東洋歴史物語(五)
二五、唐代 の文化
たとえば、唐の制度についてもそのことはいえるのです。この唐の制度は、だいたい
唐代の文化がいかに国際的のものであったか、それを
唐の
これは陸からの交通ですが、海の上の交通もおおいに発達を見ました。
こうした唐代における対外交通の発達は、
唐では
第二の宗教はマニ教です。この教えは、やはりペルシャのマニがつくり出したもので、その根本はゾロアスター教の
第三は
この景教がシナにひろまったことの記念として、
これらは、いずれも西方から伝わった宗教であり、イラン、ローマ方面の文化がシナに流れこんだいい例になります。なお唐代には
これらは唐代前後の新宗教ですが、古くからの宗教で唐代にもっともさかんになったのは仏教でありました。それはもちろんインド系統の文化を
唐代には仏教はさかんでしたが、
唐代の仏教美術・工芸
二六、五代 の世相
唐代は漢人の勢力が
唐につづく時代を
この時代においてもっともいちじるしい現象は、武人の
この
ここに、この渤海の話をいたします。
満州の東北部に
と
かくて契丹は強勢となり、しだいにシナ内部のほうへ手をのばしはじめ、
五代の最後の王朝、
二七、宋 の国情
兵士に
この太祖の治世を助けたのは、
かくて宋は唐末・五代の
図、太祖、微行して趙普を訪う
朝鮮半島において
宋をなやましたのは、この北方の遼のみではなかったのです。今のオルドス〔内モンゴル自治区の一部〕の地方に
宋は、建国のはじめから前代の
王安石は新政策を実行し、それによって富国強兵の
この新法の反対派、すなわち
こうして
この
二八、金 の興起
宋が、国運
満州に
宋では
かくて宋・金両国の同盟で遼は
宋では
宋が都を南に移したのち、宋のほうで金と
かくて宋と金とは
二九、蒙古 の勃興
漢民族は、じつに
しかし、唐代が終わるとともに、この漢民族の極盛期も終わりをつげ、ここにまた北方民族の優勢時代を見るにいたったのです。
では、蒙古はどこからおこったか。蒙古族は今の
当時、西夏の王は
蒙古はかくて
このとき、
ジンギスカン、すなわち
なお太宗は太祖の
欧州人が東方人をおそれ、ことに
その後、
三〇、元 の世祖
前にも申しましたように、蒙古では
世祖は
宋の遺臣らはなお天子を擁立して、宋室の回復をはかりましたが、しだいに追われ、ついに
張世傑は
宋は弱い国ながら、どうやら三〇〇年あまりもつづきましたが、とうとう
高麗は
高麗のさらに東の海の中には日本があります。
世祖はまた南方の征服をもはかり、今のビルマ〔ミャンマー〕
元ではこれらの諸民族を蒙古・
世祖がチベットを征したとき、その国に流行している仏教の一派のラマ教〔チベット仏教〕に
宋に対立していた遼は、まず自分の国の文字〔
従来の北方の
底本:
1981(昭和56)年6月20日発行
親本:
1929(昭和4)年11月5日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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東洋歴史物語(五)
藤田豐八-------------------------------------------------------
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二五、唐代《とうだい》の文化《ぶんか》
唐代《とうだい》の文化《ぶんか》は支那《しな》文化《ぶんか》の最《もつと》も豐熟《ほうじゆく》したもの、すなはち支那《しな》文化《ぶんか》の黄金《おうごん》時代《じだい》ともいひ得《う》るのです。從《したが》つてそれが後世《こうせい》に支那《しな》に及《およ》ぼした影響《えいきよう》も實《じつ》に大《おほ》きいものでした。しかし、その影響《えいきよう》を受《う》けたのはひとり支那《しな》のみならず、東方《とうほう》の諸國《しよこく》はみなこの唐《とう》文化《ぶんか》の光《ひかり》に浴《よく》して、その文化《ぶんか》の行《ゆ》く手《て》を示《しめ》してもらつたのです。日本《につぽん》も朝鮮《ちようせん》もみなこの唐《とう》文化《ぶんか》の恩澤《おんたく》に浴《よく》しました。滿洲《まんしゆう》に國《くに》を建《た》てゝゐた渤海《ぼつかい》ですら同《おな》じ恩《おん》を受《う》けたのです。
例《たと》へば、唐《とう》の制度《せいど》についてもそのことはいへるのです。この唐《とう》の制度《せいど》は、だいたい太宗《たいそう》の時《とき》に定《さだ》められたものですが、歴代《れきだい》の制度《せいど》のうちもっとも完備《かんび》したものでした。日本《につぽん》の大寶《たいほう》律令《りつりよう》は、ほとんどこの唐制《とうせい》を基礎《きそ》として作《つく》られたものでしたし、朝鮮《ちようせん》渤海《ぼつかい》いづれもこの模倣《もほう》を行《や》つたのです。儒學《じゆがく》の方《ほう》においては、さう新機軸《しんきじゆく》[#「しんきじゆく」は底本のまま]を出《だ》したわけではありませんが、文學《ぶんがく》の方面《ほうめん》、ことに詩《し》の方面《ほうめん》においては、まるで新生面《しんせいめん》を開拓《かいたく》いたしました。李白《りはく》とか杜甫《とほ》とか白《はく》樂天《らくてん》とかいづれも有名《ゆうめい》な詩人《しじん》たちです。しかも、唐《とう》の文化《ぶんか》といふものは、舊來《きゆうらい》の支那《しな》文化《ぶんか》の極盛點《きよくせいてん》を示《しめ》すのみならず、他面《ためん》においてはそれはきはめて國際的《こくさいてき》の色合《いろあひ》を持《も》つてゐるのです。すなはちこの唐代《とうだい》の文化《ぶんか》には、支那《しな》從來《じゆうらい》の文化《ぶんか》以外《いがい》にインドの文化《ぶんか》、また東《ひがし》ローマの文化《ぶんか》、イランの文化《ぶんか》などゝ諸外國《しよがいこく》の文化《ぶんか》がとりいれられ、それが渾然《こんぜん》としてゐました。インドもローマもイランも、いづれも當時《とうじ》におけるかゞやかしい文化《ぶんか》を持《も》つてゐたのですが、それがこの唐代《とうだい》文化《ぶんか》に流《なが》れこんでゐるのです。
唐代《とうだい》の文化《ぶんか》がいかに國際的《こくさいてき》のものであつたか、それを示《しめ》すのは唐代《とうだい》の宗教《しゆうきよう》を見《み》てもわかるのです。しかし、その前《まへ》に唐《とう》と諸外國《しよがいこく》、ことに西方《せいほう》諸國《しよこく》との交通《こうつう》のことを見《み》る必要《ひつよう》があります。
唐《とう》の盛世《せい/\》においては、その領土《りようど》は西《にし》の方《ほう》にずっと伸《の》び、またアジアの諸國《しよこく》はたいてい唐《とう》に通《つう》じましたので、西方《せいほう》諸國《しよこく》との交通《こうつう》はわりに容易《ようい》になり、使《つか》ひや商人《しようにん》などがかなり繁《しげ》く往來《おうらい》しました。これが貿易《ぼうえき》の範圍《はんい》を擴大《かくだい》したのはもちろんでした。西方《せいほう》の商人《しようにん》は遠《とほ》くは地中海《ちちゆうかい》方面《ほうめん》からパミールを越《こ》え、天山《てんざん》南路《なんろ》を經《へ》て長安《ちようあん》に來往《らいおう》しました。長安《ちようあん》には一時《いちじ》數千《すうせん》の外人《がいじん》がゐたと申《まを》します。實《じつ》にこの時代《じだい》の長安《ちようあん》は、ほんとうの國際的《こくさいてき》の都市《とし》だつたのです。ローマ人《じん》もギリシャ人《じん》もアラビア人《じん》もペルシャ人《じん》もユダヤ人《じん》もインド人《じん》も中央《ちゆうおう》アジア人《じん》も突厥人《とつけつじん》も日本人《につぽんじん》も朝鮮人《ちようせんじん》も、まるで人種《じんしゆ》展覽會《てんらんかい》のようだつたらうと思《おも》はれます。かういふ人間《にんげん》たちは非常《ひじよう》な困難《こんなん》をしのんで、當時《とうじ》世界《せかい》最大《さいだい》の都《みやこ》であつた長安《ちようあん》に集《あつま》つて來《き》たのです。
これは陸《りく》からの交通《こうつう》ですが、海《うみ》の上《うへ》の交通《こうつう》も大《おほ》いに發達《はつたつ》を見《み》ました。南海《なんかい》の交通《こうつう》の最初《さいしよ》の記録《きろく》は、前《まへ》に申《まを》しましたローマの使節《しせつ》の來《き》たことですが、その後《ご》南北朝《なんぼくちよう》のころから、支那《しな》の海運《かいうん》事業《じぎよう》も大《おほ》いに興《おこ》りました。これはことに佛教《ぶつきよう》の關係《かんけい》からインドの方《ほう》の交通《こうつう》でありまして、支那《しな》商人《しようにん》はその商權《しようけん》を握《にぎ》つたといひます。それに對《たい》して向《むか》うからやつて來《き》たのは、主《おも》にペルシャの船《ふね》でした。しかし大食《たーじ》が勃興《ぼつこう》してからは、その海上《かいじよう》の勢力《せいりよく》は他《た》を壓《あつ》して南海《なんかい》の海上權《かいじようけん》を一手《いつて》に收《をさ》め、その國《くに》の商船《しようせん》は盛《さか》んに廣州《こうしゆう》泉州《せんしゆう》抗州《こうしゆう》[#「抗州」は底本のまま]等《とう》の諸港《しよこう》に來《き》て貿易《ぼうえき》に從事《じゆうじ》いたました[#「いたました」は底本のまま]。唐《とう》ではこれらの港《みなと》に市舶司《しはくし》を設《まう》けてその取《と》り締《しま》りをなし、また海關税《かいかんぜい》といふ税金《ぜいきん》を徴集《ちようしゆう》しました。
かうした唐代《とうだい》における對外《たいがい》交通《こうつう》の發達《はつたつ》は、諸方《しよほう》の文化《ぶんか》を輸入《ゆにゆう》することをいかに容易《ようい》にしたことでせう。この唐代《とうだい》文化《ぶんか》の國際性《こくさいせい》の一例《いちれい》として、こゝに唐代《とうだい》に行《おこな》はれた西方《せいほう》の宗教《しゆうきよう》を採《と》つて見《み》ませう。その第一《だいゝち》は※[#「示+天」、第3水準1-89-22]教《けんきよう》であります。この※[#「示+天」、第3水準1-89-22]教《けんきよう》といふ教《をし》へは上古《じようこ》ペルシャのゾロアストルの唱《とな》へたもので、ゾロアストル教《きよう》とも拜火教《はいかきよう》とも申《まを》します。その支那《しな》にはひつたのは唐《とう》より前《まへ》ですが、とにかく唐代《とうだい》にかなり盛《さか》んになつたのです。この教《をし》へは二元《にげん》の教《をし》へでありまして、光明《こうみよう》の神《かみ》、すなはち善神《ぜんしん》と、暗黒《あんこく》の神《かみ》、すなはち惡神《あくしん》とがある。そして宇宙《うちゆう》の萬象《ばんしよう》はこと/″\くこの二神《にしん》の爭鬪《そうとう》から生《うま》れ出《で》る。そして人間《にんげん》は、その間《あひだ》にあつて善神《ぜんしん》の身方《みかた》をして惡神《あくしん》を亡《ほろぼ》せといふのがその教《をし》へでした。
唐《とう》では太宗《たいそう》がこの教《をし》への布教《ふきよう》を許《ゆる》し、また※[#「示+天」、第3水準1-89-22]祠《けんし》といつてその教《をし》へのお寺《てら》を建《た》てました。しかしこの教《をし》へは、唐《とう》の武宗《ぶそう》が佛教《ぶつきよう》に迫害《はくがい》を加《くは》へた時《とき》、まきぞへに迫害《はくがい》をうけその勢力《せいりよく》が衰《おとろ》へました。
第二《だいに》の宗教《しゆうきよう》は摩尼教《まにきよう》です。この教《をし》へは、やはりペルシャのマニが創《つく》り出《だ》したもので、その根本《こんぽん》はゾロアストル教《きよう》の二元觀《にげんかん》でしたが、それにキリスト教《きよう》や佛教《ぶつきよう》の教義《きようぎ》もとり入《い》れてあります。これにおいては、善神《ぜんしん》惡神《あくしん》の爭《あらそ》ひに、善神《ぜんしん》の最後《さいご》の勝利《しようり》を認《みと》めません。この教《をし》へは則天《そくてん》武后《ぶこう》のとき支那《しな》に傳《つた》はり、後《のち》武宗《ぶそう》の排撃《はいげき》を受《う》けました。
第三《だいさん》は景教《けいきよう》であります。これはキリスト教《きよう》の一派《いつぱ》ネストリウス派《は》の教《をし》へをいふのです。この派《は》のキリスト教《きよう》は、エフェソスの宗教《しゆうきよう》會議《かいぎ》で異端《いたん》とされてしまつたので、やむなく東方《とうほう》に布教《ふきよう》の地《ち》を求《もと》めてペルシャ地方《ちほう》に弘《ひろ》まりました。唐《とう》の太宗《たいそう》の時《とき》、宣教師《せんきようし》ペルシャ人《じん》オロバンによつてこの教《をし》へは支那《しな》に傳《つた》へられ、支那《しな》ではこれを景教《けいきよう》と申《まを》しました。その寺《てら》のことを初《はじ》めは波斯寺《はしじ》といひましたが、後《のち》に名《な》を大秦寺《たいしんじ》と改《あらた》めました。
この景教《けいきよう》が支那《しな》にひろまつたことの記念《きねん》として、大秦《たいしん》景教《けいきよう》流行《りゆうこう》中國碑《ちゆうこくひ》[#「ちゆうこくひ」は底本のまま]が景淨《けいじよう》といふ僧《そう》によつて長安《ちようあん》に建《た》てられるといふ盛觀《せいかん》を見《み》ました。この碑《ひ》は今《いま》でも殘《のこ》つてをります。この景教《けいきよう》もまた、武宗《ぶそう》の迫害《はくがい》のために勢《いきほ》ひを弱《よわ》められました。
これらは、いづれも西方《せいほう》から傳《つた》はつた宗教《しゆうきよう》であり、イラン、ローマ方面《ほうめん》の文化《ぶんか》が支那《しな》に流《なが》れこんだいゝ例《れい》になります。なほ唐代《とうだい》には大食人《たーじじん》が盛《さか》んにやつてまゐりましたが、かれ等《ら》の奉《ほう》じてゐたイスラム教《きよう》、すなはちマホメット教《きよう》が、唐代《とうだい》の支那人《しなじん》の間《あひだ》に信者《しんじや》を持《も》つたかどうかはすこぶる疑問《ぎもん》であります。
これらは唐代《とうだい》前後《ぜんご》の新宗教《しんしゆうきよう》ですが、古《ふる》くからの宗教《しゆうきよう》で唐代《とうだい》にもっとも盛《さか》んになつたのは佛教《ぶつきよう》でありました。それはもちろんインド系統《けいとう》の文化《ぶんか》を示《しめ》すものでありますが、歴代《れきだい》の天子《てんし》はこれを保護《ほご》奬勵《しようれい》したので大《おほ》いに發展《はつてん》し、ことに自《みづか》らインドに出《で》かけて行《い》つて經論《きようろん》を持《も》ち歸《かへ》りこれを譯出《やくしゆつ》した僧《そう》などもあつて、その流行《りゆうこう》はさかんで、名僧《めいそう》智識《ちしき》も多《おほ》く輩出《はいしゆつ》しました。しかし武宗《ぶそう》の迫害《はくがい》はこの佛教《ぶつきよう》の隆盛《りゆうせい》にかなりの衰運《すいうん》をもたらしました。
唐代《とうだい》には佛教《ぶつきよう》は盛《さか》んでしたが、道教《どうきよう》の勢力《せいりよく》もなか/\あなどり難《がた》いものがありました。ことに道教《どうきよう》であがめる老子《ろうし》といふ人《ひと》の姓《せい》が李《り》だつたといふので、唐室《とうしつ》の姓《せい》と同《おな》じだといふ點《てん》で歴代《れきだい》の天子《てんし》の非常《ひじよう》な尊信《そんしん》を得《え》ました。武宗《ぶそう》などはこの道教《どうきよう》を信《しん》ずるあまり他宗教《たしゆうきよう》に迫害《はくがい》を加《くは》へたのでした。佛教《ぶつきよう》がことに隆盛《りゆうせい》だつたことは、寺塔《じとう》の建築《けんちく》を盛《さか》んにし、その結果《けつか》佛像《ぶつぞう》、佛畫《ぶつが》の建立《こんりゆう》が盛《さか》んとなり、美術《びじゆつ》工藝《こうげい》の著《いちじる》しい進歩《しんぽ》を見《み》ました。書道《しよどう》も大《おほ》いに發達《はつたつ》し、また印刷術《いんさつじゆつ》もこのころから盛《さか》んになりました。この印刷《いんさつ》といふのは木版《もくはん》印刷《いんさつ》ですが、とにかく印刷《いんさつ》といふものは世界《せかい》において支那《しな》で最初《さいしよ》に發明《はつめい》せられたのです。
唐代《とうだい》の佛教《ぶつきよう》美術《びじゆつ》工藝《こうげい》等《とう》は、すべてわが王朝《おうちよう》文化《ぶんか》や新羅《しらぎ》の文化《ぶんか》、渤海《ぼつかい》の文化《ぶんか》などに持《も》つた影響《えいきよう》の大《おほ》いさはいふまでもないことです。
二六、五代《ごだい》の世相《せそう》
唐代《とうだい》は漢人《かんじん》の勢力《せいりよく》が内《うち》においても、また外《そと》に對《たい》しても極度《きよくど》に伸《の》びた時代《じだい》でしたが、これからはまた外民族《がいみんぞく》の勢力《せいりよく》、ことに北方《ほつぽう》の民族《みんぞく》の勢力《せいりよく》が漢人《かんじん》のうへにのしかゝつて來《く》る時代《じだい》がつゞくのです。
唐《とう》につゞく時代《じだい》を五代《ごだい》と申《まを》しますが、これは五十年《ごじゆうねん》ばかりの間《あひだ》に五《いつ》つの王朝《おうちよう》が交代《こうたい》したのでかう申《まを》すのです。しかしこの五《いつ》つの王朝《おうちよう》と申《まを》しても、その勢力《せいりよく》は微弱《びじやく》で、その力《ちから》の及《およ》ぶ範圍《はんい》も至《いた》つてせまく、從《したが》つてその他《た》にもいろ/\の群雄《ぐんゆう》が割據《かつきよ》してゐました。かうした諸勢力《しよせいりよく》は、主《おも》に唐代《とうだい》における藩鎭《はんちん》の勢力《せいりよく》を引《ひ》きついだものでした。この五代《ごだい》といふ五王朝《ごおうちよう》は、始《はじ》めは唐《とう》を倒《たふ》した朱《しゆ》全忠《ぜんちゆう》の後梁《こうりよう》、それから後唐《ごとう》、後晉《ごしん》、後漢《ごかん》、後周《ごしゆう》とつゞいたのです。
この時代《じだい》においてもっともいちじるしい現象《げんしよう》は、武人《ぶじん》の跋扈《ばつこ》といふことです。かれらはほしいまゝに自分《じぶん》たちの氣《き》に入《い》つた天子《てんし》を擁立《ようりつ》し、またそれが意《い》に滿《み》たない時《とき》は廢《はい》してしまふのです。ちょうど西洋《せいよう》の歴史《れきし》でも、ローマの時代《じだい》に兵士《へいし》が横暴《おうぼう》をきはめ、皇帝《こうてい》を勝手《かつて》に立《た》てたり倒《たふ》したりしたのに似《に》た事情《じじよう》でした。ですから歴代《れきだい》の天子《てんし》も名《な》のみの天子《てんし》で、虚位《きよい》を保《たも》つにすぎなかつたのです。
