちょうずばち 手水 (1) を入れておく鉢。
- 手水 ちょうず (テミズの音便) (1) 手・顔などを洗う水。(2) 社寺など参拝の前に、手・顔を洗い清めること。(3) 厠。また、厠に行くこと。(4) 大小便。
- 合名会社 ごうめい がいしゃ 社員全員が会社の債務について、連帯無限の責任を負う会社。多くは家族企業的・個人企業的で、原則として各社員が業務を執行して会社を代表し、その出資は財産のほか、労務または信用が認められる。
- 口上看板 こうじょう かんばん 興行物の内容、出演する役者などを記す看板。
- 躄・膝行 いざり いざること。尻を地につけたまま進むこと。また、いざる人。
- 双面 ふた おもて 浄瑠璃・歌舞伎舞踊の演出様式。扮装の全く同じ二人の人物が現れて惑わすが、のちに一方が正体を現す趣向。能の「二人静」に原型が見える。歌舞伎では「隅田川続俤」で、法界坊がお組の霊になって現れ、お組と松若丸とを悩ます場面が有名。常磐津では「両顔月姿絵(ふたおもてつきのすがたえ)
」が現存。 - 前景気 まえ げいき 事が始まる前の景気。
- さざめき さざめくこと。また、その音。
- 若やぐ わかやぐ (1) 若々しく見える。若返る。(2) 酒席などが賑やかになる。
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- 風呂を買うまで
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- 葉擦れ はずれ 風などで草木の葉がすれ合い、音を立てること。
- 日盛り ひざかり 一日のうち、日のさかんに照る時。日の照る最中。多く夏の午後にいう。
- 俳味 はいみ 俳諧的な味わい。飄逸・洒脱の要素をもつ庶民的な趣味。俳諧味。俳趣味。
- 俳趣
- 高梁 コウリャン/コーリャン (中国語)中国産のモロコシ(唐黍)。高さ4mに達する。こうりょう。カオリャン。
- 唐茄子 とうなす 唐茄子・蕃南瓜。(1) 東京地方で、南瓜類の総称。(2) カボチャの一品種。果体は長く瓢箪形を呈し、表面は平滑または瘤質をなすもの。京都付近に栽培。カラウリ。
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- 郊外生活の一年
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- 春寒 はるさむ 立春の後の寒さ。
- 索莫・索寞・索漠 さくばく ものさびしいさま。また、元気の沮喪するさま。
- 蒲色・樺色 かばいろ 蒲(がま)の穂の色。赤みをおびた黄色。
- 覿面 てきめん (
「覿」はまみえる意) (1) まのあたり。目の前。目前。(2) 結果・効果などが目の前にすぐあらわれること。即座。 - 機織虫 はたおりむし キリギリスの異称。
- 蚊遣り かやり 蚊を追い払うために、煙をくゆらし立てること。また、そのもの。かいぶし。
- 紫苑・紫Y しおん (1) キク科の多年草。シベリア・モンゴルなどアジア北東部の草原と西日本に広く分布。観賞用に栽培。茎は直立し、高さ1.5m前後。秋、茎の上部で分枝、ノギクに似た淡紫色の優美な頭状花を多数つける。鬼の醜草。のし。しおに。
- 霜気 そうき 霜の催す冷気。
- 感冒 かぜ/かんぼう 身体を寒気にさらしたり濡れたまま放置したりしたときに起こる呼吸器系の炎症性疾患の総称。かぜ。風邪。
- メリンス merinos (メリノ羊の毛で織ったからいう)薄く柔らかく織った毛織物。とうちりめん。
◇参照:Wikipedia、
*後記(工作員 日記)
ちかごろ出版された古事記や古代出雲関連の書籍を見ると、1984年に荒神谷遺跡から出土した銅剣358本、1996年に加茂岩倉遺跡から出土した39個の銅鐸がかならずといっていいほど登場する。
ちなみに山形県の羽黒山御手洗池から出土した銅鏡は、大正のはじめから昭和のはじめにかけて四度の発掘によって、総数約600面以上が出土したと考えられている。現在、羽黒三山社務所にはそのうちの190面が保管されている。
ふと気になったのは、出土した銅剣や銅鐸・銅鏡の表面をおおっている銅さび(緑青、ろくしょう)のこと。
刀剣・鐸鈴・鏡などはいずれも埋葬者を邪気から守るための副葬品と説明されるが、当時のひとたちは銅さびの抗菌効果に気がついていたんじゃないだろうか、と思いつく。
「緑青……有毒とされてきたが、ほとんど無害。
