今村明恒 いまむら あきつね
1870-1948(明治3.5.16-昭和23.1.1)
地震学者。理学博士。鹿児島県生まれ。明治38年、統計上の見地から関東地方に大地震が起こりうると説き、大森房吉との間に大論争が起こった。大正12年、東大教授に就任。翌年、地震学科の設立とともに主任となる。昭和4年、地震学会を創設、その会長となり、機関誌『地震』の編集主任を兼ね、18年間その任にあたる。


中村清二 なかむら せいじ
1869-1960(明治2.9.24-昭和35.7.18)
福井県鯖江町(現・鯖江市)生まれ。物理学者。光学、地球物理学の研究で知られる。三原山の大正噴火を機に火山学にも興味を持ち、三原山や浅間山の研究体制の整備に与力。精力的に執筆した物理の教科書や、長きに亘り東京大学で講義した実験物理学は日本における物理学発展の基礎となった。定年後は八代海の不知火や魔鏡の研究を行なった。

◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店)。写真は、Wikipedia 「ファイル:Akitsune_Imamura.jpg」より。


もくじ 
地震の国(一)今村明恒


ミルクティー*現代表記版
地震の国(一)
   序 中村清二
   一、ナマズのざれごと
   二、頼山陽、地震の詩
   三、地震と風景
   四、鶏のあくび
   五、蝉しぐれ
   六、世紀の北米大西洋沖地震
   七、観光
   八、地震の正体

オリジナル版
地震の國(一)

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

※ 製作環境
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*凡例

〈 〉:割り注、もしくは小書き。
〔 〕:編者もしくは、しだによる注。

一、漢字、かなづかい、漢字の送りは現代表記に改めました。
一、若干の句読点のみ改めました。適宜、ルビや中黒をおぎないました。
一、和暦にはカッコ書きで西暦をおぎないました。年次のみのばあいは単純な置き換えにとどめ、月日のわかるばあいには陰暦・陽暦の補正をおこないました。
一、カタカナ漢字混用文は、ひらがな漢字混用文に改めました。
一、書名・雑誌名は『 』、論文名・記事名は「 」で示しました。
一、差別的表現・好ましくない表現はそのままとしました。

*底本
底本:『地震の國』文藝春秋新社
   1949(昭和24)年5月30日発行
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1578.html

NDC 分類:453(地球科学.地学/地震学)
http://yozora.kazumi386.org/4/5/ndc453.html




地震の国(一)



   序

 故今村博士の遺著が今度、文藝春秋新社から重版になって世に出るから序文を書けとのもとめである。君は、私のもっともしたしくまたもっとも尊敬する友であるから、よろこんで拙文を草した。
 君は鹿児島の出身で、明治二十七年(一八九四)に東京大学理科大学の物理学科を卒業された。これより先、田中館たなかだて愛橘あいきつ先生が四か年計画で明治二十六年に着手された、日本全国の地磁気ちじき測量の事業がある。明治二十七年度の事業に君は、まだ学生であったのにこれに参加されて、同年六月から君と二人で北海道測量南北二班の中の南班をひきうけて、われらは夏じゅう三か月にわたり、一種の探険旅行に似た仕事をした。君の筆になる、その一節は「野宿」として本書におさめてある。何にせよ、旅行は主として馬でテント生活をして辛酸しんさんを共にしたのであるから、それから君とは普通の交友とはちがい、もっとも親しい友となったのである。
 この地磁気ちじき測量の事業は、文部省震災予防調査会に属するのであるが、この会は明治二十四年(一八九一)十月の濃尾大地震の直後に、故菊池きくち大麓だいろく博士が政府に建議して議会において全会一致をもって可決されて設立された大事業である。同会で審議された諸問題は非常に多く、会名の示すごとく地震の発生はこれを阻止することはできないが、その災害はこれを軽減し得べきであるとして、耐震構造・土木工事などの諸方策の研究をはじめとして、地震そのものの研究、地震予知の研究を含んでいた。地磁気測量はこれによって、地殻の構造をさぐって地震予知に資せんとしたのである。
 君は大学卒業後も地磁気測量に参加されたが、陸軍中央幼年学校に教鞭きょうべんをとられるようになっても大学院における研究題目として地震学を選ばれ、東京大学の助教授・教授としては地球物理学の領域を畢生ひっせいの事業として、文字どおり脇目わきめもふらず志を専にして、けっして学問の他の分野に入らず斯学しがくのために節を守られたと称してよい。これ、私が君をもっともうやまうべき畏友ゆうとして尊敬する所以ゆえんである。世の学者の中には、学問の一分野より他の分野へと新を追い、流行に誘われて転々する人もあり、また、なかには往々、会社などの顧問となり他学校の教壇に立って有福に生活する人もあるが、君には決してさようなことはなかったので、君の清貧は古武士そのままであった。君は震災予防調査会が大正十四年(一九二五)一月に官制改革により廃止せられ、震災予防評議会と地震研究所とが設立せられ、さらに昭和十六年(一九四一)三月に評議会が廃止されるまで終始、委員として活動された。その後、有志の人と財団法人震災予防協会を設立して、事実上これを主宰された。しかして臨終の前々月まで毎月、帝国学士院において、古い地震に関する史料の研究を発表されたのである。
 学者としての君は上述のごとく地球物理学一点ばりの堅苦かたくるしい人であったが、世間人としてはまことに堅苦かたくるしからざる人であった。談論風発・洒々しゃしゃ落々らくらく、水泳に巧みに、将棋に長じ、詩を作り、書をよくし、かつ文筆に秀でられた。また、呂昇豊竹とよたけ呂昇ろしょうか。の門人としての君の浄瑠璃じょうるりは有名なものであった。学生時代に、物理学教室の常傭じょうようの木工に江戸時代の職人気質かたぎそのままの人があって、自身の気に入らぬ仕事はしてくれないので、学生は実験の準備を順調に運ばせるために同人の気に入るように仕事を依頼するのに少なからず苦心したものである。しかるに君は、昼食後の休憩時に小使部屋で同人と将棋をさし、勝ったり負けたり自由自在に局面を転換して同人をよろこばせ、同人のお気に入りになってしまわれたので、君の仕事は二つ返事でしてくれた。
 田中館たなかだて先生を中心として門人が集まって、昭和十八年(一九四三)九月、先生の米寿を祝した。その後同年の明治節の日、先生はその返礼として門人を自邸に招かれた。そのとき君は、生写しょううつし朝顔あさがお日記宿屋の段」を素語すがたりして先生をなぐさめたが、そのとき、無残むざんなるかな秋月の娘深雪は身につもる」から「なごりしさに泣々なくなくも心も跡にさぐり行く」まで、身ぶり首ふりして若い可憐かれんなる女性を躍如として現わし出した語りぶりは、今に忘られぬ光景であった。
 本書は君の麗筆れいひつの記念であって、読者はこれによって、心ゆたかに君の専念された地震学の一端を味あわれることと思う。
   昭和二十三年(一九四八)十一月
辱知じょくち  中村清二せいじ識  



   目次

 序 中村清二
 一、ナマズのざれごと
 二、頼山陽、地震の詩
 三、地震と風景
 四、鶏のあくび
 五、蝉しぐれ
 六、世紀の北米大西洋沖地震
 七、観光
 八、地震の正体
 九、ドリアン
一〇、地震の興味
一一、地割じわれの開閉現象
一二、称名寺の鐘楼しょうろう
一三、張衡ちょうこう
一四、地震計のえん
一五、初動の方向性
一六、白鳳大地震
一七、有馬の鳴動
一八、田結村の人々
一九、災害
二〇、地震毛と火山毛
二一、室蘭警察署長
二二、ポンペイとサン・ピエール
二三、クラカトアから日本まで
二四、役小角と津波
二五、防波堤
二六、「稲むらの火」の教え方について
二七、三陸津波の原因あらそい
二八、三陸沿岸の浪災復興
二九、土佐と津波
三〇、五徳の夢
三一、島陰しまかげうず
三二、耐震すなわち耐風か
三三、地震と脳溢血のういっけつ
三四、関東大震火災の火元
三五、天災は忘れた時分にくる
三六、大地震は予報できた
三七、原子爆弾で津波は起きるか
三八、飢饉ききん
三九、農事四精
四〇、渡辺先生
四一、野宿
四二、国史は科学的に
四三、地震および火山噴火に関する思想の変遷
四四、地震活動盛衰一五〇〇年

装丁そうてい 芹澤�M介〕  


地震の国(一)

今村明恒


   一 ナマズのざれごと

 地震に関して旧日本から明治時代に伝えられたものの中に、ないという言葉と地震ナマズの説というものがあった。
 ないという言葉は、われわれも幼年時代に使った経験がある。古代においては単に地面あるいは大地を意味し、それにゆるとかふるとかいう動詞をそえてはじめて地震の意味になったものが、後世に至って、土地あるいは大地などという外来語がないに代用されるようになったので、ないは地震に独占されてしまったのだといわれている。またこの言葉の沿革は、ちょうどギリシャ語のセイスモスと同じだという人もある。
 とにかく、ないという言葉はすでに過去のものとなった。されば地震ナマズの説というのも、これと同様に、葬り去ってもよいものであろうか。つぎにいささか検討してみる。
 地震ナマズの説は、元禄・宝永のころ(一六八八〜一七一一)に生まれたとの説がある。また建久(一一九〇〜一一九九)古暦これきにえがかれてある地震の虫に胚胎したのだともいわれている。さすれば日本の地形にもとづいて編み出された思想であったかもしれない。
 ケンペルは地震ナマズの説を誤り伝えて、地震クジラの説とした。数年前、ニース・マルセイユ間の汽車の中で、フランスの一少年が、この説を提げてきて、われわれを悩ましたことがあったが、これもその根源はケンペルの『日本記事』『日本誌』か。にあるのだなと思った。
 地震ナマズの説は、当初単に架空的のものであったかもしれない。ただし自然物に対する江戸時代の鋭い観察眼は、ついにこの説のためにある根拠らしいものを築き上げてしまったのである。
 地震予知は古今東西の難問題である。旧幕時代においてもこれに手をめた人は少くなかったらしい。たとえば安政の江戸地震後、磁鉄が磁性を失うとの仮定のもとに、地震警報器を考案した人もあったくらいである。この仮定が観察の結果に立脚したのであったならば、そこには錯覚があったに相違ないが、ただし、もし推測にもとづいたのであったならば、それはかならずしも軽視すべきものでもあるまい。明治二十五年(一八九二)震災予防調査会設立当初、専門家は、地震前における地磁気ちじき分布の異変に注意して、これが調査に着手したが、それが今なお続けられている状態である。
 つぎに注意をひいたものに、動物の地震に対する予感ということがあったろうが、古人は種々の動物につき、丹念にこの性能を調べてみたに相違ない。そして厳査の結果として及第したのがキジとナマズとであったろう。
 ただし、結局は失敗に帰した。少なくも成功ではなかった。これは受感性の鋭敏えいびんさを予感だと誤認したためであった。
 つぎに上記の部類に属すべき動物を列挙してみる。
 人は万物の霊長である。ただし五官は知能の発達に逆行して漸次ぜんじに退化してしまった。そしてそのなごりを今なお留めているのが原始人である。たとえば、黒人の嗅覚きゅうかくの鋭さは数町先の人をかぎわけ、砂漠人の視力の鋭さは、幾里先の人が近寄ちかよってくるのか遠ざかっているのかを見分けるがごときそれである。
 獣類に聴官ちょうかん嗅覚きゅうかくのすこぶる鋭いもののあることはよく知られている。
 キジは地震の予感を持つよう今なお信じている人があるくらいだが、この問題は、とくの昔、故関谷博士によって解決されている。それによると、世俗、地震前にキジが鳴くように思うのは誤りで、その鳴くときには、地震の初期微動がすでに到着しているのだ。ただ人間は鈍感なため、微弱な初期微動を感知せず、幾秒間の後、主要動の到着によってはじめて地震たるをさとり、前のキジ鳴きを予感のためだと独断したにすぎないのである。この問題の解決のために、博士は、永年キジを飼育して、その地動報告と地震計の観測とを比較してみたが、その結果、キジは十倍地震計よりも鈍感だということがわかった。加之しかのみならず、この鳥は、地動の全然ないときにも鳴き出すことがあるから、地動報告者としては、比較的に鈍感でかつ不忠実だという折り紙をつけられてしまった。
 かく鈍感なキジでも、人間に比較すればはるかに敏感である。ただに地震に対してのみならず、空振くうしんに対してもそうである。これはキジの動物本能である。元来飛翔力の弱い鳥のこと、もし振動に対して鈍感であったならば、たちまち生命の破滅であろう。それゆえに振動に対する受感性の発達したものだけが生き残り、かくして自然淘汰によってこの本能がますます顕著となったのである。
 つぎに魚族を検討してみる。
 魚もまた振動に敏感な生物である。動物学の書物にはこんなことが書いてある。体側には側線そくせんという特種な小感覚器が並列している。この作用は確実にはわかっていないけれども、水圧の変化・水の振動・音響・電流などの刺激をこれで感知するものらしいというのである。
 大地震の前幾日間、湖海こかいの魚が異常の状態を示したとの報道は、じつに枚挙にいとまがないが、つぎに数例をひろってみる。
 大正十二年(一九二三)関東大地震のとき、相模湾では数日前から魚が釣れなくなったとは、当時、湘南一帯に唱えられていた。同時に沖の方では鳴動が聞こえ、陸の方では井水せいすいにごったといわれている。
 昭和二年(一九二七)丹後大地震のとき、地震前に、魚が取れず、死魚を見て帰ってきたなどと語られていた。
 明治四十三年(一九一〇)七月二十五日、有珠岳爆発に先だつ六日、すなわち十九日以来、洞爺湖とうやこにおいては魚が釣れなくなり、そして二十二日以来、爆発の前兆たる小地震群が人体に感ずるようになった。
 男鹿大地震に関し、文化七年(一八一〇)のときは八郎潟では数週間前からボラが多く死んで浮かんだことが記してある。このとき、湖底から石油が滲出しんしゅつして浮かんだが、これとボラが群れをなして水面に浮かぶ習性とを結びつけて、他の魚族が無難であったにかかわらず、ボラだけが死んだ理由がわかるような気持ちがする。また去る昭和十四年(一九三九)五月一日の大地震のときにも、同じ湖において、前日にこいやフナが多く漁獲され、ことに東北沿岸においてはフナの大群が岸近く押し寄せてきたといわれている。海の方でも同じように、魚族の異常が観察されたが、ことに興味深く感ぜられたのは、イイダコと称する小柄こがらなタコが、酔ったようになって、続々と陸にあがってきたことである。これは、男鹿半島の南部では当日午前中(地震は午後三時ごろ)、半島の北方八森はちもりにおいては前日午後から当日午前に至るまで見られたのであった。
 このほかにも、大震前に種々の魚族の群れが、震原に近い海域を逃避したとか、またまれには、集まってきたとか、いろいろにいわれているが、筆紙を費やすほどでもなかろう。
 要するに、大地震あるいは火山爆発に先だって、魚類の生活状態に異常をきたすことは疑いの余地もなく、またこれが、大異変の前兆としての、地球物理学上の微細な異変にもとづくことも、争われない事実のようである。そうして今日われわれが想像しうる上記の前兆としては、人体あるいは普通の地震計に感じない程度の微震鳴動、水の流れや水温の異変、地下水の流出異常、ことにそれにガスや鉱水が加わること、水界にまで伝わってくる地電流ちでんりゅうの異変などがある。
 最後にナマズを登場させる。
 ナマズは凡百ぼんぴゃくの魚族中、各種の刺激に対してもっとも敏感なものとされている。あの長い四本のひげ(外国産には六本のものがある)は触角の用をなすのみならず、その特徴のある肌色をなす側線は異常な発達をとげ、身体の外部はすべて神経でつつまれているといってもよいくらいである。
 ナマズは陰魚である。日中はあくたや泥の中にひそみ、夜陰やいんに乗じてえさをあさる。神経系統が異常な発達をとげた所以ゆえんである。されば昼間これを漁獲することは困難であり、また自身にかくれ家を出てくることもないはずであるが、しかるに大地震前においてこの習性を裏切った例はすこぶる多い。江戸時代の文献を引用するのはあまりにわずらわしいから、余は、これに単に、大正十二年(一九二三)九月一日、関東大地震前一両日に経験された、なまなましい二例をあげることにする。

 赤司あかし鷹一郎たかいちろう(元文部次官)は東京向島むこうじまの一料亭において、池の面に頻々ひんぴんと飛び上がる小魚を見て、何魚かと問うたところ、小ナマズですが、二、三日前からあの通りです。不思議なことですとの答えであったそうだ。
 柴垣鼎太郎氏(文部省建築課長)は大地震の前日、鵠沼くげぬま海岸の池で、投網とあみによって、ナマズの大漁獲をなした。一尺大のもの、バケツ三杯分あったとのこと。

 かような事実を数多く経験・観察したならば、古人ならずとも、ナマズの地震予感説を創作するに違いない。ただし早まってはいけない。畑井博士の実験談を聞くことにする。
 実験材料としては成魚よりも四、五寸大の幼魚の方がよい。これを四、五匹水槽内に入れておくと、昼間はあくたの中にひそんでいるが、これに各種の刺激を与えてその受感度を検査するのである。その結果、

 もっとも敏感な状態にあるときは、きわめて軽微な衝撃あるいは音によっていっせいに水面に飛び上がり、あるいは微弱な電流によってもおどり狂う。
 やや敏感な状態においては、刺激によってかくれ場所からわずかに飛び出すがふたたび元にもどる。
 やや鈍感な状態においては、わずかに尾鰭おひれを動かすだけである。
 もっとも鈍感な状態においては、いかに強い刺激を与えても微動だもしない。

ということがわかった。
 つぎに実験されたのは、かような受感度の相違と地震発生との関係であるが、小ナマズが敏感になるのはおおむね地震の近きを意味し、鈍感は当分地震なしを意味するというのである。
 実験はさらに進められた。すなわちそれは小ナマズの受感度の変化と、地電流ちでんりゅうの変化との因果関係についてなされたのである。
 元来、電流はきわめて微弱ながら自然に、いずれの場所にもたえず地中を流れており、それが流水あるいは止水しすいにも伝わるのであるが、その強さは時々刻々に変化するのである。実験の結果、小ナマズが敏感となるのは地電流の強さの変化が急激かつ頻繁ひんぱんにおこるときであり、鈍感となるのは変化が皆無あるいはきわめて緩徐かんじょなときであることがわかった。けだし、前の場合は、地殻内のゆがみに異常変化のあることを意味するのであろう。
 かような実験結果を承認するとき、過去の文献に現われたナマズと地震との関係がすべてあきらかにされる感がある。
 地動報告者として、キジは地震計におよばない。地震予感者として、ナマズは地電流計にその席をゆずるべきであろう。
 ちなみに記しておく。動物が微動に左右せられる以上、強い振動によってはなおさらそうでなければならぬ。深海魚が浮き袋の調節を失って浮き上がるもあり、マグロのような暖流魚がとまどいして見当ちがいな海に逃け込むこともある。トビやカラスは空振くうしんのために地上に墜落し、臆病おくびょうな馬はそろって脱糞だっぷんするなど種々さまざまである。
 ナマズ笑っていう、「万物の霊長はいかん。」霊長こたえていう。「よし、白状する。われらの中には、馬にもおとらず、地震のたびごとに手洗所にけ込むものもあるよ。

   二 らい山陽さんよう、地震の詩

 文政十三年(一八三〇)七月二日、京都に大地震があって、死者一五〇人(あるいは二八〇人とも)におよび、そのために年号は天保と改まった。当時、山陽の居は京都鴨川縁三本木さんぼんぎにあったが、山陽自身は広島へ帰省中であったとみえ、京都大震災の郵報ゆうほうに接し、家族八人の安否をよほど心配したらしく、その悶々もんもんの情を詩に託して、これを在大阪の友人篠崎しのざき小竹しょうちく(字は承弼)に送ったのが『山陽書簡集』にっている。一世の文豪の地震観も珍とするにるが、余がことに興味を感ずるのは、むしろその追書おいがきの方である。
 地震ナマズの戯画は、安政大地震の際にはすこぶる跋扈ばっこしたものだが、この説はさほど古いものではなく、元禄・宝永ごろ(一六八八〜一七一一)に始まったという説もある。新城博士新城しんじょう新蔵しんぞうか。によれば、現今わが国に流布している家相説は天明・寛政(一七八一〜一八〇一)以後の作であるとのことだが、あるいはかかる迷説の作者がこの時代に輩出したのかもしれない。とにかく、地震ナマズの説はすでに文政年間(一八一八〜一八三〇)に流布していたことだけは確実である。
 山陽の書には判読しにくい点があったが、高楠・宇野両博士に読んでもらい、了解したままこれをかな交じり文にしたのが次のとおりである。

郵籤ゆうせん京事を報ずらく、変故未曽有。
今月初二日、地震申より丑に至る。
あるいは曰く三夜に連なると、前を聞きいまだ後を審にせず。
九陌きゅうはく啼哭ていこく沸き、十室に八九を壊る。
家をたずさえて街衢がいくをはかり、墜瓦左右にうずたかしと。
家人一字なく、東望十たび首をく。
おもうわが家は鴨崖おうがい稚子ちしは弱婦による。
相ひいて沙中さちゅうに避くらん、またおそ居守きょしゅなきを。
石岸応にことごとく崩しなるべし、ただあます露根ろこんの柳。
河水深くかつあふれつらん、知らずよく逃走せしか。
大児はなお�掲れいけいしけん、小児はに付して負わしめしか。
糴価おもうに騰躍とうやくし、苦辛八口やつくちを糊すらん。
づ一家の憂に任じ、患難かんなん援手せざるを。
災黔黎けんれいにこうむる、これわれひとり受けんや。
阪城余震および、江都こうと定めて安否。
天明の如くなるきを得んか、饑民きみん起こって相ふむること。
天数周またあり、下土かど誰かとがに任ぜん。
あおぎみる雲は北にはしり、海雨龍は吟吼す。
耿々こうこうたる杞人きじんの心、長歌いて缶をつ。

七月九日広島にあり、京報大異を聞き、夜寝ぬるあたわず、枕上ちんじょうについてこれを作り、いささかもってもんる。

録して
承弼老友に似す。京中従遊の士に転致せよ。山妻さんさい不識、あるいは解説して聴かしむべきのみ。
のぼる   

 尾にさらに数句あり。いわく、
大魚坤軸こんじくを負う、神ありその首をあんず。
ややおこたればすなわち掀動す、すなわちあるいは酒に酔えるなきか。
ほっすひとたび醒悟せいごし、危を鎮めてその後を善くせんことを。
もって蛇足となして剪去し、加うるに雲雨の二句をもってす。


   三 地震と風景

 大地震にともなう地変ちへんによって滄桑そうそうの変のおこるようなことはありがちだが、これがため、天下の名勝が一朝にして失われたり、また反対に、凡景がかえって勝区しょうくとなることもある。前者の例としては出羽の象潟きさかたのごときがそのもっとも著名なものであり、西津軽の大戸瀬おおどせ・小戸瀬のごときもまたこれに加えて可なるべく、また後者の一例としては、同じく西津軽の十二湖じゅうにこをあげてよいであろう。
 象潟きさかたは古来、東北一の絶勝ぜっしょううたわれていた。湾の径およそ三キロメートル、これにきよらかな海水をたたえ、九十九島・八十八潟があり、島には奇石怪巌かいがんそばだち、風致ふうちある翠松すいしょうこれをおおい、嫋々じょうじょうたるネムノキその間を点綴てんていし、水の深さ平均およそ一ひろ、大小の魚族はすくえそうに遊泳していた。昔から雅客がかくの杖をひいたものは少くなく、能因のういん法師のごときは三年も滞留したといわれている。法師の歌に、

世の中は かくても経けり きさかた海士あま苫屋とまやを 我宿にして

というのがある。また最明寺時頼ときよりは、

象潟きさかたと 思いしほどは いそがれて 帰す涙に そでぞぬれける

と歌い、西行さいぎょう法師はかくも詠じた。

きさかたの 桜は波に うずもれて 花の上こぐ 海士あまのつり舟
松島や おしまの月も 何ならん ただ象潟きさかたの 秋の夕ぐれ

ただしなんといっても、象潟をして絶勝の名をますます高からしめたのは芭蕉の文章であろう。

江山こうざん水陸の風光数をつくして今、象潟に方寸ほうすんむ。酒田の港より東北の方、山を越え磯をつたい砂子いさごをふみてその際十里ばかり、日影ひかげやや傾くころ、汐風真砂まさごを吹き上げ、雨朦朧もうろうとして鳥海山ちょうかいさんかくる。
「暗中に模索して雨もまた奇なりとせば、雨後の晴色もまたたのもし」とあま苫屋とまやひざを入れて雨の晴るるを待つ。

(筆者注。暗中云々うんぬんの出典をあきらかにし、かつ後文にある俳聖の名句を玩味がんみせんがために、蘇東坡とう西湖の詩「飲湖上初晴後雨」を掲げる。

水光瀲れんえん晴方好  山色空濛くうもう雨亦奇
若把西湖西子 淡粧濃抹総相宜)

 そのあした天よく晴れて朝日はなやかにさし出るほどに、象潟に舟をうかぶ。まず能因、島に舟をよせて三年幽居の跡をとぶらい、向こうの岸に舟をあがれば「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行上人のかたみをのこす。江上に陵あり、神功皇后のお墓という。寺を干満寺蚶満寺かんまんじという。ここに行幸ありしこといまだきかず、いかなるゆえにや。
 この寺の方丈に坐してすだれをまけば、風景一眼の中につきて、南に鳥海山ちょうかいさん天をささえ、そのかげ江にうつりて西はむやむやの関路をかぎり、東口塘を築きて、秋田に通う路はるかに海北にかまえ、波打ち入るところを汐越〔塩越。という。江の縦横一里ばかり、面影おもかげ松島にかよいてまた異なり、松島は笑うが如く、象潟はうらむが如し。さびしげに悲しみを加えて地勢魂をなやますに似たり。
 象潟や 雨に西施せいしが ねむの花』