この時分《じぶん》に支那《しな》の東北方《とうほくほう》に一《ひと》つの新《あたら》しい勢力《せいりよく》が興《おこ》りました。それは契丹《きつたん》です。それは東胡《とうこ》民族《みんぞく》の後《あと》で、東部《とうぶ》内蒙古《うちもうこ》に遊牧《ゆうぼく》してゐた遊牧《ゆうぼく》の民《たみ》でした。早《はや》くから唐《とう》に歸服《きふく》してゐましたが、安史《あんし》の亂《らん》にはその叛軍《はんぐん》に加《くは》はつて戰《たゝか》つたのです。唐末《とうまつ》には獨立《どくりつ》の状態《じようたい》となり、耶律《やりつ》阿保機《あほき》といふ者《もの》が出《で》てその契丹《きつたん》の八部《はちぶ》を一統《いつとう》してつひに自《みづか》ら帝《てい》と稱《しよう》し、シラムレン川《がは》の畔《ほとり》臨※[#「さんずい+(廣−广)」、第3水準1-87-13]《りんこう》に都《みやこ》を定《さだ》めました。これを太祖《たいそ》といひます。そして諸方《しよほう》に征戰《せいせん》を行《おこな》ひました。そのころ滿洲《まんしゆう》には渤海《ぼつかい》といふ大國《たいこく》がありましたが、太祖《たいそ》はつひにこれを攻《せ》め亡《ほろぼ》してしまひました。
こゝにこの渤海《ぼつかい》の話《はなし》をいたします。
滿洲《まんしゆう》の東北部《とうほくぶ》に靺鞨《まつかつ》といふ種族《しゆぞく》がありました。それには七部《しちぶ》ありましたが、その中《うち》粟末水《ぞくまつすい》すなはち松花江畔《しようかこうはん》に據《よ》つた粟末《ぞくまつ》靺鞨《まつかつ》がもっとも勢力《せいりよく》を得《え》、それに大《たい》祚榮《そえい》といふ人《ひと》が出《で》て國《くに》を建《た》てました。後唐《ごとう》から渤海《ぼつかい》郡王《ぐんおう》に封《ほう》ぜられたので渤海《ぼつかい》をもつて國號《こくごう》と定《さだ》めました。この國《くに》がさかんに唐《とう》と交通《こうつう》し、その文化《ぶんか》の輸入《ゆにゆう》につとめたことは前《まへ》に申《まを》したとほりであります。またこの國《くに》は一方《いつぽう》わが國《くに》と好《よ》しみを通《つう》じました。その使節《しせつ》の始《はじ》めて來《き》たのは聖武《しようむ》天皇《てんのう》の世《よ》で、それから渤海《ぼつかい》が滅亡《めつぼう》するまで交際《こうさい》はつゞきました。その修交《しゆうこう》の目的《もくてき》の一面《いちめん》には、わが國《くに》から自分《じぶん》の國《くに》に物資《ぶつし》を輸入《ゆにゆう》しようといふこともあつたようです。また日本《につぽん》の方《ほう》にもこの國《くに》から毛皮《もうひ》などが輸入《ゆにゆう》されたようにも思《おも》はれます。舞樂《ぶがく》なども渤海樂《ぼつかいがく》といつて輸入《ゆにゆう》せられたようです。この渤海《ぼつかい》の使人《しじん》なども唐《とう》文化《ぶんか》の教養《きようよう》ある人《ひと》が多《おほ》かつたので、わが國《くに》の平安朝《へいあんちよう》の朝臣《ちようしん》との間《あひだ》に詩文《しぶん》の贈答《ぞうとう》をやつたことは藝苑《げいえん》の佳話《かわ》です。大江《おほえ》朝綱《ともつな》[#「ともつな」は底本のまま]が渤海《ぼつかい》の使臣《ししん》に與《あた》へた詩《し》で、
[#ここから1字下げ]
前途《ぜんと》程遠《ほどとほ》し。思《おも》ひを雁山《がんざん》の暮雲《ぼうん》に馳《は》す。
後會《こうかい》の期《き》遙《はる》かなり。纓《えい》を鴻艫《こうろ》[#「鴻艫」は底本のまま]の曉涙《ぎようるい》に霑《うるほ》す。
[#ここで字下げ終わり]
と詠《よ》んだのは有名《ゆうめい》なはなしです。かうした文化國《ぶんかこく》、支那人《しなじん》のいひまはしをかりれば海東《かいとう》の盛國《せいこく》であつた渤海《ぼつかい》も、契丹《きつたん》の太祖《たいそ》の兵《へい》を蒙《かふむ》つては一《ひと》たまりもなく、その國都《こくと》忽干城《こつかんじよう》も陷《おちい》り亡《ほろ》んでしまひました。
かくて契丹《きつたん》は強勢《きようせい》となり、次第《しだい》に支那《しな》内部《ないぶ》の方《ほう》へ手《て》をのばし始《はじ》め、後晉《ごしん》を助《たす》けて後唐《ごとう》を亡《ほろぼ》す手傳《てつだ》ひをし、そのお禮《れい》として支那《しな》北邊《ほくへん》雲燕《うんえん》以下《いか》十六州《じゆうろくしゆう》の地《ち》を貰《もら》つたのでした。後《のち》兵《へい》を南下《なんか》させ後晉《ごしん》の無禮《ぶれい》を責《せ》めて後晉《ごしん》を亡《ほろぼ》し、都《みやこ》を開封《かいほう》に定《さだ》めて新《あらた》に國號《こくごう》を立《た》てゝ遼《りよう》と申《まを》しました。しかしこの遼《りよう》の中原《ちゆうげん》支配《しはい》は、漢人《かんじん》の反抗《はんこう》にあつて成功《せいこう》せず、つひに北《きた》に歸《かへ》り、北方《ほつぽう》から絶《た》えず中原《ちゆうげん》を威嚇《いかく》してゐました。
五代《ごだい》の最後《さいご》の王朝《おうちよう》、後周《ごしゆう》が亡《ほろ》んだのもやはりこの遼《りよう》の強勢《きようせい》と、武人《ぶじん》の跋扈《ばつこ》とに關係《かんけい》があるのです。遼《りよう》が南下《なんか》して後周《ごしゆう》を亡《ほろぼ》さうとしたので、後周《ごしゆう》では將軍《しようぐん》の趙《ちよう》匡胤《きよういん》を遣《つか》はして、その侵寇《しんこう》を防《ふせ》がうとしました。時《とき》に後周《ごしゆう》の天子《てんし》はまだ幼弱《ようじやく》で、國情《こくじよう》安《やす》らからならぬものがありましたので、趙《ちよう》匡胤《きよういん》の部下《ぶか》の兵士《へいし》どもは、相議《あひぎ》して趙《ちよう》匡胤《きよういん》をもつて天子《てんし》とすることにいたし、つひに後周《ごしゆう》の天子《てんし》に迫《せま》つて位《くらゐ》を趙《ちよう》匡胤《きよういん》に讓《ゆづ》らせました。こゝにおいても當時《とうじ》の武人《ぶじん》の横暴《おうぼう》ぶりを見《み》ることが出來《でき》ませう。趙《ちよう》匡胤《きよういん》がすなはち宋《そう》の太祖《たいそ》です。
二七、宋《そう》の國情《こくじよう》
兵士《へいし》に擁立《ようりつ》されて天子《てんし》の位《くらゐ》に即《つ》いた宋《そう》の太祖《たいそ》は、出《で》は武人《ぶじん》でしたけれども、武弁《ぶべん》一遍《いつぺん》の人《ひと》ではありませんでした。唐末《とうまつ》から五代《ごだい》にかけての革命《かくめい》の原因《げんいん》が、多《おほ》く藩鎭《はんちん》武人《ぶじん》の跋扈《ばつこ》横暴《おうぼう》にあることをよく知《し》つてゐましたので、この武人《ぶじん》どもの勢力《せいりよく》を削《そ》いで世《よ》の泰平《たいへい》をいたさうと心《こゝろ》がけました。そのため節度使《せつどし》が缺《か》ける度毎《たびごと》に、その後任《こうにん》には文臣《ぶんしん》を任《にん》じ、また諸州《しよしゆう》には通判《つうはん》といふ役人《やくにん》を置《お》いて政《まつりごと》を行《おこな》はせ、租税《そぜい》や運漕《うんそう》のことは諸方《しよほう》に轉運使《てんうんし》を置《お》いて始末《しまつ》させ、かうして武人《ぶじん》專横《せんおう》の弊《へい》を矯《た》め、文治《ぶんち》政策《せいさく》を採《と》つたのでした。
この太祖《たいそ》の治世《じせい》を助《たす》けたのは、趙普《ちようふ》といふ宰相《さいしよう》で、太祖《たいそ》はしば/\微行《びこう》して趙普《ちようふ》を訪《と》ひ政《まつりごと》を圖《はか》りました。この人《ひと》は朝廷《ちようてい》で大會議《だいかいぎ》のある毎《ごと》に、自分《じぶん》の家《いへ》で戸《と》を閉《と》ざし箱《はこ》から書《しよ》をとり出《だ》し、閲《えつ》したうへで會議《かいぎ》に出席《しゆつせき》するのを常《つね》としてゐました。趙普《ちようふ》が死《し》んだのち、家《いへ》の人《ひと》がその書《しよ》はなんだつたゞらうと、その箱《はこ》を開《あ》けて見《み》たら論語《ろんご》がはひつてゐました。かうして趙普《ちようふ》は一册《いつさつ》の論語《ろんご》を愛讀《あいどく》し、それを生《い》かして天下《てんか》の泰平《たいへい》を來《きた》さうと努《つと》めたのです。かう書物《しよもつ》を生《い》かして讀《よ》むといふことはむづかしいことですけれども、また大《おほ》いに學《まな》ばなければならないことです。しかし宋《そう》といふ國《くに》が出來《でき》た當時《とうじ》には、各地《かくち》にはまだ獨立《どくりつ》して宋《そう》に從《したが》はない國《くに》も多《おほ》かつたのでしたが、太祖《たいそ》とその次《つ》ぎの太宗《たいそう》とは次第《しだい》にこれら諸國《しよこく》を征服《せいふく》して、遂《つひ》に天下《てんか》の統一《とういつ》をなしとげました。
[#図版(09.png)、太祖微行して趙普を訪ふ]
かくて宋《そう》は唐末《とうまつ》五代《ごだい》の紛亂《ふんらん》を鎭《しづ》め、天下《てんか》の統一《とういつ》をなしたといつても、その政策《せいさく》が文治《ぶんち》主義《しゆぎ》であつたゝめに、その國《くに》の武力《ぶりよく》といふものが至《いた》つて弱《よわ》く、ために北方《ほつぽう》や西方《せいほう》の外民族《がいみんぞく》から非常《ひじよう》な壓迫《あつぱく》を受《う》けるようになつたのです。宋《そう》を最初《さいしよ》壓迫《あつぱく》した北方《ほつぽう》民族《みんぞく》の國《くに》は、契丹《きつたん》、すなはち遼《りよう》の國《くに》でした。これはしば/″\宋《そう》と相《あひ》爭《あらそ》ひましたが、宋《そう》はどうしても押《お》されがちで、宋《そう》の方《ほう》ではこれに絹《きぬ》だの銀《ぎん》などの歳幣《さいへい》を與《あた》へて和親《わしん》を保《たも》つたのでした。
朝鮮《ちようせん》半島《はんとう》において新羅《しらぎ》が國《くに》を建《た》てゝゐたことは前《まへ》に申《まを》しました。その後《のち》その國勢《こくせい》の衰《おとろ》へたのに乘《じよう》じて高麗《こうらい》といふ國《くに》が興《おこ》つて新羅《しらぎ》を亡《ほろぼ》し、都《みやこ》を開城《かいじよう》に置《お》きました。朝鮮《ちようせん》半島《はんとう》に建《た》つた國《くに》がたいていさうであるように、この高麗《こうらい》も支那《しな》本土《ほんど》に國《くに》を建《た》てゝゐた宋《そう》に好《よ》しみを通《つう》じましたが、北方《ほつぽう》の遼《りよう》といふ未開國《みかいこく》には、好意《こうい》を示《しめ》さなかつたのです。そこで遼《りよう》では聖宗《せいそう》のとき高麗《こうらい》の征伐《せいばつ》を行《おこな》つて遂《つひ》にこれを屈服《くつぷく》させました。かうして遼《りよう》といふ國《くに》の勢《いきほ》ひはきはめて盛《さか》んで、聖宗《せいそう》の時《とき》などには、内外《ないがい》蒙古《もうこ》から滿洲《まんしゆう》にかけての大領土《だいりようど》を有《ゆう》し、國内《こくない》に五《いつ》つの都《みやこ》を置《お》くまでに至《いた》りました。今《いま》ロシヤ語《ご》やトルコ語《ご》で支那《しな》のことをキタイなどといふのは、實《じつ》はこの遼《りよう》すなはち契丹《きつたん》の勢力《せいりよく》がかように盛《さか》んだつたので、その契丹《きつたん》といふ語《ご》が遠《とほ》く西《にし》の方《ほう》に傳《つた》はり、それが訛《なま》つてキタイとなつたものです。
宋《そう》をなやましたのは、この北方《ほつぽう》の遼《りよう》のみではなかつたのです。今《いま》のオルドスの地方《ちほう》に據《よ》つてゐた黨項《たんぐーと》が國《くに》を建《た》て、西夏《せいか》と號《ごう》しました。この西北方《せいほつぽう》の西夏《せいか》も、しば/″\宋《そう》の西邊《せいへん》を騷《さわ》がして、遼《りよう》と共《とも》に宋《そう》の災《わざは》ひの種《たね》だつたのです。宋《そう》ではこの西夏《せいか》に對《たい》しても歳幣《さいへい》を與《あた》へて和《わ》を約《やく》しました。
宋《そう》は、建國《けんこく》の初《はじ》めから前代《ぜんだい》の宿弊《しゆくへい》を改《あらた》めるに急《きゆう》であつたゝめ極端《きよくたん》な文治《ぶんち》政策《せいさく》をとり、武力《ぶりよく》を弱《よわ》めました。このために遼《りよう》や西夏《せいか》や、また南方《なんぽう》の交趾《こうち》と戰《たゝか》つて、みな利《り》なく、極端《きよくたん》な屈辱《くつじよく》外交《がいこう》をいたす外《ほか》はなかつたのです。これに慨《がい》して、前代《ぜんだい》の失敗《しつぱい》を回復《かいふく》し、國威《こくい》を張《は》らうとしたのが神宗《しんそう》でありました。そしてこの神宗《しんそう》は、王《おう》安石《あんせき》といふ學者《がくしや》を登用《とうよう》して、その意見《いけん》に基《もとづ》いて、改革《かいかく》の實《じつ》を擧《あ》げようとしたのでした。
王《おう》安石《あんせき》は新政策《しんせいさく》を實行《じつこう》し、それによつて富國《ふこく》強兵《きようへい》の實《じつ》を擧《あ》げようとしました。富國策《ふこくさく》として青苗法《せいびようほう》とか募役《ぼえき》、市易《しえき》などの幾分《いくぶん》社會《しやかい》政策《せいさく》がかつた法《ほう》を實行《じつこう》して民《たみ》を富《と》まし、また國《くに》を富《と》まさうといたしました。強兵策《きようへいさく》として行《おこな》つたのは、保甲《ほこう》、保馬《ほば》の法《ほう》でした。かうした新政策《しんせいさく》、すなはち新法《しんほう》によつて、王《おう》安石《あんせき》は一擧《いつきよ》に宋《そう》の國力《こくりよく》を充實《じゆうじつ》させようとしたのです。ところがまだ富強《ふきよう》の實《じつ》の擧《あ》がらぬうちに、神宗《しんそう》はしば/\外征《がいせい》の軍《ぐん》を起《おこ》し、かへって敗《はい》を招《まね》き、遼《りよう》の如《ごと》きはこれに乘《じよう》じて南侵《なんしん》して宋《そう》の北邊《ほくへん》を奪《うば》ふといふあり樣《さま》に立《た》ち至《いた》りました。そしてまた國内《こくない》においても、王《おう》安石《あんせき》の新法《しんほう》に對《たい》する非難《ひなん》反對《はんたい》の聲《こゑ》が高《たか》まつて來《き》ました。由來《ゆらい》支那人《しなじん》といふのは、古《ふる》いものを尊《たふと》ぶ風《ふう》があります。かうした保守的《ほしゆてき》な一面《いちめん》をもつた支那人《しなじん》は、この王《おう》安石《あんせき》の新法《しんほう》は先王《せんのう》の法《ほう》と違《ちが》ふものであるといつて、攻撃《こうげき》を加《くは》へました。
この新法《しんほう》の反對派《はんたいは》、すなはち舊法黨《きゆうほうとう》の代表者《だいひようしや》といふべきは、司馬《しば》光《こう》、歐陽《おうよう》修《しゆう》などゝいふ人《ひと》でした。司馬《しば》光《こう》といふ人《ひと》は、子供《こども》のとき水甕《みづがめ》に落《お》ちた友達《ともだち》を助《たす》けるため石《いし》で水甕《みづがめ》を割《わ》つたといふので有名《ゆうめい》な人《ひと》です。もっとも王《おう》安石《あんせき》といふ人《ひと》は、強腹《ごうふく》な、またいったんやり出《だ》したら後《あと》にひかないような頑固《がんこ》な人《ひと》でしたし、また新法《しんほう》を實行《じつこう》するために王《おう》安石《あんせき》が用《もち》ひた人々《ひと/″\》の中《なか》には、よくない人《ひと》も交《まじ》つてゐたゝめに、この反對《はんたい》の勢《いきほ》ひを一層《いつそう》強《つよ》くしたのはいふまでもありません。
かうして新法黨《しんほうとう》と舊法黨《きゆうほうとう》が相《あひ》爭《あらそ》ひ、舊法黨《きゆうほうとう》が政權《せいけん》をとれば新法《しんほう》をやめ、新法黨《しんほうとう》が朝《ちよう》に立《た》てば新法《しんほう》を行《おこな》ふといふ風《ふう》で、兩派《りようは》は互《たがひ》ひ[#「互《たがひ》ひ」は底本のまま]壓迫《あつぱく》し合《あ》つたのです。この爭《あらそ》ひは、初《はじ》めは政策《せいさく》のための爭《あらそ》ひでしたが、次第《しだい》に政策《せいさく》はそっちのけとなつて、たゞ敵黨《てきとう》を倒《たふ》せばいゝといふ爭《あらそ》ひのための爭《あらそ》ひといふ風《ふう》になり、黨爭《とうそう》三十《じゆう》餘年《よねん》の久《ひさ》しきに亙《わた》りました。
この紛亂《ふんらん》した政爭《せいそう》が、宋《そう》の國勢《こくせい》をどれだけ衰運《すいうん》に導《みちび》いたか、それはいふ迄《まで》もないことでした。
二八、金《きん》の興起《こうき》
宋《そう》が、國運《こくうん》振《ふる》はぬながらも、北方《ほつぽう》の遼《りよう》、西北方《せいほくほう》の西夏《せいか》と相對《あひたい》してゐる間《あひだ》に、また北方《ほつぽう》に一《ひつ》つ[#「一《ひつ》つ」は底本のまま]の別《べつ》な勢力《せいりよく》が現《あらは》れてまゐりました。それが女眞《じよしん》です。
滿洲《まんしゆう》に據《よ》つた靺鞨《まつかつ》の話《はなし》は、前《まへ》に渤海《ぼつかい》の所《ところ》で申《まを》しました。その七《なゝ》つの部《ぶ》の内《うち》、黒水《こくすい》すなはち今《いま》の黒龍江《こくりゆうこう》のほとりにゐた靺鞨《まつかつ》を黒水《こくすい》靺鞨《まつかつ》と申《まを》しますが、その部《ぶ》の内《うち》に女眞《じよしん》といふ部《ぶ》がありました。この女眞部《じよしんぶ》は初《はじ》めは渤海《ぼつかい》に從《したが》ひ、後《のち》遼《りよう》の興《おこ》るに及《およ》んで遼《りよう》に屬《ぞく》してゐました。ところが阿骨打《あくた》といふものが出《で》て、たま/\遼《りよう》の國威《こくい》の衰《おとろ》へたのに乘《じよう》じてこれに叛《そむ》き、女眞《じよしん》諸部《しよぶ》を一統《いつとう》して皇帝《こうてい》となり、國《くに》を金《きん》と稱《しよう》しました。阿骨打《あくた》のことを太祖《たいそ》と申《まを》します。遼《りよう》ではこれを討《う》つてかへって失敗《しつぱい》し、金《きん》は南下《なんか》して遼《りよう》に迫《せま》つてまゐりました。
宋《そう》では久《ひさ》しく遼《りよう》に對《たい》して恨《うら》みを抱《いだ》いてゐましたが、今《いま》新《あらた》に北方《ほつぽう》に金《きん》といふ勢力《せいりよく》が起《おこ》り、遼《りよう》を苦《くる》しめてゐるのを知《し》るや、金《きん》と同盟《どうめい》して南北《なんぼく》から遼《りよう》を挾《はさ》み討《う》ちにしようとしました。ところが宋軍《そうぐん》はしば/\利《り》を失《うしな》つてはか/″\しく行《ゆ》かないのに、金軍《きんぐん》の方《ほう》はどし/\と遼《りよう》を破《やぶ》つてこれを亡《ほろぼ》してしまひました。この時《とき》、遼《りよう》の一族《いちぞく》の耶律《やりつ》大石《たいせき》は餘衆《よしゆう》を率《ひき》ゐて西《にし》に走《はし》り、後《のち》中央《ちゆうおう》アジアにはひつて西遼《せいりよう》といふ國《くに》を建設《けんせつ》いたしました。