「緑青は昔から毒物と考えられてきたが、これは金属製錬技術が未発達な時代に銅の中に鉱石由来の多量の砒素などが混入していたため、砒素中毒を引き起こしたためではないかとされている。実際は、過剰に摂取しない限り毒性は低いとみられている。
村上隆『金・銀・銅の日本史』
壁画「飛鳥美人」やキトラ古墳の「四神」が長い間、カビに犯されなかった一因には、副葬として銅製品がおさめられ、銅イオン、ヒ素、鉛の室内濃度が自然界よりも高かった可能性は考えられないだろうか。当時の人たちは経験的に銅製品の抗菌性に気がついていたんじゃないだろうか。だから、神聖な埋葬には、金や銀や鉄もさることながら、積極的に銅製品が選択されていたんじゃないだろうか。銅製副葬品の抗菌説……いちおうオリジナルの仮説です。
*次週予告
第五巻 第六号
大震火災記 鈴木三重吉
第五巻 第六号は、
二〇一二年九月一日(土)発行予定です。
定価:200円
T-Time マガジン 週刊ミルクティー* 第五巻 第五号
新旧東京雑題 / 人形の趣味(他)岡本綺堂
発行:二〇一二年八月二五日(土)
編集:しだひろし / PoorBook G3'99
http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目
アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。
- T-Time マガジン 週刊ミルクティー* *99 出版
- バックナンバー
※ おわびと訂正
長らく、創刊号と第一巻第六号の url 記述が誤っていたことに気がつきませんでした。アクセスを試みてくださったみなさま、申しわけありませんでした。(しょぼーん)/2012.3.2 しだ
- 第一巻
- 創刊号 竹取物語 和田万吉
- 第二号 竹取物語小論 島津久基(210円)
- 第三号 竹取物語の再検討(一)橘 純一(210円)
- 第四号 竹取物語の再検討(二)橘 純一(210円)
「絵合」 『源氏物語』より 紫式部・与謝野晶子(訳) - 第五号
『国文学の新考察』より 島津久基(210円)- 昔物語と歌物語 / 古代・中世の「作り物語」/
- 平安朝文学の弾力 / 散逸物語三つ
- 第六号 特集 コロボックル考 石器時代総論要領 / コロボックル北海道に住みしなるべし 坪井正五郎 マナイタのばけた話 小熊秀雄 親しく見聞したアイヌの生活 / 風に乗って来るコロポックル 宮本百合子
- 第七号 コロボックル風俗考(一〜三)坪井正五郎(210円)
- シペ物語 / カナメの跡 工藤梅次郎
- 第八号 コロボックル風俗考(四〜六)坪井正五郎(210円)
- 第九号 コロボックル風俗考(七〜十)坪井正五郎(210円)
- 第十号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
- 日本太古の民族について / 日本民族概論 / 土蜘蛛種族論につきて
- 第十一号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
- 東北民族研究序論 / 猪名部と佐伯部 / 吉野の国巣と国樔部
- 第十二号 日高見国の研究 喜田貞吉
- 第十三号 夷俘・俘囚の考 喜田貞吉
- 第十四号 東人考 喜田貞吉
- 第十五号 奥州における御館藤原氏 喜田貞吉
- 第十六号 考古学と古代史 喜田貞吉
- 第十七号 特集 考古学 喜田貞吉
- 遺物・遺蹟と歴史研究 / 日本における史前時代の歴史研究について / 奥羽北部の石器時代文化における古代シナ文化の影響について
- 第十八号 特集 考古学 喜田貞吉
- 日本石器時代の終末期について /「あばた」も「えくぼ」、
「えくぼ」も「あばた」― ―日本石器時代終末期― ― - 第十九号 特集 考古学 喜田貞吉
- 本邦における一種の古代文明 ―
―銅鐸に関する管見― ― / - 銅鐸民族研究の一断片
- 第二〇号 特集 考古学 喜田貞吉
「鐵」の字の古体と古代の文化 / 石上神宮の神宝七枝刀 / - 八坂瓊之曲玉考
- 第二一号 博物館(一)浜田青陵
- 第二二号 博物館(二)浜田青陵
- 第二三号 博物館(三)浜田青陵
- 第二四号 博物館(四)浜田青陵
- 第二五号 博物館(五)浜田青陵
- 第二六号 墨子(一)幸田露伴
- 第二七号 墨子(二)幸田露伴
- 第二八号 墨子(三)幸田露伴
- 第二九号 道教について(一)幸田露伴
- 第三〇号 道教について(二)幸田露伴
- 第三一号 道教について(三)幸田露伴
- 第三二号 光をかかぐる人々(一)徳永 直
