楠山正雄 くすやま まさお
1884-1950(明治17.11.4-昭和25.11.26)
演劇学者・児童文学者。東京生れ。早大卒。近代劇の翻訳紹介に努め、内外の童話・神話・伝説を再話。著「近代劇十二講」

喜田貞吉 きた さだきち
1871-1939(明治4.5.24-昭和14.7.3)
歴史学者。徳島県出身。東大卒。文部省に入る。日本歴史地理学会をおこし、雑誌「歴史地理」を刊行。法隆寺再建論を主張。南北両朝並立論を議会で問題にされ休職。のち京大教授。

中山太郎 なかやま たろう
1876-1947(明治9.11.13-昭和22.6.13)
本名中山太郎治。栃木県足利郡梁田村(現足利市梁田町)生まれ。民俗学者。1914年、報知新聞社を退社。柳田国男を訪れ、同年、柳田の口利きで博文館へ入社。著『日本売笑史附吉原の沿革』『土俗私考』『日本民俗志』『日本婚姻史』『日本巫女史』『日本若者史』『日本民俗学事典』『万葉集の民俗学的考察』他。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)『人物レファレンス事典』(日外アソシエーツ、2000.7)。


もくじ 
特集・安達が原の黒塚


ミルクティー*現代表記版
安達が原 楠山正雄
八幡太郎 楠山正雄
安達が原の鬼婆々(余白録) 喜田貞吉
安達が原の鬼婆々異考 中山太郎
喜田申す 喜田貞吉

オリジナル版
安達が原 楠山正雄
八幡太郎 楠山正雄
安達ケ原の鬼婆々(餘白録) 喜田貞吉
安達ケ原の鬼婆々異考 中山太郎
喜田申す 喜田貞吉

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
 ・Macintosh iBook、Mac OS 9.2.2、T-Time 2.3.1
 ・ ポメラ DM100、ソーラーパネル NOMAD 7
※ 週刊ミルクティー*は、JIS X 0213 文字を使用しています。
※ この作品は青空文庫にて入力中および公開中です。転載・印刷・翻訳は自由です。
(c) Copyright this work is public domain.

*凡例
  • ( ):小書き。〈 〉:割り注。
  • 〔 〕:編者もしくは、しだによる注。
  • 一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
  •    例、云う → いう / 言う
  •      処  → ところ / 所
  •      有つ → 持つ
  •      這入る → 入る
  •      円く → 丸く
  • 一、同音異義の一部のひらがなを、便宜、漢字に改めました。
  •    例、いって → 行って / 言って
  •      きいた → 聞いた / 効いた
  • 一、若干の句読点を改めました。適宜、ルビや中黒や感嘆・疑問符をおぎないました。一部、改行と行頭の字下げを改めました。
  • 一、漢数字の表記を一部、改めました。
  •    例、七百二戸 → 七〇二戸
  •    例、二萬六千十一 → 二万六〇一一
  • 一、ひらがなに傍点は、一部カタカナに改めました。
  • 一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
  • 一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
  • 一、「今から○○年前」のような経過年数の表記は改めず、底本のままにしました。和歌・俳句・短歌は五七五(七七)の音節ごとに半角スペースで句切りました。
  • 一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名および会話文は「 」で示しました。
  • 一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。

*尺貫法
  • 寸 すん 長さの単位。尺の10分の1。1寸は約3.03センチメートル。
  • 尺 しゃく 長さの単位。1メートルの33分の10と定義された。寸の10倍、丈の10分の1。
  • 丈 じょう 長さの単位。(1) 尺の10倍。約3メートル。(2) 周尺で、約1.7メートル。成人男子の身長。
  • 歩 ぶ (1) 左右の足を一度ずつ前に出した長さ。6尺。(2) 土地面積の単位。1歩は普通、曲尺6尺平方で、1坪に同じ。
  • 町 ちょう (1) 土地の面積の単位。1町は10段。令制では3600歩、太閤検地以後は3000歩とされ、約99.17アール。(2) (「丁」とも書く) 距離の単位。1町は60間。約109メートル強。
  • 里 り 地上の距離を計る単位。36町(3.9273キロメートル)に相当する。昔は300歩、すなわち今の6町の定めであった。
  • 合 ごう 容積の単位。升の10分の1。1合は180.39立方センチメートル。
  • 升 しょう 容量の単位。古来用いられてきたが、現代の1升は1.80391リットル。斗の10分の1で、合の10倍。
  • 斗 と 容量の単位。1斗は1升の10倍で、18.039リットルに当たる。

*底本

安達が原
底本:「日本の諸国物語」講談社学術文庫、講談社
   1983(昭和58)年4月10日第1刷発行
http://www.aozora.gr.jp/cards/000329/card33208.html

八幡太郎
底本:「日本の英雄伝説」講談社学術文庫、講談社
   1983(昭和58)年6月10日第1刷発行
http://www.aozora.gr.jp/cards/000329/card18341.html

安達が原の鬼婆々(余白録)
底本:『東北文化研究』第一巻 第一号、史誌出版社
   1928(昭和3)年9月1日発行
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1344.html

安達が原の鬼婆々異考
底本:『東北文化研究』第一巻 第二号、史誌出版社
   1928(昭和3)年10月1日発行
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1420.html

喜田申す
底本:『東北文化研究』第一巻 第二号、史誌出版社
   1928(昭和3)年10月1日発行
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1344.html

NDC 分類:K913(日本文学 / 小説.物語)
http://yozora.kazumi386.org/9/1/ndck913.html
NDC 分類:380(風俗習慣.民俗学.民族学)
http://yozora.kazumi386.org/3/8/ndc380.html





安達あだちはら

楠山くすやま正雄まさお

   一


 むかし、京都きょうとから諸国しょこく修行しゅぎょうに出たぼうさんが、白河しらかわせきをこえて奥州おうしゅうに入りました。磐城国いわきのくに福島ふくしまに近い安達だちはらというはらにかかりますと、みじかい秋の日がとっぷりれました。
 ぼうさんは一日さびしい道を歩きつづけに歩いて、おなかはすくし、のどはかわくし、なによりも足がくたびれきって、このさき歩きたくもあるかれなくなりました。どこぞに百姓家ひゃくしょうやでも見つけしだい、たのんで一晩ひとばんめてもらおうと思いましたが、おりあしくはらの中にかかって、見わたすかぎりぼうぼうと草ばかりいしげった秋の野末のずえのけしきで、それらしいけむりがるうちも見えません。もうどうしようか、いっそ野宿のじゅくときめようか、それにしてもこうおなかがすいてはやりきれない、せめて水でもましてくれるうちはないかしらと、心細こころぼそく思いつづけながら、とぼとぼ歩いて行きますと、ふとこうにちらりとかりが一つ見えました。
「やれやれ、ありがたい、これでたすかった。」と思って、一生いっしょう懸命けんめいかりを目当めあてにたどって行きますと、なるほどうちがあるにはありましたが、これはまたひどい野中のなかの一つで、のきはくずれ、はしらはかたむいて、うちというのもばかりのひどいあばらでしたから、ぼうさんは二びっくりして、さすがにすぐとは中へ入りかねていました。
 すると中では、かすかなやぶ行灯あんどんかげで、一人のおばあさんがしきりと糸をっている様子ようすでしたが、そのとき、障子しょうじやぶれからやせた顔を出して、
「もしもし、おぼうさま、そこに何をしておいでだえ……」
 と声をかけました。
 出しけにびかけられたので、ぼうさんは思わずギョッとしながら、
「ああ、おばあさん。じつはこのはらの中で日がれたので、まるうちがなくってこまっているものです。今夜こんや一晩ひとばん、どうかしてめてはいただけますまいか。
 といいました。
 するとおばあさんは、
「おやおや、それはおこまりだろう。だが、ごらんのとおり原中はらなかの一軒家けんやで、せっかくおめもうしても、てねる布団ふとんまいもありませんよ。
 と、ことわりました。
 ぼうさんはおばあさんがそういう様子ようす親切しんせつそうなのに、やっと安心あんしんして、
「いえいえ、雨露あめつゆさえしのげばけっこうです。布団ふとんなんぞの心配しんぱいはいりませんから、どうぞおめなすってください。
 とたのみました。
 おばあさんはニコニコわらいながら、
「まあまあ、そういうわけなら、ご不自由ふじゆうでも今夜こんやうちがってゆっくり休んでおいでなさい。
 といって、ぼうさんを上へあげてくれました。
 ぼうさんはたびたびおれいをいいながら、わらじをぬいで上へあがりました。おばあさんは、囲炉裏いろりにまきをくべて、あたたかくしてくれたり、おかゆをいてお夕飯ゆうはんを食べさせてくれたり、いろいろ親切しんせつにもてなしてくれました。それでぼうさんも、見かけによらないこれはいいうちまりあわせたと、すっかり安心あんしんして、くりかえしくりかえしおばあさんにおれいをいっていました。
 お夕飯ゆうはんがすむと、ぼうさんは炉端ろばたすわって、たきにあたりながら、いろいろたびはなしをしますと、おばあさんはいちいちうなずいて聞きながら、せっせと糸車いとぐるままわしていました。そのうちだんだん夜がふけるにしたがって、たださえあばらのことですから、外のつめたい風が遠慮えんりょなく方々ほうぼうから入りこんで、しんしんと夜寒よさむにしみます。けれどあいにくなことには、ほうの火がだんだん心細こころぼそくなって、ありったけのまきはとうにやしつくしてしまいました。
 おばあさんは、ふとぼうさんのさむそうにふるえているのを見つけて、
「おやおや、まきがみんなになりましたか。おきゃくさまがあると知ったらもっとたくさん取っておけばよかったものを、気のつかないことをしました。どれどれ、ちょっとうらの山へ行ってまきを取ってきますから、おぼうさま、しばらく退屈たいくつでもお留守番るすばんをおたのみもうします。
 こういって、おばあさんは気軽きがるに出て行こうとしました。
 するとぼうさんはたいそう気のどくがって、
「いやいや、このふけにそんなご苦労くろうをかけてはすみません。なんなら、わたしが一走ひとはしり行って取ってきましょう。
 といいますと、おばあさんは手をふって、
「どうして、とんでもない。たびの人にわかるものではない。まあまあ、なんにもごちそうのない一つのことだから、せめてたきでもごちそうのうちだと思ってもらいましょう。
 と言い言い出かけて行きましたが、なんと思ったのかもどってきて、
「そのかわりおぼうさま、しっかりたのんでおきますがね、わたしがかえってくるまで、あなたはそこにじっとすわっていて、どこへもうごかないでくださいよ。うっかりうごいて、次のをのぞいたりなんぞしてはいけませんよ。
 とくりかえし、くりかえし、ねんしました。
「どういうわけだか知らないが、むろんようもないのに、人のうちの中なんぞをかってにのぞいたりなんぞしませんから、安心あんしんしてください。
 とぼうさんもいいました。
 それでおばあさんも安心あんしんしたらしく、そのまま出ていきました。

