地震の国(一)
序
故今村博士の遺著が今度、文藝春秋新社から重版になって世に出るから序文を書けとの
君は鹿児島の出身で、明治二十七年(一八九四)に東京大学理科大学の物理学科を卒業された。これより先、
この
君は大学卒業後も地磁気測量に参加されたが、陸軍中央幼年学校に
学者としての君は上述のごとく地球物理学一点ばりの
本書は君の
昭和二十三年(一九四八)十一月
目次
序 中村清二
一、ナマズのざれごと
二、頼山陽、地震の詩
三、地震と風景
四、鶏のあくび
五、蝉しぐれ
六、世紀の北米大西洋沖地震
七、観光
八、地震の正体
九、ドリアン
一〇、地震の興味
一一、地割 れの開閉現象
一二、称名寺の鐘楼
一三、張衡
一四、地震計の冤
一五、初動の方向性
一六、白鳳大地震
一七、有馬の鳴動
一八、田結村の人々
一九、災害除 け
二〇、地震毛と火山毛
二一、室蘭警察署長
二二、ポンペイとサン・ピエール
二三、クラカトアから日本まで
二四、役小角と津波除 け
二五、防波堤
二六、「稲むらの火」の教え方について
二七、三陸津波の原因あらそい
二八、三陸沿岸の浪災復興
二九、土佐と津波
三〇、五徳の夢
三一、島陰 の渦
三二、耐震すなわち耐風か
三三、地震と脳溢血
三四、関東大震火災の火元
三五、天災は忘れた時分にくる
三六、大地震は予報できた
三七、原子爆弾で津波は起きるか
三八、飢饉 除 け
三九、農事四精
四〇、渡辺先生
四一、野宿
四二、国史は科学的に
四三、地震および火山噴火に関する思想の変遷
四四、地震活動盛衰一五〇〇年
一 ナマズのざれごと
地震に関して旧日本から明治時代に伝えられたものの中に、ない という言葉と地震ナマズの説というものがあった。
ない という言葉は、われわれも幼年時代に使った経験がある。古代においては単に地面あるいは大地を意味し、それにゆる とかふる とかいう動詞をそえてはじめて地震の意味になったものが、後世に至って、土地あるいは大地などという外来語がない に代用されるようになったので、ない は地震に独占されてしまったのだといわれている。またこの言葉の沿革は、ちょうどギリシャ語のセイスモスと同じだという人もある。
とにかく、ない という言葉はすでに過去のものとなった。されば地震ナマズの説というのも、これと同様に、葬り去ってもよいものであろうか。つぎにいささか検討してみる。
地震ナマズの説は、元禄・宝永のころ(一六八八〜一七一一)に生まれたとの説がある。また建久(一一九〇〜一一九九)古暦 にえがかれてある地震の虫に胚胎したのだともいわれている。さすれば日本の地形にもとづいて編み出された思想であったかもしれない。
ケンペルは地震ナマズの説を誤り伝えて、地震クジラの説とした。数年前、ニース・マルセイユ間の汽車の中で、フランスの一少年が、この説を提げてきて、われわれを悩ましたことがあったが、これもその根源はケンペルの『日本記事』〔『日本誌』か。〕 にあるのだなと思った。
地震ナマズの説は、当初単に架空的のものであったかもしれない。ただし自然物に対する江戸時代の鋭い観察眼は、ついにこの説のためにある根拠らしいものを築き上げてしまったのである。
地震予知は古今東西の難問題である。旧幕時代においてもこれに手を染 めた人は少くなかったらしい。たとえば安政の江戸地震後、磁鉄が磁性を失うとの仮定のもとに、地震警報器を考案した人もあったくらいである。この仮定が観察の結果に立脚したのであったならば、そこには錯覚があったに相違ないが、ただし、もし推測にもとづいたのであったならば、それはかならずしも軽視すべきものでもあるまい。明治二十五年(一八九二)震災予防調査会設立当初、専門家は、地震前における地磁気 分布の異変に注意して、これが調査に着手したが、それが今なお続けられている状態である。
つぎに注意をひいたものに、動物の地震に対する予感ということがあったろうが、古人は種々の動物につき、丹念にこの性能を調べてみたに相違ない。そして厳査の結果として及第したのがキジとナマズとであったろう。
ただし、結局は失敗に帰した。少なくも成功ではなかった。これは受感性の鋭敏 さを予感だと誤認したためであった。
つぎに上記の部類に属すべき動物を列挙してみる。
人は万物の霊長である。ただし五官は知能の発達に逆行して漸次 に退化してしまった。そしてそのなごりを今なお留めているのが原始人である。たとえば、黒人の嗅覚 の鋭さは数町先の人をかぎわけ、砂漠人の視力の鋭さは、幾里先の人が近寄 ってくるのか遠ざかっているのかを見分けるがごときそれである。
獣類に聴官 ・嗅覚 のすこぶる鋭いもののあることはよく知られている。
キジは地震の予感を持つよう今なお信じている人があるくらいだが、この問題は、とくの昔、故関谷博士によって解決されている。それによると、世俗、地震前にキジが鳴くように思うのは誤りで、その鳴くときには、地震の初期微動がすでに到着しているのだ。ただ人間は鈍感なため、微弱な初期微動を感知せず、幾秒間の後、主要動の到着によってはじめて地震たるを覚 り、前のキジ鳴きを予感のためだと独断したにすぎないのである。この問題の解決のために、博士は、永年キジを飼育して、その地動報告と地震計の観測とを比較してみたが、その結果、キジは十倍地震計よりも鈍感だということがわかった。加之 、この鳥は、地動の全然ないときにも鳴き出すことがあるから、地動報告者としては、比較的に鈍感でかつ不忠実だという折り紙をつけられてしまった。
かく鈍感なキジでも、人間に比較すればはるかに敏感である。啻 に地震に対してのみならず、空振 に対してもそうである。これはキジの動物本能である。元来飛翔力の弱い鳥のこと、もし振動に対して鈍感であったならば、たちまち生命の破滅であろう。それゆえに振動に対する受感性の発達したものだけが生き残り、かくして自然淘汰によってこの本能がますます顕著となったのである。
つぎに魚族を検討してみる。
魚もまた振動に敏感な生物である。動物学の書物にはこんなことが書いてある。体側には側線 という特種な小感覚器が並列している。この作用は確実にはわかっていないけれども、水圧の変化・水の振動・音響・電流などの刺激をこれで感知するものらしいというのである。
大地震の前幾日間、湖海 の魚が異常の状態を示したとの報道は、じつに枚挙にいとまがないが、つぎに数例をひろってみる。
大正十二年(一九二三)関東大地震のとき、相模湾では数日前から魚が釣れなくなったとは、当時、湘南一帯に唱えられていた。同時に沖の方では鳴動が聞こえ、陸の方では井水 が濁 ったといわれている。
昭和二年(一九二七)丹後大地震のとき、地震前に、魚が取れず、死魚を見て帰ってきたなどと語られていた。
明治四十三年(一九一〇)七月二十五日、有珠岳爆発に先だつ六日、すなわち十九日以来、洞爺湖 においては魚が釣れなくなり、そして二十二日以来、爆発の前兆たる小地震群が人体に感ずるようになった。
男鹿大地震に関し、文化七年(一八一〇)のときは八郎潟では数週間前から鯔 が多く死んで浮かんだことが記してある。このとき、湖底から石油が滲出 して浮かんだが、これと鯔 が群れをなして水面に浮かぶ習性とを結びつけて、他の魚族が無難であったにかかわらず、鯔 だけが死んだ理由がわかるような気持ちがする。また去る昭和十四年(一九三九)五月一日の大地震のときにも、同じ湖において、前日に鯉 やフナが多く漁獲され、ことに東北沿岸においてはフナの大群が岸近く押し寄せてきたといわれている。海の方でも同じように、魚族の異常が観察されたが、ことに興味深く感ぜられたのは、イイダコと称する小柄 なタコが、酔ったようになって、続々と陸にあがってきたことである。これは、男鹿半島の南部では当日午前中(地震は午後三時ごろ)、半島の北方八森 においては前日午後から当日午前に至るまで見られたのであった。
このほかにも、大震前に種々の魚族の群れが、震原に近い海域を逃避したとか、また稀 には、集まってきたとか、いろいろにいわれているが、筆紙を費やすほどでもなかろう。
要するに、大地震あるいは火山爆発に先だって、魚類の生活状態に異常をきたすことは疑いの余地もなく、またこれが、大異変の前兆としての、地球物理学上の微細な異変にもとづくことも、争われない事実のようである。そうして今日われわれが想像しうる上記の前兆としては、人体あるいは普通の地震計に感じない程度の微震鳴動、水の流れや水温の異変、地下水の流出異常、ことにそれにガスや鉱水が加わること、水界にまで伝わってくる地電流 の異変などがある。
最後にナマズを登場させる。
ナマズは凡百 の魚族中、各種の刺激に対してもっとも敏感なものとされている。あの長い四本のひげ(外国産には六本のものがある)は触角の用をなすのみならず、その特徴のある肌色をなす側線は異常な発達をとげ、身体の外部はすべて神経でつつまれているといってもよいくらいである。
ナマズは陰魚である。日中はあくた や泥の中にひそみ、夜陰 に乗じて餌 をあさる。神経系統が異常な発達をとげた所以 である。されば昼間これを漁獲することは困難であり、また自身に隠 れ家を出てくることもないはずであるが、しかるに大地震前においてこの習性を裏切った例はすこぶる多い。江戸時代の文献を引用するのはあまりにわずらわしいから、余は、これに単に、大正十二年(一九二三)九月一日、関東大地震前一両日に経験された、なまなましい二例をあげることにする。
赤司 鷹一郎 氏(元文部次官)は東京向島 の一料亭において、池の面に頻々 と飛び上がる小魚を見て、何魚かと問うたところ、小ナマズですが、二、三日前からあの通りです。不思議なことですとの答えであったそうだ。
柴垣鼎太郎氏(文部省建築課長)は大地震の前日、鵠沼 海岸の池で、投網 によって、ナマズの大漁獲をなした。一尺大のもの、バケツ三杯分あったとのこと。
かような事実を数多く経験・観察したならば、古人ならずとも、ナマズの地震予感説を創作するに違いない。ただし早まってはいけない。畑井博士の実験談を聞くことにする。
実験材料としては成魚よりも四、五寸大の幼魚の方がよい。これを四、五匹水槽内に入れておくと、昼間はあくた の中にひそんでいるが、これに各種の刺激を与えてその受感度を検査するのである。その結果、
ということがわかった。
つぎに実験されたのは、かような受感度の相違と地震発生との関係であるが、小ナマズが敏感になるのはおおむね地震の近きを意味し、鈍感は当分地震なしを意味するというのである。
実験はさらに進められた。すなわちそれは小ナマズの受感度の変化と、地電流 の変化との因果関係についてなされたのである。
元来、電流はきわめて微弱ながら自然に、いずれの場所にもたえず地中を流れており、それが流水あるいは止水 にも伝わるのであるが、その強さは時々刻々に変化するのである。実験の結果、小ナマズが敏感となるのは地電流の強さの変化が急激かつ頻繁 におこるときであり、鈍感となるのは変化が皆無あるいはきわめて緩徐 なときであることがわかった。けだし、前の場合は、地殻内のゆがみに異常変化のあることを意味するのであろう。
かような実験結果を承認するとき、過去の文献に現われたナマズと地震との関係がすべてあきらかにされる感がある。
地動報告者として、キジは地震計におよばない。地震予感者として、ナマズは地電流計にその席をゆずるべきであろう。
ちなみに記しておく。動物が微動に左右せられる以上、強い振動によってはなおさらそうでなければならぬ。深海魚が浮き袋の調節を失って浮き上がるもあり、マグロのような暖流魚がとまどいして見当ちがいな海に逃け込むこともある。トビやカラスは空振 のために地上に墜落し、臆病 な馬はそろって脱糞 するなど種々さまざまである。
ナマズ笑っていう、「万物の霊長はいかん。」霊長こたえていう。「よし、白状する。吾 らの中には、馬にも劣 らず、地震のたびごとに手洗所に駈 け込むものもあるよ。」
二頼 山陽 、地震の詩
文政十三年(一八三〇)七月二日、京都に大地震があって、死者一五〇人(あるいは二八〇人とも)におよび、そのために年号は天保と改まった。当時、山陽の居は京都鴨川縁三本木 にあったが、山陽自身は広島へ帰省中であったとみえ、京都大震災の郵報 に接し、家族八人の安否をよほど心配したらしく、その悶々 の情を詩に託して、これを在大阪の友人篠崎 小竹 (字は承弼)に送ったのが『山陽書簡集』に載 っている。一世の文豪の地震観も珍とするに足 るが、余が殊 に興味を感ずるのは、むしろその追書 きの方である。
地震ナマズの戯画は、安政大地震の際にはすこぶる跋扈 したものだが、この説はさほど古いものではなく、元禄・宝永ごろ(一六八八〜一七一一)に始まったという説もある。新城博士〔新城 新蔵 か。〕 によれば、現今わが国に流布している家相説は天明・寛政(一七八一〜一八〇一)以後の作であるとのことだが、あるいはかかる迷説の作者がこの時代に輩出したのかもしれない。とにかく、地震ナマズの説はすでに文政年間(一八一八〜一八三〇)に流布していたことだけは確実である。
山陽の書には判読しにくい点があったが、高楠・宇野両博士に読んでもらい、了解したままこれをかな交じり文 にしたのが次のとおりである。
郵籤 京事を報ずらく、変故未曽有。
今月初二日、地震申より丑に至る。
あるいは曰く三夜に連なると、前を聞きいまだ後を審にせず。
九陌 啼哭 沸き、十室に八九を壊る。
家をたずさえて街衢 をはかり、墜瓦左右に堆 しと。
家人一字なく、東望十たび首を掻 く。
念 うわが家は鴨崖 、稚子 は弱婦による。
相ひいて沙中 に避くらん、また怕 る居守 なきを。
石岸応にことごとく崩しなるべし、唯 あます露根 の柳。
河水深くかつ溢 れつらん、知らずよく逃走せしか。
大児はなお�掲 しけん、小児は婢 に付して負わしめしか。
糴価意 うに騰躍 し、苦辛八口 を糊すらん。
愧 づ一家の憂に任じ、患難 援手せざるを。
災黔黎 にこうむる、これ豈 に吾 ひとり受けんや。
阪城余震および、江都 定めて安否。
天明の如くなる無 きを得んか、饑民 起こって相蹂 ること。
天数周またあり、下土 誰か咎 に任ぜん。
仰 ぎみる雲は北にはしり、海雨龍は吟吼す。
耿々 たる杞人 の心、長歌強 いて缶を拊 つ。
七月九日広島にあり、京報大異を聞き、夜寝ぬるあたわず、枕上 についてこれを作り、いささかもって悶 を遣 る。
襄
三 地震と風景
大地震にともなう地変 によって滄桑 の変のおこるようなことはありがちだが、これがため、天下の名勝が一朝にして失われたり、また反対に、凡景がかえって勝区 となることもある。前者の例としては出羽の象潟 のごときがそのもっとも著名なものであり、西津軽の大戸瀬 ・小戸瀬のごときもまたこれに加えて可なるべく、また後者の一例としては、同じく西津軽の十二湖 をあげてよいであろう。
象潟 は古来、東北一の絶勝 と謳 われていた。湾の径およそ三キロメートル、これに清 らかな海水をたたえ、九十九島・八十八潟があり、島には奇石怪巌 そばだち、風致 ある翠松 これをおおい、嫋々 たるネムノキその間を点綴 し、水の深さ平均およそ一尋 、大小の魚族は掬 えそうに遊泳していた。昔から雅客 の杖をひいたものは少くなく、能因 法師のごときは三年も滞留したといわれている。法師の歌に、
というのがある。また最明寺時頼 は、
象潟 と 思いしほどは いそがれて 帰す涙に 袖 ぞぬれける
と歌い、西行 法師はかくも詠じた。
ただしなんといっても、象潟をして絶勝の名をますます高からしめたのは芭蕉の文章であろう。
『江山 水陸の風光数をつくして今、象潟に方寸 を責 む。酒田の港より東北の方、山を越え磯をつたい砂子 をふみてその際十里ばかり、日影 やや傾くころ、汐風真砂 を吹き上げ、雨朦朧 として鳥海山 かくる。
「暗中に模索して雨もまた奇なりとせば、雨後の晴色もまたたのもし」と蜑 の苫屋 に膝 を入れて雨の晴るるを待つ。
(筆者注。暗中云々 の出典をあきらかにし、かつ後文にある俳聖の名句を玩味 せんがために、蘇東坡 西湖の詩「飲二 湖上一 初晴後雨」を掲げる。
水光瀲 晴方好 山色空濛 雨亦奇
若把二 西湖一 比二 西子一 淡粧濃抹総相宜)
序 中村清二
一、ナマズのざれごと
二、頼山陽、地震の詩
三、地震と風景
四、鶏のあくび
五、蝉しぐれ
六、世紀の北米大西洋沖地震
七、観光
八、地震の正体
九、ドリアン
一〇、地震の興味
一一、
一二、称名寺の
一三、
一四、地震計の
一五、初動の方向性
一六、白鳳大地震
一七、有馬の鳴動
一八、田結村の人々
一九、災害
二〇、地震毛と火山毛
二一、室蘭警察署長
二二、ポンペイとサン・ピエール
二三、クラカトアから日本まで
二四、役小角と津波
二五、防波堤
二六、
二七、三陸津波の原因あらそい
二八、三陸沿岸の浪災復興
二九、土佐と津波
三〇、五徳の夢
三一、
三二、耐震すなわち耐風か
三三、地震と
三四、関東大震火災の火元
三五、天災は忘れた時分にくる
三六、大地震は予報できた
三七、原子爆弾で津波は起きるか
三八、
三九、農事四精
四〇、渡辺先生
四一、野宿
四二、国史は科学的に
四三、地震および火山噴火に関する思想の変遷
四四、地震活動盛衰一五〇〇年
〔装丁 芹澤�M介〕
地震の国(一)
今村明恒一 ナマズのざれごと
地震に関して旧日本から明治時代に伝えられたものの中に、
とにかく、
地震ナマズの説は、元禄・宝永のころ(一六八八〜一七一一)に生まれたとの説がある。また建久(一一九〇〜一一九九)
ケンペルは地震ナマズの説を誤り伝えて、地震クジラの説とした。数年前、ニース・マルセイユ間の汽車の中で、フランスの一少年が、この説を提げてきて、われわれを悩ましたことがあったが、これもその根源はケンペルの『日本記事』
地震ナマズの説は、当初単に架空的のものであったかもしれない。ただし自然物に対する江戸時代の鋭い観察眼は、ついにこの説のためにある根拠らしいものを築き上げてしまったのである。
地震予知は古今東西の難問題である。旧幕時代においてもこれに手を
つぎに注意をひいたものに、動物の地震に対する予感ということがあったろうが、古人は種々の動物につき、丹念にこの性能を調べてみたに相違ない。そして厳査の結果として及第したのがキジとナマズとであったろう。