- 第三三号 光をかかぐる人々(二)徳永 直
- 第三四号 東洋人の発明 桑原隲蔵
- 第三五号 堤中納言物語(一)池田亀鑑(訳)
- 第三六号 堤中納言物語(二)池田亀鑑(訳)
- 第三七号 堤中納言物語(三)池田亀鑑(訳)
- 第三八号 歌の話(一)折口信夫
- 第三九号 歌の話(二)折口信夫
- 第四〇号 歌の話(三)
・花の話 折口信夫- 第四一号 枕詞と序詞(一)福井久蔵
- 第四二号 枕詞と序詞(二)福井久蔵
- 第四三号 本朝変態葬礼史 / 死体と民俗 中山太郎
- 第四四号 特集 おっぱい接吻
- 乳房の室 / 女の情欲を笑う 小熊秀雄
- 女体 芥川龍之介
- 接吻 / 接吻の後 北原白秋
- 接吻 斎藤茂吉
- 第四五号 幕末志士の歌 森 繁夫
- 第四六号 特集 フィクション・サムライ 愛国歌小観 / 愛国百人一首に関連して / 愛国百人一首評釈 斎藤茂吉
- 第四七号
「侍」字訓義考 / 多賀祢考 安藤正次- 第四八号 幣束から旗さし物へ / ゴロツキの話 折口信夫
- 第四九号 平将門 幸田露伴
- 第五〇号 光をかかぐる人々(三)徳永 直
- 第五一号 光をかかぐる人々(四)徳永 直
- 第五二号
「印刷文化」について 徳永 直- 書籍の風俗 恩地孝四郎
- 第二巻
- 第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン
- 第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン
- 第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 楠山正雄(訳)
- 第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 小酒井不木 / 折口信夫 / 坂口安吾
- 第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 海野十三 / 折口信夫 / 斎藤茂吉
- 第六号 新羅人の武士的精神について 池内 宏
- 第七号 新羅の花郎について 池内 宏
- 第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉
- 第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治
- 第一〇号 風の又三郎 宮沢賢治
- 第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎
- 第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎
- 第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎
- 第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎
- 第一五号 能久親王事跡(五)森 林太郎
- 第一六号 能久親王事跡(六)森 林太郎
- 第一七号 赤毛連盟 コナン・ドイル
- 第一八号 ボヘミアの醜聞 コナン・ドイル
- 第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル
- 第二〇号 暗号舞踏人の謎 コナン・ドイル
- 第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉
- 第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉
- 第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太
- 第二四号 まれびとの歴史 /「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫
- 第二五号 払田柵跡について二、三の考察 / 山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉
- 第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎
- 第二七号 種山ヶ原 / イギリス海岸 宮沢賢治
- 第二八号 翁の発生 / 鬼の話 折口信夫
- 第二九号 生物の歴史(一)石川千代松
- 第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松