かくて宋《そう》金《きん》兩國《りようごく》の同盟《どうめい》で遼《りよう》は亡《ほろ》びましたが、この戰《たゝか》ひに宋《そう》の勢《いきほ》ひがきはめて振《ふる》はなかつたので、こゝから金《きん》の方《ほう》では宋《そう》を輕侮《けいぶ》し始《はじ》めました。そこで宋《そう》が貰《もら》ふ約束《やくそく》だつた土地《とち》を宋《そう》に與《あた》へず、多《おほ》く金《きん》の方《ほう》へとつてしまひました。かくて兩國《りようごく》は互《たがひ》に境《さかひ》を接《せつ》しましたが、金《きん》の方《ほう》では宋《そう》の弱勢《じやくせい》につけこんで南侵《なんしん》し、つひに國都《こくと》開封《かいほう》を陷《おとしい》れて、時《とき》の天子《てんし》欽宗《きんそう》、その父《ちゝ》の徽宗《きそう》以下《いか》多《おほ》くの皇族《こうぞく》をとらへて北《きた》に歸《かへ》りました。この事件《じけん》は靖康《せいこう》といふ年號《ねんごう》の時《とき》起《おこ》つたといふので、靖康《せいこう》の難《なん》といひ、宋《そう》にとつてはきはめて大《おほ》きい屈辱《くつじよく》でありました。こゝにとらへられた徽宗《きそう》といふ天子《てんし》は、有藝《ゆうげい》な人《ひと》で畫筆《えふで》をとつてはまれに見《み》る名人《めいじん》でありましたけれども、政事《せいじ》の方《ほう》において、凡庸《ぼんよう》な君《きみ》であつたせいでせう、つひにかうした屈辱《くつじよく》を見《み》るに至《いた》つたのです。
宋《そう》では國都《こくと》がいったん金《きん》の手《て》に陷《おちい》つたので、金《きん》の勢《いきほ》ひを恐《おそ》れて都《みやこ》を南《みなみ》の臨安《りんあん》に移《うつ》しました。そして天子《てんし》の位《くらゐ》を嗣《つ》いだのは欽宗《きんそう》の弟《おとうと》の高宗《こうそう》だつたのです。これから以後《いご》の宋《そう》を、南宋《なんそう》と申《まを》します。
宋《そう》が都《みやこ》を南《みなみ》に移《うつ》した後《のち》、宋《そう》の方《ほう》で金《きん》と和《わ》さうとするものもあれば、また一方《いつぽう》には學者《がくしや》、軍人《ぐんじん》などの純理派《じゆんりは》で戰《たゝか》ひを主張《しゆちよう》するものもありました。ことに岳飛《がくひ》などといふ武將《ぶしよう》のごときはこの主戰派《しゆせんは》の頭目《とうもく》で、自《みづか》ら兵《へい》を率《ひき》ゐてしば/\金軍《きんぐん》を破《やぶ》り、金軍《きんぐん》には鬼神《きじん》のように恐《おそ》れられた大將《たいしよう》でした。しかし秦檜《しんかい》といふ宰相《さいしよう》はさかんに和議《わぎ》を唱《とな》へ、この誠忠《せいちゆう》無比《むひ》の岳飛《がくひ》を罰《ばつ》して遂《つひ》に金《きん》と和《わ》し、宋《そう》は金《きん》に臣事《しんじ》し、また歳貢《さいこう》を納《をさ》め、土地《とち》を割《さ》き與《あた》へることになりました。
今日《こんにち》岳飛《がくひ》の墓《はか》へまゐりますと、そこには秦檜《しんかい》夫妻《ふさい》の鐵《てつ》の像《ぞう》が出來《でき》てゐまして、それは裸《はだか》で鎖《くさり》にしばられてゐるように作《つく》つてあるそうです。和親《わしん》を計《はか》つて、そのためにむりにこの誠忠《せいちゆう》な岳飛《がくひ》を殺《ころ》した秦檜《しんかい》に對《たい》する後人《こうじん》の不滿《ふまん》は、かうした形《かたち》で永久《えいきゆう》に秦檜《しんかい》に私誅《しちゆう》を加《くは》へてゐるのです。
かくて宋《そう》と金《きん》とは相對《あひたい》してゐましたが、一時《いちじ》は兩國《りようこく》とも平和《へいわ》政策《せいさく》をとり、ことに金《きん》の世宗《せいそう》の世《よ》のときは、宋《そう》には孝宗《こうそう》位《くらゐ》にあつて兩君《りようくん》共《とも》に賢明《けんめい》で、意《い》を内治《ないち》に注《そゝ》ぎ、兩國《りようごく》は三十《さんじゆう》餘年《よねん》の平和《へいわ》を樂《たの》しみました。しかしそのうちに金《きん》も宋《そう》も國力《こくりよく》が衰《おとろ》へました。そしてまた北方《ほつぽう》沙漠《さばく》のかなたには蒙古《もうこ》といふ遊牧民《ゆうぼくみん》が勃興《ぼつこう》して次第《しだい》に金國《きんこく》の背後《はいご》に迫《せま》つて來《く》るのでした。宋《そう》は何《なに》しろ國初《こくしよ》から文治《ぶんち》政策《せいさく》をとつた國《くに》ですから、武力《ぶりよく》はいたつて振《ふる》はず、外民族《がいみんぞく》には絶《た》えず壓迫《あつぱく》を蒙《かふむ》つてゐましたものゝ、學問《がくもん》藝術《げいじゆつ》といふ方面《ほうめん》には、きはめて大《おほ》きい進展《しんてん》を見《み》せました。
二九、蒙古《もうこ》の勃興《ぼつこう》
漢民族《かんみんぞく》は、實《じつ》に久《ひさ》しい以前《いぜん》から北方《ほつぽう》の民族《みんぞく》としば/\抗爭《こうそう》をつゞけて來《き》ました。そしてその抗爭《こうそう》も唐代《とうだい》に至《いた》つて、一度《いちど》漢民族《かんみんぞく》の極盛期《きよくせいき》といふ形《かたち》で漢民族《かんみんぞく》の勝利《しようり》に終《をは》つたのです。
しかし、唐代《とうだい》が終《をは》るとゝもに、この漢民族《かんみんぞく》の極盛期《きよくせいき》も終《をは》りを告《つ》げ、こゝにまた北方《ほつぽう》民族《みんぞく》の優勢《ゆうせい》時代《じだい》を見《み》るに至《いた》つたのです。遼《りよう》は宋《そう》を壓《あつ》し、遼《りよう》に代《かは》つた金《きん》はまた宋《そう》を壓《あつ》しました。しかしまたこの二國《にこく》は徹底的《てつていてき》に宋《そう》を潰《つぶ》してしまふには至《いた》りませんでした。ところが、こゝに金《きん》に代《かは》つて蒙古《もうこ》がまた北方《ほつぽう》に現《あらは》れるに至《いた》つて、宋《そう》は完全《かんぜん》にこれに打《う》ち倒《たふ》され、こゝに北方人《ほつぽうじん》の漢民族《かんみんぞく》に對《たい》する勝利《しようり》は確立《かくりつ》されたのでした。
では蒙古《もうこ》はどこから起《おこ》つたか。蒙古族《もうこぞく》は今《いま》の外蒙古《そともうこ》のオノン川《がは》とケルレン川《がは》の中間《ちゆうかん》地方《ちほう》に據《よ》つてゐた遊牧民《ゆうぼくみん》でありました。もと/\遼《りよう》や金《きん》に屬《ぞく》してゐたのですが、その部《ぶ》に鐵木眞《てむちん》といふものが出《で》て部長《ぶちよう》となるに及《およ》んで勢《いきほ》ひを張《は》り、附近《ふきん》の諸部《しよぶ》を從《したが》へましたが、遂《つひ》に内外《ないがい》蒙古《もうこ》を統一《とういつ》して大汗《たいかん》の位《くらゐ》に即《つ》きました。成吉思《じんぎす》汗《かん》と申《まを》すのがこれであります。これから成吉思《じんぎす》汗《かん》は南《みなみ》へ下《くだ》つて西夏《せいか》を攻《せ》め、次《つ》ぎに金《きん》も攻《せ》めました。
當時《とうじ》、西夏《せいか》の王《おう》は暗愚《あんぐ》でありましたし、また金《きん》は長《なが》い間《あひだ》の内亂《ないらん》のために苦《くる》しんでゐましたので、いづれも蒙古《もうこ》の勢力《せいりよく》に屈《くつ》しなければなりませんでした。蒙古《もうこ》は遂《つひ》に金《きん》の都《みやこ》、燕京《えんけい》を陷《おとしい》れ、黄河《こうが》以北《いほく》の地《ち》はほゞその占領《せんりよう》するところとなりました。前《まへ》に遼《りよう》が金《きん》に亡《ほろぼ》されたとき、遼《りよう》の一族《いちぞく》の耶律《やりつ》大石《たいせき》が西《にし》に走《はし》り、西遼國《せいりようこく》を建《た》てたことは申《まを》しました。その後《のち》西遼《せいりよう》は、ます/\盛《さか》んに中央《ちゆうおう》アジアにあつて勢威《せいゝ》を振《ふる》つてゐたのです。もと、乃蠻部《ないまんぶ》といふ部《ぶ》がありましたが、これは成吉思《じんぎす》汗《かん》に亡《ほろぼ》されました。その時《とき》、その王子《おうじ》の屈出律《くちゆるく》は逃《のが》れて西遼《せいりよう》に據《よ》つたのです。後《のち》この屈出律《くちゆるく》は、西遼《せいりよう》の隣國《りんこく》の花剌子模王《ほらずむおう》と同盟《どうめい》して西遼《せいりよう》の國《くに》を奪《うば》つて獨立《どくりつ》し、その勢《いきほ》ひで蒙古《もうこ》に反抗《はんこう》しようとしたのです。そこで成吉思《じんぎす》汗《かん》は兵《へい》を出《だ》して、これを亡《ほろぼ》しました。
蒙古《もうこ》はかくて花刺子模國《ほらずむこく》[#「刺」は底本のまま]と境《さかひ》を接《せつ》するに至《いた》つたのですが、たま/\蒙古《もうこ》の隊商《たいしよう》がその國《くに》にはひつたとき、察偵《みつてい》[#「察偵」は底本のまま]の疑《うたが》ひで殺《ころ》されました。そこで成吉思《じんぎす》汗《かん》は大《おほ》いに怒《おこ》つて、自分《じぶん》の四子《しし》と共《とも》に大軍《たいぐん》を率《ひき》ゐて花剌子模國《ほらずむこく》を征《せい》し、その都《みやこ》今《いま》のサマルカンドを陷《おとしい》れ、進《すゝ》んでインドにも侵入《しんにゆう》しました。
この時《とき》、哲別《ちえべ》、速不臺《すぶたい》の二將《にしよう》は別軍《べつぐん》として花剌木模王《ほらずむおう》を裏海《りかい》まで追《お》ひ、更《さら》に西《にし》に進《すゝ》みペルシャを過《す》ぎ、欽察部《きぷちやつくぶ》を征《せい》し、次《つ》いで阿羅思《おろす》(ロシア)諸侯《しよこう》の聯合軍《れんごうぐん》をカルカ川《がは》に破《やぶ》つて武威《ぶい》を輝《かゞや》かしました。成吉思《ちんぎす》汗《かん》は西方《せいほう》の征戰《せいせん》七年《しちねん》で東《ひがし》に歸《かへ》り、遂《つひ》に西夏《せいか》を亡《ほろぼ》し、次《つ》いで金《きん》を討《う》たうとしましたが、その途上《とじよう》病《やまひ》に罹《かゝ》つて六盤山《ろくばんざん》で死《し》にました。成吉思《じんぎす》汗《かん》の功業《こうぎよう》は、かうした花々《はな/″\》しいものでした。またその業蹟《ぎようせき》はその後繼者《こうけいしや》たちによつて受《う》けつがれたのでした。
成吉思《じんぎす》汗《かん》、すなはち太祖《たいそ》の死後《しご》推《お》されて位《くらゐ》に即《つ》いたのが太祖《たいそ》の三男《さんなん》窩闊臺《おごたい》でした。これが太宗《たいそう》です。蒙古《もうこ》では後嗣《こうし》の大汗《たいかん》は長子《ちようし》相續《そうぞく》といふわけではないので、クリルタイといふ會議《かいぎ》によつて決定《けつてい》されるのです。クリルタイと申《まを》すのは、宗族《そうぞく》重臣《じゆうしん》などが相會《あひかい》して、皇位《こうい》繼承《けいしよう》とか國《くに》の大事《だいじ》とかを決定《けつてい》するのです。窩闊臺《おごたい》汗《かん》もかうしたクリルタイの決議《けつぎ》によつて大汗《たいかん》の位《くらゐ》に即《つ》いたのです。かれは都《みやこ》を喀剌和林《からこるむ》に奠《さだ》め、また遼《りよう》の遺臣《いしん》の耶律《やりつ》楚材《そざい》を宰相《さいしよう》として國政《こくせい》を整《とゝの》へ、蒙古《もうこ》の文化《ぶんか》開發《かいはつ》に力《ちから》を盡《つく》しました。
なほ太宗《たいそう》は太祖《たいそ》の志《こゝろざし》を承《う》けて四方《しほう》の攻伐《こうばつ》を行《おこな》ひました。まづ金《きん》を攻《せ》め都《みやこ》の開封《かいほう》に迫《せま》つたので、金《きん》の天子《てんし》は蔡州《さいしゆう》といふ所《ところ》に逃《のが》れました。時《とき》に宋《そう》の方《ほう》では、この新興《しんこう》の蒙古《もうこ》と同盟《どうめい》して、久《ひさ》しい敵《かたき》の金《きん》を討《う》たうといふので、宋《そう》と蒙古《もうこ》は南北《なんぼく》から金《きん》を挾撃《きようげき》してこれを亡《ほろぼ》してしまひました。太宗《たいそう》は東方《とうほう》高麗《こうらい》を平定《へいてい》しましたので、今度《こんど》は西方《せいほう》の經略《けいりやく》を思《おも》ひ立《た》ちました。そこで拔都《ばつ》を元帥《けんすい》[#「けんすい」は底本のまま]として五十萬《ごじゆうまん》の大軍《たいぐん》を發《はつ》しました。貴由《くゆく》、蒙哥《まんぐ》がこれを助《たす》けて大擧《たいきよ》して歐洲《おうしゆう》に侵入《しんにゆう》しました。拔部《ばつ》[#「拔部」は底本のまま]はモスクヴァ、キエフを屠《ほふ》り阿羅思《おろす》の大部《だいぶ》を服屬《ふくぞく》せしめ、更《さら》に軍《ぐん》を分《わか》つてポーランド、ハンガリーに入《い》り、到《いた》る所《ところ》敵《てき》をやぶりました。ことにヴァールシュタットで、當時《とうじ》武士道《ぶしどう》華《はな》やかだつた歐洲《おうしゆう》の騎士《きし》の聯合軍《れんごうぐん》を討《う》ち破《やぶ》つたことは、歐洲《おうしゆう》を震駭《しんがい》させるに十分《じゆうぶん》でした。ローマ法王《ほうおう》はこのキリスト教《きよう》の敵《てき》の異教徒《いきようと》に對《たい》して歐洲《おうしゆう》を保護《ほご》するため、十字軍《じゆうじぐん》を組織《そしき》しようとさへ計畫《けいかく》いたしました。しかし太宗《たいそう》の訃報《ふほう》が傳《つた》はつたので、かれ等《ら》はそれ以上《いじよう》歐洲《おうしゆう》に深入《ふかい》りすることなしに軍《ぐん》を歸《かへ》したのでした。
歐洲人《おうしゆうじん》が東方人《とうほうじん》を恐《おそ》れ、ことに黄禍論《こうかろん》などいふものが唱《とな》へられたのも、この蒙古《もうこ》の西方《せいほう》を震駭《しんがい》させたことがその根柢《こんてい》にあるのだらうと思《おも》はれます。
その後《ご》蒙哥《まんぐ》すなはち憲宗《けんそう》の世《よ》に至《いた》つて、また諸方《しよほう》の征伐《せいばつ》が行《おこな》はれました。東《ひがし》は高麗《こうらい》を討《う》ち西《にし》は弟《おとうと》の旭烈兀《ふらぐ》をして西方《せいほう》アジアの經略《けいりやく》に從事《じゆうじ》させました。旭烈兀《ふらぐ》はまづペルシャに侵入《しんにゆう》し、バグダッドを陷《おとしい》れてサラセン帝國《ていこく》を亡《ほろぼ》し、進《すゝ》んでシリヤ、アラビヤを略《りやく》しました。また弟《おとうと》の忽必烈《ふびらい》は雲南《うんなん》地方《ちほう》を從《したが》へまたチベットに進《すゝ》み、別將《べつしよう》は交趾《かうち》を侵《をか》し、自身《じしん》は宋《そう》の征伐《せいばつ》にかゝりました。憲宗《けんそう》自身《じしん》も出征《しゆつせい》して宋《そう》を一擧《いつきよ》に亡《ほろぼ》さうとしましたが、憲宗《けんそう》が途中《とちゆう》で死歿《しぼつ》したゝめ、忽必烈《ふびらい》はいったん宋《そう》の和議《わぎ》を許《ゆる》して北《きた》に歸《かへ》りました。
三〇、元《げん》の世祖《せいそ》
前《まへ》にも申《まを》しましたように、蒙古《もうこ》では大汗《たいかん》の位《くらゐ》に即《つ》くのはクリルタイの決議《けつぎ》によるのですから、その繼承《けいしよう》の際《さい》にはよく紛爭《ふんそう》が起《おこ》り、これが後《のち》には國家《こつか》衰亡《すいぼう》の大因《たいいん》となりました。
憲宗《けんそう》が死《し》ぬと、その弟《おとうと》の阿里不哥《ありぶか》と申《まを》すものが喀剌和林《からこるむ》にゐて、大汗《たいかん》の位《くらゐ》に即《つ》かうとしましたので、ちょうど宋《そう》征伐《せいばつ》に行《い》つてゐた忽必烈《ふびらい》は急《きゆう》に宋《そう》と和《わ》して北《きた》に歸《かへ》り、開平《かいぴん》で別《べつ》にクリルタイを開《ひら》いて自《みづか》ら大汗《たいかん》の位《くらゐ》に即《つ》きました。これを世祖《せいそ》と申《まを》します。
世祖《せいそ》は阿里不哥《ありぶか》を攻《せ》め、これを降《くだ》し、ついで都《みやこ》を今《いま》の北平《ぺーぴん》、すなはち燕京《えんけい》に遷《うつ》し、支那風《しなふう》に國號《こくごう》を立《た》て、元《げん》と申《まを》しました。いったん蒙古《もうこ》と和《わ》した宋《そう》では、權臣《けんしん》の賈《か》似道《じどう》といふものが頻《しきり》に策《さく》を弄《ろう》し、蒙古《もうこ》との約束《やくそく》を實行《じつこう》しませんでした。世祖《せいそ》は怒《いか》つて將軍《しようぐん》伯顏《ばやん》等《ら》をして大擧《たいきよ》して宋《そう》を討《う》たしめました。強力《きようりよく》な元軍《げんぐん》に對《たい》して宋軍《そうぐん》は防戰《ぼうせん》につとめましたが、防《ふせ》ぎ止《と》めることが出來《でき》ません。文《ぶん》天祥《てんしよう》とか張《ちよう》世傑《せいけつ》などが勤王《きんのう》の軍《ぐん》を起《おこ》して、宋室《そうしつ》のためにつくしましたが、皆《みな》破《やぶ》れ國都《こくと》臨安《りんあん》また陷《おちい》り、帝恭《ていちよう》[#「ていちよう」は底本のまま]出《い》で降《くだ》りました。
宋《そう》の遺臣等《いしんら》はなほ天子《てんし》を擁立《ようりつ》して、宋室《そうしつ》の回復《かいふく》をはかりましたが、次第《しだい》に追《お》はれ、遂《つひ》に張《ちよう》世傑《せいけつ》等《ら》は帝《てい》※[#「日/丙」、第3水準1-85-16]《へい》を奉《ほう》じて※[#「厂+圭」、第3水準1-14-82]山島《がいざんとう》に立《た》て籠《こも》りましたが、こゝでもまた敗《やぶ》れ、帝《てい》および一族《いちぞく》は海《うみ》に投《とう》じて死《し》に、宋室《そうしつ》はこゝに亡《ほろぼ》されてしまひました。その最後《さいご》の非慘《ひさん》な運命《うんめい》は、ちょうど日本《につぽん》の平家《へいけ》の壇《だん》の浦《うら》の末路《まつろ》にも似《に》て哀《あはれ》をそゝるものであります。
張《ちよう》世傑《せいけつ》は南安《あんなん》[#「南安」は底本のまま]方面《ほうめん》に遁《のが》れて、なほも再擧《さいきよ》を謀《はか》らうとしましたが、途中《とちゆう》で死《し》に、また文《ぶん》天祥《てんしよう》は不幸《ふこう》にも元《げん》に捕《と》らはれてしまひました。この文《ぶん》天祥《てんしよう》は非常《ひじよう》に偉《えら》い人《ひと》でしたので、世祖《せいそ》は重《おも》く用《もち》ひようと思《おも》つて降參《こうさん》をすゝめましたが、文《ぶん》天祥《てんしよう》は「二君《にくん》に仕《つか》へず」といつて、どうすゝめても降參《こうさん》しませんでした。かれが獄中《ごくちゆう》で作《つく》つた『正氣《せいき》の歌《うた》』は、忠君《ちゆうくん》愛國《あいこく》の志《こゝろざし》を力強《ちからづよ》く歌《うた》つたもので、今《いま》でも人口《じんこう》に上《のぼ》つてをります。
宋《そう》は弱《よわ》い國《くに》ながら、どうやら三百年《さんびやくねん》あまりもつゞきましたが、とう/\元《げん》に亡《ほろぼ》されてしまひ、元《げん》は完全《かんぜん》に漢人《かんじん》の土地《とち》を手《て》に入《い》れました。北方人《ほつぽうじん》の漢人《かんじん》に對《たい》する優越《ゆうえつ》は、こゝに始《はじ》めて完成《かんせい》されたのです。
高麗《こうらい》は太宗《たいそう》の時《とき》、いったん蒙古《もうこ》に從《したが》ひましたが、その後《のち》叛服《はんぷく》常《つね》なきあり樣《さま》でしたから世祖《せいそ》はこれを討《う》つて服《ふく》せしめ、皇女《こうじよ》を與《あた》へて王妃《おうひ》としましたので、これから長《なが》く高麗《こうらい》は元《げん》に服屬《ふくぞく》いたしました。