ただし、結局は失敗に帰した。少なくも成功ではなかった。これは受感性の
つぎに上記の部類に属すべき動物を列挙してみる。
人は万物の霊長である。ただし五官は知能の発達に逆行して
獣類に
キジは地震の予感を持つよう今なお信じている人があるくらいだが、この問題は、とくの昔、故関谷博士によって解決されている。それによると、世俗、地震前にキジが鳴くように思うのは誤りで、その鳴くときには、地震の初期微動がすでに到着しているのだ。ただ人間は鈍感なため、微弱な初期微動を感知せず、幾秒間の後、主要動の到着によってはじめて地震たるを
かく鈍感なキジでも、人間に比較すればはるかに敏感である。
つぎに魚族を検討してみる。
魚もまた振動に敏感な生物である。動物学の書物にはこんなことが書いてある。体側には
大地震の前幾日間、
大正十二年(一九二三)関東大地震のとき、相模湾では数日前から魚が釣れなくなったとは、当時、湘南一帯に唱えられていた。同時に沖の方では鳴動が聞こえ、陸の方では
昭和二年(一九二七)丹後大地震のとき、地震前に、魚が取れず、死魚を見て帰ってきたなどと語られていた。
明治四十三年(一九一〇)七月二十五日、有珠岳爆発に先だつ六日、すなわち十九日以来、
男鹿大地震に関し、文化七年(一八一〇)のときは八郎潟では数週間前から
このほかにも、大震前に種々の魚族の群れが、震原に近い海域を逃避したとか、また
要するに、大地震あるいは火山爆発に先だって、魚類の生活状態に異常をきたすことは疑いの余地もなく、またこれが、大異変の前兆としての、地球物理学上の微細な異変にもとづくことも、争われない事実のようである。そうして今日われわれが想像しうる上記の前兆としては、人体あるいは普通の地震計に感じない程度の微震鳴動、水の流れや水温の異変、地下水の流出異常、ことにそれにガスや鉱水が加わること、水界にまで伝わってくる
最後にナマズを登場させる。
ナマズは
ナマズは陰魚である。日中は
柴垣鼎太郎氏(文部省建築課長)は大地震の前日、
かような事実を数多く経験・観察したならば、古人ならずとも、ナマズの地震予感説を創作するに違いない。ただし早まってはいけない。畑井博士の実験談を聞くことにする。
実験材料としては成魚よりも四、
もっとも敏感な状態にあるときは、きわめて軽微な衝撃あるいは音によっていっせいに水面に飛び上がり、あるいは微弱な電流によってもおどり狂う。
やや敏感な状態においては、刺激によって隠 れ場所からわずかに飛び出すがふたたび元にもどる。
やや鈍感な状態においては、わずかに尾鰭 を動かすだけである。
もっとも鈍感な状態においては、いかに強い刺激を与えても微動だもしない。
やや敏感な状態においては、刺激によって
やや鈍感な状態においては、わずかに
もっとも鈍感な状態においては、いかに強い刺激を与えても微動だもしない。
ということがわかった。
つぎに実験されたのは、かような受感度の相違と地震発生との関係であるが、小ナマズが敏感になるのはおおむね地震の近きを意味し、鈍感は当分地震なしを意味するというのである。
実験はさらに進められた。すなわちそれは小ナマズの受感度の変化と、
元来、電流はきわめて微弱ながら自然に、いずれの場所にもたえず地中を流れており、それが流水あるいは
かような実験結果を承認するとき、過去の文献に現われたナマズと地震との関係がすべてあきらかにされる感がある。
地動報告者として、キジは地震計におよばない。地震予感者として、ナマズは地電流計にその席をゆずるべきであろう。
ちなみに記しておく。動物が微動に左右せられる以上、強い振動によってはなおさらそうでなければならぬ。深海魚が浮き袋の調節を失って浮き上がるもあり、マグロのような暖流魚がとまどいして見当ちがいな海に逃け込むこともある。トビやカラスは
ナマズ笑っていう、
二
文政十三年(一八三〇)七月二日、京都に大地震があって、死者一五〇人(あるいは二八〇人とも)におよび、そのために年号は天保と改まった。当時、山陽の居は京都鴨川縁
地震ナマズの戯画は、安政大地震の際にはすこぶる
山陽の書には判読しにくい点があったが、高楠・宇野両博士に読んでもらい、了解したままこれを
今月初二日、地震申より丑に至る。
あるいは曰く三夜に連なると、前を聞きいまだ後を審にせず。
家をたずさえて
家人一字なく、東望十たび首を
相ひいて
石岸応にことごとく崩しなるべし、
河水深くかつ
大児はなお
糴価
災
阪城余震および、
天明の如くなる
天数周またあり、
七月九日広島にあり、京報大異を聞き、夜寝ぬるあたわず、
録して
承弼老友に似す。京中従遊の士に転致せよ。山妻 不識、あるいは解説して聴かしむべきのみ。
承弼老友に似す。京中従遊の士に転致せよ。
尾にさらに数句あり。いわく、
大魚坤軸 を負う、神ありその首を按 ず。
やや怠 ればすなわち掀動す、すなわちあるいは酒に酔えるなきか。
願欲 すひとたび醒悟 し、危を鎮めてその後を善くせんことを。
もって蛇足となして剪去し、加うるに雲雨の二句をもってす。
大魚
やや
願
もって蛇足となして剪去し、加うるに雲雨の二句をもってす。
三 地震と風景
大地震にともなう
世の中は かくても経けり きさ潟 の 海士 の苫屋 を 我宿にして
というのがある。また最明寺
と歌い、
きさ潟 の 桜は波に うずもれて 花の上こぐ 海士 のつり舟
松島や おしまの月も 何ならん ただ象潟 の 秋の夕ぐれ
松島や おしまの月も 何ならん ただ
ただしなんといっても、象潟をして絶勝の名をますます高からしめたのは芭蕉の文章であろう。
「暗中に模索して雨もまた奇なりとせば、雨後の晴色もまたたのもし」と
水光
若把
そのあした天よく晴れて朝日はなやかにさし出るほどに、象潟に舟をうかぶ。まず能因、島に舟をよせて三年幽居の跡をとぶらい、向こうの岸に舟をあがれば「花の上こぐ」とよまれし桜の老木、西行上人のかたみをのこす。江上に陵あり、神功皇后のお墓という。寺を干満寺〔蚶満寺 。〕 という。ここに行幸ありしこと未 だきかず、いかなるゆえにや。
この寺の方丈に坐して簾 をまけば、風景一眼の中につきて、南に鳥海山 天をささえ、その影 江にうつりて西はむやむやの関路をかぎり、東口塘を築きて、秋田に通う路はるかに海北にかまえ、波打ち入るところを汐越〔塩越。〕 という。江の縦横一里ばかり、面影 松島にかよいてまた異なり、松島は笑うが如く、象潟はうらむが如し。さびしげに悲しみを加えて地勢魂をなやますに似たり。
象潟や 雨に西施 が ねむの花』
この寺の方丈に坐して
象潟や 雨に
としてある。けだし、ねむの花によって唐美人を連想し、その代表者として
かような絶景が、文化元年(一八〇四)の大地震にともなえる陸地隆起のために一夜にうしなわれたのであるが、このときの隆起は、象潟では二
象潟や そのおもかげの 皐月 ころ 枯萍
というのもある。
十二湖は西津軽の南西部
余は、宝永元年(一七〇四)
陸地測量部「五万分一地形図・
余らは、ある朝、この勝地に登るべき
上記の宝永地震は、この地方に大規模の山
十二湖の地域に氷河の遺跡があるとの説は上に記しておいたが、その真偽は余にはわからぬ。ただしこれに一言したいのは、上記大規模の山
四 鶏のあくび
ある老子爵、耳がよほど遠くなったのに、自分ではさほどに思っていなかった。その言い草がふるっている。
「世の中がだんだん開けるにつれ、鶏までが進化しおる。
というので、どうしてですか? とうかがいを立てると、
「あれ見よ、鶏があくびをしているではないか。
という。見ると、なるほど雄鶏があくびをしているように見えるが、じつは一生懸命に声をはりあげて高鳴きをやっているのであった。
このごろ独善という言葉が流行しているが、子爵のようなのは、その逸品として嘆賞に値するものであろう。
これに似た話。あるところに、地震に非常に敏感だと自称する男がいた。ただしそのじつ、彼氏の住んでいる家がヨロヨロしているので、地震に敏感なのは彼氏ではなく、家屋それ自身であったのだ。
彼氏、その後、家屋を新築するとき、耐震構造にしたいというので、余のところに相談にきた。そこで余は、
わが家の耐震、
というのである。彼氏たちまち
「近ごろ
と、しきりにふれまわっているのだ。口
「それがすなわち君の独善というものだ。地震に鈍感になったのは、家屋のせいばかりではなく、君もまた老いぼれてしまったからだ。
と。
「なるほど。
と言っただけで、彼氏は考えこんでしまった。
五 蝉しぐれ
昭和四年(一九二九)真夏のある朝、余は大久保の寓居で庭掃除をしていた。日光はさんさんと差しこみ、蝉しぐれはやかましく聞こえている。
午前九時。先着していたパイパー夫人は、余が来るまでの時間を利用して、助手君に標本室を案内させていた。
「そして質問したいというのは?」
「日本は震災国です。同時に地震学がもっともよく発達していると聞いています。したがってその震災を防止あるいは軽減する手段がよく講ぜられていると思いますが、それに関する概要をできるだけよくうかがって行って、本国へのみやげ話にしたいと思うのです。
「よくわかりました。
これはすばらしい好質問だ。本邦の一般士人、とくに記者諸君に
元来、日本人は質問好きなはずではなかったか。知識欲に燃えている国民だとは、嘉永
長崎出島の一蘭人のところに、ある日、江戸から使者が到着して一つの質問をもたらした。気圧計の水銀柱の高さの毎時変化を記録するのに、写真をもってする方法はないかというのである。蘭人は、彼の本職とはあまりに飛び離れた質問に一時面 くらったが、写真術に関する著述などを渉猟 して、とにかく、こうもやったらできるであろうという答案をまとめてこれを渡し、そして「ほかに何か大切なご用向きがおありでしょう。」といえば、使者はさえぎって、「いいえ、ただそれだけお尋ねするためにわざわざ派遣されたのです。」というのであった。
今の日本人は質問することを忘れたのではないだろうか。否、そんなことはないはず。ただし、たまたまわれわれへの質問といえば、
それはとにかく、このパイパー夫人の質問はたしかに及第点だ。そう感じると対者もまたおのずから真剣ならざるを得ない。
「それではご質問の答えに約一時間をあて、残りを地震計室のご案内にあてることにいたしましょう。
こう応じておいて、余は順次につぎのようなことを説明した。
「震災の防止・軽減策は三本建にしている。すなわち、第一は耐震構造の普及方。これには、建築法規に耐震構造の実施に関する一項が加えてあり、これを実行している都市は現在某々地にすぎないが、じつは国内の市町村の全部にと希望している。構造物を耐震的にするにはしかじかの方法が講ぜられている。
ここで「印刷中の稿本を見せると、そのガリ刷りでもよいからとて、それを押し
「第二は震災予防知識の普及。これは尋常小学校の国定教科書に一、
「第三は地震の予知問題の解決。この問題を分解すると、地震の大きさの程度、そのおこる場所ならびに時期という三つになり、この三者をあわせ予知することが本問題の完全な解決となる。これは前の二つとは全然その趣きが別で、専門学徒に課せられた古今の難問題である。
ここで彼女はすかさず
「じつはその詳細がとくに聞きたいのです。事項別に説明してください。して、その程度とは?」
「さよう。現今、日本には若い優秀な専門学徒が輩出して、日夜
「そして、その場所の察知は?」
「過去の大地震の統計と地質構造とによって講究された地震帯、磁力・重力など地球物理学的自然力の分布異状、とくに測地の方法によって
「それから、いつ起こるかということは?」
「右の起こりそうな場所に網をはっておいて、大地震の前兆と思われる諸現象を
パイパー夫人はなおも陸地変形による場所ならびに時期の前知方法の講究に関して、さらに具体的の例をあげるよう迫るので、余は南海道沖大地震に関する研究業績の印刷物をもってこれに応じておいた。
やがて十時が鳴った。
「では、その三分半という長い週期の地震計を。
というので、運動場の近くにある等温室に案内したが、ここは割合に早くかたづき、なお
夫人ははじめて我にかえったという
ここにも
「こんな鳴き声の小鳥は私には初めてですが、何という鳥ですか?」
と問うのだ。
「それは翼を持っていますけれども鳥ではない、
「なに、昆虫? 驚きましたね。昆虫ですか。姿が見たいこと。
ブ、ブー。自動車が来たのだ。同時に
「あ、見ました、見ました。
といって、固く
六 世紀の北米大西洋沖地震
ある日、
元来、北米大陸の東側は大地震の少ない所とされているが、あのような大地震は
まもなくパイパー夫人の手紙が届いた。
記事を読んでみた。なるほど
七 観光
昭和五年(一九三〇)
ヘボンという名は、明治前半ごろの英語学生には、かの有名な和英字書を通じて、なじみ深いものである。ただしここにいうヘボン夫人は、彼の親戚にあたるエー・バルトン・ヘボン氏の未亡人で、夫君は大正六年(一九一七)東大に米国憲法歴史および外交講座を設置するために十二万円を寄付したという由縁の深い人である。
とにかく、東大にとっては大切な
外語につたない余が、このわずかな時間で、どうして相手の満足をかち得ようか。ただし市橋女史はその手記にこう
地震学にはぜんぜん門外漢である未亡人に、博士は、模型地震計を動かして地震計の原理をきわめて平易に説明し、自然の摂理というものか、地震動の大きさにはある限度のあることを、関東大地震・丹後大地震などの実例によって解説し、この限度にたえるように家屋を設計・施工すれば、いかなる地震にも安全になるのだ、という話をされる。
最初、未亡人の聴聞は単に好奇的のものにすぎなかったようだが、しだいに熱をおびてきた博士の解説につりこまれて、時間は二十分をすぎたというのに出ようともせず、今度は「地震はどうしておこるのか」とせがまれるのだ。博士は、日本古来の伝説たる地震ナマズを捕らえ来てお客を笑わせながら、その長い睡りから
未亡人の最初の好奇的態度は、説明佳境に入るにしたがい、いつしか
ああ、私ども女性はこの地震国に生まれ、朝夕地震に対する恐怖にとらわれながら、あたかも免疫にでもなったように、地震学に対しては興味もなく、無関心・無知識で満足しきっているではないか。私は今日半日、この外来の老婦人に親炙 し、そのいわゆる科学する心の真剣さに鑑 みて、深く深く心に恥じるのであった。
市橋女史の手記は余に多大な花を持たせて
八 地震の正体
ある日、北米ピッツバーグ市のエスチングハウス電気工業所に英国の一老紳士が見学にきた。この人は、物理学界においてはニュートン以来の大家として世界的名声を
やがて場内の巡覧は終わった。紳士はくだんの技師に厚く謝していうには、
「あなたのご案内上手には敬服しました。難解なるべき事物をきわめて平易に説明してくださってありがとう。十分にたんのうしました。とてもの
「はい、なんなりとも。
「あなたのご説明の中に電気という言葉がたくさん出てまいりましたが、その電気というのは何ですか? その正体がうかがいたいのです。
「エー、その電気とは……。エー、なんですね、エー。
技師先生は目を白黒(白青かもしれない)させて
「おゆるしください。私はあなたをからかったわけではありません。申しおくれましたが、私はケルヴィンです。じつは私自身にもその電気の正体というものはよくはわからないのです。したがってその説明がうまくできるはずがありません。しかし、世人はどうもすればそれを聞きたがるのです。私はそのたびごとに苦しむのです。私は今日あなたの通俗的な説明の巧妙さには、とても感服しましたので、あるいはあなたならばと心づきましたから、うかがってみたのです。
この問答はわれわれのごとき地震の学徒にも貴重な教訓をあたえるものである。
現今世界の物質的文明は、多くは電気の駆使利用に基づいていると称しても過言ではあるまい。そのことに関与し貢献した研究者も数多いことであろうが、ただしその人々の中に、電気の正体をケルヴィン卿以上につかんだ者がはたして幾人あったであろうか。
地震学は今なお幼稚である。その幼稚なものを円熟した電気学に比較するのは無理かもしれない。ただし正体のわかりかねる物件ながらも、それを自由に駆使利用する点においては一脈相通ずるものがあるように思う。
じつに地震の正体は地下深く秘められている。室内で実験して見るわけにゆかぬ。しいて実験しようとするならば、広漠たる原野を選ばなくてはならぬ。
今、地下十数メートルの深さに数十キログラムの爆薬を封じてこれを爆発させたとすると、いわゆる人為地震が起きるのであるが、このものは、性質上ある種の天然地震に近いのである。昔の人は地震の正体を想像して、
とにもかくにも、地震の正体はつかみにくい。ただしそこから出発する地震波はよく観測され、よく講究されているから、それを駆使利用することは容易である。すなわちそれが震災を
ただし世間は、多くは根幹をかえりみないで
これもその一つ。
時は昭和四年(一九二九)
東京放送局から「地震はどうして起こるか」という題をもらった。子どもの時間に放送するためである。余はかねての持論として、いったんはこれを
小学校のみなさん。
百年前の昔と大正・昭和のこのごろと、
みなさん。
昔の人は、地震を、地の下の大ナマズの身動きによっておきるのだと言っていました。笑ってはいけません。私はある
あなたたちは、電車道が一尺角ほどの石で敷きつめてあるのをご承知でしょうが、われわれの
ここであなたたちは、その
みなさん。
昔の人は地震がゆくと、すぐあとから、おそろしい
普通の地震では、最初にブルブルブルッと幾秒間かの小さな前ゆれがあって、その後にグーラグーラという大ゆれ、最初の十倍くらいの本ゆれになるのです。前ゆれも本ゆれも、
このことは、雷のはためくとき、電光を見てから、雷鳴を聞くまでの時間をはかって、距離の計算ができると同様に、震源の位置、少なくもその距離をはかるに役立ちますので、かなり面白みのあることであります。
それでは、その実習を試みることにいたします。実習ということがわかりにくければ、地震の放送舞台劇という名前にしてもよいのです。
まず配役を発声順に申します。
それでは距離はいくらになりますか?