   二


 さて、おばあさんが出て行ってしまうと、ぼうさんはただ一人、しばらくはつくねんと炉端ろばたすわったままおばあさんのかえりをっていましたが、じきかえると思ったおばあさんはなかなか帰ってきません。なにしろ西にしひがしもわからない原中はらなかの一軒家けんやに一人ぼっちとりのこされたのですから、心細こころぼそさも心細いし、だんだん心配しんぱいになってきました。なんでも安達あだちはら黒塚くろづかにはおにんでいて人を取ってうそうだなどという、たびの間にふと小耳こみみにはさんだうわさをきゅうに思い出すと、からだじゅうの毛穴けあながゾッと一に立つように思いました。そういえば、こんなさびしい原中はらなかにおばあさんが一人住んでいるというのもおかしいし、さっき出がけに、みょうなことを言ってたびたびねんして行ったが、もしやこのうちおにのすみかなのではないかしらん。いったい、「見るな」といったつぎには何があるのからん。こう思うと、こわさはこわいし、気にはなるし、だんだんじっとして辛抱しんぼうしていられなくなりました。それでもあれほどかたく「見るな」といわれたものを見ては、なおさらどんな災難さいなんがあるかもしれません。
 ぼうさんは、しばらく見ようか見まいか、立ったりすわったりまよっていましたが、おばあさんはやっぱりかえってこないので、とうとう思いきって、そっと立って行って、次ののふすまをあけました。
 するとぼうさんはおどろいたの、おどろかないのではありません。あけるといっしょに中からプンとなまぐさいにおいがって、人間の死骸しがいらしいものが天井てんじょうまでたかかさねてありました。そしてくずれてドロドロになったにくといっしょにながれ出していました。
 ぼうさんは「あっ!」といったなり、しばらくこしをぬかして目ばかり白黒しろくろさせたままきあがることもできませんでした。そのうちふと気がつくと、これこそはなしにきいた一つおにだ、グズグズしているととんでもないことになると思って、あわててわらじのひもをむすぶひまもなくげ出そうとしました。けれども今にもうしろから鬼婆おにばばあ襟首えりくびをつかまれそうな気がして、気ばかりわくわくして、こしがワナワナふるえるので、足がいっこうに進みません。それでもころんだり、きたり、めくらめっぽうにはらの中をけ出して行きますと、ものの五、六ちょうも行かないうちに、くらやみの中で、
「おうい、おうい!……。
 とぶ声がしました。
 その声を聞くと、ぼうさんは、さてこそ鬼婆おにばばあっかけてきたとガタガタふるえながら、耳をふさいでどんどんけ出して行きました。そして心の中で悪鬼あくきよけの呪文じゅもん一生いっしょう懸命けんめいとなえていました。そのうち、
「おういて、おういて!……。
 と鬼婆おにばばあの声がズンズン近くなって、やがておこった声で、
「やい、坊主ぼうずめ、あれほど見るなといった部屋へやをなぜ見たのだ! げたってがしはしないぞ!」
 というのが、手にとるように聞こえるので、ぼうさんはもういよいよ絶体ぜったい絶命ぜつめいとかくごをきめて、一心いっしんにおきょうとなえながら、走れるだけ走って行きました。
 すると、おきょう功徳くどくでしょうか、もうそろそろ夜がけかかってきたので、おにもこわくなったのでしょうか、おにの足がだんだんのろくなって、もうよほどあいだが遠くなりました。そのうちズンズン空はあかるくなってきて、ひがしの空が薄赤うすあかまってくると、どこかの村でニワトリのき立てる声がいさましく聞こえました。
 もう夜がけてしまえばしめたものです。おに真昼まひるの光にあってはいくじのないものですから、うらめしそうに、しばらくは、旅僧たびそうのうしろ姿すがたを遠くからながめていましたが、ふいと姿すがたが消えて見えなくなりました。
 ぼうさんはそのうち人里ひとざとに出て、ホッと一息ひといきつきました。そして、はなやかにさしのぼった朝日あさひに向かって手をわせました。



底本:「日本の諸国物語」講談社学術文庫、講談社
   1983(昭和58)年4月10日第1刷発行
入力:鈴木厚司
校正:大久保ゆう
2003年9月29日作成
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八幡はちまん太郎たろう

楠山くすやま正雄まさお

   一


 日本のむかしの武士ぶしでいちばん強かったのは源氏げんじの武士でございます。その源氏の先祖せんぞで、いちばんえらい大将たいしょうといえば八幡はちまん太郎たろうみなもとの義家よしいえでございます。むかし源氏の武士はいくさに出るとき、氏神うじがみさまの八幡はちまん大神だいじんのおとなえるといっしょに、きっと先祖の八幡太郎を思い出して、いつも自分の向かって行く先々さきざきには、八幡太郎のれいが守っていてくれると思って、いくさはげんだものでした。
 八幡はちまん太郎たろうみなもとの頼義よりよしという大将たいしょうの長男で、おとうさんの頼義よりよしがあるばん八幡はちまん大神だいじんからりっぱな宝剣ほうけんをいただいたというゆめを見ると、まもなく八幡はちまん太郎たろうが生まれました。七つのとし石清水いわしみず八幡はちまんのおみや元服げんぷくして、八幡はちまん太郎たろう義家よしいえのりました。
 義家よしいえは子どもの時からゆみがうまくって、もう十二、三というとしにはたいていの武士の引けないような上手じょうずな弓を引いて、ればかならずたるというふしぎなわざをもっていました。
 あるとき、清原きよはら武則たけのりというこれも弓の名人で名高なだかかった人が、義家のほんとうの弓勢ゆんぜいを知りたがって、じょうぶなよろい三重みかさねまで木の上にかけて、義家にさせました。義家はそこらにある弓に矢をつがえて、無造作ぞうはなしますと、よろいを三まいとおして、うしろに五すんやじりが出ていました。

   二


 大きくなって、義家よしいえはおとうさんの頼義よりよしについて、奥州おうしゅう安倍あべの貞任さだとう宗任むねとうという兄弟のあらエビスを征伐せいばつに行きました。そのいくさは九年もつづいて、そのあいだにはずいぶんはげしい大雪おおゆきなやんだり、兵糧ひょうろうがなくなってあやうくにをしかけたり、一てきのいきおいがたいそう強くって、味方みかたは残らずにと覚悟かくごをきめたりしたこともありましたが、そのたびごとにいつも義家が、ふしぎな知恵ちえ勇気ゆうきと、それから神さまのような弓矢ゆみやわざてきをしりぞけて、九分くぶ九厘くりんまでいくさにきまったものを、もりかえして味方みかた勝利しょうりにしました。
 それでたたかえば戦うたんびに八幡はちまん太郎たろうの名が高くなりました。さすがのあらエビスもふるえあがって、しまいには八幡太郎の名を聞いただけでげ出すようになりました。
 けれども、強いばかりが武士ではありません。八幡太郎が心のやさしい、神さまのようになさけの深い人だということは、てきすらもかんじて、したわしく思うようになりました。
 それはもう長い長い九年のたたかいもそろそろおしまいになろうという時分じぶんのことでした。ある日、はげしいいくさのあとで、義家よしいえてきの大将の貞任さだとうとただ二人、一打ちの勝負しょうぶをいたしました。そのうちとうとう貞任さだとうがかなわなくなって、うまの首をけかえして、げて行こうとしますと、義家はうしろから大きな声で、

ころものたては ほころびにけり。

 と和歌わかしもをうたいかけました。すると貞任さだとうげながらふりむいて、

としいとみだれの くるしさに。

 とすぐにかみをつけました。これはいくさ場所ばしょがちょうど衣川ころもがわのそばの「ころもたて」というところでしたから、義家よしいえ貞任さだとうに、
「おまえのころもももうほころびた。おまえのうんももうすえだ。
 とあざけったのでございます。すると貞任さだとうけずに、
「それはなにしろ長年ながねんいくさで、ころもいともバラバラにほごれてきたからしかたがない。
 とよみかえしたのでした。
 これで義家もいかにも貞任さだとうがかわいそうになって、その日はそのまま見逃みのがしてかえしてやりました。
 けれども一がしてやっても、いったいうんのつきたものはどうにもならないので、まもなく貞任さだとうころされ、弟の宗任むねとうけどりになって、奥州おうしゅうあらエビスは残らずほろびてしまいました。そこで頼義よりよしと義家の二人は九年のくるしいいくさののち、けどりのてききつれて、めでたく京都きょうと凱旋がいせんいたしました。

   三


 京都きょうとへ帰ってのち、てきの大将の宗任むねとうはすぐに首を切られるはずでしたけれど、義家よしいえは、
いくさがすんでしまえば、もうてき味方みかたもない。むだに人のいのちつにはおよばない。
 と思いました。そこで天子てんしさまにねがって、自分じぶんがごほうびをいただくかわりに、宗任むねとうはじめてきのとりこを残らずゆるしてやりました。その中で宗任むねとうはそのままみやこにとどまって、義家の家来けらいになりたいというので、そばにいて使うことにしました。
 宗任むねとうはいったん義家にいのちを助けてもらったので、たいそうありがたいと思って、義家のとくになつくようになったのですが、もともと人をうらむ心の深いあらエビスのことですから、自分の一家いっかほろぼした義家をやはりにくらしく思う心がぬけません。それでいつかおりがあったら、ころしてかたきってやろうとねらっておりました。けれども義家のほうはいっこう平気へいきで、むかしから使いなれた家来けらい同様どうよう宗任むねとうをかわいがって、どこへ行くにも、宗任むねとう、宗任。」とおともにつれて歩いていました。
 するとあるばんのことでした。義家はたった一人宗任むねとうをおともにつれて、ある人の家をたずねに行って、夜おそく帰ってきました。宗任むねとう牛車うしぐるまいながら、今夜こんやこそ義家をころしてやろうと思いました。そこでふところからそろそろかたなきかけて、そっと車の中をのぞきますと、中では義家よしいえがなんにもむねにわだかまりのない顔をして、すやすやねむっていました。宗任むねとうはそのとき、
てきのわたしにただ一人ともをさせて、すこしもうたが気色しきも見せない。どこまで心のひろい、りっぱな人だろう。
 と感心かんしんして、きかけたかたなをひっこめてしまいました。そしてそれからはまったく義家よしいえになついて、一生いっしょうそむきませんでした。
 それからまたあるとき、義家よしいえはいつものとおり宗任むねとうを一人おともにつれて、大臣だいじん藤原ふじわらの頼通よりみちという人のお屋敷しきへよばれて行ったことがありました。頼通よりみちは義家にくわしく奥州おうしゅう戦争せんそうの話をさせて聞きながら、おもしろいので夜のふけるのもわすれていました。ちょうどそのとき、このお屋敷やしきにその時分じぶん学者がくしゃ名高なだかかった大江おおえの匡房まさふさという人があわせていて、やはり感心かんしんして聞いていましたが、帰りがけにひとこと、
「あの義家よしいえはりっぱな大将たいしょうだが、おしいことにいくさ学問がくもんができていない。
 とひとりごとのようにいいました。するとそれを玄関先げんかんさきっていた宗任むねとう小耳こみみにはさんで、あとで義家に、
匡房まさふさがこんなことをいっていました。なにもわからない学者がくしゃのくせに、なまいきではありませんか。
 といって、おこっていました。けれども、義家はわらって、
「いや、それはあの人のいうほうがほんとうだ。
 といって、そのあくる日あらためて匡房まさふさのところへ出かけて行って、ていねいにたのんで、いくさ学問がくもんおしえてもらうことにしました。

