武田祐吉 たけだ ゆうきち
1886-1958(明治19.5.5-昭和33.3.29)
国文学者。東京都出身。小田原中学の教員を辞し、佐佐木信綱のもとで「校本万葉集」の編纂に参加。1926(昭和元)、国学院大学教授。「万葉集」を中心に上代文学の研究を進め、「万葉集全註釈」(1948-51)に結実させた。著書「上代国文学の研究」「古事記研究―帝紀攷」。「武田祐吉著作集」全8巻。

◇参照:Wikipedia、『日本史』(平凡社)。




 また、

威勢のよい久米の人々の
垣本かきもとに植えたサンショウ、
口がヒリヒリしてうらみを忘れかねる。
やっつけてしまうぞ。
もくじ 
現代語訳 古事記(三)中巻(前編)
武田祐吉(訳)


ミルクティー*現代表記版
現代語訳 古事記(三)
  古事記 中の巻
   一、神武天皇
    東征
    速吸の門
    イツセの命
    熊野から大和へ
    久米歌
    神の御子
    タギシミミの命の変
   二、綏靖天皇以後八代
    綏靖天皇
    安寧天皇
    懿徳天皇
    孝昭天皇
    孝安天皇
    孝霊天皇
    孝元天皇
    開化天皇
   三、崇神天皇
    后妃と皇子女
    美和の大物主
    将軍の派遣
   四、垂仁天皇
    后妃と皇子女
    サホ彦の反乱
    ホムチワケの御子
    丹波の四女王
    時じくの香の木の実

オリジナル版
現代語譯 古事記(三)

地名年表人物一覧書籍
難字、求めよ
後記次週予告

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*凡例
〈 〉:割り注、もしくは小書き。
〔 〕:編者(しだ)注。

*底本
底本:「古事記」角川文庫、角川書店
   1956(昭和31)年5月20日初版発行
   1965(昭和40)年9月20日20版発行
底本の親本:「眞福寺本」
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1349.html

NDC 分類:164(宗教/神話.神話学)
http://yozora.kazumi386.org/1/6/ndc164.html




現代語訳 古事記(三) 

稗田の阿礼、太の安万侶
武田祐吉(訳)


 古事記 中の巻

   一、神武じんむ天皇

    東征

日向ひゅうがから発して大和やまとに入ろうとして失敗することを語る。速吸はやすいの物語の位置が地理の実際と合わないのは、諸氏の伝来の合併だからである。―

 カムヤマトイワレ彦のみこと(神武天皇)、兄君のイツセのみこととお二方、筑紫つくし高千穂たかちほの宮においでになってご相談なさいますには、「どこの地におったならば天下を泰平たいへいにすることができるであろうか? やはりもっと東に行こうと思う」とおおせられて、日向ひゅうがの国からおになって九州の北方においでになりました。そこで豊後ぶんご宇沙うさにおいでになりましたときに、その国の人のウサツ彦・ウサツ姫という二人が足一あしひとあがりの宮を作って、ごちそうをいたしました。そこからおうつりになって、筑前の岡田おかだの宮に一年おいでになり、またそこからおのぼりになって安芸あき多祁理の宮に七年おいでになりました。またその国からおうつりになって、備後びんご高島たかしまの宮に八年おいでになりました。

    速吸はやすい

 その国からのぼっておいでになるときに、亀のこうに乗ってりをしながら勢いよく身体からだってくる人に速吸はやすい海峡かいきょうで会いました。そこで呼び寄せて、「お前はだれか?」とおたずねになりますと、「わたくしはこの土地にいる神です」と申しました。また「お前は海の道を知っているか?」とおたずねになりますと「よく知っております」と申しました。また「供をしてくるか?」と問いましたところ、「おつかえいたしましょう」と申しました。そこでさおをさしわたして御船に引き入れて、サオネツ彦という名をくださいました。

    イツセのみこと

 その国からのぼっておいでになるときに、難波なにわわんをへて河内かわち白肩しらかたの津に船をおめになりました。この時に、大和の国の登美とみ鳥見山とみやまに住んでいるナガスネ彦が軍を起こして待ち向かって戦いましたから、御船に入れてあるたてを取ってり立たれました。そこでその土地を名づけて楯津たてづといいます。今でも日下くさか蓼津たでつといっております。かくてナガスネ彦と戦われたときに、イツセのみことが御手にナガスネ彦の矢のきずをおいになりました。そこでおおせられるのには「自分は日の神の御子みことして、日に向かって戦うのはよろしくない。そこで、いやしいやつきずったのだ。今からまわって行って日を背中にしてとう」とおおせられて、南の方からまわっておいでになるときに、和泉いずみの国の血沼ちぬの海に至ってその御手の血をお洗いになりました。そこで血沼ちぬの海とは言うのです。そこからまわっておいでになって、紀伊きいの国の水門みなとにおいでになっておおせられるには、「いやしいやつのために手傷てきずって死ぬのは残念である」とさけばれておかくれになりました。それでそこを水門みなとと言います。御陵ごりょうは紀伊の国の竃山かまやまにあります。

    熊野くまのから大和へ

―神話の要素の多い部分で、神話の成立過程もうかがわれる。―

 カムヤマトイワレ彦のみことは、その土地からまわっておいでになって、熊野においでになった時に、大きなくまがボウッと現われて、消えてしまいました。ここにカムヤマトイワレ彦の命はにわかに気を失われ、兵士どもも、みな気を失ってたおれてしまいました。このとき熊野のタカクラジという者が一つの大刀たちをもって天の神の御子みこしておいでになる所に来てたてまつる時に、おめになって、「ずいぶんたことだった」とおおせられました。その大刀たちをお受け取りなさいましたときに、熊野の山の悪い神たちが自然にみな、切りたおされて、かの正気を失った軍隊がことごとくめました。そこで天の神の御子みこがその大刀たちを得た仔細しさいをおたずねになりましたから、タカクラジがお答え申し上げるには、「わたくしの夢に、アマテラス大神と高木たかぎの神のお二方のご命令で、タケミカヅチの神をして、葦原あしはらの中心の国はひどく騒いでいる。わたしの御子みこたちはこまっていらっしゃるらしい。あの葦原あしはらの中心の国はもっぱらあなたが平定した国である。だからお前タケミカヅチの神、くだって行けとおおせになりました。そこでタケミカヅチの神がお答え申し上げるには、わたくしが降りませんでも、そのときに国を平定した大刀たちがありますから、これをくだしましょう。この大刀たちくだす方法は、タカクラジの倉の屋根に穴をあけてそこからおろし入れましょうと申しました。そこでわたくしに、お前は朝、目がさめたら、この大刀たちを取って天の神の御子みこにたてまつれとお教えなさいました。そこで夢の教えのままに、朝早く倉を見ますとほんとうに大刀たちがありました。よってこの大刀たちをたてまつるのです」と申しました。この大刀たちの名はサジフツの神、またの名はミカフツの神、またの名はフツノミタマと言います。今、石上いそのかみ神宮にあります。
 ここにまた高木たかぎの神のご命令でお教えになるには、「天の神の御子みこよ、これより奥にはお入りなさいますな。悪い神がたくさんおります。今、天から八咫烏やたがらすをよこしましょう。その八咫烏やたがらすみちびきするでしょうから、そのあとよりおいでなさい」とお教え申しました。はたして、そのお教えのとおり八咫烏やたがらすの後からおいでになりますと、吉野川よしのがわの下流にいたりました。時に河にうえを入れて魚を取る人があります。そこで天の神の御子みこが「お前は誰ですか?」とおたずねになると、「わたくしはこの土地にいる神で、ニエモツノコであります」と申しました。これは阿陀あだ鵜飼うかいの祖先です。それからおいでになると、尾のある人が井から出てきました。その井は光っております。「お前は誰ですか?」とおたずねになりますと、「わたくしはこの土地にいる神、名はイヒカと申します」と申しました。これは吉野のおびとらの祖先です。そこでその山にお入りになりますと、また尾のある人に会いました。この人は岩を押しけて出てきます。「お前は誰ですか?」とおたずねになりますと、「わたくしはこの土地にいる神で、イワオシワクであります。今、天の神の御子みこがおいでになりますと聞きましたから、まいり出てきました」と申しました。これは吉野の国栖くずの祖先です。それから山坂を穿うがって越えて宇陀うだにおいでになりました。よって宇陀うだ穿うがちといいます。

    久米歌くめうた

―幾首かの久米歌くめうたに結びついている物語である。―

 この時に宇陀うだにエウカシ・オトウカシという二人があります。よってまず八咫烏やたがらすをやって、「今、天の神の御子みこがおいでになりました。お前方はおつかえ申し上げるか?」と問わしめました。しかるにエウカシは鏑矢かぶらやをもってその使いを射返しました。その鏑矢かぶらやの落ちたところをカブラさきといいます。「待ってとう」と言って軍を集めましたが、集め得ませんでしたから、「おつかえ申しましょう」といつわって、大殿おおとのを作ってその殿のうちにしかけを作って待ちましたときに、オトウカシがまず出てきて、拝して、「わたくしの兄のエウカシは、天の神の御子みこのお使いを射返し、待ち攻めようとして兵士を集めましたが集め得ませんので、御殿を作りそのうちにしかけを作って待ち取ろうとしております。それで出てまいりましてこのことを申し上げます」と申しました。そこで大伴おおともむらじらの祖先そせんのミチノオミのみこと久米くめあたえらの祖先のオオクメのみこと二人がエウカシを呼んでののしって言うには、「きさまが作っておつかえ申し上げる御殿の内には、自分が先に入ってお仕え申そうとするさまをあきらかにせよ」といって、刀のつかをつかみほこをさしあて矢をつがえて追い入れるときに、自分のっておいたしかけに打たれて死にました。そこで引き出して、らしました。その土地を宇陀うだ血原ちはらといいます。そうしてそのオトウカシが献上したごちそうをことごとく軍隊にたまわりました。そのときに歌をおみになりました。それは、

宇陀うだ高台たかだいでシギのあみをはる。
わたしがっているシギはかからないで
思いも寄らないタカがかかった。
古妻ふるづまが食物をうたら
ソバノキの実のように少しばかりをけずってやれ。
新しい妻が食物をうたら
イチサカキの実のようにたくさんにけずってやれ。
ええ、やっつけるぞ。ああ、よい気味きみだ。

 そのオトウカシは宇陀の水取もいとりらの祖先です。
 つぎに、忍坂おさか大室おおむろにおいでになったときに、尾のある穴居けっきょの人八十人の武士がその室にあって威張いばっております。そこで天の神の御子みこのご命令でお料理をたまわり、八十人の武士にあてて八十人の料理人を用意して、その人ごとに大刀たちかして、その料理人どもに「歌を聞いたならばいっしょに立って武士をれ」とお教えなさいました。その穴居けっきょの人をとうとすることをしめした歌は、

忍坂おさかの大きな土室つちむろ
大勢の人が入り込んだ。
よしや大勢の人が入っていても
威勢のよい久米くめの人々が
こぶ大刀たち石大刀いしたちでもって
やっつけてしまうぞ。
威勢のよい久米の人々が
こぶ大刀たちの石大刀でもって
そら今、つがよいぞ。

 かように歌って、刀をぬいて一時に打ち殺してしまいました。
 その後、ナガスネ彦をおちになろうとした時に、お歌いになった歌は、

威勢のよい久米の人々の
アワのはたけにはくさいニラが一本えている。
そののもとに、そのをくっつけて
やっつけてしまうぞ。

 また、

神風かみかぜの吹く伊勢いせの海の
大きな石にはいまわっている
細螺しただみのようにまわって
やっつけてしまうぞ。
 また、エシキ・オトシキをおちになりました時に、御軍の兵士たちが、少し疲れました。そこでお歌いあそばされたお歌、

たてを並べてる、その伊那佐いなさの山の
から行き見守って
戦争いくさをすると腹がった。
島にいるう人々よ
すぐ助けに来てください。
 最後に登美とみのナガスネ彦をおちになりました。時にニギハヤビのみことが天の神の御子みこのもとにまいって申し上げるには、「天の神の御子みこが天からおくだりになったと聞きましたから、後を追って降ってまいりました」と申し上げて、天から持ってきた宝物をささげておつかえ申しました。このニギハヤビの命がナガスネ彦の妹トミヤ姫と結婚して生んだ子がウマシマジの命で、これが物部もののべむらじ穂積ほづみの臣・采女うねめの臣らの祖先です。そこでかようにして乱暴な神たちを平定し、服従しない人どもを追いはらって、畝傍うねび橿原かしはらの宮において天下をおおさめになりました。

    神の御子みこ

―英雄や佳人かじんなどを、神が通って生ませた子だとすることは、崇神すじん天皇の巻にもあり、広く信じられていたところである。―

 はじめ日向ひゅうがの国においでになった時に、阿多あた小椅おばしきみの妹のアヒラ姫という方と結婚して、タギシミミの命・キスミミの命とお二方の御子みこがありました。しかしさらに皇后となさるべき嬢子おとめをお求めになった時に、オオクメの命の申しますには、「神の御子みこと伝える嬢子おとめがあります。そのわけは三島みしまのミゾクイのむすめのセヤダタラ姫という方が非常に美しかったので、三輪みわのオオモノヌシの神がこれを見て、その嬢子おとめかわやにいる時に、赤くぬった矢になってその河を流れてきました。その嬢子おとめがおどろいてその矢を持ってきて床のほとりに置きましたところ、たちまちに美しい男になって、その嬢子おとめと結婚して生んだ子がホトタタライススキ姫であります。後にこのかたは名をヒメタタライスケヨリ姫と改めました。これはそのホトということをきらって、後に改めたのです。そういうしだいで、神の御子みこと申すのです」と申し上げました。
 あるとき七人の嬢子おとめが大和の高佐士野たかで遊んでいるときに、このイスケヨリ姫もまじっていました。そこでオオクメのみことが、そのイスケヨリ姫を見て、歌で天皇に申し上げるには、

大和の国のタカサジ
七人行く嬢子おとめたち、
その中の誰をおしになります?
 このイスケヨリ姫は、そのときに嬢子おとめたちのさきに立っておりました。天皇はその嬢子おとめたちをご覧になって、御心みこころにイスケヨリ姫が一番さきに立っていることを知られて、お歌でお答えになりますには、

まあまあ一番先に立っているを妻にしましょうよ。
 ここにオオクメのみことが、天皇のおおせをそのイスケヨリ姫に伝えましたときに、姫はオオクメの命の眼の裂目さけめいれずみをしているのを見て不思議に思って、

天地間てんちかんの千人まさりの勇士だというに、どうして目にいれずみをしているのです?
と歌いましたから、オオクメのみことが答えて歌うには、

じょうさんにすぐに会おうと思って目にいれずみをしております。
と歌いました。かくてその嬢子おとめは「おつかえ申しあげましょう」と申しました。
 そのイスケヨリ姫のお家は狭井河さいがわのほとりにありました。この姫のもとにおいでになって一夜おやすみになりました。その河を狭井河さいがわというわけは、河のほとりにヤマユリがたくさんありましたから、その名を取って名づけたのです。ヤマユリのもとの名は狭井さいといったのです。後にその姫が宮中に参上したときに、天皇のおみになった歌は、

アシ原のアシのしげった小屋に
スゲのむしろきよらかにいて、
二人ふたりで寝たことだったね。
 かくしてお生まれになった御子みこは、ヒコヤイの命・カムヤイミミの命・カムヌナカワミミの命綏靖すいぜい天皇。のお三方です。

    タギシミミのみことの変

―自分の家の祖先は、天皇の兄にあたるのだが、なぜ臣下となったかということを語る説話。前にも隼人はやとの話はそれであり、後にも例が多い。カムヤイミミの命の子孫というオオの臣が、『古事記』の撰者のおお安万侶やすまろの家であることに注意。―

 天皇がおかくれになってから、その庶兄ままあにのタギシミミの命が、皇后のイスケヨリ姫と結婚したときに、三人の弟たちをころそうとしてはかったので、母君ははぎみのイスケヨリ姫がご心配になって、歌でこのことを御子みこたちにお知らせになりました。その歌は、

狭井さい河の方から雲が立ちおこって、
畝傍うねび山の樹の葉が騒いでいる。
風が吹き出しますよ。

畝傍山は昼は雲が動き、
夕暮れになれば風が吹き出そうとして
樹の葉が騒いでいる。
 そこで御子みこたちがお聞きになって、おどろいてタギシミミを殺そうとなさいました時に、カムヌナカワミミの命が、兄君のカムヤイミミの命に、「あなたは武器を持って入ってタギシミミをお殺しなさいませ」と申しました。そこで武器を持って殺そうとされたときに、手足がふるえて殺すことができませんでした。そこで弟のカムヌナカワミミの命が兄君の持っておられる武器をい取って、入ってタギシミミを殺しました。そこでまた御名みなたたえてタケヌナカワミミの命と申し上げます。
 かくてカムヤイミミの命が弟のタケヌナカワミミの命に国をゆずって申されるには、「わたしはかたきを殺すことができません。それをあなたが殺しておしまいになりました。ですからわたしは兄であっても、上にいることはできません。あなたが天皇になって天下をおおさめあそばせ。わたしはあなたを助けてまつりをする人としておつかえ申しましょう」と申しました。そこでそのヒコヤイの命は、茨田うまらたむらじ手島てしまむらじの祖先です。カムヤイミミの命は、意富おおおみ小子部ちいさこべの連・坂合部さかあいべの連・きみ大分おおきたの君・阿蘇あその君・筑紫の三家みやけの連・雀部さざきべの臣・雀部のみやつこ小長谷おはつせの造・都祁つげあたえ伊余いよの国の造・科野しなのの国の造・道の奥の石城いわきの国の造・常道ひたちなかの国の造・長狭ながさの国の造・伊勢の船木ふなきあたえ・尾張の丹羽にわおみ島田しまだおみらの祖先です。カムヌナカワミミの命は、天下をおおさめになりました。すべてこのカムヤマトイワレ彦の天皇は、御歳おとし百三十七歳、御陵りょう畝傍山うねびやまの北の方の白梼かしにあります。

   二、綏靖すいぜい天皇以後八代

    綏靖天皇

―以下八代は、『帝紀』の部分だけで、本辞ほんじ』を含んでいない。この項など、『帝紀』の典型的な例と見られる。―

 カムヌナカワミミの命綏靖すいぜい天皇)、大和の国の葛城かずらき高岡たかおかの宮においでになって天下をおおさめあそばされました。この天皇、師木しき県主あがたぬしの祖先のカワマタ姫と結婚してお生みになった御子みこはシキツ彦タマデミの命お一方です。天皇は御年四十五歳、御陵ごりょう衝田つきだの岡にあります。