それではどうして計算しましたか? 木折さん。
それでは実習はこれで終わりといたします。
かようにして、一つの地震の中に、前ゆれと本ゆれとが含まれています。大地震のとき、前ゆれではまだ家が
みなさん。
地震による損害、すなわち震災と、地震とはまったく別物です。地震は人の力でおさえつけることはできませんが、震災は人の力で防ぎ止めることができます。
地震はどんな大きい場合でも、そのゆれる強さには、これ以上大きくはならないという、ある限度があるもののようですから、家や橋はこれに
地震の本ゆれは、どんな場合でも一分間とは続かないものでありまして、しかもこの最初の一分間における震災は割合に軽小なものです、しかし一分後にはじまる震災、すなわち火事による損害は、人死の数においても、財産の損失においても、最初の一分間におこる震災にくらべて十倍にも百倍にもなります。実際、大正十二年(一九二三)の関東大地震においては、最初の一分間の死人は三千人、財産の損失は一億円程度にすぎなかったのに、一分後の損害は、大火災のために十万人、五十五億円という
昭和二年(一九二七)丹後大地震のときには、九歳の尋常二年生や、十一歳の尋常四年生が、
また、大正十四年(一九二五)但馬大地震のとき、地震のもっとも激しかった
このとき、城崎の温泉町は震火災で全滅し、
田結の村は震源の真上にあったため、地震は城崎や豊岡の段でなく、最初から五秒とたたないうちに、全村八十三戸のうち八十二戸つぶれ、六十五人の村人が下敷きになってしまったのであります。
かくして田結の村は、もっとも激しい地震におそわれながら、村人がまず火を消すことに努力したため、震災は割合に軽くてすんだのでありました。
以上、地震はどうしておこるか、前ゆれ本ゆれとは何か、地震の損害はどうして防ぎ止められるかというようなことを申し述べました。
みなさん。昭和の御代の少年少女たるみなさん。以上申し述べましたことをよく味わい、かつ、
底本:
1949(昭和24)年5月30日発行
入力:しだひろし
校正:
xxxx年xx月xx日作成
青空文庫作成ファイル:
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地震の國(一)
今村明恒-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)職人|氣質《カタギ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)職人|氣質《カタギ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)なゐ[#「なゐ」に傍点]
[#…]:返り点
(例)飮[#二]湖上[#一]初晴後雨
/\:二倍の踊り字(「く」を縱に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)よろ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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序
故今村博士の遺著が今度文藝春秋新社から重版になつて世に出るから序文を書けとの需めである。君は私の最親しく又最尊敬する友であるから喜んで拙文を草した。
君は鹿兒島の出身で明治二十七年に東京大學理科大學の物理學科を卒業された。是れより先き田中館愛橘先生が四ケ年計畫で明治二十六年に着手された日本全國の地磁氣測量の事業がある。明治二十七年度の事業に君は、まだ學生であつたのに之に參加されて同年六月から君と二人で北海道測量南北二班の中の南班を引請けて、われ等は夏中三ケ月にわたり一種の探險旅行に似た仕事をした。君の筆に成る、その一節は「野宿」として本書に收めてある。何にせよ旅行は主として馬でテント生活をして辛酸を共にしたのであるから、それから君とは普通の交友とはちがひ最親しい友となつたのである。
此地磁氣測量の事業は文部省震災豫防調査會に屬するのであるが、此會は明治二十四年十月の濃尾大地震の直後に故菊池大麓博士が政府に建議して議會に於て全會一致を以て可決されて設立された大事業である。同會で審議された諸問題は非常に多く會名の示す如く地震の發生は之を阻止することは出來ないが其災害は之を輕減し得べきであるとして耐震構造、土木工事等の諸方策の研究を始めとして、地震その者の研究、地震豫知の研究を含んで居た。地磁氣測量は之によつて地殼の構造を探つて地震豫知に資せんとしたのである。
君は大學卒業後も地磁氣測量に參加されたが陸軍中央幼年學校に教鞭をとられるやうになつても大學院に於ける研究題目として地震學を選ばれ東京大學の助教授、教授としては地球物理學の領域を畢生の事業として文字通り脇目もふらず志を專にして決して學問の他の分野に入らず斯學のために節を守られたと稱してよい。これ私が君を最敬ふべき畏友として尊敬する所以である。世の學者の中には學問の一分野より他の分野へと新を追ひ流行に誘はれて轉々する人もあり又中には往々會社等の顧問となり他學校の教壇に立つて有福に生活する人もあるが、君には決して左樣なことは無かつたので君の清貧は古武士その儘であつた。君は震災豫防調査會が大正十四年一月に官制改革により廢止せられ震災豫防評議會と地震研究所とが設立せられ更に昭和十六年三月に評議會が廢止されるまで終始委員として活動された。その後有志の人と財團法人震災豫防協會を設立して事實上之を主宰された。而して臨終の前々月まで毎月帝國學士院に於て古い地震に關する史料の研究を發表されたのである。
學者としての君は上述の如く地球物理學一點張りの堅苦しい人であつたが世間人としては誠に堅苦しからざる人であつた。談論風發洒々落々、水泳に巧みに、將棋に長じ、詩を作り書を能くし且つ文筆に秀でられた。又呂昇の門人としての君の淨瑠璃は有名なものであつた。學生時代に物理學教室の常傭の木工に江戸時代の職人|氣質《カタギ》その儘の人があつて自身の氣に入らぬ仕事はして呉れないので、學生は實驗の準備を順調に運ばせるために同人の氣に入るやうに仕事を依頼するのに少なからず苦心したものである。然るに君は晝食後の休憇時に小使部屋で同人と將棋を指し勝つたり負けたり自由自在に局面を轉換して同人を喜ばせ同人のお氣に入りに成つて仕舞はれたので君の仕事は二つ返辭でして呉れた。
田中館先生を中心として門人が集まつて昭和十八年九月先生の米壽を祝した。その後同年の明治節の日、先生はその返禮として門人を自邸に招かれた。その時君は生寫朝顏日記宿屋の段を素語りして先生を慰めたが、その時「無殘なるかな秋月の娘深雪は身に積る」から「名殘惜しさに泣々も心も跡にさぐり行く」まで身振り首振りして若い可憐なる女性を躍如として現はし出した語り振りは今に忘られぬ光景であつた。
本書は君の麗筆の記念であつて讀者は之によつて心寛かに君の專念された地震學の一端を味はれることゝ思ふ。
昭和二十三年十一月
[#地から2字上げ]辱知 中村清二識
目次
序 中村清二
一、鯰のざれごと
二、頼山陽地震の詩
三、地震と風景
四、鷄の欠伸
五、蝉時雨
六、世紀の北米大西洋沖地震
七、觀光
八、地震の正體
九、ドリアン
一〇、地震の興味
一一、地割れの開閉現象
一二、稱名寺の鐘樓
一三、張衡
一四、地震計の寃
一五、初動の方向性
一六、白鳳大地震
一七、有馬の鳴動
一八、田結村の人々
一九、災害除け
二〇、地震毛と火山毛
二一、室蘭警察署長
二二、ポンペイとサン・ピェール
二三、クラカトアから日本まで
二四、役小角と津浪除け
二五、防浪堤
二六、「稻むらの火」の教方に就て
二七、三陸津浪の原因爭ひ
二八、三陸沿岸の浪災復興
二九、土佐と津浪
三〇、五徳の夢
三一、島陰の渦
三二、耐震即ち耐風か
三三、地震と腦溢血
三四、關東大震火災の火元
三五、天災は忘れた時分に來る
三六、大地震は豫報出來た
三七、原子爆彈で津浪は起きるか
三八、飢饉除け
三九、農事四精
四〇、渡邊先生
四一、野宿
四二、國史は科學的に
四三、地震及び火山噴火に關する思想の變遷
四四、地震活動盛衰千五百年
[#地から3字上げ]裝幀 芹澤※[#「金+圭」、第3水準1-93-14]介
一 鯰のざれごと
地震に關して舊日本から明治時代に傳へられたものの中に、なゐ[#「なゐ」に傍点]といふ言葉と地震鯰の説といふものがあつた。
なゐ[#「なゐ」に傍点]といふ言葉は、吾々も幼年時代に使つた經驗がある。古代に於ては單に地面或は大地を意味し、それにゆる[#「ゆる」に傍点]とかふる[#「ふる」に傍点]とかいふ動詞を添へて始めて地震の意味になつたものが、後世に至つて、土地或は大地などといふ外來語がなゐ[#「なゐ」に傍点]に代用されるやうになつたので、なゐ[#「なゐ」に傍点]は地震に獨占されて仕舞つたのだといはれてゐる。又此の言葉の沿革は、恰度希臘語のセイスモスと同じだといふ人もある。
兎に角、なゐ[#「なゐ」に傍点]といふ言葉は既に過去のものとなつた。されば地震鯰の説といふのも、これと同樣に、葬り去つてもよいものであらうか。次に聊か檢討して見る。
地震鯰の説は、元祿寶永の頃に生れたとの説がある。又建久古暦に畫かれてある地震の蟲に胚胎したのだともいはれてゐる。さすれば日本の地形に基づいて編み出された思想であつたかも知れない。
ケンプェルは地震鯰の説を誤り傳へて、地震鯨の説とした。數年前、ニース・マルセイユ間の汽車の中で、フランスの一少年が、此の説を提げて來て、吾々を惱ましたことがあつたが、これも其の根源はケンプェルの「日本記事」にあるのだなと思つた。
地震鯰の説は、當初單に架空的のものであつたかも知れない。併し自然物に對する江戸時代の鋭い觀察眼は、遂に此の説の爲に或る根據らしいものを築上げて仕舞つたのである。
地震豫知は古今東西の難問題である。舊幕時代に於ても之に手を染めた人は少くなかつたらしい。例へば安政の江戸地震後、磁鐵が磁性を失ふとの假定の下に、地震警報器を考案した人もあつた位である。此の假定が觀察の結果に立脚したのであつたならば、そこには錯覺があつたに相違ないが、併し、若し推測に基づいたのであつたならば、それは必ずしも輕視すべきものでもあるまい。明治二十五年震災豫防調査會設立當初、專門家は、地震前に於ける地磁氣分布の異變に注意して、之が調査に著手したが、それが今猶ほ續けられてゐる状態である。
次に注意をひいたものに、動物の地震に對する豫感といふことがあつたらうが、古人は種々の動物につき、丹念に此の性能を調べて見たに相違ない。そして嚴査の結果として及第したのが雉と鯰とであつたらう。
併し結局は失敗に歸した。少くも成功ではなかつた。此は受感性の鋭敏さを豫感だと誤認した爲であつた。
次に上記の部類に屬すべき動物を列擧して見る。
人は萬物の靈長である。併し五官は知能の發達に逆行して漸次に退化して仕舞つた。そして其の名殘りを今猶ほ留めてゐるのが原始人である。例へば、黒人の嗅覺の鋭さは數町先きの人を嗅ぎ分け、砂漠人の視力の鋭さは、幾里先きの人が近寄つて來るのか遠ざかつてゐるのかを見分けるが如きそれである。
獸類に聽官嗅覺の頗る鋭いもののあることは能く知られてゐる。
雉は地震の豫感を有つやう今猶ほ信じてゐる人がある位だが、此の問題は、疾くの昔、故關谷博士に依つて解決されてゐる。それに據ると、世俗、地震前に雉が鳴くやうに思ふのは誤で、其の鳴くときには、地震の初期微動が既に到着してゐるのだ。唯人間は鈍感な爲、微弱な初期微動を感知せず、幾秒間の後、主要動の到着に依つて始めて地震たるを覺り、前の雉鳴を豫感の爲だと獨斷したに過ぎないのである。此の問題の解決の爲に、博士は、永年雉を飼育して、其の地動報告と地震計の觀測とを比較して見たが、其の結果、雉は十倍地震計よりも鈍感だといふことがわかつた。加之、此の鳥は、地動の全然無いときにも鳴出すことがあるから、地動報告者としては、比較的に鈍感で且つ不忠實だといふ折紙をつけられて仕舞つた。
斯く鈍感な雉でも、人間に比較すれば遙に敏感である。啻に地震に對してのみならず、空振に對してもさうである。此は雉の動物本能である。元來飛翔力の弱い鳥のこと、若し振動に對して鈍感であつたならば、忽ち生命の破滅であらう。其故に振動に對する受感性の發達したものだけが生殘り、斯くして自然淘汰に依つて此の本能が益※[#二の字点]顯著となつたのである。
次に魚族を檢討して見る。
魚も亦振動に敏感な生物である。動物學の書物にはこんな事が書いてある。體側には側線といふ特種な小感覺器が並列してゐる。此の作用は確實にはわかつてゐないけれども、水壓の變化、水の振動、音響、電流などの刺撃をこれで感知するものらしいといふのである。
大地震の前幾日間、湖海の魚が異常の状態を示したとの報道は、實に枚擧に遑がないが、次に數例を拾つて見る。
大正十二年關東大地震のとき、相模灣では數日前から魚が釣れなくなつたとは、當時湘南一帶に唱へられてゐた。同時に沖の方では鳴動が聞え、陸の方では井水が濁つたと云はれてゐる。
昭和二年丹後大地震のとき、地震前に、魚が取れず、死魚を見て歸つて來たなどと語られてゐた。
明治四十三年七月二十五日有珠岳爆發に先だつ六日、即ち十九日以來洞爺湖に於ては魚が釣れなくなり、そして二十二日以來、爆發の前兆たる小地震群が人體に感ずるやうになつた。
男鹿大地震に關し、文化七年のときは八郎潟では數週間前から鯔が多く死んで浮んだことが記してある。此の時、湖底から石油が滲出して浮んだが、これと鯔が群をなして水面に浮ぶ習性とを結付けて、他の魚族が無難であつたに拘らず、鯔だけが死んだ理由がわかるやうな氣持がする。又去る昭和十四年五月一日の大地震のときにも、同じ湖に於て、前日に鯉や鮒が多く漁獲され、殊に東北沿岸に於ては鮒の大群が岸近く押寄せて來たといはれてゐる。海の方でも同じやうに、魚族の異常が觀察されたが、殊に興味深く感ぜられたのは、飯鮹と稱する小柄な鮹が、醉つたやうになつて、續々と陸に上つて來たことである。此は、男鹿半島の南部では當日午前中(地震は午後三時頃)、半島の北方八森に於ては前日午後から當日午前に至るまで見られたのであつた。
このほかにも、大震前に種々の魚族の群が、震原に近い海域を逃避したとか、又稀には、集まつて來たとか、色々にいはれてゐるが、筆紙を費す程でもなからう。
要するに、大地震或は火山爆發に先だつて、魚類の生活状態に異常を來たすことは疑の餘地も無く、又之が、大異變の前兆としての、地球物理學上の微細な異變に基づくことも、爭はれない事實のやうである。さうして今日吾々が想像し得る上記の前兆としては、人體或は普通の地震計に感じない程度の微震鳴動、水の流れや水温の異變、地下水の流出異常、殊にそれに瓦斯や鑛水が加はること、水界にまで傳はつて來る地電流の異變などがある。
最後に鯰を登場させる。
鯰は凡百の魚族中、各種の刺撃に對して最も敏感なものとされてゐる。あの長い四本の髭(外國産には六本のものがある)は觸角の用をなすのみならず、其の特徴のある肌色をなす側線は異常な發達を遂げ、身體の外部は總て神經で包まれてゐるといつてもよい位である。
鯰は陰魚である。日中はあくた[#「あくた」に傍点]や泥の中に潜み、夜陰に乘じて餌をあさる。神經系統が異常な發達を遂げた所以である。されば晝間之を漁獲することは困難であり、又自身に隱れ家を出て來ることもない筈であるが、然るに大地震前に於て此の習性を裏切つた例は頗る多い。江戸時代の文獻を引用するのは餘りに煩はしいから、余は、此に單に、大正十二年九月一日關東大地震前一兩日に經驗された生々しい二例を擧げることにする。
[#ここから1字下げ]
赤司鷹一郎氏(元文部次官)は東京向島の一料亭に於て、池の面に頻々と飛上る小魚を見て、何魚かと問うた所、小鯰ですが、二三日前からあの通りです。不思議な事ですとの答であつたさうだ。
柴垣鼎太郎氏(文部省建築課長)は大地震の前日、鵠沼海岸の池で、投網に依つて、鯰の大漁獲をなした。一尺大のもの、ばけつ三杯分あつたとのこと。
[#ここで字下げ終わり]
斯樣な事實を數多く經驗觀察したならば、古人ならずとも、鯰の地震豫感説を創作するに違ひない。併し早まつてはいけない。畑井博士の實驗談を聞くことにする。
實驗材料としては成魚よりも四五寸大の幼魚の方がよい。之を四五匹水槽内に入れて置くと、晝間はあくた[#「あくた」に傍点]の中に潜んでゐるが、之に各種の刺撃を與へて其の受感度を檢査するのである。其の結果、
[#ここから1字下げ]
最も敏感な状態にあるときは、極めて輕微な衝撃或は音に由つて一齊に水面に飛上り、或は微弱な電流に由つても躍り狂ふ。
稍※[#二の字点]敏感な状態に於ては、刺撃に由つて隱れ場處から僅に飛出すが再び元に戻る。
稍※[#二の字点]鈍感な状態に於ては、僅に尾鰭を動かすだけである。
最も鈍感な状態に於ては、如何に強い刺撃を與へても微動だもしない。
[#ここで字下げ終わり]
といふことがわかつた。
次に實驗されたのは、斯樣な受感度の相違と地震發生との關係であるが、小鯰が敏感になるのは概ね地震の近きを意味し、鈍感は當分地震無しを意味するといふのである。
實驗は更に進められた。即ちそれは小鯰の受感度の變化と、地電流の變化との因果關係に就てなされたのである。
元來、電流は極めて微弱ながら自然に、何れの場處にも斷えず地中を流れて居り、それが流水或は止水にも傳はるのであるが、其の強さは時々刻々に變化するのである。實驗の結果、小鯰が敏感となるのは地電流の強さの變化が急激且つ頻繁に起るときであり、鈍感となるのは變化が皆無或は極めて緩徐なときであることがわかつた。蓋し、前の場合は、地殼内の歪みに異常變化のあることを意味するのであらう。