   四


 するうちまた奥州おうしゅう戦争せんそうがはじまりました。それは義家が鎮守府ちんじゅふ将軍しょうぐんになって奥州おうしゅうにくだっておりますと、清原きよはらの真衡さねひら家衡いえひらというあらエビスの兄弟の内輪うちわケンカからはじまって、しまいには、家衡いえひらがおじの武衡たけひらかたらって、義家にむかってきたのでした。
 そこで義家は身方みかた軍勢ぐんぜいをひきいて、こんどもえとさむさになやみながら、三年のあいだわきもふらずにたたかいました。
 このいくさのあいだのことでした。ある日、義家がなにげなく野原のはらをとおって行きますと、草の深くしげった中から、出しぬけにバラバラとガンがたくさんび立ちました。義家はこれを見てしばらく考えていましたが、
にガンがみだれて立ったところをみると、きっと伏兵ふくへいがあるのだ。それ、こちらからさきへかかれ。
 といいつけて、そこらの野原のはらりたてますと、あんじょうたくさんの伏兵ふくへいが草の中にかくれていました。そしてみんなみつかってころされてしまいました。そのとき義家よしいえ家来けらいたちにむかって、
「ガンのみだれて立つときは伏兵ふくへいがあるしるしだということは、匡房まさふさきょうからおそわった兵学へいがくの本にあることだ。おかげであぶないところを助かった。だから学問がくもんはしなければならないものだ。
 といいました。
 こんどのいくさは前のときにおとらずずいぶんくるしい戦争せんそうでしたけれど、三年めにはすっかりかたづいてしまって、義家はまたひさしぶりでみやこへ帰ることになりました。ちょうど春のことで、奥州おうしゅうを出て海づたいに常陸ひたちの国へ入ろうとして、国境くにざかい勿来なこそせきにかかりますと、みごとな山桜やまざくらがいっぱいいて、風もかないのにハラハラとよろいそでにちりかかりました。義家はそのとき馬の上でふりかえってさくらの花をあおぎながら、

かぜを なこそのせきおもえども
みち山桜やまざくらかな。

 といううたをよみました。
 これは「風が中へきこんできてはいけないぞといって立てた関所せきしょであるはずなのに、どうしてこんなにとおり道もふさがるほど、山桜やまざくらの花がたくさんりかかるのであろう。」といって、さくらるのをおしんだのです。

   五


 八幡はちまん太郎たろうの名はそののちますます高くなって、しまいにはとりけだものまでその名を聞いておそれたといわれるほどになりました。
 あるとき、天子てんしさまの御所ごしょ毎晩まいばんふしぎな魔物まものあらわれて、そのあらわれる時刻じこくになると、天子てんしさまはきゅうにおねつが出て、おこりというはげしいやまいをおみになりました。そこで、八幡太郎においいつけになって、御所しょ警固けいごをさせることになりました。義家はおおせをうけると、すぐよろい直垂ひたたれをかためて、弓矢をもって御所ごしょのおにわのまんなかに立って見張みはりをしていました。真夜中まよなかすぎになって、いつものとおり天子てんしさまがおこりをおみになる刻限こくげんになりました。義家はまっくらなおにわの上につっって、魔物まものると思われる方角ほうがくをキッとにらみつけながら、弓弦ゆみずるをピン、ピン、ピンと三度までらしました。そして、
八幡はちまん太郎たろう義家よしいえ!」
 と大きな声で名のりました。するとそれきりすっと魔物まものは消えて、天子てんしさまのご病気びょうきはきれいになおってしまいました。
 またあるとき、野原のはらかりに出かけますと、むこうからキツネが一ぴき出てきました。義家はそれを見て、あんな小さなけものに矢をあてるのもむごたらしい、おどしてやろうと思って、弓に矢をつがえて、わざとキツネの目の前のびたにけてはなしますと、矢はつるをはなれて、やがてキツネのまん前にひょいと立ちました。するとキツネはそれだけでもう目をまわして、クルリとひっくりかえると思うと、そのままたおれてんでしまいました。
 またあるとき、義家がとき大臣だいじん御堂殿みどうどののお屋敷やしきへよばれて行きますと、ちょうどそこには解脱寺げだつじ観修かんしゅうというえらいぼうさんや、安倍あべの晴明せいめいという名高なだか陰陽師おんみょうじや、忠明ただあきらという名人めいじん医者いしゃあわせていました。そのとき、ちょうど奈良ならからはつもののウリを献上けんじょうしてきました。めずらしい大きなウリだからというので、そのままおぼんにのせて四人のおきゃくの前に出しました。するとまず安倍あべの晴明せいめいがそのウリを手にのせて、
「ほう、これはめずらしいウリだ。
 といって、ながめていました。そして、
「しかしどうも、この中にはわるいものが入っているようです。
 といいました。すると御堂殿みどうどの解脱寺げだつじぼうさんにむかって、
「ではお上人しょうにん、一つ加持かじをしてみてください。
 といいました。ぼうさんが承知しょうちして珠数じゅずをつまぐりながら、何かいのりはじめますと、ふしぎにもウリがムクムクと動き出しました。さてこそあやしいウリだというので、お医者いしゃ忠明ただあきらはり療治りょうじに使うはりを出して、
「どれ、わたしがめてやりましょう。
 といいながら、ウリの胴中どうなか二所ふたところまではりを打ちますと、なるほどそのままウリは動かなくなってしまいました。そこでいちばんおしまいに義家よしいえが、短刀たんとうをぬいて、
「では、わたしがってみましょう。
 といいながらウリをりますと、中にはあんじょう小ヘビが一ぴきはいっていました。見ると忠明ただあきらのうったはりが、ちゃんと両方りょうほうの目にささっていました。
 そして義家がつい無造作むぞうさりこんだ短刀たんとうは、りっぱにヘビの首とどうはなしていました。
 御堂殿みどうどの感心かんしんして、
「なるほど、その道に名高なだかい名人たちのすることは、さすがにちがったものだ。
 といいました。

   六


 八幡はちまん太郎たろうは七十近くまで長生ながいきをして、六、七代の天子てんしさまにおつかもうしあげました。ですからその一代のあいだには、りっぱな武勇ぶゆうの話はかずしれずあって、それがみんなのちの武士たちのお手本てほんになったのでした。



底本:「日本の英雄伝説」講談社学術文庫、講談社
   1983(昭和58)年6月10日第1刷発行
入力:鈴木厚司
校正:大久保ゆう
2003年9月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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安達が原の鬼婆々おにばば(余白録)

喜田貞吉


 去る五月の中旬、大和の榛原町はいばらちょうに行ったとき、同町字足立という部落が鬼筋だという説について、土地の人にたずねてみたところが、昔、ここに安達が原の鬼婆々おにばばがおったという話があると教えてくれた。奥州安達が原から、鬼婆々おにばばは同じ地名の縁故でここまでも飛んで行ったのだ。武蔵の足立郡あだちぐんにも同じ話のあることが古い地誌に見えている。豊前企救郡きくぐんの足立村にも同じ説があるという。
 鬼婆々おにばばの話の元は、安達が原の黒塚のあるじが鬼であって、旅人を取って食ったというのであるが、さらにその話の火元は、かのたいらの兼盛かねもりの歌の、「みちのくの 安達が原の 黒塚に 鬼こもれりと いふは誠か」という歌だ。しかもその歌は、その詞書ことばがきによると、みちの国名取の郡黒塚という所に、みなもとの重之しげゆきめかけが大勢いるといううわさを聞いて、そのめかけを鬼に見立てて、からかったにすぎないので、安達が原ではなかったのだ。安達が原は、鬼と言わんがための言葉の遊戯にほかならぬ。本当の黒塚は、今の仙台在秋保あきう温泉のあたりにあった。大和やまと物語ものがたり』に、「名取の御湯ということを、常忠の君の女の読みたるというなむ、これ黒塚のあるじなりける」とある。
 それが本当の安達が原の鬼の話になり、武蔵までも、大和までも、さらに豊前までも飛んで行く。おそろしいことだ。(喜)



底本:『東北文化研究』第一巻 第一号、史誌出版社
   1928(昭和3)年9月1日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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安達が原の鬼婆々おにばば異考

中山太郎


『東北文化研究』創刊号の「余白録」に、喜田先生の「安達が原の鬼婆々おにばば」を読んで、先生のご高見もさることながら、これについては小生も先年から多少考えているところがあるので、ここに異考として先生の驥尾に付し、あえてお笑い草までに書きつけるとした。そしてここには結論だけを申し上げる。
 わが国には古く妊婦が胎児を分娩ぶんべんせずして産の上で死亡すると、妊婦の腹をさいて(産婦の死後は産道の活力がせるので、ここから胎児を引き出すことはできなかったらしい)胎児を取り出し、妊婦にその胎児をいだかせ(土地によっては妊婦と胎児をうしろあわせにするところもあるが、それは略しておく)て埋葬する土俗が存していた。しかしてそのおりに腹をさく役をつとめた老婆が、安達が原の鬼婆々おにばばの真相だとわたしは考えている。「奥州安達が原」という浄瑠璃の「四段目」を読んで(この筋は謡曲か『お伽草紙』から得たものと思うが、ここにはその詮議はあずかるとする)みても、貞任さだとうの母が自分の娘と知らずに妊婦の腹をさいて胎児を取るという脚色になっているので、奥州にはこの口碑こうひなり土俗なりが広くおこなわれていたことと思われる。しかしてこの土俗はアイヌには近年まで実行されていて、二、三の書物にも載せてあるが、今は近刊の『アイヌの足跡』から抄録する。同書の「妊婦および分娩」の条に左のごとく記してある。

妊婦難産のため死亡せし場合は、一般葬儀のばあいと同一形式によるも、墓地にいたりて埋葬に先だち死体の包みをとき会葬者を遠ざけ、かまをもって腹部をさき、体内の嬰児えいじを出し母の死体に抱かしめ、ふたたび包みてこれを葬る。この役にあたる者は部落中のフツチ(老婆)の中よりきものすわりたる者をえらぶよしなり。この手術をなす際、着用したる手術者の衣服は、手術後現場においてかまをもって寸々すんずんに切り裂き、そのままこれを放棄す。

 安達が原の鬼婆々おにばばは、このかまをとる老婆(あるいはこんなことを営業にした者があったのかもしれぬ)の伝説化ではないかと考えている。そして奥州にはこの種の土俗の面影おもかげは二、三年前までも残っていた。私の宅にいた福島県平町に近い×村生まれの女中の姉が難産で死んだおりに、医師をたのんで胎児を引き出し、アイヌと同じように妊婦にいだかせて葬ったと私に語ったことがある。そしてこれと同じ土俗は喜田先生のお国に近い愛媛県にもおこなわれているという報告に接している。これはご帰省のおりにでもご調査をねがいたいものだと思うている。
 妊婦の腹をさいて胎児を取り出し、それを母親にいだかせて埋めるというような惨酷さんこくきわまる土俗がなにゆえに発生したものか、それと同時に内地におこなわれたものはアイヌのそれに学んだものか、それとも独立して発生したものか、それらについて愚案あるも、尻馬しりうまに長いのは禁物と存じ、これで終わりとする(創刊号を読んだ朝)



底本:『東北文化研究』第一巻 第二号、史誌出版社
   1928(昭和3)年10月1日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
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喜田申す

喜田貞吉


 喜田申す、中山君のさっそくのご投稿を感謝いたします。小生の前号「余白録」に書きましたのは、ただ歌人の遊戯としての歌名所の性質を紹介し、ひいては同じ地名から、とんでもない地方に俗伝の伝播する事実を述べたのでありましたが、たまたまそれが縁故となって、郷土研究の大家たる中山君を招致し、この有益なる短編を紹介することができましたのをはなはだ喜ばしく存じます。雑誌の利用はここにあります。同好諸君、願わくば中山君のこの先縦にならわれて、本誌閲読のさいこころづかれたる事項につき、続々資料なり、感想なり、研究なりを投稿せられんことを希望いたします。



底本:『東北文化研究』第一巻 第二号、史誌出版社
   1928(昭和3)年10月1日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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安達が原

楠山正雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)京都《きょうと》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|日《にち》
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     一