としてある。けだし、ねむの花によって唐美人を連想し、その代表者として西施せいしをかつぎ出し、坡仙の西湖の詩を引用して晴雨の両景をうたったのであろう。
 かような絶景が、文化元年(一八〇四)の大地震にともなえる陸地隆起のために一夜にうしなわれたのであるが、このときの隆起は、象潟では二二メートルほどであった。その後、開墾かいこんされて一面の水田ができたが、しかしながら十数個の島嶼とうしょは昔のままに、地域全体が天然記念物として保存されることになり、今なお捨てがたい風情ふぜいを残している。とくに五月雨の頃、一面に水をたたえると、島々が水面上に浮かび出し、往時をしのばしめるものがある。

象潟や そのおもかげの 皐月さつきころ   枯萍

というのもある。
 大戸瀬おおどせ・小戸瀬は西津軽西北隅の一勝地である。二見浦ふたみがうら夫婦岩めおといわ矮小わいしょうなのに失望した人は、おそらくこの津軽の夫婦岩の雄大きさに堪能したであろうが、しいことには、寛政四年(一七九二)の大地震で土地が二二メートルほど隆起したため、今はその台座である千畳岩千畳敷せんじょうじきか。とともに、往時の面影おもかげを留めているのみである。
 十二湖は西津軽の南西部僻陬へきすうの地にあって、これまで世間に知られずにいた。これはさもあるべきこと。元来、西津軽自身が本州の北端陸奥国の中でも一方に偏し、交通不便な土地柄なうえ、十二湖はさらにその山奥に位しており、しかもその名前もこのごろつけられたに過ぎないというのだから、余のごとき、二十年前その近辺を旅行しながら、これを看過かんかしたのもむしろ当然であった。しかるに近年になって、鉄道は海岸にかれ、自動車道路も開けたうえ、世間の山岳熱も高まってきたので、この山間の一勝区がとみに明るみに持ち出され、特にこの場所に氷河の遺跡まであるというので、その名が学界にまで喧伝けんでんされるに至った。
 余は、宝永元年(一七〇四)能代のしろ地方大地震にともなえる陸地変形、とくに沿岸隆起の状態を調べるため、去秋、同人諸氏とともにこの地方の沿岸を彷徨ほうこうした。調査は順調に進捗しんちょくして、当時の模様を彷彿ほうふつすることができたが、ここにはこれを省くことにする。
 陸地測量部「五万分一地形図・深浦ふかうら区」を展べると、そこに異様な地形が観察される。すなわち岩崎の東南六キロメートルぐらいを中心とし、直径三キロメートルぐらいの円内にその十二湖が見い出されるのである。地図では十五個の湖が数えられるが、そのうち、もっとも奇なるは、区域の北境をなす円周上に並列している七個の湖である。俚俗りぞくこれを七ツ池と呼んでいる。
 余らは、ある朝、この勝地に登るべき岐路きろに立っていた。おそらく地元か、あるいは近県かの観光団であろう。およそ七、八十名の人数が十二湖の石門にかかろうとしていた。もし天気がよかったら、余らもあるいはそちらへ誘惑されたかもしれないが、あいにく寒風吹きすさみ、ときどき驟雨しゅううがくるので、あきらめてしまった。したがって十二湖の風光に関する余が知識はすこぶる貧弱なもので、ただわずかに絵ハガキによってその貧弱さをおぎなったにすぎない。
 上記の宝永地震は、この地方に大規模の山くずれを惹起じゃっした。くずれ出しは黒森山の八合目であって、泥流は、現在の十二湖の境域をおおい、東北は新谷川に、南は小峯沢に達し、材木伐採者六名、まき取り四名が犠牲となった。事変後およそ二週間目の調書によれば、この地域から流れ出る渓流が、いずれも水れになったとあるから、この期間に、十五湖中少なくもその大部分が生成されつつあったことが想像される。
 十二湖の地域に氷河の遺跡があるとの説は上に記しておいたが、その真偽は余にはわからぬ。ただしこれに一言したいのは、上記大規模の山くずれによって、岩面には一種の掻痕かきあとのこされるはずだから、これが無視されないようにということである。

   四 鶏のあくび

 ある老子爵、耳がよほど遠くなったのに、自分ではさほどに思っていなかった。その言い草がふるっている。
「世の中がだんだん開けるにつれ、鶏までが進化しおる。
というので、どうしてですか? とうかがいを立てると、
「あれ見よ、鶏があくびをしているではないか。
という。見ると、なるほど雄鶏があくびをしているように見えるが、じつは一生懸命に声をはりあげて高鳴きをやっているのであった。
 このごろ独善という言葉が流行しているが、子爵のようなのは、その逸品として嘆賞に値するものであろう。
 これに似た話。あるところに、地震に非常に敏感だと自称する男がいた。ただしそのじつ、彼氏の住んでいる家がヨロヨロしているので、地震に敏感なのは彼氏ではなく、家屋それ自身であったのだ。
 彼氏、その後、家屋を新築するとき、耐震構造にしたいというので、余のところに相談にきた。そこで余は、素人しろうと向き耐震構造の秘訣ひけつを彼氏に授けてやった。
 わが家の耐震、筋違すじかい方杖ほうづえ、火打に金物。
というのである。彼氏たちまち会得えとくして、造り上げたのが二階建て木造家屋。まことに耐震的にできたのだろう。かの五重塔や、名古屋城の振動検測で有名な斎田理学士が、この家の震動振りを検査してみると、普通ならば、二階は地面の三倍ぐらいにゆれるのに、この家は両方が同じにゆれる。すなわち耐震構造の理想型だというのだ。彼氏たちまち得意になり、
「近ごろ我輩わがはいは地震に鈍感になった。これひとえに耐震構造に住まっている結果だ。
と、しきりにふれまわっているのだ。口さがないものがこれを聞いて、
「それがすなわち君の独善というものだ。地震に鈍感になったのは、家屋のせいばかりではなく、君もまた老いぼれてしまったからだ。
と。
「なるほど。
と言っただけで、彼氏は考えこんでしまった。

   五 蝉しぐれ

 昭和四年(一九二九)真夏のある朝、余は大久保の寓居で庭掃除をしていた。日光はさんさんと差しこみ、蝉しぐれはやかましく聞こえている。「今日もまた暑いかな」などとつぶやいていると、突然屋内から「電話です。帝国ホテルから。英語ですからさっぱりわかりません。早く早く。」という。出てみると、北米某新聞の婦人記者だという。「世界巡遊の最後の日程が日本であり、日本における最後のが東京であって、東京の最後が地震学教室である。しかも今日、横浜解纜かいらんの船に乗るので、あますところ数時間しかない。夏休み中とは万々承知しているが、まげて出勤してくれないか。教室を見せてもらうばかりでなく、いろいろ質問したいことがあるのだ。」という。いかにも真剣らしいので快諾かいだくむねを答え、いそいで大学へと向かった。
 午前九時。先着していたパイパー夫人は、余が来るまでの時間を利用して、助手君に標本室を案内させていた。挨拶あいさつもそこそこに、何時までここにいれるかを問うと、「正午上船するのですが、何時までいれるでしょうね?」とかえって反問するのだ。「ホテルはどうしました?」と問えば、「もはや引き上げてきて、荷物はこれかぎり。」と小さな手提てさげを示し、「ここからまっすぐに船に行くだけのことです。」という。「それなら十時半にここを出発するようタクシーを呼び寄せておきますから、それまでの一時間半にあなたが満足されるようご案内いたしましょう。が、何をご覧になりたいか、何を質問なさりたいか、まずそれからうかがいましょう。」といえば、「出しおくれましたが、ここにニューヨーク・フォルダム大学地震観測所長の紹介があります。同所の地震計はもとより、欧州の名ある二、三の地震研究所も見てまいりましたから、ありふれた地震計についてはもはや興味をもちません。ただ、あなたの設計されたという長週期地震計を見せてもらえばよいのです。フォルダムの観測所長からもそれを見落とさないようにと言いつかりました。ただそれだけです。
「そして質問したいというのは?」
「日本は震災国です。同時に地震学がもっともよく発達していると聞いています。したがってその震災を防止あるいは軽減する手段がよく講ぜられていると思いますが、それに関する概要をできるだけよくうかがって行って、本国へのみやげ話にしたいと思うのです。
「よくわかりました。
 これはすばらしい好質問だ。本邦の一般士人、とくに記者諸君に吹聴ふいちょうしたいほどの好質問だ。余は永年の学究生活中、かような好質問にかつて出会ったことがない。
 元来、日本人は質問好きなはずではなかったか。知識欲に燃えている国民だとは、嘉永安政(一八四八〜一八六〇)のころはじめて邦人に接した外人の観察であったのだ。オスボーン大佐の『日本近海巡航記』(一八五九年出版)には、こうしたためてある。

 長崎出島の一蘭人のところに、ある日、江戸から使者が到着して一つの質問をもたらした。気圧計の水銀柱の高さの毎時変化を記録するのに、写真をもってする方法はないかというのである。蘭人は、彼の本職とはあまりに飛び離れた質問に一時めんくらったが、写真術に関する著述などを渉猟しょうりょうして、とにかく、こうもやったらできるであろうという答案をまとめてこれを渡し、そして「ほかに何か大切なご用向きがおありでしょう。」といえば、使者はさえぎって、「いいえ、ただそれだけお尋ねするためにわざわざ派遣されたのです。」というのであった。

 今の日本人は質問することを忘れたのではないだろうか。否、そんなことはないはず。ただし、たまたまわれわれへの質問といえば、「地震の原因いかん。」とか、「地震とはなんぞや。」というような深遠なものか、そうでなければ「今日の地震は水平動でしたか? 上下動でしたか?」というような愚劣なものが多いのである。
 それはとにかく、このパイパー夫人の質問はたしかに及第点だ。そう感じると対者もまたおのずから真剣ならざるを得ない。
「それではご質問の答えに約一時間をあて、残りを地震計室のご案内にあてることにいたしましょう。
 こう応じておいて、余は順次につぎのようなことを説明した。
「震災の防止・軽減策は三本建にしている。すなわち、第一は耐震構造の普及方。これには、建築法規に耐震構造の実施に関する一項が加えてあり、これを実行している都市は現在某々地にすぎないが、じつは国内の市町村の全部にと希望している。構造物を耐震的にするにはしかじかの方法が講ぜられている。
 ここで「印刷中の稿本を見せると、そのガリ刷りでもよいからとて、それを押しいただいてすぐ手提てさげにおさめるという始末。
「第二は震災予防知識の普及。これは尋常小学校の国定教科書に一、二の文章を挿入することにより、おおむねその目的が達せられる。
「第三は地震の予知問題の解決。この問題を分解すると、地震の大きさの程度、そのおこる場所ならびに時期という三つになり、この三者をあわせ予知することが本問題の完全な解決となる。これは前の二つとは全然その趣きが別で、専門学徒に課せられた古今の難問題である。
 ここで彼女はすかさずくちばしをいれた。
「じつはその詳細がとくに聞きたいのです。事項別に説明してください。して、その程度とは?」
「さよう。現今、日本には若い優秀な専門学徒が輩出して、日夜研鑚けんさんしていますから、この難問題が三つとも一挙に解決されるかもしれません。がただし、それとは別に、われわれのごとく防災地震学に専念している者は、講究の目標を大地震にのみ限定しています。大きさの程度をわざとこうせまく局限しているのです。
「そして、その場所の察知は?」
「過去の大地震の統計と地質構造とによって講究された地震帯、磁力・重力など地球物理学的自然力の分布異状、とくに測地の方法によって闡明せんめいされた特種の慢性的・急性的陸地変形などによります。
「それから、いつ起こるかということは?」
「右の起こりそうな場所に網をはっておいて、大地震の前兆と思われる諸現象を捕捉ほそくするのです。
 パイパー夫人はなおも陸地変形による場所ならびに時期の前知方法の講究に関して、さらに具体的の例をあげるよう迫るので、余は南海道沖大地震に関する研究業績の印刷物をもってこれに応じておいた。
 やがて十時が鳴った。
「では、その三分半という長い週期の地震計を。
というので、運動場の近くにある等温室に案内したが、ここは割合に早くかたづき、なお暫時ざんじの余裕があった。
 夫人ははじめて我にかえったというふうである。周囲の鬱蒼うっそうたる夏樹立なつこだちかずながめているのだ。
 ここにもせみがやかましく鳴いている。
「こんな鳴き声の小鳥は私には初めてですが、何という鳥ですか?」
と問うのだ。
「それは翼を持っていますけれども鳥ではない、せみという昆虫です。
「なに、昆虫? 驚きましたね。昆虫ですか。姿が見たいこと。
 ブ、ブー。自動車が来たのだ。同時にせみが飛び出した。
「あ、見ました、見ました。……では、ごきげんよう。世界人道のためにあなたのご健康を祈ります。
といって、固く握手あくしゅするのであった。

   六 世紀の北米大西洋沖地震

 ある日、一葉いちようの外字新聞が余に届けられた。ニューヨークにあるブルックリン・デイリー・イーグル紙の日曜特集号である。見るとパイパー夫人の物した「島帝国の震災予防対策」というのが約一ページをうめている。日付はと見ると、一九二九年十一月十七日になっている。「ほう、あの珍しい大西洋大地震津波のおこった前の日ではないか。」震源はニューファウンドランド南方沖、欧米連絡の海底電線二十三本のうち十二本まで切断し、通信は一時不能となったというあの世界的大地震、津波も大きかった(が、人口希薄な場所であるため、死人は二十六人に止まった)というあの大地震。たしかにその前の日なのだ。
 元来、北米大陸の東側は大地震の少ない所とされているが、あのような大地震はことにその例にとぼしく、おそらく世紀の地震としてさしつかえないであろう。関係国民の驚きかたは想像にあまるものがあったにちがいない。
 まもなくパイパー夫人の手紙が届いた。「もし、あの特集記事に誤謬ごびゅうがあったらゆるしてください。ただし公刊の時期が、あの大地震津波の前日に当たったのは、私にしてはあやまちの功名でした。おかげで例になく多数の読者を得たようです。『あなたは震災対策の伝授を受けてきて、さっそくこれを試みたのではないか』などという質問を受けたくらいでした。」と、このようなことがしたためてあった。
 記事を読んでみた。なるほど誤謬ごびゅうが多い。地名のつづりかたの誤りはやむを得ないが、事柄にもかなり相違がある。これも余が外語の拙劣せつれつさによるのだと思えばあきらめねばなるまい。ただし、思い返した。もし国内の記者に邦語で解説しても、やはりあれくらいの誤謬ごびゅうはまぬがれないだろうと。そうだ。やむべきではない。
 『大法輪』の一記者は、余の外貌がいぼうをとらえて、「やや小柄こがらでまるまると太った」と形容している(同誌、昭和十四年(一九三九)三月号)。十八貫、五尺六寸の男を小柄こがらとはどうであろうか。しかるにパイパー夫人は「彼の握手あくしゅはていねいで、彼の話は友誼ゆうぎ的で、彼の英語は完全で」などと、赤面するほどのお世辞をあびせたあげく、「彼は肩幅広い大男で、身長は五フィート十一インチもあろうか」と評している。単純な有形物件に対してすら、こうも違うものである。

   七 観光

 昭和五年(一九三〇)、桜の日本をおとずれた一群の観光米人があったが、他の人たちが「結構けっこうな日光へ」というのに、一人だけは群れを離れて東京帝国大学をおとなうた。ヘボンという老婦人である。
 ヘボンという名は、明治前半ごろの英語学生には、かの有名な和英字書を通じて、なじみ深いものである。ただしここにいうヘボン夫人は、彼の親戚にあたるエー・バルトン・ヘボン氏の未亡人で、夫君は大正六年(一九一七)東大に米国憲法歴史および外交講座を設置するために十二万円を寄付したという由縁の深い人である。
 とにかく、東大にとっては大切な賓客ひんきゃくだというので、総長みずから乗り出して接待の順序を立て、上記講座の担任教授たる高木博士に市橋女史をつけて案内させ、地震学もよかろうとあって、余が教室の見学に二十分間割りあてた。
 外語につたない余が、このわずかな時間で、どうして相手の満足をかち得ようか。ただし市橋女史はその手記にこうしたためている。

 地震学にはぜんぜん門外漢である未亡人に、博士は、模型地震計を動かして地震計の原理をきわめて平易に説明し、自然の摂理というものか、地震動の大きさにはある限度のあることを、関東大地震・丹後大地震などの実例によって解説し、この限度にたえるように家屋を設計・施工すれば、いかなる地震にも安全になるのだ、という話をされる。

 最初、未亡人の聴聞は単に好奇的のものにすぎなかったようだが、しだいに熱をおびてきた博士の解説につりこまれて、時間は二十分をすぎたというのに出ようともせず、今度は「地震はどうしておこるのか」とせがまれるのだ。博士は、日本古来の伝説たる地震ナマズを捕らえ来てお客を笑わせながら、その長い睡りから覚醒かくせいして急に動き出すのが地震だとすると、それが動き出す前後に多少の身動きがあろうというもの、もしいわゆる地塊ちかいというものを古来の地震ナマズに置きかえたとしたら、それが地震の起こり方を彷彿ほうふつさせるであろうという。
 未亡人の最初の好奇的態度は、説明佳境に入るにしたがい、いつしか真面目しんめんもくと化し、感激となりおもわず四十分間を経過した。帰途、未亡人は、地震学をくり返しくり返し語りながら、その感想をらされるのであった。すなわち今まで無関心であったかくの科学は、人生に直接に大切なものたるをはじめて啓発されたこと。このことは彼女にとってまったく啓示(レヴェレーション)であったこと。博士の研究論文別刷はこれを母校に寄贈し、もしそこで地震学を教えていなかったならば、教えるように勧告しようということなどを語り、最後に、われわれは地震国に住むと否とにかかわらず、地震学を常識学としてぜひおさめておかねばならぬと結ばれるのであった。未亡人はおそらくこの考えで胸いっぱいであったのであろう。帰途、知人をうために女子英学塾へ立ち寄られたとき、開口一番、地震学科がこの塾の科目に入れてあるか否かを問うて人々を面食らわせたのであった。

 ああ、私ども女性はこの地震国に生まれ、朝夕地震に対する恐怖にとらわれながら、あたかも免疫にでもなったように、地震学に対しては興味もなく、無関心・無知識で満足しきっているではないか。私は今日半日、この外来の老婦人に親炙しんしゃし、そのいわゆる科学する心の真剣さにかんがみて、深く深く心に恥じるのであった。

 市橋女史の手記は余に多大な花を持たせてしたためてあるから、そのことに関するかぎり、かなり割引きをする必要があるが、ただし、その他、とくに最後の一節は、おそらく、女史が日本婦人に対する真剣な警告と見てよいであろう。

   八 地震の正体

 ある日、北米ピッツバーグ市のエスチングハウス電気工業所に英国の一老紳士が見学にきた。この人は、物理学界においてはニュートン以来の大家として世界的名声をせているのみならず、欧米間を結ぶ海底電線を最初に敷設した功労者として電気工業界にとっても大切な人物であるために同所では優遇のかぎりをつくし、場内残るくまなく開放して接待につとめたが、どうしたことか、説明役をうけたまわった技師にはその紳士の誰であるかが伝わらずにいた。したがって技師の眼に映じた紳士は、片足の少し不自由な、要領のよい、早わかりのする常人にすぎなかったのである。
 やがて場内の巡覧は終わった。紳士はくだんの技師に厚く謝していうには、
「あなたのご案内上手には敬服しました。難解なるべき事物をきわめて平易に説明してくださってありがとう。十分にたんのうしました。とてものついでにいま一つ質問したいことがあるのですが。
「はい、なんなりとも。
「あなたのご説明の中に電気という言葉がたくさん出てまいりましたが、その電気というのは何ですか? その正体がうかがいたいのです。
「エー、その電気とは……。エー、なんですね、エー。…………。
 技師先生は目を白黒(白青かもしれない)させて苦吟ぎんしているが、二の句が出そうでない。老紳士はついにふき出して、
「おゆるしください。私はあなたをからかったわけではありません。申しおくれましたが、私はケルヴィンです。じつは私自身にもその電気の正体というものはよくはわからないのです。したがってその説明がうまくできるはずがありません。しかし、世人はどうもすればそれを聞きたがるのです。私はそのたびごとに苦しむのです。私は今日あなたの通俗的な説明の巧妙さには、とても感服しましたので、あるいはあなたならばと心づきましたから、うかがってみたのです。」というのであった。
 この問答はわれわれのごとき地震の学徒にも貴重な教訓をあたえるものである。
 現今世界の物質的文明は、多くは電気の駆使利用に基づいていると称しても過言ではあるまい。そのことに関与し貢献した研究者も数多いことであろうが、ただしその人々の中に、電気の正体をケルヴィン卿以上につかんだ者がはたして幾人あったであろうか。
 地震学は今なお幼稚である。その幼稚なものを円熟した電気学に比較するのは無理かもしれない。ただし正体のわかりかねる物件ながらも、それを自由に駆使利用する点においては一脈相通ずるものがあるように思う。
 じつに地震の正体は地下深く秘められている。室内で実験して見るわけにゆかぬ。しいて実験しようとするならば、広漠たる原野を選ばなくてはならぬ。
 今、地下十数メートルの深さに数十キログラムの爆薬を封じてこれを爆発させたとすると、いわゆる人為地震が起きるのであるが、このものは、性質上ある種の天然地震に近いのである。昔の人は地震の正体を想像して、「火山爆発の地表までけ出ないのだ」といっていたが、そのようなものもあるらしい。ただし、それよりも性質のちがった天然地震もある。たとえば、各地における初動観測の結果から判断すれば動源は、地下の一部の横ずれであるとしか思われないものもあるが、これもその一つである。
 とにもかくにも、地震の正体はつかみにくい。ただしそこから出発する地震波はよく観測され、よく講究されているから、それを駆使利用することは容易である。すなわちそれが震災を駆逐くちくするにも役立ち、あるいは地下資源を探るにも役立つ。また、それをまねてキジを鳴かせ、もしくはナマズをおどらせることもできる。要するに、地震は、たとえその正体はつかめずとも、人生に交渉をもつ方面の講究をするにはたいした不便を感じないのである。
 ただし世間は、多くは根幹をかえりみないで末梢まっしょうを追うものである。
 これもその一つ。
 時は昭和四年(一九二九)、われわれは震災予防の常識の普及に役立つ一文を尋常小学校教科書に入れるようにと当局に懇請こんせいしていたが、なんら反響のないのに呆然ぼうぜんとしている頃のこと。
 東京放送局から「地震はどうして起こるか」という題をもらった。子どもの時間に放送するためである。余はかねての持論として、いったんはこれをことわろうかとも思ったが、ただし思い返した。むしろこの機会を利用して、たとえ題目とは多少あわないでも、児童にふさわしい地震知識、とくに震災予防の知識をそそぎこめばむしろ国民教育の欠陥けっかんをおぎなう一つにもなろうと。そこでさっそく稿を起こし、近所から尋常五、六年の生徒数名をり集めてきてこれを読み聞かせ、それによって校訂したのがつぎの稿本である。
 小学校のみなさん。
 百年前の昔と大正・昭和のこのごろと、物事ものごとはどちらが開けているかといったら、あなたたちは、それは問題にならないと答えるでしょう。ただし地震については、そうとも限らないように思います。なるほど地震の学問については、今日、日本は世界のいずれの国にも負けないでしょう。ただし、それは、わずかな人数のあいだに開けているだけで、尋常小学校卒業程度の、わが国大多数の人たちにまではおよんでいないのであります。なぜならば、これらの人たちは、四年の国語読本、加藤清正のところで「地震」という文字を教わり、六年の理科で、「火山の破裂する前後にはたいてい地震がある」とか、「断層に変動の生ずるときには地震がおこる」といったようなことを教わるくらいでありまして、この他には、地震につき、なんら教えられるおりがないからであります。
 みなさん。
 昔の人は、地震を、地の下の大ナマズの身動きによっておきるのだと言っていました。笑ってはいけません。私はある物知ものしりに聞きましたが、この大ナマズとは、魚ではなく、土地の大きなきれぎれをいうのだそうです。
 あなたたちは、電車道が一尺角ほどの石で敷きつめてあるのをご承知でしょうが、われわれのまっている土地は五里角・十里角ほどの岩石で敷きつめられています。この敷石は、電車道のものとは違いまして大小いろいろあり、また真四角でもないのです。これをわれわれの仲間では地塊ちかいと名づけ、地震はその身動きによっておこるものと考えています。ある一つの地塊の身動きによって、となりの地塊ちかいとの間にい違いができます。このい違いを断層と名づけます。かようない違いは地震のたびごとに起こるばかりでなく、その起こる前からも少しずつ進行するもののようであります。これが、今日、地震予知、すなわち地震を前もって知ることの研究上、大切な手がかりとなっているのであります。
 ここであなたたちは、その地塊ちかいの身動きは、どうして起こるかというのでしょう。あなたたちは、理科で、温泉・地熱のことなど学んだでしょう。地の底は深くなるにつれ、だんだん熱くなる。これがすなわち地熱なのでありますが、この地熱は同じ場所でも、ながい間には変わってまいりますから、この働きが、地塊を身動きさせる一つの原因となるのであります。
 みなさん。
 昔の人は地震がゆくと、すぐあとから、おそろしいり戻しがくるから、用心しろといったものであります。そのり戻しを、今の人は余震のことだと間違えて、いつまでもいつまでも余震におびえています。
 普通の地震では、最初にブルブルブルッと幾秒間かの小さな前ゆれがあって、その後にグーラグーラという大ゆれ、最初の十倍くらいの本ゆれになるのです。前ゆれも本ゆれも、れ出しの元、すなわち震源からは同時に出発し、同じ道をたどってくるのですけれども、速さが違うために、かように時間の差ができるのです。り戻しとはこの本ゆれをさすのでありまして、大地震のときは、このために家がつぶれ橋が落ちるようにもなるのですから、昔の人がこれをおそれたのももっともなことであります。余震は、どんなに強くても、最初の大地震の十分の一以下のものですから、これをり戻しとあやまって、ちぢみあがるようなことをしては、かえって昔の人に笑われるたねとなるのであります。
 地塊ちかいが身動きすると、その動きが、となりからとなりに伝わって、上下四方にひろがってまいります。それは、ちょうど池の水に波がひろがるのや、空気中に音の波がひろがるのと同様であります。ただし、地震波の伝わる岩石は、固くても幾分ゴムのような働きをいたしますし、同時に、まがりよじれる性質もありますから、第一に音のような伸縮の波と、第二にまがりよじれて伝わる横波とができるのです。このうち、伸縮の波は、小さいけれども速いから、第一着の小さな前ゆれとなり、横波は、大きいけれどものろいから、第二着の本ゆれとなるのであります。この第一着と第二着との時間の差は、震源の距離が遠ければ遠いほど長くなるのでありまして、時間差十秒につき震源距離八十キロメートル、すなわち一秒につき八キロメートルという割合になります。
 このことは、雷のはためくとき、電光を見てから、雷鳴を聞くまでの時間をはかって、距離の計算ができると同様に、震源の位置、少なくもその距離をはかるに役立ちますので、かなり面白みのあることであります。
 それでは、その実習を試みることにいたします。実習ということがわかりにくければ、地震の放送舞台劇という名前にしてもよいのです。
 まず配役を発声順に申します。