高麗《こうらい》の更《さら》に東《ひがし》の海《うみ》の中《なか》には日本《につぽん》があります。元《げん》の威勢《せいゝ》[#「威勢《せいゝ》」は底本のまま]が強《つよ》く、四隣《しりん》の國々《くに/″\》は皆《みな》元《げん》に服屬《ふくぞく》するようになつた後《のち》までも、日本《につぽん》は嚴《げん》として元《げん》に好《よ》しみを通《つう》じようともしなかつたのです。そこで世祖《せいそ》は、高麗《こうらい》を仲介《ちゆうかい》としてわが國《くに》を招致《しようち》しようとしました。當時《とうじ》鎌倉《かまくら》幕府《ばくふ》の執權《しつけん》北條《ほうじよう》時宗《ときむね》は、元《げん》の國書《こくしよ》の不禮《ぶれい》なるを見《み》、これを斥《しりぞ》けました。元《げん》は怒《いか》つて文永《ぶんえい》、弘安《こうあん》の前後《ぜんご》二回《にかい》大軍《たいぐん》を出《だ》して九州《きゆうしゆう》博多《はかた》に迫《せま》りましたが、日本《につぽん》の將士《しようし》の勇戰《ゆうせん》と天候《てんこう》の利《り》とによつて、元軍《げんぐん》の覆滅《ふくめつ》に終《をは》りました。この時《とき》わが國《くに》では龜山《かめやま》上皇《じようこう》を始《はじ》め、君臣《くんしん》心《こゝろ》を一《いち》にしてこの外敵《がいてき》に當《あた》り、わが國《くに》の名譽《めいよ》を傷《きず》つけず、このヨーロッパ、アジアの二大陸《にだいりく》を席捲《せきけん》して膨大《ぼうだい》な領土《りようど》をもつた大勢力《だいせいりよく》を斥《しりぞ》けえたことは、皆樣《みなさま》が日本《につぽん》歴史《れきし》で御承知《ごしようち》のことであります。
世祖《せいそ》はまた南方《なんぽう》の征服《せいふく》をもはかり、今《いま》のビルマ、交趾《こうち》、サイゴン、カンボヂャの地方《ちほう》をも從《したが》へ、また使《つか》ひを遣《つか》はして、南海《なんかい》諸國《しよこく》を歸服《きふく》させ、その威令《いれい》は、はるかジャヴァ、スマトラの島々《しま/″\》にまで及《およ》びました。世祖《せいそ》はかように外征《がいせい》の功《こう》を擧《あ》げましたが、その結果《けつか》として元《げん》の領土《りようど》が廣《ひろ》くなるにつれ、いろ/\の民族《みんぞく》を統治《とうち》するようになりましたが、これらの諸民族《しよみんぞく》はいづれも信仰《しんこう》の自由《じゆう》を許《ゆる》され、また舊來《きゆうらい》の風俗《ふうぞく》習慣《しゆうかん》に從《したが》つて治《をさ》められたのです。
元《げん》ではこれらの諸民族《しよみんぞく》を蒙古《もうこ》、色目《しきもく》、漢人《かんじん》、南人《なんじん》等《ら》に大別《たいべつ》して一番《いちばん》蒙古人《もうこじん》を重用《じゆうよう》しましたので、古來《こらい》その文化《ぶんか》を誇《ほこ》つてゐた漢民族《かんみんぞく》も野蠻《やばん》な蒙古人《もうこじん》の下位《かい》に立《た》たなければならぬようになりました。しかし世祖《せいそ》は内治《ないち》に意《い》を用《もち》ひ、諸般《しよはん》の制度《せいど》を整《とゝの》へる一方《いつぽう》、廣《ひろ》く人材《じんざい》を登用《とうよう》し、漢人《かんじん》でも何人《なにじん》でも才能《さいのう》あるものはどし/\政務《せいむ》に與《あづか》らせました。
世祖《せいそ》がチベットを征《せい》したとき、その國《くに》に流行《りゆうこう》してゐる佛教《ぶつきよう》の一派《いつぱ》の喇嘛教《らまきよう》に歸依《きえ》いたし、その僧侶《そうりよ》の拔思巴《ばすぱ》といふものを拜《はい》して帝師《ていし》といたしました。元朝《げんちよう》において極端《きよくたん》にまで流《なが》れた喇嘛教《らまきよう》の崇拜《すうはい》の基《もとゐ》はこゝに開《ひら》かれました。そして蒙古人《もうこじん》は現在《げんざい》でも喇嘛教《らまきよう》の信者《しんじや》でありますが、その風《ふう》もこゝから發《はつ》したわけなのです。世祖《せいそ》はこの拔思巴《ばすぱ》に命《めい》じて、蒙古《もうこ》の文字《もじ》を作《つく》らせました。蒙古人《もうこじん》のための文字《もじ》です。蒙古《もうこ》では前《まへ》にはウイグル文字《もじ》を用《もち》ひてゐましたが、世祖《せいそ》は拔思巴《ばすぱ》に命《めい》じて、これを改良《かいりよう》せしめ、新《あらた》に蒙古《もうこ》文字《もじ》を作《つく》らせたのです。これをまた拔思巴《ばすぱ》文字《もじ》とも申《まを》します。しかし文字《もじ》を創《つく》つた北方《ほつぽう》民族《みんぞく》は、ひとりこの蒙古《もうこ》のみではありません。
宋《そう》に對立《たいりつ》してゐた遼《りよう》は、まづ自分《じぶん》の國《くに》の文字《もじ》を作《つく》つたのでした。だいたい漢字《かんじ》にまねて作《つく》つたのでしたが、とにかく自分《じぶん》の文字《もじ》として作《つく》つたのです。それについで西夏《せいか》も、また遼《りよう》に代《かは》つた金《きん》もみなそれ/″\自國《じこく》の文字《もじ》を作《つく》りました。今《いま》申《まを》した蒙古《もうこ》もさうです。
從來《じゆうらい》の北方《ほつぽう》の未開《みかい》民族《みんぞく》にしてみれば、たとひ政治的《せいじてき》には漢民族《かんみんぞく》を征服《せいふく》したにしても、文化的《ぶんかてき》には逆《ぎやく》に漢人《かんじん》に征服《せいふく》されてしまつて、たとへば文字《もじ》にしたところで漢字《かんじ》をすぐ採用《さいよう》したのでした。ところがこの頃《ごろ》[#「ごろ」は底本のまま]になりますと、遼《りよう》、金《きん》、西夏《せいか》、蒙古《もうこ》などいづれも一《いち》も二《に》もなく漢字《かんじ》を採用《さいよう》するといふことなく、やはり自分《じぶん》の方《ほう》では自分《じぶん》の文字《もじ》を持《も》つといふところに漢文化《かんぶんか》に幾分《いくぶん》なりとも對抗《たいこう》して行《ゆ》かうとするところが見《み》えるのです。こゝにおいても北方《ほつぽう》民族《みんぞく》が漢民族《かんみんぞく》に對《たい》する氣持《きも》ちのうつり行《ゆ》きが考《かんが》へられ、北方《ほつぽう》民族《みんぞく》の優越《ゆうえつ》といふことも考《かんが》へ合《あは》せて意味《いみ》のふかいことです。(つづく)
底本:
1981(昭和56)年6月20日発行
親本:
1929(昭和4)年11月5日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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*地名
(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。一般的な国名・地名などは解説省略。- [満州]
- 満州・満洲 まんしゅう 中国の東北一帯の俗称。もと民族名。行政上は東北三省(遼寧・吉林・黒竜江)と内モンゴル自治区の一部にわたり、中国では東北と呼ぶ。
- 渤海 ぼっかい 8〜10世紀、中国東北地方の東部に起こった国。高句麗の遺民ともいわれる大祚栄が靺鞨族を支配して建国。唐から渤海郡王に封ぜられ、その文化を模倣し、高句麗の旧領地を併せて栄え、727年以来しばしば日本と通交。15代で契丹に滅ぼされた。都は上京竜泉府(黒竜江省寧安市)以下の5京があった。
(698〜926) - 臨�L りんこう → 臨�L府か
- 臨�L府 りんおうふ 遼(契丹)の五京の一。太祖が918年建設して皇都とし、太宗は937年国号を遼と改め、938年、上京臨�L府とした。金国は1138年これを北京と改称したが、のちに臨�L府の名に復した。金国の滅亡後この地も衰えた。いま熱河の林西県の西にあたり、臨�L水のほとりにある遺跡波羅城(Boro Hotun)がそれである。
(東洋史) - 粟末水 ぞくまつすい → 松花江
- 松花江 しょうかこう (Songhua Jiang)中国東北部の大河。朝鮮国境の長白山頂の天池に発源し、黒竜江に合する。全長1840km。哈爾浜(ハルビン)より下流は船が通じ、運輸・交通に利用する。満州語名のスンガリーは「天の河」の意。
- 忽干城 こっかんじょう
- 雲燕 うんえん → 燕雲十六州
- 燕雲十六州 えんうん じゅうろくしゅう 五代の後晋の石敬�が遼に割譲した長城以南の河北・山西の一部の地方。燕は今の北京に当たる。遼や金が宋へ侵入する前進基地となった。
- 黒水 こくすい 黒龍江のほとり。
- 黒龍江 こくりゅうこう (Heilong Jiang)中国東北地区の北境、シベリアの南東部を東流して、間宮海峡に注ぐ大河。南は内モンゴルのアルグン河、北はモンゴルのオノン河を源流とし、松花江・ウスリー江を合わせ、長さ6237km。別称アムール川。
- [朝鮮]
- 朝鮮 ちょうせん (Choson; Korea)アジア大陸東部の大半島。南北に細長く突出し、南は朝鮮海峡を挟んで日本に対し、北は鴨緑江・豆満江を隔てて中国東北部およびシベリアに接している。面積22万平方km。ほぼ単一の朝鮮民族が住む。檀君・箕氏神話に反映される古朝鮮の時代の後、前2世紀初め衛氏朝鮮となったが、前108年漢の武帝はこれを滅ぼし、楽浪・臨屯・真番・玄菟の四郡をおいた。南部には韓族がおり馬韓・弁韓・辰韓の三部数十国に分かれていた。4世紀中ごろ高句麗・新羅・百済・伽耶が対立、7世紀に至り新羅が統一、10〜14世紀は高麗、14世紀以降は李氏朝鮮がこれをつぎ、いずれも中国に朝貢。のち日清・日露戦争によって日本が植民地化を進め、1910年日本に併合された(韓国併合)が、日本の敗戦により解放。北緯38度線を境に、48年8月南部に大韓民国が、9月北部に朝鮮民主主義人民共和国が成立。朝鮮の異称・雅号として青丘・鶏林・海東・槿域などがある。
- 新羅 しらぎ (古くはシラキ)古代朝鮮の国名。三国の一つ。前57年頃、慶州の地に赫居世が建てた斯盧国に始まり、4世紀、辰韓諸部を統一して新羅と号した。6世紀以降伽�(加羅)諸国を滅ぼし、また唐と結んで百済・高句麗を征服、668年朝鮮全土を統一。さらに唐の勢力を半島より駆逐。935年、56代で高麗の王建に滅ぼされた。中国から取り入れた儒教・仏教・律令制などを独自に発展させ、日本への文化的・社会的影響大。しんら。
(356〜935) - 高麗 こうらい (1) 朝鮮の王朝の一つ。王建が918年王位につき建国、936年半島を統一。都は開城(旧名、松岳・松都)。仏教を国教とし、建築・美術も栄え、後期には元に服属、34代で李成桂に滅ぼされた。高麗。
(918〜1392)(2) 高句麗。また、一般に朝鮮の称。 - 開城 かいじょう/ケソン (Kaesong)朝鮮民主主義人民共和国南西部の直轄市。高麗朝の首都で、当時創建の古建築が多い。近年、工業団地が造成される。人口33万4千(1993)。
- [陝西省]
- 長安 ちょうあん 中国陝西省西安市の古称。洛陽と並んで中国史上最も著名な旧都。漢代から唐代にかけて最も繁栄。西京。
- [広東省]
- 広州 こうしゅう (Guangzhou)中国広東省の省都。珠江デルタ北部に位置し、古来中国南部最大の貿易港。華南地域の経済・交通の中心。人口852万5千(2000)。別称、穂・羊城。カントン。
- �山島 がいざんとう → �山
- �山 がいざん 広東省新会県の南、珠江デルタの中にある小島。南宋朝滅亡の場所。1279年、張広範の率いる元軍が、この地に拠った南宋軍を破り、幼帝、衛王趙�Oが陸秀夫に抱かれて入水した。
- [福建省]
- 泉州 せんしゅう (Quanzhou)中国福建省南東部の港湾都市。マルコ=ポーロはザイトンの名で西洋に紹介。唐代から元代まで南海貿易の中心として栄え、華僑の出身地としても知られる。人口119万2千(2000)。
- [浙江省]
- 抗州 こうしゅう → 杭州
- 杭州 こうしゅう (Hangzhou)中国浙江省の省都。杭州湾および銭塘江河口に間近く古来外国貿易で栄え、大運河の南端で、水陸交通の要地。南宋の首都(臨安)。西湖に臨む景勝地。伝統的な絹・手工芸品のほか、各種工業が発達。マルコ=ポーロはキンザイ(行在)の名で西洋に紹介。人口245万1千(2000)。
- 臨安 りんあん 南宋の首都。今の浙江省杭州市。1129年臨安府と改称。臨時の都という意味で、
「行在」とも称した。 - [河北省]
- 開平 かいぴん/かいへい (Kaiping)中国河北省の都市。京瀋鉄道に沿い、付近に開�b炭鉱がある。
- [河南省]
- 開封 かいほう (Kaifeng)中国河南省中部の都市。黄河の南方平野にあり隴海鉄道に沿う。戦国時代の魏の都(大梁)
、五代の後梁の都(東都) 、後晋・後漢・後周・宋の都(東京) 、金の都(�京・南京)となる。民国時代の省都。絹の刺繍は特産。人口79万6千(2000)。 - [内モンゴル自治区]
- 内蒙古 うちもうこ/ないもうこ モンゴルのゴビ砂漠以南の地。うちもうこ。
- シラムレン川 Sira-muren 遼寧省の興安嶺に源を発し、東流してラオハ(老哈)川を合わせ、西遼川に注ぐ川。蒙古語で黄色い川の意。流域には鮮卑族が興亡し、とくに契丹族の遼は河畔に都をおいた。
(東洋史) - オルドス 鄂爾多斯・Ordos 中国内モンゴル自治区の一部、黄河の湾曲部に囲まれた部分で長城以北の地域。古くは河南と呼ばれたが、明末、蒙古オルドス部がこの地を占拠して以来オルドスと称。1635年、清の支配下に入る。河套。
- [雲南省]
- 雲南 うんなん (Yunnan)中国南西部の省。貴州・広西の西、四川の南に位置する高原地帯で、ミャンマー・ラオス・ベトナムと国境を接する。省都は昆明。20余の少数民族が住み、中国で民族の種類が最も多い省。面積39万平方km。略称、雲。別称、�@。
- [寧夏回族自治区]
- 六盤山 ろくばんざん 寧夏回族自治区固原地区にある山名。チンギス=カンが病没した地。元代では軍事上の要地とされ、四川・陝西地方に事変がおこると、つねにここを出陣の基地とした。
(東洋史) - [モンゴル]
- 蒙古 もうこ (Mongolia)(→)モンゴルに同じ。
- モンゴル Mongol 中国の北辺にあって、シベリアの南、新疆の東に位置する高原地帯。また、その地に住む民族。13世紀にジンギス汗が出て大帝国を建設し、その孫フビライは中国を平定して国号を元と称し、日本にも出兵した(元寇)。1368年、明に滅ぼされ、その後は中国の勢力下に入る。ゴビ砂漠以北のいわゆる外モンゴルには清末にロシアが進出し、1924年独立してモンゴル人民共和国が成立、92年モンゴル国と改称。内モンゴルは中華人民共和国成立により内モンゴル自治区となり、西モンゴルは甘粛・新疆の一部をなす。蒙古。
- 外蒙古 そともうこ → がいもうこ
- 外蒙古 がいもうこ モンゴルのゴビ砂漠以北の地。そともうこ。
- モンゴル国 モンゴル こく 外モンゴルの大部分を占める共和国。1921年中国より離れ、はじめ活仏を元首とする君主国を樹立、24年共和制とし、18の部(アイマク)で構成、モンゴル人民共和国となり、92年現名に改称する。首都はウラン‐バートル。面積156万平方km。人口250万(2003)。
- オノン川 Onon・斡難 黒竜江上流のシルカ川の支流。モンゴルのヘンティーン山脈に発源し、北東流してシベリアに入り、シルカ川に注ぐ。長さ1032km。
- ケルレン川 Kerulen Gol 源を肯特山脈(Kentei Mts.)に発し、黒竜江省のホロン=ノールに注ぐ。全長920km。流域は牧草に富み、古来蒙古人の根拠地となる。チンギス=カンはこの付近に大オルドを建て、明の永楽帝、清の康熙帝らも、蒙古親征にあたってこの河畔に馬をすすめている。
(東洋史) - 燕京 えんけい 中国、遼・金代の北京の呼称。
- 北平 ペーピン → 燕京
- 北京 ペキン (Beijing; Peking)中華人民共和国の首都。河北省中央部に位置し、中央政府直轄市。遼・金・元・明・清の古都で、明代に至り北京と称し、1928年南京(ナンキン)に国民政府が成立して北平(ペーピン)と改称、49年北京の称に復す。政治・文化・教育・経済・交通の大中心地。面積1万7000平方km。人口1151万(2000)。
- 黄河 こうが (Huang He)(水が黄土を含んで黄濁しているからいう)中国第2の大河。青海省の約古宗列盆地の南縁に発源し、四川・甘粛省を経て陝西・山西省境を南下、汾河・渭河など大支流を合わせて東に転じ、華北平原を流れて渤海湾に注ぐ。しばしば氾濫し、人民共和国建国後に大規模な水利工事が行われた。近年下流部で水量の減少が著しい。全長5464km余。流域は中国古代文明の発祥地の一つ。河。
- 中央アジア ちゅうおう- ユーラシア大陸中央部の乾燥地帯。西はカスピ海、北はシベリア平原、東はアルタイ山脈、南はヒンズークシ・崑崙両山脈に囲まれた、パミールを中央とする地域をさす。古代から遊牧とオアシス農業、シルクロードによる隊商の中継貿易がおこなわれ、数多くの国家が交替。現在は中国の新疆ウイグル自治区、カザフスタン・ウズベキスタン・キルギス・トルクメニスタン・タジキスタンの五か国、アフガニスタンの北部とに分かれる。
- パミール Pamir 中央アジア南東部の地方。チベット高原の西に連なり、標高7000m級の高峰を含む諸山系と高原とから成り、世界の屋根といわれる。大部分はタジキスタンに含まれる。葱嶺。
- 天山南路 てんざん なんろ 中国新疆ウイグル自治区の天山山脈以南の地域。崑崙・天山二大山脈間の盆地。古く東西交通の要路。東トルキスタン。
- 天山山脈 てんざん さんみゃく 中央アジアにあって、西はキルギス、東は中国領にわたる多くの山脈の集まり。延長2450km。最高はポベーダ峰(7439m)。
- 突厥 とっけつ (Turkut)トルコ系の遊牧民。また、その遊牧民が支配した国。6世紀中葉、アルタイ山麓に起こり、柔然の支配を破って独立、伊利可汗と称し、モンゴル高原・中央アジアに大遊牧帝国を建設。6世紀後半、東西に分裂し、630年以後前後して唐に征服されたが、682年東突厥が復興し(突厥第二帝国)
、744年ウイグルに滅ぼされた。東アジア遊牧民最初の文字を残した。 - ホラズム Khorazm・花剌子模 中央アジアのアム河下流域の古称。またその地を中心とした王朝。10世紀末、サーマーン朝から独立したが、1220年ジンギス汗に敗れ、31年滅亡。コラズム。フワーリズム。
- サマルカンド Samarkand・撒馬児干 中央アジア、ウズベキスタン共和国の東部、中央アジア最古の都市。隋・唐時代の康国。のちティムール帝国の都。人口36万1千(2001)。
- 欽察部 キプチャクぶ → キプチャク=カン国
- キプチャク=カン国 Qipchaq Khan 国 欽察汗国(金帳汗国)。キプチャク高原(カザーフスタン)に指定されたジュチ所領地がその子バトゥのヨーロッパ遠征によって南ロシアにまで発展した結果、13世紀中ごろサライを首都として出現したジュチ後王の帝国。一族を白帳汗、青帳汗に封じ、金帳汗とよばれたバトゥの子孫がこれを統轄した。この汗国は14世紀前半にいたって最盛期を迎えたが、まもなくティムール帝国の圧迫をこうむり、以後内に政権の争いを生じ、外にモスクワ公国の台頭をひかえて衰退の一路をたどり、16世紀早々をもって解体した。
(東洋史) - 喀剌和林 カラコルム 哈剌和林?