    安寧あんねい天皇

 シキツ彦タマデミの命安寧あんねい天皇)、大和の片塩かたしお浮穴うきあなの宮においでになって天下をおおさめなさいました。この天皇はカワマタ姫の兄の県主あがたぬしハエの娘のアクト姫と結婚してお生みになった御子みこは、トコネツ彦イロネの命・オオヤマト彦スキトモの命・シキツ彦の命のお三方です。この天皇の御子みこたちあわせてお三方のうち、オオヤマト彦スキトモの命は、天下をおおさめになりました。つぎにシキツ彦の命の御子みこがお二方あって、お一方の子孫は、伊賀の須知の稲置いなき那婆理の稲置・三野の稲置の祖先です。お一方の御子みこワチツミの命は淡路の御井みいの宮においでになり、姫宮がお二方おありになりました。その姉君あねぎみはハエイロネ、またの名はオオヤマトクニアレ姫の命、妹君はハエイロドです。この天皇の御年四十九歳、御陵ごりょう畝傍山うねびやま美富登にあります。

    懿徳いとく天皇

 オオヤマト彦スキトモの命懿徳いとく天皇)、大和のかる境岡さかいおかの宮においでになって天下をおおさめなさいました。この天皇は師木しき県主あがたぬしの祖先フトマワカ姫の命、またの名はイイヒ姫の命と結婚してお生みになった御子は、ミマツ彦カエシネの命とタギシ彦の命とお二方です。このミマツ彦カエシネの命は天下をおおさめなさいました。つぎにタギシ彦の命は、血沼ちぬわけ多遅麻の竹の別・葦井あしい稲置いなきの祖先です。天皇は御年四十五歳、御陵ごりょうは畝傍山の真名子谷だにの上にあります。

    孝昭こうしょう天皇

 ミマツ彦カエシネの命孝昭こうしょう天皇)、大和の葛城かつらぎ掖上わきがみの宮においでになって天下をおおさめなさいました。この天皇は尾張おわりの連の祖先のオキツヨソの妹ヨソタホ姫の命と結婚してお生みになった御子みこはアメオシタラシ彦の命とオオヤマトタラシ彦クニオシビトの命とお二方です。このオオヤマトタラシ彦クニオシビトの命は天下をおおさめなさいました。兄のアメオシタラシ彦の命は、春日の臣・大宅おおやけの臣・粟田の臣・小野おのの臣・柿本かきのもとの臣・一比韋いちひいの臣・大坂おおさかおみ・阿那の臣・多紀の臣・羽栗の臣・知多の臣・牟耶むざの臣・都怒つの山の臣・伊勢の飯高の君・一師の君・ちか淡海おうみの国の造の祖先です。天皇は御年九十三歳、御陵ごりょう掖上わきがみ博多はかた山の上にあります。

    孝安こうあん天皇

 オオヤマトタラシ彦クニオシビトの命(孝安天皇)、大和の葛城かつらぎむろ秋津島あきづしまの宮においでになって天下をおおさめなさいました。この天皇はめいのオシカ姫の命と結婚してお生みになった御子みこは、オオキビノモロススの命とオオヤマトネコ彦フトニの命〔孝霊天皇。とお二方です。このオオヤマトネコ彦フトニの命は天下をおおさめなさいました。天皇は御年百二十三歳、御陵ごりょう玉手たまでおかの上にあります。

    孝霊こうれい天皇

 オオヤマトネコ彦フトニの命(孝霊天皇)、大和の黒田くろだ廬戸いおとの宮においでになって天下をおおさめなさいました。この天皇、十市とおち県主あがたぬしの祖先の大目おおめの娘のクワシ姫の命と結婚してお生みになった御子みこは、オオヤマトネコ彦クニクルの命お一方です。また春日かすがのチチハヤマワカ姫と結婚してお生みになった御子みこは、チチハヤ姫の命お一方です。オオヤマトクニアレ姫の命と結婚してお生みになった御子みこは、ヤマトトモモソ姫の命・ヒコサシカタワケの命・ヒコイサセリ彦の命、またの名はオオキビツ彦の命・ヤマトトビハヤワカヤ姫のお四方です。またそのアレ姫の命の妹ハエイロドと結婚してお生みになった御子みこは、ヒコサメマの命とワカヒコタケキビツ彦の命とお二方です。この天皇の御子みこはあわせて八人おいでになりました。男王五人、女王三人です。
 そこでオオヤマトネコ彦クニクルの命は天下をおおさめなさいました。オオキビツ彦の命とワカタケキビツ彦の命とは、お二方で播磨はりまかわさき忌瓮いわいべをすえて神をまつり、播磨から入って吉備きびの国を平定されました。このオオキビツ彦の命は、吉備の上の道のおみの祖先です。つぎにワカヒコタケキビツ彦の命は、吉備の下の道の臣・かさの臣の祖先です。つぎにヒコサメマの命は、播磨の牛鹿うしかの臣の祖先です。つぎにヒコサシカタワケの命は、高志こし利波となみの臣・豊国の国前くにさきの臣・五百原の君・角鹿つぬがわたりあたえの祖先です。天皇は御年百六歳、御陵ごりょう片岡かたおか馬坂うまさかの上にあります。

    孝元こうげん天皇

―タケシウチの宿祢すくねの諸子をあげているのは豪族の祖先だからである。―

 オオヤマトネコ彦クニクルの命(孝元天皇)、大和のかる堺原さかいはらの宮においでになって天下をおおさめなさいました。この天皇は穂積ほずみの臣らの祖先のウツシコオの命の妹のウツシコメの命と結婚してお生みになった御子みこ大彦おおびこの命・スクナヒコタケイココロの命・ワカヤマトネコ彦オオビビの命のお三方です。またウツシコオの命の娘のイカガシコメの命と結婚してお生みになった御子みこはヒコフツオシノマコトの命お一方です。また河内のアオタマの娘のハニヤス姫と結婚してお生みになった御子みこはタケハニヤス彦の命お一方です。この天皇の御子みこたち合わせてお五方いつかたおいでになります。このうちワカヤマトネコ彦オオビビの命は天下をおおさめなさいました。その兄、大彦おおびこの命の子タケヌナカワワケの命は阿部〔阿倍か。の臣らの祖先です。つぎにヒコイナコジワケの命はかしわでの臣の祖先です。ヒコフツオシノマコトの命が、尾張おわりむらじの祖先のオオナビの妹の葛城かずらきのタカチナ姫と結婚して生んだ子はウマシウチの宿祢すくね、これは山代やましろの内の臣の祖先です。また木の国のみやつこの祖先のウズ彦の妹のヤマシタカゲ姫と結婚して生んだ子はタケシウチの宿祢すくねです。このタケシウチの宿祢の子はあわせて九人あります。男七人女二人です。そのハタノヤシロの宿祢は波多はたの臣・林の臣・波美の臣・星川の臣・淡海の臣・長谷部はつせべの君の祖先です。コセノオカラの宿祢は許勢の臣・雀部さざきべおみ・軽部の臣の祖先です。ソガノイシカワの宿祢は蘇我の臣・川辺の臣・田中の臣・高向たかむくの臣・小治田おはりだの臣・桜井の臣・岸田の臣らの祖先です。ヘグリノツクの宿祢すくねは、平群へぐりの臣・佐和良の臣・馬の御みくいの連らの祖先です。キノツノの宿祢すくねは、木の臣・都奴の臣・坂本の臣の祖先です。つぎにクメノマイト姫・ノノイロ姫です。葛城かずらき長江ながえのソツ彦は、玉手の臣・いくはの臣・生江の臣・阿芸那の臣らの祖先です。つぎに若子わくご宿祢すくねは、江野の財の臣の祖先です。この天皇は御年五十七歳、御陵ごりょうつるぎの池のなかおかの上にあります。

    開化かいか天皇

 ワカヤマトネコ彦オオビビの命(開化天皇)、大和の春日かすが伊耶河いざかわの宮においでになって天下をおおさめなさいました。この天皇は、丹波たんば大県主おおあがたぬしユゴリの娘のタカノ姫と結婚してお生みになった御子みこはヒコユムスミの命お一方です。またイカガシコメの命と結婚してお生みになった御子みこはミマキイリ彦イニエの命とミマツ姫の命とのお二方です。また丸迩わにおみの祖先のヒコクニオケツの命の妹のオケツ姫の命と結婚してお生みになった御子みこはヒコイマスのみこお一方です。また葛城かずらき垂見たるみの宿祢の娘のワシ姫と結婚してお生みになった御子みこはタケトヨハツラワケの王お一方です。あわせて五人おいでになりました。このうちミマキイリ彦イニエの命〔崇神天皇。は天下をおおさめなさいました。その兄ヒコユムスミの王の御子みこは、オオツツキタリネの王とサヌキタリネの王とお二方で、この二王の娘は五人ありました。つぎにヒコイマスの王が山代やましろのエナツ姫、またの名はカリハタトベと結婚して生んだ子はオオマタの王とオマタの王とシブミの宿祢の王とお三方です。またこの王が春日のタケクニカツトメの娘のサホのオオクラミトメと結婚して生んだ子がサホ彦の王・オザホの王・サホ姫の命・ムロビコの王のお四方です。サホ姫の命はまたの名はサワジ姫で、このかたはイクメ天皇〔垂仁天皇。の皇后様におなりになりました。また近江の国の御上みかみ山の神職がおまつりするアメノミカゲの神の娘オキナガノミズヨリ姫と結婚して生んだ子は丹波ノヒコタタスミチノウシの王・ミヅホノマワカの王・カムオオネの王、またの名はヤツリのイリビコの王・ミヅホノイオヨリ姫・ミイツ姫の五人です。また母の妹オケツ姫と結婚して生んだ子は山代のオオツツキのマワカの王・ヒコオスの王・イリネの王の三人です。すべてヒコイマスの王の御子みこはあわせて十五人ありました。兄のオオマタの王の子はアケタツの王・ウナガミの王の二人です。このアケタツの王は、伊勢の品遅部ほんじべ伊勢いせ佐那さなみやつこの祖先です。ウナガミの王は、比売陀きみの祖先です。つぎにオマタの王は当麻たぎままがりの君の祖先です。つぎにシブミの宿祢の王は佐佐ささきみの祖先です。つぎにサホ彦の王は日下部くさかべの連・甲斐の国の造の祖先です。つぎにオザホの王は葛野かずのわけちか淡海おうみ蚊野かやの別の祖先です。つぎにムロビコの王は若狭わかさの耳の別の祖先です。そのミチノウシの王が丹波の河上の摩須ます郎女いらつめと結婚して生んだ子はヒバス姫の命・マトノ姫の命・オト姫の命・ミカドワケの王の四人です。このミカドワケの王は、三川みかわわけの祖先です。このミチノウシの王の弟ミヅホノマワカの王はちか淡海おうみやすあたえの祖先です。つぎにカムオオネの王は三野みのくにみやつこ本巣もとすの国の造・長幡部ながはたべの連の祖先です。その山代やましろのオオツツキマワカの王は弟君イリネの王の娘の丹波たんばのアジサワ姫と結婚して生んだ御子みこは、カニメイカヅチの王です。この王が丹波たんばの遠津の臣の娘のタカキ姫と結婚して生んだ御子みこはオキナガの宿祢の王です。この王が葛城のタカヌカ姫と結婚して生んだ御子みこがオキナガタラシ姫の命〔神功皇后。・ソラツ姫の命・オキナガ彦の王の三人です。このオキナガ彦の王は、吉備の品遅ほむじの君・播磨はりま阿宗あそきみの祖先です。またオキナガの宿祢の王が、カワマタノイナヨリ姫と結婚して生んだ子がオオタムサカの王で、このかたは但馬たじまの国の造の祖先です。上に出たタケトヨワズラワケの王は、道守ちもりおみ忍海部おしぬみべみやつこ御名部みやつこ稲羽いなば忍海部おしぬみべ・丹波の竹野たかのわけ依網よさみ阿毘古らの祖先です。この天皇は御年六十三歳、御陵ごりょう伊耶河いざかわの坂の上にあります。

   三、崇神すじん天皇

    后妃こうひと皇子女

―『帝紀』の前半と見られる部分である。―

 イマキイリ彦イニエの命(崇神天皇)、大和の師木しき水垣みずがきの宮においでになって天下をおおさめなさいました。
 この天皇は、木の国の造のアラカワトベの娘のトオツアユメマクワシ姫と結婚してお生みになった御子みこはトヨキイリ彦の命とトヨスキイリ姫の命お二方です。また尾張の連の祖先のオオアマ姫と結婚してお生みになった御子みこは、オオイリキの命・ヤサカノイリ彦の命・ヌナキノイリ姫の命・トオチノイリ姫の命のお四方です。また大彦おおびこの命の娘のミマツ姫の命と結婚してお生みになった御子みこはイクメイリ彦イサチの命・イザノマワカの命・クニカタ姫の命・チヂツクヤマト姫の命・イガ姫の命・ヤマト彦の命のお六方です。この天皇の御子みこたちは合わせて十二王おいでになりました。男王七人、女王五人です。そのうちイクメイリ彦イサチの命〔垂仁天皇。は天下をおおさめなさいました。つぎにトヨキイリ彦の命は、上毛野かみつけの・下毛野の君らの祖先です。妹のトヨスキ姫の命は伊勢の大神宮をおまつりになりました。つぎにオオイリキの命は能登のとおみの祖先です。つぎにヤマト彦の命は、この王のときにはじめて陵墓りょうぼに人の垣を立てました。

    美和みわ大物主おおものぬし

三輪山みわやま説話として神婚説話の典型的な一つでみわ氏、かも氏らの祖先の物語。―

 この天皇の御世みよに、流行病はやりやまいがさかんにおこって、人民がほとんどつきようとしました。ここに天皇は、ご憂慮ゆうりょあそばされて、神をまつっておやすみになった晩に、オオモノヌシの大神がお夢にあらわれておおせになるには、「かように病気がはやるのは、わたしの心である。これはオオタタネコをもってわたしをまつらしめたならば、神のたたりが起こらずに国も平和になるだろう」とおおせられました。そこで急使きゅうしを四方に出してオオタタネコという人を求めたときに、河内の国の美努の村でその人を探し出してたてまつりました。そこで天皇は「お前は誰の子であるか?」とおたずねになりましたから、答えて言いますには「オオモノヌシの神がスエツミミの命の娘のイクタマヨリ姫と結婚して生んだ子はクシミカタの命です。その子がイイカタスミの命、その子がタケミカヅチの命、その子がわたくしオオタタネコでございます」と申しました。そこで天皇が非常におよろこびになっておおせられるには、「天下がたいらぎ人民が栄えるであろう」とおおせられて、このオオタタネコを神主かんぬしとして御諸山みもろやまでオオモノヌシの神をおまつり申し上げました。イカガシコオのみことに命じてまつりに使う皿をたくさん作り、天地の神々の社をお定め申しました。また、宇陀うだ墨坂すみさかの神に赤い色のたてほこをたてまつり、大坂おおさかかみに墨の色の楯矛をたてまつり、また坂の上の神や河の瀬の神にいたるまでにことごとく残るところなく幣帛へいはくをたてまつりました。これによって疫病えきびょうがやんで国家が平安になりました。
 このオオタタネコを神の子と知ったしだいは、上に述べたイクタマヨリ姫は美しいお方でありました。ところが形姿かたち威儀ならびなき一人の男が夜中にたちまち来ました。そこでたがいにでて結婚して住んでいるうちに、何ほどもないのにその嬢子おとめはらみました。そこで父母が妊娠にんしんしたことをあやしんで、その娘に、「お前は自然に妊娠にんしんした。夫がないのにどうして妊娠したのか?」とたずねましたから、答えて言うには「名も知らないりっぱな男が夜ごとに来て住むほどに、自然にはらみました」と言いました。そこでその父母が、その人を知りたいと思って、その娘に教えましたのは、「赤土を床のほとりにらし麻糸を針につらぬいてその着物きものすそせ」と教えました。よって教えたとおりにして、朝になって見れば、針をつけた麻は戸の鉤穴かぎあなからけとおって、残った麻はただ三輪だけでした。そこで鉤穴かぎあなから出たことを知って糸をたよりにたずねて行きましたら、三輪山みわやまに行って神の社にとまりました。そこで神の御子みこであるとは知ったのです。その麻の三輪残ったのによってそこを三輪というのです。このオオタタネコの命は、みわの君・かもの君の祖先です。

    将軍の派遣

―いわゆる四道しどう将軍の派遣の物語。ただしヒコイマスのみこを、『日本書紀』では、その子丹波のミチヌシの命とし、またキビツ彦を西の道につかわしたとある。―

 またこの御世みよ大彦おおびこみことをばこしの道につかわし、その子のタケヌナカワワケの命を東方の諸国につかわして従わない人々を平定せしめ、またヒコイマスのみこを丹波の国につかわしてクガミミのミカサという人をたしめました。その大彦の命が越の国においでになるときに、をはいた娘が山城やましろ幣羅坂へらさかに立って歌っていうには、