 むかし、京都《きょうと》から諸国修行《しょこくしゅぎょう》に出た坊《ぼう》さんが、白河《しらかわ》の関《せき》を越《こ》えて奥州《おうしゅう》に入《はい》りました。磐城国《いわきのくに》の福島《ふくしま》に近《ちか》い安達《あだち》が原《はら》という原《はら》にかかりますと、短《みじか》い秋《あき》の日がとっぷり暮《く》れました。
 坊《ぼう》さんは一|日《にち》寂《さび》しい道《みち》を歩《ある》きつづけに歩《ある》いて、おなかはすくし、のどは渇《かわ》くし、何《なに》よりも足《あし》がくたびれきって、この先《さき》歩《ある》きたくも歩《ある》かれなくなりました。どこぞに百姓家《ひゃくしょうや》でも見《み》つけ次第《しだい》、頼《たの》んで一晩《ひとばん》泊《と》めてもらおうと思《おも》いましたが、折《おり》あしく原《はら》の中にかかって、見渡《みわた》す限《かぎ》りぼうぼうと草《くさ》ばかり生《お》い茂《しげ》った秋《あき》の野末《のずえ》のけしきで、それらしい煙《けむり》の上《あ》がる家《うち》も見《み》えません。もうどうしようか、いっそ野宿《のじゅく》ときめようか、それにしてもこうおなかがすいてはやりきれない、せめて水《みず》でも飲《の》ましてくれる家《うち》はないかしらと、心細《こころぼそ》く思《おも》いつづけながら、とぼとぼ歩《ある》いて行きますと、ふと向《む》こうにちらりと明《あか》りが一つ見《み》えました。
「やれやれ、有《あ》り難《がた》い、これで助《たす》かった。」と思《おも》って、一生懸命《いっしょうけんめい》明《あか》りを目当《めあ》てにたどって行きますと、なるほど家《うち》があるにはありましたが、これはまたひどい野中《のなか》の一つ家《や》で、軒《のき》はくずれ、柱《はしら》はかたむいて、家《うち》というのも名《な》ばかりのひどいあばら家《や》でしたから、坊《ぼう》さんは二|度《ど》びっくりして、さすがにすぐとは中へ入《はい》りかねていました。
 すると中では、かすかな破《やぶ》れ行灯《あんどん》の火《ほ》かげで、一人《ひとり》のおばあさんがしきりと糸《いと》を繰《く》っている様子《ようす》でしたが、その時《とき》障子《しょうじ》の破《やぶ》れからやせた顔《かお》を出《だ》して、
「もしもし、お坊《ぼう》さま、そこに何《なに》をしておいでだえ。」
 と声《こえ》をかけました。
 出《だ》し抜《ぬ》けに呼《よ》びかけられたので、坊《ぼう》さんは思《おも》わずぎょっとしながら、
「ああ、おばあさん。じつはこの原《はら》の中で日が暮《く》れたので、泊《とま》る家《うち》がなくって困《こま》っている者《もの》です。今夜《こんや》一晩《ひとばん》どうかして泊《と》めては頂《いただ》けますまいか。」
 といいました。
 するとおばあさんは、
「おやおや、それはお困《こま》りだろう。だがごらんのとおり原中《はらなか》の一|軒家《けんや》で、せっかくお泊《と》め申《もう》しても、着《き》てねる布団《ふとん》一|枚《まい》もありませんよ。」
 とことわりました。
 坊《ぼう》さんはおばあさんがそういう様子《ようす》の親切《しんせつ》そうなのに、やっと安心《あんしん》して、
「いえいえ、雨露《あめつゆ》さえしのげばけっこうです。布団《ふとん》なんぞの心配《しんぱい》はいりませんから、どうぞお泊《と》めなすって下《くだ》さい。」
 と頼《たの》みました。
 おばあさんはにこにこ笑《わら》いながら、
「まあまあ、そういうわけなら、御不自由《ごふじゆう》でも今夜《こんや》は家《うち》に上《あ》がってゆっくり休《やす》んでおいでなさい。」
 といって、坊《ぼう》さんを上へ上《あ》げてくれました。
 坊《ぼう》さんは度々《たびたび》お礼《れい》をいいながら、わらじをぬいで上へ上《あ》がりました。おばあさんは、囲炉裏《いろり》にまきをくべて、暖《あたた》かくしてくれたり、おかゆを炊《た》いてお夕飯《ゆうはん》を食《た》べさせてくれたり、いろいろ親切《しんせつ》にもてなしてくれました。それで坊《ぼう》さんも、見《み》かけによらないこれはいい家《うち》に泊《とま》り合わせたと、すっかり安心《あんしん》して、くり返《かえ》しくり返《かえ》しおばあさんにお礼《れい》をいっていました。
 お夕飯《ゆうはん》がすむと、坊《ぼう》さんは炉端《ろばた》に座《すわ》って、たき火《び》にあたりながら、いろいろ旅《たび》の話《はなし》をしますと、おばあさんはいちいちうなずいて聞《き》きながら、せっせと糸車《いとぐるま》を回《まわ》していました。そのうちだんだん夜《よ》が更《ふ》けるに従《したが》って、たださえあばら家《や》のことですから、外《そと》の冷《つめ》たい風《かぜ》が遠慮《えんりょ》なく方々《ほうぼう》から入《はい》り込《こ》んで、しんしんと夜寒《よさむ》が身《み》にしみます。けれどあいにくなことには、炉《ろ》の方《ほう》の火《ひ》がだんだん心細《こころぼそ》くなって、ありったけのまきはとうに燃《も》やしつくしてしまいました。
 おばあさんはふと坊《ぼう》さんの寒《さむ》そうにふるえているのを見《み》つけて、
「おやおや、まきがみんなになりましたか。お客《きゃく》さまがあると知《し》ったらもっとたくさん取《と》っておけばよかったものを、気《き》のつかないことをしました。どれどれ、ちょっと裏《うら》の山へ行ってまきを取《と》って来《き》ますから、お坊《ぼう》さま、しばらく退屈《たいくつ》でもお留守番《るすばん》をお頼《たの》み申《もう》します。」
 こういっておばあさんは気軽《きがる》に出て行こうとしました。
 すると坊《ぼう》さんはたいそう気《き》の毒《どく》がって、
「いやいや、この夜更《よふ》けにそんな御苦労《ごくろう》をかけてはすみません。何《なん》ならわたしが一走《ひとはし》り行って取《と》って来《き》ましょう。」
 といいますと、おばあさんは手をふって、
「どうして、とんでもない。旅《たび》の人に分《わ》かるものではない。まあまあ、何《なん》にもごちそうのない一つ家《や》のことだから、せめてたき火《び》でもごちそうのうちだと思《おも》ってもらいましょう。」
 といいいい出かけて行きましたが、何《なん》と思《おも》ったのか戻《もど》って来《き》て、
「その代《か》わりお坊《ぼう》さま、しっかり頼《たの》んでおきますがね、わたしが帰《かえ》ってくるまで、あなたはそこにじっと座《すわ》っていて、どこへも動《うご》かないで下《くだ》さいよ。うっかり動《うご》いて、次《つぎ》の間《ま》をのぞいたりなんぞしてはいけませんよ。」
 とくり返《かえ》し、くり返《かえ》し、念《ねん》を押《お》しました。
「どういうわけだか知《し》らないが、むろん用《よう》もないのに、人の家《うち》の中なんぞをかってにのぞいたりなんぞしませんから、安心《あんしん》して下《くだ》さい。」
 と坊《ぼう》さんもいいました。
 それでおばあさんも安心《あんしん》したらしく、そのまま出ていきました。

     二

 さておばあさんが出て行ってしまうと、坊《ぼう》さんはただ一人《ひとり》、しばらくはつくねんと炉端《ろばた》に座《すわ》ったままおばあさんの帰《かえ》りを待《ま》っていましたが、じき帰《かえ》ると思《おも》ったおばあさんはなかなか帰《かえ》って来《き》ません。何《なに》しろ西《にし》も東《ひがし》も分《わ》からない原中《はらなか》の一|軒家《けんや》に一人《ひとり》ぼっちとり残《のこ》されたのですから、心細《こころぼそ》さも心細《こころぼそ》いし、だんだん心配《しんぱい》になってきました。何《なん》でも安達《あだち》が原《はら》の黒塚《くろづか》には鬼《おに》が住《す》んでいて人を取《と》って食《く》うそうだなどという、旅《たび》の間《あいだ》にふと小耳《こみみ》にはさんだうわさを急《きゅう》に思《おも》い出《だ》すと、体中《からだじゅう》の毛穴《けあな》がぞっと一|時《じ》に立《た》つように思《おも》いました。そういえばこんな寂《さび》しい原中《はらなか》におばあさんが一人《ひとり》住《す》んでいるというのもおかしいし、さっき出がけに、妙《みょう》なことをいって度々《たびたび》念《ねん》を押《お》して行ったが、もしやこの家《うち》が鬼《おに》のすみかなのではないかしらん。いったい「見《み》るな。」といった次《つぎ》の間《ま》には何《なに》があるのか知《し》らん。こう思《おも》うと、こわさはこわいし、気《き》にはなるし、だんだんじっとして辛抱《しんぼう》していられなくなりました。それでもあれほど固《かた》く「見《み》るな。」といわれたものを見《み》ては、なおさらどんな災難《さいなん》があるかもしれません。
 坊《ぼう》さんはしばらく見《み》ようか、見《み》まいか、立《た》ったり座《すわ》ったり迷《まよ》っていましたが、おばあさんはやっぱり帰《かえ》って来《こ》ないので、とうとう思《おも》いきって、そっと立《た》って行って、次《つぎ》の間《ま》のふすまをあけました。
 すると坊《ぼう》さんは驚《おどろ》いたの、驚《おどろ》かないのではありません。あけるといっしょに中からぷんと血《ち》なまぐさいにおいが立《た》って、人間《にんげん》の死骸《しがい》らしいものが天井《てんじょう》まで高《たか》く積《つ》み重《かさ》ねてありました。そしてくずれてどろどろになった肉《にく》が血《ち》といっしょに流《なが》れ出《だ》していました。
 坊《ぼう》さんは「あっ。」といったなり、しばらく腰《こし》を抜《ぬ》かして目ばかり白黒《しろくろ》させたまま起《お》き上《あ》がることもできませんでした。そのうちふと気《き》がつくと、これこそ話《はなし》にきいた一つ家《や》の鬼《おに》だ、ぐずぐずしているととんでもないことになると思《おも》って、あわててわらじのひもを結《むす》ぶひまもなく逃《に》げ出《だ》そうとしました。けれども今《いま》にもうしろから鬼婆《おにばばあ》に襟首《えりくび》をつかまれそうな気《き》がして、気《き》ばかりわくわくして、腰《こし》がわなわなふるえるので、足《あし》が一向《いっこう》に進《すす》みません。それでもころんだり、起《お》きたり、めくらめっぽうに原《はら》の中を駆《か》け出《だ》して行きますと、ものの五六|町《ちょう》も行かないうちに、暗《くら》やみの中で、
「おうい、おうい。」
 と呼《よ》ぶ声《こえ》がしました。
 その声《こえ》を聞《き》くと、坊《ぼう》さんは、さてこそ鬼婆《おにばばあ》が追《お》っかけて来《き》たとがたがたふるえながら、耳《みみ》をふさいでどんどん駆《か》け出《だ》して行きました。そして心《こころ》の中で悪鬼《あくき》除《よ》けの呪文《じゅもん》を一生懸命《いっしょうけんめい》唱《とな》えていました。そのうち、
「おうい待《ま》て、おうい待《ま》て。」
 と呼《よ》ぶ鬼婆《おにばばあ》の声《こえ》がずんずん近《ちか》くなって、やがておこった声《こえ》で、
「やい、坊主《ぼうず》め、あれほど見《み》るなといった部屋《へや》をなぜ見《み》たのだ。逃《に》げたって逃《に》がしはしないぞ。」
 というのが、手《て》にとるように聞《き》こえるので、坊《ぼう》さんはもういよいよ絶体絶命《ぜったいぜつめい》とかくごをきめて、一心《いっしん》にお経《きょう》を唱《とな》えながら、走《はし》れるだけ走《はし》って行きました。
 すると、お経《きょう》の功徳《くどく》でしょうか、もうそろそろ夜《よ》が明《あ》けかかってきたので、鬼《おに》もこわくなったのでしょうか、鬼《おに》の足《あし》がだんだんのろくなって、もうよほど間《あいだ》が遠《とお》くなりました。そのうちずんずん空《そら》は明《あか》るくなってきて、東《ひがし》の空《そら》が薄赤《うすあか》く染《そ》まってくると、どこかの村《むら》で鶏《にわとり》の鳴《な》き立《た》てる声《こえ》がいさましく聞《き》こえました。
 もう夜《よ》が明《あ》けてしまえばしめたものです。鬼《おに》は真昼《まひる》の光《ひかり》にあってはいくじのないものですから、うらめしそうに、しばらくは、旅僧《たびそう》のうしろ姿《すがた》を遠《とお》くからながめていましたが、ふいと姿《すがた》が消《き》えて見《み》えなくなりました。
 坊《ぼう》さんはそのうち人里《ひとざと》に出て、ほっと一息《ひといき》つきました。そして花《はな》やかにさし昇《のぼ》った朝日《あさひ》に向《む》かって手を合《あ》わせました。