- カラコルム Kharakhorum モンゴル帝国の太宗・定宗・憲宗時代の首都。オルホン河の右岸、モンゴル国中部のエルデニジョーにその遺跡がある。哈剌和林。和林。和寧。
- カラコルム Karakorum チベット高原とパミール高原との間にあり、北は崑崙山脈、南はヒマラヤ山脈に続く山脈。7千m以上の高峰が多く、最高峰はK2(8611m)。古来パミールと共に葱嶺と称した。
- 蔡州 さいしゅう
- [チベット]
- チベット Tibet・西蔵 中国四川省の西、インドの北、パミール高原の東に位置する高原地帯。7世紀には吐蕃が建国、18世紀以来、中国の宗主権下にあったが、20世紀に入りイギリスの実力による支配を受け、その保護下のダライ=ラマ自治国の観を呈した。第二次大戦後中華人民共和国が掌握、1965年チベット自治区となる。住民の約90%はチベット族で、チベット語を用い、チベット仏教を信仰する。平均標高約4000mで、東部・南部の谷間では麦などの栽培、羊・ヤクなどの牧畜が行われる。面積約123万平方km。人口263万(2005)。区都ラサ(拉薩)。
- [インド]
- [イラン]
- イラン Iran 西南アジア、カスピ海の南に位置するイスラム共和国。旧称ペルシア。1935年改称。79年までは王制。砂漠・荒地が多い。世界屈指の産油国。住民の大半はペルシア人でイスラム教シーア派を信じ、公用語は現代ペルシア語。面積163万3000平方km。人口6748万(2004)。首都テヘラン。
- ペルシャ/ペルシア Persia・波斯 (イラン南西部の古代地名パールサParsaに由来)イランの旧称。アケメネス朝・ササン朝・サファヴィー朝・カージャール朝などを経て、1935年パフレヴィー朝が国号をイランと改めた。
- 波斯 はし 中国におけるペルシアの古称。波斯国。
- カルカ川 karkheh → カルケー川
- カルケー川 イラン南西部、クルディスターン地方の川。ザクロス山脈に源を発して南流し、イラク国境付近でティグリス川下流の湿地帯に入る。古称コアスペス(Choaspes)川。全長322km。
(地名コン) - [東ローマ]
- エフェソス Ephesos トルコ西海岸の都市。431年公会議がここで開かれ、ネストリオス説が異端とされた。エペソ。
- 地中海 ちちゅうかい (Mediterranean Sea)ヨーロッパ南岸・アフリカ北岸およびアジア西岸に挟まれた海。東西3500km、南北1700km、面積297万平方km、日本海の約3倍。古代にはエジプト・フェニキア・ギリシア・ローマが相次いで支配、いわゆる地中海文化を形成。
- [ヨーロッパ]
- 欧州 おうしゅう 欧羅巴(ヨーロッパ)州の略。
- ヨーロッパ Europa・欧羅巴 (ギリシア語のEuropeから)六大州の一つ。ユーラシア大陸の西部をなす半島状の部分と、それに付属する諸島とから成り、面積約1050万平方km。人口約7億2600万(1995)。北は北極海、西は大西洋に臨み、南は地中海を距ててアフリカ大陸に対し、アジアとは東はウラル山脈、南東はカフカス山脈・黒海・カスピ海で境を接する。ギリシア・ローマの高度古代文明を経て、中世の約千年間キリスト教的統一文明圏を形成。イギリス・ドイツ・フランス・イタリア・ロシアなど約40の独立国に分かれる。エウロパ。欧州。
- [ロシア]
- 阿羅思 おろす ロシア。
- オロス 俄羅斯 ロシアの異称。オロシャ。
- ロシア Rossiya・露西亜 ヨーロッパ東部からシベリア・極東に及ぶ、スラヴ民族を中心とする国。862年ノヴゴロド公国の成立に始まり、10世紀にはキエフ公国が栄え、13世紀モンゴル人に征服されたが、1480年モスクワ大公国が独立。ツァーリの専制権力を強化し、17世紀以降300年余りロマノフ王朝の絶対主義支配が続いたが、1917年の革命を経て、22年ソビエト社会主義共和国連邦が成立、同連邦内のロシア‐ソビエト連邦社会主義共和国となる。91年のソ連解体で独立。
- 裏海 りかい (1) うちうみ。内海。(2) カスピ海の別称。
- カスピ海 カスピ かい (Caspian Sea)世界最大の湖。ロシア南部・カザフスタン南西部からイラン北部にかけて広がる中央アジアの西部にある。塩湖。ヴォルガ川などが流入。湖底油田がある。面積37万4000平方km。水面高度は海面より28m低い。最大深度1025m。裏海。
- モスクワ Moskva ロシア連邦の首都。ヨーロッパ‐ロシアの中央に位置し、ヴォルガ川支流のモスクワ川に臨む。ロシアの政治・経済・文化の中心で、機械工業が発達。市街はクレムリン宮殿を中心として放射状に発達。大学・芸術座のほか、ウスペンスキー聖堂(15世紀)などのロシア正教の教会堂、トレチャコフ美術館・プーシキン美術館などがある。人口1040万7千(2004)。英語名モスコー。
- [ウクライナ]
- キエフ Kiev ウクライナの首都。ドニエプル川中流に位置する。東スラヴ最古の都市の一つで、キエフ公国の首都として繁栄。ソフィア大聖堂などの建築物群は世界遺産。人口256万7千(2001)。
- [ハンガリー]
- ハンガリー Hungary・洪牙利・匈牙利 中部ヨーロッパに位置する共和国。ドナウ川中流のハンガリー盆地を中心とし、面積9万3000平方km。人口1010万7千(2004)。9世紀末マジャール人が定着、11世紀初め王国を建設。1867年オーストリア‐ハンガリー帝国、1918年共和国、20年再び王制、46年共和制。2004年EU加盟。農畜産業と食品・化学工業が発展。首都ブダペスト。
- [ポーランド]
- ポーランド Poland・波蘭 中部ヨーロッパの共和国。9世紀には王国を成し、中世後期には勢威を振るったが、近世初期から衰え、3次にわたってロシア・オーストリア・ドイツ3国に分割され、1815年ロシア領に編入、1918年独立。39年第二次大戦の当初ドイツ軍が侵入、ソ連軍も分割占領した。45年ソ連軍によって解放され、独立を回復。ポーランド統一労働者党が指導権を掌握し、52年人民共和国となる。89年の東欧民主化のなかで、非共産勢力による政権が発足。2004年EU加盟。工業・農業・畜産業が盛んで、石炭を始めとする鉱物資源も豊富。面積32万3000平方km。人口3818万(2004)。そのほとんどは西スラヴ系ポーランド人で、カトリック教徒が圧倒的に多い。首都ワルシャワ。
- ヴァールシュタット → ワールシュタット
- ワールシュタット Wahlstatt シュレジェン南西のリーグニツ(Liegnitz、レグニツァ。現、ポーランド南西部レグニツァ州)の南東。ワールシュタットの戦い、あるいはリーグニツの戦いともいう。1241年4月9日、バイダルの指揮するバトゥ麾下のモンゴル軍団がシュレジエン公ハインリヒ2世のドイツ・ポーランド軍を破った戦い。
(地名コン、世界大百科) - [イラク]
- バグダッド/バグダード Baghdad イラク共和国の首都。8世紀に建設、以後イスラム帝国の発展と共に繁栄。1258年モンゴル軍の破壊で衰退、20世紀に再び発展。チグリス川中流に臨み、西アジアの商業の要地。人口384万1千(1987)。バグダッド。
- [シリア]
- サラセン帝国 -ていこく 7世紀中頃から13世紀中頃にかけて、西アジア、北アフリカ、南ヨーロッパの広大な地域を支配したイスラム教徒(サラセン人)の諸帝国。元首はムハンマド(マホメット)の後継者、カリフ。東方ではメディナに都した正統カリフの時代(632〜661)
、ダマスカスに都し、ビザンツ文化の影響の濃いウマイヤ朝(661〜750)バグダードに都し、ペルシア文化色豊かなアッバース朝(東カリフ=750〜1258)と続いたが、1258年、蒙古軍によって滅ぼされた。のち16世紀にはオスマントルコ、サファビー朝、ムガル帝国の三帝国となった。なお、コルドバに都してスペインを支配した後ウマイヤ朝(西カリフ=756〜1031)もまたサラセン帝国に含まれる。サラセンは、中世ヨーロッパでの呼称。イスラム帝国。 - サラセン Saracen ヨーロッパで、古くはシリア付近のアラブの呼称。のちイスラム教徒の総称。ウマイヤ朝やアッバース朝はサラセン帝国と呼ばれた。唐名、大食(タージ)。
- シリア Syria (1) 地中海東岸一帯の地域の総称。現在のシリア・レバノン・ヨルダン・イスラエルを含む。古くはフェニキア人の活動やキリスト教成立の舞台。7世紀、ウマイヤ朝の中心。16世紀以降オスマン帝国の属領、第一次大戦後英仏両国の委任統治領であった。(2) 西アジアの地中海に面するアラブ共和国。シリア (1) の北半部を占める。フランス委任統治領から1946年独立。面積18万5000平方km。人口1798万(2004)。首都ダマスカス。
- アラビア Arabia・亜剌比亜・亜拉毘亜 アジア大陸南西端、インド洋に突出する世界最大の半島。紅海を隔ててアフリカと対し、面積270万平方km。住民はアラブ人で、イスラム教徒。
- [ベトナム]
- 交趾・交阯 こうち/コーチ (1) 現在のベトナム北部トンキン・ハノイ地方の古称。前漢の武帝が南越を滅ぼして交趾郡を設置した。こうし。(2) 12世紀頃までの中国で、ベトナム人居住地域を漠然と呼んだ称。
- 安南 アンナン Annam 中国人・フランス人などがかつてベトナムを呼んだ称。また、ベトナム人がこの地に建てた国家をもいう。唐がこの地に設けた安南都護府に由来。狭義には、北のトンキン、南のコーチシナとともに旧仏領インドシナの一行政区画の称。
- サイゴン Saigon・西貢・柴棍 ホーチミン市の旧称。
- [ビルマ]
- ビルマ Burma・緬甸 東南アジア大陸部西部の国。ミャンマー連邦の旧称。
- [カンボジア]
- カンボジア Cambodia・柬埔寨 インドシナ半島南東部の国。1世紀以来扶南、7世紀以来真臘と称した。1863年フランスの保護国。1953年立憲王国として独立。75年国名を民主カンボジアと改称。78年以来の内戦の後、93年カンボジア王国が成立。面積18万1000平方km。人口1309万(2004)。住民の大部分はクメール人で仏教徒。言語はカンボジア語。首都プノンペン。カンプチア。
- [南海諸国]
- 南海 なんかい 中国史でいわゆる南洋をさす語。本来は中国の南方にある海を意味し、南シナ海をさす。転じてその沿海地方・インドシナ半島・マライ半島・フィリピン群島・インドネシアなどをさすようになり、さらにこれを通じて中国と交渉をもったインド洋・ペルシア湾・アラビア海・紅海などの沿海地方をも含めて呼ぶ言葉にもなった。
(東洋史) - ジャヴァ → ジャワ
- ジャワ Java・爪哇・闍婆 東南アジア大スンダ列島南東部の島。インドネシア共和国の中心をなし、首都ジャカルタがある。17世紀オランダによる植民地化が始まり、1945年まで同国領。面積は属島マドゥラを合わせて13万平方km。ジャヴァ。
- スマトラ Sumatra 東南アジア、大スンダ列島の北西端にある島。シュリーヴィジャヤなど多くの王国が興亡、のちオランダ領。1945年独立を宣言、インドネシア共和国の一部となった。面積43万平方km。主な都市はメダン・パレンバン。
- [日本]
- 壇の浦 だんのうら 壇ノ浦。山口県下関市、早鞆瀬戸に臨む海岸。源平合戦最後の戦場。長門壇ノ浦。
- 壇ノ浦の戦 だんのうらの たたかい 元暦2(文治1)年(1185)3月24日、長門壇ノ浦で行われた源平最後の合戦。平氏は宗盛が安徳天皇および神器を奉じ、源氏は義経を総大将とし、激戦の後に平氏は全滅し、二位尼は安徳天皇を抱いて入水した。
- 博多 はかた 福岡市東半部の地名。博多湾に面した港町・商業都市として発展。西隣の城下町福岡とともに、現在の福岡市の中心部を形成。古く官家が置かれて諸国の屯倉からの穀を収め、また朝鮮半島との交通の要衝として開けた。古名、那大津・那津。
◇参照:Wikipedia、
*年表
- 南北朝 なんぼくちょう 南北朝時代。中国で、439年北魏が華北を統一、江南の宋と対立してから、589年隋が陳を滅ぼすまでの時代。すなわち、漢人の南朝と鮮卑族の北朝が南北に対立した約150年間の称。
- 安史の乱 あんしの らん 755〜763年、唐の玄宗の末年から起こった安禄山父子・史思明父子の反乱。鎮圧されたが、乱後、節度使の自立化が進み、唐は衰退に向かった。
- 唐 とう 中国の王朝。李唐。唐国公の李淵(高祖)が隋の3世恭帝の禅譲を受けて建てた統一王朝。都は長安。均田制・租庸調・府兵制に基礎を置く律令制度が整備され、政治・文化が一大発展を遂げ、世界的な文明国となった。20世哀帝の時、朱全忠に滅ぼされた。
(618〜907) - 五代 ごだい 唐と宋の間に、華北に興亡した「後梁」・「後唐」・「後晋」・「後漢」・「後周」の5王朝。
(907〜960) - 後梁 こうりょう 五代の最初の国。節度使朱全忠が唐を滅ぼして建てた国。都は東都(河南開封)
、のち洛陽。2世で後唐の李存勗に滅ぼされた。 (907〜923) - 後唐 ごとう/こうとう 中国、五代の一国。突厥出身の李存勗が後梁を滅ぼして建てた国。都は洛陽。4世でその臣石敬�に滅ぼされた。ごとう。
(923〜936) - 後晋 ごしん/こうしん 中国、五代の一国。石敬�が後唐を滅ぼして建てた国。都は東京(河南開封)。2世で遼に滅ぼされた。晋。ごしん。
(936〜946) - 後漢 ごかん/こうかん 五代の一国。後晋の将劉知遠が建国。都は東京(開封)。2世で後周に滅ぼされた。ごかん。
(947〜950) - 後周 ごしゅう/こうしゅう 五代の最後の王朝。郭威が後漢を滅ぼして建てた国。都は東京(開封)。3世で宋の趙匡胤に滅ぼされた。周。ごしゅう。
(951〜960) - 遼 りょう 契丹族が中国東北部を中心に建てた国。始祖耶律阿保機が契丹族を統一、さらに党項(タングート)
・吐谷渾を征し、渤海を滅ぼし、太宗の時に後晋から燕雲十六州をとりあげ、947年国を遼と号した。9世で滅亡。 (916〜1125) - 西夏 せいか 李元昊が、宋代に甘粛省およびオルドス地方に建てた国。大夏と自称。都は興慶(銀川)。中心はチベット系タングート(党項)族。宋・遼・金と和平・抗争を繰り返して最後にモンゴルに滅ぼされた。文化は中国文化・西方文化の混融したもので、仏教が栄え、独自の西夏文字を有した。
(1038〜1227) - 金 きん 中国東北部の女真族完顔部の首長阿骨打(アクダ)の建てた国。遼・北宋を滅ぼし、東北・内モンゴル・華北を支配。都は初め会寧(黒竜江省阿城市)
、後に燕京・�京。女真文字を作った。9世でモンゴル軍に滅ぼされた。 (1115〜1234) - 西遼 せいりょう カラキタイの別称。遼と区別していう。
- カラキタイ Qara-Khitai・黒契丹 遼の王族耶律大石が遼滅亡の際に中央アジアに建てた国。トルコ系のナイマン部に滅ぼされた。西遼。
(1132〜1211) - 靖康の難 せいこうのなん → 靖康の変
- 靖康の変 せいこうの へん 北宋の靖康2年(1127)
、金軍が前年の攻撃につづいて都の開封を陥れ、徽宗・欽宗らをはじめとする3000人余を捕虜として北方に拉致した事件。宋朝が南遷する原因となった。 - 南宋 なんそう 「宋(3) 」参照。
- 宋 そう (3) 中国、後周の将軍趙匡胤が建てた王朝。�(開封)に都し、文治主義による官僚政治を樹立したが、外は遼・西夏の侵入に悩まされ、内は財政の窮迫に苦しみ、1127年金の侵入により9代で江南に逃れた。これまでを北宋といい、以後、臨安(杭州)に都して、9代で元に滅ぼされるまでを南宋という。
(960〜1276) - 元 げん 中国の王朝の一つ。モンゴル帝国第5代の世祖フビライが建てた国。南宋を滅ぼし、高麗・吐蕃を降し、安南・ビルマ・タイなどを服属させ、東アジアの大帝国を建設。都は大都(北京)。11代で明の朱元璋に滅ぼされた。大元。
(1271〜1368) - 文永の役 ぶんえいの えき → 「元寇」参照。
- 弘安の役 こうあんの えき → 「元寇」参照。
- 元寇 げんこう 鎌倉時代、元の軍隊が日本に来襲した事件。元のフビライは日本の入貢を求めたが鎌倉幕府に拒否され、1274年(文永11)元軍は壱岐・対馬を侵し博多に迫り、81年(弘安4)再び范文虎らの兵10万を送ったが、2度とも大風が起こって元艦の沈没するものが多かった。蒙古襲来。文永・弘安の役。
- 五代 ごだい 唐と宋の間に、華北に興亡した「後梁」・「後唐」・「後晋」・「後漢」・「後周」の5王朝。
◇参照:Wikipedia、
*人物一覧
(人名、および組織・団体名・神名)- 太宗 たいそう 中国の王朝で、その勲功や徳行が太祖に次ぐ皇帝を称する廟号。唐の李世民、宋の趙匡義、元の窩闊台(オゴタイ)
、清の皇太極(ホンタイジ)など。 - 李世民 り せいみん 598-649 唐の第2代皇帝。太宗。高祖李淵の次子。玄武門の変で兄弟を殺し、父高祖に迫り譲位させて即位。天下統一を完成し、律令を整備、いわゆる貞観の治をしいて、唐朝支配の基礎を固めた。
(在位626〜649) - 李白 り はく 701-762 盛唐の詩人。四川の人、また砕葉(キルギス共和国のトクマク付近)の生れともいう。母が太白星(金星)を夢みて生んだので太白を字としたと伝える。号は青蓮(居士)。謫仙人とも称された。酒を好み奇行多く、玄宗の宮廷詩人に招かれたが、高力士らに嫌われて追放される。晩年、王子の反乱に座して流罪となったが途中で恩赦。最後は酔って水中の月を捕らえようとして溺死したという。その詩は天馬行空と称され、絶句と長編古詩を得意とした。杜甫と共に李杜と併称され、詩仙とも呼ばれる。詩文集「李太白集」30巻がある。
- 杜甫 と ほ 712-770 盛唐の詩人。字は子美、号は少陵。鞏県(河南鄭州)の人。先祖に晋の杜預があり、祖父杜審言は初唐の宮廷詩人。科挙に及第せず、長安で憂苦するうちに安禄山の乱に遭遇。一時左拾遺として宮廷に仕えたが、後半生を放浪のうちに過ごす。その詩は格律厳正、律詩の完成者とされる。社会を鋭く見つめた叙事詩に長じ、
「詩史」の称がある。李白と並び李杜と称され、杜牧(小杜)に対して老杜という。工部員外郎となったので、その詩集を「杜工部集」という。 - 白楽天 はく らくてん 白居易。楽天はその字。
- 白居易 はく きょい 772-846 中唐の詩人。字は楽天、号は香山居士。下※[#「圭+おおざと」、U+90BD](陝西渭南)の人。その詩は流麗で平易、広く愛誦され、日本の平安朝文学にも多大の影響を与えた。
「長恨歌」 「琵琶行」など最も人口に膾炙し、 「白氏文集」の著のほか、社会の矛盾を指弾した「新楽府」50首がある。 - ゾロアスター Zoroaster ?-? ゾロアストル。古代ペルシアの宗教家、予言者。ゾロアスター教の開祖。生存年代は不明であるが、前7世紀中頃から前6世紀後半とされる。ツァラトゥストラ。
- 武宗 ぶ そう 814-846 唐の15代皇帝。李炎。道教を信じて、仏教を排斥。
(在位840〜846) - マニ Mani 216-274 バビロニアの生まれ。ササン朝のシャープール一世即位に際し新宗教を提唱した。創始当時はササン朝でも認められ、宮廷内にも信徒を得たが、ゾロアスター教から異端として迫害され、マニもペルシアを出国し、のち剥皮の刑に処せられ、経典類も焼き払われた。しかし、彼の在世中から死後を通じてマニ教は、西ではシリアからエジプト・北アフリカに渡り、4世紀以後はスペイン・南フランス・イタリアにもおよび、東方ではトルキスタン・中央アジア方面に流行し、7世紀末には唐まで渡った。
(東洋史) - 則天武后 そくてん ぶこう 624頃-705 唐の高宗の皇后。姓は武。中宗・睿宗を廃立、690年自ら即位、則天大聖皇帝と称し、国号を周と改めた(武周)。その老病に及び、宰相張柬之に迫られて退位、中宗が復位、唐の国号を復した。武則天。武后。
(在位690〜705) - ネストリウス/ネストリオス Nestorios ?-451頃 コンスタンチノープルの司教。イエス=キリストの神性に対し人性を強調し、マリアの「神の母」の称号を否認したために431年司教の座を追われ、異端の宣告を受けた。エジプトに客死。
- オロバン → アラボン
- アラボン 阿羅本 ?-? 7世紀に中国へはじめてネストリウス派のキリスト教(景教)を伝えた大秦国の僧侶。大秦景教流行中国碑によれば、635年唐の都長安に到着し、太宗の命をうけた宰相房玄齢・魏徴らに迎えられ、内殿に入って教義をのべた。ついで638年7月、詔をうけて長安義寧坊に大秦寺を建立し、僧21人を度して訳経宣教を公許された。さらに高宗のころには各地に寺院を建立し、鎮国大法主の号を賜り、唐代における景教の中心者となった。
(東洋史) - 景浄 けいじょう ?-? 8世紀後半に長安大秦寺に住した景教の僧侶。本名はアダム。唐の皇帝に命じられて多数の経典のなかより、とくに30種をえらんで翻訳した。そのうち、敦煌文書の中には「景教三威蒙度讃」が残り、仏教の「大乗理趣六波羅密多経」の訳出の援助をした。また、大秦景教流行中国碑文の撰者として知られる。
(東洋史) - 老子 ろうし ?-? 中国、春秋戦国時代にいたとされる思想家。道家の祖。史記によれば、姓は李、名は耳、字はまたは伯陽。楚の苦県�郷曲仁里(河南省)の人。周の守蔵室(図書室)の書記官。乱世を逃れて関(函谷関または散関)に至った時、関守の尹喜が道を求めたので、
『老子』を説いたという。 - 朱全忠 しゅ ぜんちゅう 852-912 五代、後梁の太祖。名は温。全忠は唐の僖宗より賜った名。安徽e山の人。初め黄巣の部下、唐に降り節度使。哀帝に迫って位を譲らせ、東都開封府に都して国号を梁と称。次子の朱友珪に殺された。
(在位907〜912) - 耶律阿保機 やりつ あぼき 872-926 遼(契丹)の太祖。汗位につき、契丹の八部を統一、東西の諸部族を従え、大聖大明天皇帝を称し、中国本土に侵入。また、渤海国を滅ぼす。漢人を登用し、国力をたくわえた。