御真木入日子いりさまは、
ご自分の命を人知れず殺そうと、
背後うしろの入口から行きちが
前の入口から行き違い
のぞいているのも知らないで、
御真木入日子いりさまは。
と歌いました。そこで大彦の命があやしいことを言うと思って、馬を返してその嬢子おとめに、「あなたの言うことはどういうことですか?」とたずねましたら、「わたくしは何も申しません。ただ歌を歌っただけです」と答えて、行く方も見せずに消えてしまいました。よって大彦の命はさらに帰って天皇に申し上げたときに、おおせられるには、「これは思うに、山城の国に赴任ふにんしたタケハニヤスの王が悪い心をおこしたしるしでありましょう。伯父上、軍をおこして行っていらっしゃい」とおおせになって、丸迩わにおみの祖先のヒコクニブクのみことをそえておつかわしになりました、その時に丸迩坂さかに清浄なびんをすえておまつりをして行きました。
 さて山城の和訶羅河がわに行きました時に、はたしてタケハニヤスのみこが軍をおこして待っており、たがいに河をはさんでむかい立っていどみ合いました。それでそこの名を伊杼美というのです。今では伊豆美と言っております。ここにヒコクニブクの命が「まず、そちらから清め矢を放て」といいますと、タケハニヤスの王が射ましたけれども、あてることができませんでした。しかるにヒコクニブクの命のはなった矢はタケハニヤスの王に射中いあてて死にましたので、その軍がことごとくやぶれて逃げ散りました。よって逃げる軍を追い攻めて、久須婆の渡しに行きましたときに、みな攻め苦しめられたのでくそが出てはかまにかかりました。そこでそこの名をクソバカマというのですが、今はクスバと言っております。またその逃げる軍を待ち受けてりましたから、のように河に浮きました。よってその河を鵜河がわといいます。またその兵士をほおりましたから、そこの名をホウリゾノといいます。かように平定し終わって、朝廷にまいってご返事申し上げました。
 かくて大彦の命は前の命令どおりに越の国にまいりました。ここに東の方からつかわされたタケヌナカワワケの命は、その父の大彦の命と会津あいづで行き会いましたから、そこを会津あいづというのです。ここにおいて、それぞれにつかわされた国のまつりごとを終えてご返事申し上げました。かくして天下がたいらかになり、人民は富み栄えました。ここにはじめて男の弓矢で得た獲物えものや娘の手芸の品々しなじなたてまつらしめました。そこでその御世みよたたえてはじめての国をおおさめになった御真木の天皇と申し上げます。またこの御世に依網よさみの池を作り、またかる酒折さかおりの池を作りました。天皇は御年百六十八歳、戊寅つちのえとらの年の十二月におかくれになりました。御陵ごりょうやまの道のまがりおかの上にあります。

   四、垂仁すいにん天皇

    后妃こうひと皇子女

 イクメイリ彦イサチのみこと(垂仁天皇)、大和の師木しき玉垣たまがきの宮においでになって天下をおおさめなさいました。この天皇、サホ彦のみことの妹のサワジ姫のみことと結婚しておみになった御子みこはホムツワケの命お一方です。また丹波たんばのヒコタタスミチノウシの王の娘のヒバス姫の命と結婚してお生みになった御子みこはイニシキノイリ彦の命・オオタラシ彦オシロワケの命・オオナカツ彦の命・ヤマト姫の命・ワカキノイリ彦の命のお五方です。またそのヒバス姫の命の妹、ヌバタノイリ姫の命と結婚してお生みになった御子みこはヌタラシワケの命・イガタラシ彦の命のお二方です。またそのヌバタノイリ姫の命の妹のアザミノイリ姫の命と結婚してお生みになった御子みこはイコバヤワケの命・アザミツ姫の命のお二方です。またオオツツキタリネの王の娘のカグヤ姫の命と結婚してお生みになった御子みこはオナベの王お一方です。また山代やましろ大国おおくにふちの娘のカリバタトベと結婚してお生みになった御子みこはオチワケの王・イカタラシ彦の王・イトシワケの王のお三方です。またその大国のふちの娘のオトカリバタトベと結婚して、お生みになった御子みこは、イワツクワケの王・イワツク姫の命またの名はフタジノイリ姫の命のお二方です。すべてこの天皇の皇子たちは十六王おいでになりました。男王十三人、女王三人です。
 その中でオオタラシ彦オシロワケの命〔景行天皇。は、天下をおおさめなさいました。御身おみの長さ一丈二寸、御脛おんはぎの長さ四尺一寸ございました。つぎにイニシキノイリ彦の命は、血沼ちぬの池・狭山さやまの池を作り、また日下くさか高津たかつの池をお作りになりました。また鳥取ととり河上かわかみの宮においでになって大刀たち一千ふりをお作りになって、これを石上いそのかみ神宮じんぐうにおおさめなさいました。そこでその宮においでになって河上部かわかみべをお定めになりました。つぎにオオナカツ彦の命は、山辺やまべわけ三枝さきくさの別・稲木の別・阿太あだわけ・尾張の国の三野の別・吉備の石无いわなしの別・許呂母の別・高巣鹿たかすかの別・飛鳥あすかきみ牟礼むれわけらの祖先です。つぎにヤマト姫の命は伊勢の大神宮をおまつりなさいました。つぎにイコバヤワケの王は、沙本穴本部あなほべの別の祖先です。つぎにアザミツ姫の命は、イナセ彦の王にとつぎました。つぎにオチワケの王は、小目おめの山の君・三川みかわころもきみの祖先です。つぎにイカタラシ彦の王は、春日の山の君・高志こしの池の君・春日部の君の祖先です。つぎにイトシワケの王は、子がありませんでしたので、子のかわりとして伊登志部を定めました。つぎにイワツクワケの王は羽咋はくいの君・三尾みおきみの祖先です。つぎにフタジノイリ姫の命はヤマトタケルの命のきさきになりました。

    サホ彦の反乱

―サホ彦は天皇を弑殺しさつしようとした反逆者であるが、その子孫は、日下部くさかべの連、甲斐の国の造らとして栄えている。要するに一つの物語であって、それが天皇の記に結びついたものと見るべきである。後に出る大山守おおやまもりの命の物語も同様である。―

 この天皇、サホ姫を皇后になさいましたときに、サホ姫の命の兄のサホ彦の王が妹に向かって「夫と兄とはどちらが大事であるか?」と問いましたから、「兄が大事です」とお答えになりました。そこでサホ彦の王がはかりごとをたくらんで、「あなたがほんとうにわたしを大事にお思いになるなら、あなたとわたしとで天下をおさめよう」といって、色濃く染めたひものついている小刀を作って、その妹にさずけて、「この刀で天皇の眠っておいでになるところをおし申せ」といいました。しかるに天皇はそのはかりごとをお知りあそばされず、皇后のひざを枕としておやすみになりました。そこでその皇后はひものついた小刀をもって天皇のお首をおししようとして、三度りましたけれども、かなしい情にたえないでお首をおし申さないで、お泣きになる涙が天皇のお顔の上に落ち流れました。そこで天皇がおどろいておたちになって、皇后におたずねになるには、「わたしは不思議な夢を見た。サホの方からにわか雨ってきて、急に顔をぬらした。また錦色にしきいろの小ヘビがわたしの首にまといついた。こういう夢は何のあらわれだろうか?」とおたずねになりました。そこでその皇后がかくしきれないと思って天皇に申し上げるには、「わたくしの兄のサホ彦の王がわたくしに、夫と兄とはどちらが大事かとたずねました。目の前でたずねましたので、仕方しかたがなくて、兄が大事ですと答えましたところ、わたくしに注文して、自分とお前とで天下をおさめるから、天皇をお殺し申せといって、色濃く染めたひもをつけた小刀を作ってわたくしに渡しました。そこでお首をおし申そうとして三度りましたけれども、かなしみの情がたちまちにおこっておし申すことができないで、泣きました涙がお顔をぬらしました。きっとこのあらわれでございましょう」と申しました。
 そこで天皇は「わたしはあぶなくあざむかれるところだった」とおおせになって、軍を起こしてサホ彦の王をお撃ちになるとき、その王が稲の城を作って待って戦いました。このとき、サホ姫のみことはたえ得ないで、後の門から逃げてその城にお入りになりました。
 このときにその皇后は妊娠にんしんしておいでになり、またお愛しあそばされていることがもう三年もたっていたので、軍を返して、にわかにお攻めになりませんでした。かようにびている間に御子みこがお生まれになりました。そこでその御子みこを出して城の外において、天皇に申し上げますには、「もしこの御子みこをば天皇の御子みことおぼしめすならばお育てあそばせ」と申さしめました。ここで天皇は「兄にはうらみがあるが、皇后に対する愛は変わらない」とおおせられて、皇后を得られようとする御心みこころがありました。そこで軍隊の中から敏捷びんしょうな人を選り集めておおせになるには、「その御子みこを取るときに、その母君をもうばい取れ。御髪おぐしでも御手でもつかまえ次第しだいにつかんで引き出し申せ」とおおせられました。しかるに皇后はあらかじめ天皇の御心みこころのほどをお知りになって、ことごとく髪をおりになり、その髪でお頭をおおい、また玉の緒を腐らせて御手に三重おまきになり、また酒でおし物を腐らせて、完全なお召し物のようにして着ておいでになりました。かように準備をして御子みこをお抱きになって城の外にお出でになりました。そこで力士たちがその御子みこをお取り申し上げて、その母君をもお取り申そうとして、御髪おぐしを取れば御髪おぐしがぬけ落ち、御手をにぎれば玉の緒がえ、お召し物をにぎればお召し物がやぶれました。こういうしだいで御子みこを取ることはできましたが、母君を取ることができませんでした。その兵士たちが帰ってきて申しましたには、御髪おぐしが自然に落ち、お召し物はやぶれやすく、御手にまいておいでになる玉の緒も切れましたので、母君をばお取り申しません。御子みこは取ってまいりました」と申しました。そこで天皇は非常に残念がって、玉を作った人たちをおにくしみになって、その領地をみな、おりになりました。それでことわざに、ところを得ない玉作たまつくりだ」というのです。
 また天皇がその皇后におおせられるには、「すべて子の名は母がつけるものであるが、この御子みこの名前を何としたらよかろうか?」とおおせられました。そこでお答え申し上げるには、「今、稲の城を焼くときに炎の中でお生まれになりましたから、その御子みこのお名前はホムチワケの御子みことおつけ申しましょう」と申しました。また「どのようにしてお育て申そうか」とおおせられましたところ、「乳母を定め、ご養育がかりをきめてご養育申し上げましょう」と申しました。よってその皇后の申されたようにお育て申しました。またその皇后に「あなたの結び固めた衣のひもはだれがくべきであるか?」とおたずねになりましたから、「丹波のヒコタタスミチノウシの王の娘の兄姫えひめ弟姫おとひめという二人の女王は、浄らかな民でありますからお使いあそばしませ」と申しました。かくてついにそのサホ彦の王をたれたときに、皇后もともにおかくれになりました。

    ホムチワケの御子みこ

―種々の要素の結合している物語であるが、出雲の神のたたりが中心となっている。ヒナガ姫の部分は、特に結びつけたものの感が深い。―

 かくてその御子みこをお連れ申し上げて遊ぶありさまは、尾張の相津にあった二俣ふたまたの杉をもって二俣の小舟を作って、持ちのぼってきて、大和の市師いちしの池、かるの池に浮かべて遊びました。この御子みこは、長いびんが胸の前に至るまでも物をしかとおおせられません。ただ大空を鶴が鳴き渡ったのをお聞きになってはじめて「あぎ」といわれました。そこで山辺やまべのオオタカという人をやって、その鳥を取らせました。ここにその人が鳥を追いたずねて紀の国から播磨の国に至り、追って因幡いなばの国に越えて行き、丹波の国・但馬の国に行き、東の方に追いまわって近江の国に至り、美濃の国に越え、尾張の国から伝わって信濃の国に追い、ついにこしの国に行って、和那美水門みなとわなをはってその鳥を取って持ってきてたてまつりました。そこでその水門みなと和那美の水門とはいうのです。さてその鳥をご覧になって、物を言おうとお思いになるが、思いどおりに言われることはありませんでした。
 そこで天皇がご心配あそばされておやすみになっているときに、お夢に神のおさとしをお得になりました。それは「わたしの御殿ごてんを天皇の宮殿のようにつくったなら、御子みこがきっと物を言うだろう」と、かように夢にご覧になって、そこで太卜ふとまにの法で占いをして、これはどの神の御心みこころであろうかと求めたところ、そのたたりは出雲の大神の御心みこころでした。よってその御子みこをしてその大神の宮をおがましめにおやりになろうとする時に、誰をそえたらよかろうかと占いましたら、アケタツの王が占いに合いました。よってアケタツの王におおせて誓言ちかいごとを申さしめなさいました。「この大神をおがむことによってまことにそのげんがあるならば、このさぎの巣の池の樹に住んでいるさぎがわがちかいによって落ちよ」かようにおおせられた時にそのさぎが池に落ちて死にました。また「きよ」とちかいをお立てになりましたらきました。また甜白檮あまがしさきの広葉のりっぱなカシの木をちかいを立ててらしたりかしたりしました。それでアケタツの王に、「大和は師木しき登美とみ豊朝倉とよあさくらのアケタツの王」という名前をくださいました。かようにしてアケタツの王とウナガミの王とお二方をその御子みこにそえておつかわしになるときに、奈良の道から行ったならば、ちんばだのめくらだのに会うだろう。二上山ふたかみやまの大阪の道から行ってもちんばめくらに会うだろう。ただ紀伊きいの道こそは幸先さいさきのよい道であるとうらなって出ておいでになったときに、いたる所ごとに品遅部ほむじべの人民をお定めになりました。
 かくて出雲の国においでになって、出雲の大神をおがみ終わって帰りのぼっておいでになるときに、の河の中に黒木の橋を作り、かりの御殿をつくっておむかえしました。ここに出雲の臣の祖先のキヒサツミという者が、青葉の作り物を飾り立ててその河下にも立ててご食物をたてまつろうとしたときに、その御子みこがおおせられるには、「この河の下に青葉が山の姿をしているのは、山かと見れば山ではないようだ。これは出雲のいわくまの宮におしずまりになっているアシハラシコオの大神をおまつり申し上げる神主の祭壇であるか」とおおせられました。そこでおともつかわされた王たちが聞いてよろこび、見てよろこんで、御子みこ檳榔あじまさ長穂ながほの宮にご案内して、急使きゅうしをたてまつって天皇に奏上そうじょういたしました。
 そこでその御子みこが一夜、ヒナガ姫と結婚なさいました。そのときに嬢子おとめのぞいてご覧になると大蛇でした。そこで見ておそれて逃げました。ここにそのヒナガ姫は心憂こころうく思って、海上を光らして船に乗って追ってくるのでいよいよおそれられて、山のとうげから御船を引き越させて逃げてのぼっておいでになりました。そこでご返事申し上げることには、「出雲の大神をおがみましたによって、大御子が物をおおせになりますから上京してまいりました」と申し上げました。そこで天皇がおよろこびになって、ウナガミの王を返して神宮を造らしめました。そこで天皇は、その御子みこのために鳥取部ととりべ鳥甘とりかい品遅部ほむじべ大湯座おおゆえ若湯座わかゆえをお定めになりました。

    丹波の四女王

―丹波地方に伝わった説話が取りあげられたものであろう。―

 天皇はまたその皇后サホ姫の申し上げたままに、ミチノウシの王の娘たちのヒバス姫の命・おと姫の命・ウタコリ姫の命・マトノ姫の命の四人をお召しになりました。しかるにヒバス姫の命・おと姫の命のお二方ふたかたはおとどめになりましたが、妹のお二方はみにくかったので、故郷に返し送られました。そこでマトノ姫がじて、「同じ姉妹の中で顔がみにくいによって返されることは、近所に聞こえてもずかしい」といって、山城の国の相楽さがらかに行きました時に木の枝にかかって死のうとなさいました。そこでそこの名を懸木さがりきと言いましたのを今は相楽さがらかというのです。また弟国おとくにに行きました時についにけわしいふちちて死にました。そこでその地の名を堕国おちくにと言いましたが、今では弟国おとくに乙訓おとくにというのです。

    時じくのかぐの木の実

―タジマモリの子孫の家に伝えられた説話。―

 また天皇、三宅みやけむらじらの祖先のタジマモリを常世とこよの国につかわして、時じくのかぐの木の実を求めさせなさいました。よってタジマモリがついにその国にいたってその木をって、つるの形になっているもの八本、ほこの形になっているもの八本を持ってまいりましたところ、天皇はすでにおかくれになっておりました。そこでタジマモリはつる四本・ほこ四本を分けて皇后様にたてまつり、つる四本・矛四本を天皇の御陵ごりょうのほとりにたてまつって、それをささげてさけび泣いて、「常世の国の時じくのかぐの木の実を持って参上いたしました」と申して、ついにさけび死にました。その時じくのかぐの木の実というのは、今のタチバナのことです。この天皇は御年百五十三歳、御陵ごりょう菅原すがわら御立野みたちのの中にあります。
 またその皇后こうごうヒバス姫のみことのときに、石棺せっかん作りをお定めになり、また土師部はにしべをお定めになりました。この皇后は狭木さき寺間てらまはかにおほうむり申しあげました。(つづく)


底本:「古事記」角川文庫、角川書店
   1956(昭和31)年5月20日初版発行
   1965(昭和40)年9月20日20版発行
底本の親本:「眞福寺本」
※頁数を引用している箇所には標題を注記しました。
※底本は新かなづかいです。なお拗音・促音は小書きではありません。
※表題は底本では、「[#割り注]現代語譯[#割り注終わり] 古事記」となっています。
入力:川山隆
校正:しだひろし
xxxx年xx月xx日公開
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現代語譯 古事記(三)

稗田の阿禮、太の安萬侶
武田祐吉訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)安萬侶《やすまろ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三|方《かた》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]
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[#1字下げ]古事記 中の卷[#「古事記 中の卷」は大見出し]

[#3字下げ]一、神武天皇[#「一、神武天皇」は中見出し]

[#5字下げ]東征[#「東征」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――日向から發して大和にはいろうとして失敗することを語る。速吸の門の物語の位置が地理の實際と合わないのは、諸氏の傳來の合併だからである。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 カムヤマトイハレ彦の命(神武天皇)、兄君のイツセの命とお二方、筑紫の高千穗の宮においでになつて御相談なさいますには、「何處の地におつたならば天下を泰平にすることができるであろうか。やはりもつと東に行こうと思う」と仰せられて、日向の國からお出になつて九州の北方においでになりました。そこで豐後《ぶんご》のウサにおいでになりました時に、その國の人のウサツ彦・ウサツ姫という二人が足一つ騰《あが》りの宮を作つて、御馳走を致しました。其處からお遷りになつて、筑前の岡田の宮に一年おいでになり、また其處からお上りになつて安藝のタケリの宮に七年おいでになりました。またその國からお遷りになつて、備後《びんご》の高島の宮に八年おいでになりました。

[#5字下げ]速吸《はやすい》の門《と》[#「速吸の門」は小見出し]
 その國から上《のぼ》つておいでになる時に、龜の甲《こう》に乘つて釣をしながら勢いよく身體《からだ》を振《ふ》つて來る人に速吸《はやすい》の海峽《かいきよう》で遇いました。そこで呼び寄せて、「お前は誰か」とお尋ねになりますと、「わたくしはこの土地にいる神です」と申しました。また「お前は海の道を知つているか」とお尋ねになりますと「よく知つております」と申しました。また「供をして來るか」と問いましたところ、「お仕え致しましよう」と申しました。そこで棹《さお》をさし渡して御船に引き入れて、サヲネツ彦という名を下さいました。