底本:「日本の諸国物語」講談社学術文庫、講談社
   1983(昭和58)年4月10日第1刷発行
入力:鈴木厚司
校正:大久保ゆう
2003年9月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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八幡太郎

楠山正雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)日本《にほん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|番《ばん》

[#]:入力者注 主に外字の注記や傍点の位置の指定
(例)[#ここから4字下げ]
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     一

 日本《にほん》のむかしの武士《ぶし》で一|番《ばん》強《つよ》かったのは源氏《げんじ》の武士《ぶし》でございます。その源氏《げんじ》の先祖《せんぞ》で、一|番《ばん》えらい大将《たいしょう》といえば八幡太郎《はちまんたろう》でございます。むかし源氏《げんじ》の武士《ぶし》は戦《いくさ》に出る時《とき》、氏神《うじがみ》さまの八幡大神《はちまんだいじん》のお名《な》を唱《とな》えるといっしょに、きっと先祖《せんぞ》の八幡太郎《はちまんたろう》を思《おも》い出《だ》して、いつも自分《じぶん》の向《む》かって行く先々《さきざき》には、八幡太郎《はちまんたろう》の霊《れい》が守《まも》っていてくれると思《おも》って、戦《いくさ》に励《はげ》んだものでした。
 八幡太郎《はちまんたろう》は源頼義《みなもとのよりよし》という大将《たいしょう》の長男《ちょうなん》で、おとうさんの頼義《よりよし》が、ある晩《ばん》八幡大神《はちまんだいじん》からりっぱな宝剣《ほうけん》を頂《いただ》いたという夢《ゆめ》を見《み》ると、間《ま》もなく八幡太郎《はちまんたろう》が生《う》まれました。七つの年《とし》に石清水《いわしみず》八幡《はちまん》のお宮《みや》で元服《げんぷく》して、八幡太郎《はちまんたろう》義家《よしいえ》と名《な》のりました。
 義家《よしいえ》は子供《こども》の時《とき》から弓《ゆみ》がうまくって、もう十二、三という年《とし》にはたいていの武士《ぶし》の引《ひ》けないような上手《じょうず》な弓《ゆみ》を引《ひ》いて、射《い》れば必《かなら》ず当《あ》たるという不思議《ふしぎ》なわざをもっていました。
 ある時《とき》清原武則《きよはらたけのり》というこれも弓《ゆみ》の名人《めいじん》で名高《なだか》かった人が、義家《よしいえ》のほんとうの弓勢《ゆんぜい》を知《し》りたがって、丈夫《じょうぶ》な鎧《よろい》を三重《みかさ》ねまで木の上にかけて、義家《よしいえ》に射《い》させました。義家《よしいえ》はそこらにある弓《ゆみ》に矢《や》をつがえて、無造作《むぞうさ》に放《はな》しますと、鎧《よろい》を三|枚《まい》とおして、後《うし》ろに五|寸《すん》も鏃《やじり》が出ていました。

     二

 大きくなって、義家《よしいえ》はおとうさんの頼義《よりよし》について、奥州《おうしゅう》の安倍貞任《あべのさだとう》、宗任《むねとう》という兄弟《きょうだい》の荒《あら》えびすを征伐《せいばつ》に行きました。その戦《いくさ》は九|年《ねん》もつづいて、その間《あいだ》にはずいぶんはげしい大雪《おおゆき》に悩《なや》んだり、兵糧《ひょうろう》がなくなって危《あや》うく餓《う》え死《じ》にをしかけたり、一|時《じ》は敵《てき》の勢《いきお》いがたいそう強《つよ》くって、味方《みかた》は残《のこ》らず討《う》ち死《じ》にと覚悟《かくご》をきめたりしたこともありましたが、その度《たび》ごとにいつも義家《よしいえ》が、不思議《ふしぎ》な智恵《ちえ》と勇気《ゆうき》と、それから神様《かみさま》のような弓矢《ゆみや》の技《わざ》で敵《てき》を退《しりぞ》けて、九分九厘《くぶくりん》まで負《ま》け戦《いくさ》にきまったものを、もり返《かえ》して味方《みかた》の勝利《しょうり》にしました。
 それで戦《たたか》えば戦《たたか》うたんびに八幡太郎《はちまんたろう》の名《な》が高《たか》くなりました。さすがの荒《あら》えびすもふるえ上《あ》がって、しまいには八幡太郎《はちまんたろう》の名《な》を聞《き》いただけで逃《に》げ出《だ》すようになりました。
 けれども、強《つよ》いばかりが武士《ぶし》ではありません。八幡太郎《はちまんたろう》が心《こころ》のやさしい、神様《かみさま》のように情《なさ》けの深《ふか》い人だということは、敵《てき》すらも感《かん》じて、慕《した》わしく思《おも》うようになりました。
 それはもう長《なが》い長《なが》い九|年《ねん》の戦《たたか》いもそろそろおしまいになろうという時分《じぶん》のことでした。ある日はげしい戦《いくさ》のあとで、義家《よしいえ》は敵《てき》の大将《たいしょう》の貞任《さだとう》とただ二人《ふたり》、一|騎《き》打《う》ちの勝負《しょうぶ》をいたしました。そのうちとうとう貞任《さだとう》がかなわなくなって、馬《うま》の首《くび》を向《む》けかえして、逃《に》げて行こうとしますと、義家《よしいえ》は後《うし》ろから大きな声《こえ》で、
[#ここから4字下げ]
「衣《ころも》のたては
ほころびにけり。」
[#ここで字下げ終わり]
 と和歌《わか》の下《しも》の句《く》をうたいかけました。すると貞任《さだとう》も逃《に》げながら振《ふ》り向《む》いて、
[#ここから4字下げ]
「年《とし》を経《へ》し
糸《いと》の乱《みだ》れの
苦《くる》しさに。」
[#ここで字下げ終わり]
 とすぐに上《かみ》の句《く》をつけました。これは戦《いくさ》の場所《ばしょ》がちょうど衣川《ころもがわ》のそばの「衣《ころも》の館《たて》」という所《ところ》でしたから、義家《よしいえ》が貞任《さだとう》に、
「お前《まえ》の衣《ころも》ももうほころびた。お前《まえ》の運《うん》ももう末《すえ》だ。」
 とあざけったのでございます。すると貞任《さだとう》も負《ま》けずに、
「それはなにしろ長年《ながねん》の戦《いくさ》で、衣《ころも》の糸《いと》もばらばらにほごれてきたからしかたがない。」
 とよみかえしたのでした。
 これで義家《よしいえ》もいかにも貞任《さだとう》がかわいそうになって、その日はそのまま見逃《みのが》してかえしてやりました。
 けれども一|度《ど》は逃《に》がしてやっても、いったい運《うん》の尽《つ》きたものはどうにもならないので、間《ま》もなく貞任《さだとう》は殺《ころ》され、弟《おとうと》の宗任《むねとう》も生《い》け捕《ど》りになって、奥州《おうしゅう》の荒《あら》えびすは残《のこ》らず滅《ほろ》びてしまいました。そこで頼義《よりよし》と義家《よしいえ》の二人《ふたり》は九|年《ねん》の苦《くる》しい戦《いくさ》の後《のち》、生《い》け捕《ど》りの敵《てき》を引《ひ》き連《つ》れて、めでたく京都《きょうと》へ凱旋《がいせん》いたしました。

     三

 京都《きょうと》へ帰《かえ》って後《のち》、敵《てき》の大将《たいしょう》の宗任《むねとう》はすぐに首《くび》を切《き》られるはずでしたけれど、義家《よしいえ》は、
「戦《いくさ》がすんでしまえば、もう敵《てき》も味方《みかた》もない。むだに人の命《いのち》を絶《た》つには及《およ》ばない。」
 と思《おも》いました。そこで天子《てんし》さまに願《ねが》って、自分《じぶん》が御褒美《ごほうび》を頂《いただ》く代《か》わりに、宗任《むねとう》はじめ敵《てき》のとりこを残《のこ》らず許《ゆる》してやりました。その中で宗任《むねとう》はそのまま都《みやこ》に止《とど》まって、義家《よしいえ》の家来《けらい》になりたいというので、そばに置《お》いて使《つか》うことにしました。
 宗任《むねとう》はいったん義家《よしいえ》に命《いのち》を助《たす》けてもらったので、たいそうありがたいと思って、義家《よしいえ》の徳《とく》になつくようになったのですが、元々《もともと》人を恨《うら》む心《こころ》の深《ふか》い荒《あら》えびすのことですから、自分《じぶん》の一家《いっか》を滅《ほろ》ぼした義家《よしいえ》をやはり憎《にく》らしく思《おも》う心《こころ》がぬけません。それでいつか折《おり》があったら、殺《ころ》して敵《かたき》を討《う》ってやろうとねらっておりました。けれども義家《よしいえ》の方《ほう》はいっこう平気《へいき》で、昔《むかし》から使《つか》いなれた家来《けらい》同様《どうよう》宗任《むねとう》をかわいがって、どこへ行《い》くにも、「宗任《むねとう》、宗任《むねとう》。」とお供《とも》につれて歩《ある》いていました。
 するとある晩《ばん》のことでした。義家《よしいえ》はたった一人《ひとり》宗任《むねとう》をお供《とも》につれて、ある人の家《いえ》をたずねに行《い》って、夜《よる》おそく帰《かえ》って来《き》ました。宗任《むねとう》は牛車《うしぐるま》を追《お》いながら、今夜《こんや》こそ義家《よしいえ》を殺《ころ》してやろうと思《おも》いました。そこで懐《ふところ》からそろそろ刀《かたな》を抜《ぬ》きかけて、そっと車《くるま》の中をのぞきますと、中では義家《よしいえ》がなんにも胸《むね》にわだかまりのない顔《かお》をして、すやすや眠《ねむ》っていました。宗任《むねとう》はその時《とき》、
「敵《てき》のわたしにただ一人《ひとり》供《とも》をさせて、少しも疑《うたが》う気色《けしき》も見《み》せない。どこまで心《こころ》のひろい、りっぱな人だろう。」
 と感心《かんしん》して、抜《ぬ》きかけた刀《かたな》を引《ひ》っこめてしまいました。そしてそれからはまったく義家《よしいえ》になついて、一生《いっしょう》そむきませんでした。
 それからまたある時《とき》、義家《よしいえ》はいつものとおり宗任《むねとう》を一人《ひとり》お供《とも》につれて、大臣《だいじん》の藤原頼通《ふじわらのよりみち》という人のお屋敷《やしき》へよばれて行ったことがありました。頼通《よりみち》は義家《よしいえ》にくわしく奥州《おうしゅう》の戦争《せんそう》の話《はなし》をさせて聞《き》きながら、おもしろいので夜《よ》の更《ふ》けるのも忘《わす》れていました。ちょうどその時《とき》、このお屋敷《やしき》にその時分《じぶん》学者《がくしゃ》で名高《なだか》かった大江匡房《おおえのまさふさ》という人が来合《きあ》わせていて、やはり感心《かんしん》して聞《き》いていましたが、帰《かえ》りがけに一言《ひとこと》、
「あの義家《よしいえ》はりっぱな大将《たいしょう》だが、惜《お》しいことに戦《いくさ》の学問《がくもん》ができていない。」
 とひとり言《ごと》のようにいいました。するとそれを玄関先《げんかんさき》で待《ま》っていた宗任《むねとう》が小耳《こみみ》にはさんで、後《あと》で義家《よしいえ》に、
「匡房《まさふさ》がこんなことをいっていました。何《なに》もわからない学者《がくしゃ》のくせに、生意気《なまいき》ではありませんか。」
 といって、怒《おこ》っていました。けれども、義家《よしいえ》は笑《わら》って、
「いや、それはあの人のいう方《ほう》がほんとうだ。」
 といって、そのあくる日|改《あらた》めて匡房《まさふさ》のところへ出かけて行って、ていねいにたのんで、戦《いくさ》の学問《がくもん》を教《おし》えてもらうことにしました。