(在位916〜926) - 太祖 たいそ → 耶律阿保機
- 大祚栄 だい そえい ?-719 渤海国の建国者。高王。高句麗人説と靺鞨人説とがある。唐の則天武后の時、松花江上流の粟末靺鞨族の支配者となり、698年自立して震国王と称。713年唐より渤海郡王に封ぜられ、国号を渤海と改めた。
(在位698〜719) - 聖武天皇 しょうむ てんのう 701-756 奈良中期の天皇。文武天皇の第1皇子。名は首。光明皇后とともに仏教を信じ、全国に国分寺・国分尼寺、奈良に東大寺を建て、大仏を安置した。
(在位724〜749) - 大江朝綱 おおえ ともつな → おおえの あさつな、か
- 大江朝綱 おおえの あさつな 886-957 『国語大辞典』は「あさつな」
。/平安中期の貴族・学者。中国古典に精通、村上天皇の勅命により「新国史」を撰進。民部大輔・文章博士・左大弁を歴任、参議に昇る。祖父音人の江相公に対して後江相公と称する。著「後江相公集」 。 - 趙匡胤 ちょう きょういん 927-976 宋の太祖。河北�郡の人。後周の禁軍(親衛隊)の長で節度使を兼ねていたが、幼主恭帝の時、部下に擁立され、開封に入り、帝位につき、国号を宋と称した。文治主義の方針を樹立、中央集権体制を確立、皇帝権を強化。
(在位960〜976) - 趙普 ちょうふ 922-992 北宋の功臣。趙匡胤の推戴運動の中心者で、のち宰相。性は剛毅果断、文治主義の基礎を固めた。
- 聖宗 せいそう 971-1031 遼の6代皇帝。在位982-1031。姓名耶律隆緒。景宗の長子。12歳で即位。母后の摂政のもと、中央集権制をおこない、国力の充実をはかった。高麗、西域のウイグルなどの朝貢を受け、宋朝とは「�T淵の盟」を結んで文化・経済の交流をおこない、遼朝の基礎を築いた。
- 神宗 しん そう 1048-1085 北宋第6代の皇帝。英宗の長子。財政再建・富国強兵をはかり王安石を登用して新法を断行。
(在位1067〜1085) - 王安石 おう あんせき 1021-1086 北宋の政治家。字は介甫、号は半山、諡は文。撫州臨川(江西省撫州市)の人。神宗の信任を得て宰相となり、科挙改革・学制改革のほか青苗法・均輸法・市易法・募役法などの経済政策からなる新法を実施した。唐宋八大家の一人。著「周官新義」
「臨川先生文集」など。 - 司馬光 しば こう 1019-1086 北宋の政治家・学者。字は君実。水先生と称された。山西夏県の人。神宗の時、翰林学士・御史中丞。王安石の新法の害を説いて用いられず政界を引退、力を「資治通鑑」の撰述に注いだ。哲宗の時に執政、旧法を復活させたが、数カ月で病没。太師温国公を賜り司馬温公と尊称。文正と諡。
- 欧陽修 おうよう しゅう → 欧陽脩
- 欧陽脩 おうよう しゅう 1007-1072 北宋の政治家・学者。江西廬陵の人。字は永叔。号は酔翁・六一居士。諡は文忠。唐宋八大家の一人。仁宗・英宗・神宗に仕え、王安石の新法に反対して引退。著「欧陽文忠公全集」
「新唐書」 「新五代史」 「集古録」 「詩本義」など。 - アクダ 阿骨打 1068-1123 金の太祖武元帝の名。完顔(ワンヤン)氏。女真族を統一、会寧に都して、金国を建て皇帝を称し、遼を滅ぼした。
(在位1115〜1123) - 金の太祖 → 阿骨打
- 耶律大石 やりつ たいせき 1087-1143 カラキタイの建国者。遼の王族の出身。遼の末期に西征して1132年カラハン朝に代わって東トルキスタンを支配、ベラサグンを都とする。次いで西トルキスタンにも勢力を拡張。
- 欽宗 きんそう 1096-1156 北宋第9代の皇帝。在位1125-1127。姓は趙桓。金軍侵入時に即位。開封陥落(靖康の変)後、父徽宗らとともに北に送られ、そこに没した。
- 徽宗 きそう 1082-1135 北宋第8代の皇帝。名は佶。神宗の子。詩・書・画をよくし、特に花鳥画に巧み。美術工芸を奨励するかたわら、土木工事を盛んにし、経済を活性化させた。1125年金軍南下により欽宗に譲位、27年再度の金軍侵入により捕虜となり(靖康の変)
、五国城(今の黒竜江省)で没。 (在位1100〜1125) - 高宗 こうそう 1107-1187 南宗の初代皇帝。在位1127-1162。趙構の廟号。徽宗・欽宗が金軍に捕らえられたため、即位。のち、臨安を都と定め、金と和議を結ぶ。経済開発を推進し、南宋の基礎を築いた。/徽宗の9男。
- 岳飛 がく ひ 1103-1141 南宋の武将。字は鵬挙。河南湯陰の人。高宗に仕え、江淮を平定し、
「精忠岳飛」と記した旗を受けた。金軍を破って功をたてたが、宰相秦桧に讒せられ獄死。武穆・忠武の諡号を受け、鄂王に追封。著「岳忠武王集」 。 - 秦桧 しん かい 1090-1155 南宋初めの宰相。字は会之。江寧(南京)の人。高宗に仕え、侵入する金国と講和して南宋を安定させた。主戦派の岳飛を獄死させ、自らの栄達をはかったと批判され、後世奸臣の典型とされる。
- 世宗 せい そう 1123-1189 中国、金の5代皇帝。完顔雍。
(在位1161〜1189) - 孝宗 こうそう 1127-1194 南宋の第2代皇帝。在位1162〜1189。太祖7代の孫。高宗に養われて皇太子となり、1162年、帝位についた。聡明英毅で、ながく紛争の絶えなかった宋金の外交を調整し、従来の君臣関係を叔姪関係に、歳貢を歳幣に改めた。治世27年間は南宋の極盛期で、官制の改革、軍備の削減、江南の開発、文化の興隆、社会経済の発達等、みるべき治績が多い。ことに彼の会子(紙幣)政策は後世範とされ、当時低価値の紙幣を銭より高く評価されるようにした。
(東洋史) - 鉄木真 テムジン ジンギス汗の名。
- 成吉思汗 ジンギス かん 1162-1227一説に1167-1227 モンゴル帝国の創設者。元の太祖。名は鉄木真(テムジン)。モンゴル高原のモンゴル族を統一、1206年ハンの位につき成吉思汗と号した。ついで、金を攻略する一方、西夏に侵入、19年以降、西征の大軍を発し、ホラズムを滅ぼし、27年西夏を滅ぼしたが、負傷がもとで病没。征服した地を諸子に分封、諸ハン国の基礎を築いた。チンギス汗。チンギス=ハン。
(在位1206〜1227) - 大汗 たいかん モンゴル帝国の支配者の通称。1206年ジンギス汗が大汗と称したのが最初。
- 汗 ハン 汗・khan 韃靼・モンゴル・トルコなど北方遊牧民の君主の称号。カン(汗)。可汗(かがん・かかん)。
- 屈出律 クチュルク → クチュルグ=カン
- クチュルグ=カン Kuchlug Khan ?-1218 古出魯古汗(屈出律、曲出律)。ナイマン部長タヤン=カンの子。1204年、タヤン=カンがチンギス=カンと戦って敗死すると、08年のがれて西遼王直魯克(チルク)のもとに亡命し、王女をめとった。彼は西遼の国勢が衰えたのに乗じてこの国をうばい(1211)
、チンギス=カンに対抗しようとしたが、18年かえって蒙古軍の進攻にあって捕殺された。 (東洋史) - 哲別 チェベ/ジェベ Jebe 者別。遮別。12〜13世紀の人。蒙古帝国国初の勇将。別速�(ベスート)部出身。はじめ泰赤兀�(タイチウト)部に隷す。旧名は只児豁阿歹(ジルコあだい)。ジェベの名はチンギス=カンに降ったとき賜った。ナイマン部・西夏・金など攻撃の先鋒として功をたて、千戸長となる。ついでナイマン部の古出魯克(クチュルグ)を西遼の地で破り、1219年、チンギス=カンの西域親征の先鋒としてサマルカンドを陥して勇名をとどろかし、その後ホラムズ=シャー朝の王ムハンマドを追って侵略をつづけ、ついにはアゾフ海沿岸からクリミア半島まで進出した。のちチンギス=カンの本体に合し、帰国の途中死んだ。
(東洋史) - スブタイ Subutai 1176-1248 速不台。速別額台とも。モンゴル帝国の武将。ウリヤンハイ部族の出身。ジンギス=カンの時、ジェルメ、フビライ、ジェベとともに四先鋒と称された。オゴタイ=カンの時、ロシア、ハンガリー、ポーランドに転戦し功をたてた。
- オゴタイ Ogodai・窩闊台 1186-1241 モンゴル帝国第2代皇帝。太宗。ジンギス汗の第3子。金国を滅ぼし、首都をオルホン河畔カラコルムに営み、バトゥを総司令官として西征軍を派遣、南ロシア・ハンガリーを経略。エゲディ。
(在位1229〜1241) - 耶律楚材 やりつ そざい 1190-1244 モンゴル帝国の政治家。遼の王族の出身。名は晋卿。初め金に仕えたが、1215年ジンギス汗に降り、その西域遠征に従軍。オゴタイ汗の即位に功あり。学問にすぐれ、天文・地理・医学にも通じた。
- バツ/バトゥ Batu・抜都 1207-1255 キプチャク‐ハン国の創始者。ジンギス汗の長子ジュチ(朮赤)の第2子。父の没後、ハン位を継ぎキプチャク部を統轄。1236年よりロシア・東欧に侵入、ロシア諸侯を撃破。43年ヴォルガ河畔のサライに都し、ハン国を樹立。
(在位1227〜1255) - 貴由 クユク/グユク Guyuk 1206-1248 グユック。古余克。モンゴル帝国第3代皇帝。在位1246-1248。廟号は定宗。オゴタイの長子。ロシア遠征に参加し、キエフ公国平定に功をあげる。1246年即位し、帝王権の強化につとめたが、病弱のため間もなく没した。
- 蒙哥 マング → モンケ
- 憲宗 けんそう (→)モンケに同じ。
- モンケ Mongke 1208-1259 モンゴル帝国の4代皇帝。憲宗。ジンギス汗の末子トゥルイの子。モンゴル帝国の再統一に取り組み、雲南・ベトナムを征し、南宋を攻める途次病死。
(在位1251〜1259) - フラグ Hulagu・旭烈兀 1218-1265 イル‐ハン国の創始者。ジンギス汗の子ツルイ(※[#「てへん+施」、U+63D3]雷)の子。1253年兄モンケ(憲宗)の命により西征。イラク・シリアに侵入、アッバース朝を滅ぼす。モンケ没後、自立してタブリーズに国都を定めた。
(在位1258〜1265) - フビライ 忽必烈・忽比烈 1215-1294 (Khubilai)元朝の初代皇帝。世祖。モンゴル帝国第5代の皇帝。ジンギス汗の孫。金を滅ぼし、宋を併合し、都を大都(北京)に移し、1271年国号を元と定めた。越南・占城・ジャワまで併呑を企図、高麗を服属させた。日本にも2度遠征軍を派遣したが失敗。クビライ。
(在位1260〜1294) - 阿里不哥 アリブカ 〓 モンケ(憲宗)の弟。 → アリクブカ
- アリクブカ/アリクブケ
- アリクブカの乱 阿里不哥の乱。1260年におこったクビライ・アリクブカ兄弟を中心とする蒙古宗家の内紛。蒙古第4代皇帝のメンケ=カンが陣没すると、実弟のクビライが開平で、またアリクブカが和林で、ともに即位を宣言し、大汗継承の問題をめぐって対立した。アリクブカにはカイドゥやメンケ=カンの遺臣たちが味方した。前後5年間、蒙古から甘粛地方までおよんだ激闘は、64年にクビライ派の勝利となり、アリクブカの罪は許されたが、蒙古本地主義の保守派は壊滅した。この事件は、これを契機として蒙古族が遊牧国家の蒙古帝国から、征服国家の元朝へ、つまり国家の重心を蒙古本地から華北に移し、その政治的・経済的体制を遊牧制から農耕制にきりかえたことに重大な意義がある。
(東洋史) - 世祖 せいそ → フビライ
- 賈似道 か じどう 1213-1275 南宋末の宰相。字は師憲。財政立直しのため公田法を施行。モンゴル軍の再侵に敗北、罪をえて流され、福建�G州で殺された。
- バヤン 伯顔 Bayan 1246-1294 元初の武将。八隣(バリン)部の人。曾祖父以来蒙古帝国に仕えた名門の出身。ペルシア遠征に従軍後、中書左丞相となった。1274年、南宋討伐軍の前線総司令官となり、揚子江を渡り、建康(南京)を攻略、76年南宋の首都臨安(杭州)を陥し、恭帝を捕らえた。のち和林行枢密院の長官となり、北辺に鎮し、しばしば海都の軍を破った。成宗即位後、顕職を兼ねた。死後、淮安王に追封された。
(東洋史) - 文天祥 ぶん てんしょう 1236-1282 南宋末の忠臣。文山と号す。理宗に仕えて江西安撫使。恭帝の時に元軍が侵入すると、1275年任地から義勇軍を率いて上京、のち捕らえられて大都(北京)に護送。フビライの帰順の勧めを拒否し、幽閉3年後処刑。獄中で五言古詩「正気歌」を作る。
- 張世傑 ちょう せいけつ ?-1279 南宋の武将。元軍の侵入にしばしば功をたて節度使となった。衛王を奉じて南方に逃げ、�山を死守したが、たまたま台風にあい船が沈没し、溺死した。
- 帝恭 ていちょう → 恭帝
- 恭帝 きょう てい 1270-? 南宋末期の皇帝。趙。臨安の陥落で元軍の捕虜となる。
(在位1274〜1276) - 帝�O へい
- 北条時宗 ほうじょう ときむね 1251-1284 鎌倉幕府の執権。通称、相模太郎。時頼の子。1274年(文永11)元寇を撃退し、北九州沿岸に防塁を築き、81年(弘安4)の再度の元寇もよく防御。円覚寺を建て、宋より無学祖元を招いて開山とする。
- 亀山上皇 かめやま じょうこう → 亀山天皇
- 亀山天皇 かめやま てんのう 1249-1305 鎌倉中期の天皇。後嵯峨天皇の皇子。名は恒仁。蒙古襲来時の天皇。後宇多天皇に譲位後、1287年(弘安10)まで院政。
(在位1259〜1274) - 抜思巴 ばすぱ → パスパ、か
- パスパ 八思巴 1235-1280 チベット仏教サキャ派の法王。フビライの帝師となり、その命をうけてモンゴル語を写すためにパスパ文字を作る。
- 李世民 り せいみん 598-649 唐の第2代皇帝。太宗。高祖李淵の次子。玄武門の変で兄弟を殺し、父高祖に迫り譲位させて即位。天下統一を完成し、律令を整備、いわゆる貞観の治をしいて、唐朝支配の基礎を固めた。
◇参照:Wikipedia、
*書籍
(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)- 「大宝律令」 たいほう りつりょう 律6巻・令11巻の古代の法典。大宝元年(701)刑部親王・藤原不比等ら編。ただちに施行。天智朝以来の法典編纂事業の大成で、養老律令施行まで、律令国家盛期の基本法典となった。古代末期に律令共に散逸したが、養老律令から全貌を推定できる。
- 「大秦景教流行中国碑」 たいしん けいきょう りゅうこう ちゅうごくひ 唐代の781年、長安の景教寺院大秦寺に建てられた石碑。中国に伝来した景教(ネストリウス派キリスト教)の教義・歴史を記して、その流行を記念したもの。明末に発掘され、イエズス会の宣教師がヨーロッパに紹介した。
- 『論語』 ろんご 四書の一つ。孔子の言行、孔子と弟子・時人らとの問答、弟子たち同士の問答などを集録した書。20編。学而篇より尭曰篇に至る。弟子たちの記録したものに始まり、漢代に集大成。孔子の説いた理想的秩序「礼」の姿、理想的道徳「仁」の意義、政治・教育などの具体的意見を述べる。日本には応神天皇の時に百済より伝来したと伝えられる。
- 『正気歌』 せいきの うた 宋末、元軍に捕らえられた文天祥が、大都(北京)の獄中で作った五言の古詩。忠臣の気概を詠ずる。
◇参照:Wikipedia、
*難字、求めよ
- しな 支那 (
「秦(しん) 」の転訛)外国人の中国に対する呼称。初めインドの仏典に現れ、日本では江戸中期以来第二次大戦末まで用いられた。戦後は「支那」の表記を避けて多く「シナ」と書く。 - 恩沢 おんたく (オンダクとも)めぐみ。なさけ。おかげ。
- 儒学 じゅがく 孔子に始まる中国古来の政治・道徳の学。諸子百家の一つ。後漢に五経などの経典が権威をもち儒家が重用されるに及んで、他から抜きんでた。南北朝・隋・唐では経典の解釈学が進み、また礼制の普及・実践が見られた反面、哲理面で老荘の学や仏教に一時おくれをとった。宋代に宋学が興って哲理面で深化し、特に朱子学による集大成がなされた。やがて朱子学が体制教学化するにつれ、明代中葉以降、王陽明を始め朱子学の批判・修正を通じて多くの儒家による学理上の革新が続き、清末の共和思想に及ぶ。日本には応神天皇の時に「論語」が伝来したと称されるが、社会一般に及んだのは江戸時代以降。
- 新生面 しんせいめん 新しい方面・分野。
- 盛世 せいせい 盛んな御代。
- 来往 らいおう 行ったり来たりすること。往来。
- ローマ人 -じん 古代ローマをつくったラテン人。高度の文明を持った大帝国を建設し、都市や建造物を築いた。古代ローマ人。
- ギリシャ人 -じん ギシリア人。ギシリアの国の人。また、古代ギリシアの人。現在のギリシア人は地中海種に区分する白人で、古代ギリシアの彫刻にみられるような身体形質とは、度重なる諸民族の侵入による混血によって、かなり異質なものになっている。
- アラビア人 → 「アラブ人」に同じ。
- アラブ人 アラブじん 本来はアラビア半島に住むセム系の遊牧民族の総称。現在はアラビア語を母語とし、イスラム勃興以降のアラブの歴史・文化遺産に帰属意識を持つ人々を指す。西アジアから北アフリカにかけて居住。アラビア人。
- ペルシャ人 -じん → イラン人
- イラン人 -じん イラン国家の大半を占める住民。アーリア系民族。ペルシアの名で知られた古い文明国を形成し、多くの文化遺産をもつが、1930年前後の革命以来、その生活は急速に近代化した。
- ユダヤ人 ユダヤじん (Jew)(ヤコブの子ユダ(Judah)の子孫の意)ユダヤ教徒を、キリスト教の側から別人種と見なして呼ぶ称。現在イスラエルでは「ユダヤ人を母とする者またはユダヤ教徒」と規定している。十字軍時代以降、ヨーロッパのキリスト教徒の迫害を受けた。近世、資本主義の勃興とともに実力を蓄え、学術・思想・音楽方面にも活躍。
- インド人 -じん インドの国民。また、インド半島、セイロン島とその周辺の島々を含む地域の住民。人種構成はきわめて複雑で、その基本となっているものは、ドラビダ型とインド-アーリア型である。地域によってモンゴロイド型、イラン型、トルコ型、インドネシア型の血が加わっている。
- 中央アジア人
- 突厥人 とっけつじん トルコ系民族。6世紀頃、鉄勒諸部・柔然を滅ぼし、モンゴル高原・中央アジアで活躍。のちその国家は東西突厥に分かれ、唐に滅ぼされた。
- 日本人 にほんじん (1) 日本国に国籍を有する人。日本国民。(2) 人類学的にはモンゴロイドの一つ。皮膚は黄色、虹彩は黒褐色、毛髪は黒色で直毛。言語は日本語。
- 朝鮮人 ちょうせんじん 朝鮮の人。朝鮮半島および周辺の島に分布する韓民族集団の総称。人種的にはモンゴロイド(蒙古人種)に属し、黒色・直毛の頭髪、高いほお骨などを特徴とする。
- 大食 タージ (Tazi ペルシアの音訳)唐代にアラビア人を呼ぶのに用いた名称。広義にはイスラム教徒に対する呼称。
- 市舶司 しはくし 宋・元・明初に外国貿易および関税徴収事務を監督した官庁(税関)。
- 海関 かいかん 中国で、清朝が開港場に設けた外国貿易に対する税関。今日でも、飛行場に設けたものも含めて、税関をこう呼ぶ。
- q教 けんきょう 中国で、ゾロアスター教の称。南北朝末にペルシアから伝来、唐代にはその寺院も建てられたが、武宗(在位840〜846)の時に禁圧。拝火教。
- 拝火教 はいかきょう 火を神化して崇拝する信仰の総称。特に、ゾロアスター教の称。
- ゾロアスター教 ゾロアスターきょう 前7〜6世紀ペルシアの預言者ゾロアスター(Zoroaster)の創始した宗教。善なる最高神をアフラ=マズダ、悪神をアフリマン(アングラ=マンユ)と呼び、勤倹力行によって悪神を克服し、善神の勝利を期することを教旨とし、善神の象徴である太陽・星・火などを崇拝。アヴェスタ経典を奉じ、古代ペルシアの国教として栄え、中国には南北朝の頃伝来、q教または拝火教と称。7世紀来、イスラム教の興隆とともに急速に衰微。インド西海岸に残る信徒はパルシーと呼ばれる。マズダ教。ザラットラ教。
- 二元 にげん (1) 二つの要素。(2) 事物が二つの異なる根本原理からできていると考える場合の、その二つの原理。
- 二元論 にげんろん (dualism)ある対象の考察にあたって二つの根本的な原理または要素をもって説明する考え方。(1) 宇宙の構成要素を精神と物質との2実体とする考え方。デカルトの物心二元論は代表的な例。(2) 世界を善悪二つの原理(神)の闘争と見る宗教。ゾロアスター教・マニ教など。
- 万象 ばんしょう 天地に存在する、さまざまの形。あらゆる事物。
- q祠 けんし
- マニ教 マニきょう 摩尼教・末尼教。ペルシアのゾロアスター教を基本とし、キリスト教的要素をも加味したグノーシス宗教。3世紀中頃のペルシア人マニ(Mani)が教祖。善は光明、悪は暗黒という倫理的二元論を教理の根本とし、教徒は菜食主義・不淫戒・断食・浄身祈祷をする。ゾロアスター教の圧迫でマニは処刑され、この宗教の活動の中心は後にサマルカンドに移り、ウイグル人の間に拡がった。唐の則天武后の時に中国に伝わり、12世紀頃まで行われた。摩尼q教。
- 景教 けいきょう (
「光り輝く教え」の意)ネストリオス派キリスト教の中国での呼称。唐代に中国に伝わり、唐朝が保護したために隆盛、唐末に至ってほとんど滅亡。後また、モンゴル民族の興隆と共に興ったが、元と共に衰滅。 - ネストリオス派 ネストリオス は ネストリオスの起こしたキリスト教分派。その教義は東方ペルシアに勢力を得、インド・中国に入り、中国では景教という。
- 波斯寺 はしじ
- 大秦寺 たいしんじ 中国、唐代のキリスト教ネストリオス派(景教)の寺院の名称。この宗派の発生地が大秦国であることを知り、745年波斯寺(はしじ)を改称。長安などに建てられた。
- 盛観 せいかん さかんなながめ。盛大なみもの。