(先生)苗野百合助君。(生徒前田)曽木美郎君。(生徒本田)由利基君。(生徒木折)一戸八四郎君。その他生徒大勢。場所、五年級の教場。

〔先〕みなさん、これから地震の実習をいたします。まず時計をお出しなさい。第一に、地震がブルブル(小声にて)と始まってから本ゆれのグーラ(大声にて)が始まるまでの時間をはかること。第二に、その時間によって震源距離を計算すること。この二つをやります。……では用意。
〔先〕(小声にて)ブルブル……(大声にて)グーラ(しだいに弱くゆるく)。グーラ
〔先〕前ゆれは幾秒間ありましたか? ……ハイ、前田さん。
〔前〕ハイ、七秒です。
〔先〕そうなった人。……これはよくできました。
それでは距離はいくらになりますか?
〔大勢〕先生、先生、先生、……
〔先〕本田さん。
〔本〕ハイ、五十六キロメートルです。
〔先〕そうなった人。……これはみなさんよくできました。
 それではどうして計算しましたか? 木折さん。
〔木〕一秒では八キロメートルですから、七秒では七八しちは五十六、五十六キロメートルになります。
〔先〕なるほど、これもまたよくできました。
 それでは実習はこれで終わりといたします。

 かようにして、一つの地震の中に、前ゆれと本ゆれとが含まれています。大地震のとき、前ゆれではまだ家がくずれるほどにはなりませんが、本ゆれでは家がつぶれることもあります。それゆえ、この本ゆれは恐るべきものたるには相違ありませんが、しかしながら、それはいかに長くても、一分間以上続くものではありません。ですから、大地震に出会って一分間も辛抱しんぼうしていて、無事だと気づきましたら、もはやあぶない峠は過ぎ去ったのです。余震はおそれるほどのものではありません。地割れに吸い込まれることは、日本には決してないことであります。老幼男女、すべての力のあるかぎり一分間後におこる損害を防ぎ止めることにつとめなくてはなりません。
 みなさん。
 地震による損害、すなわち震災と、地震とはまったく別物です。地震は人の力でおさえつけることはできませんが、震災は人の力で防ぎ止めることができます。
 地震はどんな大きい場合でも、そのゆれる強さには、これ以上大きくはならないという、ある限度があるもののようですから、家や橋はこれにえるように造ることができます。昭和二年(一九二七)三月七日、大地震におそわれて全滅した丹後国峰山町みねやまちょうは、まったくその通り復旧いたしました。もしまた、われわれの住宅が最初からその通り丈夫じょうぶにできていなかったら、あとから少しばかり付け加えて、くずれないようにすることもできます。またたとえ家がつぶれても、大きな横木におさえつけられないかぎり、われわれの生命に別条べつじょうはありません。とくに机や、腰かけのような丈夫じょうぶな道具のかげにいたらいっそう安全であります。
 地震の本ゆれは、どんな場合でも一分間とは続かないものでありまして、しかもこの最初の一分間における震災は割合に軽小なものです、しかし一分後にはじまる震災、すなわち火事による損害は、人死の数においても、財産の損失においても、最初の一分間におこる震災にくらべて十倍にも百倍にもなります。実際、大正十二年(一九二三)の関東大地震においては、最初の一分間の死人は三千人、財産の損失は一億円程度にすぎなかったのに、一分後の損害は、大火災のために十万人、五十五億円という前古ぜんこ未曽有のものになったのであります。ここのところです。私がみなさんに申し上げたいと思っておりますもっとも大切なことは。すなわち、大地震に出会って最初の一分間を無事にしのいだならば、もはや安心してよろしい。余震はおそろしいものではない。地割れに吸い込まれることは、日本では絶対にない。老幼男女力のあるかぎり、地震の損害を軽くするよう勇敢ゆうかんに、機敏に、沈着に働かなければならない。まず火事を防ぎ止めることです。これがすなわち死人の数や財産の損失をもっとも少なくする第一の仕方であります。
 昭和二年(一九二七)丹後大地震のときには、九歳の尋常二年生や、十一歳の尋常四年生が、潰家つぶれやの下敷きになって、しかも沈勇ちんゆう機敏な働きをした話があります。
 また、大正十四年(一九二五)但馬大地震のとき、地震のもっとも激しかった田結たいという村では、子どもたちまでが実によく沈着に働いたという話もあります。
 このとき、城崎の温泉町は震火災で全滅し、豊岡町とよおかちょうは三分の二ほど焼け、両方で三五九人の死人ができました。
 田結の村は震源の真上にあったため、地震は城崎や豊岡の段でなく、最初から五秒とたたないうちに、全村八十三戸のうち八十二戸つぶれ、六十五人の村人が下敷きになってしまったのであります。おりしく、この日は蚕児さんじ掃立はきたて日であったので、室を温めるため三十六戸は炭火をおこしていました。このためにあちこちから煙が上がり、見る間に三戸は燃え上がりました。もしこのとき安全であった村人がうろたえてしまったならば、村は丸焼けとなり、下敷きになった六十五人も黒こげとなったでしょう。しかしながら、訓練の行きとどいた村は、女子供にいたるまで沈着に彼らの最善をつくしました。彼らが口々くちぐちさけんだのは「まず火を消せ!」の一語でありました。またたくうちに三か所の火はもとより、他の家の煙までも消し止められ、ついで下敷きになっていた人たちも助け出されました。このために五十八人は無事に救われました。ただ七名だけは墜落ついらくしてきたはりけたのようなおおきな材木によって致命傷を受けていました。
 かくして田結の村は、もっとも激しい地震におそわれながら、村人がまず火を消すことに努力したため、震災は割合に軽くてすんだのでありました。
 以上、地震はどうしておこるか、前ゆれ本ゆれとは何か、地震の損害はどうして防ぎ止められるかというようなことを申し述べました。
 みなさん。昭和の御代の少年少女たるみなさん。以上申し述べましたことをよく味わい、かつ、がものにし、そうして昔の人にずかしくないようにしていただきたいと思います。(つづく)



底本:『地震の國』文藝春秋新社
   1949(昭和24)年5月30日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
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地震の國(一)

今村明恒

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)職人|氣質《カタギ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)職人|氣質《カタギ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)なゐ[#「なゐ」に傍点]

 [#…]:返り点
 (例)飮[#二]湖上[#一]初晴後雨

/\:二倍の踊り字(「く」を縱に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)よろ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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   序

 故今村博士の遺著が今度文藝春秋新社から重版になつて世に出るから序文を書けとの需めである。君は私の最親しく又最尊敬する友であるから喜んで拙文を草した。
 君は鹿兒島の出身で明治二十七年に東京大學理科大學の物理學科を卒業された。是れより先き田中館愛橘先生が四ケ年計畫で明治二十六年に着手された日本全國の地磁氣測量の事業がある。明治二十七年度の事業に君は、まだ學生であつたのに之に參加されて同年六月から君と二人で北海道測量南北二班の中の南班を引請けて、われ等は夏中三ケ月にわたり一種の探險旅行に似た仕事をした。君の筆に成る、その一節は「野宿」として本書に收めてある。何にせよ旅行は主として馬でテント生活をして辛酸を共にしたのであるから、それから君とは普通の交友とはちがひ最親しい友となつたのである。
 此地磁氣測量の事業は文部省震災豫防調査會に屬するのであるが、此會は明治二十四年十月の濃尾大地震の直後に故菊池大麓博士が政府に建議して議會に於て全會一致を以て可決されて設立された大事業である。同會で審議された諸問題は非常に多く會名の示す如く地震の發生は之を阻止することは出來ないが其災害は之を輕減し得べきであるとして耐震構造、土木工事等の諸方策の研究を始めとして、地震その者の研究、地震豫知の研究を含んで居た。地磁氣測量は之によつて地殼の構造を探つて地震豫知に資せんとしたのである。
 君は大學卒業後も地磁氣測量に參加されたが陸軍中央幼年學校に教鞭をとられるやうになつても大學院に於ける研究題目として地震學を選ばれ東京大學の助教授、教授としては地球物理學の領域を畢生の事業として文字通り脇目もふらず志を專にして決して學問の他の分野に入らず斯學のために節を守られたと稱してよい。これ私が君を最敬ふべき畏友として尊敬する所以である。世の學者の中には學問の一分野より他の分野へと新を追ひ流行に誘はれて轉々する人もあり又中には往々會社等の顧問となり他學校の教壇に立つて有福に生活する人もあるが、君には決して左樣なことは無かつたので君の清貧は古武士その儘であつた。君は震災豫防調査會が大正十四年一月に官制改革により廢止せられ震災豫防評議會と地震研究所とが設立せられ更に昭和十六年三月に評議會が廢止されるまで終始委員として活動された。その後有志の人と財團法人震災豫防協會を設立して事實上之を主宰された。而して臨終の前々月まで毎月帝國學士院に於て古い地震に關する史料の研究を發表されたのである。
 學者としての君は上述の如く地球物理學一點張りの堅苦しい人であつたが世間人としては誠に堅苦しからざる人であつた。談論風發洒々落々、水泳に巧みに、將棋に長じ、詩を作り書を能くし且つ文筆に秀でられた。又呂昇の門人としての君の淨瑠璃は有名なものであつた。學生時代に物理學教室の常傭の木工に江戸時代の職人|氣質《カタギ》その儘の人があつて自身の氣に入らぬ仕事はして呉れないので、學生は實驗の準備を順調に運ばせるために同人の氣に入るやうに仕事を依頼するのに少なからず苦心したものである。然るに君は晝食後の休憇時に小使部屋で同人と將棋を指し勝つたり負けたり自由自在に局面を轉換して同人を喜ばせ同人のお氣に入りに成つて仕舞はれたので君の仕事は二つ返辭でして呉れた。
 田中館先生を中心として門人が集まつて昭和十八年九月先生の米壽を祝した。その後同年の明治節の日、先生はその返禮として門人を自邸に招かれた。その時君は生寫朝顏日記宿屋の段を素語りして先生を慰めたが、その時「無殘なるかな秋月の娘深雪は身に積る」から「名殘惜しさに泣々も心も跡にさぐり行く」まで身振り首振りして若い可憐なる女性を躍如として現はし出した語り振りは今に忘られぬ光景であつた。
 本書は君の麗筆の記念であつて讀者は之によつて心寛かに君の專念された地震學の一端を味はれることゝ思ふ。
    昭和二十三年十一月
[#地から2字上げ]辱知  中村清二識



   目次
  序    中村清二
 一、鯰のざれごと
 二、頼山陽地震の詩
 三、地震と風景
 四、鷄の欠伸
 五、蝉時雨
 六、世紀の北米大西洋沖地震
 七、觀光
 八、地震の正體
 九、ドリアン
一〇、地震の興味
一一、地割れの開閉現象
一二、稱名寺の鐘樓
一三、張衡
一四、地震計の寃
一五、初動の方向性
一六、白鳳大地震
一七、有馬の鳴動
一八、田結村の人々
一九、災害除け
二〇、地震毛と火山毛
二一、室蘭警察署長
二二、ポンペイとサン・ピェール
二三、クラカトアから日本まで
二四、役小角と津浪除け
二五、防浪堤
二六、「稻むらの火」の教方に就て
二七、三陸津浪の原因爭ひ
二八、三陸沿岸の浪災復興
二九、土佐と津浪
三〇、五徳の夢
三一、島陰の渦
三二、耐震即ち耐風か
三三、地震と腦溢血
三四、關東大震火災の火元
三五、天災は忘れた時分に來る
三六、大地震は豫報出來た
三七、原子爆彈で津浪は起きるか
三八、飢饉除け
三九、農事四精
四〇、渡邊先生
四一、野宿
四二、國史は科學的に
四三、地震及び火山噴火に關する思想の變遷
四四、地震活動盛衰千五百年

[#地から3字上げ]裝幀 芹澤※[#「金+圭」、第3水準1-93-14]介



   一 鯰のざれごと

 地震に關して舊日本から明治時代に傳へられたものの中に、なゐ[#「なゐ」に傍点]といふ言葉と地震鯰の説といふものがあつた。
 なゐ[#「なゐ」に傍点]といふ言葉は、吾々も幼年時代に使つた經驗がある。古代に於ては單に地面或は大地を意味し、それにゆる[#「ゆる」に傍点]とかふる[#「ふる」に傍点]とかいふ動詞を添へて始めて地震の意味になつたものが、後世に至つて、土地或は大地などといふ外來語がなゐ[#「なゐ」に傍点]に代用されるやうになつたので、なゐ[#「なゐ」に傍点]は地震に獨占されて仕舞つたのだといはれてゐる。又此の言葉の沿革は、恰度希臘語のセイスモスと同じだといふ人もある。
 兎に角、なゐ[#「なゐ」に傍点]といふ言葉は既に過去のものとなつた。されば地震鯰の説といふのも、これと同樣に、葬り去つてもよいものであらうか。次に聊か檢討して見る。
 地震鯰の説は、元祿寶永の頃に生れたとの説がある。又建久古暦に畫かれてある地震の蟲に胚胎したのだともいはれてゐる。さすれば日本の地形に基づいて編み出された思想であつたかも知れない。
 ケンプェルは地震鯰の説を誤り傳へて、地震鯨の説とした。數年前、ニース・マルセイユ間の汽車の中で、フランスの一少年が、此の説を提げて來て、吾々を惱ましたことがあつたが、これも其の根源はケンプェルの「日本記事」にあるのだなと思つた。
 地震鯰の説は、當初單に架空的のものであつたかも知れない。併し自然物に對する江戸時代の鋭い觀察眼は、遂に此の説の爲に或る根據らしいものを築上げて仕舞つたのである。
 地震豫知は古今東西の難問題である。舊幕時代に於ても之に手を染めた人は少くなかつたらしい。例へば安政の江戸地震後、磁鐵が磁性を失ふとの假定の下に、地震警報器を考案した人もあつた位である。此の假定が觀察の結果に立脚したのであつたならば、そこには錯覺があつたに相違ないが、併し、若し推測に基づいたのであつたならば、それは必ずしも輕視すべきものでもあるまい。明治二十五年震災豫防調査會設立當初、專門家は、地震前に於ける地磁氣分布の異變に注意して、之が調査に著手したが、それが今猶ほ續けられてゐる状態である。
 次に注意をひいたものに、動物の地震に對する豫感といふことがあつたらうが、古人は種々の動物につき、丹念に此の性能を調べて見たに相違ない。そして嚴査の結果として及第したのが雉と鯰とであつたらう。
 併し結局は失敗に歸した。少くも成功ではなかつた。此は受感性の鋭敏さを豫感だと誤認した爲であつた。
 次に上記の部類に屬すべき動物を列擧して見る。
 人は萬物の靈長である。併し五官は知能の發達に逆行して漸次に退化して仕舞つた。そして其の名殘りを今猶ほ留めてゐるのが原始人である。例へば、黒人の嗅覺の鋭さは數町先きの人を嗅ぎ分け、砂漠人の視力の鋭さは、幾里先きの人が近寄つて來るのか遠ざかつてゐるのかを見分けるが如きそれである。
 獸類に聽官嗅覺の頗る鋭いもののあることは能く知られてゐる。
 雉は地震の豫感を有つやう今猶ほ信じてゐる人がある位だが、此の問題は、疾くの昔、故關谷博士に依つて解決されてゐる。それに據ると、世俗、地震前に雉が鳴くやうに思ふのは誤で、其の鳴くときには、地震の初期微動が既に到着してゐるのだ。唯人間は鈍感な爲、微弱な初期微動を感知せず、幾秒間の後、主要動の到着に依つて始めて地震たるを覺り、前の雉鳴を豫感の爲だと獨斷したに過ぎないのである。此の問題の解決の爲に、博士は、永年雉を飼育して、其の地動報告と地震計の觀測とを比較して見たが、其の結果、雉は十倍地震計よりも鈍感だといふことがわかつた。加之、此の鳥は、地動の全然無いときにも鳴出すことがあるから、地動報告者としては、比較的に鈍感で且つ不忠實だといふ折紙をつけられて仕舞つた。
 斯く鈍感な雉でも、人間に比較すれば遙に敏感である。啻に地震に對してのみならず、空振に對してもさうである。此は雉の動物本能である。元來飛翔力の弱い鳥のこと、若し振動に對して鈍感であつたならば、忽ち生命の破滅であらう。其故に振動に對する受感性の發達したものだけが生殘り、斯くして自然淘汰に依つて此の本能が益※[#二の字点]顯著となつたのである。
 次に魚族を檢討して見る。
 魚も亦振動に敏感な生物である。動物學の書物にはこんな事が書いてある。體側には側線といふ特種な小感覺器が並列してゐる。此の作用は確實にはわかつてゐないけれども、水壓の變化、水の振動、音響、電流などの刺撃をこれで感知するものらしいといふのである。
 大地震の前幾日間、湖海の魚が異常の状態を示したとの報道は、實に枚擧に遑がないが、次に數例を拾つて見る。
 大正十二年關東大地震のとき、相模灣では數日前から魚が釣れなくなつたとは、當時湘南一帶に唱へられてゐた。同時に沖の方では鳴動が聞え、陸の方では井水が濁つたと云はれてゐる。
 昭和二年丹後大地震のとき、地震前に、魚が取れず、死魚を見て歸つて來たなどと語られてゐた。
 明治四十三年七月二十五日有珠岳爆發に先だつ六日、即ち十九日以來洞爺湖に於ては魚が釣れなくなり、そして二十二日以來、爆發の前兆たる小地震群が人體に感ずるやうになつた。
 男鹿大地震に關し、文化七年のときは八郎潟では數週間前から鯔が多く死んで浮んだことが記してある。此の時、湖底から石油が滲出して浮んだが、これと鯔が群をなして水面に浮ぶ習性とを結付けて、他の魚族が無難であつたに拘らず、鯔だけが死んだ理由がわかるやうな氣持がする。又去る昭和十四年五月一日の大地震のときにも、同じ湖に於て、前日に鯉や鮒が多く漁獲され、殊に東北沿岸に於ては鮒の大群が岸近く押寄せて來たといはれてゐる。海の方でも同じやうに、魚族の異常が觀察されたが、殊に興味深く感ぜられたのは、飯鮹と稱する小柄な鮹が、醉つたやうになつて、續々と陸に上つて來たことである。此は、男鹿半島の南部では當日午前中(地震は午後三時頃)、半島の北方八森に於ては前日午後から當日午前に至るまで見られたのであつた。
 このほかにも、大震前に種々の魚族の群が、震原に近い海域を逃避したとか、又稀には、集まつて來たとか、色々にいはれてゐるが、筆紙を費す程でもなからう。
 要するに、大地震或は火山爆發に先だつて、魚類の生活状態に異常を來たすことは疑の餘地も無く、又之が、大異變の前兆としての、地球物理學上の微細な異變に基づくことも、爭はれない事實のやうである。さうして今日吾々が想像し得る上記の前兆としては、人體或は普通の地震計に感じない程度の微震鳴動、水の流れや水温の異變、地下水の流出異常、殊にそれに瓦斯や鑛水が加はること、水界にまで傳はつて來る地電流の異變などがある。
 最後に鯰を登場させる。
 鯰は凡百の魚族中、各種の刺撃に對して最も敏感なものとされてゐる。あの長い四本の髭(外國産には六本のものがある)は觸角の用をなすのみならず、其の特徴のある肌色をなす側線は異常な發達を遂げ、身體の外部は總て神經で包まれてゐるといつてもよい位である。
 鯰は陰魚である。日中はあくた[#「あくた」に傍点]や泥の中に潜み、夜陰に乘じて餌をあさる。神經系統が異常な發達を遂げた所以である。されば晝間之を漁獲することは困難であり、又自身に隱れ家を出て來ることもない筈であるが、然るに大地震前に於て此の習性を裏切つた例は頗る多い。江戸時代の文獻を引用するのは餘りに煩はしいから、余は、此に單に、大正十二年九月一日關東大地震前一兩日に經驗された生々しい二例を擧げることにする。
[#ここから1字下げ]
 赤司鷹一郎氏(元文部次官)は東京向島の一料亭に於て、池の面に頻々と飛上る小魚を見て、何魚かと問うた所、小鯰ですが、二三日前からあの通りです。不思議な事ですとの答であつたさうだ。
 柴垣鼎太郎氏(文部省建築課長)は大地震の前日、鵠沼海岸の池で、投網に依つて、鯰の大漁獲をなした。一尺大のもの、ばけつ三杯分あつたとのこと。
[#ここで字下げ終わり]
 斯樣な事實を數多く經驗觀察したならば、古人ならずとも、鯰の地震豫感説を創作するに違ひない。併し早まつてはいけない。畑井博士の實驗談を聞くことにする。
 實驗材料としては成魚よりも四五寸大の幼魚の方がよい。之を四五匹水槽内に入れて置くと、晝間はあくた[#「あくた」に傍点]の中に潜んでゐるが、之に各種の刺撃を與へて其の受感度を檢査するのである。其の結果、
[#ここから1字下げ]
 最も敏感な状態にあるときは、極めて輕微な衝撃或は音に由つて一齊に水面に飛上り、或は微弱な電流に由つても躍り狂ふ。
 稍※[#二の字点]敏感な状態に於ては、刺撃に由つて隱れ場處から僅に飛出すが再び元に戻る。
 稍※[#二の字点]鈍感な状態に於ては、僅に尾鰭を動かすだけである。
 最も鈍感な状態に於ては、如何に強い刺撃を與へても微動だもしない。
[#ここで字下げ終わり]
といふことがわかつた。
 次に實驗されたのは、斯樣な受感度の相違と地震發生との關係であるが、小鯰が敏感になるのは概ね地震の近きを意味し、鈍感は當分地震無しを意味するといふのである。
 實驗は更に進められた。即ちそれは小鯰の受感度の變化と、地電流の變化との因果關係に就てなされたのである。
 元來、電流は極めて微弱ながら自然に、何れの場處にも斷えず地中を流れて居り、それが流水或は止水にも傳はるのであるが、其の強さは時々刻々に變化するのである。實驗の結果、小鯰が敏感となるのは地電流の強さの變化が急激且つ頻繁に起るときであり、鈍感となるのは變化が皆無或は極めて緩徐なときであることがわかつた。蓋し、前の場合は、地殼内の歪みに異常變化のあることを意味するのであらう。
 斯樣な實驗結果を承認するとき、過去の文獻に現はれた鯰と地震との關係が凡て明かにされる感がある。
 地動報告者として、雉は地震計に及ばない。地震豫感者として、鯰は地電流計に其の席を讓るべきであらう。
 因に記して置く。動物が微動に左右せられる以上、強い振動に由つては猶更さうでなければならぬ。深海魚が浮嚢の調節を失つて浮上るもあり、鮪のやうな暖流魚が戸惑ひして見當違ひな海に逃け込むこともある。鳶や烏は空振の爲に地上に墜落し、臆病な馬は揃つて脱糞するなど種々樣々である。
 鯰笑つて曰ふ、「萬物の靈長は如何。」靈長對へて曰ふ。「よし、白状する。吾等の中には、馬にも劣らず、地震の度毎に手洗所に駈込むものもあるよ。」