     四

 するうちまた奥州《おうしゅう》に戦争《せんそう》がはじまりました。それは義家《よしいえ》が鎮守府《ちんじゅふ》将軍《しょうぐん》になって奥州《おうしゅう》に下《くだ》って居《お》りますと、清原真衡《きよはらのさねひら》、家衡《いえひら》という荒《あら》えびすの兄弟《きょうだい》の内輪《うちわ》けんかからはじまって、しまいには、家衡《いえひら》がおじの武衡《たけひら》を語《かた》らって、義家《よしいえ》に向《む》かって来《き》たのでした。
 そこで義家《よしいえ》は身方《みかた》の軍勢《ぐんぜい》を率《ひき》いて、こんども餓《う》えと寒《さむ》さになやみながら、三|年《ねん》の間《あいだ》わき目《め》もふらずに戦《たたか》いました。
 この戦《いくさ》の間《あいだ》のことでした。ある日《ひ》義家《よしいえ》が何気《なにげ》なく野原《のはら》を通《とお》って行きますと、草《くさ》の深《ふか》く茂《しげ》った中から、出《だ》し抜《ぬ》けにばらばらとがんがたくさん飛《と》び立《た》ちました。義家《よしいえ》はこれを見《み》てしばらく考《かんが》えていましたが、
「野《の》にがんが乱《みだ》れて立《た》ったところをみると、きっと伏兵《ふくへい》があるのだ。それ、こちらから先《さき》へかかれ。」
 といいつけて、そこらの野原《のはら》を狩《か》りたてますと、案《あん》の定《じょう》たくさんの伏兵《ふくへい》が草《くさ》の中にかくれていました。そしてみんなみつかって殺《ころ》されてしまいました。その時《とき》義家《よしいえ》は家来《けらい》たちに向《む》かって、
「がんの乱《みだ》れて立《た》つ時《とき》は伏兵《ふくへい》があるしるしだということは、匡房《まさふさ》の卿《きょう》から教《おそ》わった兵学《へいがく》の本《ほん》にあることだ。お陰《かげ》で危《あぶ》ないところを助《たす》かった。だから学問《がくもん》はしなければならないものだ。」
 といいました。
 こんどの戦《いくさ》は前《まえ》の時《とき》に劣《おと》らず随分《ずいぶん》苦《くる》しい戦争《せんそう》でしたけれど、三|年《ねん》めにはすっかり片付《かたづ》いてしまって、義家《よしいえ》はまた久《ひさ》し振《ぶ》りで都《みやこ》へ帰《かえ》ることになりました。ちょうど春《はる》のことで、奥州《おうしゅう》を出て海《うみ》伝《づた》いに常陸《ひたち》の国《くに》へ入《はい》ろうとして、国境《くにざかい》の勿来《なこそ》の関《せき》にかかりますと、みごとな山桜《やまざくら》がいっぱい咲《さ》いて、風《かぜ》も吹《ふ》かないのにはらはらと鎧《よろい》の袖《そで》にちりかかりました。義家《よしいえ》はその時《とき》馬《うま》の上でふり返《かえ》って桜《さくら》の花《はな》を仰《あお》ぎながら、
[#ここから4字下げ]
「吹《ふ》く風《かぜ》を
なこその関《そき》と
思《おも》えども
道《みち》も狭《せ》に散《ち》る
山桜《やまざくら》かな。」
[#ここで字下げ終わり]
 という歌《うた》を詠《よ》みました。
 これは「風《かぜ》が中へ吹《ふ》きこんで来《き》てはいけないぞといって立《た》てた関所《せきしょ》であるはずなのに、どうしてこんなに通《とお》り道《みち》もふさがるほど、山桜《やまざくら》の花《はな》がたくさん散《ち》りかかるのであろう。」といって、桜《さくら》の散《ち》るのを惜《お》しんだのです。

     五

 八幡太郎《はちまんたろう》の名《な》はその後《のち》ますます高《たか》くなって、しまいには鳥《とり》けだものまでその名《な》を聞《き》いて恐《おそ》れたといわれるほどになりました。
 ある時《とき》、天子《てんし》さまの御所《ごしょ》に毎晩《まいばん》不思議《ふしぎ》な魔物《まもの》が現《あらわ》れて、その現《あらわ》れる時刻《じこく》になると、天子《てんし》さまは急《きゅう》にお熱《ねつ》が出て、おこりというはげしい病《やまい》をお病《や》みになりました。そこで、八幡太郎《はちまんたろう》においいつけになって、御所《ごしょ》の警固《けいご》をさせることになりました。義家《よしいえ》は仰《おお》せをうけると、すぐ鎧《よろい》直垂《ひたたれ》に身《み》を固《かた》めて、弓矢《ゆみや》をもって御所《ごしょ》のお庭《にわ》のまん中に立《た》って見張《みは》りをしていました。真夜中《まよなか》すぎになって、いつものとおり天子《てんし》さまがおこりをお病《や》みになる刻限《こくげん》になりました。義家《よしいえ》はまっくらなお庭《にわ》の上につっ立《た》って、魔物《まもの》の来《く》ると思《おも》われる方角《ほうがく》をきっとにらみつけながら、弓絃《ゆみづる》をぴん、ぴん、ぴんと三|度《ど》まで鳴《な》らしました。そして、
「八幡太郎《はちまんたろう》義家《よしいえ》。」
 と大きな声《こえ》で名《な》のりました。するとそれなりすっと魔物《まもの》は消《き》えて、天子《てんし》さまの御病気《ごびょうき》はきれいになおってしまいました。
 またある時《とき》野原《のはら》へ狩《かり》に出かけますと、向《む》こうからきつねが一|匹《ぴき》出て来《き》ました。義家《よしいえ》はそれを見《み》て、あんな小《ちい》さなけものに矢《や》をあてるのもむごたらしい、おどしてやろうと思《おも》って、弓《ゆみ》に矢《や》をつがえて、わざときつねの目の前《まえ》の地《じ》びたに向《む》けて放《はな》しますと、矢《や》は絃《つる》をはなれて、やがてきつねのまん前《まえ》にひょいと立《た》ちました。するときつねはそれだけでもう目をまわして、くるりとひっくりかえると思《おも》うと、そのまま倒《たお》れて死《し》んでしまいました。
 またある時《とき》義家《よしいえ》が時《とき》の大臣《だいじん》の御堂殿《みどうどの》のお屋敷《やしき》へよばれて行きますと、ちょうどそこには解脱寺《げだつじ》の観修《かんしゅう》というえらい坊《ぼう》さんや、安倍晴明《あべのせいめい》という名高《なだか》い陰陽師《おんみょうじ》や、忠明《ただあきら》という名人《めいじん》の医者《いしゃ》が来合《きあ》わせていました。その時《とき》ちょうど奈良《なら》から初《はつ》もののうりを献上《けんじょう》して来《き》ました。珍《めずら》しい大きなうりだからというので、そのままお盆《ぼん》にのせて四|人《にん》のお客《きゃく》の前《まえ》に出《だ》しました。するとまず安倍晴明《あべのせいめい》がそのうりを手にのせて、
「ほう、これは珍《めずら》しいうりだ。」
 といって、眺《なが》めていました。そして、
「しかしどうも、この中には悪《わる》いものが入《はい》っているようです。」
 といいました。すると御堂殿《みどうどの》は解脱寺《げだつじ》の坊《ぼう》さんに向《む》かって、
「ではお上人《しょうにん》、一つ加持《かじ》をしてみて下《くだ》さい。」
 といいました。坊《ぼう》さんが承知《しょうち》して珠数《じゅず》をつまぐりながら、何《なに》か祈《いの》りはじめますと、不思議《ふしぎ》にもうりがむくむくと動《うご》き出《だ》しました。さてこそ怪《あや》しいうりだというので、お医者《いしゃ》の忠明《ただあきら》が針療治《はりりょうじ》に使《つか》う針《はり》を出《だ》して、
「どれ、わたしが止《と》めてやりましょう。」
 といいながら、うりの胴中《どうなか》に二所《ふたところ》まで針《はり》を打《う》ちますと、なるほどそのままうりは動《うご》かなくなってしまいました。そこで一ばんおしまいに義家《よしいえ》が、短刀《たんとう》をぬいて、
「ではわたしが割《わ》って見《み》ましょう。」
 といいながらうりを割《わ》りますと、中には案《あん》の定《じょう》小蛇《こへび》が一|匹《ぴき》入《はい》っていました。見《み》ると忠明《ただあきら》のうった針《はり》が、ちゃんと両方《りょうほう》の目にささっていました。
 そして義家《よしいえ》がつい無造作《むぞうさ》に切《き》り込《こ》んだ短刀《たんとう》は、りっぱに蛇《へび》の首《くび》と胴《どう》を切《き》り離《はな》していました。
 御堂殿《みどうどの》は感心《かんしん》して、
「なるほどその道《みち》に名高《なだか》い名人《めいじん》たちのすることは、さすがに違《ちが》ったものだ。」
 といいました。

     六

 八幡太郎《はちまんたろう》は七十|近《ちか》くまで長生《ながい》きをして、六、七|代《だい》の天子《てんし》さまにお仕《つか》え申《もう》し上《あ》げました。ですからその一|代《だい》の間《あいだ》には、りっぱな武勇《ぶゆう》の話《はなし》は数《かず》しれずあって、それがみんな後《のち》の武士《ぶし》たちのお手本《てほん》になったのでした。