- イスラム教 イスラムきょう 世界的大宗教の一つ。610〜632年頃、ムハンマドが創始、アラビア半島から東西に広がり、中東から西へは大西洋に至る北アフリカ、東へはイラン・インド・中央アジアから中国・東南アジア、南へはサハラ以南アフリカ諸国に、民族を超えて広がる。サウジ‐アラビア・イラン・エジプト・モロッコ・パキスタンなどでは国教となっている。ユダヤ教・キリスト教と同系の一神教で、唯一神アッラーと預言者ムハンマドを認めることを根本教義とする。聖典はコーラン。信仰行為は五行、信仰箇条は六信にまとめられる。その教えは、シャリーアとして体系化される。法学・神学上の違いから、スンニー派とシーア派とに大別される。中世には、オリエント文明やヘレニズム文化を吸収した独自の文明が成立、哲学・医学・天文学・数学・地理学などが発達し、近代ヨーロッパ文化の誕生にも寄与した。三大聖地はメッカ・メディナ・エルサレム。回教。マホメット教。
- 仏教 ぶっきょう (Buddhism)仏陀(釈迦牟尼)を開祖とする世界宗教。前5世紀頃インドに興った。もともとは、仏陀の説いた教えの意。四諦の真理に目覚め、八正道の実践を行うことによって、苦悩から解放された涅槃の境地を目指す。紀元前後には大乗仏教とよばれる新たな仏教が誕生、さらに7〜8世紀には密教へと展開した。13世紀にはインド亜大陸からすがたを消したのと対照的に、インドを超えてアジア全域に広まり、各地の文化や信仰と融合しながら、東南アジア、東アジア、チベットなどに、それぞれ独自の形態を発展させた。
- 経論 きょうろん 仏陀の説法を集成した経と、経を注釈した論。
- 道教 どうきょう 中国漢民族の伝統宗教。黄帝・老子を教祖と仰ぐ。古来の巫術や老荘道家の流れを汲み、これに陰陽五行説や神仙思想などを加味して、不老長生の術を求め、符呪・祈祷などを行う。後漢末の五斗米道(天師道)に始まり、北魏の寇謙之によって改革され、仏教の教理をとり入れて次第に成長。唐代には宮廷の特別の保護をうけて全盛。金代には王重陽が全真教を始めて旧教を改革、旧来の道教は正一教として江南で行われた。民間宗教として現在まで広く行われる。
- 漢人 かんじん (1) 漢族の人。漢民族。また、ひろく中国の人をいう。(2) 元代、旧金朝治下の漢人・契丹人・女真人などの称。旧南宋下の南人と区別された。
- 漢族 かんぞく 中国文化と中国国家を形成してきた主要民族。現在中国全人口の約9割を占める。その祖は人種的には新石器時代にさかのぼるが、共通の民族意識が成立するのは、春秋時代に自らを諸夏・華夏とよぶようになって以降。それらを漢人・漢族と称するのは、漢王朝成立以後。その後も漢化政策により多くの非漢族が漢族に同化した。
- 藩鎮 はんちん (1) 地方のしずめとして駐屯した軍隊。(2) 王室の藩屏たる諸侯。(3) 唐・五代の節度使の異称。特に、観察使を兼ねて中央政府から半ば独立し、軍閥化したもの。方鎮。
- 擁立 ようりつ 擁護して帝王などの位に即かせること。また、位に即かせようとして、もりたてること。
- 遊牧民 ゆうぼくみん 遊牧しながら季節的・周期的に移動する人々。農耕生活を営む定着民とはまったく異なる文化圏を形成。住地は農耕の営めない中央アジア・イラン・アラビアなどの草原・乾燥・半砂漠地帯。
- 契丹 きったん 4世紀以来、内蒙古�L河(シラムレン)流域にいた、モンゴル系にツングース系の混血した遊牧民族。10世紀に耶律阿保機が諸部族を統一、その子太宗の時に国号を遼と称した。キタイ。
- 東胡 とうこ 中国、春秋の頃から、内モンゴル東部にいた狩猟遊牧民族。烏桓・鮮卑・契丹などはその後裔とされる。
- 靺鞨 まっかつ ツングース族の呼称の一つ。周の粛慎、漢・魏の�婁、南北朝の勿吉などはみな旧称で、この名称が起こったのは6世紀後半。有力な部族が7部族あり、その一つである粟末靺鞨族の支配者、大祚栄が中心になって渤海国が起こり、また、黒水靺鞨はのちに女真と称した。
- 粟末靺鞨 ぞくまつ まっかつ 靺鞨七部の一つ。白山部とともに高句麗に服属したと考えられ、渤海国が成立すると他の諸部も多くはこれに包含された。
(東洋史) - 修好・修交 しゅうこう (1) なかよくすること。(2) 特に、国と国とが親しく交際すること。
- 舞楽 ぶがく 雅楽の外来楽舞の演出法で器楽合奏を伴奏として舞を奏でるもの。また、その曲。器楽合奏のみ行う管弦の対語。
- 渤海楽 ぼっかいがく 奈良時代に渤海から日本に伝来した楽舞。平安初期以降は三韓楽と併合されて、高麗楽(2) の一部とされる。
- 高麗楽 こまがく (1) 三韓楽の一つ。高句麗起源の楽舞。臥箜篌の使用が特徴的。(2) 雅楽の外来楽舞の2様式の一つ。三韓楽と渤海楽とを併せて平安時代に様式統一されたもので、日本で新作された曲目をも含む。演奏は舞楽形式のみで行う。楽器編成は高麗笛・篳篥・三ノ鼓・鉦鼓・太鼓の5種。右方高麗楽。右方の楽。右楽。
- 朝臣 ちょうしん 朝廷に仕える臣。廷臣。
- 芸苑 げいえん 学芸の社会。
- 佳話 かわ よい話。美談。
- 雁山 がんざん (→)雁門に同じ。
- 雁門 がんもん 中国山西省代県の北西、句注山のこと。高山なので、北に帰る雁が飛び越えられないことから、中途に穴をうがってその通路としたという俗説がある。雁山。
- 暮雲 ぼうん ゆうぐれの雲。
- 後会 こうかい 将来会うこと。後日の面会。
- 纓 えい (1) 冠の付属具。中世以降は羅や紗の縁に芯をつけ漆を塗って製し、冠の後に垂れる。立纓・垂纓・巻纓・細纓・縄纓などの種類がある。もと巾子の根を締めた紐のあまりを、背後に垂れ下げたもののなごり。(2) 冠が脱げないように顎の下で結ぶ紐。
- 鴻臚 こうろ 中国の官名。外国の賓客の応接にあたる。秦では典客、漢の武帝は大鴻臚をおき、北斉では鴻臚寺と改め、以下これを継承。
- 暁涙 ぎょうるい
- 海東の盛国 かいとうの せいこく
- 中原 ちゅうげん (1) 広い野原の中央。(2) 中国文化の発源たる黄河中流の南北の地域、すなわち河南および山東・山西の大部と河北・陝西の一部の地域。(3) 天下の中央の地。転じて、競争の場。逐鹿場裡。
- 侵寇 しんこう 敵地に侵入して害を加えること。
- 武弁 ぶべん (武官のかぶる冠の意から)武官。武人。
- 節度使 せつどし (1) 唐・五代の軍職。8世紀初め、辺境の要地に置かれた軍団の司令官。安史の乱中、国内の要地にも置かれ、軍政のみでなく民政・財政権をも兼ねて強大な権限を有した。宋初に廃止。藩鎮。せっとし。(2) 唐にならって、奈良時代に東海・西海など道ごとに置いた臨時の官。新羅対策などのため諸国の軍団を整備・強化するのを任とした。
- 文臣 ぶんしん 文事をもって仕える臣。文官。←
→武臣 - 通判 つうはん 中国の官名。宋初にはじまる地方官。前代の藩鎮の弊害を一掃し中央集権をはかるために設置。1州の政事を監督し、知州の専権を牽制。明・清では州の財政をつかさどる属官。
- 運漕 うんそう 船で貨物を運ぶこと。
- 転運使 てんうんし 唐・宋の地方官職。唐の中頃に設け、漕運をつかさどったが、次第に権限を拡大し、宋代には地方行政区画「路」の実質的な行政長官として財政・監察・刑獄などをつかさどる。元・明では都転運使という。
- 矯める ためる (1) まがっているのをまっすぐにする。また、まっすぐなのをまげる。(2) 改めなおす。正しくする。
- 文治 ぶんち (ブンジとも)教化または法令によって世を治めること。文政。←
→武断。 - 微行 びこう 身分の高い人が、こっそりと外出すること。しのびあるき。おしのび。
- 紛乱 ふんらん まぎれみだれること。混乱。
- 歳幣 さいへい 中国宋朝が講和条約にもとづいて遼や金に毎年支払った銀と絹。南北間の平和を保障し、経済活性化にも役立ったとされる。
- キタイ 契丹 (1) (Khitai) → きったん(契丹)。(2) (Kitai)ロシア語で、中国の称。
- タングート 党項・Tangqut 6〜14世紀、中国北西辺境に活躍したチベット系民族。11世紀前半、オルドスに拠って西夏を建てたのはその一族。
- 宿弊 しゅくへい 古くからある弊害。
- 慨する がいする なげく。うれえる。
- 青苗法 せいびょうほう 王安石の新法の一つ。春秋二季に、官から人民に銭穀を貸し、2分の利息を付して返納させたこと。春に貸せば秋に徴した。農民に低利で融資し、民間の高利を禁止して政府の歳入増加をはかるのがその趣旨。
- 募役法 ぼえきほう 宋の王安石の新法の一つ。賦役免除の代りに納入させた免役銭・助役銭を用いて希望者を雇って政府の力役にあたらせ、一般民の服役の負担軽減をはかったもの。
- 市易法 しえきほう 中国、北宋の王安石の新法の一つ。小商人を豪商の搾取から守るため主な都市に市易務を設置し、小商人の滞貨を買い上げ、あるいはこれを抵当に低利で資金を融通した。
- 保甲法 ほこうほう 中国の隣保制度。宋の王安石の新法の一つ。強兵策と軍事費軽減をめざした民兵制度。10戸を保、5保を大保、10大保を都保とし、農閑期に軍事訓練を行い、平素は自警団の役割を演じた。明代中期より地方自治制度として各地に普及し、清初から全国的に施行、10戸で1牌、10牌で1甲、10甲で1保を組織した。
- 保馬法 ほばほう 宋の王安石の新法の一つ。兵馬の訓練と牧畜とを兼ねて農民1戸に馬1〜2頭を交付し、官から馬料を給して飼育させ、平時は農耕に使わせ、戦時には軍馬として徴用した。
- 強腹 ごうふく 無理やりに服従させること。
- 剛腹 ごうふく 胆力のすわっていること。度量の大きいこと。
- 女真 じょしん 中国東北地方から沿海州方面に居住したツングース系の民族。隋・唐代には靺鞨といい、黒竜江地方に散在。五代の頃より女真と称し、のち女直ともいう。1115年完顔(ワンヤン)部の首長阿骨打(アクダ)が金を建国し、宋に対抗。後に清朝を興した満州族も同一民族である。
- 黒水靺鞨 こくすい まっかつ 靺鞨七部の一つ。渤海国が成立すると他の諸部はこれに包含されたが、黒水のみは松花江・黒竜江下流域にあってこれと鋭く対立した。
(東洋史) - 余衆 よしゅう/よしゅ 残りの人々。
- 純理 じゅんり 純粋な理論。純粋な学理。
- 臣事 しんじ 臣として仕えること。
- 歳貢 さいこう 毎年、産物をみつぐこと。また、毎年のみつぎ物。
- 私誅 しちゅう
- 漢民族 (→)漢族に同じ。
- 乃蛮 ナイマン Naiman・乃蛮 トルコ系の部族。10〜13世紀、アルタイ山脈の東西にわたって建国したが、1218年モンゴル軍によって討滅。
- 隊商 たいしょう (caravan)砂漠のような鉄道の発達しない地方で、隊伍を組み、象・ラクダ・ラバなどの背に、商品などを積んで行く商人の一団。キャラバン。
- 後嗣 こうし あとつぎ。子孫。
- 長子相続 ちょうし そうぞく 長子が一切の家督・財産を相続すること。
- クリルタイ khuriltai (集会の意)モンゴル民族など北方遊牧民族の族長会議。大ハンの推戴、開戦・講和、法令の公布などについて、王侯・将領・貴族などが集まって協議した。
- 宗族 そうぞく 同一祖先の父系血縁の子孫として、共同して活動する地域的な集団。一族。一門。
- 攻伐 こうばつ 攻めうつこと。
- ローマ法王 → ローマ教皇
- ローマ教皇 ローマ きょうこう 全カトリック教会の首長。使徒ペトロの後継者と信ぜられ、ローマの司教。かつては政治的権力をも有した。ヴァチカン市国の元首でもある。現在は、枢機卿の選挙により選ばれる。ローマ法王。
- 十字軍 じゅうじぐん (1) (Crusades)(従軍者が十字架の記章を帯びたからいう)西欧諸国のキリスト教徒がイスラム教徒から聖地パレスチナ、特にエルサレムを回復するために、11世紀末(1096年)〜13世紀後半、7回にわたって行なった遠征。第3回(1189〜92年)以後は宗教目的よりも現実的利害関係に左右されるに至り、当初の目的は達し得なかったが、東方との交通・貿易によって都市の興隆を促進し、また、ビザンチン文化・イスラム文化との接触はルネサンスにも影響を与えた。(2) 広義には、一般に中世のカトリック教会が異端の徒や異教徒に対して行なった遠征を指す。(3) 転じて、ある理想または信念に基づく集団的な運動。
- 黄禍 こうか (1) (yellow peril)黄色人種の勃興により、白色人種に加えられるという禍害。日清戦争後、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世が日本の進出に対する反感から黄禍論を主張したのが有名。
- 権臣 けんしん 権力を持った家来。
- 叛服常無し はんぷく つねなし そむいたり服従したりして、その態度が決まらない。
- 執権 しっけん 鎌倉幕府の政所別当のうち最上級者の称。将軍を補佐し政務を総轄した最高の職。源実朝の時、北条時政がこれに任ぜられ、以後北条氏が世襲。理非決断職。探題職。
- 覆滅 ふくめつ くつがえりほろびること。また、くつがえしほろぼすこと。
- 威令 いれい (1) 威光と命令。(2) 威力のある命令。
- 色目人 しきもくじん (諸種族に属する者の意)元代、その治下のトルコ・イラン・アラビアなどの西方系諸民族の総称。モンゴル人・色目人・漢人・南人の四身分の第2位。準支配階級として財政・流通を担当。
- 南人 なんじん 元代、もと南宋の版図の漢民族の称。モンゴル人・色目人・漢人の下位に置かれ、冷遇されたという。蛮子。
- ラマ教 ラマきょう 喇嘛教。(Lamaism)チベット仏教の俗称。→チベット仏教
- チベット仏教 チベット ぶっきょう 仏教の一派。吐蕃王国時代にインドからチベットに伝わった大乗仏教と密教の混合形態。チベット大蔵経を用いる。のちモンゴル・旧満州(中国東北地方)
・ネパール・ブータン・ラダックにも伝播した。主な宗派はニンマ派(紅教) ・サキャ派・カギュー派・ゲルク派(黄教)の4派。俗称、ラマ教。 - 帝師 ていし 皇帝の師範。天子の師匠。帝傅。
- ウイグル文字 ウイグル もじ 9〜14世紀にかけて用いられた、ウイグル語を書き表すための文字。ソグド文字をもとに作られた表音文字で、右から左、あるいは上から下へ書く。
- 蒙古文字 もうこ もじ (→)モンゴル文字に同じ。
- モンゴル文字 モンゴル もじ モンゴル語を表記するための文字。14世紀にウイグル文字を基にして作られた。表音文字で左から右に縦書きする。蒙古文字。
- 契丹文字 キタイ もんじ 遼王朝の契丹語で用いた文字。耶律阿保機が920年に漢字をもとに考案。多くの表音文字とわずかの表意文字とから成り、大小文字の区別がある。
- 西夏文字 せいか もじ 西夏語で用いた文字。漢字を基にした音節文字。膨大な量の文学や仏典が残されている。
- 女真文字 じょしん もんじ 金王朝の女真語で用いた文字。太祖阿骨打(アクダ)が1119年、完顔希尹(ワンヤンキイン)に命じて契丹(キタイ)文字および漢字の楷書を基にして作った。表意文字と表音文字とからなり、大小文字の区別がある。完全には解読されていない。
- 北方民族
◇参照:Wikipedia、
*後記(工作員 日記)
図版は前回同様、
かけ足でどうにか元まで到着。
源氏、石清水八幡、ハト。八幡太郎、新羅三郎。八幡、やはた、絹。養蚕、桑、駒、馬。コマ……
円仁(慈覚大師)は入唐して、武宗の仏教弾圧に遭遇する。道教への傾向。50年ほどのち、菅原道真による遣唐使廃止。唐との国交を絶ったあいだも、新羅、高麗、渤海との交流はつづく。
保元の乱が1156年、平治の乱が1159年。1161年に金の世宗が、翌年に南宋の孝宗がそれぞれ即位。日宋貿易がさかんとなる。1168年、平清盛が厳島神社の社殿を造営、同年に栄西が南宋に留学、禅宗に感化。
おっと、藤原秀衡の家督相続が1157年かあ。藤原基成の娘と婚姻したのもこのころか。藤原基成の異母兄弟が“裸の大将”藤原信頼! 藤原基衡による毛越寺の伽藍建立、薬師像の仏師運慶への依頼も1156年には完了している。
*次週予告
第四巻 第五一号
科学の不思議(八)アンリ・ファーブル
第四巻 第五一号は、
二〇一二年七月一四日(土)発行予定です。
定価:200円
T-Time マガジン 週刊ミルクティー* 第四巻 第五〇号
東洋歴史物語(五)藤田豊八
発行:二〇一二年七月七日(土)
編集:しだひろし / PoorBook G3'99
http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。
- T-Time マガジン 週刊ミルクティー* *99 出版
- バックナンバー
※ おわびと訂正
長らく、創刊号と第一巻第六号の url 記述が誤っていたことに気がつきませんでした。アクセスを試みてくださったみなさま、申しわけありませんでした。(しょぼーん)/2012.3.2 しだ
- 第一巻
- 創刊号 竹取物語 和田万吉
- 第二号 竹取物語小論 島津久基(210円)
- 第三号 竹取物語の再検討(一)橘 純一(210円)
- 第四号 竹取物語の再検討(二)橘 純一(210円)
「絵合」 『源氏物語』より 紫式部・与謝野晶子(訳) - 第五号
『国文学の新考察』より 島津久基(210円)- 昔物語と歌物語 / 古代・中世の「作り物語」/
- 平安朝文学の弾力 / 散逸物語三つ
- 第六号 特集 コロボックル考 石器時代総論要領 / コロボックル北海道に住みしなるべし 坪井正五郎 マナイタのばけた話 小熊秀雄 親しく見聞したアイヌの生活 / 風に乗って来るコロポックル 宮本百合子
- 第七号 コロボックル風俗考(一〜三)坪井正五郎(210円)
- シペ物語 / カナメの跡 工藤梅次郎
- 第八号 コロボックル風俗考(四〜六)坪井正五郎(210円)
- 第九号 コロボックル風俗考(七〜十)坪井正五郎(210円)
- 第十号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
- 日本太古の民族について / 日本民族概論 / 土蜘蛛種族論につきて
- 第十一号 特集 コロボックル考 喜田貞吉
- 東北民族研究序論 / 猪名部と佐伯部 / 吉野の国巣と国樔部
- 第十二号 日高見国の研究 喜田貞吉
- 第十三号 夷俘・俘囚の考 喜田貞吉
- 第十四号 東人考 喜田貞吉
- 第十五号 奥州における御館藤原氏 喜田貞吉
- 第十六号 考古学と古代史 喜田貞吉
- 第十七号 特集 考古学 喜田貞吉
- 遺物・遺蹟と歴史研究 / 日本における史前時代の歴史研究について / 奥羽北部の石器時代文化における古代シナ文化の影響について
- 第十八号 特集 考古学 喜田貞吉
- 日本石器時代の終末期について /「あばた」も「えくぼ」、
「えくぼ」も「あばた」― ―日本石器時代終末期― ― - 第十九号 特集 考古学 喜田貞吉
- 本邦における一種の古代文明 ―
―銅鐸に関する管見― ― / - 銅鐸民族研究の一断片
- 第二〇号 特集 考古学 喜田貞吉
「鐵」の字の古体と古代の文化 / 石上神宮の神宝七枝刀 / - 八坂瓊之曲玉考
- 第二一号 博物館(一)浜田青陵
- 第二二号 博物館(二)浜田青陵
- 第二三号 博物館(三)浜田青陵
- 第二四号 博物館(四)浜田青陵
- 第二五号 博物館(五)浜田青陵
- 第二六号 墨子(一)幸田露伴
- 第二七号 墨子(二)幸田露伴
- 第二八号 墨子(三)幸田露伴
- 第二九号 道教について(一)幸田露伴
- 第三〇号 道教について(二)幸田露伴
- 第三一号 道教について(三)幸田露伴
- 第三二号 光をかかぐる人々(一)徳永 直
- 第三三号 光をかかぐる人々(二)徳永 直
- 第三四号 東洋人の発明 桑原隲蔵
- 第三五号 堤中納言物語(一)池田亀鑑(訳)
- 第三六号 堤中納言物語(二)池田亀鑑(訳)
- 第三七号 堤中納言物語(三)池田亀鑑(訳)
- 第三八号 歌の話(一)折口信夫
- 第三九号 歌の話(二)折口信夫
- 第四〇号 歌の話(三)
・花の話 折口信夫- 第四一号 枕詞と序詞(一)福井久蔵
- 第四二号 枕詞と序詞(二)福井久蔵
- 第四三号 本朝変態葬礼史 / 死体と民俗 中山太郎
- 第四四号 特集 おっぱい接吻
- 乳房の室 / 女の情欲を笑う 小熊秀雄
- 女体 芥川龍之介
- 接吻 / 接吻の後 北原白秋
- 接吻 斎藤茂吉
- 第四五号 幕末志士の歌 森 繁夫
- 第四六号 特集 フィクション・サムライ 愛国歌小観 / 愛国百人一首に関連して / 愛国百人一首評釈 斎藤茂吉
- 第四七号
「侍」字訓義考 / 多賀祢考 安藤正次- 第四八号 幣束から旗さし物へ / ゴロツキの話 折口信夫
- 第四九号 平将門 幸田露伴
- 第五〇号 光をかかぐる人々(三)徳永 直
- 第五一号 光をかかぐる人々(四)徳永 直
- 第五二号
「印刷文化」について 徳永 直- 書籍の風俗 恩地孝四郎
- 第二巻
- 第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン
- 第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン
- 第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 楠山正雄(訳)
- 第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 小酒井不木 / 折口信夫 / 坂口安吾
- 第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 海野十三 / 折口信夫 / 斎藤茂吉
- 第六号 新羅人の武士的精神について 池内 宏
- 第七号 新羅の花郎について 池内 宏
- 第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉
- 第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治
- 第一〇号 風の又三郎 宮沢賢治