- 第三一号 生物の歴史(三)石川千代松
- 第三二号 生物の歴史(四)石川千代松
- 第三三号 特集 ひなまつり
- 雛 芥川龍之介 / 雛がたり 泉鏡花 / ひなまつりの話 折口信夫
- 第三四号 特集 ひなまつり
- 人形の話 / 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫
- 第三五号 右大臣実朝(一)太宰 治
- 第三六号 右大臣実朝(二)太宰 治
- 第三七号 右大臣実朝(三)太宰 治
- 第三八号 清河八郎(一)大川周明
- 第三九号 清河八郎(二)大川周明
- 第四〇号 清河八郎(三)大川周明
- 第四一号 清河八郎(四)大川周明
- 第四二号 清河八郎(五)大川周明
- 第四三号 清河八郎(六)大川周明
- 第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉
- 第四五号 火葬と大蔵 / 人身御供と人柱 喜田貞吉
- 第四六号 手長と足長 / くぐつ名義考 喜田貞吉
- 第四七号
「日本民族」とは何ぞや / 本州における蝦夷の末路 喜田貞吉- 第四八号 若草物語(一)L.M. オルコット
- 第四九号 若草物語(二)L.M. オルコット
- 第五〇号 若草物語(三)L.M. オルコット
- 第五一号 若草物語(四)L.M. オルコット
- 第五二号 若草物語(五)L.M. オルコット
- 第五三号 二人の女歌人 / 東北の家 片山広子
- 第三巻
- 第一号 星と空の話(一)山本一清
- 第二号 星と空の話(二)山本一清
- 第三号 星と空の話(三)山本一清
- 第四号 獅子舞雑考 / 穀神としての牛に関する民俗 中山太郎
- 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治 / 奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
- 第六号 魏志倭人伝 / 後漢書倭伝 / 宋書倭国伝 / 隋書倭国伝
- 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南
- 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南
- 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南
- 第一〇号 最古日本の女性生活の根底 / 稲むらの陰にて 折口信夫
- 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦
- 瀬戸内海の潮と潮流 / コーヒー哲学序説 /
- 神話と地球物理学 / ウジの効用
- 第一二号 日本人の自然観 / 天文と俳句 寺田寅彦
- 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉
- 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉
- 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉
- 倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う /
- 倭奴国および邪馬台国に関する誤解
- 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)
- 第一七号 高山の雪 小島烏水
- 第一八号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(一)徳永 直
- 第一九号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(二)徳永 直
- 第二〇号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(三)徳永 直
- 第二一号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(四)徳永 直
- 第二二号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(五)徳永 直
- 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治