底本:「日本の英雄伝説」講談社学術文庫、講談社
   1983(昭和58)年6月10日第1刷発行
入力:鈴木厚司
校正:大久保ゆう
2003年9月29日作成
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安達ケ原の鬼婆々(餘白録)

喜田貞吉

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【テキスト中に現れる記号について】

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)黒塚のあるじ[#「黒塚のあるじ」に白丸傍点]
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去る五月の中旬、大和の榛原町に行つた時、同町字足立といふ部落が、鬼筋だといふ説について、土地の人に尋ねて見たところが、昔こゝに安達ケ原の鬼婆々が居つたといふ話があると教へてくれた。奧州安達ケ原から、鬼婆々は同じ地名の縁故で、こゝまでも飛んで行つたのだ。武藏の足立郡にも、同じ話のあることが、古い地誌に見えて居る。豐前企救郡の足立村にも、同じ説があるといふ。
鬼婆々の話の元は、安達ケ原の黒塚のあるじが鬼であつて、旅人を取つて喰つたといふのであるが、更に其話の火元は、かの平兼盛の歌の、「みちのくの、安達ケ原の黒塚に、鬼こもれりといふは誠か」といふ歌だ。而も其の歌は、其の詞書きによると、みちの國名取の郡黒塚といふ所に、源重之の妾が大勢居るといふ噂を聞いて、其の妾を鬼に見立てゝ、からかつたに過ぎないので、安達ケ原ではなかつたのだ。安達ケ原は、鬼と言はんが爲の言葉の遊戯に外ならぬ。本當の黒塚は、今の仙臺在秋保温泉のあたりにあつた。大和物語に、「名取の御湯といふことを、常忠の君の女の讀みたると云ふなむ、これ黒塚のあるじ[#「黒塚のあるじ」に白丸傍点]なりける」とある。
それが本當の安達ケ原の鬼の話になり、武藏までも、大和までも、更に豐前までも飛んで行く。恐ろしこ[#「恐ろしこ」は底本のまま]事だ。(喜)



底本:『東北文化研究』第一巻 第一号、史誌出版社
   1928(昭和3)年9月1日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
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安達ケ原の鬼婆々異考

中山太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから1字下げ]
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「東北文化研究」創刊號の餘白録に、喜田先生の「安達ケ原の鬼婆々」を讀んで、先生の御高見もさる事ながら、これに就いては小生も先年から多少考へてゐるところがあるので、こゝに異考として先生の驥尾に附し、敢て御笑ひ草までに書きつけるとした。そしてこゝには結論だけを申上げる。
 我國には古く妊婦が胎兒を分娩せずして産の上で死亡すると、妊婦の腹を割いて(産婦の死後は産道の活力が失せるので、こゝから胎兒を引き出すことは出來なかつたらしい)胎兒を取り出し、妊婦にその胎兒を懷かせ(土地によつては妊婦と胎兒を後ろ合せにする處もあるが、それは略して置く)て埋葬する土俗が存してゐた。而してその折に腹を割く役を勤めた老婆が、安達ケ原の鬼婆々の眞相だと私は考へてゐる。「奧州安達ケ原」といふ淨瑠璃の「四段目」を讀んで(此の筋は謠曲かお伽草紙から得たものと思ふが、こゝにはその詮議は預るとする)見ても、貞任の母が自分の娘と知らずに妊婦の腹を割いて胎兒を取るといふ脚色になつてゐるので、奧州には此の口碑なり土俗なりが廣く行はれてゐたことゝ思はれる。而して此の土俗はアイヌには近年まで實行されてゐて、二三の書物にも載せてあるが、今は近刊の「アイヌの足跡」から抄録する。同書の「妊婦及び分娩」の條に左の如く記してある。
[#ここから1字下げ]
妊婦難産の爲め死亡せし場合は、一般葬儀の場合と同一形式に依るも、墓地に到りて埋葬に先だち屍體の包を解き會葬者を遠ざけ、鎌を以て腹部を割き體内の嬰兒を出し母の屍體に抱かしめ、再び包みて之を葬る。此役に當る者は部落中のフツチ(老婆)の中より膽の座りたる者を擇ぶ由なり。此手術を爲す際着用したる手術者の衣服は、手術後現場に於て鎌を以て寸々に切り裂き其儘之れを放棄す。
[#ここで字下げ終わり]
 安達ケ原の鬼婆々は、此の鎌を執る老婆(或はこんな事を營業にした者があつたのかも知れぬ)の傳説化ではないかと考へてゐる。そして奧州には此の種の土俗の面影は二三年前までも殘つてゐた。私の宅にゐた福島縣平町に近い×村生れの女中の姉が難産で死んだ折に、醫師を頼んで胎兒を引き出しアイヌと同じやうに妊婦に懷かせて葬つたと私に語つたことがある。そしてこれと同じ土俗は喜田先生のお國に近い愛媛縣にも行はれてゐるといふ報告に接してゐる。これは御歸省の折にでも御調査をねがひたいものだと思ふてゐる。
 妊婦の腹を割いて胎兒を取り出し、それを母親に懷かせて埋めるといふやうな慘酷極まる土俗が何故に發生したものか、それと同時に内地に行はれたものはアイヌのそれに學んだものか、それとも獨立して發生したものか、それ等に就いて愚案あるも、尻馬に長いのは禁物と存じ、これで終りとする(創刊號を讀んだ朝)



底本:『東北文化研究』第一巻 第二号、史誌出版社
   1928(昭和3)年10月1日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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喜田申す

喜田貞吉

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【テキスト中に現れる記号について】

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)たま/\
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喜田申す、中山君の早速の御投稿を感謝致します。小生の前號餘白録に書きましたのは、たゞ歌人の遊戯としての歌名所の性質を紹介し、引いては同じ地名から、飛んでもない地方に俗傳の傳播する事實を述べたのでありましたが、たま/\それが縁故となつて、郷土研究の大家たる中山君を招致し、此の有益なる短篇を紹介する事が出來ましたのを甚だ喜ばしく存じます。雜誌の利用はこゝにあります。同好諸君、願くば中山君の此の先縱にならはれて、本誌閲讀の際心付かれたる事項につき、續々資料なり、感想なり、研究なりを投稿せられんことを希望致します。



底本:『東北文化研究』第一巻 第二号、史誌出版社
   1928(昭和3)年10月1日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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*地名

(※ 市町村名は、平成の大合併以前の表記のまま。
  • 安達ヶ原 あだちがはら (1) 福島県安達郡の安達太良山東麓の原野。鬼がこもったと伝えた。(歌枕) 拾遺和歌集雑「陸奥の安達の原の黒づかに鬼こもれりと聞くはまことか」(2) 能。安達ヶ原黒塚の鬼女の家に宿泊した山伏が、禁じられた寝室を覗いて害されそうになるが、遂に祈り伏せる。黒塚。(3) 浄瑠璃「奥州安達原」の略称。(4) 常磐津・長唄。常磐津は (3) の3段目の改作。長唄は (1) による歌詞で、1870年(明治3)2世杵屋勝三郎作曲。
  • 黒塚 くろづか (1) 福島県二本松市の東方、安達原にある古跡。平兼盛の歌に基づく鬼女伝説に名高い。(2) 能。「安達ヶ原」に同じ。
  • -----------------------------------
  • 安達が原
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  • 白河の関 しらかわのせき 古代の奥羽三関の一つ。遺称地は福島県白河市の旗宿にある。能因法師の「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」の歌で有名。
  • 奥州 おうしゅう (1) 陸奥国の別称。昔の勿来・白河関以北で、今の福島・宮城・岩手・青森の4県と秋田県の一部に当たる。1869年(明治元年12月)磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥の5カ国に分割。
  • 磐城国 いわきのくに 旧国名。1869年(明治元年12月)陸奥国を分割して設置。一部は今の福島県の東部、一部は宮城県の南部に属する。磐州。
  • 福島 ふくしま (1) 東北地方南部の県。岩代および磐城国の大部分を管轄。面積1万3783平方キロメートル。人口209万1千。全13市。(2) 福島県北東部、福島盆地にある市。県庁所在地。もと板倉氏3万石の城下町。生糸・織物業で発展。食品・機械工業のほか、モモ・リンゴなどの栽培も盛ん。人口29万1千。
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  • 八幡太郎
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  • [京都府]
  • 石清水八幡宮 いわしみず はちまんぐう 京都府八幡市にある元官幣大社。祭神は誉田別尊(応神天皇)・息長帯姫尊(神功皇后)・比売神の三座。859年(貞観1)、宇佐八幡を勧請。歴代朝廷の崇敬篤く、鎌倉時代以降、源氏の氏神として武家の崇敬も深かった。例祭は9月15日。伊勢神宮・賀茂神社とともに三社の称がある。二十二社の一つ。男山八幡宮。
  • 解脱寺 げだつじ 現、京都市左京区岩倉長谷町。土地の伝承では寺跡は長谷東方の山麓小松原の地という。しかし『山城名勝志』は長谷川に沿って瓢箪崩山へ至る御所谷の地とする。天台宗園城寺派に属し、本尊阿弥陀如来。観修の登場する「陰陽師清明早瓜に毒気あるを占う事」は『古今著聞集』にある。
  • [陸奥国]
  • 鎮守府 ちんじゅふ (1) 古代、蝦夷を鎮圧するために陸奥国に置かれた官庁。初め多賀城に置き、後に胆沢城などに移した。
  • 衣川 ころもがわ 岩手県南部の川。平泉町の北部で北上川に注ぐ。
  • 衣の館 ころものたて 岩手県奥州市衣川にあった安倍頼時の居館。衣川柵。
  • 勿来の関 なこそのせき 勿来関。(勿来は夷人来るなかれの意とも波越の意ともいう)古代の奥羽三関の一つ。遺称地は福島県いわき市勿来の九面付近とされるが、諸説がある。もと菊多の関と称した。源義家の「吹く風をなこその関と思へども道もせに散る山桜かな」(千載集巻2)などで名高い。
  • [常陸] ひたち 旧国名。今の茨城県の大部分。常州。
  • -----------------------------------
  • 安達が原の鬼婆々
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  • [大和]
  • 榛原町 はいばらちょう 奈良県宇陀郡北西の町。2006年1月1日に宇陀市となり消滅。奈良県中東部に位置し、四方を山地に囲まれた高原都市。町の北部を近鉄大阪線や国道165号が横断する。宇陀地区の中心となる町。町内を流れる宇陀川・芳野川周辺の平坦地とそれを取り囲む山地で構成される。平坦地の部分でも海抜300m前後の標高をほこり、周囲の山は600〜800m級のものである。位置としては大和高原の南端に位置する。
  • 足立 あだち 村名。現、奈良県宇陀郡榛原町大字足立。芳野川西岸、高塚村北方に位置。
  • [武蔵]
  • 足立郡 あだちぐん 武蔵国にかつて存在した郡。概ね、現在の荒川と綾瀬川にはさまれた区域に相当する。廃藩置県後、府県の整理・統合によって当郡の南部は東京府、中部から北部は埼玉県の所属となった。
  • [豊前]
  • 企救郡 きくぐん 豊前国の郡の一つ。明治維新期の廃藩置県当初は小倉県に属し、1876年以後は福岡県に属した。現在の北九州市小倉北区・小倉南区・門司区・八幡東区の東側に相当する。
  • 足立村 あだちむら 村名。現、福岡県北九州市小倉北区山門町・足立・足原。熊本村の南東、足立山西麓に位置する。中津街道脇道が通る。小倉北区は北九州市の中央部北側に位置する。
  • [みちの国]
  • 名取郡 なとりぐん 陸前国(旧陸奥国中部)・宮城県にかつて存在した郡。 「和名抄」には「奈止里郡」とある。
  • 黒塚
  • 仙台
  • 秋保温泉 あきう おんせん 仙台市太白区秋保町にある温泉。泉質は塩化物泉。飯坂・鳴子と共に奥州三名湯の一つ。
  • -----------------------------------
  • 安達が原の鬼婆々異考
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  • [福島県]
  • 平町 たいらまち、か。旧、石城郡平町。現、いわき市。旧、平市地区。いわき市中央部東寄りにある。昭和12(1937)平町と平窪村が合併して平市が成立。昭和41年、4市と石城郡の7町村、双葉郡の2町村と合併していわき市となる。
  • -----------------------------------
  • 喜田申す
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◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本歴史地名大系』(平凡社)。