- 第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎
- 第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎
- 第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎
- 第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎
- 第一五号 能久親王事跡(五)森 林太郎
- 第一六号 能久親王事跡(六)森 林太郎
- 第一七号 赤毛連盟 コナン・ドイル
- 第一八号 ボヘミアの醜聞 コナン・ドイル
- 第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル
- 第二〇号 暗号舞踏人の謎 コナン・ドイル
- 第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉
- 第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉
- 第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太
- 第二四号 まれびとの歴史 /「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫
- 第二五号 払田柵跡について二、三の考察 / 山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉
- 第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎
- 第二七号 種山ヶ原 / イギリス海岸 宮沢賢治
- 第二八号 翁の発生 / 鬼の話 折口信夫
- 第二九号 生物の歴史(一)石川千代松
- 第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松
- 第三一号 生物の歴史(三)石川千代松
- 第三二号 生物の歴史(四)石川千代松
- 第三三号 特集 ひなまつり
- 雛 芥川龍之介 / 雛がたり 泉鏡花 / ひなまつりの話 折口信夫
- 第三四号 特集 ひなまつり
- 人形の話 / 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫
- 第三五号 右大臣実朝(一)太宰 治
- 第三六号 右大臣実朝(二)太宰 治
- 第三七号 右大臣実朝(三)太宰 治
- 第三八号 清河八郎(一)大川周明
- 第三九号 清河八郎(二)大川周明
- 第四〇号 清河八郎(三)大川周明
- 第四一号 清河八郎(四)大川周明
- 第四二号 清河八郎(五)大川周明
- 第四三号 清河八郎(六)大川周明
- 第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉
- 第四五号 火葬と大蔵 / 人身御供と人柱 喜田貞吉
- 第四六号 手長と足長 / くぐつ名義考 喜田貞吉
- 第四七号
「日本民族」とは何ぞや / 本州における蝦夷の末路 喜田貞吉- 第四八号 若草物語(一)L.M. オルコット
- 第四九号 若草物語(二)L.M. オルコット
- 第五〇号 若草物語(三)L.M. オルコット
- 第五一号 若草物語(四)L.M. オルコット
- 第五二号 若草物語(五)L.M. オルコット
- 第五三号 二人の女歌人 / 東北の家 片山広子
- 第三巻
- 第一号 星と空の話(一)山本一清
- 第二号 星と空の話(二)山本一清
- 第三号 星と空の話(三)山本一清
- 第四号 獅子舞雑考 / 穀神としての牛に関する民俗 中山太郎
- 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治 / 奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
- 第六号 魏志倭人伝 / 後漢書倭伝 / 宋書倭国伝 / 隋書倭国伝
- 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南
- 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南
- 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南
- 第一〇号 最古日本の女性生活の根底 / 稲むらの陰にて 折口信夫
- 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦
- 瀬戸内海の潮と潮流 / コーヒー哲学序説 /
- 神話と地球物理学 / ウジの効用
- 第一二号 日本人の自然観 / 天文と俳句 寺田寅彦
- 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉
- 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉
- 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉
- 倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う /
- 倭奴国および邪馬台国に関する誤解
- 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)
- 第一七号 高山の雪 小島烏水
- 第一八号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(一)徳永 直
- 第一九号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(二)徳永 直
- 第二〇号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(三)徳永 直
- 第二一号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(四)徳永 直
- 第二二号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(五)徳永 直
- 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治
- 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治
- 第二五号 ドングリと山猫 / 雪渡り 宮沢賢治
- 第二六号 光をかかぐる人々 続『世界文化』連載分(六)徳永 直
- 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫
- 黒川能・観点の置き所 / 村で見た黒川能
- 能舞台の解説 / 春日若宮御祭の研究
- 第二八号 面とペルソナ / 人物埴輪の眼 他 和辻哲郎
- 面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
- 能面の様式 / 人物埴輪の眼
- 第二九号 火山の話 今村明恒
- 第三〇号 現代語訳『古事記』
(一)前巻(前編) 武田祐吉(訳)- 第三一号 現代語訳『古事記』
(二)前巻(後編) 武田祐吉(訳)- 第三二号 現代語訳『古事記』
(三)中巻(前編) 武田祐吉(訳)- 第三三号 現代語訳『古事記』
(四)中巻(後編) 武田祐吉(訳)- 第三四号 山椒大夫 森 鴎外
- 第三五号 地震の話(一)今村明恒
- 第三六号 地震の話(二)今村明恒
- 第三七号 津波と人間 / 天災と国防 / 災難雑考 寺田寅彦
- 第三八号 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉
- 第三九号 キュリー夫人 / はるかな道(他)宮本百合子
- 第四〇号 大正十二年九月一日よりの東京・横浜間 大震火災についての記録 / 私の覚え書 宮本百合子
- 第四一号 グスコーブドリの伝記 宮沢賢治
- 第四二号 ラジウムの雁 / シグナルとシグナレス(他)宮沢賢治
- 第四三号 智恵子抄(一)高村光太郎
- 第四四号 智恵子抄(二)高村光太郎
- 第四五号 ヴェスヴィオ山 / 日本大地震(他)斎藤茂吉
- 第四六号 上代肉食考 / 青屋考 喜田貞吉
- 第四七号 地震雑感 / 静岡地震被害見学記(他)寺田寅彦
- 第四八号 自然現象の予報 / 火山の名について 寺田寅彦
- 第四九号 地震の国(一)今村明恒
- 第五〇号 地震の国(二)今村明恒
- 第五一号 現代語訳『古事記』
(五)下巻(前編) 武田祐吉(訳)- 第五二号 現代語訳『古事記』
(六)下巻(後編) 武田祐吉(訳)
- 第四巻
- 第一号 日本昔話集 沖縄編(一)伊波普猷・前川千帆(絵)
- 第二号 日本昔話集 沖縄編(二)伊波普猷
- 第三号 アインシュタイン(一)寺田寅彦
- 物質とエネルギー / 科学上における権威の価値と弊害 /
- アインシュタインの教育観
- 第四号 アインシュタイン(二)寺田寅彦
- アインシュタイン / 相対性原理側面観
- 第五号 作家のみた科学者の文学的活動 / 科学の常識のため 宮本百合子
- 第六号 地震の国(三)今村明恒
- 第七号 地震の国(四)今村明恒
- 第八号 地震の国(五)今村明恒
- 第九号 地震の国(六)今村明恒
- 第一〇号 土神と狐 / フランドン農学校の豚 宮沢賢治
- 第一一号 地震学の角度から見た城輪柵趾 今村明恒
- 第一二号 庄内と日高見(一)喜田貞吉
- 第一三号 庄内と日高見(二)喜田貞吉
- 第一四号 庄内と日高見(三)喜田貞吉
- 第一五号 私は海をだきしめてゐたい / 安吾巷談・ストリップ罵倒 坂口安吾
- 第一六号 三筋町界隈 / 孫 斎藤茂吉
- 第一七号 原子力の管理(他)仁科芳雄
- 原子力の管理 / 日本再建と科学 / 国民の人格向上と科学技術 /
- ユネスコと科学
- 第一八号 J・J・トムソン伝(他)長岡半太郎
- J・J・トムソン伝 / アインシュタイン博士のこと
- 第一九号 原子核探求の思い出(他)長岡半太郎
- 総合研究の必要 / 基礎研究とその応用 / 原子核探求の思い出
- 第二〇号 蒲生氏郷(一)幸田露伴
- 第二一号 蒲生氏郷(二)幸田露伴
- 第二二号 蒲生氏郷(三)幸田露伴
- 第二三号 科学の不思議(一)アンリ・ファーブル
- 第二四号 科学の不思議(二)アンリ・ファーブル
- 第二五号 ラザフォード卿を憶う(他)長岡半太郎
- ラザフォード卿を憶う / ノーベル小伝とノーベル賞 / 湯川博士の受賞を祝す
- 第二六号 追遠記 / わたしの子ども時分 伊波普猷
- 第二七号 ユタの歴史的研究 伊波普猷
- 第二八号 科学の不思議(三)アンリ・ファーブル
- 第二九号 南島の黥 / 琉球女人の被服 伊波普猷
- 第三〇号
『古事記』解説 / 上代人の民族信仰 武田祐吉・宇野円空 - 第三一号 科学の不思議(四)アンリ・ファーブル
- 第三二号 科学の不思議(五)アンリ・ファーブル
- 第三三号 厄年と etc. / 断水の日 / 塵埃と光 寺田寅彦
- 第三四号 石油ランプ / 流言蜚語 / 時事雑感 寺田寅彦
- 第三五号 火事教育 / 函館の大火について 寺田寅彦
- 第三六号 台風雑俎 / 震災日記より 寺田寅彦
- 第三七号 火事とポチ / 水害雑録 有島武郎・伊藤左千夫
- 第三八号 特集・安達が原の黒塚 楠山正雄・喜田貞吉・中山太郎
- 第三九号 大地震調査日記(一)今村明恒
- 第四〇号 大地震調査日記(二)今村明恒
- 第四一号 大地震調査日記(続)今村明恒
- 第四二号 科学の不思議(六)アンリ・ファーブル
- 第四三号 科学の不思議(七)アンリ・ファーブル
- 第四四号 震災の記 / 指輪一つ 岡本綺堂
- 第四五号 仙台五色筆 / ランス紀行 岡本綺堂
- 仙台五色筆
- 三人の墓
- 三人の女
- 塩竈神社の神楽
- 孔雀船の舟唄
- 金華山の一夜
- ランス紀行
- 乗り合いの人たちも黙っている。わたしも黙っている。案内者はもう馴れきったような口調で高々と説明しながら行く。幌のない自動車の上には暑い日が一面に照りつけて、眉のあたりには汗が滲んでくる。死んだ町には風すらも死んでいるとみえて、今日はそよりとも吹かない。散らばっている石やレンガを避けながら、せまい路を走ってゆく自動車の前後には白い砂けむりが舞いあがるので、どの人の帽子も肩のあたりも白く塗られてしまった。
(略) - 町を通りぬけて郊外らしいところへ出ると、路の両側はフランス特有のブルヴァーになって、大きい栗の木の並木がどこまでも続いている。栗の花はもう散りつくして、その青い葉が白い土のうえに黒い影を落としている。木の下にはヒナゲシの紅い小さい花がしおらしく咲いている。ここらへ来ると、ときどきは人通りがあって、青白い夏服を着た十四、五の少女が並木の下をうつむきながら歩いてゆく。彼は自動車の音におどろいたように顔をあげると、車上の人たちは帽子をふる。少女はうれしそうに微笑みながら、これもしきりにハンカチーフをふる。砂煙がまいあがって、少女の姿がおぼろになったころに、自動車も広い野原のようなところに出た。
- 戦争前には畑になっていたらしいが、今では茫々たる野原である。原には大きい塹のあとが幾重にも残っていて、ところどころには鉄条網もからみあったままで光っている。立木はほとんど見えない。眼のとどくかぎりはヒナゲシの花に占領されて、血を流したように一面に紅い。原に沿うた長い路を行き抜けると、路はだんだんに登り坂になって、石の多い丘の裾についた。案内者はここが百八高地というのであると教えてくれた。
- 第四六号 東洋歴史物語(一)藤田豊八
- 一、東洋とその文明
- 二、黄河と黄土
- 三、三皇五帝
- 四、尭舜
- 五、大洪水
- 六、酒のとが
- 七、夏王朝
- 八、殷王朝
- 聖書にノアのとき大地が全部かくれてしまうほどの大洪水があって、ノアだけは箱船に乗ってたすかったが、あとの人類はみんな亡んでしまったという話があります。こういう大洪水の話は、このヘブライ民族〔ユダヤ民族〕の間だけではなく、世界じゅうの方々の民族の間に伝わっていますが、シナにもやはり大洪水の話があるのです。
- この大洪水のおこったのは、尭のときからだというのです。鯀という人が選ばれて、この洪水をしずめる役にあたったのですが、なかなかうまく行きません。鯀が役に立たないので、舜はとうとう鯀を免職して、鯀の子の禹を挙げて治水のことにあたらせました。
- 禹は親の不名誉を回復しようという肚もあったのでしょうが、とにかく一しょう懸命になって治水につとめました。その骨折りは非常なもので、十三年の間も外にいて活動して、たまたま自分の家の門の前を通っても、うちには入らなかったというのです。
(略)そして方々の山々を切り開いてみなぎっている水を落として洪水をしずめたのです。とにかくこの禹の非常な骨折りで、この大災難も免れたので、舜は禹を非常に嘉しまして〔ほめること。 〕、禹を挙げ用いて舜の死んだあとは禹がかわって天子になるようにしたのでした。 - (略)この禹が治めるのに成功した洪水というのは、黄河の洪水であったのです。
(略)この川は実にしばしば大氾濫をひきおこす川なのです。そしてこの川が氾濫したら最後、せっかくの農作物はみな押し流されてしまいます。ですからシナの国ではずっと後の世まで、どうして黄河の洪水を防ぐかということが、歴代の王さまの重要な問題であったのです。 ( 「五、大洪水」より) - 第四七号 東洋歴史物語(二)藤田豊八
- 九、周の建国
- 一〇、春秋の世
- 一一、戦国の世
- 一二、先秦の文化
- 一三、秦の興亡
- 周室が東遷してからのち、三〇〇年ばかりを春秋の世と申します。
(略) - この春秋の時代になってからは、周の王室の権威はますます衰えまして、諸侯の大きいのが交わるがわる出て勢いをふるい、天子にかわって他の諸侯に号令するようなのが出るようになりました。こうした強大な諸侯のことを覇者と申します。そして首尾よく覇者になりとげることを覇業をなしたと申します。この時代の諸侯は、どれもこれも覇者となり、覇業をなしとげようと努めたものです。そのうちうまく覇業をなしとげたものは、斉の桓公、晋の文公、楚の荘王、呉王夫差と越王勾践(こうせん)の五人だけでした。これを春秋の五覇と申します。
- これらの覇者がその目的として唱えたのは、尊王攘夷ということでした。当時、周室の勢いはいたって衰えていましたので、覇者が諸侯の頭に立って、王室を尊ぼうというのが尊王でした。また周室の勢力の微弱につけこんで、シナの西北の方面から多くの異民族がシナの内地に侵入して来ていました。こうした異民族を追いはらおうというのが攘夷です。
- この五覇のうち、最初に覇業をとげたのが斉の桓公でした。斉は今の山東省で、水陸の利の多いところです。それに桓公は名相であった管仲という人を使って国政を治めしめましたから、その国威はおおいに張り、斉は一度覇業をなしとげました。
( 「一〇、春秋の世」より) - 第四八号 東洋歴史物語(三)藤田豊八
- 一四、漢・楚のあらそい
- 一五、武帝の功業
- 一六、王莽の纂奪
- 一七、後漢の興隆
- 秦代においては、始皇帝の文教圧迫政策によって文教は衰えましたが、漢が興(おこ)るとまた諸種の学術も芽をふきかえし、秦代に隠されていた書物もあちらこちらから現われてくるというありさまでした。そこで武帝は、標準の学術を定めて思想の統一をしようといたしまして、董(とう)仲舒(ちゅうじょ)という人の建議にしたがって、儒教をもって政教の基準といたしました。
(略)後世の儒教流行、儒学尊崇の風は、この武帝によってはじめられたということができます。なお、武帝はおおいに文学を奨励したもので、武帝の朝廷には文学の士も多く、詞賦の司馬相如(そうぎょ) 、文の司馬遷は有名であります。 (略) - 武帝はこうやって五十四年の長い在位のあいだ、たえず四方の計略にしたがっていたため、漢の威は四方にふるったものの、このため国費を費やすことが多く、文帝・景帝以後、充実していた国庫もそのため空っぽになってしまうありさまでした。ことに武帝のように功成り名とげた人の最後の欲望というものは、とこしなえに生きたいということです。不老不死を願うということです。シナには古くから不老不死の生活をする神仙という考えがありました。そして方士というものは、ある特殊の薬を練り、その薬をさえ用いれば神仙になれるというのです。前に話した秦の始皇帝も死ぬ前には、この方士の言を信じて不老不死の薬を得ようと望みました。狡猾な方士どもは、今たちまちに武帝の心をとりこにいたしました。神仙をまねくための楼台、長生不死の薬の材料を得るための特別な建築、こうしておびただしい土木の乱費がおこなわれました。こうした多くの乱費のうめあわせをするためには、国民に対する重税、鉄・塩・酒などに対する専売がおこなわれるの止むなきに至りました。
(略)こうした乱費と国民に対する重き負担とが、民力を疲弊せしめ、民衆のうらみを買ったのはいうまでもありませんでした。 - 武帝はおのれを責める追悔の詔を出して国民に謝して、漢が秦となってしまう運命をわずかに免れたのでした。
( 「一五、武帝の功業」より) - 第四九号 東洋歴史物語(四)藤田豊八
- 一八、仏教とその東漸
- 一九、後漢の衰亡と三国
- 二〇、晋と北方民族の侵入
- 二一、南北朝
- 二二、隋の煬帝
- 二三、唐の隆盛
- 二四、唐の衰運
- 禅宗をはじめてシナに伝えた達磨がインドから来て、この梁(りょう)の武帝と法談をまじえた話は有名です。
(略) - この南北朝の時代は、政治的に見れば事件の多い血なまぐさい時代ですけれども、文化発展の方面からみればいちじるしい飛躍をした時代と見ることもできます。もっとも南朝と北朝とは、諸種の文化にいくぶんずつ趣きを異にするところもありました。なにしろ南部の地は、晋室南遷以来の文化の系統を追うているのに対し、北方には外民族の国を建てるのが多かったためにこうなったのです。また、人の気風も南と北とではおおいに変わっていまして、南がいくぶん浮薄なのに対して北は質実でありました。こうした点から北朝では経学が重んぜられましたが、南朝では老荘の学のほうが好まれ、また詩賦などもさかんだったのです。とにかく文学・美術の方面においては、だいたい南朝が卓出していました。
(略)陶淵明や謝霊運などは詩文の大家でしたし、書法の大家としては王羲之がことに知られています。 (略)画には顧�之(こがいし)という人がおります。 (略) - この時分になって仏教はことに盛んになり、外国からも偉い僧侶も来、またシナのほうから仏法を求めに外国、ことにインドに出かけるものも出るくらいでした。こうしてこの時代、仏法が流行したので、それが東方朝鮮・日本のほうへと伝わるようになったのです。
- (略)これに対し、ここにシナにまた一つの宗教が発生するようになりました。それは今でもシナに大きい勢力をもっている道教です。その起原はもっと古いのですが、とにかく道家の説にもとづき、それに民間の卑俗の信仰を取り入れてできたものですが、しだいに仏教のほうからいろいろ借り物をして、体裁をととのえたものです。後魏の時代には、かなり広くおこなわれ、その太武帝などはこれを信ずるのあまり、仏教をおおいに迫害いたしました。
- とにかく、これから道教と仏教とは目の敵のようにしばしばいがみ合ったのです。
( 「二一、南北朝」より)
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