[#5字下げ]イツセの命《みこと》[#「イツセの命」は小見出し]
 その國から上つておいでになる時に、難波《なにわ》の灣《わん》を經て河内の白肩の津に船をお泊《と》めになりました。この時に、大和の國のトミに住んでいるナガスネ彦が軍を起して待ち向つて戰いましたから、御船に入れてある楯を取つて下り立たれました。そこでその土地を名づけて楯津と言います。今でも日下《くさか》の蓼津《たでつ》と言《い》つております。かくてナガスネ彦と戰われた時に、イツセの命が御手にナガスネ彦の矢の傷をお負いになりました。そこで仰せられるのには「自分は日の神の御子として、日に向つて戰うのはよろしくない。そこで賤しい奴の傷を負つたのだ。今から※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて行つて日を背中にして撃とう」と仰せられて、南の方から※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つておいでになる時に、和泉《いずみ》の國のチヌの海に至つてその御手の血をお洗いになりました。そこでチヌの海とは言うのです。其處から※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つておいでになつて、紀伊《きい》の國のヲの水門《みなと》においでになつて仰せられるには、「賤しい奴のために手傷を負つて死ぬのは殘念である」と叫ばれてお隱れになりました。それで其處をヲの水門《みなと》と言います。御陵は紀伊の國の竈山《かまやま》にあります。

[#5字下げ]熊野から大和へ[#「熊野から大和へ」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――神話の要素の多い部分で、神話の成立過程も窺われる。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 カムヤマトイハレ彦の命は、その土地から※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つておいでになつて、熊野においでになつた時に、大きな熊がぼうつと現れて、消えてしまいました。ここにカムヤマトイハレ彦の命は俄に氣を失われ、兵士どもも皆氣を失つて仆れてしまいました。この時熊野のタカクラジという者が一つの大刀をもつて天の神の御子の臥しておいでになる處に來て奉る時に、お寤《さ》めになつて、「隨分寢たことだつた」と仰せられました。その大刀をお受け取りなさいました時に、熊野の山の惡い神たちが自然に皆切り仆されて、かの正氣を失つた軍隊が悉く寤《さ》めました。そこで天の神の御子がその大刀を獲た仔細をお尋ねになりましたから、タカクラジがお答え申し上げるには、「わたくしの夢に、天照らす大神と高木の神のお二方の御命令で、タケミカヅチの神を召して、葦原の中心の國はひどく騷いでいる。わたしの御子《みこ》たちは困つていらつしやるらしい。あの葦原の中心の國はもつぱらあなたが平定した國である。だからお前タケミカヅチの神、降つて行けと仰せになりました。そこでタケミカヅチの神がお答え申し上げるには、わたくしが降りませんでも、その時に國を平定した大刀がありますから、これを降しましよう。この大刀を降す方法は、タカクラジの倉の屋根に穴をあけて其處から墮し入れましようと申しました。そこでわたくしに、お前は朝目が寤《さ》めたら、この大刀を取つて天の神の御子に奉れとお教えなさいました。そこで夢の教えのままに、朝早く倉を見ますとほんとうに大刀がありました。依つてこの大刀を奉るのです」と申しました。この大刀の名はサジフツの神、またの名はミカフツの神、またの名はフツノミタマと言います。今|石上《いそのかみ》神宮にあります。
 ここにまた高木の神の御命令でお教えになるには、「天の神の御子よ、これより奧にはおはいりなさいますな。惡い神が澤山おります。今天から八咫烏《やたがらす》をよこしましよう。その八咫烏が導きするでしようから、その後よりおいでなさい」とお教え申しました。はたして、その御教えの通り八咫烏の後からおいでになりますと、吉野河の下流に到りました。時に河に筌《うえ》を入《い》れて魚を取る人があります。そこで天の神の御子が「お前は誰ですか」とお尋ねになると、「わたくしはこの土地にいる神で、ニヘモツノコであります」と申しました。これは阿陀の鵜飼の祖先です。それからおいでになると、尾のある人が井から出て來ました。その井は光つております。「お前は誰ですか」とお尋ねになりますと、「わたくしはこの土地にいる神、名はヰヒカと申します」と申しました。これは吉野の首等《おびとら》の祖先です。そこでその山におはいりになりますと、また尾のある人に遇いました。この人は巖を押し分けて出てきます。「お前は誰ですか」とお尋ねになりますと、「わたくしはこの土地にいる神で、イハオシワクであります。今天の神の御子がおいでになりますと聞きましたから、參り出て來ました」と申しました。これは吉野の國栖《くず》の祖先です。それから山坂を蹈み穿《うが》つて越えてウダにおいでになりました。依つて宇陀《うだ》のウガチと言います。

[#5字下げ]久米歌[#「久米歌」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――幾首かの久米歌に結びついている物語である。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 この時に宇陀《うだ》にエウカシ・オトウカシという二人《ふたり》があります。依つてまず八咫烏《やたがらす》を遣つて、「今天の神の御子がおいでになりました。お前方はお仕え申し上げるか」と問わしめました。しかるにエウカシは鏑矢《かぶらや》を以つてその使を射返しました。その鏑矢の落ちた處をカブラ埼《さき》と言います。「待つて撃とう」と言つて軍を集めましたが、集め得ませんでしたから、「お仕え申しましよう」と僞つて、大殿を作つてその殿の内に仕掛を作つて待ちました時に、オトウカシがまず出て來て、拜して、「わたくしの兄のエウカシは、天の神の御子のお使を射返し、待ち攻めようとして兵士を集めましたが集め得ませんので、御殿を作りその内に仕掛を作つて待ち取ろうとしております。それで出て參りましてこのことを申し上げます」と申しました。そこで大伴《おおとも》の連等《むらじら》の祖先《そせん》のミチノオミの命、久米《くめ》の直等《あたえら》の祖先のオホクメの命二人がエウカシを呼んで罵《ののし》つて言うには、「貴樣が作つてお仕え申し上げる御殿の内には、自分が先に入つてお仕え申そうとする樣をあきらかにせよ」と言つて、刀の柄《つか》を掴《つか》み矛《ほこ》をさしあて矢をつがえて追い入れる時に、自分の張つて置いた仕掛に打たれて死にました。そこで引き出して、斬り散らしました。その土地を宇陀《うだ》の血原《ちはら》と言います。そうしてそのオトウカシが獻上した御馳走を悉く軍隊に賜わりました。その時に歌をお詠みになりました。それは、

[#ここから3字下げ]
宇陀の高臺《たかだい》でシギの網《あみ》を張る。
わたしが待《ま》つているシギは懸からないで
思いも寄らないタカが懸かつた。
古妻《ふるづま》が食物を乞うたら
ソバノキの實のように少しばかりを削つてやれ。
新しい妻が食物を乞うたら
イチサカキの實のように澤山に削つてやれ。
[#ここから5字下げ]
ええやつつけるぞ。ああよい氣味《きみ》だ。
[#ここで字下げ終わり]

 そのオトウカシは宇陀の水取《もひとり》等の祖先です。
 次に、忍坂《おさか》の大室《おおむろ》においでになつた時に、尾のある穴居の人八十人の武士がその室にあつて威張《いば》つております。そこで天の神の御子の御命令でお料理を賜わり、八十人の武士に當てて八十人の料理人を用意して、その人毎に大刀を佩《は》かして、その料理人どもに「歌を聞いたならば一緒に立つて武士を斬れ」とお教えなさいました。その穴居の人を撃とうとすることを示した歌は、

[#ここから3字下げ]
忍坂《おさか》の大きな土室《つちむろ》に
大勢の人が入り込んだ。
よしや大勢の人がはいつていても
威勢のよい久米《くめ》の人々が
瘤大刀《こぶたち》の石大刀《いしたち》でもつて
やつつけてしまうぞ。
威勢のよい久米の人々が
瘤大刀の石大刀でもつて
そら今撃つがよいぞ。
[#ここで字下げ終わり]

 かように歌つて、刀を拔いて一時に打ち殺してしまいました。
 その後、ナガスネ彦をお撃ちになろうとした時に、お歌いになつた歌は、

[#ここから3字下げ]
威勢のよい久米の人々の
アワの畑《はたけ》には臭いニラが一|本《ぽん》生《は》えている。
その根《ね》のもとに、その芽《め》をくつつけて
やつつけてしまうぞ。
[#ここで字下げ終わり]

 また、

[#ここから3字下げ]
威勢のよい久米の人々の
垣本《かきもと》に植えたサンシヨウ、
口がひりひりして恨みを忘れかねる。
やつつけてしまうぞ。
[#ここで字下げ終わり]

 また、

[#ここから3字下げ]
神風《かみかぜ》の吹く伊勢の海の
大きな石に這い※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]《まわ》つている
細螺《しただみ》のように這い※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて
やつつけてしまうぞ。
[#ここで字下げ終わり]

 また、エシキ、オトシキをお撃ちになりました時に、御軍の兵士たちが、少し疲れました。そこでお歌い遊ばされたお歌、

[#ここから3字下げ]
楯《たて》を竝《なら》べて射《い》る、そのイナサの山の
樹《こ》の間《ま》から行き見守つて
戰爭《いくさ》をすると腹が減《へ》つた。
島《しま》にいる鵜《う》を養《か》う人々よ
すぐ助けに來てください。
[#ここで字下げ終わり]

 最後にトミのナガスネ彦をお撃《う》ちになりました。時にニギハヤビの命が天の神の御子のもとに參つて申し上げるには、「天の神の御子が天からお降りになつたと聞きましたから、後を追つて降つて參りました」と申し上げて、天から持つて來た寶物を捧げてお仕え申しました。このニギハヤビの命がナガスネ彦の妹トミヤ姫と結婚して生んだ子がウマシマヂの命で、これが物部《もののべ》の連・穗積の臣・采女《うねめ》の臣等の祖先です。そこでかようにして亂暴な神たちを平定し、服從しない人どもを追い撥《はら》つて、畝傍《うねび》の橿原《かしはら》の宮において天下をお治めになりました。

[#5字下げ]神の御子[#「神の御子」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――英雄や佳人などを、神が通つて生ませた子だとすることは、崇神天皇の卷にもあり、廣く信じられていたところである。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 はじめ日向《ひうが》の國においでになつた時に、阿多《あた》の小椅《おばし》の君の妹のアヒラ姫という方と結婚して、タギシミミの命・キスミミの命とお二方の御子がありました。しかし更に皇后となさるべき孃子《おとめ》をお求めになつた時に、オホクメの命の申しますには、「神の御子と傳える孃子があります。そのわけは三嶋《みしま》のミゾクヒの娘《むすめ》のセヤダタラ姫という方が非常に美しかつたので、三輪《みわ》のオホモノヌシの神がこれを見て、その孃子が厠《かわや》にいる時に、赤く塗つた矢になつてその河を流れて來ました。その孃子が驚いてその矢を持つて來て床の邊《ほとり》に置きましたところ、たちまちに美しい男になつて、その孃子と結婚して生んだ子がホトタタライススキ姫であります。後にこの方は名をヒメタタライスケヨリ姫と改めました。これはそのホトという事を嫌つて、後に改めたのです。そういう次第で、神の御子と申すのです」と申し上げました。
 ある時七人の孃子が大和のタカサジ野で遊んでいる時に、このイスケヨリ姫も混《まじ》つていました。そこでオホクメの命が、そのイスケヨリ姫を見て、歌で天皇に申し上げるには、

[#ここから3字下げ]
大和の國のタカサジ野《の》を
七人行く孃子《おとめ》たち、
その中の誰をお召しになります。
[#ここで字下げ終わり]

 このイスケヨリ姫は、その時に孃子たちの前《さき》に立つておりました。天皇はその孃子たちを御覽になつて、御心にイスケヨリ姫が一番|前《さき》に立つていることを知られて、お歌でお答えになりますには、

[#ここから3字下げ]
まあまあ一番先に立つている娘《こ》を妻にしましようよ。
[#ここで字下げ終わり]

 ここにオホクメの命が、天皇の仰せをそのイスケヨリ姫に傳えました時に、姫はオホクメの命の眼の裂目《さけめ》に黥《いれずみ》をしているのを見て不思議に思つて、

[#ここから3字下げ]
天地間《てんちかん》の千|人《にん》勝《まさ》りの勇士《ゆうし》だというに、どうして目《め》に黥《いれずみ》をしているのです。
[#ここで字下げ終わり]

と歌いましたから、オホクメの命が答えて歌うには、

[#ここから3字下げ]
お孃さんにすぐに逢おうと思つて目に黥《いれずみ》をしております。
[#ここで字下げ終わり]

と歌いました。かくてその孃子は「お仕え申しあげましよう」と申しました。
 そのイスケヨリ姫のお家はサヰ河のほとりにありました。この姫のもとにおいでになつて一夜お寢《やす》みになりました。その河をサヰ河というわけは、河のほとりに山百合《やまゆり》草が澤山ありましたから、その名を取つて名づけたのです。山百合草のもとの名はサヰと言つたのです。後にその姫が宮中に參上した時に、天皇のお詠みになつた歌は、

[#ここから3字下げ]
アシ原のアシの繁つた小屋に
スゲの蓆《むしろ》を清らかに敷いて、
二人《ふたり》で寢たことだつたね。
[#ここで字下げ終わり]

 かくしてお生まれになつた御子は、ヒコヤヰの命・カムヤヰミミの命・カムヌナカハミミの命のお三方です。

[#5字下げ]タギシミミの命の變[#「タギシミミの命の變」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――自分の家の祖先は、天皇の兄に當るのだが、なぜ臣下となつたかということを語る説話。前にも隼人の話はそれであり、後にも例が多い。カムヤヰミミの命の子孫というオホの臣が、古事記の撰者の太の安萬侶の家であることに注意。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 天皇がお隱れになつてから、その庶兄《ままあに》のタギシミミの命が、皇后のイスケヨリ姫と結婚した時に、三人の弟たちを殺《ころ》そうとして謀《はか》つたので、母君《ははぎみ》のイスケヨリ姫が御心配になつて、歌でこの事を御子たちにお知らせになりました。その歌は、

[#ここから3字下げ]
サヰ河の方から雲が立ち起つて、
畝傍《うねび》山の樹の葉が騷いでいる。
風が吹き出しますよ。

畝傍山は晝は雲が動き、
夕暮になれば風が吹き出そうとして
樹の葉が騷いでいる。
[#ここで字下げ終わり]

 そこで御子たちがお聞きになつて、驚いてタギシミミを殺そうとなさいました時に、カムヌナカハミミの命が、兄君のカムヤヰミミの命に、「あなたは武器を持つてはいつてタギシミミをお殺しなさいませ」と申しました。そこで武器を持つて殺そうとされた時に、手足が震えて殺すことができませんでした。そこで弟のカムヌナカハミミの命が兄君の持つておられる武器を乞い取つて、はいつてタギシミミを殺しました。そこでまた御名《みな》を讚《たた》えてタケヌナカハミミの命と申し上げます。
 かくてカムヤヰミミの命が弟のタケヌナカハミミの命に國を讓つて申されるには、「わたしは仇を殺すことができません。それをあなたが殺しておしまいになりました。ですからわたしは兄であつても、上にいることはできません。あなたが天皇になつて天下をお治め遊ばせ。わたしはあなたを助けて祭をする人としてお仕え申しましよう」と申しました。そこでそのヒコヤヰの命は、茨田《うまらた》の連《むらじ》・手島の連の祖先です。カムヤヰミミの命は、意富《おお》の臣《おみ》・小子部《ちいさこべ》の連・坂合部の連・火の君・大分《おおきた》の君・阿蘇《あそ》の君・筑紫の三家《みやけ》の連・雀部《さざきべ》の臣・雀部の造《みやつこ》・小長谷《おはつせ》の造・都祁《つげ》の直《あたえ》・伊余《いよ》の國の造・科野《しなの》の國の造・道の奧の石城《いわき》の國の造・常道《ひたち》の仲の國の造・長狹《ながさ》の國の造・伊勢の船木《ふなき》の直・尾張の丹羽《にわ》の臣・島田の臣等の祖先です。カムヌナカハミミの命は、天下をお治めになりました。すべてこのカムヤマトイハレ彦の天皇は、御歳《おとし》百三十七歳、御陵は畝傍山の北の方の白檮《かし》の尾《お》の上《え》にあります。

[#3字下げ]二、綏靖《すいせい》天皇以後八代[#「二、綏靖天皇以後八代」は中見出し]

[#5字下げ]綏靖天皇[#「綏靖天皇」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――以下八代は、帝紀の部分だけで、本辭を含んでいない。この項など、帝紀の典型的な例と見られる。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 カムヌナカハミミの命(綏靖天皇《すいせいてんのう》)、大和の國の葛城《かずらき》の高岡の宮においでになつて天下をお治め遊ばされました。この天皇、シキの縣主《あがたぬし》の祖先のカハマタ姫と結婚してお生みになつた御子はシキツ彦タマデミの命お一方です。天皇は御年四十五歳、御陵は衝田《つきだ》の岡にあります。

[#5字下げ]安寧《あんねい》天皇[#「安寧天皇」は小見出し]
 シキツ彦タマデミの命(安寧天皇)、大和の片鹽《かたしお》の浮穴《うきあな》の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇はカハマタ姫の兄の縣主《あがたぬし》ハエの女のアクト姫と結婚してお生みになつた御子は、トコネツ彦イロネの命・オホヤマト彦スキトモの命・シキツ彦の命のお三方です。この天皇の御子たち合わせてお三方の中、オホヤマト彦スキトモの命は、天下をお治めになりました。次にシキツ彦の命の御子がお二方あつて、お一方の子孫は、伊賀の須知の稻置《いなき》・那婆理《なはり》の稻置・三野の稻置の祖先です。お一方の御子ワチツミの命は淡路の御井《みい》の宮においでになり、姫宮がお二方おありになりました。その姉君《あねぎみ》はハヘイロネ、またの名はオホヤマトクニアレ姫の命、妹君はハヘイロドです。この天皇の御年四十九歳、御陵は畝傍山のミホトにあります。

[#5字下げ]懿徳《いとく》天皇[#「懿徳天皇」は小見出し]
 オホヤマト彦スキトモの命(懿徳天皇)、大和の輕《かる》の境岡《さかいおか》の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇はシキの縣主《あがたぬし》の祖先フトマワカ姫の命、またの名はイヒヒ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、ミマツ彦カヱシネの命とタギシ彦の命とお二方です。このミマツ彦カヱシネの命は天下をお治めなさいました。次にタギシ彦の命は、血沼《ちぬ》の別《わけ》・多遲麻《たじま》の竹の別・葦井《あしい》の稻置《いなき》の祖先です。天皇は御年四十五歳、御陵は畝傍山のマナゴ谷の上にあります。