- 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治
- 第二五号 ドングリと山猫 / 雪渡り 宮沢賢治
- 第二六号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(六)徳永 直
- 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫
- 黒川能・観点の置き所 / 村で見た黒川能
- 能舞台の解説 / 春日若宮御祭の研究
- 第二八号 面とペルソナ / 人物埴輪の眼 他 和辻哲郎
- 面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
- 能面の様式 / 人物埴輪の眼
- 第二九号 火山の話 今村明恒
- 第三〇号 現代語訳『古事記』
(一)前巻(前編) 武田祐吉(訳)- 第三一号 現代語訳『古事記』
(二)前巻(後編) 武田祐吉(訳)- 第三二号 現代語訳『古事記』
(三)中巻(前編) 武田祐吉(訳)- 第三三号 現代語訳『古事記』
(四)中巻(後編) 武田祐吉(訳)- 第三四号 山椒大夫 森 鴎外
- 第三五号 地震の話(一)今村明恒
- 第三六号 地震の話(二)今村明恒
- 第三七号 津波と人間 / 天災と国防 / 災難雑考 寺田寅彦
- 第三八号 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉
- 第三九号 キュリー夫人 / はるかな道(他)宮本百合子
- 第四〇号 大正十二年九月一日よりの東京・横浜間 大震火災についての記録 / 私の覚え書 宮本百合子
- 第四一号 グスコーブドリの伝記 宮沢賢治
- 第四二号 ラジウムの雁 / シグナルとシグナレス(他)宮沢賢治
- 第四三号 智恵子抄(一)高村光太郎
- 第四四号 智恵子抄(二)高村光太郎
- 第四五号 ヴェスヴィオ山 / 日本大地震(他)斎藤茂吉
- 第四六号 上代肉食考 / 青屋考 喜田貞吉
- 第四七号 地震雑感 / 静岡地震被害見学記(他)寺田寅彦
- 第四八号 自然現象の予報 / 火山の名について 寺田寅彦
- 第四九号 地震の国(一)今村明恒
- 第五〇号 地震の国(二)今村明恒
- 第五一号 現代語訳『古事記』
(五)下巻(前編) 武田祐吉(訳)- 第五二号 現代語訳『古事記』
(六)下巻(後編) 武田祐吉(訳)
- 第四巻
- 第一号 日本昔話集 沖縄編(一)伊波普猷・前川千帆(絵)
- 第二号 日本昔話集 沖縄編(二)伊波普猷
- 第三号 アインシュタイン(一)寺田寅彦
- 物質とエネルギー / 科学上における権威の価値と弊害 /
- アインシュタインの教育観
- 第四号 アインシュタイン(二)寺田寅彦
- アインシュタイン / 相対性原理側面観
- 第五号 作家のみた科学者の文学的活動 / 科学の常識のため 宮本百合子
- 第六号 地震の国(三)今村明恒
- 第七号 地震の国(四)今村明恒
- 第八号 地震の国(五)今村明恒
- 第九号 地震の国(六)今村明恒
- 第一〇号 土神と狐 / フランドン農学校の豚 宮沢賢治
- 第一一号 地震学の角度から見た城輪柵趾 今村明恒
- 第一二号 庄内と日高見(一)喜田貞吉
- 第一三号 庄内と日高見(二)喜田貞吉
- 第一四号 庄内と日高見(三)喜田貞吉
- 第一五号 私は海をだきしめてゐたい / 安吾巷談・ストリップ罵倒 坂口安吾
- 第一六号 三筋町界隈 / 孫 斎藤茂吉
- 第一七号 原子力の管理(他)仁科芳雄
- 原子力の管理 / 日本再建と科学 / 国民の人格向上と科学技術 /
- ユネスコと科学
- 第一八号 J・J・トムソン伝(他)長岡半太郎
- J・J・トムソン伝 / アインシュタイン博士のこと
- 第一九号 原子核探求の思い出(他)長岡半太郎
- 総合研究の必要 / 基礎研究とその応用 / 原子核探求の思い出
- 第二〇号 蒲生氏郷(一)幸田露伴
- 第二一号 蒲生氏郷(二)幸田露伴
- 第二二号 蒲生氏郷(三)幸田露伴
- 第二三号 科学の不思議(一)アンリ・ファーブル
- 第二四号 科学の不思議(二)アンリ・ファーブル
- 第二五号 ラザフォード卿を憶う(他)長岡半太郎
- ラザフォード卿を憶う / ノーベル小伝とノーベル賞 / 湯川博士の受賞を祝す
- 第二六号 追遠記 / わたしの子ども時分 伊波普猷
- 第二七号 ユタの歴史的研究 伊波普猷