   二 頼山陽地震の詩

 文政十三年七月二日京都に大地震があつて、死者百五十人(或は二百八十人とも)に及び、その爲に年號は天保と改まつた。當時山陽の居は京都鴨川縁三本木にあつたが、山陽自身は廣島へ歸省中であつたと見え、京都大震災の郵報に接し、家族八人の安否を餘程心配したらしく、其の悶々の情を詩に託して、之を在大阪の友人篠崎小竹(字は承弼)に送つたのが山陽書簡集に載つてゐる。一世の文豪の地震觀も珍とするに足るが、余が殊に興味を感ずるのは、寧ろ其の追書の方である。
 地震鯰の戯畫は、安政大地震の際には頗る跋扈したものだが、此の説はさ程古いものではなく、元祿・寶永頃に始まつたといふ説もある。新城博士に據れば、現今我國に流布してゐる家相説は天明寛政以後の作であるとのことだが、或は斯る迷説の作者が此の時代に輩出したのかも知れない。兎に角、地震鯰の説は既に文政年間に流布してゐたことだけは確實である。
 山陽の書には判讀しにくい點があつたが、高楠、宇野兩博士に讀んで貰ひ、了解したまゝ之をかな交り文[#「かな交り文」に傍点]にしたのが次の通りである。
[#ここから2字下げ]
郵籤京事を報ずらく、    變故未曾有。
今月初二日、        地震申より丑に至る。
或は曰く三夜に連なると、  前を聞き未だ後を審にせず。
九陌啼哭沸き、       十室に八九を壞る。
家を挈へて街衢を度り、   墜瓦左右に堆しと。
家人一字無く、       東望十たび首を掻く。
念ふ吾家は鴨崖、      穉子は弱婦に依る。
相牽いて沙中に避くらん、  又怕る居守無きを。
石岸應に盡く崩しなるべし、 唯餘す露根の柳。
河水深く且つ溢れつらん、  知らず能く逃走せしか。
大兒は猶ほ※[#「厂+萬」、第3水準1-14-84]掲しけん、   小兒は婢に付して負はしめしか。
糴價意ふに騰躍し、     苦辛八口を糊すらん。
愧づ一家の憂に任じ、    患難援手せざるを。
災※[#「示+駸のつくり」、第4水準2-82-70]黔黎に被る、      此豈に吾獨り受けんや。
阪城餘震逮び、       江都定めて安否。
天明の如くなる無きを得んか、饑民起つて相蹂ること。
天數周復有り、       下土誰か咎に任ぜん。
仰ぎ看る雲は北に奔り、   海雨龍は吟吼す。
耿々たる※[#「木+巳」]人の心、     長歌強ひて缶を拊つ。
[#ここから3字下げ]
七月九日廣島に在り、京報大異を聞き、夜寐ぬる能はず、枕上に就て此を作り、聊か以て悶を遣る。
[#ここから2字下げ]
録して
承弼老友に似す。京中從遊の士に轉致せよ。山妻不識、或は解説して聽かしむ可きのみ。
[#地から5字上げ]襄
[#ここから2字下げ]
 尾に更に數句あり。曰く、
大魚坤軸を負ふ、      神有り其首を按ず。
稍怠れば則ち掀動す、    乃ち或は酒に醉へる無きか。
願欲す一たび醒悟し、    危を鎭めて其後を善くせんことを。
以て蛇足となして剪去し、  加ふるに雲雨の二句を以てす。
[#ここで字下げ終わり]

   三 地震と風景

 大地震に伴ふ地變に因つて滄桑の變の起るやうなことは有勝ちだが、之が爲、天下の名勝が一朝にして失はれたり、又反對に、凡景が却て勝區となることもある。前者の例としては出羽の象潟の如きが其の最も著名なものであり、西津輕の大戸瀬小戸瀬の如きも亦之に加へて可なるべく又後者の一例としては、同じく西津輕の十二湖を擧げてよいであらう。
 象潟は古來東北一の絶勝と謳はれてゐた。灣の徑凡そ三粁、之に清らかな海水を湛へ、九十九島八十八潟があり、島には奇石怪巖峙ち、風致ある翠松之を被ひ、嫋々たる合歡木其の間を點綴し、水の深さ平均凡そ一尋、大小の魚族は掬へさうに游泳してゐた。昔から雅客の杖を曳いたものは少くなく、能因法師の如きは三年も滯留したと云はれてゐる。法師の歌に、
[#ここから1字下げ]
世の中はかくても經けりきさ潟の海士の苫屋を我宿にして
[#ここで字下げ終わり]
といふのがある。又最明寺時頼は、
[#ここから1字下げ]
象潟と思ひし程はいそがれて歸す涙に袖ぞぬれける
[#ここで字下げ終わり]
と歌ひ、西行法師は斯くも詠じた。
[#ここから1字下げ]
きさ潟の櫻は波にうづもれて花の上こぐ海士の釣舟
松島やおしまの月も何ならんたゞ象潟の秋の夕ぐれ
[#ここで字下げ終わり]
併し何と云つても、象潟をして絶勝の名を益々高からしめたのは芭蕉の文章であらう。
[#ここから1字下げ]
『江山水陸の風光數を盡して今象潟に方寸を責む。酒田の港より東北の方、山を越え磯を傳ひ砂子を踏みて其際十里ばかり、日影やゝ傾く頃、汐風眞砂を吹上げ雨朦朧として鳥海山かくる。
「暗中に模索して雨も亦奇なりとせば雨後の晴色もまたたのもし」と蜑の苫屋に膝を入れて雨の晴るゝを待つ。
[#ここから2字下げ]
(筆者註。暗中云々の出典を明かにし、且つ後文にある俳聖の名句を玩味せんが爲に、蘇東坡西湖の詩「飮[#二]湖上[#一]初晴後雨」を掲げる。
[#ここから3字下げ]
水光瀲※[#「さんずい+艶」、第4水準2-79-53]晴方好  山色空濛雨亦奇
若把[#二]西湖[#一]比[#二]西子[#一] 淡粧濃抹總相宜)
[#ここから1字下げ]
 其のあした天よく晴れて朝日はなやかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。先づ能因島に舟をよせて三年幽居の跡をとぶらひ、向ふの岸に舟をあがれば「花の上こぐ」とよまれし櫻の老木、西行上人のかたみをのこす。江上に陵あり、神功皇后の御墓といふ。寺を干滿寺といふ。此處に行幸ありしこと未だきかず、いかなるゆゑにや。
 この寺の方丈に坐して簾を捲けば、風景一眼の中につきて、南に鳥海山天をさゝへ、其影江にうつりて西はむやむやの關路をかぎり、東口塘を築きて、秋田に通ふ路はるかに海北にかまへ、波打入るところを汐越といふ。江の縱横一里ばかり、面影松島にかよひて又異なり、松島は笑ふが如く、象潟はうらむが如し。さびしげに悲しみを加へて地勢魂をなやますに似たり。
 象潟や雨に西施がねむの花』
[#ここで字下げ終わり]
としてある。蓋しねむの花に依つて唐美人を聯想し、其の代表者として西施をかつぎ出し、坡仙の西湖の詩を引用して晴雨の兩景を謠つたのであらう。
 斯樣な絶景が文化元年の大地震に伴へる陸地隆起の爲に一夜に喪はれたのであるが、此の時の隆起は、象潟では二・二米程であつた。其の後、開墾されて一面の水田が出來たが、併しながら十數箇の島嶼は昔のまゝに、地域全體が天然記念物として保存されることになり、今猶ほ捨て難い風情を殘してゐる。特に五月雨の頃、一面に水を湛へると、島々が水面上に浮び出し、往時を偲ばしめるものがある。
[#ここから2字下げ]
象潟や其俤の皐月ころ   枯萍
[#ここで字下げ終わり]
といふのもある。
 大戸瀬小戸瀬は西津輕西北隅の一勝地である。二見浦の夫婦岩の矮小なのに失望した人は、恐らく此の津輕の夫婦岩の雄大さに堪能したであらうが、惜しいことには、寛政四年の大地震で土地が二・二米程隆起した爲、今は其の臺座である千疊岩と共に、往時の面影を留めてゐるのみである。
 十二湖は西津輕の南西部僻陬の地にあつて、是まで世間に知られずにゐた。此はさもあるべきこと。元來西津輕自身が本州の北端陸奧國の中でも一方に偏し、交通不便な土地柄な上、十二湖は更に其の山奧に位して居り、而も其の名前も此頃つけられたに過ぎないといふのだから、余の如き、二十年前其の近邊を旅行しながら、之を看過したのも寧ろ當然であつた。然るに近年になつて、鐵道は海岸に敷かれ、自動車道路も開けた上、世間の山岳熱も高まつて來たので、此の山間の一勝區が頓に明かるみに持出され、特に此の場處に氷河の遺跡まであるといふので、其の名が學界にまで喧傳されるに至つた。
 余は、寶永元年能代地方大地震に伴へる陸地變形、特に沿岸隆起の状態を調べる爲、去秋同人諸氏と共に此の地方の沿岸を彷徨した。調査は、順調に進捗して、當時の模樣を彷彿することが出來たが、此には之を省くことにする。
 陸地測量部五萬分一地形圖深浦區を展べると、其處に異樣な地形が觀察される。即ち岩崎の東南六粁位を中心とし、直徑三粁位の圓内に其の十二湖が見出されるのである。地圖では十五箇の湖が數へられるが、其の中、最も奇なるは、區域の北境をなす圓周上に並列してゐる七箇の湖である。俚俗之を七ツ池と呼んでゐる。
 余等は、或る朝、此の勝地に登るべき岐路に立つてゐた。恐らく地元か或は近縣かの觀光團であらう。凡そ七八十名の人數が十二湖の石門にかゝらうとしてゐた。若し天氣が好かつたら、余等も或は其方へ誘惑されたかも知れないが、生憎寒風吹荒み、時々驟雨が來るので、諦めて仕舞つた。隨つて十二湖の風光に關する余が知識は頗る貧弱なもので、唯僅に繪葉書に據つて其の貧弱さを補つたに過ぎない。
 上記の寶永地震は此の地方に大規模の山崩れを惹起した。崩れ出しは黒森山の八合目であつて、泥流は、現在の十二湖の境域を被ひ、東北は新谷川に、南は小峯澤に達し、材木伐採者六名薪取り四名が犧牲となつた。事變後凡そ二週間目の調書に據れば、此の地域から流れ出る溪流が、何れも水涸れになつたとあるから、此の期間に、十五湖中少くも其の大部分が生成されつゝあつたことが想像される。
 十二湖の地域に氷河の遺跡があるとの説は上に記して置いたが、其の眞僞は余にはわからぬ。併し此に一言したいのは、上記大規模の山崩れに因つて、岩面には一種の掻痕が遺される筈だから、之が無視されないやうにといふことである。

   四 鷄の欠伸

 或る老子爵、耳が餘程遠くなつたのに、自分ではさ程に思つてゐなかつた。其の言ひ草が振つてゐる。
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「世の中が段々開けるにつれ、鷄までが進化し居る。」
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といふので、どうしてですかと伺を立てると、
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「あれ見よ、鷄が欠伸をしてゐるではないか。」
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といふ。見ると、成程雄鷄が欠伸をしてゐるやうに見えるが、實は一生懸命に聲を張上げて高鳴きをやつてゐるのであつた。
 此頃獨善といふ言葉が流行してゐるが、子爵のやうなのは、其の逸品として歎賞に値するものであらう。
 之に似た話。或る處に、地震に非常に敏感だと自稱する男がゐた。併し其の實、彼氏の住んでゐる家がよろ/\してゐるので、地震に敏感なのは彼氏ではなく、家屋其れ自身であつたのだ。
 彼氏、其の後、家屋を新築するとき、耐震構造にしたいといふので、余の處に相談に來た。そこで余は、素人向き耐震構造の祕訣を彼氏に授けてやつた。
 我家の耐震、筋違方杖、火打に金物。
といふのである。彼氏忽ち會得して、造り上げたのが二階建木造家屋。眞に耐震的に出來たのだらう。かの五重塔や、名古屋城の振動檢測で有名な齋田理學士が、此の家の震動振りを檢査して見ると、普通ならば、二階は地面の三倍位に搖れるのに、此の家は兩方が同じに搖れる。即ち耐震構造の理想型だといふのだ。彼氏忽ち得意になり、
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「近頃我輩は地震に鈍感になつた。是れ偏に耐震構造に住まつてゐる結果だ。」
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と、連りに觸れ廻つてゐるのだ。口さが[#「さが」に傍点]ないものが之を聞いて、
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「それが即ち君の獨善といふものだ。地震に鈍感になつたのは、家屋のせゐばかりではなく、君も亦老ぼれて仕舞つたからだ。」
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と。
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「成程。」
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と言つただけで、彼氏は考へ込んで仕舞つた。

   五 蝉時雨

 昭和四年眞夏の或る朝、余は大久保の寓居で庭掃除をしてゐた。日光はさん/\と差込み、蝉時雨は喧しく聞えてゐる。「今日も亦暑いかな」などとつぶやいてゐると、突然屋内から「電話です。帝國ホテルから。英語ですからさつぱりわかりません。早く/\。」といふ。出て見ると、北米某新聞の婦人記者だといふ。「世界巡遊の最後の日程が日本であり、日本に於ける最後のが東京であつて、東京の最後が地震學教室である。而も今日横濱解纜の船に乘るので、剩す所數時間しかない。夏休み中とは萬々承知してゐるが、曲げて出勤して呉れないか。教室を見せて貰ふ許りでなく、色々質問したいことがあるのだ。」といふ。如何にも眞劍らしいので快諾の旨を答へ、いそいで大學へと向つた。
 午前九時。先着してゐたパイパー夫人は、余が來るまでの時間を利用して、助手君に標本室を案内させてゐた。挨拶もそこ/\に、なん時まで此處に居れるかを問ふと、「正午上船するのですが、何時まで居れるでせうね。」と却て反問するのだ。「ホテルはどうしました。」と問へば、「最早引上げて來て、荷物はこれ限り。」と小さな手提を示し、「此處から眞直ぐに船に行くだけのことです。」といふ。「それなら十時半に此處を出發するやうタクシーを呼寄せて置きますから、それまでの一時間半に貴女が滿足されるやう御案内致しませう。が、何を御覽になりたいか、何を質問なさりたいか、先づそれから伺ひませう。」と言へば、「出し後れましたが、此處に紐育フォルダム大學地震觀測所長の紹介があります。同所の地震計は固より、歐洲の名ある二三の地震研究所も見て參りましたから、有り觸れた地震計に就ては最早興味を有ちません。唯貴方の設計されたといふ長週期地震計を見せて貰へばよいのです。フォルダムの觀測所長からもそれを見落さないやうにと言ひつかりました。唯それだけです。」
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「そして質問したいといふのは。」
「日本は震災國です。同時に地震學が最もよく發達してゐると聞いてゐます。隨つて其の震災を防止或は輕減する手段がよく講ぜられてゐると思ひますが、其れに關する概要を出來るだけ能く伺つて行つて、本國への土産話にしたいと思ふのです。」
「よくわかりました。」
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 此は素晴らしい好質問だ。本邦の一般士人、特に記者諸君に吹聽したい程の好質問だ。余は永年の學究生活中、斯樣な好質問に曾て出會つたことがない。
 元來、日本人は質問好きな筈ではなかつたか。知識慾に燃えてゐる國民だとは、嘉永安政の頃始めて邦人に接した外人の觀察であつたのだ。オスボーン大佐の日本近海巡航記(西紀一八五九年出版)には斯う認めてある。
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 長崎出島の一蘭人の處に、或る日、江戸から使者が到著して一つの質問を齎らした。氣壓計の水銀柱の高さの毎時變化を記録するのに、寫眞を以てする方法はないかといふのである。蘭人は、彼の本職とは餘りに飛離れた質問に一時面喰つたが、寫眞術に關する著述などを渉獵して、兎に角、斯うもやつたら出來るであらうといふ答案を纒めて之を渡し、そして「外に何か大切な御用向がおありでせう。」と言へば、使者は遮つて、「いゝえ、唯それだけお尋ねする爲に態々派遣されたのです。」といふのであつた。
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 今の日本人は質問することを忘れたのではないだらうか。否、そんなことは無い筈。併し偶※[#二の字点]吾々への質問といへば、「地震の原因如何。」とか、「地震とは何ぞや、」といふやうな深遠なものか、さうでなければ「今日の地震は水平動でしたか、上下動でしたか。」といふやうな愚劣なものが多いのである。
 それは兎に角、此のパイパー夫人の質問は確に及第點だ。さう感じると對者も亦自ら眞劍ならざるを得ない。
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「それでは御質問の答に約一時間を充て、殘りを地震計室の御案内に充てることに致しませう。」
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 斯う應じて置いて、余は順次に次のやうなことを説明した。
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「震災の防止・輕減策は三本建にしてゐる。即ち、第一は耐震構造の普及方。これには、建築法規に耐震構造の實施に關する一項が加へてあり、之を實行してゐる都市は現在某々地に過ぎないが、實は國内の市町村の全部にと希望してゐる。構造物を耐震的にするにはしかじかの方法が講ぜられてゐる。」
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こゝで「印刷中の稿本を見せると、其のガリ刷でもよいからとて、それを押戴いて眞ぐ手提に收めるといふ始末。
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「第二は震災豫防知識の普及。此は尋常小學校の國定教科書に一二の文章を挿入することにより、概ね其の目的が達せられる。」
「第三は地震の豫知問題の解決。此の問題を分解すると、地震の大きさの程度、其の起る場處竝に時期といふ三つになり、此の三者を併せ豫知することが本問題の完全な解決となる。此は前の二つとは全然其の趣が別で、專門學徒に課せられた古今の難問題である。」
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此處で彼女はすかさず喙を容れた。
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「實は其の詳細が特に聞きたいのです。事項別に説明して下さい。して、其の程度とは。」
「さやう。現今日本には若い優秀な專門學徒が輩出して、日夜研鑚してゐますから、此の難問題が三つとも一擧に解決されるかも知れません。が併し、それとは別に、吾々の如く防災地震學に專念してゐる者は、講究の目標を大地震にのみ限定してゐます。大きさの程度をわざと斯う狹く局限してゐるのです。」
「そして、其の場處の察知は。」
「過去の大地震の統計と地質構造とに依つて講究された地震帶、磁力・重力等地球物理學的自然力の分布異状、特に測地の方法に依つて闡明された特種の慢性的・急性的陸地變形等に依ります。」
「それから、何時起るかといふことは。」
「右の起りさうな場處に網を張つて置いて、大地震の前兆と思はれる諸現象を捕捉するのです。」
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 パイパー夫人は尚も陸地變形に依る場處竝に時期の前知方法の講究に關して、更に具體的の例を擧げるやう迫るので、余は南海道沖大地震に關する研究業績の印刷物を以て之に應じて置いた。
 軈て十時が鳴つた。
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「では其の三分半といふ長い週期の地震計を。」
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といふので、運動場の近くにある等温室に案内したが、此處は割合に早く片附き、尚ほ暫時の餘裕があつた。
 夫人は始めて我に歸つたといふ風である。周圍の鬱蒼たる夏樹立を厭かず眺めてゐるのだ。
 こゝにも蝉が喧しく鳴いてゐる。
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「こんな鳴き聲の小鳥は私には初めてですが、何といふ鳥ですか。」
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と問ふのだ。
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「それは翼を持つてゐますけれども鳥ではない、蝉といふ昆蟲です。」
「なに、昆蟲。驚きましたね。昆蟲ですか。姿が見たいこと。」
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 ブ・ブー。自動車が來たのだ。同時に蝉が飛出した。
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「あ、見ました。見ました。……では御機嫌よう。世界人道の爲に貴方の御健康を祈ります。」
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と言つて、固く握手するのであつた。

   六 世紀の北米大西洋沖地震

 或る日、一葉の外字新聞が余に屆けられた。紐育にあるブルクリン・デイリー・イーグル紙の日曜特輯號である。見るとパイパー夫人の物した「島帝國の震災豫防對策」といふのが約一頁を埋めてゐる。日附はと見ると、一九二九年十一月十七日になつてゐる。「ほう、あの珍らしい大西洋大地震津浪の起つた前の日ではないか。」震源はニューファウンドランド南方沖、歐米連絡の海底電線二十三本の中十二本まで切斷し、通信は一時不能となつたといふあの世界的大地震、津浪も大きかつた(が、人口稀薄な場處である爲、死人は二十六人に止まつた)といふあの大地震。確に其の前の日なのだ。
 元來、北米大陸の東側は大地震の少い所とされてゐるが、あの樣な大地震は殊に其の例に乏しく、恐らく世紀の地震として差支ないであらう。關係國民の驚き方は想像に餘るものがあつたに違ひない。
 間もなくパイパー夫人の手紙が屆いた。『若しあの特輯記事に誤謬があつたら宥して下さい。併し公刊の時期が、あの大地震津浪の前日に當つたのは、私にしてはあやまちの功名でした。お蔭で例になく多數の讀者を得たやうです。「貴女は震災對策の傳授を受けて來て、早速之を試みたのではないか」などといふ質問を受けた位でした。』と、このやうなことが認めてあつた。
 記事を讀んで見た。成程誤謬が多い。地名の綴方の誤は已むを得ないが、事柄にも可なり相違がある。これも余が外語の拙劣さに因るのだと思へば諦めねばなるまい。併し思ひ返した。若し國内の記者に邦語で解説しても矢張あれ位の誤謬は免れないだらうと。さうだ。悔むべきではない。
 「大法輪」の一記者は、余の外貌を捉へて、「稍※[#二の字点]小柄で丸々と太つた」と形容してゐる(同誌昭和十四年三月號)。十八貫、五尺六寸の男を小柄とはどうであらうか。然るにパイパー夫人は「彼の握手は丁寧で、彼の話は友誼的で、彼の英語は完全で」などと、赤面する程のお世辭を浴せた擧句、「彼は肩幅廣い大男で、身長は五呎十一吋もあらうか」と評してゐる。單純な有形物件に對してすら、斯うも違ふものである。

   七 觀光

 昭和五年、櫻の日本を訪れた一群の觀光米人があつたが、他の人達が「結構な日光へ」といふのに、一人だけは群を離れて東京帝國大學を音なうた。ヘボンといふ老婦人である。
 ヘボンといふ名は、明治前半頃の英語學生には、かの有名な和英字書を通じて、なじみ深いものである。併しこゝにいふヘボン夫人は、彼の親戚に當るエー・バルトン・ヘボン氏の未亡人で、夫君は大正六年東大に米國憲法歴史及び外交講座を設置する爲に十二萬圓を寄附したといふ由縁の深い人である。
 兎に角、東大に取つては大切な賓客だといふので、總長自ら乘出して接待の順序を立て、上記講座の擔任教授たる高木博士に市橋女史を附けて案内させ、地震學もよからうとあつて、余が教室の見學に二十分間割當てた。
 外語に拙い余が、此の僅かな時間で、どうして相手の滿足を贏ち得ようか。併し市橋女史は其の手記に斯う認めてゐる。
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 地震學には全然門外漢である未亡人に、博士は、模型地震計を動かして地震計の原理を極めて平易に説明し、自然の攝理といふものか、地震動の大きさには或る限度のあることを、關東大地震、丹後大地震等の實例に依つて解説し、此の限度に耐へるやうに家屋を設計施工すれば、如何なる地震にも安全になるのだ、といふ話をされる。
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 最初、未亡人の聽聞は單に好奇的のものに過ぎなかつたやうだが、次第に熱を帶びて來た博士の解説に釣込まれて、時間は二十分を過ぎたといふのに出ようともせず、今度は「地震はどうして起るのか」とせがまれるのだ。博士は、日本古來の傳説たる地震鯰を捕へ來てお客を笑はせながら、其の長い睡りから覺醒して急に動き出すのが地震だとすると、其れが動き出す前後に多少の身動きがあらうといふもの、若し所謂地塊といふものを古來の地震鯰に置代へたとしたら、それが地震の起り方を彷彿させるであらうといふ。
 未亡人の最初の好奇的態度は、説明佳境に入るに從ひ、何時しか眞面目と化し、感激となり思はず四十分間を經過した。歸途未亡人は、地震學を繰返し/\語りながら、其の感想を漏されるのであつた。即ち今まで無關心であつた斯の科學は、人生に直接に大切なものたるを始めて啓發されたこと。此の事は彼女に取つて全く啓示(レヴェレーション)であつたこと。博士の研究論文別刷は之を母校に寄贈し、若し其處で地震學を教へてゐなかつたならば、教へるやうに勸告しようといふことなどを語り、最後に、吾々は地震國に住むと否とに拘らず、地震學を常識學として是非修めて置かねばならぬと結ばれるのであつた。未亡人は恐らく此の考へで胸一杯であつたのであらう。歸途、知人を訪ふ爲に女子英學塾へ立寄られたとき、開口一番、地震學科が此の塾の科目に入れてあるか否かを問うて人々を面喰はせたのであつた。
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 噫、私共女性は此の地震國に生れ、朝夕地震に對する恐怖に捉はれながら、恰も免疫にでもなつたやうに、地震學に對しては興味もなく、無關心無知識で滿足し切つてゐるではないか。私は今日半日、此の外來の老婦人に親炙し、其の所謂科學する心の眞劍さに鑑みて、深く/\心に恥ぢるのであつた。
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 市橋女史の手記は余に多大な花を持たせて認めてあるから、其の事に關する限り、可なり割引をする必要があるが、併し、其の他、特に最後の一節は、恐らく、女史が日本婦人に對する眞劍な警告と見てよいであらう。