[#5字下げ]孝昭天皇[#「孝昭天皇」は小見出し]
 ミマツ彦カヱシネの命(孝昭天皇)、大和の葛城の掖上《わきがみ》の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は尾張《おわり》の連の祖先のオキツヨソの妹ヨソタホ姫の命と結婚してお生みになつた御子はアメオシタラシ彦の命とオホヤマトタラシ彦クニオシビトの命とお二方です。このオホヤマトタラシ彦クニオシビトの命は天下をお治めなさいました。兄のアメオシタラシ彦の命は・[#「・」は底本のまま]春日の臣・大宅《おおやけ》の臣・粟田の臣・小野の臣・柿本の臣・壹比韋《いちひい》の臣・大坂の臣・阿那の臣・多紀《たき》の臣・羽栗の臣・知多の臣・牟耶《むざ》の臣・都怒《つの》山の臣・伊勢の飯高の君・壹師の君・近つ淡海の國の造の祖先です。天皇は御年九十三歳、御陵は掖上の博多《はかた》山の上にあります。

[#5字下げ]孝安天皇[#「孝安天皇」は小見出し]
 オホヤマトタラシ彦クニオシビトの命(孝安天皇)、大和の葛城の室の秋津島の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は姪《めい》のオシカ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、オホキビノモロススの命とオホヤマトネコ彦フトニの命とお二方です。このオホヤマトネコ彦フトニの命は天下をお治めなさいました。天皇は御年百二十三歳、御陵は玉手の岡の上にあります。

[#5字下げ]孝靈天皇[#「孝靈天皇」は小見出し]
 オホヤマトネコ彦フトニの命(孝靈天皇)、大和の黒田の廬戸《いおと》の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、トヲチの縣主の祖先のオホメの女のクハシ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、オホヤマトネコ彦クニクルの命お一方です。また春日《かすが》のチチハヤマワカ姫と結婚してお生みになつた御子は、チチハヤ姫の命お一方です。オホヤマトクニアレ姫の命と結婚してお生みになつた御子は、ヤマトトモモソ姫の命・ヒコサシカタワケの命・ヒコイサセリ彦の命、またの名はオホキビツ彦の命・ヤマトトビハヤワカヤ姫のお四方です。またそのアレ姫の命の妹ハヘイロドと結婚してお生みになつた御子は、ヒコサメマの命とワカヒコタケキビツ彦の命とお二方です。この天皇の御子《みこ》は合わせて八|人《にん》おいでになりました。男王五人、女王三人です。
 そこでオホヤマトネコ彦クニクルの命は天下をお治めなさいました。オホキビツ彦の命とワカタケキビツ彦の命とは、お二方で播磨《はりま》の氷《ひ》の河《かわ》の埼《さき》に忌瓮《いわいべ》を据《す》えて神《かみ》を祭《まつ》り、播磨からはいつて吉備《きび》の國を平定されました。このオホキビツ彦の命は、吉備の上の道の臣の祖先です。次にワカヒコタケキビツ彦の命は、吉備の下の道の臣・笠の臣の祖先です。次にヒコサメマの命は、播磨の牛鹿《うしか》の臣の祖先です。次にヒコサシカタワケの命は、高志《こし》の利波《となみ》の臣・豐國の國|前《さき》の臣・五百原の君・角鹿の濟《わたり》の直の祖先です。天皇は御年百六歳、御陵は片岡の馬坂《うまさか》の上にあります。

[#5字下げ]孝元天皇[#「孝元天皇」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――タケシウチの宿禰の諸子をあげているのは豪族の祖先だからである。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 オホヤマトネコ彦クニクルの命(孝元天皇)、大和の輕の堺原《さかいはら》の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は穗積《ほずみ》の臣等の祖先のウツシコヲの命の妹のウツシコメの命と結婚してお生みになつた御子は大彦《おおびこ》の命・スクナヒコタケヰココロの命・ワカヤマトネコ彦オホビビの命のお三方です。またウツシコヲの命の女のイカガシコメの命と結婚してお生みになつた御子はヒコフツオシノマコトの命お一方です。また河内のアヲタマの女のハニヤス姫と結婚してお生みになつた御子はタケハニヤス彦の命お一方です。この天皇の御子たち合わせてお五方《いつかた》おいでになります。このうちワカヤマトネコ彦オホビビの命は天下をお治めなさいました。その兄、大彦の命の子タケヌナカハワケの命は阿部の臣等の祖先です。次にヒコイナコジワケの命は膳《かしわで》の臣の祖先です。ヒコフツオシノマコトの命が、尾張《おわり》の連の祖先のオホナビの妹の葛城《かずらき》のタカチナ姫と結婚して生んだ子はウマシウチの宿禰《すくね》、これは山代《やましろ》の内の臣の祖先です。また木の國《くに》の造《みやつこ》の祖先のウヅ彦の妹のヤマシタカゲ姫と結婚して生んだ子はタケシウチの宿禰です。このタケシウチの宿禰の子は合わせて九|人《にん》あります。男七人女二人です。そのハタノヤシロの宿禰は波多の臣・林の臣・波美の臣・星川の臣・淡海の臣・長谷部の君の祖先です。コセノヲカラの宿禰は許勢の臣・雀部の臣・輕部の臣の祖先です。ソガノイシカハの宿禰は蘇我の臣・川邊の臣・田中の臣・高向《たかむく》の臣・小治田《おはりだ》の臣 櫻井の臣・岸田の臣等の祖先です。ヘグリノツクの宿禰《すくね》は、平群の臣・佐和良の臣・馬の御※[#「識」の「言」に代えて「木」、第4水準2-15-49]《みくい》の連等の祖先です。キノツノの宿禰《すくね》は、木の臣・都奴の臣・坂本の臣の祖先です。次にクメノマイト姫・ノノイロ姫です。葛城《かずらき》の長江《ながえ》のソツ彦は、玉手の臣・的《いくは》の臣・生江の臣・阿藝那《あきな》の臣等の祖先です。次に若子《わくご》の宿禰《すくね》は、江野の財の臣の祖先です。この天皇は御年五十七歳、御陵《ごりよう》は劒の池の中の岡の上にあります。

[#5字下げ]開化天皇[#「開化天皇」は小見出し]
 ワカヤマトネコ彦オホビビの命(開化天皇)、大和の春日のイザ河の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇は、丹波《たんば》の大縣主《おおあがたぬし》ユゴリの女のタカノ姫と結婚してお生みになつた御子はヒコユムスミの命お一方です。またイカガシコメの命と結婚してお生みになつた御子はミマキイリ彦イニヱの命とミマツ姫の命とのお二方です。また丸邇《わに》の臣の祖先のヒコクニオケツの命の妹のオケツ姫の命と結婚してお生みになつた御子はヒコイマスの王《みこ》お一方です。また葛城《かずらき》のタルミの宿禰の女のワシ姫と結婚してお生みになつた御子はタケトヨハツラワケの王お一方です。合わせて五人おいでになりました。このうちミマキイリ彦イニヱの命は天下をお治めなさいました。その兄ヒコユムスミの王の御子は、オホツツキタリネの王とサヌキタリネの王とお二方で、この二王の女は五人ありました。次にヒコイマスの王が山代《やましろ》のエナツ姫、またの名はカリハタトベと結婚して生んだ子はオホマタの王とヲマタの王とシブミの宿禰の王とお三方です。またこの王が春日のタケクニカツトメの女のサホのオホクラミトメと結婚して生んだ子がサホ彦の王・ヲザホの王・サホ姫の命・ムロビコの王のお四方です。サホ姫の命はまたの名はサハヂ姫で、この方はイクメ天皇の皇后樣におなりになりました。また近江の國の御上《みかみ》山の神職がお祭するアメノミカゲの神の女オキナガノミヅヨリ姫と結婚して生んだ子は丹波ノヒコタタスミチノウシの王・ミヅホノマワカの王・カムオホネの王、またの名はヤツリのイリビコの王・ミヅホノイホヨリ姫・ミヰツ姫の五人です。また母の妹オケツ姫と結婚して生んだ子は山代のオホツツキのマワカの王・ヒコオスの王・イリネの王の三人です。すべてヒコイマスの王の御子は合わせて十五人ありました。兄のオホマタの王の子はアケタツの王・ウナガミの王の二人です。このアケタツの王は、伊勢の品遲部《ほんじべ》・伊勢の佐那の造の祖先です。ウナガミの王は、比賣陀の君の祖先です。次にヲマタの王は當麻《たぎま》の勾《まがり》の君の祖先です。次にシブミの宿禰の王は佐佐の君の祖先です。次にサホ彦の王は日下部《くさかべ》の連・甲斐の國の造の祖先です。次にヲザホの王は葛野《かずの》の別・近つ淡海の蚊野《かや》の別の祖先です。次にムロビコの王は若狹の耳の別の祖先です。そのミチノウシの王が丹波の河上のマスの郎女《いらつめ》と結婚して生んだ子はヒバス姫の命・マトノ姫の命・オト姫の命・ミカドワケの王の四人です。このミカドワケの王は、三川の穗の別の祖先です。このミチノウシの王の弟ミヅホノマワカの王は近つ淡海の安の直の祖先です。次にカムオホネの王は三野の國の造・本巣《もとす》の國の造・長幡部《ながはたべ》の連の祖先です。その山代《やましろ》のオホツツキマワカの王は弟君イリネの王の女の丹波《たんば》のアヂサハ姫と結婚して生んだ御子は、カニメイカヅチの王です。この王が丹波《たんば》の遠津の臣の女のタカキ姫と結婚して生んだ御子はオキナガの宿禰の王です。この王が葛城のタカヌカ姫と結婚して生んだ御子がオキナガタラシ姫の命・ソラツ姫の命・オキナガ彦の王の三人です。このオキナガ彦の王は、吉備の品遲《ほむじ》の君・播磨の阿宗の君の祖先です。またオキナガの宿禰の王が、カハマタノイナヨリ姫と結婚して生んだ子がオホタムサカの王で、この方は但馬《たじま》の國の造の祖先です。上に出たタケトヨハヅラワケの王は、道守の臣・忍海部の造・御名部の造・稻羽の忍海部・丹波の竹野の別・依網《よさみ》の阿毘古等の祖先です。この天皇は御年六十三歳、御陵はイザ河の坂の上にあります。

[#3字下げ]三、崇神天皇[#「三、崇神天皇」は中見出し]

[#5字下げ]后妃と皇子女[#「后妃と皇子女」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――帝紀の前半と見られる部分である。――
[#ここで字詰め終わり]
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 イマキイリ彦イニヱの命(崇神天皇)、大和の師木《しき》の水垣の宮においでになつて天下をお治めなさいました。
 この天皇は、木の國の造のアラカハトベの女のトホツアユメマクハシ姫と結婚してお生みになつた御子はトヨキイリ彦の命とトヨスキイリ姫の命お二方です。また尾張の連の祖先のオホアマ姫と結婚してお生みになつた御子は、オホイリキの命・ヤサカノイリ彦の命・ヌナキノイリ姫の命・トホチノイリ姫の命のお四方です。また大彦《おおびこ》の命の女のミマツ姫の命と結婚してお生みになつた御子はイクメイリ彦イサチの命・イザノマワカの命・クニカタ姫の命・チヂツクヤマト姫の命・イガ姫の命・ヤマト彦の命のお六方です。この天皇の御子たちは合わせて十二王おいでになりました。男王七人女王五人です。そのうちイクメイリ彦イサチの命は天下をお治めなさいました。次にトヨキイリ彦の命は、上毛野《かみつけの》・下毛野の君等の祖先です。妹のトヨスキ姫の命は伊勢の大神宮をお祭りになりました。次にオホイリキの命は能登の臣の祖先です。次にヤマト彦の命は、この王の時に始めて陵墓に人の垣を立てました。

[#5字下げ]美和の大物主[#「美和の大物主」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――三輪山説話として神婚説話の典型的な一つで神《みわ》氏、鴨氏等の祖先の物語。――
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 この天皇の御世に、流行病が盛んに起つて、人民がほとんど盡きようとしました。ここに天皇は、御憂慮遊ばされて、神を祭つてお寢《やす》みになつた晩に、オホモノヌシの大神が御夢に顯れて仰せになるには、「かように病氣がはやるのはわたしの心である。これはオホタタネコをもつてわたしを祭らしめたならば、神のたたりが起らずに國も平和になるだろう」と仰せられました。そこで急使を四方に出してオホタタネコという人を求めた時に、河内の國のミノの村でその人を探し出して奉りました。そこで天皇は「お前は誰の子であるか」とお尋ねになりましたから、答えて言いますには「オホモノヌシの神がスヱツミミの命の女のイクタマヨリ姫と結婚して生んだ子はクシミカタの命です。その子がイヒカタスミの命、その子がタケミカヅチの命、その子がわたくしオホタタネコでございます」と申しました。そこで天皇が非常にお歡《よろこ》びになつて仰せられるには、「天下が平ぎ人民が榮えるであろう」と仰せられて、このオホタタネコを神主《かんぬし》としてミモロ山でオホモノヌシの神をお祭り申し上げました。イカガシコヲの命に命じて祭に使う皿を澤山作り、天地の神々の社をお定め申しました。また宇陀《うだ》の墨坂《すみさか》の神に赤い色の楯《たて》矛《ほこ》を獻り、大坂の神に墨の色の楯矛を獻り、また坂の上の神や河の瀬の神に至るまでに悉く殘るところなく幣帛《へいはく》を獻りました。これによつて疫病《えきびよう》が止んで國家が平安になりました。
 このオホタタネコを神の子と知つた次第は、上に述べたイクタマヨリ姫は美しいお方でありました。ところが形姿《かたち》威儀《いぎ》竝《なら》びなき一人の男が夜中にたちまち來ました。そこで互に愛《め》でて結婚して住んでいるうちに、何程もないのにその孃子《おとめ》が姙《はら》みました。そこで父母が姙娠《にんしん》したことを怪しんで、その女に、「お前は自然《しぜん》に姙娠《にんしん》した。夫が無いのにどうして姙娠したのか」と尋ねましたから、答えて言うには「名も知らないりつぱな男が夜毎に來て住むほどに、自然《しぜん》に姙《はら》みました」と言いました。そこでその父母が、その人を知りたいと思つて、その女に教えましたのは、「赤土を床のほとりに散らし麻絲を針に貫いてその着物《きもの》の裾に刺せ」と教えました。依つて教えた通りにして、朝になつて見れば、針をつけた麻は戸の鉤穴《かぎあな》から貫け通つて、殘つた麻はただ三輪だけでした。そこで鉤穴から出たことを知つて絲をたよりに尋ねて行きましたら、三輪山に行つて神の社に留まりました。そこで神の御子であるとは知つたのです。その麻の三輪殘つたのによつて其處を三輪と言うのです。このオホタタネコの命は、神《みわ》の君・鴨の君の祖先です。

[#5字下げ]將軍の派遣[#「將軍の派遣」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――いわゆる四道將軍の派遣の物語。但しヒコイマスの王を、日本書紀では、その子丹波のミチヌシの命とし、またキビツ彦を西の道に遣したとある。――
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 またこの御世に大彦の命をば越《こし》の道に遣し、その子のタケヌナカハワケの命を東方の諸國に遣して從わない人々を平定せしめ、またヒコイマスの王を丹波の國に遣してクガミミのミカサという人を討たしめました。その大彦の命が越の國においでになる時に、裳《も》を穿《は》いた女が山城《やましろ》のヘラ坂に立つて歌つて言うには、

[#ここから3字下げ]
御眞木入日子さまは、
御自分の命を人知れず殺そうと、
背後《うしろ》の入口から行き違《ちが》い
前の入口から行き違い
窺《のぞ》いているのも知らないで、
御眞木入日子さまは。
[#ここで字下げ終わり]

と歌いました。そこで大彦の命が怪しいことを言うと思つて、馬を返してその孃子に、「あなたの言うことはどういうことですか」と尋ねましたら、「わたくしは何も申しません。ただ歌を歌つただけです」と答えて、行く方も見せずに消えてしまいました。依つて大彦の命は更に還つて天皇に申し上げた時に、仰せられるには、「これは思うに、山城の國に赴任したタケハニヤスの王が惡い心を起したしるしでありましよう。伯父上、軍を興して行つていらつしやい」と仰せになつて、丸邇《わに》の臣の祖先のヒコクニブクの命を副えてお遣しになりました、その時に丸邇坂《わにさか》に清淨な瓶を据えてお祭をして行きました。
 さて山城のワカラ河に行きました時に、果してタケハニヤスの王が軍を興して待つており、互に河を挾んで對《むか》い立つて挑《いど》み合いました。それで其處の名をイドミというのです。今ではイヅミと言つております。ここにヒコクニブクの命が「まず、そちらから清め矢を放て」と言いますと、タケハニヤスの王が射ましたけれども、中《あ》てることができませんでした。しかるにヒコクニブクの命の放つた矢はタケハニヤスの王に射中《いあ》てて死にましたので、その軍が悉く破れて逃げ散りました。依つて逃げる軍を追い攻めて、クスバの渡しに行きました時に、皆攻め苦しめられたので屎《くそ》が出て褌《はかま》にかかりました。そこで其處の名をクソバカマというのですが、今はクスバと言つております。またその逃げる軍を待ち受けて斬りましたから、鵜《う》のように河に浮きました。依つてその河を鵜河《うがわ》といいます。またその兵士を斬り屠《ほお》りましたから、其處の名をハフリゾノといいます。かように平定し終つて、朝廷に參つて御返事申し上げました。
 かくて大彦の命は前の命令通りに越の國にまいりました。ここに東の方から遣わされたタケヌナカハワケの命は、その父の大彦の命と會津《あいず》で行き遇いましたから、其處を會津《あいず》というのです。ここにおいて、それぞれに遣わされた國の政を終えて御返事申し上げました。かくして天下が平かになり、人民は富み榮えました。ここにはじめて男の弓矢で得た獲物や女の手藝の品々を貢《たてまつ》らしめました。そこでその御世を讚《たた》えて初めての國をお治めになつたミマキの天皇と申し上げます。またこの御世に依網《よさみ》の池を作り、また輕《かる》の酒折《さかおり》の池を作りました。天皇は御年百六十八歳、戊寅《つちのえとら》の年の十二月にお隱れになりました。御陵は山の邊の道の勾《まがり》の岡の上にあります。

[#3字下げ]四、垂仁天皇[#「四、垂仁天皇」は中見出し]