斯樣な實驗結果を承認するとき、過去の文獻に現はれた鯰と地震との關係が凡て明かにされる感がある。
地動報告者として、雉は地震計に及ばない。地震豫感者として、鯰は地電流計に其の席を讓るべきであらう。
因に記して置く。動物が微動に左右せられる以上、強い振動に由つては猶更さうでなければならぬ。深海魚が浮嚢の調節を失つて浮上るもあり、鮪のやうな暖流魚が戸惑ひして見當違ひな海に逃け込むこともある。鳶や烏は空振の爲に地上に墜落し、臆病な馬は揃つて脱糞するなど種々樣々である。
鯰笑つて曰ふ、「萬物の靈長は如何。」靈長對へて曰ふ。「よし、白状する。吾等の中には、馬にも劣らず、地震の度毎に手洗所に駈込むものもあるよ。」
二 頼山陽地震の詩
文政十三年七月二日京都に大地震があつて、死者百五十人(或は二百八十人とも)に及び、その爲に年號は天保と改まつた。當時山陽の居は京都鴨川縁三本木にあつたが、山陽自身は廣島へ歸省中であつたと見え、京都大震災の郵報に接し、家族八人の安否を餘程心配したらしく、其の悶々の情を詩に託して、之を在大阪の友人篠崎小竹(字は承弼)に送つたのが山陽書簡集に載つてゐる。一世の文豪の地震觀も珍とするに足るが、余が殊に興味を感ずるのは、寧ろ其の追書の方である。
地震鯰の戯畫は、安政大地震の際には頗る跋扈したものだが、此の説はさ程古いものではなく、元祿・寶永頃に始まつたといふ説もある。新城博士に據れば、現今我國に流布してゐる家相説は天明寛政以後の作であるとのことだが、或は斯る迷説の作者が此の時代に輩出したのかも知れない。兎に角、地震鯰の説は既に文政年間に流布してゐたことだけは確實である。
山陽の書には判讀しにくい點があつたが、高楠、宇野兩博士に讀んで貰ひ、了解したまゝ之をかな交り文[#「かな交り文」に傍点]にしたのが次の通りである。
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郵籤京事を報ずらく、 變故未曾有。
今月初二日、 地震申より丑に至る。
或は曰く三夜に連なると、 前を聞き未だ後を審にせず。
九陌啼哭沸き、 十室に八九を壞る。
家を挈へて街衢を度り、 墜瓦左右に堆しと。
家人一字無く、 東望十たび首を掻く。
念ふ吾家は鴨崖、 穉子は弱婦に依る。
相牽いて沙中に避くらん、 又怕る居守無きを。
石岸應に盡く崩しなるべし、 唯餘す露根の柳。
河水深く且つ溢れつらん、 知らず能く逃走せしか。
大兒は猶ほ※[#「厂+萬」、第3水準1-14-84]掲しけん、 小兒は婢に付して負はしめしか。
糴價意ふに騰躍し、 苦辛八口を糊すらん。
愧づ一家の憂に任じ、 患難援手せざるを。
災※[#「示+駸のつくり」、第4水準2-82-70]黔黎に被る、 此豈に吾獨り受けんや。
阪城餘震逮び、 江都定めて安否。
天明の如くなる無きを得んか、饑民起つて相蹂ること。
天數周復有り、 下土誰か咎に任ぜん。
仰ぎ看る雲は北に奔り、 海雨龍は吟吼す。
耿々たる※[#「木+巳」]人の心、 長歌強ひて缶を拊つ。
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七月九日廣島に在り、京報大異を聞き、夜寐ぬる能はず、枕上に就て此を作り、聊か以て悶を遣る。
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録して
承弼老友に似す。京中從遊の士に轉致せよ。山妻不識、或は解説して聽かしむ可きのみ。
[#地から5字上げ]襄
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尾に更に數句あり。曰く、
大魚坤軸を負ふ、 神有り其首を按ず。
稍怠れば則ち掀動す、 乃ち或は酒に醉へる無きか。
願欲す一たび醒悟し、 危を鎭めて其後を善くせんことを。
以て蛇足となして剪去し、 加ふるに雲雨の二句を以てす。
[#ここで字下げ終わり]
三 地震と風景
大地震に伴ふ地變に因つて滄桑の變の起るやうなことは有勝ちだが、之が爲、天下の名勝が一朝にして失はれたり、又反對に、凡景が却て勝區となることもある。前者の例としては出羽の象潟の如きが其の最も著名なものであり、西津輕の大戸瀬小戸瀬の如きも亦之に加へて可なるべく又後者の一例としては、同じく西津輕の十二湖を擧げてよいであらう。
象潟は古來東北一の絶勝と謳はれてゐた。灣の徑凡そ三粁、之に清らかな海水を湛へ、九十九島八十八潟があり、島には奇石怪巖峙ち、風致ある翠松之を被ひ、嫋々たる合歡木其の間を點綴し、水の深さ平均凡そ一尋、大小の魚族は掬へさうに游泳してゐた。昔から雅客の杖を曳いたものは少くなく、能因法師の如きは三年も滯留したと云はれてゐる。法師の歌に、
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世の中はかくても經けりきさ潟の海士の苫屋を我宿にして
[#ここで字下げ終わり]
といふのがある。又最明寺時頼は、
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象潟と思ひし程はいそがれて歸す涙に袖ぞぬれける
[#ここで字下げ終わり]
と歌ひ、西行法師は斯くも詠じた。
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きさ潟の櫻は波にうづもれて花の上こぐ海士の釣舟
松島やおしまの月も何ならんたゞ象潟の秋の夕ぐれ
[#ここで字下げ終わり]
併し何と云つても、象潟をして絶勝の名を益々高からしめたのは芭蕉の文章であらう。
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『江山水陸の風光數を盡して今象潟に方寸を責む。酒田の港より東北の方、山を越え磯を傳ひ砂子を踏みて其際十里ばかり、日影やゝ傾く頃、汐風眞砂を吹上げ雨朦朧として鳥海山かくる。
「暗中に模索して雨も亦奇なりとせば雨後の晴色もまたたのもし」と蜑の苫屋に膝を入れて雨の晴るゝを待つ。
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(筆者註。暗中云々の出典を明かにし、且つ後文にある俳聖の名句を玩味せんが爲に、蘇東坡西湖の詩「飮[#二]湖上[#一]初晴後雨」を掲げる。
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水光瀲※[#「さんずい+艶」、第4水準2-79-53]晴方好 山色空濛雨亦奇
若把[#二]西湖[#一]比[#二]西子[#一] 淡粧濃抹總相宜)
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其のあした天よく晴れて朝日はなやかにさし出る程に、象潟に舟をうかぶ。先づ能因島に舟をよせて三年幽居の跡をとぶらひ、向ふの岸に舟をあがれば「花の上こぐ」とよまれし櫻の老木、西行上人のかたみをのこす。江上に陵あり、神功皇后の御墓といふ。寺を干滿寺といふ。此處に行幸ありしこと未だきかず、いかなるゆゑにや。
この寺の方丈に坐して簾を捲けば、風景一眼の中につきて、南に鳥海山天をさゝへ、其影江にうつりて西はむやむやの關路をかぎり、東口塘を築きて、秋田に通ふ路はるかに海北にかまへ、波打入るところを汐越といふ。江の縱横一里ばかり、面影松島にかよひて又異なり、松島は笑ふが如く、象潟はうらむが如し。さびしげに悲しみを加へて地勢魂をなやますに似たり。
象潟や雨に西施がねむの花』
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としてある。蓋しねむの花に依つて唐美人を聯想し、其の代表者として西施をかつぎ出し、坡仙の西湖の詩を引用して晴雨の兩景を謠つたのであらう。
斯樣な絶景が文化元年の大地震に伴へる陸地隆起の爲に一夜に喪はれたのであるが、此の時の隆起は、象潟では二・二米程であつた。其の後、開墾されて一面の水田が出來たが、併しながら十數箇の島嶼は昔のまゝに、地域全體が天然記念物として保存されることになり、今猶ほ捨て難い風情を殘してゐる。特に五月雨の頃、一面に水を湛へると、島々が水面上に浮び出し、往時を偲ばしめるものがある。
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象潟や其俤の皐月ころ 枯萍
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といふのもある。
大戸瀬小戸瀬は西津輕西北隅の一勝地である。二見浦の夫婦岩の矮小なのに失望した人は、恐らく此の津輕の夫婦岩の雄大さに堪能したであらうが、惜しいことには、寛政四年の大地震で土地が二・二米程隆起した爲、今は其の臺座である千疊岩と共に、往時の面影を留めてゐるのみである。
十二湖は西津輕の南西部僻陬の地にあつて、是まで世間に知られずにゐた。此はさもあるべきこと。元來西津輕自身が本州の北端陸奧國の中でも一方に偏し、交通不便な土地柄な上、十二湖は更に其の山奧に位して居り、而も其の名前も此頃つけられたに過ぎないといふのだから、余の如き、二十年前其の近邊を旅行しながら、之を看過したのも寧ろ當然であつた。然るに近年になつて、鐵道は海岸に敷かれ、自動車道路も開けた上、世間の山岳熱も高まつて來たので、此の山間の一勝區が頓に明かるみに持出され、特に此の場處に氷河の遺跡まであるといふので、其の名が學界にまで喧傳されるに至つた。
余は、寶永元年能代地方大地震に伴へる陸地變形、特に沿岸隆起の状態を調べる爲、去秋同人諸氏と共に此の地方の沿岸を彷徨した。調査は、順調に進捗して、當時の模樣を彷彿することが出來たが、此には之を省くことにする。
陸地測量部五萬分一地形圖深浦區を展べると、其處に異樣な地形が觀察される。即ち岩崎の東南六粁位を中心とし、直徑三粁位の圓内に其の十二湖が見出されるのである。地圖では十五箇の湖が數へられるが、其の中、最も奇なるは、區域の北境をなす圓周上に並列してゐる七箇の湖である。俚俗之を七ツ池と呼んでゐる。
余等は、或る朝、此の勝地に登るべき岐路に立つてゐた。恐らく地元か或は近縣かの觀光團であらう。凡そ七八十名の人數が十二湖の石門にかゝらうとしてゐた。若し天氣が好かつたら、余等も或は其方へ誘惑されたかも知れないが、生憎寒風吹荒み、時々驟雨が來るので、諦めて仕舞つた。隨つて十二湖の風光に關する余が知識は頗る貧弱なもので、唯僅に繪葉書に據つて其の貧弱さを補つたに過ぎない。
上記の寶永地震は此の地方に大規模の山崩れを惹起した。崩れ出しは黒森山の八合目であつて、泥流は、現在の十二湖の境域を被ひ、東北は新谷川に、南は小峯澤に達し、材木伐採者六名薪取り四名が犧牲となつた。事變後凡そ二週間目の調書に據れば、此の地域から流れ出る溪流が、何れも水涸れになつたとあるから、此の期間に、十五湖中少くも其の大部分が生成されつゝあつたことが想像される。
十二湖の地域に氷河の遺跡があるとの説は上に記して置いたが、其の眞僞は余にはわからぬ。併し此に一言したいのは、上記大規模の山崩れに因つて、岩面には一種の掻痕が遺される筈だから、之が無視されないやうにといふことである。
四 鷄の欠伸
或る老子爵、耳が餘程遠くなつたのに、自分ではさ程に思つてゐなかつた。其の言ひ草が振つてゐる。
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「世の中が段々開けるにつれ、鷄までが進化し居る。」
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といふので、どうしてですかと伺を立てると、
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「あれ見よ、鷄が欠伸をしてゐるではないか。」
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といふ。見ると、成程雄鷄が欠伸をしてゐるやうに見えるが、實は一生懸命に聲を張上げて高鳴きをやつてゐるのであつた。
此頃獨善といふ言葉が流行してゐるが、子爵のやうなのは、其の逸品として歎賞に値するものであらう。
之に似た話。或る處に、地震に非常に敏感だと自稱する男がゐた。併し其の實、彼氏の住んでゐる家がよろ/\してゐるので、地震に敏感なのは彼氏ではなく、家屋其れ自身であつたのだ。
彼氏、其の後、家屋を新築するとき、耐震構造にしたいといふので、余の處に相談に來た。そこで余は、素人向き耐震構造の祕訣を彼氏に授けてやつた。
我家の耐震、筋違方杖、火打に金物。
といふのである。彼氏忽ち會得して、造り上げたのが二階建木造家屋。眞に耐震的に出來たのだらう。かの五重塔や、名古屋城の振動檢測で有名な齋田理學士が、此の家の震動振りを檢査して見ると、普通ならば、二階は地面の三倍位に搖れるのに、此の家は兩方が同じに搖れる。即ち耐震構造の理想型だといふのだ。彼氏忽ち得意になり、
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「近頃我輩は地震に鈍感になつた。是れ偏に耐震構造に住まつてゐる結果だ。」
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と、連りに觸れ廻つてゐるのだ。口さが[#「さが」に傍点]ないものが之を聞いて、
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「それが即ち君の獨善といふものだ。地震に鈍感になつたのは、家屋のせゐばかりではなく、君も亦老ぼれて仕舞つたからだ。」
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と。
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「成程。」
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と言つただけで、彼氏は考へ込んで仕舞つた。
五 蝉時雨
昭和四年眞夏の或る朝、余は大久保の寓居で庭掃除をしてゐた。日光はさん/\と差込み、蝉時雨は喧しく聞えてゐる。「今日も亦暑いかな」などとつぶやいてゐると、突然屋内から「電話です。帝國ホテルから。英語ですからさつぱりわかりません。早く/\。」といふ。出て見ると、北米某新聞の婦人記者だといふ。「世界巡遊の最後の日程が日本であり、日本に於ける最後のが東京であつて、東京の最後が地震學教室である。而も今日横濱解纜の船に乘るので、剩す所數時間しかない。夏休み中とは萬々承知してゐるが、曲げて出勤して呉れないか。教室を見せて貰ふ許りでなく、色々質問したいことがあるのだ。」といふ。如何にも眞劍らしいので快諾の旨を答へ、いそいで大學へと向つた。
午前九時。先着してゐたパイパー夫人は、余が來るまでの時間を利用して、助手君に標本室を案内させてゐた。挨拶もそこ/\に、なん時まで此處に居れるかを問ふと、「正午上船するのですが、何時まで居れるでせうね。」と却て反問するのだ。「ホテルはどうしました。」と問へば、「最早引上げて來て、荷物はこれ限り。」と小さな手提を示し、「此處から眞直ぐに船に行くだけのことです。」といふ。「それなら十時半に此處を出發するやうタクシーを呼寄せて置きますから、それまでの一時間半に貴女が滿足されるやう御案内致しませう。が、何を御覽になりたいか、何を質問なさりたいか、先づそれから伺ひませう。」と言へば、「出し後れましたが、此處に紐育フォルダム大學地震觀測所長の紹介があります。同所の地震計は固より、歐洲の名ある二三の地震研究所も見て參りましたから、有り觸れた地震計に就ては最早興味を有ちません。唯貴方の設計されたといふ長週期地震計を見せて貰へばよいのです。フォルダムの觀測所長からもそれを見落さないやうにと言ひつかりました。唯それだけです。」
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「そして質問したいといふのは。」
「日本は震災國です。同時に地震學が最もよく發達してゐると聞いてゐます。隨つて其の震災を防止或は輕減する手段がよく講ぜられてゐると思ひますが、其れに關する概要を出來るだけ能く伺つて行つて、本國への土産話にしたいと思ふのです。」
「よくわかりました。」
[#ここで字下げ終わり]
此は素晴らしい好質問だ。本邦の一般士人、特に記者諸君に吹聽したい程の好質問だ。余は永年の學究生活中、斯樣な好質問に曾て出會つたことがない。
元來、日本人は質問好きな筈ではなかつたか。知識慾に燃えてゐる國民だとは、嘉永安政の頃始めて邦人に接した外人の觀察であつたのだ。オスボーン大佐の日本近海巡航記(西紀一八五九年出版)には斯う認めてある。
[#ここから1字下げ]
長崎出島の一蘭人の處に、或る日、江戸から使者が到著して一つの質問を齎らした。氣壓計の水銀柱の高さの毎時變化を記録するのに、寫眞を以てする方法はないかといふのである。蘭人は、彼の本職とは餘りに飛離れた質問に一時面喰つたが、寫眞術に關する著述などを渉獵して、兎に角、斯うもやつたら出來るであらうといふ答案を纒めて之を渡し、そして「外に何か大切な御用向がおありでせう。」と言へば、使者は遮つて、「いゝえ、唯それだけお尋ねする爲に態々派遣されたのです。」といふのであつた。
[#ここで字下げ終わり]