   八 地震の正體

 或る日、北米ピッツバーグ市のヱスチングハウス電氣工業所に英國の一老紳士が見學に來た。此の人は、物理學界に於てはニュートン以來の大家として世界的名聲を馳せてゐるのみならず、歐米間を結ぶ海底電線を最初に敷設した功勞者として電氣工業界に取つても大切な人物である爲に同所では優遇の限りを盡し、場内殘る隈なく開放して接待に力めたが、どうしたことか、説明役を承はつた技師には其の紳士の誰であるかが傳はらずにゐた。隨つて技師の眼に映じた紳士は、片足の少し不自由な、要領のよい、早分りのする常人に過ぎなかつたのである。
 軈て場内の巡覽は終つた。紳士は件の技師に厚く謝して曰ふには、
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「貴方の御案内上手には敬服しました。難解なるべき事物を極めて平易に説明して下さつて有りがたう。十分にたんのうしました。とてもの序に今一つ質問したいことがあるのですが。」
「はい、何なりとも。」
「貴方の御説明の中に電氣といふ言葉が澤山出て參りましたが、其の電氣といふのは何ですか其の正體が伺ひたいのです。」
「エー、其の電氣とは。……。エー、何ですね、エー。…………。」
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 技師先生は目を白黒(白青かも知れない)させて苦吟してゐるが、二の句が出さうでない。老紳士は遂にふき出して、
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「お許し下さい。私は貴方をからかつた譯ではありません。申し後れましたが、私はケルヴィンです。實は私自身にも其の電氣の正體といふものは能くはわからないのです。隨つて其の説明がうまく出來る筈がありません。然し世人は動もすればそれを聞きたがるのです。私は其の度毎に苦むのです。私は今日貴方の通俗的な説明の巧妙さには、とても感服しましたので、或は貴方ならばと心附きましたから、伺つて見たのです。」といふのであつた。
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 此の問答は吾々の如き地震の學徒にも貴重な教訓を與へるものである。
 現今世界の物質的文明は、多くは電氣の驅使利用に基づいてゐると稱しても過言ではあるまい。其の事に關與し貢獻した研究者も數多いことであらうが、併し其の人々の中に、電氣の正體をケルヴィン卿以上に掴んだ者が果して幾人あつたであらうか。
 地震學は今猶ほ幼稚である。其の幼稚なものを圓熟した電氣學に比較するのは無理かも知れない。併し正體のわかり兼ねる物件ながらも、それを自由に驅使利用する點に於ては一脈相通ずるものがあるやうに思ふ。
 實に地震の正體は地下深く祕められてゐる。室内で實驗して見る譯に行かぬ。強ひて實驗しようとするならば、廣漠たる原野を選ばなくてはならぬ。
 今地下十數米の深さに數十瓩の爆藥を封じて之を爆發させたとすると、所謂人爲地震が起るのであるが、此のものは、性質上或る種の天然地震に近いのである。昔の人は地震の正體を想像して、「火山爆發の地表まで拔け出ないのだ」と謂つてゐたが、其のやうなものもあるらしい。併しそれよりも性質の違つた天然地震もある。例へば、各地に於ける初動觀測の結果から判斷すれば動源は、地下の一部の横ずれであるとしか思はれないものもあるが、これも其の一つである。
 兎にも角にも、地震の正體は掴みにくい。併し其處から出發する地震波は能く觀測され、能く講究されてゐるから、それを驅使利用することは容易である。即ちそれが震災を驅逐するにも役立ち、或は地下資源を探るにも役立つ。又それを眞似て雉子を鳴かせ、若しくは鯰を躍らせることも出來る。要するに、地震は、假令其の正體は掴めずとも、人生に交渉を有つ方面の講究をするには大した不便を感じないのである。
 併し世間は、多くは根幹を顧みないで末梢を追ふものである。
 これも其の一つ。
 時は昭和四年、吾々は震災豫防の常識の普及に役立つ一文を尋常小學校教科書に入れるやうにと當局に懇請してゐたが、何等反響のないのに呆然としてゐる頃のこと。
 東京放送局から「地震はどうして起るか」といふ題を貰つた。子供の時間に放送する爲である。余は豫ねての持論として、一旦は之を斷らうかとも思つたが、併し思返した。寧ろ此の機會を利用して、假令題目とは多少合はないでも、兒童に相應しい地震知識、特に震災豫防の知識を注ぎ込めば寧ろ國民教育の缺陷を補ふ一つにもならうと。そこで早速稿を起し、近所から尋常五六年の生徒數名を驅り集めて來て之を讀み聞かせ、それに依つて校訂したのが次の稿本である。
 小學校の皆さ [#「皆さ 」は底本のまま]。
 百年前の昔と大正昭和の此頃と、物事はどちらが開けてゐるかと言つたら、貴方達は、それは問題にならないと答へるでせう。併し地震については、さうとも限らないやうに思ひます。成程地震の學問については、今日、日本は世界の何れの國にも負けないでせう。併し、それは、僅かな人數の間に開けてゐるだけで、尋常小學校卒業程度の、我國大多數の人達にまでは及んでゐないのであります。なぜならば、此等の人達は、四年の國語讀本、加藤清正の所で地震といふ文字を教はり、六年の理科で、「火山の破裂する前後にはたいてい地震がある」とか、「斷層に變動の生ずるときには地震が起る」といつたやうなことを教はる位でありまして、此の他には、地震につき、何等教へられる折がないからであります。
 皆さん。
 昔の人は、地震を、地の下の大鯰の身動きに由て起るのだと言つてゐました。笑つてはいけません。私は或る物知りに聞きましたが、此の大鯰とは、魚ではなく、土地の大きなきれぎれを謂ふのださうです。
 貴方達は、電車道が一尺角ほどの石で敷詰めてあるのを御承知でせうが、我々の住まつてゐる土地は五里角十里角程の岩石で敷詰められてゐます。此の敷石は、電車道のものとは違ひまして大小色々あり、又眞四角でもないのです。之を我々の仲間では地塊と名づけ、地震は其の身動きに由つて起るものと考へてゐます。或る一つの地塊の身動きによつて、隣の地塊との間に喰違が出來ます。此の喰違を斷層と名づけます。斯樣な喰違は地震の度毎に起る許りでなく、其の起る前からも少しづつ進行するもののやうであります。これが、今日、地震豫知、即ち地震を前以て知ることの研究上、大切な手懸りとなつてゐるのであります。
 こゝで貴方達は、其の地塊の身動きは、どうして起るかといふのでせう。貴方達は、理科で、温泉・地熱のことなど學んだでせう。地の底は深くなるにつれ、段々熱くなる。これが即ち地熱なのでありますが、此の地熱は同じ場處でも、永い間には變つて參りますから、此の働きが、地塊を身動きさせる一つの原因となるのであります。
 皆さん。
 昔の人は地震が往くと、直ぐあとから、恐ろしい搖り戻しが來るから、用心しろと言つたものであります。その搖り戻しを、今の人は餘震の事だと間違へて、何時までも何時までも餘震におびえてゐます。
 普通の地震では、最初にブル/\ブルッと幾秒間かの小さな前搖れがあつて、其の後にグーラグーラといふ大搖れ、最初の十倍位の本搖れになるのです。前搖れも本搖れも、搖れ出しの元、即ち震源からは同時に出發し、同じ道を辿つて來るのですけれども、速さが違ふ爲に、斯樣に時間の差が出來るのです。搖り戻しとは此の本搖れを指すのでありまして、大地震のときは、此の爲に家が潰れ橋が落ちるやうにもなるのですから、昔の人が之を恐れたのも尤もなことであります。餘震は、どんなに強くても、最初の大地震の十分の一以下のものですから、之を搖り戻しと誤つて、縮み上がるやうなことをしては、却て昔の人に笑はれる種となるのであります。
 地塊が身動きすると、其の動きが、隣から隣に傳はつて、上下四方に擴がつて參ります。それは、丁度池の水に波が擴がるのや、空氣中に音の波が擴がるのと同樣であります。但し、地震波の傳はる岩石は、固くても幾分ごむ[#「ごむ」に傍点]のやうな働きを致しますし、同時に、曲り捩れる性質もありますから、第一に音のやうな伸縮の波と、第二に曲り捩れて傳はる横波とが出來るのです。此の中、伸縮の波は、小さいけれども速いから、第一着の小さな前搖れとなり、横波は、大きいけれども鈍《のろ》いから、第二着の本搖れとなるのであります。此の第一着と第二着との時間の差は、震源の距離が遠ければ遠い程長くなるのでありまして、時間差十秒につき震源距離八十粁、即ち一秒に付八粁といふ割合になります。
 此の事は、雷のはためくとき、電光を見てから、雷鳴を聞くまでの時間を計つて、距離の計算が出來ると同樣に、震源の位置、少くも其の距離を計るに役立ちますので、可なり面白味のあることであります。
 それでは、其の實習を試みることに致します。實習といふことがわかりにくければ、地震の放送舞臺劇といふ名前にしてもよいのです。
 先づ配役を發聲順に申します。
[#ここから2字下げ]
(先生)苗野百合助君。(生徒前田)曾木美郎君。(生徒本田)由利基君。(生徒木折)一戸八四郎君。其の他生徒大勢。場處、五年級の教場。
[#ここから1字下げ]
〔先〕皆さん。これから地震の實習を致します。先づ時計をお出しなさい。第一に、地震がブル/\(小聲にて)と始まつてから本搖れのグーラ/\(大聲にて)が始まるまでの時間を計ること。第二に、其の時間に依つて震源距離を計算すること。此二つをやります。……では用意。
〔先〕(小聲にて)ブル/\……(大聲にて)グーラ/\/\(次第に弱く緩く)。グーラ/\/\。
〔先〕前搖れは幾秒間ありましたか……ハイ。前田さん。
〔前〕ハイ、七秒です。
〔先〕さうなつた人。……これは能く出來ました。
それでは距離はいくらになりますか。
〔大勢〕先生、先生、先生、……
〔先〕本田さん。
〔本〕ハイ、五十六粁です。
〔先〕さうなつた人。……これは皆さん能く出來ました。
 それではどうして計算しましたか、木折さん。
〔木〕一秒では八粁ですから、七秒では七八五十六、五十六粁になります。
〔先〕成程、これも亦能く出來ました。
 それでは實習はこれで終りと致します。
[#ここで字下げ終わり]

 斯樣にして、一つの地震の中に、前搖れと本搖れとが含まれてゐます。大地震のとき、前搖れではまだ家が崩れる程にはなりませんが、本搖れでは家が潰れることもあります。それ故、此の本搖れは恐るべきものたるには相違ありませんが、然しながら、それは如何に長くても、一分間以上續くものではありません。ですから、大地震に出會つて一分間も辛抱してゐて、無事だと氣づきましたら、最早あぶない峠は過ぎ去つたのです。餘震は恐れる程のものではありません。地割れに吸込まれることは、日本には決してないことであります。老幼男女、總ての力のある限り一分間後に起る損害を防ぎ止めることに力めなくてはなりません。
 皆さん。
 地震に因る損害、即ち震災と、地震とは全く別物です。地震は人の力で抑へつけることは出來ませんが、震災は人の力で防ぎ止めることが出來ます。
 地震はどんな大きい場合でも、其の搖れる強さには、これ以上大きくはならないといふ、或る限度があるもののやうですから、家や橋は之に耐へるやうに造ることが出來ます。昭和二年三月七日大地震に襲はれて全滅した丹後國峯山町は、全く其の通り復舊致しました。若し又、我々の住宅が最初から其の通り丈夫に出來てゐなかつたら、あとから少し許り附加へて、崩れないやうにすることも出來ます。又たとへ家が潰れても、大きな横木に抑へつけられない限り、我々の生命に別條はありません。特に机や、腰掛のやうな丈夫な道具の蔭に居たら一層安全であります。
 地震の本搖れは、どんな場合でも一分間とは續かないものでありまして、而も此の最初の一分間に於ける震災は割合に輕小なものです、然し一分後に始まる震災、即ち火事に由る損害は、人死の數に於ても、財産の損失に於ても、最初の一分間に起る震災に比べて十倍にも百倍にもなります。實際大正十二年の關東大地震に於ては、最初の一分間の死人は三千人、財産の損失は一億圓程度に過ぎなかつたのに、一分後の損害は、大火災の爲に十萬人五十五億圓といふ前古未曾有のものになつたのであります。此處の所です。私が皆さんに申上げたいと思つて居ります最も大切なことは。即ち、大地震に出會つて最初の一分間を無事に凌いだならば、最早安心してよろしい。餘震は恐ろしいものではない。地割れに吸込まれることは、日本では絶對にない。老幼男女力のある限り、地震の損害を輕くするやう勇敢に、機敏に、沈着に働かなければならない。先づ火事を防ぎ止めることです。これが即ち死人の數や財産の損失を最も少くする第一の仕方であります。
 昭和二年丹後大地震のときには、九歳の尋常二年生や、十一歳の尋常四年生が、潰家の下敷になつて、而も沈勇機敏な働きをした話があります。
 又、大正十四年但馬大地震のとき、地震の最も烈しかつた田結《たい》といふ村では、子供達までが實に能く沈着に働いたといふ話もあります。
 此のとき、城崎の温泉町は震火災で全滅し、豊岡町は三分の二ほど燒け、兩方で三百五十九人の死人が出來ました。
 田結の村は震源の眞上にあつた爲、地震は城崎や豊岡の段でなく、最初から五秒とたゝない中に、全村八十三戸の中八十二戸潰れ、六十五人の村人が下敷になつて仕舞つたのであります。折惡しく、此の日は蠶兒の掃立日であつたので、室を温める爲三十六戸は炭火を起してゐました。此の爲にあちこちから煙が上がり、見る間に三戸は燃上がりました。若し此のとき安全であつた村人が狼狽へて仕舞つたならば、村は丸燒けとなり、下敷になつた六十五人も黒焦となつたでせう。然しながら、訓練の行屆いた村は、女子供に至るまで沈着に彼等の最善を盡しました。彼等が口々に喚んだのは「先づ火を消せ」の一語でありました。瞬く中に三ケ所の火は固より、他の家の煙までも消止められ、尋いで下敷になつてゐた人達も助け出されました。此の爲に五十八人は無事に救はれました。唯七名だけは墜落して來た梁や桁のやうな巨きな材木によつて致命傷を受けてゐました。
 斯くして田結の村は、最も激しい地震に襲はれながら、村人が先づ火を消すことに努力した爲、震災は割合に輕くて濟んだのでありました。
 以上、地震はどうして起るか、前搖れ本搖れとは何か、地震の損害はどうして防ぎ止められるかといふやうなことを申述べました。
 皆さん。昭和の御代の少年少女たる皆さん。以上申述べましたことを能く味ひ、且つ我がものにし、さうして昔の人に恥かしくないやうにして戴きたいと思ひます。(つづく)



底本:「寺田寅彦随筆集 第三巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
   1963(昭和38)年4月16日第20刷改版発行
   1997(平成9)年9月5日第64刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2000年10月3日公開
2004年3月10日修正
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*地名


濃尾地震 のうび じしん 1891年(明治24)10月28日、岐阜・愛知両県を中心として起こった大地震。マグニチュード8.0。激震地域は濃尾平野一帯から福井県に及び、死者7200人余、負傷者1万7000人余、全壊家屋14万余。また、根尾谷(岐阜県本巣市根尾付近)を通る大断層を生じた。
丹後地震 たんご じしん 丹後半島を中心に1927年3月7日に起こった地震。マグニチュード7.3、死者2925人、1万戸以上の建物が全壊。半島の付け根の郷村断層の3メートルに達する左ずれが震源。北丹後地震。
男鹿大地震 (1) 文化7年(1810)。(2) 昭和14年(1939)5月1日。M6.6、死者27名、全壊604戸。
関東大地震 → 関東大震災
関東大震災 かんとう だいしんさい 1923年(大正12)9月1日午前11時58分に発生した、相模トラフ沿いの断層を震源とする関東地震(マグニチュード7.9)による災害。南関東で震度6(当時の最高震度)。被害は、死者・行方不明10万5000人余、住家全半壊21万余、焼失21万余に及び、京浜地帯は壊滅的打撃をうけた。また震災の混乱に際し、朝鮮人虐殺事件・亀戸事件・甘粕事件が発生。
安政地震 あんせい じしん 安政初年に起こった地震。(1) 安政元(嘉永7)年(1854)11月4日、東海道の大地震。安政東海地震。震源地遠州灘沖。マグニチュード8.4。死者約2000〜3000人。(2) 同年11月5日、南海道の大地震。安政南海地震。震源地土佐沖。マグニチュード8.4。死者数千人。(3) 安政2年10月2日、江戸の大地震。江戸地震。震源地江戸川河口。マグニチュード6.9。死者(藤田東湖ら)数千人。
南海道沖大地震 → 南海道地震
南海道地震 なんかいどう じしん 四国沖から紀伊半島沖にかけて起こる巨大地震。最近では1707年(宝永4)、1854年(安政1)、1946年に発生し、特に最後のものを指すことが多い。震源の断層はプレート境界にほぼ一致。地震時に太平洋側の半島の先端部は隆起、付け根の地域は沈降する。南海地震。
北米大西洋沖地震 1929年11月18日発生。
但馬大地震 → 北但馬地震
北但馬地震 きたたじま じしん 1925年(大正14年)5月23日午前11時11分、兵庫県但馬地方北部で発生した地震。地震の規模はM6.8。当地ではこの地震による災害を、もしくは地震そのものと災害を含めた形で「北但大震災」と呼ぶ。最大震度は兵庫県の豊岡、城崎(いずれも現在の豊岡市)で観測された震度6(当時の震度階級による最大震度)。その他、兵庫県、京都府、滋賀県で震度5、岡山県、鳥取県、和歌山県、三重県で震度4をそれぞれ観測。震源地は円山川河口付近。
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[北海道]
有珠岳 → 有珠山か
有珠山 うすざん 北海道南西部、洞爺湖の南にある二重式活火山。標高733メートル。2000年に大規模な水蒸気爆発を観測。
洞爺湖 とうやこ 北海道南西部にあるカルデラ湖。湖面標高84メートル。最大深度180メートル。面積70.7平方キロメートル。南岸に有珠山・昭和新山の2火山がある。支笏湖とともに国立公園をなす。

[陸奥国]
西津軽 にしつがる 青森県の郡。
大戸瀬 おおどせ 村名・崎名。現、西津軽郡深浦町。
小戸瀬
十二湖 じゅうにこ 青森県西津軽郡深浦町にある複数の湖の総称。白神山地の一角で、津軽国定公園内にある。
二見浦 ふたみがうら 三重県伊勢市二見町にある海岸。夫婦岩のある二見興玉神社で著名。JR東海参宮線二見浦駅の駅名は海岸にちなむ。
夫婦岩 めおといわ 夫婦のように二つ並んだ岩。三重県二見ノ浦東端にあるものは有名。
千畳岩 → 千畳敷か
千畳敷 せんじょうじき 青森県西津軽郡深浦町にある海岸。津軽国定公園に属する。地名をとって深浦千畳敷とも。
深浦 ふかうら 青森県西津軽郡深浦町深浦。
岩崎 いわさき 村名・湊名。現、西津軽郡岩崎村。県西海岸の南端。
黒森山 くろもりやま 現、黒石市南中野黒森か。市街の東方、標高606.4m。
新谷川
小峯沢

[出羽][秋田県]
男鹿 おが 秋田県西部、男鹿半島の全域を占める市。半島南東岸の船川港が中心。人口3万6千。
八郎潟 はちろうがた 秋田県西部、男鹿半島の頸部にある潟湖。かつては日本第2の湖であったが、1957年以来、潟の8割が干拓される。調整池として残るのは面積27.7平方キロメートル。琴ノ湖。
男鹿半島 おが はんとう 秋田県西部、日本海に突出する半島。砂洲により本土と連なり、内側に八郎潟を形成していたが、その大部分は干拓され、大潟村となる。
象潟 きさかた 秋田県南西部の海岸、由利郡(現、にかほ市)鳥海山の北西麓にあった潟湖。東西20町余、南北30町余で、湖畔に蚶満寺(円仁の草創)があり、九十九島・八十八潟の景勝の地で松島と並称されたが、1804年(文化1)の地震で地盤が隆起して消失。(歌枕)
鳥海山 ちょうかいさん 秋田・山形県境に位置する二重式成層火山。山頂は旧火山の笙ガ岳(1635メートル)などと新火山の新山(2236メートル)とから成る。中央火口丘は鈍円錐形で、火口には鳥海湖を形成。出羽富士。
干満寺 → 蚶満寺
蚶満寺 かんまんじ 秋田県にかほ市象潟に所在する曹洞宗の寺院。山号は皇宮山、本尊は釈迦牟尼仏。古くから文人墨客が訪れた名刹として知られ、元禄2年(1689年)には松尾芭蕉が訪れ、『奥の細道』に紹介した。干満珠寺。
汐越 しおこし 塩越か。村名・湊名。現、由利郡象潟町。
能代 のしろ 秋田県北西部の市。米代川河口の南岸に臨む港湾都市。製材業・木工業が盛んで、能代塗は有名。人口6万3千。

[東京]
向島 むこうじま 東京都墨田区の一地区。もと東京市35区の一つ。隅田川と荒川(荒川放水路)に挟まれた江東北部の地。工業地帯。もと東郊の景勝地で、墨堤の桜、百花園、白鬚神社などがある。
大久保 おおくぼ 東京都新宿区にある地名。大久保一丁目から大久保三丁目までの町域を指す。1932年までは東京府豊多摩郡の自治体名。
東京放送局 現、日本放送協会(NHK)。1924年設立。1926年、社団法人日本放送協会が施設。

[神奈川]
相模湾 さがみわん 神奈川県三浦半島南端の城ヶ島と真鶴岬とを結ぶ線から北側の海域。相模川、境川、酒匂川が流入。ブリ・アジ・サバなどの好漁場。
鵠沼海岸 くげぬま かいがん 神奈川県藤沢市鵠沼地区の、相模湾に面する海岸部という意味の地名。狭義には1964年、1965年に制定された住居表示で、小田急江ノ島線以南を指し、1 - 7丁目に区分される。国道134号線沿いに位置し、東に江の島、西に富士山を望む風光明媚な海岸で、鵠沼運動公園、湘南海岸公園、鵠沼海浜公園がある。日本のサーフィン発祥の地。

[京都]
鴨川 かもがわ 賀茂川・加茂川・鴨川。京都市街東部を貫流する川。北区雲ヶ畑の山間に発源、高野川を合わせて南流し(その合流点から下流を鴨川と書く)、桂川に合流する。(歌枕)
三本木 さんぼんぎ 現、上京区か。三本木通は、京都市内の南北の通りの一つ。鴨川と河原町通の間にある。

[丹後国] たんご 旧国名。今の京都府の北部。
峰山町 みねやまちょう 京都府の北部、丹後半島の付け根に位置し、『天女の羽衣伝説』で知られる町。2004年4月1日に周辺の5町と合併し京丹後市となった。

[但馬] たじま 旧国名。今の兵庫県の北部。但州。
田結 たい 村名。現在の兵庫県豊岡市田結。北は日本海に面する。豊岡市は県北但馬地方の北東部。豊岡盆地を中心市域とする。大正14年(1925)、港村田結沖を震源地とする北但馬大震災が発生。
城崎 きのさき 兵庫県の北東部の郡。円山川・矢田川の流域にあり、日本海に面する。明治29年(1896)気多・美含両郡を併合。
城崎町 きのさきちょう かつて兵庫県北東部に存在した町。旧城崎郡。2005年4月1日、豊岡市、城崎郡竹野町・日高町、出石郡出石町・但東町と対等合併して新「豊岡市」となったため消滅した。
城崎温泉 きのさき おんせん 兵庫県豊岡市城崎町にある温泉。無色・無臭の塩化物泉で、720年(養老4)僧道智の霊験により発見されたと伝える。
豊岡町 とよおかまち/とよおかちょう 兵庫県城崎郡豊岡町(とよおかちょう、現・豊岡市)。


[フランス]
ニース Nice フランス南東部、地中海沿岸のコート‐ダジュールにある観光・保養都市。風光明媚。人口34万3千(1999)。
マルセイユ Marseille マルセーユ。フランス南東部の工業都市。地中海に臨む同国第一の貿易港。前600年ギリシア人の植民によって建設。人口79万7千(1999)。

[カナダ]
ニューファウンドランド南方沖
ニューファンドランド Newfoundland (1) カナダ東海岸セント‐ローレンス湾口にある島。北アメリカで最古のイギリス植民地。1949年カナダに合併。面積11万平方キロメートル。南東沖合に大漁場グランド‐バンクがあり、タラ・ニシンの漁獲が多い。(2) カナダ南東部の州。(1) と本土のラブラドル地方とから成る。州都セント‐ジョンズ。ニューファンドランド‐ラブラドル州。

[アメリカ]
ニューヨーク・フォルダム大学地震観測所
ブルックリン Brooklyn ニューヨークの5区のうちの一つ。マンハッタン島南東のロング‐アイランド島西端に位置する。同区北西部は工業地帯で、黒人・プエルト‐リコ人が多く住む。
ピッツバーグ Pittsburgh アメリカ合衆国北東部、ペンシルヴァニア州南西部の大工業都市。同国の代表的製鉄業都市。付近に炭田があり、石油・天然ガスなども産する。人口33万5千(2003)。
エスチングハウス電気工業所


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本歴史地名大系』(平凡社)