*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)
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  • 安達が原
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  • 八幡太郎
  • -----------------------------------
  • 八幡太郎 はちまん たろう (頼義の長子で、石清水八幡で元服したことからいう)源義家の通称。
  • 源義家 みなもとの よしいえ 1039-1106 平安後期の武将。頼義の長男。八幡太郎と号す。幼名、不動丸・源太丸。武勇にすぐれ、和歌も巧みであった。前九年の役には父とともに陸奥の安倍貞任を討ち、陸奥守兼鎮守府将軍となり、後三年の役を平定。東国に源氏勢力の根拠を固めた。
  • 八幡大神 はちまんだいじん → 八幡神
  • 八幡神 はちまんじん 八幡宮の祭神。応神天皇を主座とし、弓矢・武道の神として古来広く信仰された。やわたのかみ。
  • 源頼義 みなもとの よりよし 988-1075 平安中期の武将。頼信の長男。父と共に平忠常を討ち、相模守。後に陸奥の豪族安倍頼時・貞任父子を討ち、伊予守。東国地方に源氏の地歩を確立。晩年剃髪して世に伊予入道という。
  • 清原武則 きよはらの たけのり ?-? 平安後期の豪族。出羽の俘囚の長。1062年(康平5)源頼義を助けて安倍貞任を滅ぼし、功により鎮守府将軍に任ぜられ、安倍氏の旧領を併せ、奥羽の雄となった。生没年未詳。
  • 安倍貞任 あべの さだとう 1019-1062 平安中期の豪族。頼時の子。宗任の兄。厨川次郎と称す。前九年の役で源頼義・義家と戦い、厨川柵で敗死。
  • 安倍宗任 あべの むねとう ?-? 平安中期の豪族。頼時の子。貞任の弟。鳥海三郎。前九年の役で源頼義と戦って敗れ、いったん京都に連行されたが、のち大宰府に移され、出家。松浦党はその後裔という。生没年未詳。
  • 藤原頼通 ふじわらの よりみち 992-1074 平安中期の貴族。道長の長子。宇治関白。後一条・後朱雀・後冷泉の3天皇52年間の摂政・関白。のち太政大臣、准三宮。宇治に平等院を建てて閑居。
  • 大江匡房 おおえの まさふさ 1041-1111 平安後期の貴族・学者。匡衡の曾孫。江帥と称。後冷泉以下5代の天皇に仕え、正二位権中納言。また白河院の別当として白河院政を支えた。著「江家次第」「本朝神仙伝」「続本朝往生伝」など。その談話を録した「江談抄」がある。
  • 清原真衡 きよはらの さねひら ?-1083 平安時代後期の豪族。清原氏の全盛期を築いた。(人レ)/奥州の豪族 清原武貞の子。延久年間に行われた延久蝦夷合戦などで活躍し鎮守府将軍従五位下であったとの史料がある貞衡と同一人物であるとの有力説がある。武貞の死後清原氏を嗣ぎ、出羽国の国司であった平氏の一門、平安忠の次男と言われる成衡を養子に迎えた。
  • 清原家衡 きよはらの いえひら ?-1087 平安後期の豪族。清衡の異父弟。1083年(永保3)清衡と共に兄真衡の館を焼く。源義家が陸奥守となって来たが、これに従わず、金沢柵に拠って防ぎ、討死。
  • 清原武衡 きよはらの たけひら ?-1087 平安後期の豪族。武則の子。兄の子家衡を助けて金沢柵に拠り、源義家の大軍に囲まれ兵粮攻めにあい、柵は陥落し、捕殺。
  • 観修 かんしゅう/かんしゅ 945-1008 平安時代中期、天台宗の僧。(人レ)/勧修と書くものもある。姓は紀氏、左京の人。987年、藤原道長のために修法したところ十年たらずの間に左大臣に栄進したので、道長の帰依を受けるようになった。997年、三井寺長吏となり、1000年3月、道長の病の平癒を祈って僧正、同年8月大僧正となった。1002年、道長が岩倉に解脱寺を建てると、これを観修の門徒に付属した。(国史)/解脱寺の坊主。
  • 安倍晴明 あべの せいめい 921-1005 平安中期の陰陽家。よく識神を使い、あらゆることを未然に知ったと伝える。伝説が多い。著「占事略決」
  • 忠明 ただあきら 医者。
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  • 安達が原の鬼婆々
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  • 平兼盛 たいらの かねもり ?-990 平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。従五位上駿河守。家集「兼盛集」
  • 源重之 みなもとの しげゆき ?-1000頃 平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。左馬助・相模権守。旅の歌人で、冷泉天皇が東宮のときに帯刀先生として奉った百首は現存する最古の百首歌。家集「重之集」
  • 常忠の君の女
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  • 安達が原の鬼婆々異考
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  • 喜田申す
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◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)
  • 奥州安達原 おうしゅう あだちがはら 浄瑠璃。近松半二ほか合作の時代物。1762年(宝暦12)初演。前九年の役後、安倍貞任・宗任兄弟が再挙に苦心することと、能の「安達原」の鬼女伝説と「善知鳥」とを配合して脚色。3段目切「袖萩祭文」、4段目切「一つ家」が名高い。後に歌舞伎化。
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  • 安達が原
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  • 八幡太郎
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  • 安達が原の鬼婆々
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  • 『大和物語』 やまと ものがたり 平安時代の物語。作者未詳。951年(天暦5)頃成立、以後増補か。170段余の小説話から成り、前半は伊勢物語の系統をひいた歌物語、後半約40段は歌に結びついた伝説的説話の集成。
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  • 安達が原の鬼婆々異考
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  • 喜田申す
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◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*難字、求めよ

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  • 安達が原
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  • 野末 のずえ 野のすえ。野のはて。
  • 行灯 あんどん (1) 木などの框(わく)に紙を貼り、中に油皿を入れて灯火をともす具。室内に置くもの、柱に掛けるもの、さげ歩くものなどがある。あんどう。紙灯。
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  • 八幡太郎
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  • 弓勢 ゆんぜい 弓を引き張る力。弓を射る力の強さ。
  • あらえびす 荒夷。(都の人が野蛮な東国人を指していった語) (1) 荒々しい人。(2) 荒々しい田舎武士。東国武士。
  • 牛車 うしぐるま 「ぎっしゃ」に同じ。
  • 鎮守府将軍 ちんじゅふ しょうぐん 古代、鎮守府の長官。その下に、副将軍・権副将軍・将監(のち軍監)・将曹(のち軍曹)・弩師・医師・陰陽師各一人を置いた。鎮東将軍。
  • おこり 瘧。間欠熱の一つ。隔日または毎日一定時間に発熱する病で、多くはマラリアを指す。わらわやみ。
  • 弓弦 ゆみづる 弓に張る緒。麻を撚り合わせ薬煉でねり続けてまとめたものを白弦といい、更にこれに漆を塗ったものを塗弦という。
  • 陰陽師 おんみょうじ/おんようじ 陰陽寮に属し、陰陽道に関する事をつかさどる職員。中世以降、民間にあって加持祈祷を行う者の称。
  • 加持 かじ (1) 仏が不可思議な力で衆生を加護すること。(2) 真言密教で、仏と行者の行為が一体となること。災いを除き願いをかなえるため、仏の加護を祈ること。印を結び真言を唱える。(3) 供物・香水・念珠などを清めはらう作法。
  • つまぐる 爪繰る。指先で繰る。
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  • 安達が原の鬼婆々
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  • 鬼筋
  • 詞書 ことばがき ことばを書いたもの。説明の文。(1) 和歌の初めに、詠んだ趣意を書いたことば。題詞。序。(2) 絵巻物で、絵と絵との間の説明の文。(3) 絵本の画中の人物のことばを書いたもの。
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  • 安達が原の鬼婆々異考
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  • 驥尾 きび 駿馬の尾。または駿馬の後方。
  • 驥尾に付す きびにふす [史記伯夷伝、注]蠅が駿馬の尾について千里も遠い地に行くように、後進者がすぐれた先達につき従って、事を成しとげたり功を立てたりすることをいう。蒼蠅驥尾に付して千里を致す。
  • 謡曲 ようきょく 能楽の詞章。また、その詞章をうたうこと。能の謡。
  • 口碑 こうひ (碑に刻みつけたように口から口へ永く世に言い伝わる意)昔からの言い伝え。伝説。
  • 会葬 かいそう 葬式に参会すること。
  • 嬰児 えいじ (1) 生まれたばかりの子。あかご。ちのみご。みどりご。(2) 生時から3歳位までの子供。
  • フツチ 老婆。
  • 尻馬 しりうま 人の乗った馬のうしろに乗ること。また、前を行く馬のうしろを行くこと。
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  • 喜田申す
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  • 先縦


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)『学研新漢和大字典』。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 五日(木)『山形新聞』より。天童若松寺、4日未明の強風で樹齢1000年以上といわれる杉の巨樹が根こそぎ倒れる。幹周り6.15m、高さ31m。位牌堂の屋根が壊れる。
 六日(金)ツバメ、倉津川に飛来。
 七日(土)吹雪。県立図にてDVD観賞、『海上保安庁が見た巨大津波と東日本大震災復興支援』Vol.1。7月までに360名を救助。
 八日(日)雪のち晴。若松寺へ行く。6:30着。倒れた開山杉を見る。
 十三日(金)スイセン、サンシュユ開花。キジムシロ、フクジュソウ、クロッカスが先週開花。

 小山慶太『寺田寅彦』(中公新書、2012.1)読了。ごくわずか長岡半太郎や石原純や地球物理学関係の記述あり。今村明恒は登場しない。

『図説福島県の歴史』(河出書房新社、1989.10)を読んで最初に目につくのは貝塚、古墳、横穴墓の多いこと。南相馬には真野古墳群・横手古墳群・桜井古墳(全長74.5m)、浪江町には狐塚古墳・堂の森古墳、そしていわき市に玉山1号古墳(全長100m)。
 
 復興構想会議のなかで赤坂さんや梅原さんが「鎮守の森」を提案。会津坂下には、ずばり鎮守森古墳がある。
 仙台平野や福島の浜通りのように平地ばかりで近くに高台がないところでは、メモリアルと津波避難場所をかねて巨大な古墳型高台を築くというアイデアを思いつく。1800年近い耐久実績があること。海岸線に正対しなければ、津波の力を分散できる可能性もあること。
 頂上部をグラウンドにすることで、平時の常時利用。緊急時にはヘリポート、避難物資配送拠点になる。

 インドネシア、メキシコ、福島沿岸と、地震あいつぐ。




*次週予告


第四巻 第三九号 
大地震調査日記(一)今村明恒

第四巻 第三九号は、
二〇一二年四月二一日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第四巻 第三八号
特集・安達が原の黒塚
発行:二〇一二年四月一四日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。




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