今の日本人は質問することを忘れたのではないだらうか。否、そんなことは無い筈。併し偶※[#二の字点]吾々への質問といへば、「地震の原因如何。」とか、「地震とは何ぞや、」といふやうな深遠なものか、さうでなければ「今日の地震は水平動でしたか、上下動でしたか。」といふやうな愚劣なものが多いのである。
それは兎に角、此のパイパー夫人の質問は確に及第點だ。さう感じると對者も亦自ら眞劍ならざるを得ない。
[#ここから1字下げ]
「それでは御質問の答に約一時間を充て、殘りを地震計室の御案内に充てることに致しませう。」
[#ここで字下げ終わり]
斯う應じて置いて、余は順次に次のやうなことを説明した。
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「震災の防止・輕減策は三本建にしてゐる。即ち、第一は耐震構造の普及方。これには、建築法規に耐震構造の實施に關する一項が加へてあり、之を實行してゐる都市は現在某々地に過ぎないが、實は國内の市町村の全部にと希望してゐる。構造物を耐震的にするにはしかじかの方法が講ぜられてゐる。」
[#ここで字下げ終わり]
こゝで「印刷中の稿本を見せると、其のガリ刷でもよいからとて、それを押戴いて眞ぐ手提に收めるといふ始末。
[#ここから1字下げ]
「第二は震災豫防知識の普及。此は尋常小學校の國定教科書に一二の文章を挿入することにより、概ね其の目的が達せられる。」
「第三は地震の豫知問題の解決。此の問題を分解すると、地震の大きさの程度、其の起る場處竝に時期といふ三つになり、此の三者を併せ豫知することが本問題の完全な解決となる。此は前の二つとは全然其の趣が別で、專門學徒に課せられた古今の難問題である。」
[#ここで字下げ終わり]
此處で彼女はすかさず喙を容れた。
[#ここから1字下げ]
「實は其の詳細が特に聞きたいのです。事項別に説明して下さい。して、其の程度とは。」
「さやう。現今日本には若い優秀な專門學徒が輩出して、日夜研鑚してゐますから、此の難問題が三つとも一擧に解決されるかも知れません。が併し、それとは別に、吾々の如く防災地震學に專念してゐる者は、講究の目標を大地震にのみ限定してゐます。大きさの程度をわざと斯う狹く局限してゐるのです。」
「そして、其の場處の察知は。」
「過去の大地震の統計と地質構造とに依つて講究された地震帶、磁力・重力等地球物理學的自然力の分布異状、特に測地の方法に依つて闡明された特種の慢性的・急性的陸地變形等に依ります。」
「それから、何時起るかといふことは。」
「右の起りさうな場處に網を張つて置いて、大地震の前兆と思はれる諸現象を捕捉するのです。」
[#ここで字下げ終わり]
パイパー夫人は尚も陸地變形に依る場處竝に時期の前知方法の講究に關して、更に具體的の例を擧げるやう迫るので、余は南海道沖大地震に關する研究業績の印刷物を以て之に應じて置いた。
軈て十時が鳴つた。
[#ここから1字下げ]
「では其の三分半といふ長い週期の地震計を。」
[#ここで字下げ終わり]
といふので、運動場の近くにある等温室に案内したが、此處は割合に早く片附き、尚ほ暫時の餘裕があつた。
夫人は始めて我に歸つたといふ風である。周圍の鬱蒼たる夏樹立を厭かず眺めてゐるのだ。
こゝにも蝉が喧しく鳴いてゐる。
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「こんな鳴き聲の小鳥は私には初めてですが、何といふ鳥ですか。」
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と問ふのだ。
[#ここから1字下げ]
「それは翼を持つてゐますけれども鳥ではない、蝉といふ昆蟲です。」
「なに、昆蟲。驚きましたね。昆蟲ですか。姿が見たいこと。」
[#ここで字下げ終わり]
ブ・ブー。自動車が來たのだ。同時に蝉が飛出した。
[#ここから1字下げ]
「あ、見ました。見ました。……では御機嫌よう。世界人道の爲に貴方の御健康を祈ります。」
[#ここで字下げ終わり]
と言つて、固く握手するのであつた。
六 世紀の北米大西洋沖地震
或る日、一葉の外字新聞が余に屆けられた。紐育にあるブルクリン・デイリー・イーグル紙の日曜特輯號である。見るとパイパー夫人の物した「島帝國の震災豫防對策」といふのが約一頁を埋めてゐる。日附はと見ると、一九二九年十一月十七日になつてゐる。「ほう、あの珍らしい大西洋大地震津浪の起つた前の日ではないか。」震源はニューファウンドランド南方沖、歐米連絡の海底電線二十三本の中十二本まで切斷し、通信は一時不能となつたといふあの世界的大地震、津浪も大きかつた(が、人口稀薄な場處である爲、死人は二十六人に止まつた)といふあの大地震。確に其の前の日なのだ。
元來、北米大陸の東側は大地震の少い所とされてゐるが、あの樣な大地震は殊に其の例に乏しく、恐らく世紀の地震として差支ないであらう。關係國民の驚き方は想像に餘るものがあつたに違ひない。
間もなくパイパー夫人の手紙が屆いた。『若しあの特輯記事に誤謬があつたら宥して下さい。併し公刊の時期が、あの大地震津浪の前日に當つたのは、私にしてはあやまちの功名でした。お蔭で例になく多數の讀者を得たやうです。「貴女は震災對策の傳授を受けて來て、早速之を試みたのではないか」などといふ質問を受けた位でした。』と、このやうなことが認めてあつた。
記事を讀んで見た。成程誤謬が多い。地名の綴方の誤は已むを得ないが、事柄にも可なり相違がある。これも余が外語の拙劣さに因るのだと思へば諦めねばなるまい。併し思ひ返した。若し國内の記者に邦語で解説しても矢張あれ位の誤謬は免れないだらうと。さうだ。悔むべきではない。
「大法輪」の一記者は、余の外貌を捉へて、「稍※[#二の字点]小柄で丸々と太つた」と形容してゐる(同誌昭和十四年三月號)。十八貫、五尺六寸の男を小柄とはどうであらうか。然るにパイパー夫人は「彼の握手は丁寧で、彼の話は友誼的で、彼の英語は完全で」などと、赤面する程のお世辭を浴せた擧句、「彼は肩幅廣い大男で、身長は五呎十一吋もあらうか」と評してゐる。單純な有形物件に對してすら、斯うも違ふものである。
七 觀光
昭和五年、櫻の日本を訪れた一群の觀光米人があつたが、他の人達が「結構な日光へ」といふのに、一人だけは群を離れて東京帝國大學を音なうた。ヘボンといふ老婦人である。
ヘボンといふ名は、明治前半頃の英語學生には、かの有名な和英字書を通じて、なじみ深いものである。併しこゝにいふヘボン夫人は、彼の親戚に當るエー・バルトン・ヘボン氏の未亡人で、夫君は大正六年東大に米國憲法歴史及び外交講座を設置する爲に十二萬圓を寄附したといふ由縁の深い人である。
兎に角、東大に取つては大切な賓客だといふので、總長自ら乘出して接待の順序を立て、上記講座の擔任教授たる高木博士に市橋女史を附けて案内させ、地震學もよからうとあつて、余が教室の見學に二十分間割當てた。
外語に拙い余が、此の僅かな時間で、どうして相手の滿足を贏ち得ようか。併し市橋女史は其の手記に斯う認めてゐる。
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地震學には全然門外漢である未亡人に、博士は、模型地震計を動かして地震計の原理を極めて平易に説明し、自然の攝理といふものか、地震動の大きさには或る限度のあることを、關東大地震、丹後大地震等の實例に依つて解説し、此の限度に耐へるやうに家屋を設計施工すれば、如何なる地震にも安全になるのだ、といふ話をされる。
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最初、未亡人の聽聞は單に好奇的のものに過ぎなかつたやうだが、次第に熱を帶びて來た博士の解説に釣込まれて、時間は二十分を過ぎたといふのに出ようともせず、今度は「地震はどうして起るのか」とせがまれるのだ。博士は、日本古來の傳説たる地震鯰を捕へ來てお客を笑はせながら、其の長い睡りから覺醒して急に動き出すのが地震だとすると、其れが動き出す前後に多少の身動きがあらうといふもの、若し所謂地塊といふものを古來の地震鯰に置代へたとしたら、それが地震の起り方を彷彿させるであらうといふ。
未亡人の最初の好奇的態度は、説明佳境に入るに從ひ、何時しか眞面目と化し、感激となり思はず四十分間を經過した。歸途未亡人は、地震學を繰返し/\語りながら、其の感想を漏されるのであつた。即ち今まで無關心であつた斯の科學は、人生に直接に大切なものたるを始めて啓發されたこと。此の事は彼女に取つて全く啓示(レヴェレーション)であつたこと。博士の研究論文別刷は之を母校に寄贈し、若し其處で地震學を教へてゐなかつたならば、教へるやうに勸告しようといふことなどを語り、最後に、吾々は地震國に住むと否とに拘らず、地震學を常識學として是非修めて置かねばならぬと結ばれるのであつた。未亡人は恐らく此の考へで胸一杯であつたのであらう。歸途、知人を訪ふ爲に女子英學塾へ立寄られたとき、開口一番、地震學科が此の塾の科目に入れてあるか否かを問うて人々を面喰はせたのであつた。
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噫、私共女性は此の地震國に生れ、朝夕地震に對する恐怖に捉はれながら、恰も免疫にでもなつたやうに、地震學に對しては興味もなく、無關心無知識で滿足し切つてゐるではないか。私は今日半日、此の外來の老婦人に親炙し、其の所謂科學する心の眞劍さに鑑みて、深く/\心に恥ぢるのであつた。
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市橋女史の手記は余に多大な花を持たせて認めてあるから、其の事に關する限り、可なり割引をする必要があるが、併し、其の他、特に最後の一節は、恐らく、女史が日本婦人に對する眞劍な警告と見てよいであらう。
八 地震の正體
或る日、北米ピッツバーグ市のヱスチングハウス電氣工業所に英國の一老紳士が見學に來た。此の人は、物理學界に於てはニュートン以來の大家として世界的名聲を馳せてゐるのみならず、歐米間を結ぶ海底電線を最初に敷設した功勞者として電氣工業界に取つても大切な人物である爲に同所では優遇の限りを盡し、場内殘る隈なく開放して接待に力めたが、どうしたことか、説明役を承はつた技師には其の紳士の誰であるかが傳はらずにゐた。隨つて技師の眼に映じた紳士は、片足の少し不自由な、要領のよい、早分りのする常人に過ぎなかつたのである。
軈て場内の巡覽は終つた。紳士は件の技師に厚く謝して曰ふには、
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「貴方の御案内上手には敬服しました。難解なるべき事物を極めて平易に説明して下さつて有りがたう。十分にたんのうしました。とてもの序に今一つ質問したいことがあるのですが。」
「はい、何なりとも。」
「貴方の御説明の中に電氣といふ言葉が澤山出て參りましたが、其の電氣といふのは何ですか其の正體が伺ひたいのです。」
「エー、其の電氣とは。……。エー、何ですね、エー。…………。」
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技師先生は目を白黒(白青かも知れない)させて苦吟してゐるが、二の句が出さうでない。老紳士は遂にふき出して、
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「お許し下さい。私は貴方をからかつた譯ではありません。申し後れましたが、私はケルヴィンです。實は私自身にも其の電氣の正體といふものは能くはわからないのです。隨つて其の説明がうまく出來る筈がありません。然し世人は動もすればそれを聞きたがるのです。私は其の度毎に苦むのです。私は今日貴方の通俗的な説明の巧妙さには、とても感服しましたので、或は貴方ならばと心附きましたから、伺つて見たのです。」といふのであつた。
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此の問答は吾々の如き地震の學徒にも貴重な教訓を與へるものである。
現今世界の物質的文明は、多くは電氣の驅使利用に基づいてゐると稱しても過言ではあるまい。其の事に關與し貢獻した研究者も數多いことであらうが、併し其の人々の中に、電氣の正體をケルヴィン卿以上に掴んだ者が果して幾人あつたであらうか。
地震學は今猶ほ幼稚である。其の幼稚なものを圓熟した電氣學に比較するのは無理かも知れない。併し正體のわかり兼ねる物件ながらも、それを自由に驅使利用する點に於ては一脈相通ずるものがあるやうに思ふ。
實に地震の正體は地下深く祕められてゐる。室内で實驗して見る譯に行かぬ。強ひて實驗しようとするならば、廣漠たる原野を選ばなくてはならぬ。
今地下十數米の深さに數十瓩の爆藥を封じて之を爆發させたとすると、所謂人爲地震が起るのであるが、此のものは、性質上或る種の天然地震に近いのである。昔の人は地震の正體を想像して、「火山爆發の地表まで拔け出ないのだ」と謂つてゐたが、其のやうなものもあるらしい。併しそれよりも性質の違つた天然地震もある。例へば、各地に於ける初動觀測の結果から判斷すれば動源は、地下の一部の横ずれであるとしか思はれないものもあるが、これも其の一つである。
兎にも角にも、地震の正體は掴みにくい。併し其處から出發する地震波は能く觀測され、能く講究されてゐるから、それを驅使利用することは容易である。即ちそれが震災を驅逐するにも役立ち、或は地下資源を探るにも役立つ。又それを眞似て雉子を鳴かせ、若しくは鯰を躍らせることも出來る。要するに、地震は、假令其の正體は掴めずとも、人生に交渉を有つ方面の講究をするには大した不便を感じないのである。
併し世間は、多くは根幹を顧みないで末梢を追ふものである。
これも其の一つ。
時は昭和四年、吾々は震災豫防の常識の普及に役立つ一文を尋常小學校教科書に入れるやうにと當局に懇請してゐたが、何等反響のないのに呆然としてゐる頃のこと。
東京放送局から「地震はどうして起るか」といふ題を貰つた。子供の時間に放送する爲である。余は豫ねての持論として、一旦は之を斷らうかとも思つたが、併し思返した。寧ろ此の機會を利用して、假令題目とは多少合はないでも、兒童に相應しい地震知識、特に震災豫防の知識を注ぎ込めば寧ろ國民教育の缺陷を補ふ一つにもならうと。そこで早速稿を起し、近所から尋常五六年の生徒數名を驅り集めて來て之を讀み聞かせ、それに依つて校訂したのが次の稿本である。
小學校の皆さ [#「皆さ 」は底本のまま]。
百年前の昔と大正昭和の此頃と、物事はどちらが開けてゐるかと言つたら、貴方達は、それは問題にならないと答へるでせう。併し地震については、さうとも限らないやうに思ひます。成程地震の學問については、今日、日本は世界の何れの國にも負けないでせう。併し、それは、僅かな人數の間に開けてゐるだけで、尋常小學校卒業程度の、我國大多數の人達にまでは及んでゐないのであります。なぜならば、此等の人達は、四年の國語讀本、加藤清正の所で地震といふ文字を教はり、六年の理科で、「火山の破裂する前後にはたいてい地震がある」とか、「斷層に變動の生ずるときには地震が起る」といつたやうなことを教はる位でありまして、此の他には、地震につき、何等教へられる折がないからであります。
皆さん。
昔の人は、地震を、地の下の大鯰の身動きに由て起るのだと言つてゐました。笑つてはいけません。私は或る物知りに聞きましたが、此の大鯰とは、魚ではなく、土地の大きなきれぎれを謂ふのださうです。
貴方達は、電車道が一尺角ほどの石で敷詰めてあるのを御承知でせうが、我々の住まつてゐる土地は五里角十里角程の岩石で敷詰められてゐます。此の敷石は、電車道のものとは違ひまして大小色々あり、又眞四角でもないのです。之を我々の仲間では地塊と名づけ、地震は其の身動きに由つて起るものと考へてゐます。或る一つの地塊の身動きによつて、隣の地塊との間に喰違が出來ます。此の喰違を斷層と名づけます。斯樣な喰違は地震の度毎に起る許りでなく、其の起る前からも少しづつ進行するもののやうであります。これが、今日、地震豫知、即ち地震を前以て知ることの研究上、大切な手懸りとなつてゐるのであります。
こゝで貴方達は、其の地塊の身動きは、どうして起るかといふのでせう。貴方達は、理科で、温泉・地熱のことなど學んだでせう。地の底は深くなるにつれ、段々熱くなる。これが即ち地熱なのでありますが、此の地熱は同じ場處でも、永い間には變つて參りますから、此の働きが、地塊を身動きさせる一つの原因となるのであります。
皆さん。
昔の人は地震が往くと、直ぐあとから、恐ろしい搖り戻しが來るから、用心しろと言つたものであります。その搖り戻しを、今の人は餘震の事だと間違へて、何時までも何時までも餘震におびえてゐます。
普通の地震では、最初にブル/\ブルッと幾秒間かの小さな前搖れがあつて、其の後にグーラグーラといふ大搖れ、最初の十倍位の本搖れになるのです。前搖れも本搖れも、搖れ出しの元、即ち震源からは同時に出發し、同じ道を辿つて來るのですけれども、速さが違ふ爲に、斯樣に時間の差が出來るのです。搖り戻しとは此の本搖れを指すのでありまして、大地震のときは、此の爲に家が潰れ橋が落ちるやうにもなるのですから、昔の人が之を恐れたのも尤もなことであります。餘震は、どんなに強くても、最初の大地震の十分の一以下のものですから、之を搖り戻しと誤つて、縮み上がるやうなことをしては、却て昔の人に笑はれる種となるのであります。