*年表


一七〇四(宝永元) 能代大地震。大規模の山崩れを惹起。泥流は現在の十二湖の境域をおおい、東北は新谷川に、南は小峯沢に達し、材木伐採者六名、薪取り四名が犠牲。
一六八八〜一七一一(元禄・宝永) このころ地震ナマズの説が生まれたとされる。
一七八一〜一八〇一(天明・寛政) 新城博士によれば、これ以後、現今わが国に流布している家相説が作られたという。
一七九二(寛政四) 西津軽大地震。土地が二・二メートルほど隆起。
一八〇四(文化元) 象潟大地震。陸地隆起のために絶景が一夜にうしなわれる。このときの隆起は象潟では二・二メートルほど。
一八一〇(文化七) 男鹿大地震。八郎潟では数週間前から鯔(ボラ)が多く死んで浮かぶ。このとき、湖底から石油が滲出して浮かんだ。
一八一八〜一八三〇(文政年間) このころすでに地震ナマズの説が流布。
一八三〇(文政一三)七月二日 京都大地震。死者一五〇人(あるいは二八〇人とも)。年号、天保と改まる。
一八三〇(文政一三)七月九日 頼山陽、広島にあり。
一八五九 オスボーン大佐『日本近海巡航記』出版。
一八七〇(明治三)五月一六日 今村明恒、鹿児島市に生まれる。
一八九一(明治二四)一〇月 濃尾大地震。直後に文部省震災予防調査会の地磁気測量事業が発足。故菊池大麓が政府に建議して議会において全会一致をもって可決されて設立。
一八九二(明治二五) 震災予防調査会設立当初、専門家は、地震前における地磁気分布の異変に注意して、これが調査に着手。
一八九三(明治二六) 田中館愛橘、日本全国の地磁気測量の事業を四か年計画で着手。
一八九四(明治二七) 今村、地磁気測量事業に学生として参加。六月から中村清二と二人で北海道測量南北二班の中の南班をひきうけ、夏じゅう三か月にわたる。
一八九四(明治二七) 今村、東京大学理科大学の物理学科を卒業。
一九一〇(明治四三)七月一九日 以来、洞爺湖において魚が釣れなくなる。
一九一〇(明治四三)七月二二日 以来、有珠岳爆発の前兆たる小地震群が人体に感ずるようになる。
一九一〇(明治四三)七月二五日 有珠岳爆発。
一九一七(大正六) エー・バルトン・ヘボン、東大に米国憲法歴史および外交講座を設置するために十二万円を寄付。
一九二三(大正一二)九月一日 関東大地震。相模湾では数日前から魚が釣れなくなる。最初の一分間の死人は三千人、財産の損失は一億円程度にすぎなかったのに、一分後の損害は、大火災のために十万人、五十五億円。
一九二五(大正一四)一月 震災予防調査会が官制改革により廃止。震災予防評議会と地震研究所とが設立。
一九二五(大正一四) 但馬大地震。地震のもっとも激しかった田結村では、子どもたちまでが実によく沈着に働く。城崎の温泉町は震火災で全滅し、豊岡町は三分の二ほど焼け、両方で三五九人の死人。
一九二七(昭和二)三月七日 丹後大地震。地震前に魚が取れず死魚を見て帰ってきたなどと語られる。
一九二九(昭和四)夏 パイパー夫人、地震学教室を訪れる。
一九二九(昭和四) 今村ら、震災予防の常識の普及に役立つ一文を尋常小学校教科書に入れるようにと当局に懇請。東京放送局から「地震はどうして起こるか」という題をもらう。
一九二九(昭和四)一一月一八日 大西洋大地震津波。震源はニューファウンドランド南方沖。欧米連絡の海底電線二十三本のうち十二本まで切断。死人は二十六人。
一九三〇(昭和五)春 ヘボン老婦人、東京帝国大学を訪れる。
一九三九(昭和一四) 『大法輪』三月号。
一九三九(昭和一四)五月一日 男鹿大地震。八郎潟において、前日に鯉やフナが多く漁獲され、ことに東北沿岸においてはフナの大群が岸近く押し寄せてきたといわれている。海の方でも同じように、魚族の異常が観察された。イイダコが酔ったようになって続々と陸にあがる。男鹿半島の南部では当日午前中(地震は午後三時ごろ)、半島の北方八森においては前日午後から当日午前に至るまで見られた。
一九四一(昭和一六)三月 震災予防評議会が廃止。今村は終始、委員として活動。その後、有志の人と財団法人震災予防協会を設立して、事実上これを主宰。
一九四三(昭和一八)九月 田中館の米寿。門人が集まって祝す。
一九四三(昭和一八)一一月三日 田中館、返礼として門人を自邸に招く。
一九四八(昭和二三)一月一日 今村明恒、没。臨終の前々月まで毎月、帝国学士院において、古い地震に関する史料の研究を発表。
一九四八(昭和二三)一一月 中村清二、『地震の国』序を記す。
一九四九(昭和二四)五月三〇日 『地震の国』文藝春秋新社、出版。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)

今村明恒 いまむら あきつね 1870-1948 地震学者。理学博士。鹿児島県生まれ。明治38年、統計上の見地から関東地方に大地震が起こりうると説き、大森房吉との間に大論争が起こった。大正12年、東大教授に就任。翌年、地震学科の設立とともに主任となる。昭和4年、地震学会を創設、その会長となり、機関誌『地震』の編集主任を兼ね、18年間その任にあたる(人名)。
田中館愛橘 たなかだて あいきつ 1856-1952 物理学者。岩手県生れ。東大教授。貴族院議員。地球物理学の研究、度量衡法の確立、光学・電磁気学の単位の研究、航空学・気象学の普及など、日本の理科系諸学の基礎を築き、また熱心なローマ字論者。文化勲章。
菊池大麓 きくち だいろく 1855-1917 数学者。箕作秋坪の次男。東京の人。イギリスに留学。近代数学の紹介に尽くす。東大総長・文相・京大総長・学士院長・理化学研究所長。
呂昇 → 豊竹呂昇か
豊竹呂昇 とよたけ ろしょう 1874-1930 女義太夫の太夫。本名、永田仲。名古屋の人。大阪に出て初世豊竹呂太夫に学ぶ。三味線にも長じ、艶のある美声の弾き語りで人気を得た。
中村清二 なかむら せいじ 1869-1960 物理学者。光学、地球物理学の研究で知られ、光弾性実験、色消しプリズムの最小偏角研究などを行なった。地球物理学の分野では三原山の大正噴火を機に火山学にも興味を持ち、三原山や浅間山の研究体制の整備に与力している。また、精力的に執筆した物理の教科書や、長きに亘り東京大学で講義した実験物理学は日本における物理学発展の基礎となった。定年後は八代海の不知火や魔鏡の研究を行なった。
芹沢�M介 せりざわ けいすけ 1895-1984 染色工芸家。静岡市生れ。民芸運動に参加。琉球の紅型なども研究して型絵染を創始。人間国宝。
ケンプェル → ケンペルか
Engelbert Kaempfer ケンペル 1651-1716 ドイツの外科医・博物学者。1690年(元禄3)オランダ船船医として長崎出島に渡来、商館付医員。2年間滞在、日本の歴史・政治・宗教・地理を概説した「日本誌」「廻国奇観」(「江戸参府紀行日記」はその巻5)を著す。
関谷博士 → 関谷清景か
関谷清景 せきや せいけい 1854-1896 大垣市生まれ。東京大学の前身大学南校に1870年入学、74年卒業。76〜77年英国留学、81年東京大学理学部助教授となる。88年菊地安とともに磐梯山の爆発を調査。翌年の熊本地震には病身をおして調査に参加した。このときの余震調査は日本に近代地震学が誕生して初の調査であった。(地学)
赤司鷹一郎 あかし たかいちろう 1876-1933 明治〜昭和期の官吏。文部次官、大日本職業指導協会会長、海外植民協会会長などを務めた(人レ)。
柴垣鼎太郎 文部省建築課長。
畑井博士

頼山陽 らい さんよう 1780-1832 江戸後期の儒学者。名は襄(のぼる)。通称、久太郎。別号、三十六峰外史。大坂生れ。父春水と広島に移る。江戸に出て尾藤二洲に学ぶ。京都に書斎「山紫水明処」を営み、文人と交わる。史学に関心が深く、「日本外史」「日本政記」などの史書を執筆、幕末の尊攘運動に大きな影響を与えた。詩文にすぐれ、書もよくした。著は他に「日本楽府」「山陽詩鈔」など。
篠崎小竹 しのざき しょうちく 1781-1851 江戸後期の儒学者・漢詩人。大坂の人。古賀精里に朱子学を学び、詩文・書をよくした。著「小竹斎詩鈔」など。
襄 のぼる → 頼山陽
新城博士 → 新城新蔵か
新城新蔵 しんじょう しんぞう 1873-1938 福島県生まれ。天文学者・東洋学者、理学博士。専門は宇宙物理学および中国古代暦術。東洋天文学研究の権威。
高楠
宇野博士
鴨崖 おうがい → 頼鴨�(頼三樹三郎)か
頼三樹三郎 らい みきさぶろう 1825-1859 幕末の志士・儒学者。名は醇。号は鴨�。山陽の第3子。京都生れ。詩文をよくし、梅田雲浜らと交わり、尊王攘夷を唱える。安政の大獄で捕らえられ、江戸で刑死。

能因 のういん 988-? 平安中期の歌人。中古三十六歌仙の一人。俗名、橘永�。藤原長能に和歌を学び、これが歌道師承の先例。剃髪して摂津古曾部に住み古曾部入道と称す。奥州行脚を試みた。私撰集「玄々集」、歌学書「能因歌枕」、家集「能因集」
最明寺時頼 → 北条時頼
最明寺 さいみょうじ 北条時頼の称。
北条時頼 ほうじょう ときより 1227-1263 鎌倉幕府の執権。時氏の次子。母は松下禅尼。北条氏の独裁制(得宗専制)は彼の時代にほぼ確立。出家して道崇、世に最明寺殿という。出家後、ひそかに諸国を遍歴して治政民情を視察したと伝える。
西行 さいぎょう 1118-1190 平安末・鎌倉初期の歌僧。俗名、佐藤義清。法名、円位。鳥羽上皇に仕えて北面の武士。23歳の時、無常を感じて僧となり、高野山、晩年は伊勢を本拠に、陸奥・四国にも旅し、河内国の弘川寺で没。述懐歌にすぐれ、新古今集には94首の最多歌数採録。家集「山家集」
芭蕉 → 松尾芭蕉
松尾芭蕉 まつお ばしょう 1644-1694 江戸前期の俳人。名は宗房。号は「はせを」と自署。別号、桃青・泊船堂・釣月軒・風羅坊など。伊賀上野に生まれ、藤堂良精の子良忠(俳号、蝉吟)の近習となり、俳諧に志した。一時京都にあり北村季吟にも師事、のち江戸に下り水道工事などに従事したが、やがて深川の芭蕉庵に移り、談林の俳風を超えて俳諧に高い文芸性を賦与し、蕉風を創始。その間各地を旅して多くの名句と紀行文を残し、難波の旅舎に没。句は「俳諧七部集」などに結集、主な紀行・日記に「野ざらし紀行」「笈の小文」「更科紀行」「奥の細道」「嵯峨日記」などがある。
蘇東坡 そとうば 蘇軾の別名。
蘇軾 そ しょく 1036-1101 北宋の詩人・文章家。唐宋八家の一人。字は子瞻、号は東坡(居士)。父の洵、弟の轍とともに三蘇と呼ばれる。王安石と合わず地方官を歴任、のち礼部尚書に至る。新法党に陥れられて瓊州・恵州に貶謫。書画もよくした。諡は文忠。「赤壁賦」ほかが「蘇東坡全集」に収められる。
神功皇后 じんぐう こうごう 仲哀天皇の皇后。名は息長足媛。開化天皇第5世の孫、息長宿祢王の女。天皇とともに熊襲征服に向かい、天皇が香椎宮で死去した後、新羅を攻略して凱旋し、誉田別皇子(応神天皇)を筑紫で出産、摂政70年にして没。(記紀伝承による)
西施 せいし 春秋時代の越の伝説上の美女。越王勾践が呉に敗れて後、呉王夫差の許に献ぜられ、夫差は西施の色に溺れて国を傾けるに至った。
枯萍 かれくさ?

斎田理学士 さいだ?
パイパー夫人
オスボーン大佐 著『日本近海巡航記』一八五九年出版。
ヘボン夫人 エー・バルトン・ヘボンの未亡人。
エー・バルトン・ヘボン ヘボン J.C. の親戚。
James Curtis Hepburn ヘボン 1815-1911 アメリカ長老派教会宣教師・医師。1859年(安政6)来日、医療・伝道のかたわら、最初の和英・英和辞典(和英語林集成)を完成、ヘボン式ローマ字を創始。明治学院を創立。92年(明治25)帰国。日本名、平文。ヘプバーン。
高木博士
市橋女史

Isaac Newton ニュートン 1642-1727 イギリスの物理学者・天文学者・数学者。ケンブリッジ大教授。力学体系を建設し、万有引力の原理を導入した。また微積分法を発明し、光のスペクトル分析などの業績がある。1687年「プリンキピア(自然哲学の数学的原理)」を著す。近代科学の建設者。のち、造幣局長官・英国王立協会長を歴任。
ケルヴィン → ウィリアム・トムソンか
William Thomson ウィリアム・トムソン 1824-1907 イギリスの物理学者。ケルヴィン卿(Lord Kelvin)の通称で知られる。特にカルノーの理論を発展させた絶対温度の導入、クラウジウスと独立に行われた熱力学第二法則(トムソンの原理)の発見、ジュールと共同で行われたジュール=トムソン効果の発見などといった業績がある。古典的な熱力学の開拓者の一人。1866年、大西洋横断海底電信ケーブルの敷設に成功。
加藤清正 かとう きよまさ 1562-1611 安土桃山時代の武将。尾張の人。豊臣秀吉の臣。通称虎之助と伝える。賤ヶ岳七本槍の一人。文禄の役に先鋒、慶長の役で蔚山(ウルサン)に籠城、関ヶ原の戦では家康に味方し、肥後国を領有。


文藝春秋新社 文藝春秋。1946年3月、「戦争協力」のため解散したが、社員有志により同年6月、株式会社文藝春秋新社が設立される。

震災予防調査会 しんさい よぼう ちょうさかい 明治・大正時代の文部省所轄の地震研究機関。明治24年(1891)濃尾大地震のあと建議され発足。活動は明治25年より大正14年(1925)の34年間。大森房吉が精力的に活動。大正12年、関東大地震が発生し、この被害にかんがみ委員制ではなく独自の研究員と予算をもつ常設研究所設置の必要がさけばれ、大正14年、研究所発足とともに調査会は発展解消された。(国史)
陸軍中央幼年学校 → 陸軍幼年学校
陸軍幼年学校 りくぐん ようねんがっこう 陸軍将校を志願する少年に対して陸軍士官学校の予備教育を行う学校。東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本にあった。
震災予防評議会 1941年廃止。(地学)
地震研究所 → 東京大学地震研究所か
東京大学地震研究所 とうきょうだいがく じしんけんきゅうじょ 東京大学の附置研究所(附置全国共同利用研究所)。1925年に設立された。地震学、火山学などを中心に幅広い分野の研究が行われている。

震災予防協会 しんさい よぼう きょうかい 財団法人。1925年に震災予防調査会の事業の一部を引き継いだ文部省の震災予防評議会が、41年臨戦下の機構整理で廃止されたため、今村明恒が中心となり震災予防の普及のために設立した。戦後長らく活動をしていなかったが、84年日本地震工学振興会をその部会として吸収、以後地震、火山の防災と学術研究の普及事業を活発に行っている。(地学)
帝国学士院 ていこく がくしいん 1879年(明治12)設立の東京学士会院に代わって1906年設置された、日本の学術に関して最高権威をもつ機関。文部省所轄で、会員定数は100名、終身で勅任官の待遇を受けた。日本学士院の前身。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本人名大事典』(平凡社)『新版 地学事典』(平凡社、2005.5)『国史大辞典』(吉川弘文館)、『人物レファレンス事典』(日外アソシエーツ、2000.7)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)

「生写朝顔日記宿屋の段」 → 生写朝顔話か
「生写朝顔話」 しょううつし あさがお ばなし 浄瑠璃。近松徳叟作、翠松園補の時代物。1832年(天保3)初演。司馬芝叟の長話「蕣」を原拠とし、秋月弓之助の娘深雪と駒沢次郎左衛門との情話を脚色。4段目「宿屋」「大井川」が有名。朝顔日記。後に歌舞伎化。
『日本記事』 → 『日本誌』か
『日本誌』 にほんし エンゲルベルト・ケンペルが執筆した書物。16〜17世紀に日本に渡った際、日本での見聞をまとめたもの。エンゲルベルト・ケンペルは長崎の出島のオランダ商館に勤務したドイツ人医師。
『山陽書簡集』 頼山陽。
『日本近海巡航記』 オスボーン大佐の著。一八五九年出版。
『ブルックリン・デイリー・イーグル紙』 ニューヨーク。
 パイパー夫人「島帝国の震災予防対策」一九二九年十一月十七日。
『大法輪』昭和十四年(一九三九)三月号。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*難字、求めよ


地磁気 ちじき 地球の持つ磁気と、それによって生じる磁場との総称。磁針が地球のほぼ南北を指す原因。偏角・伏角・水平磁力を地磁気の3要素という。地磁気の発生は、地球の中心部の外核に起因する。地球磁気。
畢生 ひっせい 命の終わるまでの間。一生涯。終生。
洒々落々 しゃしゃ らくらく (「洒落を強調した語」)性質・言動などがさっぱりとして、こだわる所のないさま。
素語り すがたり 伴奏楽器なしで平曲・浄瑠璃などを語ること。
ない(ナヰ) (ナは土地の意。ヰは場所またはそのものの存在を明らかにする意)地。転じて、地震。
セイスモス
聴官 ちょうかん 聴覚器に同じ。
初期微動 しょき びどう 地震動のうちで最初に現れる比較的振幅の小さく周期の短い微振動。P波による振動と考えられる。この継続時間を震源の位置決定に利用する。
空振 くうしん 火山の爆発などによる空気の振動。可聴周波数の部分は、爆発音として伝わる。
側線 そくせん 〔生〕主に魚類・両生類の体の両側に線状に並んでいる感覚器。水流・水圧を感知する。側線器。

飯蛸 いいだこ マダコ科のタコ。全長約25センチメートル。両眼の間に角形の、また第三腕基部付近に輪状の金色の紋がある。腹に飯粒状の卵を持つところからこの名があり、春に産卵。美味で、また佃煮・乾蛸にもする。日本・中国の浅海に産する。いしだこ。望潮魚。
地電流 ちでんりゅう 地中を流れる電流。地磁気変化によって誘導されるもののほか、雷、物質や温度の分布に伴う物理・化学的起電力によるもの、人為的なものなどが含まれる。
陰魚

郵報 ゆうほう 郵便で知らせること。
家相 かそう 吉凶に関係があるとされる家の位置・方向・間取りなどのあり方。中国から伝来した俗信で、陰陽五行説に基づく。
郵籤 ゆうせん 知らせるために文章を書いて駅伝を利用して送ること。転じて、郵便。「籤」は竹の札。
九陌 きゅうはく 9本の大道。都大路。
啼哭 ていこく 大声をあげて泣くこと。
挈えて たずさえて
墜瓦
稚子 ちし おさない子。おさなご。ちご。
居守 きょしゅ とどまり居て守ること。留守。
�掲 れいけい (1) 浅瀬をえらんで歩いて川を押し渡ること。かちわたり。徒歩。(2) 時勢に応じてうまく世を渡ること。
糴価 てきか? かいね?
援手
災
黔黎 けんれい (秦では「黔首」、周では「黎民」といったことから)人民。庶民。百姓。
饑民 きみん 飢民。うえている人民。
吟吼 咆吼?
耿々 こうこう (1) 光の明るいさま。きらきらと光るさま。(2) 心を安んぜぬさま。うれえるさま。思うことがあって忘れられないさま。
※[#「木+巳」]人 → 杞人か
杞人 きじん 杞人の憂え。[列子天瑞](中国の杞の国の人が、天地が崩れて落ちるのを憂えたという故事に基づく)将来のことについてあれこれと無用の心配をすること。取り越し苦労。
坤軸 こんじく 大地の中心を貫いていると想像される軸。地軸。
掀動 きんどう?
醒悟 せいご 迷いがはれて悟りを得ること。さとり。
剪去 せんきょ?

地変 ちへん 土地の変動。海岸線の移動、土地の陥没、火山の噴火または地震などの地殻変動。地異。
滄桑の変 そうそうのへん 桑田変じて滄海となるような大変化。世の変遷のはげしいことにいう。
凡景 凡境(ぼんけい)か。普通の場所。霊地などに対していう。
勝区 しょうく 景色のすぐれた所。勝地。
翠松 すいしょう 青々とした松。
嫋々 じょうじょう (1) 風のそよそよと吹くさま。(2) しなやかなさま。なよなよとしたさま。(3) 音声の長くひびいて絶えないさま。
合歓木 ねむのき マメ科の落葉小高木。山地や川原に自生。葉は細かい羽状複葉、小葉は10〜20対。葉は夜、閉じて垂れる。6〜7月頃、紅色の花を球状に集めて咲く。花弁は目立たず、雄しべは多数に割れ紅色。莢は扁長楕円形。材は胴丸火鉢・下駄歯に、樹皮は打撲傷・駆虫に用いる。ねむ。ねぶ。ごうかん。
方寸 ほうすん (1) 1寸四方。転じて、ごくせまい所。(2) こころ。心中。胸中。
海人・蜑 あま (「あまびと(海人)」の略か) (1) 海で魚や貝をとり、藻塩などを焼くことを業とする者。漁夫。(2) (「海女」「海士」と書く)海に入って貝・海藻などをとる人。
瀲 れんえん さざなみが立ち、光りきらめくさま。また、水が満ちあふれて静かにゆれ動くさま。
空濛 くうもう 霧雨が降って、うすぐらいさま。ぼんやりと暗いさま。
掻痕
連りに しきりに

方杖 ほうづえ 頬杖。庇・小屋組・梁を柱で受ける時、柱と陸梁との中間同士を斜めに結んで構造を堅固にする短い材。すじかい。
解纜 かいらん (ともづなを解く意)船が出帆すること。ふなで。
某々地 なになに?
喙 くちばし 喙をいれる。喙をはさむ。
闡明 せんめい はっきりしていなかった道理や意義を明らかにすること。
夏樹立 なつこだち 夏木立。夏の頃の繁った木立。

音なう おとなう おとずれる。
掃立 はきたて 養蚕で、孵化した毛蚕を、蚕卵紙から羽箒で掃きおろし蚕座へ移すこと。/本来は一年に一回、桑の芽吹く春におこなわれた作業で、春の季語となっている。
喚んだ さけんだ


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)『日本国語大辞典 第二版』(小学館、2001.5)『学研新漢和大字典』。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 前号、寺田寅彦「火山の名について」
 月山。
 有史に月山が噴火した記録はなく、「つきやま」と訓読みした例もない。大同元年(806)に封戸二戸を授与され(「大同元年牒」新抄格勅符抄)、貞観10年4月15日条『三代実録』に「飽海郡月山、大物忌両神社前、雨石鏃六枚」とあるのが初見か(『日本歴史地名大系』平凡社より)。
 疑問その1。「がっさん」と音読みの名がつく前に、先住蝦夷による呼称があったとしても不思議でない。「がっさん」は大和朝廷オリジナルの呼称か。蝦夷の呼称から音の転訛か。それとも「月の山」の意味転用か。
 疑問その2。なぜ「月」なのか。太陽(活火山、阿蘇山・富士山・鳥海山・朝日岳など)に対して月(死火山・休火山)=静・死のシンボライズということか。山形市や天童・寒河江からは月山は北西の方向にあたり、月の出入方向とは異なる。村山や尾花沢からはほぼ真西にあたるが、おそらく葉山に隠れて見えない。月山山頂が月の出の位置と重なるとすれば、庄内地方、鶴岡方面からの光景が由来か。
 疑問その3。全国各地に「月山」がある。山名が五か所。川名が一か所。寺名が五か所。神社名が八か所。月山富田城が島根県に。そのうちのどれが本家本元の「月山」なのか。また、全国各地に「築山(つきやま)」があるが(八か所)、月山と築山は関係がありやなしや。
 疑問その4。月山南麓に「月山沢(つきやまざわ)」という地名と川の名がある。月山本体を「つきやま」と呼ぶことが皆無なのに、「つきやまざわ」という名称があることの理由はなぜか。
 疑問その5。地名を名字に用いた例は多いが、「月山」という名字を古今、聞いたことがない。唯一、刀鍛冶・刀工の一派に「月山」があるのみ。山名=神の名を用いることをはばかったということなのか。

 池澤夏樹(編)『本は、これから』(岩波新書、2010.11)読了。デジタルがアナログを駆逐するならば、アコースティックギターやグランドピアノはとっくになくなっていてもいいはず。長期保存のみを目的にするならば和紙に墨が好ましいはずだが、そこまで回帰する紙原理主義派は少ない。四色分解や面付けや版ズレや乱丁を知る職人は少なくなってしまうかもしれない。が、それで表現者や表現されるものの範囲がせばまるとは思わない。松岡正剛『わたしが情報について語るなら』(ポプラ社、2011.3)読了。
 26日(日)雨。市民会館にて「天童温泉開湯100周年シンポジウム・温泉文化を考える」。七〇代男性を中心に七〇名くらいか。




*次週予告


第三巻 第五〇号 
地震の国(二)今村明恒


第三巻 第五〇号は、
七月九日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第三巻 第四九号
地震の国(一)今村明恒
発行:二〇一一年七月二日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。