- 第二八号 科学の不思議(三)アンリ・ファーブル
- 第二九号 南島の黥 / 琉球女人の被服 伊波普猷
- 第三〇号
『古事記』解説 / 上代人の民族信仰 武田祐吉・宇野円空 - 第三一号 科学の不思議(四)アンリ・ファーブル
- 第三二号 科学の不思議(五)アンリ・ファーブル
- 第三三号 厄年と etc. / 断水の日 / 塵埃と光 寺田寅彦
- 第三四号 石油ランプ / 流言蜚語 / 時事雑感 寺田寅彦
- 第三五号 火事教育 / 函館の大火について 寺田寅彦
- 第三六号 台風雑俎 / 震災日記より 寺田寅彦
- 第三七号 火事とポチ / 水害雑録 有島武郎・伊藤左千夫
- 第三八号 特集・安達が原の黒塚 楠山正雄・喜田貞吉・中山太郎
- 第三九号 大地震調査日記(一)今村明恒
- 第四〇号 大地震調査日記(二)今村明恒
- 第四一号 大地震調査日記(続)今村明恒
- 第四二号 科学の不思議(六)アンリ・ファーブル
- 第四三号 科学の不思議(七)アンリ・ファーブル
- 第四四号 震災の記 / 指輪一つ 岡本綺堂
- 第四五号 仙台五色筆 / ランス紀行 岡本綺堂
- 第四六号 東洋歴史物語(一)藤田豊八
- 第四七号 東洋歴史物語(二)藤田豊八
- 第四八号 東洋歴史物語(三)藤田豊八
- 第四九号 東洋歴史物語(四)藤田豊八
- 第五〇号 東洋歴史物語(五)藤田豊八
- 第五一号 科学の不思議(八)アンリ・ファーブル
- 六二 キノコ
- 六三 森の中
- 六四 オオベニタケ
- 六五 地震
- 六六 寒暖計
- 六七 地の下の炉
- 六八 貝殻
- 六九 カタツムリ
- 七〇 アオガイと真珠
- 「(略)ヨーロッパにおこった地震のうちでいちばんひどかったのは、一七七五年〔一七五五年か〕の万聖節の日〔諸聖人の祝日。毎年十一月一日〕、リスボンであった地震だ。この平和なお祭りの日に、急に遠い雷のような音が地の下から轟(とどろ)き出した。そして地面が五、六度はげしくゆれて、上がったり下がったりした。そしてこのポルトガルの首府は、またたく間に壊れ家と死骸の山になってしまった。生き残った人びとは、家のたおれる下から逃げようとして、海岸の大きな波止場に出た。すると、たちまち波止場は水に飲みこまれて、むらがっていた人々も、つないであった船もみんなしずんでしまった。そして人一人、板子一枚、水面へ浮かび出ては来なかった。深い淵ができて、水も波止場も、舟も人も、みんなそこへ飲みこまれてしまったのだ。こうして六分間のあいだに、六〇〇〇の人間が死んだ。
」 - 「こんなさわぎがリスボンにおこって、ポルトガルの高い山々がゆれていた間に、モロッコ、スエズ、メキネズ〔メクネス。モロッコ中北部の州〕などというアフリカのいろんな都市が顛覆されてしまった。一万人ばかりの人が住んでいたある村は、突然開いて突然閉じてしまった谷底の中へ、人間もろともにそっくり飲みこまれてしまった。
」 - (略)
「また、こんなこともあった。一七八三年二月に南イタリアで四年間も続いた地震がおこった。はじめの一か年だけでも九四九度も地震があった。地面は荒海の水面のように震動でシワになってしまった。そしてこの動く地上に住んでいる人びとは、船に乗っているときのように、胸が悪くなって吐(は)きたくなった。陸の上で船酔いをしたのだ。そしてその震動のたびごとに、実際は動かないでいる雲が、はげしく動いているように見える。木は地の波でまがって、その梢(こずえ)が地をはいていた。 」 ( 「六五 地震」より) - 第五二号 科学の不思議(九)アンリ・ファーブル
- 七一 海
- 七二 波、塩、海藻
- 七三 流れる水
- 七四 巣分かれの群
- 七五 蜜蝋
- 七六 蜜房
- 七七 ハチミツ
- 七八 女王バチ
- 「波はどこからくるのですか?」とジュールがたずねました。
(略) - 「
(略)泡をかぶった、動く山の背のような波をわたしは忘れることはできない。その波は、重い船をクルミの殻のようにわけなく放りあげて、ある瞬間はそのおそろしい背中に乗せ、つぎの瞬間にはその水の峰と峰とのあいだの谷底に突き落とす。おう! 船の上の人間はどんなに小さく、心細く感ずることだろう。波の思うままに、高く揺りあげられ、また谷底に突き落とされるのだ!(略) 」 - 「海がいつも静かにしていたら、それは海にとってはかわいそうなことなんだよ、ぼうや。その静かにしているということと、海のためにいいこととは両立しないんだ。海の中の動物や植物に必要な空気を失ったり汚したりしないようにするには、はげしくひっかきまわさなければならない。水は大洋のためにも、大気あるいは空気の大洋のために必要なのとおなじ、健康をたもつための激動―