[#5字下げ]后妃と皇子女[#「后妃と皇子女」は小見出し]
 イクメイリ彦イサチの命(垂仁天皇)、大和の師木《しき》の玉垣の宮においでになつて天下をお治めなさいました。この天皇、サホ彦の命の妹のサハヂ姫の命と結婚してお生《う》みになつた御子《みこ》はホムツワケの命お一方です。また丹波《たんば》のヒコタタスミチノウシの王の女のヒバス姫の命と結婚してお生みになつた御子はイニシキノイリ彦の命・オホタラシ彦オシロワケの命・オホナカツ彦の命・ヤマト姫の命・ワカキノイリ彦の命のお五方です。またそのヒバス姫の命の妹、ヌバタノイリ姫の命と結婚してお生みになつた御子はヌタラシワケの命・イガタラシ彦の命のお二方です。またそのヌバタノイリ姫の命の妹のアザミノイリ姫の命と結婚してお生みになつた御子はイコバヤワケの命・アザミツ姫の命のお二方です。またオホツツキタリネの王の女のカグヤ姫の命と結婚してお生みになつた御子はヲナベの王お一方です。また山代《やましろ》の大國《おおくに》のフチの女のカリバタトベと結婚してお生みになつた御子はオチワケの王・イカタラシ彦の王・イトシワケの王のお三方です。またその大國のフチの女のオトカリバタトベと結婚して、お生みになつた御子は、イハツクワケの王・イハツク姫の命またの名はフタヂノイリ姫の命のお二方です。すべてこの天皇の皇子たちは十六王おいでになりました。男王十三人、女王三人です。
 その中でオホタラシ彦オシロワケの命は、天下をお治めなさいました。御身《おみ》の長さ一丈二寸、御脛《おんはぎ》の長さ四尺一寸ございました。次にイニシキノイリ彦の命は、血沼《ちぬ》の池・狹山《さやま》の池を作り、また日下《くさか》の高津《たかつ》の池をお作りになりました。また鳥取《ととり》の河上《かわかみ》の宮においでになつて大刀一千|振《ふり》をお作りになつて、これを石上《いそのかみ》の神宮《じんぐう》にお納《おさ》めなさいました。そこでその宮においでになつて河上部をお定めになりました。次にオホナカツ彦の命は、山邊の別・三枝《さきくさ》の別・稻木の別・阿太の別・尾張の國の三野の別・吉備の石无《いわなし》の別・許呂母《ころも》の別・高巣鹿《たかすか》の別・飛鳥の君・牟禮の別等の祖先です。次にヤマト姫の命は伊勢の大神宮をお祭りなさいました。次にイコバヤワケの王は、沙本の穴本部《あなほべ》の別の祖先です。次にアザミツ姫の命は、イナセ彦の王に嫁ぎました。次にオチワケの王は、小目《おめ》の山の君・三川の衣の君の祖先です。次にイカタラシ彦の王は、春日の山の君・高志《こし》の池の君・春日部の君の祖先です。次にイトシワケの王は、子がありませんでしたので、子の代りとして伊登志部を定めました。次にイハツクワケの王は羽咋《はくい》の君・三尾の君の祖先です。次にフタヂノイリ姫の命はヤマトタケルの命の妃《きさき》になりました。

[#5字下げ]サホ彦の叛亂[#「サホ彦の叛亂」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――サホ彦は天皇を弑殺しようとした叛逆者であるが、その子孫は、日下部の連、甲斐の國の造等として榮えている。要するに一の物語であつて、それが天皇の記に結びついたものと見るべきである。後に出る大山守の命の物語も同樣である。――
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 この天皇、サホ姫を皇后になさいました時に、サホ姫の命の兄のサホ彦の王が妹に向つて「夫と兄とはどちらが大事であるか」と問いましたから、「兄が大事です」とお答えになりました。そこでサホ彦の王が謀をたくらんで、「あなたがほんとうにわたしを大事にお思いになるなら、あなたとわたしとで天下を治めよう」と言つて、色濃く染めた紐のついている小刀を作つて、その妹に授けて、「この刀で天皇の眠つておいでになるところをお刺し申せ」と言いました。しかるに天皇はその謀をお知り遊ばされず、皇后の膝を枕としてお寢《やす》みになりました。そこでその皇后は紐のついた小刀をもつて天皇のお頸《くび》をお刺ししようとして、三度振りましたけれども、哀《かな》しい情に堪えないでお頸をお刺し申さないで、お泣きになる涙が天皇のお顏の上に落ち流れました。そこで天皇が驚いてお起ちになつて、皇后にお尋ねになるには、「わたしは不思議な夢を見た。サホの方から俄雨が降つて來て、急に顏を沾《ぬ》らした。また錦色《にしきいろ》の小蛇がわたしの頸《くび》に纏《まと》いついた。こういう夢は何のあらわれだろうか」とお尋ねになりました。そこでその皇后が隱しきれないと思つて天皇に申し上げるには、「わたくしの兄のサホ彦の王がわたくしに、夫と兄とはどちらが大事かと尋ねました。目の前で尋ねましたので、仕方《しかた》がなくて、兄が大事ですと答えましたところ、わたくしに註文して、自分とお前とで天下を治めるから、天皇をお殺し申せと言つて、色濃く染めた紐をつけた小刀を作つてわたくしに渡しました。そこでお頸をお刺し申そうとして三度振りましたけれども、哀《かな》しみの情がたちまちに起つてお刺し申すことができないで、泣きました涙がお顏を沾《ぬ》らしました。きつとこのあらわれでございましよう」と申しました。
 そこで天皇は「わたしはあぶなく欺《あざむ》かれるところだつた」と仰せになつて、軍を起してサホ彦の王をお撃ちになる時、その王が稻の城を作つて待つて戰いました。この時、サホ姫の命は堪え得ないで、後の門から逃げてその城におはいりになりました。
 この時にその皇后は姙娠《にんしん》しておいでになり、またお愛し遊ばされていることがもう三年も經つていたので、軍を返して、俄にお攻めになりませんでした。かように延びている間に御子がお生まれになりました。そこでその御子を出して城の外において、天皇に申し上げますには、「もしこの御子をば天皇の御子と思しめすならばお育て遊ばせ」と申さしめました。ここで天皇は「兄には恨みがあるが、皇后に對する愛は變らない」と仰せられて、皇后を得られようとする御心がありました。そこで軍隊の中から敏捷な人を選り集めて仰せになるには、「その御子を取る時にその母君をも奪い取れ。御髮でも御手でも掴まえ次第に掴んで引き出し申せ」と仰せられました。しかるに皇后はあらかじめ天皇の御心の程をお知りになつて、悉く髮をお剃りになり、その髮でお頭を覆《おお》い、また玉の緒を腐らせて御手に三重お纏きになり、また酒でお召物を腐らせて、完全なお召物のようにして著ておいでになりました。かように準備をして御子をお抱きになつて城の外にお出になりました。そこで力士たちがその御子をお取り申し上げて、その母君をもお取り申そうとして、御髮を取れば御髮がぬけ落ち、御手を握れば玉の緒が絶え、お召物を握ればお召物が破れました。こういう次第で御子を取ることはできましたが、母君を取ることができませんでした。その兵士たちが還つて來て申しましたには、「御髮が自然に落ち、お召物は破れ易く、御手に纏いておいでになる玉の緒も切れましたので、母君をばお取り申しません。御子は取つて參りました」と申しました。そこで天皇は非常に殘念がつて、玉を作つた人たちをお憎しみになつて、その領地を皆お奪《と》りになりました。それで諺《ことわざ》に、「處《ところ》を得ない玉作《たまつくり》だ」というのです。
 また天皇がその皇后に仰せられるには、「すべて子《こ》の名は母が附けるものであるが、この御子の名前を何としたらよかろうか」と仰せられました。そこでお答え申し上げるには、「今稻の城を燒く時に炎の中でお生まれになりましたから、その御子のお名前はホムチワケの御子とお附け申しましよう」と申しました。また「どのようにしてお育て申そうか」と仰せられましたところ、「乳母を定め御養育掛りをきめて御養育申し上げましよう」と申しました。依つてその皇后の申されたようにお育て申しました。またその皇后に「あなたの結び堅めた衣の紐は誰が解くべきであるか」とお尋ねになりましたから、「丹波のヒコタタスミチノウシの王の女の兄姫《えひめ》・弟姫《おとひめ》という二人の女王は、淨らかな民でありますからお使い遊ばしませ」と申しました。かくて遂にそのサホ彦の王を討たれた時に、皇后も共にお隱れになりました。

[#5字下げ]ホムチワケの御子[#「ホムチワケの御子」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――種々の要素の結合している物語であるが、出雲の神のたたりが中心となつている。ヒナガ姫の部分は、特に結びつけたものの感が深い。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 かくてその御子をお連れ申し上げて遊ぶ有樣は、尾張の相津にあつた二俣《ふたまた》の杉をもつて二俣の小舟を作つて、持ち上つて來て、大和の市師《いちし》の池、輕《かる》の池に浮べて遊びました。この御子は、長い鬢が胸の前に至るまでも物をしかと仰せられません。ただ大空を鶴が鳴き渡つたのをお聞きになつて始めて「あぎ」と言われました。そこで山邊《やまべ》のオホタカという人を遣つて、その鳥を取らせました。ここにその人が鳥を追い尋ねて紀の國から播磨の國に至り、追つて因幡《いなば》の國に越えて行き、丹波の國・但馬の國に行き、東の方に追い※[#「廴+囘」、第4水準2-12-11]つて近江の國に至り、美濃の國に越え、尾張の國から傳わつて信濃の國に追い、遂に越《こし》の國に行つて、ワナミの水門《みなと》で罠《わな》を張つてその鳥を取つて持つて來て獻りました。そこでその水門《みなと》をワナミの水門とはいうのです。さてその鳥を御覽になつて、物を言おうとお思いになるが、思い通りに言われることはありませんでした。
 そこで天皇が御心配遊ばされてお寢《やす》みになつている時に、御夢に神のおさとしをお得になりました。それは「わたしの御殿を天皇の宮殿のように造つたなら、御子がきつと物を言うだろう」と、かように夢に御覽になつて、そこで太卜《ふとまに》の法で占いをして、これはどの神の御心であろうかと求めたところ、その祟《たたり》は出雲の大神の御心でした。依つてその御子をしてその大神の宮を拜ましめにお遣りになろうとする時に、誰を副えたらよかろうかと占いましたら、アケタツの王が占いに合いました。依つてアケタツの王に仰せて誓言を申さしめなさいました。「この大神を拜むことによつて誠にその驗があるならば、この鷺の巣の池の樹に住んでいる鷺が我が誓によつて落ちよ」かように仰せられた時にその鷺が池に落ちて死にました。また「活きよ」と誓をお立てになりましたら活きました。またアマカシの埼《さき》の廣葉のりつぱなカシの木を誓を立てて枯らしたり活かしたりしました。それでアケタツの王に、「大和は師木《しき》、登美《とみ》の豐朝倉《とよあさくら》のアケタツの王」という名前を下さいました。かようにしてアケタツの王とウナガミの王とお二方をその御子に副えてお遣しになる時に、奈良の道から行つたならば、跛《ちんば》だの盲《めくら》だのに遇うだろう。二上《ふたかみ》山の大阪の道から行つても跛や盲に遇うだろう。ただ紀伊《きい》の道こそは幸先《さいさき》のよい道であると占《うらな》つて出ておいでになつた時に、到る處毎に品遲部《ほむじべ》の人民をお定めになりました。
 かくて出雲の國においでになつて、出雲の大神を拜み終つて還り上つておいでになる時に、肥《ひ》の河の中に黒木の橋を作り、假の御殿を造つてお迎えしました。ここに出雲の臣の祖先のキヒサツミという者が、青葉の作り物を飾り立ててその河下にも立てて御食物を獻ろうとした時に、その御子が仰せられるには、「この河の下に青葉が山の姿をしているのは、山かと見れば山ではないようだ。これは出雲の石※[#「石+炯のつくり」、282-5]《いわくま》の曾《そ》の宮にお鎭まりになつているアシハラシコヲの大神をお祭り申し上げる神主の祭壇であるか」と仰せられました。そこでお伴に遣された王たちが聞いて歡び、見て喜んで、御子を檳榔《あじまさ》の長穗《ながほ》の宮に御案内して、急使を奉つて天皇に奏上致しました。
 そこでその御子が一夜ヒナガ姫と結婚なさいました。その時に孃子を伺《のぞ》いて御覽になると大蛇でした。そこで見て畏れて遁げました。ここにそのヒナガ姫は心憂く思つて、海上を光らして船に乘つて追つて來るのでいよいよ畏れられて、山の峠《とうげ》から御船を引き越させて逃げて上つておいでになりました。そこで御返事申し上げることには、「出雲の大神を拜みましたによつて、大御子が物を仰せになりますから上京して參りました」と申し上げました。そこで天皇がお歡びになつて、ウナガミの王を返して神宮を造らしめました。そこで天皇は、その御子のために鳥取部・鳥甘《とりかい》・品遲部《ほむじべ》・大湯坐《おおゆえ》・若湯坐をお定めになりました。

[#5字下げ]丹波の四女王[#「丹波の四女王」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――丹波地方に傳わつた説話が取りあげられたものであろう。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 天皇はまたその皇后サホ姫の申し上げたままに、ミチノウシの王の娘たちのヒバス姫の命・弟《おと》姫の命・ウタコリ姫の命・マトノ姫の命の四人をお召しになりました。しかるにヒバス姫の命・弟姫の命のお二方《ふたかた》はお留めになりましたが、妹のお二方は醜かつたので、故郷に返し送られました。そこでマトノ姫が耻《は》じて、「同じ姉妹の中で顏が醜いによつて返されることは、近所に聞えても耻《は》ずかしい」と言つて、山城の國の相樂《さがらか》に行きました時に木の枝に懸かつて死のうとなさいました。そこで其處の名を懸木《さがりき》と言いましたのを今は相樂《さがらか》と言うのです。また弟國《おとくに》に行きました時に遂に峻《けわ》しい淵に墮ちて死にました。そこでその地の名を墮國《おちくに》と言いましたが、今では弟國《おとくに》と言うのです。

[#5字下げ]時じくの香《かぐ》の木の實[#「時じくの香の木の實」は小見出し]
[#ここから6字下げ]
[#ここから37字詰め]
――タヂマモリの子孫の家に傳えられた説話。――
[#ここで字詰め終わり]
[#ここで字下げ終わり]
 また天皇、三宅の連等の祖先のタヂマモリを常世《とこよ》の國に遣して、時じくの香《かぐ》の木の實を求めさせなさいました。依つてタヂマモリが遂にその國に到つてその木を採つて、蔓《つる》の形になつているもの八本、矛《ほこ》の形になつているもの八本を持つて參りましたところ、天皇はすでにお隱れになつておりました。そこでタヂマモリは蔓《つる》四本|矛《ほこ》四本を分けて皇后樣に獻り、蔓四本矛四本を天皇の御陵のほとりに獻つて、それを捧げて叫び泣いて、「常世の國の時じくの香《かぐ》の木の實を持つて參上致しました」と申して、遂に叫び死にました。その時じくの香の木の實というのは、今のタチバナのことです。この天皇は御年百五十三歳、御陵は菅原の御立野《みたちの》の中にあります。
 またその皇后ヒバス姫の命の時に、石棺作りをお定めになり、また土師部《はにしべ》をお定めになりました。この皇后は狹木《さき》の寺間《てらま》の陵にお葬り申しあげました。
(つづく)



底本:「古事記」角川文庫、角川書店
   1956(昭和31)年5月20日初版発行
   1965(昭和40)年9月20日20版発行
底本の親本:「眞福寺本」
※頁数を引用している箇所には標題を注記しました。
※底本は新かなづかいです。なお拗音・促音は小書きではありません。
※表題は底本では、「[#割り注]現代語譯[#割り注終わり] 古事記」となっています。
入力:川山隆
校正:しだひろし
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*地名


葦原の中心の国 あしはらの
葦原の中つ国 あしはらのなかつくに (「中つ国」は、天上の高天原と地下の黄泉の国との中間にある、地上の世界の意)「葦原の国」に同じ。
葦原の国 あしはらのくに 記紀神話などに見える、日本国の称。

[日向] ひゅうが (古くはヒムカ)旧国名。今の宮崎県。

[大和・倭] やまと (「山処」の意か) 旧国名。今の奈良県の管轄。もと、天理市付近の地名から起こる。初め「倭」と書いたが、元明天皇のとき国名に2字を用いることが定められ、「倭」に通じる「和」に「大」の字を冠して大和とし、また「大倭」とも書いた。和州。
登美 とみ 登美・鳥見・迹見。鳥見山に同じ。
鳥見山 とみやま 奈良県桜井市にある丘陵。高さ245メートル。神武天皇関係の伝承がある。とみのやま。

速吸の門 はやすいのと 速吸瀬戸。 → 豊予海峡
豊予海峡 ほうよ かいきょう 愛媛県佐田岬半島と大分県佐賀関半島とによって挟まれた海峡。瀬戸内海の一門口で、豊後水道の北口に当たる。速吸瀬戸。

[筑紫] つくし 九州の古称。また、筑前・筑後を指す。
高千穂の宮 たかちほのみや 彦火火出見尊から神武天皇に至る3代の皇居。宮崎県西臼杵郡高千穂町・同県西諸県郡の東霧島山などの諸説がある。

[豊後] ぶんご 旧国名。今の大分県の大部分を占める。
宇沙 うさ 宇佐。(もと菟狭・宇沙とも書いた)大分県北部の市。周防灘に面する。中心地区宇佐は、宇佐神宮の鳥居前町。人口6万1千。
足一騰の宮 あしひとつあがりのみや 現、大分県宇佐市南宇佐などに比定される。(日本史)

[筑前] ちくぜん 旧国名。今の福岡県の北西部。
岡田の宮 おかだのみや 現、福岡県芦屋町芦屋付近か。(日本史)

[安芸] あき 旧国名。今の広島県の西部。芸州。
多祁理の宮 たけりのみや 紀は埃宮。現、広島県安芸郡府中町宮の町多家神社の誰曽の森に比定。

[備後] びんご 旧国名。吉備国を大化改新後に前・中・後に分けた一つ。広島県の東部。
高島の宮 たかしまのみや 現、岡山県笠岡市高島に比定する説と、同市の神島(こうのしま)に比定する説がある。