地塊が身動きすると、其の動きが、隣から隣に傳はつて、上下四方に擴がつて參ります。それは、丁度池の水に波が擴がるのや、空氣中に音の波が擴がるのと同樣であります。但し、地震波の傳はる岩石は、固くても幾分ごむ[#「ごむ」に傍点]のやうな働きを致しますし、同時に、曲り捩れる性質もありますから、第一に音のやうな伸縮の波と、第二に曲り捩れて傳はる横波とが出來るのです。此の中、伸縮の波は、小さいけれども速いから、第一着の小さな前搖れとなり、横波は、大きいけれども鈍《のろ》いから、第二着の本搖れとなるのであります。此の第一着と第二着との時間の差は、震源の距離が遠ければ遠い程長くなるのでありまして、時間差十秒につき震源距離八十粁、即ち一秒に付八粁といふ割合になります。
此の事は、雷のはためくとき、電光を見てから、雷鳴を聞くまでの時間を計つて、距離の計算が出來ると同樣に、震源の位置、少くも其の距離を計るに役立ちますので、可なり面白味のあることであります。
それでは、其の實習を試みることに致します。實習といふことがわかりにくければ、地震の放送舞臺劇といふ名前にしてもよいのです。
先づ配役を發聲順に申します。
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(先生)苗野百合助君。(生徒前田)曾木美郎君。(生徒本田)由利基君。(生徒木折)一戸八四郎君。其の他生徒大勢。場處、五年級の教場。
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〔先〕皆さん。これから地震の實習を致します。先づ時計をお出しなさい。第一に、地震がブル/\(小聲にて)と始まつてから本搖れのグーラ/\(大聲にて)が始まるまでの時間を計ること。第二に、其の時間に依つて震源距離を計算すること。此二つをやります。……では用意。
〔先〕(小聲にて)ブル/\……(大聲にて)グーラ/\/\(次第に弱く緩く)。グーラ/\/\。
〔先〕前搖れは幾秒間ありましたか……ハイ。前田さん。
〔前〕ハイ、七秒です。
〔先〕さうなつた人。……これは能く出來ました。
それでは距離はいくらになりますか。
〔大勢〕先生、先生、先生、……
〔先〕本田さん。
〔本〕ハイ、五十六粁です。
〔先〕さうなつた人。……これは皆さん能く出來ました。
それではどうして計算しましたか、木折さん。
〔木〕一秒では八粁ですから、七秒では七八五十六、五十六粁になります。
〔先〕成程、これも亦能く出來ました。
それでは實習はこれで終りと致します。
[#ここで字下げ終わり]
斯樣にして、一つの地震の中に、前搖れと本搖れとが含まれてゐます。大地震のとき、前搖れではまだ家が崩れる程にはなりませんが、本搖れでは家が潰れることもあります。それ故、此の本搖れは恐るべきものたるには相違ありませんが、然しながら、それは如何に長くても、一分間以上續くものではありません。ですから、大地震に出會つて一分間も辛抱してゐて、無事だと氣づきましたら、最早あぶない峠は過ぎ去つたのです。餘震は恐れる程のものではありません。地割れに吸込まれることは、日本には決してないことであります。老幼男女、總ての力のある限り一分間後に起る損害を防ぎ止めることに力めなくてはなりません。
皆さん。
地震に因る損害、即ち震災と、地震とは全く別物です。地震は人の力で抑へつけることは出來ませんが、震災は人の力で防ぎ止めることが出來ます。
地震はどんな大きい場合でも、其の搖れる強さには、これ以上大きくはならないといふ、或る限度があるもののやうですから、家や橋は之に耐へるやうに造ることが出來ます。昭和二年三月七日大地震に襲はれて全滅した丹後國峯山町は、全く其の通り復舊致しました。若し又、我々の住宅が最初から其の通り丈夫に出來てゐなかつたら、あとから少し許り附加へて、崩れないやうにすることも出來ます。又たとへ家が潰れても、大きな横木に抑へつけられない限り、我々の生命に別條はありません。特に机や、腰掛のやうな丈夫な道具の蔭に居たら一層安全であります。
地震の本搖れは、どんな場合でも一分間とは續かないものでありまして、而も此の最初の一分間に於ける震災は割合に輕小なものです、然し一分後に始まる震災、即ち火事に由る損害は、人死の數に於ても、財産の損失に於ても、最初の一分間に起る震災に比べて十倍にも百倍にもなります。實際大正十二年の關東大地震に於ては、最初の一分間の死人は三千人、財産の損失は一億圓程度に過ぎなかつたのに、一分後の損害は、大火災の爲に十萬人五十五億圓といふ前古未曾有のものになつたのであります。此處の所です。私が皆さんに申上げたいと思つて居ります最も大切なことは。即ち、大地震に出會つて最初の一分間を無事に凌いだならば、最早安心してよろしい。餘震は恐ろしいものではない。地割れに吸込まれることは、日本では絶對にない。老幼男女力のある限り、地震の損害を輕くするやう勇敢に、機敏に、沈着に働かなければならない。先づ火事を防ぎ止めることです。これが即ち死人の數や財産の損失を最も少くする第一の仕方であります。
昭和二年丹後大地震のときには、九歳の尋常二年生や、十一歳の尋常四年生が、潰家の下敷になつて、而も沈勇機敏な働きをした話があります。
又、大正十四年但馬大地震のとき、地震の最も烈しかつた田結《たい》といふ村では、子供達までが實に能く沈着に働いたといふ話もあります。
此のとき、城崎の温泉町は震火災で全滅し、豊岡町は三分の二ほど燒け、兩方で三百五十九人の死人が出來ました。
田結の村は震源の眞上にあつた爲、地震は城崎や豊岡の段でなく、最初から五秒とたゝない中に、全村八十三戸の中八十二戸潰れ、六十五人の村人が下敷になつて仕舞つたのであります。折惡しく、此の日は蠶兒の掃立日であつたので、室を温める爲三十六戸は炭火を起してゐました。此の爲にあちこちから煙が上がり、見る間に三戸は燃上がりました。若し此のとき安全であつた村人が狼狽へて仕舞つたならば、村は丸燒けとなり、下敷になつた六十五人も黒焦となつたでせう。然しながら、訓練の行屆いた村は、女子供に至るまで沈着に彼等の最善を盡しました。彼等が口々に喚んだのは「先づ火を消せ」の一語でありました。瞬く中に三ケ所の火は固より、他の家の煙までも消止められ、尋いで下敷になつてゐた人達も助け出されました。此の爲に五十八人は無事に救はれました。唯七名だけは墜落して來た梁や桁のやうな巨きな材木によつて致命傷を受けてゐました。
斯くして田結の村は、最も激しい地震に襲はれながら、村人が先づ火を消すことに努力した爲、震災は割合に輕くて濟んだのでありました。
以上、地震はどうして起るか、前搖れ本搖れとは何か、地震の損害はどうして防ぎ止められるかといふやうなことを申述べました。
皆さん。昭和の御代の少年少女たる皆さん。以上申述べましたことを能く味ひ、且つ我がものにし、さうして昔の人に恥かしくないやうにして戴きたいと思ひます。(つづく)
底本:
1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
1963(昭和38)年4月16日第20刷改版発行
1997(平成9)年9月5日第64刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2000年10月3日公開
2004年3月10日修正
青空文庫作成ファイル:
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*地名
濃尾地震 のうび じしん 1891年(明治24)10月28日、岐阜・愛知両県を中心として起こった大地震。マグニチュード8.0。激震地域は濃尾平野一帯から福井県に及び、死者7200人余、負傷者1万7000人余、全壊家屋14万余。また、根尾谷(岐阜県本巣市根尾付近)を通る大断層を生じた。
丹後地震 たんご じしん 丹後半島を中心に1927年3月7日に起こった地震。マグニチュード7.3、死者2925人、1万戸以上の建物が全壊。半島の付け根の郷村断層の3メートルに達する左ずれが震源。北丹後地震。
男鹿大地震 (1) 文化7年(1810)。(2) 昭和14年(1939)5月1日。M6.6、死者27名、全壊604戸。
関東大地震 → 関東大震災
関東大震災 かんとう だいしんさい 1923年(大正12)9月1日午前11時58分に発生した、相模トラフ沿いの断層を震源とする関東地震(マグニチュード7.9)による災害。南関東で震度6(当時の最高震度)。被害は、死者・行方不明10万5000人余、住家全半壊21万余、焼失21万余に及び、京浜地帯は壊滅的打撃をうけた。また震災の混乱に際し、朝鮮人虐殺事件・亀戸事件・甘粕事件が発生。
安政地震 あんせい じしん 安政初年に起こった地震。(1) 安政元(嘉永7)年(1854)11月4日、東海道の大地震。安政東海地震。震源地遠州灘沖。マグニチュード8.4。死者約2000〜3000人。(2) 同年11月5日、南海道の大地震。安政南海地震。震源地土佐沖。マグニチュード8.4。死者数千人。(3) 安政2年10月2日、江戸の大地震。江戸地震。震源地江戸川河口。マグニチュード6.9。死者(藤田東湖ら)数千人。
南海道沖大地震 → 南海道地震
南海道地震 なんかいどう じしん 四国沖から紀伊半島沖にかけて起こる巨大地震。最近では1707年(宝永4)、1854年(安政1)、1946年に発生し、特に最後のものを指すことが多い。震源の断層はプレート境界にほぼ一致。地震時に太平洋側の半島の先端部は隆起、付け根の地域は沈降する。南海地震。
北米大西洋沖地震 1929年11月18日発生。
但馬大地震 → 北但馬地震
北但馬地震 きたたじま じしん 1925年(大正14年)5月23日午前11時11分、兵庫県但馬地方北部で発生した地震。地震の規模はM6.8。当地ではこの地震による災害を、もしくは地震そのものと災害を含めた形で「北但大震災」と呼ぶ。最大震度は兵庫県の豊岡、城崎(いずれも現在の豊岡市)で観測された震度6(当時の震度階級による最大震度)。その他、兵庫県、京都府、滋賀県で震度5、岡山県、鳥取県、和歌山県、三重県で震度4をそれぞれ観測。震源地は円山川河口付近。
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[北海道]
有珠岳 → 有珠山か
有珠山 うすざん 北海道南西部、洞爺湖の南にある二重式活火山。標高733メートル。2000年に大規模な水蒸気爆発を観測。
洞爺湖 とうやこ 北海道南西部にあるカルデラ湖。湖面標高84メートル。最大深度180メートル。面積70.7平方キロメートル。南岸に有珠山・昭和新山の2火山がある。支笏湖とともに国立公園をなす。
[陸奥国]
西津軽 にしつがる 青森県の郡。
大戸瀬 おおどせ 村名・崎名。現、西津軽郡深浦町。
小戸瀬
十二湖 じゅうにこ 青森県西津軽郡深浦町にある複数の湖の総称。白神山地の一角で、津軽国定公園内にある。
二見浦 ふたみがうら 三重県伊勢市二見町にある海岸。夫婦岩のある二見興玉神社で著名。JR東海参宮線二見浦駅の駅名は海岸にちなむ。
夫婦岩 めおといわ 夫婦のように二つ並んだ岩。三重県二見ノ浦東端にあるものは有名。
千畳岩 → 千畳敷か
千畳敷 せんじょうじき 青森県西津軽郡深浦町にある海岸。津軽国定公園に属する。地名をとって深浦千畳敷とも。
深浦 ふかうら 青森県西津軽郡深浦町深浦。
岩崎 いわさき 村名・湊名。現、西津軽郡岩崎村。県西海岸の南端。
黒森山 くろもりやま 現、黒石市南中野黒森か。市街の東方、標高606.4m。
新谷川
小峯沢
[出羽][秋田県]
男鹿 おが 秋田県西部、男鹿半島の全域を占める市。半島南東岸の船川港が中心。人口3万6千。
八郎潟 はちろうがた 秋田県西部、男鹿半島の頸部にある潟湖。かつては日本第2の湖であったが、1957年以来、潟の8割が干拓される。調整池として残るのは面積27.7平方キロメートル。琴ノ湖。
男鹿半島 おが はんとう 秋田県西部、日本海に突出する半島。砂洲により本土と連なり、内側に八郎潟を形成していたが、その大部分は干拓され、大潟村となる。
象潟 きさかた 秋田県南西部の海岸、由利郡(現、にかほ市)鳥海山の北西麓にあった潟湖。東西20町余、南北30町余で、湖畔に蚶満寺(円仁の草創)があり、九十九島・八十八潟の景勝の地で松島と並称されたが、1804年(文化1)の地震で地盤が隆起して消失。(歌枕)
鳥海山 ちょうかいさん 秋田・山形県境に位置する二重式成層火山。山頂は旧火山の笙ガ岳(1635メートル)などと新火山の新山(2236メートル)とから成る。中央火口丘は鈍円錐形で、火口には鳥海湖を形成。出羽富士。
干満寺 → 蚶満寺
蚶満寺 かんまんじ 秋田県にかほ市象潟に所在する曹洞宗の寺院。山号は皇宮山、本尊は釈迦牟尼仏。古くから文人墨客が訪れた名刹として知られ、元禄2年(1689年)には松尾芭蕉が訪れ、『奥の細道』に紹介した。干満珠寺。
汐越 しおこし 塩越か。村名・湊名。現、由利郡象潟町。
能代 のしろ 秋田県北西部の市。米代川河口の南岸に臨む港湾都市。製材業・木工業が盛んで、能代塗は有名。人口6万3千。
[東京]
向島 むこうじま 東京都墨田区の一地区。もと東京市35区の一つ。隅田川と荒川(荒川放水路)に挟まれた江東北部の地。工業地帯。もと東郊の景勝地で、墨堤の桜、百花園、白鬚神社などがある。
大久保 おおくぼ 東京都新宿区にある地名。大久保一丁目から大久保三丁目までの町域を指す。1932年までは東京府豊多摩郡の自治体名。
東京放送局 現、日本放送協会(NHK)。1924年設立。1926年、社団法人日本放送協会が施設。
[神奈川]
相模湾 さがみわん 神奈川県三浦半島南端の城ヶ島と真鶴岬とを結ぶ線から北側の海域。相模川、境川、酒匂川が流入。ブリ・アジ・サバなどの好漁場。
鵠沼海岸 くげぬま かいがん 神奈川県藤沢市鵠沼地区の、相模湾に面する海岸部という意味の地名。狭義には1964年、1965年に制定された住居表示で、小田急江ノ島線以南を指し、1 - 7丁目に区分される。国道134号線沿いに位置し、東に江の島、西に富士山を望む風光明媚な海岸で、鵠沼運動公園、湘南海岸公園、鵠沼海浜公園がある。日本のサーフィン発祥の地。
[京都]
鴨川 かもがわ 賀茂川・加茂川・鴨川。京都市街東部を貫流する川。北区雲ヶ畑の山間に発源、高野川を合わせて南流し(その合流点から下流を鴨川と書く)、桂川に合流する。(歌枕)
三本木 さんぼんぎ 現、上京区か。三本木通は、京都市内の南北の通りの一つ。鴨川と河原町通の間にある。
[丹後国] たんご 旧国名。今の京都府の北部。
峰山町 みねやまちょう 京都府の北部、丹後半島の付け根に位置し、『天女の羽衣伝説』で知られる町。2004年4月1日に周辺の5町と合併し京丹後市となった。
[但馬] たじま 旧国名。今の兵庫県の北部。但州。
田結 たい 村名。現在の兵庫県豊岡市田結。北は日本海に面する。豊岡市は県北但馬地方の北東部。豊岡盆地を中心市域とする。大正14年(1925)、港村田結沖を震源地とする北但馬大震災が発生。
城崎 きのさき 兵庫県の北東部の郡。円山川・矢田川の流域にあり、日本海に面する。明治29年(1896)気多・美含両郡を併合。
城崎町 きのさきちょう かつて兵庫県北東部に存在した町。旧城崎郡。2005年4月1日、豊岡市、城崎郡竹野町・日高町、出石郡出石町・但東町と対等合併して新「豊岡市」となったため消滅した。
城崎温泉 きのさき おんせん 兵庫県豊岡市城崎町にある温泉。無色・無臭の塩化物泉で、720年(養老4)僧道智の霊験により発見されたと伝える。
豊岡町 とよおかまち/とよおかちょう 兵庫県城崎郡豊岡町(とよおかちょう、現・豊岡市)。
[フランス]
ニース Nice フランス南東部、地中海沿岸のコート‐ダジュールにある観光・保養都市。風光明媚。人口34万3千(1999)。
マルセイユ Marseille マルセーユ。フランス南東部の工業都市。地中海に臨む同国第一の貿易港。前600年ギリシア人の植民によって建設。人口79万7千(1999)。
[カナダ]
ニューファウンドランド南方沖
ニューファンドランド Newfoundland (1) カナダ東海岸セント‐ローレンス湾口にある島。北アメリカで最古のイギリス植民地。1949年カナダに合併。面積11万平方キロメートル。南東沖合に大漁場グランド‐バンクがあり、タラ・ニシンの漁獲が多い。(2) カナダ南東部の州。(1) と本土のラブラドル地方とから成る。州都セント‐ジョンズ。ニューファンドランド‐ラブラドル州。
[アメリカ]
ニューヨーク・フォルダム大学地震観測所
ブルックリン Brooklyn ニューヨークの5区のうちの一つ。マンハッタン島南東のロング‐アイランド島西端に位置する。同区北西部は工業地帯で、黒人・プエルト‐リコ人が多く住む。
ピッツバーグ Pittsburgh アメリカ合衆国北東部、ペンシルヴァニア州南西部の大工業都市。同国の代表的製鉄業都市。付近に炭田があり、石油・天然ガスなども産する。人口33万5千(2003)。
エスチングハウス電気工業所
◇参照:Wikipedia、
*年表
一七〇四(宝永元) 能代大地震。大規模の山崩れを惹起。泥流は現在の十二湖の境域をおおい、東北は新谷川に、南は小峯沢に達し、材木伐採者六名、薪取り四名が犠牲。
一六八八〜一七一一(元禄・宝永) このころ地震ナマズの説が生まれたとされる。
一七八一〜一八〇一(天明・寛政) 新城博士によれば、これ以後、現今わが国に流布している家相説が作られたという。
一七九二(寛政四) 西津軽大地震。土地が二・二メートルほど隆起。