―大嵐でひっかきまわして水に生気(せいき)をあたえ、新しくすることが必要なのだ。 」 - 「風は大洋の表面をさわがす。もし、それが疾風であれば波が立つ。その波は泡立ちながら飛びあがって、たがいちがいに高いうねりになったり、くずれたりするのだ。もしまた、その疾風が強く間断なしに吹きつづけると、その風に逐(お)いまくられる水は、大きく長くふくれた大波になって、広い海を平行線をつくって前進する。そして堂々としたおなじ形で、あとからあとから追いつくようにして海岸に地響きをたてて打ちよせてゆくのだ。だが、それらの運動は、いくら騒々しくても、ただ海の表面だけのことだ。もっとも激しい大嵐のときでも、三十メートルも下のほうは静かなのだ。
」 ( 「七二 波、塩、海藻」より) - 第五巻 第一号 校註『古事記』
(一) 武田祐吉- 古事記 上つ巻 序并わせたり
- 序文
- 過去の時代
- 『古事記』の企画
- 『古事記』の成立
- 一、伊耶那岐の命と伊耶那美の命
- 天地のはじめ
- 島々の生成
- 神々の生成
- 黄泉の国
- 身禊
- 二、天照らす大神と須佐の男の命
- 誓約(うけい)
- 天の岩戸
- 「吾は子を生み生みて、生みの終に、三柱の貴子(うづみこ)を得たり」と詔りたまいて、すなわちその御首珠の玉の緒ももゆらに取りゆらかして、天照らす大御神にたまいて詔りたまわく、
「汝が命は高天の原を知らせ」と、言依さしてたまいき。かれその御首珠の名を、御倉板挙の神という。つぎに月読の命に詔りたまわく、 「汝が命は夜の食(おす)国を知らせ」と、言依さしたまいき。つぎに建速須佐の男の命に詔りたまわく、 「汝が命は海原を知らせ」と、言依さしたまいき。 - かれ、おのもおのもよさし〔寄さす。おまかせになる〕たまえる命のまにま知らしめすうちに、速須佐の男の命、依さしたまえる国を知らさずて、八拳須心前にいたるまで、啼きいさちき。その泣くさまは、青山は枯山なす泣きからし、河海はことごとに泣き乾しき。ここをもちて悪ぶる神の音ない、狭蝿なすみな満ち、万の物のわざわいつぶさに発りき。かれ伊耶那岐の大御神、速須佐の男の命に詔りたまわく、
「なにとかも汝は言依させる国を治らさずて、哭きいさちる」とのりたまえば、答え白(もう)さく〔申すには〕、 「僕は妣の国根の堅洲国に罷らんとおもうがからに哭く」ともうしたまいき。ここに伊耶那岐の大御神、大く忿らして詔りたまわく、 「しからば汝はこの国にはな住まりそ」と詔りたまいて、すなわち神逐いに逐いたまいき。かれ、その伊耶那岐の大神は、淡路の多賀にまします。 ( 「身禊」より) - 第五巻 第二号 校註『古事記』
(二) 武田祐吉- 古事記 上つ巻
- 三、須佐の男の命
- 穀物の種
- 八俣の大蛇
- 系譜
- 四、大国主の神
- 兎とワニ
- 貝比売と蛤貝比売
- 根の堅州国
- 八千矛の神の歌物語
- 系譜
- 少名毘古那の神
- 御諸の山の神
- 大年の神の系譜
- ここに速須佐の男の命、その童女を湯津爪櫛にとらして、御髻に刺さして、その足名椎・手名椎の神に告りたまわく、
「汝たち、八塩折の酒を醸み、また垣を作り廻し、その垣に八つの門を作り、門ごとに八つの仮を結い、その仮ごとに酒船を置きて、船ごとにその八塩折の酒を盛りて待たさね〔してほしい〕」とのりたまいき。かれ告りたまえるまにまにして、かく設け備えて待つときに、その八俣の大蛇、まことに言いしがごと来つ。すなわち船ごとに己が頭を乗り入れてその酒を飲みき。ここに飲み酔いて留まり伏し寝たり。ここに速須佐の男の命、その御佩の十拳の剣をぬきて、その蛇を切り散りたまいしかば、肥の河血になりて流れき。かれその中の尾を切りたまうときに、御刀の刃毀けき。ここに怪しと思おして、御刀の前もちて刺し割きて見そなわししかば、都牟羽の大刀あり。かれこの大刀を取らして、異しき物ぞと思おして、天照らす大御神に白しあげたまいき。こは草薙の大刀なり。 - かれここをもちてその速須佐の男の命、宮造るべき地を出雲の国に求ぎたまいき。ここに須賀の地にいたりまして詔りたまわく、
「吾、ここに来て、我が御心清浄し」と詔りたまいて、そこに宮作りてましましき。かれ、そこをば今に須賀という。この大神、はじめ須賀の宮作らししときに、そこより雲立ちのぼりき。ここに御歌よみしたまいき。その歌、 - や雲立つ 出雲八重垣。
- 妻隠みに 八重垣作る。
- その八重垣を。
- ここにその足名椎の神を喚して告りたまわく、