難波の湾 なにわのわん
難波・浪速・浪花 なにわ (一説に「魚庭」の意という)大阪市およびその付近の古称。

[河内] かわち (古くカフチとも)旧国名。五畿の一つ。今の大阪府の東部。河州。
白肩の津 草香津か。七世紀後半から八世紀にかけて、生駒山地西麓の布市・日下一帯は草香江(日下江)とよばれる入江であったと考えられる。現、東大阪市か。
楯津 たてづ
日下の蓼津 くさかの たでつ
美努の村 みののむら のちの和泉国の茅野(ちの)。(p.90 下)

[和泉] いずみ (「和泉」は713年(和銅6)の詔により2字にしたもので、「和」は読まない)旧国名。五畿の一つ。今の大阪府の南部。泉州。
血沼の海 ちぬのうみ → 茅渟海
茅渟海 ちぬのうみ 和泉国と淡路国との間の海の古称。現在の大阪湾南部に当たる。和泉灘。

[紀伊] きい (キ(木)の長音的な発音に「紀伊」と当てたもの)旧国名。大部分は今の和歌山県、一部は三重県に属する。紀州。紀国。
男の水門 おの みなと → 雄水門
雄水門 おのみなと 大阪湾に面した、上古の着船地かという。(神武東征伝説で、皇兄五瀬命が矢きずを負い雄たけびしたということから)
竃山 かまやま 和歌山県和歌山市和田の竈山神社か。(日本史)

熊野 くまの (1) 和歌山県西牟婁郡から三重県北牟婁郡にかけての地の総称。森林資源に富み、また熊野三山・那智滝など名勝が多い。(2) 三重県南西部、熊野灘に臨む市。紀伊国東部の中心都市。林業の中心として発達。人口2万1千。(3) 島根県松江市の地名。熊野神社の所在地。(4) 広島県安芸郡の地名。筆の産地として著名。

[大和] やまと 大和・倭。(「山処(やまと)」の意か)旧国名。今の奈良県の管轄。もと、天理市付近の地名から起こる。
石上神宮 いそのかみ じんぐう 奈良県天理市布留町にある元官幣大社。祭神は布都御魂大神。二十二社の一つ。布留社。所蔵の七支刀が著名。
吉野川 よしのがわ (1) 「紀ノ川」参照。(2) 四国の川。高知・愛媛両県境の石鎚山脈中に発源、高知県北部を東流、北転して徳島県に入ってその北部を東流、徳島市街の北で紀伊水道に注ぐ。上流に大歩危・小歩危の峡谷がある。長さ194キロメートル。四国三郎。(3) 徳島県北部の市。(2) の南岸に位置する。ニンニク・スダチの栽培が盛ん。人口4万6千。
紀ノ川 きのかわ (1) 奈良・三重県境の大台ヶ原山に発源、奈良県の中央部、和歌山県の北部を西流、紀伊水道に注ぐ川。奈良県内の部分を吉野川という。上流地域は吉野杉の林業地として知られる。長さ136キロメートル。(2) (「紀の川」と書く)和歌山県北端の市。(1) の流域にあり、北は和泉山脈を境に大阪府に接する。果樹栽培が盛ん。人口6万8千。

阿陀 あだ 現、奈良県五條市東阿田町。吉野川北岸に所在。
吉野 よしの 奈良県南部の地名。吉野川流域の総称。大和国の一郡で、平安初期から修験道の根拠地。古来、桜の名所で南朝の史跡が多い。
宇陀 うだ 奈良県北東部の市。大和政権時代、菟田県・猛田県があった。人口3万7千。
宇陀の穿 うだの うがち 邑名。奈良県宇陀郡内か。
カブラ埼 -さき 訶夫羅前。甘羅村(かむらむら)。現、奈良県宇陀郡大字春日の神楽岡付近か。
宇陀の血原 うだの ちはら
忍坂の大室 おさかの おおむろ
忍坂 おさか 奈良県桜井市の古地名。道臣命が神武天皇の命により賊を誘殺したという伝説の地。おしさか。

伊勢の海 いせのうみ
伊那佐の山 いなさのやま 奈良県東部、宇陀市榛原区南部の山。標高638メートル。
畝傍 うねび 奈良盆地南部の古地名。今、奈良県橿原市畝傍町。
橿原宮 かしはらのみや 畝傍橿原宮に同じ。
畝傍橿原宮 うねびの かしはらのみや 記紀に神武天皇の皇居と伝える宮。畝傍山の南東。橿原神宮はその宮址を推定して建設された。橿原宮。
三輪 みわ
高佐士野 たかさじの 大和(p.80 上)
狭井河 さいがわ/さいかわ 佐韋川とも書く。三輪山麓、狭井神社付近の地名か。
畝傍山 うねびやま 橿原市の南西部にある小山。標高199メートル。耳成山・香具山と共に大和三山と称する。畝傍をめぐって耳成・香具の2山が争う山争い伝説は万葉集に歌われる。畝火山。雲飛山。(歌枕)
畝傍山の美富登 うねびやまの みほと ほとにあたる場所。(p.84 上)畝傍山西南御陰井上陵。現、橿原市吉田町。安寧天皇陵に擬せられている。
白梼の尾の上 かしの おのえ 白梼原(かしばら)?(p.79 上)畝傍山東北陵か。現、奈良県橿原市大久保町。集落の西、畝傍山の東北麓にあり神武天皇陵に擬せられている。
真名子谷 まなごだに/まなこだに(p.84 下)

葛城 かずらき/かつらぎ (古くはカヅラキ) 奈良県御所市・葛城市ほか奈良盆地南西部一帯の古地名。
高岡の宮 たかおかのみや → 葛城高丘宮
葛城高丘宮 かずらきの たかおかのみや 綏靖天皇の皇居。奈良県御所市森脇の辺という。
衝田の岡 つきだのおか 奈良県橿原市四条町字田ノ坪に所在する綏靖天皇の陵墓。延喜式では桃花鳥田丘上陵(塚山古墳ともいう。)とする。墳形は円墳で径16m。
片塩の浮穴の宮 かたしおのうきあなのみや 片塩浮孔宮。奈良県橿原市四条町付近、大和高田市三倉堂・片塩町、大阪府柏原市内の三説がある。
軽の境岡の宮 かるの さかいおかのみや 現、橿原市大軽町か。大軽村は見瀬村の東、石川村の南に立地。
葛城の掖上の宮 かつらぎの わきがみ/わきのかみのみや 孝昭天皇の宮。『紀』は掖上池心宮。推古朝に築造された掖上池の近くで、現、奈良県御所市池之内付近に比定。(日本史)
掖上の博多山 わきがみの はかたやま 掖上博多山上陵。現、御所市大字三室小字博多山。三室集落北端に位置。
葛城の室の秋津島の宮 かつらぎの むろの あきづしまのみや(p.85 上) 孝安天皇の宮。現、奈良県御所市室付近に比定。(日本史)
黒田の廬戸の宮 くろだの いおと/いおどのみや 孝霊天皇の宮。現、奈良県田原本町黒田付近に比定される。(日本史)
軽の堺原の宮 かるの さかいはらのみや 軽境原宮。孝元天皇の宮。現、奈良県橿原市大軽町付近に比定される。(日本史)
春日の伊耶河の宮 かすがの いざかわのみや 伊邪河宮。開化天皇の宮。現、奈良市本子守町の率川神社付近か。(日本史)
率川・伊邪河 いさかわ 奈良市春日山に発源し、佐保川に入る小川。率川神社の祭礼は有名。(歌枕)
師木の水垣の宮 しきの みずがきのみや → 磯城瑞籬宮
磯城瑞籬宮 しきの みずかきのみや 崇神天皇の皇居。伝承地は奈良県桜井市金屋。
師木の玉垣の宮 しきの たまがきのみや(p.94 下)
片岡の馬坂 かたおかの うまさか 陵名。現、奈良県北葛城郡王寺町本町三丁目。孝霊天皇陵に擬する。
玉手の岡 たまでのおか(p.85 上) 玉手丘上陵。現、御所市大字玉手小字宮山。玉手山西北隅にある。孝安天皇陵に比定。
剣の池の中の岡 つるぎのいけの なかのおか(p.87 下)
剣池 つるぎのいけ 大和国高市郡にあった古代の池。記によれば孝元天皇陵はこの池の中の岡の上にあって剣池島上陵とよばれ、橿原市石川町に比定。(日本史)
三輪山 みわやま 奈良県桜井市にある山。標高467メートル。古事記崇神天皇の条に、活玉依姫と蛇神美和の神とによる地名説明伝説が見える。三諸山。(歌枕)
三輪山説話 みわやま せつわ 神婚説話のうち、神仙を男性とするものの代表的形式の一つ。命名は、夜ごとに女を尋ね来る男の素姓を確かめるため、衣服につけた糸をたどって大和の三輪山に着いたという古事記の話による。
丸迩 わに 和邇・和珥・丸とも。奈良県天理市和迩町付近の古代以来の地名。(日本史)
丸迩坂 わにさか 和邇村の内か。

丹波 たにわ(p.87 下)

[淡路] あわじ 旧国名。今の兵庫県淡路島。淡州。
御井の宮 みいのみや 淡路瑞井宮か。反正天皇が誕生したと伝える場所。現、兵庫県三原郡西淡町。

[播磨] はりま 旧国名。今の兵庫県の南西部。播州。
氷の河の埼 ひのかわの さき 氷野河か。氷野村は現、大東市氷野。

[吉備] きび 山陽地方の古代国名。大化改新後、備前・備中・備後・美作に分かつ。

[伊勢]
伊勢の大神宮 → 伊勢神宮
伊勢神宮 いせ じんぐう 三重県伊勢市にある皇室の宗廟。正称、神宮。皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)との総称。皇大神宮の祭神は天照大神、御霊代は八咫鏡。豊受大神宮の祭神は豊受大神。20年ごとに社殿を造りかえる式年遷宮の制を遺し、正殿の様式は唯一神明造と称。三社の一つ。二十二社の一つ。伊勢大廟。大神宮。

[越の国] こしのくに 北陸道の古称。高志国。こしのみち。越。越路。

[山城] やましろ
幣羅坂 へらさか 現、京都府相楽郡木津町大字市坂小字幣羅坂。紀は平坂。
和訶羅河 わからがわ 木津川。淀川の支流。川名は流域によって伊賀川・笠置川・鴨川ともよばれる。古文献には輪韓(わから)川・山背(やましろ)川・泉河などと記されてきた。
伊杼美 いどみ 現、泉。(図 p.39)
伊豆美 いづみ/いずみ。(p.93 下)
久須婆の渡し くすばのわたし のちの葛葉。(p.94 上)楠葉村。現、大阪府枚方市北楠葉町。河内国の北端、淀川左岸沿いの沖積低地に位置し、京街道が西部を縦断する。交野郡に位置する。
クソバカマ 屎褌→久須婆→現、楠某(くすば)。(図 p.39)
鵜河 うがわ 現、木津川。
木津川 きづがわ (1) 淀川の支流。鈴鹿山脈南の布引山地に発源し、伊賀盆地を流れて名張川と合流したのち京都盆地の南部に入り、八幡市で淀川に入る。長さ89キロメートル。(2) 淀川下流の分流の一つ。大阪市西区で淀川分流の土佐堀川から分かれ、南西流して大阪湾に注ぐ。(3) 京都府南部、(1) の中流域を占める市。南部は奈良県に接する。恭仁京・海住山寺などの所在地。人口6万4千。
ホウリゾノ 波布理曽能(はふりその)。(p.94 上)現、祝園(ほらぞの)(図 p.39)

相楽 さがらか 現、京都府相楽郡。南山城の南部に位置する。相楽郷は現、木津町に比定。
弟国宮 おとくにのみや 継体天皇が越前から大和に入るまでの仮の皇居の一つ。所在は山城国乙訓郡。一説に今の京都府長岡京市今里の辺。
菅原の御立野 すがわらの みたちの
狭木の寺間の陵 さきのてらまのはか 現、奈良県山陵町。佐保丘陵の西南端近い位置に営まれた、ほぼ南面する前方後円墳。ヒバス姫命(垂仁天皇皇后)の陵とされている。

会津 あいず/あいづ 福島県西部、会津盆地を中心とする地方名。その東部に会津若松市がある。

依網の池 よさみのいけ
依網 よさみ 摂津国住吉郡と河内国丹比郡の境界付近の古代地名。依網池は現、大阪市住吉区苅田・我孫子町から堺市常磐町にかけて復元。(日本史)
軽の酒折の池 かるの さかおりのいけ 軽の池か。
山辺の道 やまのべのみち 奈良市から奈良盆地の東縁を初瀬街道まで南北に通ずる約35キロメートルの古道。
勾の岡 まがりのおか
市師の池 いちしのいけ
軽の池 かるのいけ 現、奈良県橿原市軽池。軽の地域に所在した池。具体的な所在は不明。(日本史)

血沼の池 ちぬのいけ 茅渟池か。茅渟宮が現在の泉佐野市上之郷中村にあったなどとするが確証はない。
狭山の池 さやまのいけ 大阪狭山市にある灌漑用溜池。古事記・日本書紀に記されており、日本最古の溜池の一つ。
日下の高津の池 くさかの たかつのいけ
鳥取の河上の宮 ととりの かわかみのみや

羽咋 はくい 石川県中部、能登半島西側基部にある市。邑知潟干拓地と砂丘上に位置し、能登の中心都市。繊維工業が盛ん。千里浜海水浴場がある。人口2万5千。

尾張の相津

[紀の国] きのくに (「木の国」の意)紀伊国に同じ。
[紀伊] きい (キ(木)の長音的な発音に「紀伊」と当てたもの)旧国名。大部分は今の和歌山県、一部は三重県に属する。紀州。紀国。
[因幡] いなば 旧国名。今の鳥取県の東部。因州。
[丹波] たんば (古くはタニハ)旧国名。大部分は今の京都府、一部は兵庫県に属する。
[但馬] たじま 旧国名。今の兵庫県の北部。但州。
[近江] おうみ 近江・淡海。(アハウミの転。淡水湖の意で琵琶湖を指す)旧国名。今の滋賀県。江州。
[美濃] みの 旧国名。今の岐阜県の南部。濃州。
[尾張] おわり 旧国名。今の愛知県の西部。尾州。張州。
[信濃] しなの 旧国名。いまの長野県。科野。信州。

和那美の水門 わなみの みなと
甜白檮の埼 あまがしの さき 甘樫丘か。
甘樫丘・甘檮岡・味橿丘 あまかしのおか 奈良県高市郡明日香村豊浦にある丘。允恭天皇が姓氏の混乱を正すため探湯を行なったとされ、また付近に蘇我蝦夷・入鹿父子の邸があったという地。うまかしのおか。
二上山 ふたかみやま 奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町にまたがる山。雄岳と雌岳の2峰から成る。万葉集にも歌われ、大津皇子墓と伝えるものや葛城二上神社がある。にじょうさん。
大阪の道 おおさかのみち 大坂道。古市郡誉田村(現、羽曳野市)で東高野街道から分岐し、丹北郡南東端の小山村・津堂村(現、藤井寺市)を北上する。
紀伊の道 きいのみち
肥の川 ひのかわ → 斐伊川
斐伊川 ひいかわ 鳥取・島根県境の船通山中に発源し、宍道湖西端に注ぐ川。下流部は天井川。八岐大蛇伝説で知られる。長さ75キロメートル。簸川。

[出雲] いずも 旧国名。今の島根県の東部。雲州。
の曽の宮 いわくまの そのみや
檳榔の長穂の宮 あじまさの ながほのみや


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『日本歴史地名大系』(平凡社)、『古事記・日本書紀』(福永武彦訳、河出書房新社、1988.1)、『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)。




*人物一覧

(人名、および組織・団体名・神名)

稗田阿礼 ひえだの あれ 天武天皇の舎人。記憶力がすぐれていたため、天皇から帝紀・旧辞の誦習を命ぜられ、太安万侶がこれを筆録して「古事記」3巻が成った。
太安万侶 おおの やすまろ ?-723 奈良時代の官人。民部卿。勅により、稗田阿礼の誦習した帝紀・旧辞を筆録して「古事記」3巻を撰進。1979年、奈良市の東郊から遺骨が墓誌銘と共に出土。
武田祐吉 たけだ ゆうきち 1886-1958 国文学者。東京都出身。小田原中学の教員を辞し、佐佐木信綱のもとで「校本万葉集」の編纂に参加。1926(昭和元)、国学院大学教授。「万葉集」を中心に上代文学の研究を進め、「万葉集全註釈」(1948-51)に結実させた。著書「上代国文学の研究」「古事記研究―帝紀攷」。「武田祐吉著作集」全8巻。(日本史)

神武天皇 じんむ てんのう 記紀伝承上の天皇。名は神日本磐余彦。伝承では、高天原から降臨した瓊瓊杵尊の曾孫。彦波瀲武��草葺不合尊の第4子で、母は玉依姫。日向国の高千穂宮を出、瀬戸内海を経て紀伊国に上陸、長髄彦らを平定して、辛酉の年(前660年)大和国畝傍の橿原宮で即位したという。日本書紀の紀年に従って、明治以降この年を紀元元年とした。畝傍山東北陵はその陵墓とする。
カムヤマトイワレ彦の命 神倭伊波礼毘古の命 → 神武天皇
イツセの命 五瀬命 いつせのみこと ��草葺不合尊の長子。神武天皇の兄。天皇と共に東征、長髄彦と戦って負傷、紀伊国の竈山で没したという。竈山神社に祀る。
ウサツ彦 宇沙都比古。
ウサツ姫 宇沙都比売。
サオネツ彦 槁根津日子。
ナガスネ彦 那賀須泥毘古、長髄彦。神話上の人物。神武天皇東征のとき、大和国生駒郡鳥見地方に割拠した土豪。孔舎衛坂で天皇に抵抗、饒速日命に討たれた。