一八〇四(文化元) 象潟大地震。陸地隆起のために絶景が一夜にうしなわれる。このときの隆起は象潟では二・二メートルほど。
一八一〇(文化七) 男鹿大地震。八郎潟では数週間前から鯔(ボラ)が多く死んで浮かぶ。このとき、湖底から石油が滲出して浮かんだ。
一八一八〜一八三〇(文政年間) このころすでに地震ナマズの説が流布。
一八三〇(文政一三)七月二日 京都大地震。死者一五〇人(あるいは二八〇人とも)。年号、天保と改まる。
一八三〇(文政一三)七月九日 頼山陽、広島にあり。
一八五九 オスボーン大佐『日本近海巡航記』出版。
一八七〇(明治三)五月一六日 今村明恒、鹿児島市に生まれる。
一八九一(明治二四)一〇月 濃尾大地震。直後に文部省震災予防調査会の地磁気測量事業が発足。故菊池大麓が政府に建議して議会において全会一致をもって可決されて設立。
一八九二(明治二五) 震災予防調査会設立当初、専門家は、地震前における地磁気分布の異変に注意して、これが調査に着手。
一八九三(明治二六) 田中館愛橘、日本全国の地磁気測量の事業を四か年計画で着手。
一八九四(明治二七) 今村、地磁気測量事業に学生として参加。六月から中村清二と二人で北海道測量南北二班の中の南班をひきうけ、夏じゅう三か月にわたる。
一八九四(明治二七) 今村、東京大学理科大学の物理学科を卒業。
一九一〇(明治四三)七月一九日 以来、洞爺湖において魚が釣れなくなる。
一九一〇(明治四三)七月二二日 以来、有珠岳爆発の前兆たる小地震群が人体に感ずるようになる。
一九一〇(明治四三)七月二五日 有珠岳爆発。
一九一七(大正六) エー・バルトン・ヘボン、東大に米国憲法歴史および外交講座を設置するために十二万円を寄付。
一九二三(大正一二)九月一日 関東大地震。相模湾では数日前から魚が釣れなくなる。最初の一分間の死人は三千人、財産の損失は一億円程度にすぎなかったのに、一分後の損害は、大火災のために十万人、五十五億円。
一九二五(大正一四)一月 震災予防調査会が官制改革により廃止。震災予防評議会と地震研究所とが設立。
一九二五(大正一四) 但馬大地震。地震のもっとも激しかった田結村では、子どもたちまでが実によく沈着に働く。城崎の温泉町は震火災で全滅し、豊岡町は三分の二ほど焼け、両方で三五九人の死人。
一九二七(昭和二)三月七日 丹後大地震。地震前に魚が取れず死魚を見て帰ってきたなどと語られる。
一九二九(昭和四)夏 パイパー夫人、地震学教室を訪れる。
一九二九(昭和四) 今村ら、震災予防の常識の普及に役立つ一文を尋常小学校教科書に入れるようにと当局に懇請。東京放送局から「地震はどうして起こるか」という題をもらう。
一九二九(昭和四)一一月一八日 大西洋大地震津波。震源はニューファウンドランド南方沖。欧米連絡の海底電線二十三本のうち十二本まで切断。死人は二十六人。
一九三〇(昭和五)春 ヘボン老婦人、東京帝国大学を訪れる。
一九三九(昭和一四) 『大法輪』三月号。
一九三九(昭和一四)五月一日 男鹿大地震。八郎潟において、前日に鯉やフナが多く漁獲され、ことに東北沿岸においてはフナの大群が岸近く押し寄せてきたといわれている。海の方でも同じように、魚族の異常が観察された。イイダコが酔ったようになって続々と陸にあがる。男鹿半島の南部では当日午前中(地震は午後三時ごろ)、半島の北方八森においては前日午後から当日午前に至るまで見られた。
一九四一(昭和一六)三月 震災予防評議会が廃止。今村は終始、委員として活動。その後、有志の人と財団法人震災予防協会を設立して、事実上これを主宰。
一九四三(昭和一八)九月 田中館の米寿。門人が集まって祝す。
一九四三(昭和一八)一一月三日 田中館、返礼として門人を自邸に招く。
一九四八(昭和二三)一月一日 今村明恒、没。臨終の前々月まで毎月、帝国学士院において、古い地震に関する史料の研究を発表。
一九四八(昭和二三)一一月 中村清二、『地震の国』序を記す。
一九四九(昭和二四)五月三〇日 『地震の国』文藝春秋新社、出版。
◇参照:Wikipedia、
*人物一覧
(人名、および組織・団体名・神名)今村明恒 いまむら あきつね 1870-1948 地震学者。理学博士。鹿児島県生まれ。明治38年、統計上の見地から関東地方に大地震が起こりうると説き、大森房吉との間に大論争が起こった。大正12年、東大教授に就任。翌年、地震学科の設立とともに主任となる。昭和4年、地震学会を創設、その会長となり、機関誌『地震』の編集主任を兼ね、18年間その任にあたる(人名)。
田中館愛橘 たなかだて あいきつ 1856-1952 物理学者。岩手県生れ。東大教授。貴族院議員。地球物理学の研究、度量衡法の確立、光学・電磁気学の単位の研究、航空学・気象学の普及など、日本の理科系諸学の基礎を築き、また熱心なローマ字論者。文化勲章。
菊池大麓 きくち だいろく 1855-1917 数学者。箕作秋坪の次男。東京の人。イギリスに留学。近代数学の紹介に尽くす。東大総長・文相・京大総長・学士院長・理化学研究所長。
呂昇 → 豊竹呂昇か
豊竹呂昇 とよたけ ろしょう 1874-1930 女義太夫の太夫。本名、永田仲。名古屋の人。大阪に出て初世豊竹呂太夫に学ぶ。三味線にも長じ、艶のある美声の弾き語りで人気を得た。
中村清二 なかむら せいじ 1869-1960 物理学者。光学、地球物理学の研究で知られ、光弾性実験、色消しプリズムの最小偏角研究などを行なった。地球物理学の分野では三原山の大正噴火を機に火山学にも興味を持ち、三原山や浅間山の研究体制の整備に与力している。また、精力的に執筆した物理の教科書や、長きに亘り東京大学で講義した実験物理学は日本における物理学発展の基礎となった。定年後は八代海の不知火や魔鏡の研究を行なった。
芹沢�M介 せりざわ けいすけ 1895-1984 染色工芸家。静岡市生れ。民芸運動に参加。琉球の紅型なども研究して型絵染を創始。人間国宝。
ケンプェル → ケンペルか
Engelbert Kaempfer ケンペル 1651-1716 ドイツの外科医・博物学者。1690年(元禄3)オランダ船船医として長崎出島に渡来、商館付医員。2年間滞在、日本の歴史・政治・宗教・地理を概説した「日本誌」「廻国奇観」(「江戸参府紀行日記」はその巻5)を著す。
関谷博士 → 関谷清景か
関谷清景 せきや せいけい 1854-1896 大垣市生まれ。東京大学の前身大学南校に1870年入学、74年卒業。76〜77年英国留学、81年東京大学理学部助教授となる。88年菊地安とともに磐梯山の爆発を調査。翌年の熊本地震には病身をおして調査に参加した。このときの余震調査は日本に近代地震学が誕生して初の調査であった。(地学)
赤司鷹一郎 あかし たかいちろう 1876-1933 明治〜昭和期の官吏。文部次官、大日本職業指導協会会長、海外植民協会会長などを務めた(人レ)。
柴垣鼎太郎 文部省建築課長。
畑井博士
頼山陽 らい さんよう 1780-1832 江戸後期の儒学者。名は襄(のぼる)。通称、久太郎。別号、三十六峰外史。大坂生れ。父春水と広島に移る。江戸に出て尾藤二洲に学ぶ。京都に書斎「山紫水明処」を営み、文人と交わる。史学に関心が深く、「日本外史」「日本政記」などの史書を執筆、幕末の尊攘運動に大きな影響を与えた。詩文にすぐれ、書もよくした。著は他に「日本楽府」「山陽詩鈔」など。
篠崎小竹 しのざき しょうちく 1781-1851 江戸後期の儒学者・漢詩人。大坂の人。古賀精里に朱子学を学び、詩文・書をよくした。著「小竹斎詩鈔」など。
襄 のぼる → 頼山陽
新城博士 → 新城新蔵か
新城新蔵 しんじょう しんぞう 1873-1938 福島県生まれ。天文学者・東洋学者、理学博士。専門は宇宙物理学および中国古代暦術。東洋天文学研究の権威。
高楠
宇野博士
鴨崖 おうがい → 頼鴨�(頼三樹三郎)か
頼三樹三郎 らい みきさぶろう 1825-1859 幕末の志士・儒学者。名は醇。号は鴨�。山陽の第3子。京都生れ。詩文をよくし、梅田雲浜らと交わり、尊王攘夷を唱える。安政の大獄で捕らえられ、江戸で刑死。
能因 のういん 988-? 平安中期の歌人。中古三十六歌仙の一人。俗名、橘永�。藤原長能に和歌を学び、これが歌道師承の先例。剃髪して摂津古曾部に住み古曾部入道と称す。奥州行脚を試みた。私撰集「玄々集」、歌学書「能因歌枕」、家集「能因集」。
最明寺時頼 → 北条時頼
最明寺 さいみょうじ 北条時頼の称。
北条時頼 ほうじょう ときより 1227-1263 鎌倉幕府の執権。時氏の次子。母は松下禅尼。北条氏の独裁制(得宗専制)は彼の時代にほぼ確立。出家して道崇、世に最明寺殿という。出家後、ひそかに諸国を遍歴して治政民情を視察したと伝える。
西行 さいぎょう 1118-1190 平安末・鎌倉初期の歌僧。俗名、佐藤義清。法名、円位。鳥羽上皇に仕えて北面の武士。23歳の時、無常を感じて僧となり、高野山、晩年は伊勢を本拠に、陸奥・四国にも旅し、河内国の弘川寺で没。述懐歌にすぐれ、新古今集には94首の最多歌数採録。家集「山家集」。
芭蕉 → 松尾芭蕉
松尾芭蕉 まつお ばしょう 1644-1694 江戸前期の俳人。名は宗房。号は「はせを」と自署。別号、桃青・泊船堂・釣月軒・風羅坊など。伊賀上野に生まれ、藤堂良精の子良忠(俳号、蝉吟)の近習となり、俳諧に志した。一時京都にあり北村季吟にも師事、のち江戸に下り水道工事などに従事したが、やがて深川の芭蕉庵に移り、談林の俳風を超えて俳諧に高い文芸性を賦与し、蕉風を創始。その間各地を旅して多くの名句と紀行文を残し、難波の旅舎に没。句は「俳諧七部集」などに結集、主な紀行・日記に「野ざらし紀行」「笈の小文」「更科紀行」「奥の細道」「嵯峨日記」などがある。
蘇東坡 そとうば 蘇軾の別名。
蘇軾 そ しょく 1036-1101 北宋の詩人・文章家。唐宋八家の一人。字は子瞻、号は東坡(居士)。父の洵、弟の轍とともに三蘇と呼ばれる。王安石と合わず地方官を歴任、のち礼部尚書に至る。新法党に陥れられて瓊州・恵州に貶謫。書画もよくした。諡は文忠。「赤壁賦」ほかが「蘇東坡全集」に収められる。
神功皇后 じんぐう こうごう 仲哀天皇の皇后。名は息長足媛。開化天皇第5世の孫、息長宿祢王の女。天皇とともに熊襲征服に向かい、天皇が香椎宮で死去した後、新羅を攻略して凱旋し、誉田別皇子(応神天皇)を筑紫で出産、摂政70年にして没。(記紀伝承による)
西施 せいし 春秋時代の越の伝説上の美女。越王勾践が呉に敗れて後、呉王夫差の許に献ぜられ、夫差は西施の色に溺れて国を傾けるに至った。
枯萍 かれくさ?
斎田理学士 さいだ?
パイパー夫人
オスボーン大佐 著『日本近海巡航記』一八五九年出版。
ヘボン夫人 エー・バルトン・ヘボンの未亡人。
エー・バルトン・ヘボン ヘボン J.C. の親戚。
James Curtis Hepburn ヘボン 1815-1911 アメリカ長老派教会宣教師・医師。1859年(安政6)来日、医療・伝道のかたわら、最初の和英・英和辞典(和英語林集成)を完成、ヘボン式ローマ字を創始。明治学院を創立。92年(明治25)帰国。日本名、平文。ヘプバーン。
高木博士
市橋女史
Isaac Newton ニュートン 1642-1727 イギリスの物理学者・天文学者・数学者。ケンブリッジ大教授。力学体系を建設し、万有引力の原理を導入した。また微積分法を発明し、光のスペクトル分析などの業績がある。1687年「プリンキピア(自然哲学の数学的原理)」を著す。近代科学の建設者。のち、造幣局長官・英国王立協会長を歴任。
ケルヴィン → ウィリアム・トムソンか
William Thomson ウィリアム・トムソン 1824-1907 イギリスの物理学者。ケルヴィン卿(Lord Kelvin)の通称で知られる。特にカルノーの理論を発展させた絶対温度の導入、クラウジウスと独立に行われた熱力学第二法則(トムソンの原理)の発見、ジュールと共同で行われたジュール=トムソン効果の発見などといった業績がある。古典的な熱力学の開拓者の一人。1866年、大西洋横断海底電信ケーブルの敷設に成功。
加藤清正 かとう きよまさ 1562-1611 安土桃山時代の武将。尾張の人。豊臣秀吉の臣。通称虎之助と伝える。賤ヶ岳七本槍の一人。文禄の役に先鋒、慶長の役で蔚山(ウルサン)に籠城、関ヶ原の戦では家康に味方し、肥後国を領有。
文藝春秋新社 文藝春秋。1946年3月、「戦争協力」のため解散したが、社員有志により同年6月、株式会社文藝春秋新社が設立される。
震災予防調査会 しんさい よぼう ちょうさかい 明治・大正時代の文部省所轄の地震研究機関。明治24年(1891)濃尾大地震のあと建議され発足。活動は明治25年より大正14年(1925)の34年間。大森房吉が精力的に活動。大正12年、関東大地震が発生し、この被害にかんがみ委員制ではなく独自の研究員と予算をもつ常設研究所設置の必要がさけばれ、大正14年、研究所発足とともに調査会は発展解消された。(国史)
陸軍中央幼年学校 → 陸軍幼年学校
陸軍幼年学校 りくぐん ようねんがっこう 陸軍将校を志願する少年に対して陸軍士官学校の予備教育を行う学校。東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本にあった。
震災予防評議会 1941年廃止。(地学)
地震研究所 → 東京大学地震研究所か
東京大学地震研究所 とうきょうだいがく じしんけんきゅうじょ 東京大学の附置研究所(附置全国共同利用研究所)。1925年に設立された。地震学、火山学などを中心に幅広い分野の研究が行われている。
震災予防協会 しんさい よぼう きょうかい 財団法人。1925年に震災予防調査会の事業の一部を引き継いだ文部省の震災予防評議会が、41年臨戦下の機構整理で廃止されたため、今村明恒が中心となり震災予防の普及のために設立した。戦後長らく活動をしていなかったが、84年日本地震工学振興会をその部会として吸収、以後地震、火山の防災と学術研究の普及事業を活発に行っている。(地学)
帝国学士院 ていこく がくしいん 1879年(明治12)設立の東京学士会院に代わって1906年設置された、日本の学術に関して最高権威をもつ機関。文部省所轄で、会員定数は100名、終身で勅任官の待遇を受けた。日本学士院の前身。
◇参照:Wikipedia、
*書籍
(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)◇参照:Wikipedia、
*難字、求めよ
地磁気 ちじき 地球の持つ磁気と、それによって生じる磁場との総称。磁針が地球のほぼ南北を指す原因。偏角・伏角・水平磁力を地磁気の3要素という。地磁気の発生は、地球の中心部の外核に起因する。地球磁気。
畢生 ひっせい 命の終わるまでの間。一生涯。終生。
洒々落々 しゃしゃ らくらく (「洒落を強調した語」)性質・言動などがさっぱりとして、こだわる所のないさま。
素語り すがたり 伴奏楽器なしで平曲・浄瑠璃などを語ること。
ない(ナヰ) (ナは土地の意。ヰは場所またはそのものの存在を明らかにする意)地。転じて、地震。
セイスモス
聴官 ちょうかん 聴覚器に同じ。
初期微動 しょき びどう 地震動のうちで最初に現れる比較的振幅の小さく周期の短い微振動。P波による振動と考えられる。この継続時間を震源の位置決定に利用する。
空振 くうしん 火山の爆発などによる空気の振動。可聴周波数の部分は、爆発音として伝わる。
側線 そくせん 〔生〕主に魚類・両生類の体の両側に線状に並んでいる感覚器。水流・水圧を感知する。側線器。
飯蛸 いいだこ マダコ科のタコ。全長約25センチメートル。両眼の間に角形の、また第三腕基部付近に輪状の金色の紋がある。腹に飯粒状の卵を持つところからこの名があり、春に産卵。美味で、また佃煮・乾蛸にもする。日本・中国の浅海に産する。いしだこ。望潮魚。
地電流 ちでんりゅう 地中を流れる電流。地磁気変化によって誘導されるもののほか、雷、物質や温度の分布に伴う物理・化学的起電力によるもの、人為的なものなどが含まれる。
陰魚
郵報 ゆうほう 郵便で知らせること。
家相 かそう 吉凶に関係があるとされる家の位置・方向・間取りなどのあり方。中国から伝来した俗信で、陰陽五行説に基づく。
郵籤 ゆうせん 知らせるために文章を書いて駅伝を利用して送ること。転じて、郵便。「籤」は竹の札。
九陌 きゅうはく 9本の大道。都大路。
啼哭 ていこく 大声をあげて泣くこと。
挈えて たずさえて
墜瓦
稚子 ちし おさない子。おさなご。ちご。
居守 きょしゅ とどまり居て守ること。留守。
�掲 れいけい (1) 浅瀬をえらんで歩いて川を押し渡ること。かちわたり。徒歩。(2) 時勢に応じてうまく世を渡ること。
糴価 てきか? かいね?
援手
災
黔黎 けんれい (秦では「黔首」、周では「黎民」といったことから)人民。庶民。百姓。
饑民 きみん 飢民。うえている人民。
吟吼 咆吼?
耿々 こうこう (1) 光の明るいさま。きらきらと光るさま。(2) 心を安んぜぬさま。うれえるさま。思うことがあって忘れられないさま。
※[#「木+巳」]人 → 杞人か
杞人 きじん 杞人の憂え。[列子天瑞](中国の杞の国の人が、天地が崩れて落ちるのを憂えたという故事に基づく)将来のことについてあれこれと無用の心配をすること。取り越し苦労。
坤軸 こんじく 大地の中心を貫いていると想像される軸。地軸。
掀動 きんどう?
醒悟 せいご 迷いがはれて悟りを得ること。さとり。
剪去 せんきょ?