T-Time マガジン 週刊ミルクティー*99 出版

第二巻
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第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン 【月末最終】
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第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン 
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第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 
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第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 
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第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 
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第六号 新羅人の武士的精神について 池内宏 【月末最終】
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第七号 新羅の花郎について 池内宏 
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第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉 
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第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治 
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第十号 風の又三郎 宮沢賢治 【月末最終】
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第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎 
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第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎 
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第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎 
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第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎 
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第一七号 赤毛連盟 コナン・ドイル 
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第一八号 ボヘミアの醜聞 コナン・ドイル 
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第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル 【月末最終】
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第二〇号 暗号舞踏人の謎 コナン・ドイル 
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第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉 
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第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉 
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第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太  【月末最終】
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第二四号 まれびとの歴史/「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫 
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第二五号 払田柵跡について二、三の考察/山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉 
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第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎 
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第二七号 種山ヶ原/イギリス海岸 宮沢賢治 
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第二八号 翁の発生/鬼の話 折口信夫  【月末最終】
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第二九号 生物の歴史(一)石川千代松 
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第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松 
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第三一号 生物の歴史(三)石川千代松 
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第三二号 生物の歴史(四)石川千代松  【月末最終】
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第三三号 特集 ひなまつり   雛 芥川龍之介
 雛がたり 泉鏡花
 ひなまつりの話 折口信夫
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第三四号 特集 ひなまつり   人形の話 折口信夫
 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫
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第三五号 右大臣実朝(一)太宰治 
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第三六号 右大臣実朝(二)太宰治 【月末最終】
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第三七号 右大臣実朝(三)太宰治 
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第三八号 清河八郎(一)大川周明 
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第三九号 清河八郎(二)大川周明 
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第四〇号 清河八郎(三)大川周明  【月末最終】
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第四一号 清河八郎(四)大川周明 
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第四二号 清河八郎(五)大川周明 
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第四三号 清河八郎(六)大川周明 
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第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉 
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第四五号 火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉  【月末最終】
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第四六号 手長と足長/くぐつ名義考 喜田貞吉 
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第四七号 「日本民族」とは何ぞや/本州における蝦夷の末路 喜田貞吉 
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第四八号 若草物語(一)L. M. オルコット 
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第四九号 若草物語(二)L. M. オルコット  【月末最終】
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第五〇号 若草物語(三)L. M. オルコット 
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第五一号 若草物語(四)L. M. オルコット 
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第五二号 若草物語(五)L. M. オルコット 
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第五三号 二人の女歌人/東北の家 片山広子 
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第三巻 第一号 星と空の話(一)山本一清  【月末最終】
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第三巻 第二号 星と空の話(二)山本一清 
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第三巻 第三号 星と空の話(三)山本一清 
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第三巻 第四号 獅子舞雑考/穀神としての牛に関する民俗 中山太郎 
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第三巻 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉  【月末最終】
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第三巻 第六号 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝 
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第三巻 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南 
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第三巻 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南 
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第三巻 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南  【月末最終】
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第三巻 第一〇号 最古日本の女性生活の根底/稲むらの陰にて 折口信夫 
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第三巻 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦  定価:200円 瀬戸内海の潮と潮流/コーヒー哲学序説/神話と地球物理学/ウジの効用
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第三巻 第一二号 日本人の自然観/天文と俳句 寺田寅彦 
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第三巻 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉 
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第三巻 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉  【月末最終】
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第三巻 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉  定価:200円 倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う/倭奴国および邪馬台国に関する誤解
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第三巻 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳) 
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第三巻 第一七号 高山の雪 小島烏水 
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第三巻 第一八号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(一)徳永 直  【月末最終】
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第三巻 第一九号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(二)徳永 直 
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第三巻 第二〇号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(三)徳永 直 
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第三巻 第二一号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(四)徳永 直 
 アジアには十六世紀を前後して銅活字の時代があり、朝鮮でも日本でもおこなわれている。秀吉の朝鮮侵略のみやげものに端を発している家康・家光時代の銅活字印刷があるけれど、それにくらべると、このさし絵に見る康熙帝の印刷局ははるかに大規模で組織的であることがわかる。しかし、日本でも『お湯殿日記』に見るような最初の文選工は「お公卿たち」であったが、支那でもあごひげの長い官人たちであった。明治になって印刷術が近代化されてからでも、印刷工業をおこした人々の多くが、武家など文字になじみのある階級だったように、私の徒弟だったころの先輩の印刷工の多くが、やはり士族くずれだったことを思い出す。(略)
 武英殿の銅活字は康熙帝の孫、高宗〔乾隆帝〕の代になるとつぶされて銅貨となった。日本でも家康時代の銅活字は同じ運命をたどっているけれど、支那のばあいは銅貨の不足が原因といわれている。しかし、もっと大きな原因は金属活字にあって、漢字組織ができないならば、またプレス式の印刷機もないとするならば、むしろ手わざの発達による木版の方が容易であり便利であった。ボディが銅であれ鉛であれ、それが彫刻に過ぎないならば、むしろ木版にしくはない。銅活字がほろびて再び木版術が栄え、極彩色の芸術的な印刷物もできるようになった。康熙・乾隆の時代に見られるこの傾向は、十七世紀の終わりから十八世紀のなかほどまでであるが、江戸中期から木版術が再興し、世界にたぐいない木版印刷術を生み出した日本と時間的にもほぼ一致している――ということも、漢字が持つ共通の宿命がするわざであったろう。
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第三巻 第二二号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(五)徳永 直  【月末最終】
 『東洋文化史上におけるキリスト教』(三六二ページ)で溝口靖夫氏は、前に述べたメドハーストが(Ibid, P.366)自分の当時の経験を追懐した文章を根拠にして、つぎのように述べているところがある。――第五の困難は、アヘン問題と宣教師の関係であった。メドハーストが広東に着いた一八三五年は、アヘン戦争の直前であり、支那と英国のあいだに険悪な空気がみなぎっていた。このときにあたって宣教師たちは、きわめて困難なる立場に置かれた。宣教師たちは、しばしばアヘンを積んだ船に乗ってきた。しかも、メドハーストらは切符は買っているが、積荷について容嘴(ようし)する権利はなかった。……宣教師は、英国人と支那人との間に立って、しばしば通訳の労をとらねばならなかったが、こんなとき支那人はアヘン貿易は正義にかなえるものなりや否や? をただすのであった。……ゆえに当時、宣教師たちのこいねがったのは、一艘の伝道用船を得ることであった。これによりアヘンの罪悪からまぬがるることであった。――一艘の伝道船で、アヘンから逃れることはできないけれど、一口にいって「インドからの手紙」は、英国議会をして宣教師らの活動を保証させる決議案をパスさせながら、こんどは「信教の自由憲章」を勝ち取らねばならぬほどそれが首かせになったことを示している。つまり、産業革命が生み出したアルファベット人種の革命的進歩性は、おなじ産業革命が生み出した「アヘンの罪悪」と衝突しなければならなかったが、この矛盾こそ資本主義の矛盾の中味であり、限界であった。
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第三巻 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治 
「ですから、もしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです。またこれを大きな乳の流れと考えるなら、もっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂油(あぶら)の球にもあたるのです。(略)
 先生は中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両面の凸レンズをさしました。
「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶが、みんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの太陽がこのほぼ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄いので、わずかの光る粒、すなわち星しか見えないのでしょう。こっちやこっちの方はガラスが厚いので、光る粒すなわち星がたくさん見え、その遠いのはボウッと白く見えるという、これがつまり今日の銀河の説なのです。そんならこのレンズの大きさがどれくらいあるか、また、その中のさまざまの星についてはもう時間ですから、この次の理科の時間にお話しします。では今日はその銀河のお祭りなのですから、みなさんは外へ出て、よく空をごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいなさい。
 そして教室じゅうはしばらく机のふたをあけたりしめたり本をかさねたりする音がいっぱいでしたが、まもなく、みんなはきちんと立って礼をすると教室を出ました。 
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
第三巻 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治 
 そのとき汽車はだんだんしずかになって、いくつかのシグナルと転轍器(てんてつき)の灯をすぎ、小さな停車場に止まりました。
 その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示し、その振子は、風もなくなり汽車も動かずしずかなしずかな野原のなかに、カチッカチッと正しく時をきざんで行くのでした。
 そしてまったくその振子の音の間から遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな旋律が糸のように流れてくるのでした。「新世界交響楽だわ。」むこうの席の姉がひとりごとのようにこっちを見ながらそっと言いました。まったくもう車の中ではあの黒服の丈高い青年も誰もみんなやさしい夢を見ているのでした。
(こんなしずかないいところで僕はどうしてもっと愉快になれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい。僕といっしょに汽車に乗っていながら、まるであんな女の子とばかり話しているんだもの。僕はほんとうにつらい。
 ジョバンニはまた両手で顔を半分かくすようにして、むこうの窓の外を見つめていました。
 透きとおったガラスのような笛が鳴って、汽車はしずかに動き出し、カムパネルラもさびしそうに星めぐりの口笛をふきました。
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第三巻 第二五号 ドングリと山猫/雪渡り 宮沢賢治 
 空が青くすみわたり、ドングリはピカピカしてじつにきれいでした。
「裁判ももう今日で三日目だぞ、いい加減になかなおりをしたらどうだ。」山ねこが、すこし心配そうに、それでもむりに威張(いば)って言いますと、ドングリどもは口々にさけびました。
「いえいえ、だめです、なんといったって頭のとがってるのがいちばんえらいんです。そしてわたしがいちばんとがっています。
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。いちばんまるいのはわたしです。
「大きなことだよ。大きなのがいちばんえらいんだよ。わたしがいちばん大きいからわたしがえらいんだよ。
「そうでないよ。わたしのほうがよほど大きいと、きのうも判事さんがおっしゃったじゃないか。
「だめだい、そんなこと。せいの高いのだよ。せいの高いことなんだよ。
「押しっこのえらいひとだよ。押しっこをしてきめるんだよ。」もうみんな、ガヤガヤガヤガヤ言って、なにがなんだか、まるで蜂の巣をつっついたようで、わけがわからなくなりました。そこで山猫がさけびました。
「やかましい! ここをなんとこころえる。しずまれ、しずまれ!」
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第三巻 第二六号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(六)徳永 直 
 活字が日本に渡るには、他の条件が必要であった。そして、その他の条件のうちもっとも大きなものは、やはり文久二年・一八六二年の日本幕府がはじめてやった貿易船千歳丸の上海入港であったろう。(略)経済的にいえばこの貿易は失敗したけれど、不馴れな幕府の役人たちは積荷をそのまま持ち戻るはめにもなったけれど、オランダの役人につれられて各国の領事たちにあったり、諸外国人の活動ぶりを見てびっくりした。たとえばこれを便乗者・高杉一人の場合に見てもあきらかである。(略)その後二年あまりで、攘夷の中心長州藩が領民に洋品使用の禁を解き、薩摩や佐賀と前後して海外貿易を営なんだ急角度の転回も、したがって「薩長締盟」を可能にした思想的背景も、このときの千歳丸便乗によって彼が上海で感得したものによるところ、はなはだ多いといわれている。
 (略)第一回の千歳丸のときは高杉のほかに中牟田や五代〔五代友厚か。〕や浜松藩の名倉(なぐら)予可人(あなと)などあったが、第二回の健順丸のときは、前巻でなじみの昌造の同僚で長崎通詞、安政開港に功労のあった森山多吉郎、先の栄之助がいまは外国奉行支配調役として乗り組んでいたし、第三回目、慶応三年(一八六七)の同じく幕府船ガンジス号のときは、佐倉藩士高橋作之助〔猪之助か。(のちの由一)ら多数があり、たび重なるにつれて上海渡航者の数は急速に増えていった。(略)
 また、官船以外の密航者、あるいは藩所有の船修理と称して渡航する者もたくさんあった。(略)さては中浜万次郎を案内に立てて汽船を買いに来た土佐藩の後藤象次郎などと、千歳丸以後は「きびす相ついで」いる(略)。
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第三巻 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫  【月末最終】
黒川能・観点の置き所
 特殊の舞台構造
 五流の親族
 能楽史をかえりみたい
 黒川の能役者へ
村で見た黒川能
能舞台の解説
春日若宮御祭の研究
 おん祭りの今と昔と
 祭りのお練り
 公人の梅の白枝(ずはえ)
 若宮の祭神
 大和猿楽・翁
 影向松・鏡板・風流・開口
 細男(せいのお)・高足・呪師

 山形県には、秋田県へかけて室町時代の芸能に関した民俗芸術が多く残っております。黒川能は、その中でも著しいものの一つで、これと鳥海山の下のひやま舞い〔杉沢比山舞か。〕との二つは、特に皆さまに見ていただきたいものであります。この黒川能が二十数年ぶりでのぼってくるのであります。世話をしてくださった斎藤氏〔斎藤香村か。〕に感謝しなければならないと思います。
 特にこの能で注意しなければならないのは、舞台構造であります。京都の壬生念仏を思わせるような舞台で、上下の廊下が橋掛りになっており、舞台の正面には春日神社の神殿をひかえているのであります。(略)奉仕する役者はというと、上座と下座が二部落にわかれており、ここで能をするときは、上座は左橋掛り(正面から見て)から出て舞い、下座は右橋掛りから出て舞うことになっている。これはもっとも大きな特徴で、今度の公演にいくぶんでも実現できれば結構だと思います。この神前演奏の形は、春日の若宮祭りの第一日の式と同形式といっていいと思います。しかも、黒川ではつねにその形式をくり返しているわけで、見物人よりも神に対する法楽を主としていることがわかります。
(略)おもしろいのは狂言です。表情にも言語にも必ず多少の驚きを受けられるでしょう。ことに方言的な言い回しなどには、つい、われわれも見ていて釣りこまれるものがありました。「黒川能・観点の置き所」より)
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第三巻 第二八号 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎  定価:200円
面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
能面の様式 / 人物埴輪の眼
(略)しかし「意味ある形」、たとえば「甲冑」を円筒上の人物に着せたとなると、その甲冑は、四肢などに対するとはまったく段ちがいの細かな注意をもって表現されている。(略)それはこの鉄の武器が、人体などよりもはるかに強い関心の対象であったことを示すものであって、いかにも古墳時代の感じ方らしい。(略)
(略)埴輪(はにわ)人形を近くからでなく、三間、五間、あるいはそれ以上に、ときには二、三十間の距離を置いて、ながめてみる必要があると思う。それによって埴輪人形の眼はじつに異様な生気をあらわしてくるのである。もし、この眼が写実的に形作られていたならば、すこし遠のけば、はっきりとは見えなくなるであろう。しかるにこの眼は、そういう形づけを受けず、そばで見れば粗雑に裏までくりぬいた空洞の穴にすぎないのであるが、遠のけば遠のくほど、その粗雑さが見えなくなり、魂の窓としての眼の働きが表面へ出てくる。それが異様な生気を現わしてくるゆえんなのである。眼にそういう働きがあらわれれば、顔面は生気をおび、埴輪人形全体が生きてくるのはもちろんである。古墳時代の人々はそういうふうにして埴輪の人形を見、また、そういうふうに見えるものとして埴輪の人形を作ったのであった。
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第三巻 第二九号 火山の話 今村明恒  定価:200円
 桜島噴火はいちじるしい前徴を備えていた。数日前から地震が頻々(ひんぴん)におこることは慣例であるが、今回も一日半前から始まった。また七、八十年前から土地がしだいに隆起しつつあったが、噴火後は元どおりに沈下したのである。そのほか、温泉・冷泉がその温度を高め、あるいは湧出量を増し、あるいは新たに湧出し始めたようなこともあった。
 霧島火山群は東西五里にわたり二つの活火口と多くの死火山とを有している。その二つの活火口とは矛の峰(高さ一七〇〇メートル)の西腹にある御鉢(おはち)と、その一里ほど西にある新燃鉢(しんもえばち)とである。霧島火山はこの二つの活火口で交互に活動するのが習慣のように見えるが、最近までは御鉢が活動していた。ただし享保元年(一七一六)における新燃鉢の噴火は、霧島噴火史上においてもっとも激しく、したがって最高の損害記録をあたえたものであった。
 磐梯山(高さ一八一九メートル)の明治二十一年(一八八八)六月十五日における大爆発は、当時、天下の耳目を聳動(しょうどう)せしめたものであったが、クラカトアには比較すべくもない。このときに磐梯山の大部分は蒸気の膨張力によって吹き飛ばされ、堆積物が渓水をふさいで二、三の湖水を作ったが、東側に流れ出した泥流のために土地のみならず、四百余の村民をも埋めてしまったのである。
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第三巻 第三〇号 現代語訳『古事記』(一)武田祐吉(訳)  定価:200円
 古事記 上の巻
   序文
    過去の時代(序文の第一段)
    『古事記』の企画(序文の第二段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
   一、イザナギの命とイザナミの命
    天地のはじめ
    島々の生成
    神々の生成
    黄泉の国
    身禊
   二、アマテラス大神とスサノオの命
    誓約
    天の岩戸
   三、スサノオの命
    穀物の種
    八俣の大蛇
    系譜
 スサノオの命は、かようにして天の世界から逐(お)われて、下界へ下っておいでになり、まず食物をオオゲツ姫の神にお求めになりました。そこでオオゲツ姫が鼻や口、また尻からいろいろのごちそうを出して、いろいろお料理をしてさしあげました。この時にスサノオの命はそのしわざをのぞいて見て、きたないことをして食べさせるとお思いになって、そのオオゲツ姫の神を殺してしまいました。殺された神の身体にいろいろの物ができました。頭にカイコができ、二つの目に稲種ができ、二つの耳にアワができ、鼻にアズキができ、股の間にムギができ、尻にマメができました。カムムスビの命が、これをお取りになって種となさいました。
 かくてスサノオの命は逐いはらわれて出雲の国の肥(ひ)の川上、鳥髪(とりかみ)という所におくだりになりました。このときに箸(はし)がその河から流れてきました。それで川上に人が住んでいるとお思いになってたずねて上っておいでになりますと、老翁と老女と二人があって少女を中において泣いております。そこで「あなたは誰ですか?」とおたずねになったので、その老翁が、「わたくしはこの国の神のオオヤマツミの神の子でアシナヅチといい、妻の名はテナヅチ、娘の名はクシナダ姫といいます」と申しました。また「あなたの泣くわけはどういう次第ですか?」とおたずねになったので「わたくしの女(むすめ)はもとは八人ありました。それを高志(コシ)の八俣の大蛇(おろち)が毎年きて食べてしまいます。今また、それの来る時期ですから泣いています」と申しました。
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第三巻 第三一号 現代語訳『古事記』(二)武田祐吉(訳)  【月末最終】
 古事記 上の巻
   四、大国主の命
    兎と鰐
    赤貝姫と蛤貝姫
    根の堅州国(かたすくに)
    ヤチホコの神の歌物語
    系譜
    スクナビコナの神
    御諸山の神
    大年の神の系譜
   五、アマテラス大神と大国主の命
    天若日子(あめわかひこ)
    国譲り
   六、ニニギの命
    天降り
    猿女の君
    木の花の咲くや姫
   七、ヒコホホデミの命
    海幸と山幸
    トヨタマ姫
スクナビコナの神 そこで大国主の命が出雲の御大(みほ)の御埼(みさき)においでになった時に、波の上をツルイモのさやを割って船にして、蛾(が)の皮をそっくりはいで着物にして寄ってくる神さまがあります。その名を聞きましたけれども答えません。また、御従者(おとも)の神たちにおたずねになったけれども、みな知りませんでした。ところがヒキガエルが言うことには、「これはクエ彦がきっと知っているでしょう」と申しましたから、そのクエ彦を呼んでおたずねになると、「これはカムムスビの神の御子でスクナビコナの神です」と申しました。よってカムムスビの神に申し上げたところ、「ほんとにわたしの子だ。子どもの中でも、わたしの手の股からこぼれて落ちた子どもです。あなた、アシハラシコオの命と兄弟となってこの国を作り固めなさい」とおおせられました。それで、それから大国主とスクナビコナとお二人が並んでこの国を作り固めたのです。後にはそのスクナビコナの神は、海のあちらへ渡って行ってしまいました。このスクナビコナの神のことを申し上げたクエ彦というのは、今いう山田のカカシのことです。この神は足は歩きませんが、天下のことをすっかり知っている神さまです。
御諸山の神 そこで大国主の命が心憂く思っておおせられたことは、「わたしはひとりではどのようにしてこの国を作り得ましょう。どの神さまといっしょにわたしはこの国を作りましょうか?」とおおせられました。この時に、海上を照らして寄ってくる神さまがあります。その神のおおせられることには、「わたしに対してよくおまつりをしたら、わたしがいっしょになって国を作りましょう。そうしなければ国はできにくいでしょう」とおおせられました。そこで大国主の命が申されたことには、「それなら、どのようにしておまつりをいたしましょう?」と申されましたら、「わたしを大和の国の青々と取り囲んでいる東の山の上におまつりなさい」とおおせられました。これは御諸(みもろ)の山においでになる神さまです。
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第三巻 第三二号 現代語訳『古事記』(三)武田祐吉(訳)  定価:200円
 古事記 中の巻
   一、神武天皇
    東征
    速吸の門
    イツセの命
    熊野から大和へ
    久米歌
    神の御子
    タギシミミの命の変
   二、綏靖天皇以後八代
    綏靖天皇
    安寧天皇
    懿徳天皇
    孝昭天皇
    孝安天皇
    孝霊天皇
    孝元天皇
    開化天皇
   三、崇神天皇
    后妃と皇子女
    美和の大物主
    将軍の派遣
   四、垂仁天皇
    后妃と皇子女
    サホ彦の反乱
    ホムチワケの御子
    丹波の四女王
    時じくの香の木の実
 この天皇〔崇神天皇〕の御世に、流行病がさかんにおこって、人民がほとんどつきようとしました。ここに天皇は、ご憂慮あそばされて、神をまつってお寝みになった晩に、オオモノヌシの大神がお夢にあらわれておおせになるには、「かように病気がはやるのは、わたしの心である。これはオオタタネコをもってわたしを祭らしめたならば、神のたたりが起こらずに国も平和になるだろう」とおおせられました。そこで急使を四方に出してオオタタネコという人を求めたときに、河内の国の美努(みの)の村でその人を探し出してたてまつりました。(略)そこで天皇が非常にお歓びになっておおせられるには、「天下が平らぎ人民が栄えるであろう」とおおせられて、このオオタタネコを神主として御諸山(みもろやま)でオオモノヌシの神をおまつり申し上げました。(略)これによって疫病がやんで国家が平安になりました。
 このオオタタネコを神の子と知ったしだいは、上に述べたイクタマヨリ姫は美しいお方でありました。ところが形姿・威儀並びなき一人の男が夜中にたちまち来ました。そこでたがいに愛でて結婚して住んでいるうちに、何ほどもないのにその嬢子(おとめ)が妊(はら)みました。そこで父母が妊娠したことを怪しんで、その娘に、「お前は自然に妊娠した。夫がないのにどうして妊娠したのか?」とたずねましたから、答えて言うには「名も知らないりっぱな男が夜ごとに来て住むほどに、自然に妊みました」と言いました。そこでその父母が、その人を知りたいと思って、その娘に教えましたのは、「赤土を床のほとりに散らし麻糸を針につらぬいてその着物の裾(すそ)に刺せ」と教えました。よって教えたとおりにして、朝になって見れば、針をつけた麻は戸の鉤穴から貫けとおって、残った麻はただ三輪だけでした。そこで鉤穴から出たことを知って糸をたよりにたずねて行きましたら、三輪山に行って神の社にとまりました。そこで神の御子であるとは知ったのです。その麻の三輪残ったのによってそこを三輪というのです。このオオタタネコの命は、神(みわ)の君・鴨(かも)の君の祖先です。 
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第三巻 第三四号 山椒大夫 森 鴎外  定価:200円
【DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品】
※ この作品は、売上金が東日本大震災・被災地への義援金となります。ご購入いただくと、価格200円の全額が日本赤十字社に寄付されます。

 越後の春日をへて今津へ出る道を、めずらしい旅人の一群れが歩いている。母は三十歳をこえたばかりの女で、二人の子どもを連れている。姉は十四、弟は十二である。それに四十ぐらいの女中が一人ついて、くたびれた同胞(はらから)二人を、「もうじきに、お宿にお着きなさいます」と言ってはげまして歩かせようとする。二人のうちで、姉娘は足を引きずるようにして歩いているが、それでも気が勝っていて、疲れたのを母や弟に知らせまいとして、おりおり思い出したように弾力のある歩きつきをして見せる。近い道を物詣(ものまい)りにでも歩くのなら、ふさわしくも見えそうな一群れであるが、笠やら杖やらかいがいしい出立ちをしているのが、だれの目にもめずらしく、また気の毒に感ぜられるのである。
 道は百姓家の断えたり続いたりする間を通っている。砂や小石は多いが、秋日和によく乾いて、しかも粘土がまじっているために、よく固まっていて、海のそばのように踝(くるぶし)をうずめて人を悩ますことはない。
 藁(わら)ぶきの家が何軒も立ちならんだ一構えが柞(ははそ)の林にかこまれて、それに夕日がカッとさしているところに通りかかった。
「まあ、あの美しい紅葉をごらん」と、先に立っていた母がゆびさして子どもに言った。
 子どもは母のゆびさす方を見たが、なんとも言わぬので、女中がいった。「木の葉があんなに染まるのでございますから、朝晩お寒くなりましたのも無理はございませんね」
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第三巻 第三五号 地震の話(一)今村明恒  【月末最終】
 一、はしがき
 二、地震学のあらまし
 三、地震に出会ったときの心得(こころえ)
  一、突差(とっさ)の処置
  二、屋外(おくがい)への避難
 日本は地震国であり、また地震学の開けはじめた国である。これは誤りのない事実であるけれども、もし日本は世界中で地震学がもっとも進んだ国であるなどというならば、それはいささかうぬぼれの感がある。実際、地震学のある方面では、日本の研究がもっとも進んでいる点もあるけれども、その他の方面においては必ずしもそうでない。それゆえ著者らは地震学をもって世界に誇ろうなどとは思っていないのみならず、この頃のように、わが国民がくりかえし地震に征服せられてみると、むしろ恥かしいような気持ちもする。すなわち大正十二年(一九二三)の関東大地震においては一〇万の生命と五十五億円の財産とを失い、二年後、但馬の国のケチな地震のため、四〇〇の人命と三〇〇〇万円の財産とを損し、また二年後の丹後地震によって三〇〇〇の死者と一億円の財産損失とを生じた。そしてこれらの損失のほとんど全部は地震後の火災によるものであって、被害民の努力しだいによっては大部分、免れ得られるべき損失であった。しかるに事実はそうでなく、あのような悲惨な結果の続発となったのであるが、これを遠く海外からながめてみると、日本はおそろしい地震国である。地震のたびごとに大火災をおこす国である。外国人は命がけでないと旅行のできない国である。国民は、ああたびたび地震火災に悩まされても少しもこりないもののようである。地震によって命を失うことをなんとも思っていないのかもしれないなどという結論を下されないとも限らぬまい。実際、これは欧米人の多数が日本の地震に対する観念である。かく観察されてみるとき、著者のごとき斯学の専攻者は非常な恥辱を感ぜざるを得ないのである。もちろん、この学問の研究が容易に進歩しないのも震災国たるの一因には相違ないが、しかしながら地震に対して必要な初歩の知識がわが国民に欠けていることが、震災拡大の最大原因であろう。じつに著者のごときは、地震学が今日以上に進歩しなくとも、震災のほとんど全部はこれを免れ得る手段があると考えているものの一人である。
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第三巻 第三六号 地震の話(二)今村明恒  定価:200円
【DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品】
※ この作品は、売上金が東日本大震災・被災地への義援金となります。ご購入いただくと、価格200円の全額が日本赤十字社に寄付されます。
 三、地震に出会ったときの心得
  三、階下の危険
  四、屋内にての避難
  五、屋外における避難
  六、津波と山津波(やまつなみ)との注意
  七、災害防止
  八、火災防止(一)
  九、火災防止(二)
 一〇、余震に対する処置
 非局部性の大地震をおこすことのある海洋底に接した海岸地方は、大ゆれの地震にみまわれたばあい、津波についての注意を要する。ただし、津波をともなうほどの地震は最大級のものであるから、倒壊家屋を生ずる区域が数個の国や県にわたることもあり、あるいは震源距離が陸地からあまり遠いために、単に広区域にわたって大ゆれのみを感じ、地震の直接の損害を生じないこともある。
(略)津波とは津の波、すなわち港に現われる大津波であって、暴風など気象上の変調からおこることもあるが、もっとも恐ろしいのは地震津波である。元来、波というから、読者はすぐに風でおこされる波を想像せられるかもしれないが、むしろ潮の差し引きというほうが実際に近い。
(略)明治二十九年(一八九六)の三陸大津波は、その原因、数十里の沖合いにおける海底の地形変動にあったのであるが、津波の常習地たるじょうご形の港湾の奥においては、図に示されたとおり、あるいは八十尺、あるいは七十五尺というような高さの洪水となり、合計二万七〇〇〇人の人命を奪ったのに、港湾の両翼端ではわずかに数尺にすぎないほどのものであったし、その夜、沖合いに漁猟に行っていた村人は、あんな悲惨事が自分の村でおこったことを夢想することもできず、翌朝、跡かたもなく失われた村へ帰って茫然自失したという。
(略)しばしば海底の大地震をおこす場所に接し、そこに向かって大きくじょうご形に開いた地形の港湾がそれにあたるわけであるが、これについで多少の注意をはらうべきは、遠浅の海岸である。たとい海岸線が直線に近くとも、遠浅だけの関係で、波の高さが数倍の程度に増すこともあるから、もし沖合いにおける高さが数尺のものであったならば、前記のごとき地形の沿岸において多少の被害を見ることもある。
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第三巻 第三七号 津波と人間/天災と国防/災難雑考 寺田寅彦  定価:200円
【DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品】
※ この作品は、売上金が東日本大震災・被災地への義援金となります。ご購入いただくと、価格200円の全額が日本赤十字社に寄付されます。