「汝をばわが宮の首に任けん」と告りたまい、また名を稲田の宮主須賀の八耳の神と負せたまいき。 ( 「八俣の大蛇」より) - 第五巻 第三号 校註『古事記』
(三) 武田祐吉- 古事記 上つ巻
- 五、天照らす大御神と大国主の神
- 天若日子
- 国譲り
- 六、邇邇芸の命
- 天降り
- 猿女の君
- 木の花の佐久夜毘売
- 七、日子穂穂出見の命
- 海幸と山幸
- 豊玉毘売の命
- 八、鵜葺草葺合えずの命
- ここに天つ日高日子番の邇邇芸の命、笠紗の御前に、麗(かおよ)き美人に遇いたまいき。ここに、
「誰が女ぞ」と問いたまえば、答え白(もう)さく、 「大山津見の神の女、名は神阿多都比売。またの名は木の花の佐久夜毘売ともうす」ともうしたまいき。また「汝が兄弟ありや」と問いたまえば答え白さく、 「わが姉石長比売あり」ともうしたまいき。ここに詔りたまわく、 「吾、汝に目合せんと思うはいかに」とのりたまえば答え白さく、 「僕はえ白さじ。僕が父大山津見の神ぞ白さん」ともうしたまいき。かれその父大山津見の神に乞いに遣わししときに、いたくよろこびて、その姉石長比売をそえて、百取の机代の物を持たしめてたてまつり出しき。かれここにその姉は、いと醜きによりて、見かしこみて、返し送りたまいて、ただその弟木の花の佐久夜毘売をとどめて、一宿婚わしつ。 (略) - かれ後に木の花の佐久夜毘売、まい出て白さく、
「妾は妊みて、今産むときになりぬ。こは天つ神の御子、ひそかに産みまつるべきにあらず。かれ請す」ともうしたまいき。ここに詔りたまわく、 「佐久夜毘売、一宿にや妊める。こはわが子にあらじ。かならず国つ神の子にあらん」とのりたまいき。ここに答え白さく、 「わが妊める子、もし国つ神の子ならば、産むとき幸くあらじ。もし天つ神の御子にまさば、幸くあらん」ともうして、すなわち戸なし八尋殿を作りて、その殿内に入りて、土もちて塗りふたぎて、産むときにあたりて、その殿に火をつけて産みたまいき。かれその火の盛りに燃ゆるときに、生れませる子の名は、火照の命〈こは隼人、阿多の君の祖なり。〉つぎに生れませる子の名は火須勢理の命、つぎに生れませる子の御名は火遠理の命、またの名は天つ日高日子穂穂出見の命。 ( 「木の花の佐久夜毘売」より) - 第五巻 第四号 兜 / 島原の夢 / 昔の小学生より / 三崎町の原 岡本綺堂
- わたしはこれから邦原君の話を紹介したい。邦原君は東京の山の手に住んでいて、大正十二年(一九二三)の震災に居宅と家財全部を焼かれたのであるが、家に伝わっていた古い兜が不思議に、ただひとつ助かった。
- それも邦原君自身や家族の者が取り出したのではない。その一家はほとんど着のみ着のままで目白の方面へ避難したのであるが、なんでも九月なかばの雨の日に、ひとりの女がその避難先へたずねてきて、震災の当夜、お宅の門前にこんな物が落ちていましたからお届け申しますと言って、かの兜を置いて帰った。そのとき、あたかも邦原君らは不在であったので、避難先の家人はなんの気もつかずにそれを受け取って、彼女の姓名をも聞きもらしたというのである。なにぶんにもあの混雑の際であるから、それもよんどころないことであるが、彼女はいったい何者で、どうして邦原君の避難先までわざわざ届けにきてくれたのか、それらの事情はいっさいわからなかった。
- いずれそのうちにはわかるだろうと、邦原君も深く気にも留めずにいたのであるが、その届け主は今にいたるまでわからない。焼け跡の区画整理はかたづいて、邦原君一家は旧宅地へ立ち戻ってきたので、知人や出入りの者などについて心あたりをいちいち聞きただしてみたが、誰も届けた者はないという。そこでさらに考えられることは、平生ならともあれ、あの大混乱の最中に身許不明の彼女が、たとい邦原家の門前に落ちていたとしても、その兜をすぐに邦原家の品物と認めたというのが少しく不審である。第一、邦原家の一族は前にもいうとおり、ほとんど着のみ着のままで立ち退いたのであるから、兜などを門前まで持ち出した覚えはないというのである。
( 「兜」より)
- 「こんなさわぎがリスボンにおこって、ポルトガルの高い山々がゆれていた間に、モロッコ、スエズ、メキネズ〔メクネス。モロッコ中北部の州〕などというアフリカのいろんな都市が顛覆されてしまった。一万人ばかりの人が住んでいたある村は、突然開いて突然閉じてしまった谷底の中へ、人間もろともにそっくり飲みこまれてしまった。
※ 定価二〇〇円。価格は税込みです。
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