地変 ちへん 土地の変動。海岸線の移動、土地の陥没、火山の噴火または地震などの地殻変動。地異。
滄桑の変 そうそうのへん 桑田変じて滄海となるような大変化。世の変遷のはげしいことにいう。
凡景 凡境(ぼんけい)か。普通の場所。霊地などに対していう。
勝区 しょうく 景色のすぐれた所。勝地。
翠松 すいしょう 青々とした松。
嫋々 じょうじょう (1) 風のそよそよと吹くさま。(2) しなやかなさま。なよなよとしたさま。(3) 音声の長くひびいて絶えないさま。
合歓木 ねむのき マメ科の落葉小高木。山地や川原に自生。葉は細かい羽状複葉、小葉は10〜20対。葉は夜、閉じて垂れる。6〜7月頃、紅色の花を球状に集めて咲く。花弁は目立たず、雄しべは多数に割れ紅色。莢は扁長楕円形。材は胴丸火鉢・下駄歯に、樹皮は打撲傷・駆虫に用いる。ねむ。ねぶ。ごうかん。
方寸 ほうすん (1) 1寸四方。転じて、ごくせまい所。(2) こころ。心中。胸中。
海人・蜑 あま (「あまびと(海人)」の略か) (1) 海で魚や貝をとり、藻塩などを焼くことを業とする者。漁夫。(2) (「海女」「海士」と書く)海に入って貝・海藻などをとる人。
瀲 れんえん さざなみが立ち、光りきらめくさま。また、水が満ちあふれて静かにゆれ動くさま。
空濛 くうもう 霧雨が降って、うすぐらいさま。ぼんやりと暗いさま。
掻痕
連りに しきりに
方杖 ほうづえ 頬杖。庇・小屋組・梁を柱で受ける時、柱と陸梁との中間同士を斜めに結んで構造を堅固にする短い材。すじかい。
解纜 かいらん (ともづなを解く意)船が出帆すること。ふなで。
某々地 なになに?
喙 くちばし 喙をいれる。喙をはさむ。
闡明 せんめい はっきりしていなかった道理や意義を明らかにすること。
夏樹立 なつこだち 夏木立。夏の頃の繁った木立。
音なう おとなう おとずれる。
掃立 はきたて 養蚕で、孵化した毛蚕を、蚕卵紙から羽箒で掃きおろし蚕座へ移すこと。/本来は一年に一回、桑の芽吹く春におこなわれた作業で、春の季語となっている。
喚んだ さけんだ
◇参照:Wikipedia、
*後記(工作員 日記)
前号、寺田寅彦「火山の名について」
月山。
有史に月山が噴火した記録はなく、
疑問その1。
疑問その2。なぜ「月」なのか。太陽(活火山、阿蘇山・富士山・鳥海山・朝日岳など)に対して月(死火山・休火山)=静・死のシンボライズということか。山形市や天童・寒河江からは月山は北西の方向にあたり、月の出入方向とは異なる。村山や尾花沢からはほぼ真西にあたるが、おそらく葉山に隠れて見えない。月山山頂が月の出の位置と重なるとすれば、庄内地方、鶴岡方面からの光景が由来か。
疑問その3。全国各地に「月山」がある。山名が五か所。川名が一か所。寺名が五か所。神社名が八か所。月山富田城が島根県に。そのうちのどれが本家本元の「月山」なのか。また、全国各地に「築山(つきやま)
疑問その4。月山南麓に「月山沢(つきやまざわ)
疑問その5。地名を名字に用いた例は多いが、
池澤夏樹(編)
26日(日)雨。市民会館にて「天童温泉開湯100周年シンポジウム・温泉文化を考える」
*次週予告
第三巻 第五〇号
地震の国(二)今村明恒
第三巻 第五〇号は、
七月九日(土)発行予定です。
定価:200円
T-Time マガジン 週刊ミルクティー* 第三巻 第四九号
地震の国(一)今村明恒
発行:二〇一一年七月二日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。
第二巻
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第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン 【月末最終】
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第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン
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第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫
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第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教
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第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流
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第六号 新羅人の武士的精神について 池内宏 【月末最終】
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第七号 新羅の花郎について 池内宏
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第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉
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第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治
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第十号 風の又三郎 宮沢賢治 【月末最終】
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第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎
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第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎
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第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎
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第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎
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第一七号 赤毛連盟 コナン・ドイル
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第一八号 ボヘミアの醜聞 コナン・ドイル
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第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル 【月末最終】
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第二〇号 暗号舞踏人の謎 コナン・ドイル
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第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉
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第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉
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第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太 【月末最終】
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第二四号 まれびとの歴史/「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫
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第二五号 払田柵跡について二、三の考察/山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉
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第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎
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第二七号 種山ヶ原/イギリス海岸 宮沢賢治
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第二八号 翁の発生/鬼の話 折口信夫 【月末最終】
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第二九号 生物の歴史(一)石川千代松
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第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松
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第三一号 生物の歴史(三)石川千代松
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第三二号 生物の歴史(四)石川千代松 【月末最終】
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第三三号 特集 ひなまつり 雛 芥川龍之介
雛がたり 泉鏡花
ひなまつりの話 折口信夫
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第三四号 特集 ひなまつり 人形の話 折口信夫
偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫
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第三五号 右大臣実朝(一)太宰治
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第三六号 右大臣実朝(二)太宰治 【月末最終】
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第三七号 右大臣実朝(三)太宰治
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第三八号 清河八郎(一)大川周明
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第三九号 清河八郎(二)大川周明
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第四〇号 清河八郎(三)大川周明 【月末最終】
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第四一号 清河八郎(四)大川周明
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第四二号 清河八郎(五)大川周明
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第四三号 清河八郎(六)大川周明
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第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉
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第四五号 火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉 【月末最終】
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第四六号 手長と足長/くぐつ名義考 喜田貞吉
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第四七号
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第四八号 若草物語(一)L. M. オルコット
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第四九号 若草物語(二)L. M. オルコット 【月末最終】
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第五〇号 若草物語(三)L. M. オルコット
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第五一号 若草物語(四)L. M. オルコット
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第五二号 若草物語(五)L. M. オルコット
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第五三号 二人の女歌人/東北の家 片山広子
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第三巻 第一号 星と空の話(一)山本一清 【月末最終】
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第三巻 第二号 星と空の話(二)山本一清
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第三巻 第三号 星と空の話(三)山本一清
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第三巻 第四号 獅子舞雑考/穀神としての牛に関する民俗 中山太郎
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第三巻 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉 【月末最終】
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第三巻 第六号 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝
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第三巻 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南
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第三巻 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南
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第三巻 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南 【月末最終】
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第三巻 第一〇号 最古日本の女性生活の根底/稲むらの陰にて 折口信夫
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第三巻 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦 定価:200円 瀬戸内海の潮と潮流/コーヒー哲学序説/神話と地球物理学/ウジの効用
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第三巻 第一二号 日本人の自然観/天文と俳句 寺田寅彦
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第三巻 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉
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第三巻 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉 【月末最終】
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第三巻 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉 定価:200円 倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う/倭奴国および邪馬台国に関する誤解
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第三巻 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)
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第三巻 第一七号 高山の雪 小島烏水
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第三巻 第一八号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(一)徳永 直 【月末最終】
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第三巻 第一九号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(二)徳永 直
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第三巻 第二〇号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(三)徳永 直
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第三巻 第二一号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(四)徳永 直
アジアには十六世紀を前後して銅活字の時代があり、朝鮮でも日本でもおこなわれている。秀吉の朝鮮侵略のみやげものに端を発している家康・家光時代の銅活字印刷があるけれど、それにくらべると、このさし絵に見る康熙帝の印刷局ははるかに大規模で組織的であることがわかる。しかし、日本でも『お湯殿日記』に見るような最初の文選工は「お公卿たち」であったが、支那でもあごひげの長い官人たちであった。明治になって印刷術が近代化されてからでも、印刷工業をおこした人々の多くが、武家など文字になじみのある階級だったように、私の徒弟だったころの先輩の印刷工の多くが、やはり士族くずれだったことを思い出す。
武英殿の銅活字は康熙帝の孫、高宗〔乾隆帝〕の代になるとつぶされて銅貨となった。日本でも家康時代の銅活字は同じ運命をたどっているけれど、支那のばあいは銅貨の不足が原因といわれている。しかし、もっと大きな原因は金属活字にあって、漢字組織ができないならば、またプレス式の印刷機もないとするならば、むしろ手わざの発達による木版の方が容易であり便利であった。ボディが銅であれ鉛であれ、それが彫刻に過ぎないならば、むしろ木版にしくはない。銅活字がほろびて再び木版術が栄え、極彩色の芸術的な印刷物もできるようになった。康熙・乾隆の時代に見られるこの傾向は、十七世紀の終わりから十八世紀のなかほどまでであるが、江戸中期から木版術が再興し、世界にたぐいない木版印刷術を生み出した日本と時間的にもほぼ一致している―
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第三巻 第二二号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(五)徳永 直 【月末最終】
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第三巻 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治
「ですから、もしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです。またこれを大きな乳の流れと考えるなら、もっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂油(あぶら)の球にもあたるのです。
先生は中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両面の凸レンズをさしました。
「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶが、みんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの太陽がこのほぼ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄いので、わずかの光る粒、すなわち星しか見えないのでしょう。こっちやこっちの方はガラスが厚いので、光る粒すなわち星がたくさん見え、その遠いのはボウッと白く見えるという、これがつまり今日の銀河の説なのです。そんならこのレンズの大きさがどれくらいあるか、また、その中のさまざまの星についてはもう時間ですから、この次の理科の時間にお話しします。では今日はその銀河のお祭りなのですから、みなさんは外へ出て、よく空をごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいなさい。
そして教室じゅうはしばらく机のふたをあけたりしめたり本をかさねたりする音がいっぱいでしたが、まもなく、みんなはきちんと立って礼をすると教室を出ました。
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第三巻 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治
そのとき汽車はだんだんしずかになって、いくつかのシグナルと転轍器(てんてつき)の灯をすぎ、小さな停車場に止まりました。
その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示し、その振子は、風もなくなり汽車も動かずしずかなしずかな野原のなかに、カチッカチッと正しく時をきざんで行くのでした。
そしてまったくその振子の音の間から遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな旋律が糸のように流れてくるのでした。
(こんなしずかないいところで僕はどうしてもっと愉快になれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい。僕といっしょに汽車に乗っていながら、まるであんな女の子とばかり話しているんだもの。僕はほんとうにつらい。
ジョバンニはまた両手で顔を半分かくすようにして、むこうの窓の外を見つめていました。
透きとおったガラスのような笛が鳴って、汽車はしずかに動き出し、カムパネルラもさびしそうに星めぐりの口笛をふきました。
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第三巻 第二五号 ドングリと山猫/雪渡り 宮沢賢治
空が青くすみわたり、ドングリはピカピカしてじつにきれいでした。
「裁判ももう今日で三日目だぞ、いい加減になかなおりをしたらどうだ。
「いえいえ、だめです、なんといったって頭のとがってるのがいちばんえらいんです。そしてわたしがいちばんとがっています。
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。いちばんまるいのはわたしです。
「大きなことだよ。大きなのがいちばんえらいんだよ。わたしがいちばん大きいからわたしがえらいんだよ。
「そうでないよ。わたしのほうがよほど大きいと、きのうも判事さんがおっしゃったじゃないか。
「だめだい、そんなこと。せいの高いのだよ。せいの高いことなんだよ。
「押しっこのえらいひとだよ。押しっこをしてきめるんだよ。
「やかましい! ここをなんとこころえる。しずまれ、しずまれ!」
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第三巻 第二六号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(六)徳永 直
活字が日本に渡るには、他の条件が必要であった。そして、その他の条件のうちもっとも大きなものは、やはり文久二年・一八六二年の日本幕府がはじめてやった貿易船千歳丸の上海入港であったろう。
また、官船以外の密航者、あるいは藩所有の船修理と称して渡航する者もたくさんあった。
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第三巻 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫 【月末最終】
黒川能・観点の置き所
特殊の舞台構造
五流の親族
能楽史をかえりみたい
黒川の能役者へ
村で見た黒川能
能舞台の解説
春日若宮御祭の研究
おん祭りの今と昔と
祭りのお練り
公人の梅の白枝(ずはえ)
若宮の祭神
大和猿楽・翁
影向松・鏡板・風流・開口
細男(せいのお)
山形県には、秋田県へかけて室町時代の芸能に関した民俗芸術が多く残っております。黒川能は、その中でも著しいものの一つで、これと鳥海山の下のひやま舞い〔杉沢比山舞か。
特にこの能で注意しなければならないのは、舞台構造であります。京都の壬生念仏を思わせるような舞台で、上下の廊下が橋掛りになっており、舞台の正面には春日神社の神殿をひかえているのであります。
(略)おもしろいのは狂言です。表情にも言語にも必ず多少の驚きを受けられるでしょう。ことに方言的な言い回しなどには、つい、われわれも見ていて釣りこまれるものがありました。
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第三巻 第二八号 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎 定価:200円
面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
能面の様式 / 人物埴輪の眼
(略)しかし「意味ある形」、たとえば「甲冑」を円筒上の人物に着せたとなると、その甲冑は、四肢などに対するとはまったく段ちがいの細かな注意をもって表現されている。
(略)埴輪(はにわ)人形を近くからでなく、三間、五間、あるいはそれ以上に、ときには二、三十間の距離を置いて、ながめてみる必要があると思う。それによって埴輪人形の眼はじつに異様な生気をあらわしてくるのである。もし、この眼が写実的に形作られていたならば、すこし遠のけば、はっきりとは見えなくなるであろう。しかるにこの眼は、そういう形づけを受けず、そばで見れば粗雑に裏までくりぬいた空洞の穴にすぎないのであるが、遠のけば遠のくほど、その粗雑さが見えなくなり、魂の窓としての眼の働きが表面へ出てくる。それが異様な生気を現わしてくるゆえんなのである。眼にそういう働きがあらわれれば、顔面は生気をおび、埴輪人形全体が生きてくるのはもちろんである。古墳時代の人々はそういうふうにして埴輪の人形を見、また、そういうふうに見えるものとして埴輪の人形を作ったのであった。
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第三巻 第二九号 火山の話 今村明恒 定価:200円
桜島噴火はいちじるしい前徴を備えていた。数日前から地震が頻々(ひんぴん)におこることは慣例であるが、今回も一日半前から始まった。また七、八十年前から土地がしだいに隆起しつつあったが、噴火後は元どおりに沈下したのである。そのほか、温泉・冷泉がその温度を高め、あるいは湧出量を増し、あるいは新たに湧出し始めたようなこともあった。
霧島火山群は東西五里にわたり二つの活火口と多くの死火山とを有している。その二つの活火口とは矛の峰(高さ一七〇〇メートル)の西腹にある御鉢(おはち)と、その一里ほど西にある新燃鉢(しんもえばち)とである。霧島火山はこの二つの活火口で交互に活動するのが習慣のように見えるが、最近までは御鉢が活動していた。ただし享保元年(一七一六)における新燃鉢の噴火は、霧島噴火史上においてもっとも激しく、したがって最高の損害記録をあたえたものであった。
磐梯山(高さ一八一九メートル)の明治二十一年(一八八八)六月十五日における大爆発は、当時、天下の耳目を聳動(しょうどう)せしめたものであったが、クラカトアには比較すべくもない。このときに磐梯山の大部分は蒸気の膨張力によって吹き飛ばされ、堆積物が渓水をふさいで二、三の湖水を作ったが、東側に流れ出した泥流のために土地のみならず、四百余の村民をも埋めてしまったのである。
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第三巻 第三〇号 現代語訳『古事記』
古事記 上の巻
序文
過去の時代(序文の第一段)
『古事記』の企画(序文の第二段)
『古事記』の成立(序文の第三段)
『古事記』の成立(序文の第三段)
一、イザナギの命とイザナミの命
天地のはじめ
島々の生成
神々の生成
黄泉の国
身禊
二、アマテラス大神とスサノオの命
誓約
天の岩戸
三、スサノオの命
穀物の種
八俣の大蛇
系譜
スサノオの命は、かようにして天の世界から逐(お)われて、下界へ下っておいでになり、まず食物をオオゲツ姫の神にお求めになりました。そこでオオゲツ姫が鼻や口、また尻からいろいろのごちそうを出して、いろいろお料理をしてさしあげました。この時にスサノオの命はそのしわざをのぞいて見て、きたないことをして食べさせるとお思いになって、そのオオゲツ姫の神を殺してしまいました。殺された神の身体にいろいろの物ができました。頭にカイコができ、二つの目に稲種ができ、二つの耳にアワができ、鼻にアズキができ、股の間にムギができ、尻にマメができました。カムムスビの命が、これをお取りになって種となさいました。
かくてスサノオの命は逐いはらわれて出雲の国の肥(ひ)の川上、鳥髪(とりかみ)という所におくだりになりました。このときに箸(はし)がその河から流れてきました。それで川上に人が住んでいるとお思いになってたずねて上っておいでになりますと、老翁と老女と二人があって少女を中において泣いております。そこで「あなたは誰ですか?」とおたずねになったので、その老翁が、
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第三巻 第三一号 現代語訳『古事記』
古事記 上の巻
四、大国主の命
兎と鰐
赤貝姫と蛤貝姫
根の堅州国(かたすくに)
ヤチホコの神の歌物語
系譜
スクナビコナの神
御諸山の神
大年の神の系譜
五、アマテラス大神と大国主の命
天若日子(あめわかひこ)
国譲り
六、ニニギの命
天降り
猿女の君
木の花の咲くや姫
七、ヒコホホデミの命
海幸と山幸
トヨタマ姫
スクナビコナの神 そこで大国主の命が出雲の御大(みほ)の御埼(みさき)においでになった時に、波の上をツルイモのさやを割って船にして、蛾(が)の皮をそっくりはいで着物にして寄ってくる神さまがあります。その名を聞きましたけれども答えません。また、御従者(おとも)の神たちにおたずねになったけれども、みな知りませんでした。ところがヒキガエルが言うことには、
御諸山の神 そこで大国主の命が心憂く思っておおせられたことは、
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第三巻 第三二号 現代語訳『古事記』
古事記 中の巻
一、神武天皇
東征
速吸の門
イツセの命
熊野から大和へ
久米歌
神の御子
タギシミミの命の変
二、綏靖天皇以後八代
綏靖天皇
安寧天皇
懿徳天皇
孝昭天皇
孝安天皇
孝霊天皇
孝元天皇
開化天皇
三、崇神天皇
后妃と皇子女
美和の大物主
将軍の派遣
四、垂仁天皇
后妃と皇子女
サホ彦の反乱
ホムチワケの御子
丹波の四女王
時じくの香の木の実
この天皇〔崇神天皇〕の御世に、流行病がさかんにおこって、人民がほとんどつきようとしました。ここに天皇は、ご憂慮あそばされて、神をまつってお寝みになった晩に、オオモノヌシの大神がお夢にあらわれておおせになるには、