 しかし、ここで一つ考えなければならないことで、しかも、いつも忘れられがちな重大な要項がある。それは、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事実である。(略)
 文明が進むにしたがって人間は、しだいに自然を征服しようとする野心を生じた。そうして、重力に逆らい、風圧・水力に抗するようないろいろの造営物を作った。そうして、あっぱれ自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻(おり)をやぶった猛獣の大群のように、自然があばれ出して高楼を倒壊せしめ、堤防を崩壊させて人命を危うくし、財産をほろぼす。その災禍をおこさせた元のおこりは、天然に反抗する人間の細工であるといっても不当ではないはずである。災害の運動エネルギーとなるべき位置エネルギーを蓄積させ、いやがうえにも災害を大きくするように努力しているものは、誰あろう文明人そのものなのである。
 もう一つ、文明の進歩のために生じた対自然関係のいちじるしい変化がある。それは人間の団体、なかんずくいわゆる国家あるいは国民と称するものの有機的結合が進化し、その内部機構の分化がいちじるしく進展してきたために、その有機系のある一部の損害が系全体に対してはなはだしく有害な影響をおよぼす可能性が多くなり、ときには一小部分の傷害が全系統に致命的となりうる恐れがあるようになったということである。(略)
 二十世紀の現代では、日本全体が一つの高等な有機体である。各種の動力を運ぶ電線やパイプやが縦横に交差し、いろいろな交通網がすきまもなく張り渡されているありさまは、高等動物の神経や血管と同様である。その神経や血管の一か所に故障がおこれば、その影響はたちまち全体に波及するであろう。今度の暴風で畿内地方の電信が不通になったために、どれだけの不都合が全国に波及したかを考えてみれば、このことは了解されるであろう。
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第三巻 第三八号 春雪の出羽路の三日 喜田貞吉  定価:200円
【DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品】
※ この作品は、売上金が東日本大震災・被災地への義援金となります。ご購入いただくと、価格200円の全額が日本赤十字社に寄付されます。

思いのほかの雪中旅行 / 箱雪車(はこぞり)とモンペ / 後三年駅 / 江畑新之助君 / タヤとラク / 防壁と立薦(たつごも) / 雪の金沢柵址 / 金沢八幡社のお通夜 / 仙北の俘囚(ふしゅう) / 山形泰安寺――秋元家の巾着寺 / 庄内の獅子踊りと神楽、サイドウ / 山形県の史跡調査について / 山形城址 / おばこ踊り / 羽黒の裸祭
 昨年〔大正十一年(一九二二)〕十一月にはじめて出羽の踏査に着手したその続きを、この春の休暇中にやってみたいと思っているおりから、山形県史跡名勝天然記念物調査委員会の開会式がおこなわれるので、やって来ぬかと理事官の有吉君から言ってこられた。これ幸いと、さきにご厄介になった庄内の阿部正己君に、同地方遺跡踏査のご相談におよぶと、このころはまだ雪が深くてとてもダメだとのお返事だ。冗談じゃない、こちらではもう桜が咲きかけているころだ。同じ本州のうちでも奥羽地方となるとそんなにまで様子が違うものか、これは一つ、遺跡踏査よりも雪の春景色を見たいものだ。それには庄内方面よりもいっそう雪の深かりそうな羽後の仙北地方がよかろう。かねて見たいと思っている後三年の役の遺跡・金沢柵址を、雪の中に見てまわるもおもしろかろう。ついでに、久しくお目にかからぬ紫水生・深沢多市君をもお訪ねしたい。(略)

 十二時すこし前に後三年駅で下車すると、改札口に深沢君が待っておられる。(略)
 自分らのソリの通っている下はことごとく水田で、道路も用水路もかまわず、好きなところを好きな方向に、勝手に道を作ってその上を進んで行くのだ。農夫は朝早くからソリで肥料を運搬して、各自、自分の地面と思うところへそれを分配している。まちがえて他人の地面に置いて行くことはなかろうかと、他目には案じられるが、遠方の立木や山などの見通しで見当をつけて、自分の地面をまちがえるようなことは決してないそうな。なんでもこの雪国では、雪の上の交通を利用して、その期間になるべく物を運んでおくのだという。材木を載せたソリ、砂利を載せたソリなど、いくつも縦列をなして通っている。土木工事の材料を、今のうちに軽々と運んでおくものらしい。雪の多いときには、一人で十数俵の米を運ぶのも容易だという。他所にあって考えたときには、雪に閉じこめられた地方の人々は、さだめてその期間禁足の憂き目を味わって、薄暗い家の中にのみ数か月間を閉じこめられているのかと気の毒にも思っていたが、その時がかえって交通に至便なのだとは、雪にもやはり利用の道があるものだ。
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第三巻 第三九号 キュリー夫人/はるかな道(他)宮本百合子  定価:200円
【DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品】
※ この作品は、売上金が東日本大震災・被災地への義援金となります。ご購入いただくと、価格200円の全額が日本赤十字社に寄付されます。

キュリー夫人
はるかな道
キュリー夫人の命の焔
 刻々、パリの危険がせまってきた。キュリー夫人は貴重な一グラムを、安全なボルドー市へ移すことにきめた。一グラムのラジウムとは、鉛のかぶせ蓋(ぶた)の中で細い管がいくつもたえず光っている、一つのたいへんに重い箱である。黒いアルパカの外套(がいとう)を着て、古びて形のくずれた丸いやわらかい旅行帽をかぶったマリアは、単身、その重い箱を持って満員の列車に乗りこんだ。客車の中は、敗戦の悲観論にみちあふれている。鉄道沿線の国道には、西へ西へと避難してゆく自動車の列がどこまでも続いている。しかし、キュリー夫人はあたりの動乱に断固として耳をかさず、憂いと堅忍との輝いている独特な灰色の眼で、日光をあびたフランス平野の景色をながめていた。(略)
 けれどもX光線の設備に、なくてならない電気さえひかれていないような野戦病院へ殺到してくる負傷者たちを、どうしたらいいだろう。キュリー夫人は、あることを思いついた。フランス婦人協会の費用で光線治療車というものを作った。これはヨーロッパでもはじめての試みであった。普通の自動車にレントゲン装置と、モーターと結びついて動く発電機を取りつけたもので、この完全な移動X光線班は一九一四年八月から各病院をまわりはじめた。フランスの運命を好転させた歴史的な戦いであるマルヌの戦闘で、故国のために傷ついた人々は、パリへ後送されて、その移動班に助けられたのであった。
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第三巻 第四〇号 大正十二年九月一日…/私の覚え書 宮本百合子  【月末最終】
大正十二年九月一日よりの東京・横浜間大震火災についての記録
私の覚え書
 列車は人と貨物を満載し、あぶら汗をにじませるむし暑さにつつまれながら、篠井ぐらいまでは、急行らしい快速力で走った。午前二時、三時となり、だんだん信州の高原にさしかかると、停車する駅々の雰囲気が一つごとに緊張の度を増してきた。在郷軍人、消防夫、警官などの姿がちらつき、手に手に提灯をかざして警備している。福井を出発するとき、前日ごろ軽井沢で汽車爆破をくわだてた暴徒が数十名捕らえられ、数人は逃げたという噂があった。旅客はみなそれを聞き知ってい、なかには、ことさら「いよいよ危険区域に入りましたな」などという人さえある。
 五日の暁方四時少しすぎ、列車がちょうど軽井沢から二つ手前の駅に着く前、一般の神経過敏をよく現わした一つの事件が持ちあがった。前から二つ目ばかりの窓ぎわにいた一人の男が、「この車の下に何者かが隠れている。爆弾を持った〔二字伏せ字〕に違いない」と言い出したのであった。なにしろひどい混みようで、とうてい席などは動けないので、遠い洗面所その他はまるで役に立たない。その人は、窓から用をたしたのだそうだ。そして、何心なくひょいと下をのぞくと、たしかに人間の足がいそいでひっこんだのを認めた。自分ばかりではなく、もう一人の者も間違いなく見たというのである。
 はじめ冗談だと思ったみなも、その人があまり真剣なのでひどく不安になりはじめた。あの駅々の警備の厳重なところを見れば、まったくそんな事がないとはいわれない。万一事実とすれば、ここにいる数十人が命の瀬戸際にあるということになる。不安がつのるにつれ、非常警報器を引けという者まで出た。駅の構内に入るために列車がしばらく野っぱのまんなかで徐行しはじめたときには、乗客はほとんど総立ちになった。何か異様がおこった。今こそあぶないという感が一同の胸をつらぬき、じっと場席にいたたまれなくさせたのだ。
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第三巻 第四一号 グスコーブドリの伝記 宮沢賢治  定価:200円
   一 森
   二 テグス工場
   三 沼ばたけ
   四 クーボー大博士
   五 イーハトーヴ火山局
   六 サンムトリ火山
   七 雲の海
   八 秋
   九 カルボナード島
 そして、ブドリは十になり、ネリは七つになりました。ところがどういうわけですか、その年は、お日さまが春から変に白くて、いつもなら雪がとけるとまもなく、まっしろな花をつけるコブシの木もまるで咲かず、五月になってもたびたびみぞれがグシャグシャ降り、七月の末になってもいっこうに暑さが来ないために、去年まいた麦も粒の入らない白い穂しかできず、たいていの果物も、花が咲いただけで落ちてしまったのでした。
 そしてとうとう秋になりましたが、やっぱり栗の木は青いからのイガばかりでしたし、みんなでふだん食べるいちばんたいせつなオリザという穀物も、一つぶもできませんでした。野原ではもう、ひどいさわぎになってしまいました。
 ブドリのおとうさんもおかあさんも、たびたび薪(たきぎ)を野原のほうへ持って行ったり、冬になってからは何べんも大きな木を町へソリで運んだりしたのでしたが、いつもがっかりしたようにして、わずかの麦の粉など持って帰ってくるのでした。それでも、どうにかその冬はすぎてつぎの春になり、畑にはたいせつにしまっておいた種もまかれましたが、その年もまた、すっかり前の年のとおりでした。そして秋になると、とうとうほんとうの飢饉(ききん)になってしまいました。もうそのころは、学校へ来る子どももまるでありませんでした。ブドリのおとうさんもおかあさんも、すっかり仕事をやめていました。そしてたびたび心配そうに相談しては、かわるがわる町へ出て行って、やっとすこしばかりの黍(きび)の粒など持って帰ることもあれば、なんにも持たずに顔いろを悪くして帰ってくることもありました。そしてみんなは、コナラの実や、葛(くず)やワラビの根や、木のやわらかな皮やいろんなものを食べて、その冬をすごしました。
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第三巻 第四二号 ラジウムの雁/シグナルとシグナレス(他)宮沢賢治  定価:200円
ペンネンノルデはいまはいないよ
ラジウムの雁
シグナルとシグナレス
「ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
  さそりの赤眼が 見えたころ、
  四時から今朝も やってきた。
  遠野の盆地は まっくらで、
  つめたい水の 声ばかり。
 ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
  凍えた砂利に 湯げを吐(は)き、
  火花を闇に まきながら、
  蛇紋岩(サーペンティン)の 崖に来て、
  やっと東が 燃えだした。
 ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
  鳥がなきだし 木は光り、
  青々(あおあお)川は ながれたが、
  丘もはざまも いちめんに、
  まぶしい霜を 載せていた。
 ガタンコガタンコ、シュウフッフッ、
  やっぱりかけると あったかだ、
  僕はホウホウ 汗が出る。
  もう七、八里 馳せたいな、
  今日も一日 霜ぐもり。
 ガタンガタン、ギー、シュウシュウ」

 軽便鉄道の東からの一番列車がすこしあわてたように、こう歌いながらやってきて止まりました。機関車の下からは、力のない湯げが逃げ出して行き、細長いおかしな形の煙突からは青いけむりが、ほんの少うし立ちました。
 そこで軽便鉄道づきの電信柱どもは、やっと安心したように、ブンブンとうなり、シグナルの柱はカタンと白い腕木をあげました。このまっすぐなシグナルの柱は、シグナレスでした。
 シグナレスは、ホッと小さなため息をついて空を見上げました。空にはうすい雲が縞(しま)になっていっぱいに充ち、それはつめたい白光を凍った地面に降らせながら、しずかに東に流れていたのです。
 シグナレスはじっとその雲の行く方をながめました。それから、やさしい腕木をおもいきりそっちの方へ延ばしながら、ほんのかすかに、ひとりごとを言いました。
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第三巻 第四三号 智恵子抄(一)高村光太郎  定価:200円
【DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品】
※ この作品は、売上金が東日本大震災・被災地への義援金となります。ご購入いただくと、価格200円の全額が日本赤十字社に寄付されます。

  あどけない話

智恵子は東京に空がないという、
ほんとの空が見たいという。
私はおどろいて空を見る。
桜若葉の間にあるのは、
切っても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながらいう。
阿多々羅山(あたたらやま)の山の上に
毎日出ている青い空が
智恵子のほんとの空だという。
あどけない空の話である。


  千鳥と遊ぶ智恵子

人っ子ひとりいない九十九里の砂浜の
砂にすわって智恵子は遊ぶ。
無数の友だちが智恵子の名をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい―
砂に小さな趾(あし)あとをつけて
千鳥が智恵子によってくる。
口の中でいつでもなにか言ってる智恵子が
両手をあげてよびかえす。
ちい、ちい、ちい―
両手の貝を千鳥がねだる。
智恵子はそれをパラパラ投げる。
群れ立つ千鳥が智恵子をよぶ。
ちい、ちい、ちい、ちい、ちい―
人間商売さらりとやめて、
もう天然の向こうへ行ってしまった智恵子の
うしろ姿がぽつんと見える。
二丁も離れた防風林の夕日の中で
松の花粉をあびながら私はいつまでも立ちつくす。
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第三巻 第四四号 智恵子抄(二)高村光太郎  【月末最終】
 わたしは昭和九年(一九三四)五月から十二月末まで、毎週一度ずつ九十九里浜の真亀納屋という小さな部落に東京から通った。頭を悪くしていた妻を、そこに住む親類の寓居にあずけておいたので、その妻を見舞うために通ったのである。真亀という部落は、海水浴場としても知られているイワシの漁場、千葉県山武郡片貝村の南方一里たらずの浜辺に沿ったさびしい漁村である。
(略)午前に両国駅を出ると、いつも午後二、三時ごろ、この砂丘につく。わたしは一週間分の薬や、菓子や、妻の好きな果物などを出す。妻は熱っぽいような息をして私をよろこび迎える。わたしは妻をさそって、いつも砂丘づたいに防風林の中をまず歩く。そして小松のまばらな高みの砂へ腰をおろして二人で休む。五月の太陽がすこしななめに白い砂を照らし、そよかぜは海から潮の香りをふくんで、あおあおとした松の枝をかすかに鳴らす。空気のうまさを満喫して私は陶然とする。ちょうど五月は松の花のさかりである。クロマツの新芽ののびたさきに、あの小さな、黄いろい、俵のような、ほろほろとした単性の花球がこぼれるように着く。
 松の花粉の飛ぶ壮観を、わたしはこの九十九里浜の初夏にはじめて見た。防風林のクロマツの花が熟するころ、海から吹きよせる風にのって、その黄いろい花粉が飛ぶさまは、むしろおそろしいほどの勢いである。支那の黄土をまきあげた黄塵というのは、もとより濁って暗くすさまじいもののようだが、松の花粉の風に流れるのはその黄塵をも想像させるほどで、ただそれが明るく、透明の感じを持ち、不可言の芳香をただよわせて風のまにまに空間を満たすのである。さかんな時には座敷の中にまでその花粉がつもる。妻の浴衣の肩につもったその花粉を軽くはたいて、私は立ち上がる。妻は足もとの砂を掘って、しきりに松露の玉をあつめている。日が傾くにつれて海鳴りが強くなる。千鳥がついそこを駈けるように歩いている。
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第三巻 第四五号 ヴェスヴィオ山/日本大地震(他)斎藤茂吉  定価:200円
【DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品】
※ この作品は、売上金が東日本大震災・被災地への義援金となります。ご購入いただくと、価格200円の全額が日本赤十字社に寄付されます。

 新聞の報告はみなほとんど同一であった。上海電報によると、地震は九月一日の早朝におこり、東京・横浜の住民は十万人死んだ。東京の砲兵工廠は空中に舞い上がり、数千の職工が死んだ。熱海・伊東の町は全くなくなった。富士山の頂が飛び、大島は海中に没した。云々である。
 私はしばらく息をつめてこれらの文句を読んだが、どうも現実の出来事のような気がしない。ただし私は急いでそこを出で、新しく間借りしようとする家へ行った。部屋は綺麗に調えてあったので私は床上に新聞紙と座布団とをしき、尻をペタリとおろした。それからふたたび新聞の日本震災記事を読むに、これは容易ならぬことである。私の意識はようやく家族の身上に移っていった。不安と驚愕とがしだいに私の心を領するようになってくる。私は眠り薬を服してベッドの上に身を横たえた。
 暁になり南京虫におそわれ、この部屋も不幸にして私の居間ときめることができなかった。九月四日の朝、朝食もせずそこを出て日本媼のところに急ぐ途中N君に会った。N君も日本のことが心配でたまらぬので、やはり朝食もせずに日本媼のところに来た途中なのであった。N君の持っている今日の朝刊新聞の記事を読むと、昨日の夕刊よりもややくわしく出ている。コレア丸からの無線電報によるに、東京はすでに戒厳令が敷かれて戦時状態に入った。横浜の住民二十万は住む家なく食う食がない。(略)
 九月五日。日本の惨事は非常である。部屋の中に沈黙していても何ごとも手につかない。九月六日。思いきって、Thorwalsen(トールワルゼン) Str.(シュトラセ) 六番地に引っ越してしまった。ここには南京虫はいなかった。教室まで遠くて不便であるが、日本の状態がこんなであってみれば、私自身、今後どう身を所決せねばならんか今のところまったく不明である。そこでせめて南京虫のいないところにおちつこうと決心したのであった。
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第三巻 第四六号 上代肉食考/青屋考 喜田貞吉  定価:200円
【DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品】
※ この作品は、売上金が東日本大震災・被災地への義援金となります。ご購入いただくと、価格200円の全額が日本赤十字社に寄付されます。

(略)そのはばかりの程度は神社により、また時代によって相違があったようだが、ともかく肉は穢れあるものとして、これを犯したものは神に近づくことができず、これに合火(あいび)したもの、合火したものに合火のものまでも、またその穢れあるものとしておったのである。(略)
 右のしだいであったから、自分らのごときも子どもの時分には、決して獣肉を食ったことはなかった。かつて村人の猪肉・兎肉を食べているものを見て、子供心に、よくこの人らには神罰があたらぬものだと思ったこともあった。これらの人々の遁辞(とんじ)には、イノシシは山鯨で魚の仲間、兎は鴉鷺(あろ)で鳥の仲間だとあって、これだけは食べてもよいのだとすすめられたけれども、ついに食べる気にはなれなかった。しかるに郷里の中学校へ入学して、寄宿舎に入ったところが、賄い方はしばしば夕食の膳に牛肉をつけてくれた。上級生も平気でそれを食っている。こわごわながら人並みに箸を採ってみると、かつて経験したことのない美味を感じた。いつしか牛肉随喜党となり、はては友達の下宿へ行って、ひそかに近郷のある部落から売りにくる牛肉を買って、すき焼きの味をもおぼえるようになった。時は明治十七、八年(一八八四、一八八五)ころで、諸物価も安かったが、牛肉の需要が少なかったために、百目四、五銭で買えたと記憶する。かようなしだいで、おいおい大胆になっては来たが、それでもまだ家庭へ帰っては、牛肉の香りをかいだこともないような顔をしていた。これは自分の家庭が特に物堅いためで、去る大正三年(一九一四)に八十三歳で没した父のごときは、おそらく一生涯、牛肉の味を知らなかったようであるし、今なお健在の母も、たぶんまだこれを口にしたことはなかろうと思われるほどであるから、自分のこの一家庭の事情をもって、もとより広い世間を推すわけにはいかぬが、少なくも維新前後までの一般の気分は、たいていそんなものであった。したがって肉食を忌まなかった旧時のエタが、人間でないかのごとく思われたのにも無理はないが、しかしかくのごときものが、はたしてわが固有の習俗であったであろうか。
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第三巻 第四七号 地震雑感/静岡地震被害見学記(他)寺田寅彦  定価:200円
【DL-MARKET 被災地支援チャリティー企画 参加作品】
※ この作品は、売上金が東日本大震災・被災地への義援金となります。ご購入いただくと、価格200円の全額が日本赤十字社に寄付されます。

地震雑感
 一 地震の概念
 二 震源
 三 地震の原因
 四 地震の予報
静岡地震被害見学記
小爆発二件
 震災の原因という言語はいろいろに解釈される。多くの場合には、その地震が某火山の活動に起因するとか、あるいは某断層における地すべりに起因するとかいうようなことが一通りわかれば、それで普通の原因追究欲が満足されるようである。そして、その上にその地すべりなら地すべりがいかなる形状の断層に沿うて幾メートルの距離だけ移動したというようなことがわかれば、それで万事は解決されたごとく考える人もある。これは原因の第一段階である。
 しかし、いかなる機巧(メカニズム)でその火山のそのときの活動がおこったか、また、いかなる力の作用でその地すべりを生じたかを考えてみることはできる。これに対する答えとしては、さらにいろいろな学説や憶説が提出され得る。これが原因の第二段階である。たとえば、地殻の一部分にしかじかの圧力なり歪力なりが集積したためにおこったものであるという判断である。
 これらの学説が仮に正しいとしたときに、さらに次の問題がおこる。すなわち地殻のその特別の局部に、そのような特別の歪力をおこすにいたったのはなぜかということである。これが原因の第三段階である。
 問題がここまで進んでくると、それはもはや単なる地震のみの問題ではなくなる。地殻の物理学、あるいは地球物理学の問題となってくるのである。
 地震の原因を追究して現象の心核にふれるがためには、結局、ここまで行かなければならないはずだと思われる。地球の物理をあきらかにしないで地震や火山の現象のみの研究をするのは、ことによると、人体の生理をあきらかにせずして、単に皮膚の吹出物だけを研究しようとするようなものかもしれない。地震の根本的研究は、すなわち地球、特に地殻の研究ということになる。本当の地震学は、これを地球物理学の一章として見たときにはじめて成立するものではあるまいか。
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第三巻 第四八号 自然現象の予報/火山の名について 寺田寅彦  月末最終号:無料
自然現象の予報
火山の名について
 つぎに、地震予報の問題に移りて考えん。地震の予報ははたして可能なりや。天気予報と同じ意味において可能なりや。
 地震がいかにしておこるやは、今もなお一つの疑問なれども、ともかくも地殻内部における弾性的平衡が破るる時におこる現象なるがごとし。これが起こると否とを定むべき条件につきては、吾人いまだ多くを知らず。すなわち天気のばあいにおける気象要素のごときものが、いまだあきらかに分析されず。この点においても、すでに天気の場合とおもむきを異にするを見る。
 地殻のひずみが漸次蓄積して不安定の状態に達せるとき、適当なる第二次原因、たとえば気圧の変化のごときものが働けば、地震を誘発することは疑いなきもののごとし。ゆえに一方において地殻のゆがみを測知し、また一方においては主要なる第二次原因を知悉するを得れば、地震の予報は可能なるらしく思わる。この期待は、いかなる程度まで実現されうべきか。
 地下のゆがみの程度を測知することはある程度までは可能なるべく、また主なる第二次原因を知ることも可能なるべし。今、仮にこれらがすべて知られたりと仮定せよ。
 さらに事柄を簡単にするため、地殻の弱点はただ一か所に止まり、地震がおこるとせば、かならずその点におこるものと仮定せん。かつまた、第二次原因の作用は毫も履歴効果を有せず、すなわち単に現在の状況のみによりて事柄が定まると仮定せん。かくのごとき理想的のばあいにおいても、地震の突発する「時刻」を予報することはかなり困難なるべし。何となれば、このばあいは前に述べし過飽和溶液の晶出のごとく、現象の発生は、吾人の測知し得るマクロ・スコピックの状態よりは、むしろ、吾人にとりては偶然なるミクロ・スコピックの状態によりて定まると考えらるるがゆえなり。換言すれば、マクロ・スコピックなる原因の微分的変化は、結果の有限なる変化を生ずるがゆえなり。このばあいは、重量を加えて糸を引き切るばあいに類す。
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※ 各号、定価二〇〇円。価格は税込みです。
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