タカクラジ 高倉下。
アマテラス大神 天照大神・天照大御神 伊弉諾尊の女。高天原の主神。皇室の祖神。大日�t貴とも号す。日の神と仰がれ、伊勢の皇大神宮(内宮)に祀り、皇室崇敬の中心とされた。
高木の神 たかぎのかみ 高皇産霊神・高御産巣日神・高御産日神・高御魂神 たかみむすひのかみ 古事記で、天地開闢の時、高天原に出現したという神。天御中主神・神皇産霊神と共に造化三神の一神。天孫降臨の神勅を下す。鎮魂神として神祇官八神の一神。たかみむすびのかみ。別名、高木神。
タケミカヅチの神 武甕槌命・建御雷命。日本神話で、天尾羽張命の子。経津主命と共に天照大神の命を受けて出雲国に下り、大国主命を説いて国土を奉還させた。鹿島神宮はこの神を祀る。
サジフツの神 佐士布都の神。大刀の名。
またの名はミカフツの神 甕布都の神。
またの名はフツノミタマ 布都の御魂。
�霊・布都御魂 ふつのみたま (フツは断ち切るさまをいう)日本神話で、天照大神(および高木神)の神慮により、神武天皇が熊野の人高倉下から受け、国土を平定したという霊剣。石上神宮の祭神。
ニエモツノコ 贄持の子。
イヒカ 井氷鹿。
吉野の首
イワオシワク 石押分。
国栖・国樔・国巣 くず (1) 古く大和国吉野郡の山奥にあったと伝える村落。また、その村民。在来の古俗を保持して、奈良・平安時代には宮中の節会に参加、贄を献じ、笛を奏し、口鼓を打って風俗歌を奏することが例となっていた。(2) 常陸国茨城郡に土着の先住民。
エウカシ 兄宇迦斯。
オトウカシ 弟宇迦斯。
大伴の連 おおともの むらじ
ミチノオミの命 道臣命。天忍日命の後裔。大伴氏の祖。初名は日臣命。神武天皇の東征に先鋒をつとめ、天皇即位の時に宮門の警衛に任じ、その子孫は軍事をつかさどったと伝える。
久米の直 くめの あたえ
オオクメの命
宇陀の水取 うだの もひとり
ニギハヤビの命 饒速日命 記紀神話で、天孫降臨に先だち天より降り、長髄彦の妹三炊屋姫を妃としたが、神武天皇東征の時、長髄彦を誅して天皇に帰順したという。物部氏の始祖と伝える。
トミヤ姫 登美夜毘売。ナガスネ彦の妹。
ウマシマジの命 宇摩志麻遲の命。
物部の連 もののべのむらじ
穂積の臣 ほづみのおみ
采女の臣 うねめのおみ

阿多の小椅の君 あたの おばしのきみ
アヒラ姫 阿比良比売 阿多の小椅の君の妹。
タギシミミの命 多芸志美美の命、手研耳命。神武天皇の皇子。母は、吾平津姫で、同母弟に岐須美美命(ただし古事記のみ登場)が、異母弟に綏靖天皇、神八井耳命、彦八井耳命がいる。
キスミミの命 岐須美美の命。
三島のミゾクイ みしま- 三島の湟咋。
セヤダタラ姫 勢夜陀多良比売。三島のミゾクイの娘。
オオモノヌシの神 大物主神 奈良県大神神社の祭神。蛇体で人間の女に通じ、また祟り神としても現れる。一説に大己貴神(大国主命)と同神。
ホトタタライススキ姫 富登多多良伊須須岐比売 → ヒメタタライスズヒメ
ヒメタタライスケヨリ姫 比売多多良伊須気余理比売。神武天皇の皇后。
ヒコヤイの命 日子八井命。神武天皇の皇子。
カムヤイミミの命 神八井耳命。
カムヌナカワミミの命 神沼河耳の命 → 綏靖天皇
綏靖天皇 すいぜい てんのう 記紀伝承上の天皇。神武天皇の第3皇子。名は神渟名川耳。
オオの臣
イスケヨリ姫 伊須気余理比売 → ヒメタタライスケヨリ姫
タケヌナカワミミの命 建沼河耳の命 → カムヌナカワミミの命
茨田の連 うまらたの むらじ まむた(p.83 上)
手島の連 てしまの むらじ(p.83 上)
意富の臣 おおの おみ
小子部の連 ちいさこべの むらじ
坂合部の連 さかあいべの むらじ
火の君 ひのきみ(p.83 上)
大分の君 おおきたのきみ
阿蘇の君 あそのきみ
筑紫の三家の連 みやけのむらじ
雀部の臣 さざきべの おみ
雀部の造 さざきべの みやつこ
小長谷の造 おはつせの みやつこ
都祁の直 つげの/つけの あたえ (p.83 上)
伊余の国の造 いよのくにの みやつこ
科野の国の造 しなののくにの みやつこ
道の奥の石城の国の造 いわきのくにの みやつこ
常道の仲の国の造 ひたちの なかの くにの みやつこ(p.83 上)
長狭の国の造 ながさのくにのみやつこ/ながさこくぞう 安房国東部を支配した国造。本拠は安房国長狭郡。現在の千葉県鴨川市の大半。
伊勢の船木の直 ふなきの あたえ
尾張の丹羽の臣 にわの おみ
島田の臣 しまだのおみ(p.83 上)

師木の県主 しきの あがたぬし
カワマタ姫 河俣毘売。綏靖天皇の皇后で安寧天皇の母とされる人物。
シキツ彦タマデミの命 師木津日子玉手見の命。
安寧天皇 あんねい てんのう 記紀伝承上の天皇。綏靖天皇の第1皇子。名は磯城津彦玉手看。
県主ハエ  あがたぬし はえ 波延。カワマタ姫の兄。
アクト姫 阿久斗比売。県主ハエの女。
トコネツ彦イロネの命 常根津日子伊呂泥の命。
オオヤマト彦スキトモの命 大倭日子�K友の命。
シキツ彦の命 帥木津日子の命。
伊賀の須知の稲置 いなき
那婆理の稲置 なはりの いなき
三野の稲置 みのの いなき(p.84 上)
ワチツミの命 和知都美の命。
ハエイロネ 縄伊呂泥。またの名はオオヤマトクニアレ姫の命。
オオヤマトクニアレ姫の命 意富夜麻登久迩阿礼比売の命。
ハエイロド 縄伊呂杼。ハエイロネの妹。
懿徳天皇 いとく てんのう 記紀伝承上の天皇。安寧天皇の第2皇子。名は大日本彦耜友。
フトマワカ姫の命 賦登麻和訶比売の命。またの名はイイヒ姫の命。
イイヒ姫の命 飯日比売の命。
ミマツ彦カエシネの命 御真津日子訶恵志泥の命。孝昭天皇。
タギシ彦の命 多芸志比古の命。
血沼の別 ちぬの わけ
多遅麻の竹の別 たじまの
葦井の稲置 あしいの いなき
孝昭天皇 こうしょう てんのう 記紀伝承上の天皇。懿徳天皇の第1皇子。名は観松彦香殖稲。
尾張の連 おわりのむらじ
オキツヨソ 奥津余曽。
ヨソタホ姫の命 余曽多本毘売の命。オキツヨソの妹。
アメオシタラシ彦の命 天押帯日子の命。天足彦国押人命。
オオヤマトタラシ彦クニオシビトの命 大倭帯日子国押人の命。
春日の臣
大宅の臣 おおやけの おみ
粟田の臣
小野の臣
柿本の臣 かきのもと
一比韋の臣 いちひいの おみ
大坂の臣 おおさかのおみ
阿那の臣
多紀の臣 たきの おみ
羽栗の臣
知多の臣
牟耶の臣 むざの おみ
都怒山の臣 つのやまの おみ
伊勢の飯高の君
一師の君
近つ淡海の国の造 ちかつおうみの くにのみやつこ
孝安天皇 こうあん てんのう 記紀伝承上の天皇。孝昭天皇の第2皇子。名は日本足彦国押人。
オシカ姫の命 忍鹿比売の命。
オオキビノモロススの命 大吉備の諸進の命。
オオヤマトネコ彦フトニの命 大倭根子日子賦斗迩の命。孝霊天皇。
孝霊天皇 こうれい てんのう 記紀伝承上の天皇。孝安天皇の第1皇子。名は大日本根子彦太瓊。
十市の県主 とおちの あがたぬし
大目 おおめ 
クワシ姫の命 細比売の命 大目の娘。
オオヤマトネコ彦クニクルの命 大倭根子日子国玖琉の命。
春日のチチハヤマワカ姫 春日の千千速真若比売。
チチハヤ姫の命 千千速比売の命。
オオヤマトクニアレ姫の命 意富夜麻登玖迩阿礼比売の命。
ヤマトトモモソ姫の命 夜麻登登母母曽毘売の命。
ヒコサシカタワケの命 日子刺肩別の命。
ヒコイサセリ彦の命 比古伊佐勢理毘古の命。またの名はオオキビツ彦の命。
オオキビツ彦の命 大吉備津日子の命。
ヤマトトビハヤワカヤ姫 倭飛羽矢若屋比売。
ハエイロド 縄伊呂杼 アレ姫の命の妹。
ヒコサメマの命 日子寤間の命。
ワカヒコタケキビツ彦の命 若日子建吉備津日子の命。
吉備の上の道の臣 かみつみちのおみ
吉備上道臣 きびのかみつみちのおみ
吉備の下の道の臣 しもつみちのおみ
笠の臣 かさの おみ
牛鹿の臣 うしかの おみ 播磨。
高志の利波の臣 こしの となみの おみ
豊国の国前の臣 くにさきの おみ
五百原の君
角鹿の済の直 つぬがの わたりの あたえ
孝元天皇 こうげん てんのう 記紀伝承上の天皇。孝霊天皇の第1皇子。名は大日本根子彦国牽。
タケシウチの宿祢 → 武内宿祢
武内宿祢 たけうちの すくね 大和政権の初期に活躍したという記紀伝承上の人物。孝元天皇の曾孫(一説に孫)で、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5朝に仕え、偉功があったという。その子孫と称するものに葛城・巨勢・平群・紀・蘇我の諸氏がある。

穂積の臣 ほずみのおみ
ウツシコオの命 内色許男の命。
ウツシコメの命 内色許売の命。ウツシコオの命の妹。
大彦の命 おおびこのみこと 大毘古命。孝元天皇の第一皇子で、母は皇后・鬱色謎命。開化天皇と少彦男心命(古事記では少名日子名建猪心命)の同母兄で、垂仁天皇の外祖父に当たる。北陸道を主に制圧した四道将軍の一人。
スクナヒコタケイココロの命 少名日子建猪心の命。
ワカヤマトネコ彦オオビビの命 若倭根子日子大毘毘の命 → 開化天皇
イカガシコメの命 伊迦賀色許売の命。ウツシコオの命の娘。
ヒコフツオシノマコトの命 比古布都押の信の命。
河内のアオタマ 河内の青玉。
ハニヤス姫 波迩夜須毘売。河内のアオタマの娘。
タケハニヤス彦の命 建波迩夜須毘古の命。

タケヌナカワワケの命 武渟川別命。大彦命の皇子。崇神天皇の時、四道将軍の一人として東海に遣わされたと伝える。阿倍臣の祖。
阿部の臣 阿倍氏?
ヒコイナコジワケの命 比古伊那許士別の命。
膳の臣 かしわでのおみ
尾張の連 おわりの むらじ
オオナビ 意富那毘。
葛城のタカチナ姫 葛城の高千那毘売。オオナビの妹。
ウマシウチの宿祢 すくね 味師内の宿祢。
山代の内の臣 やましろの
木の国の造 きのくにの みやつこ(p.89 下)
ウズ彦 宇豆比古。
ヤマシタカゲ姫 山下影日売。ウズ彦の妹。
タケシウチの宿祢 建内の宿祢 → 武内宿祢
ハタノヤシロの宿祢 波多の八代の宿祢
波多の臣 はた
林の臣
波美の臣
星川の臣
淡海の臣
長谷部の君 はつせべのきみ 泊瀬部とも。(日本史)
コセノオカラの宿祢 許勢の小柄の宿祢
許勢の臣
雀部の臣
軽部の臣
ソガノイシカワの宿祢 蘇賀の石河の宿祢 → 蘇我石川宿禰
蘇我石川宿禰 そがの いしかわの すくね 蘇我石川とも呼ばれる日本神話の人物で、蘇我氏の祖とされる。河内国石川郡で生まれた。武内宿禰の子であり、蘇我満智の父である。名前から見て、蘇我倉山田石川麻呂もしくはその子孫が創作した架空の人物であるとする説もある。
蘇我の臣 そが
川辺の臣
田中の臣
高向の臣 たかむくの おみ
小治田の臣 おはりだの おみ
桜井の臣
岸田の臣
ヘグリノツクの宿祢 すくね 平群の都久の宿祢。
平群の臣 へぐりの おみ
佐和良の臣
馬の御の連 みくいの むらじ
キノツノの宿祢 木の角の宿禰。
木の臣
都奴の臣
坂本の臣
クメノマイト姫 久米の摩伊刀比売。
ノノイロ姫 怒の伊呂比売。
葛城の長江のソツ彦 かづらきの ながえの曽都毘古。
玉手の臣
的の臣 いくはの おみ
生江の臣 なまえ?
阿芸那の臣 あきなの おみ
若子の宿祢 わくごの すくね
江野の財の臣

開化天皇 かいか てんのう 記紀伝承上の天皇。孝元天皇の第2皇子。名は稚日本根子彦大日日。
丹波の大県主 たんばの おおあがたぬし
ユゴリ 由碁理。
タカノ姫 竹野比売。ユゴリの娘。
ヒコユムスミの命 比古由牟須美の命。
イカガシコメの命 伊迦賀色許売の命。
ミマキイリ彦イニエの命 御真木入日子印恵の命。崇神天皇。
ミマツ姫の命 御真津比売の命。
丸迩の臣 わにのおみ 和邇・和珥・丸とも。奈良県天理市和迩町付近の古代以来の地名。(日本史)
ヒコクニオケツの命 日子国意祁都の命。
オケツ姫の命 意祁都比売の命。ヒコクニオケツの命の妹。
ヒコイマスの王 みこ 彦坐命、日子坐王、彦今簀命とも。開化天皇の第3皇子。母は姥津命の妹・姥津媛命。崇神天皇の異母弟、神功皇后の高祖父にあたる。
葛城の垂見の宿祢 かづらきの たるみの すくね
ワシ姫 �比売。葛城の垂見の宿祢の娘。
タケトヨハツラワケの王 建豊波豆羅和気の王。

ヒコユムスミの王 比古由牟須美の命。
オオツツキタリネの王 大筒木垂根の王。
サヌキタリネの王 讃岐垂根の王。
山代のエナツ姫 やましろの荏名津比売。またの名はカリハタトベ。
カリハタトベ 苅幡戸弁。
オオマタの王 大俣の王。
オマタの王 小俣の王。
シブミの宿祢の王 志夫美の宿禰の王。
春日のタケクニカツトメ かすがの建国勝戸売。
サホのオオクラミトメ 沙本の大闇見戸売。春日のタケクニカツトメの娘。
サホ彦の王 沙本毘古の王。
オザホの王 袁耶本の王。
サホ姫の命 沙本毘売の命。またの名はサワジ姫。
ムロビコの王 室毘古の王。
サワジ姫 佐波遲比売。イクメ天皇の皇后。
イクメ天皇 伊久米の天皇 → 垂仁天皇
アメノミカゲの神 天の御影の神。
オキナガノミズヨリ姫 息長の水依比売。アメノミカゲの神の娘。
丹波ノヒコタタスミチノウシの王 丹波の比古多多須美知能宇斯の王。
ミヅホノマワカの王 水穂の真若の王。
カムオオネの王 神大根の王。またの名はヤツリのイリビコの王。
ヤツリのイリビコの王 八瓜の入日子の王。
ミヅホノイオヨリ姫 水穂の五百依比売。
ミイツ姫 御井津比売。
山代のオオツツキのマワカの王 やましろの大筒木の真若の王。
ヒコオスの王 比古意須の王。
イリネの王 伊理泥の王。
アケタツの王 曙立の王。大俣王の子で、菟上王と兄弟。開化天皇の皇子である彦坐王の孫にあたり、伊勢の品遅部、伊勢の佐那造の始祖とされる。三重県多気郡多気町の式内社・佐那神社は天手力男神と曙立王を祀る。
ウナガミの王 菟上の王。
伊勢の品遅部 いせのほんじべ
伊勢の佐那の造 いせのさなのみやつこ(p.88 下)
比売陀の君 ひめだのきみ(p.88 下)
当麻の勾の君 たぎまの まがりの きみ
シブミの宿祢の王 志夫美の宿禰の王。
佐佐の君 ささのきみ(p.88 下)
日下部の連 くさかべの むらじ
甲斐の国の造
葛野の別 かずのの わけ(p.88 下)
近つ淡海の蚊野の別 ちかつおうみの かやのの わけ
若狭の耳の別 わかさの (p.88 下)
ミチノウシの王 美知能宇志の王。
丹波の河上のマスの郎女 たにはの河上の摩須のいらつめ。
ヒバス姫の命 比婆須比売の命。日葉酢媛命。
マトノ姫の命 真砥野比売の命。
オト姫の命 弟比売の命。
ミカドワケの王 朝廷別の王。
三川の穂の別 みかわのほのわけ(p.89 上)
ミヅホノマワカの王 水穂の真若の王。ミチノウシの王の弟。
近つ淡海の安の直 ちかつおうみの やすの あたえ(p.89 上)
三野の国の造 みののくにのみやつこ(p.89 上)
本巣の国の造 もとすの くにのみやつこ
長幡部の連 ながはたべの むらじ
山代のオオツツキマワカの王 やましろの大筒木真若の王。
丹波のアジサワ姫  丹波の阿治佐波毘売。弟君イリネの王の娘。
カニメイカヅチの王 迦迩米雷の王。
丹波の遠津の臣 たんば/たにはの とおつの臣
タカキ姫 高材比売。丹波の遠津の臣の娘。
オキナガの宿祢の王 息長の宿祢の王。
葛城のタカヌカ姫 かづらきの高額比売。
オキナガタラシ姫の命 息長帯比売の命。神功皇后。
神功皇后 じんぐう こうごう 仲哀天皇の皇后。名は息長足媛。開化天皇第5世の孫、息長宿祢王の女。天皇とともに熊襲征服に向かい、天皇が香椎宮で死去した後、新羅を攻略して凱旋し、誉田別皇子(応神天皇)を筑紫で出産、摂政70年にして没。(記紀伝承による)
ソラツ姫の命 虚空津比売の命。
オキナガ彦の王 息長日子の王。
吉備の品遅の君 きびの ほむじの きみ
播磨の阿宗の君 はりまのあそのきみ(p.89 下)
カワマタノイナヨリ姫 河俣の稻依毘売。
オオタムサカの王 大多牟坂の王。
但馬の国の造 たじまの
タケトヨワズラワケの王 建豊波豆羅和気の王。
道守の臣 ちもりのおみ(p.89 下)
忍海部の造 おしぬみべのみやつこ(p.89 下)
御名部の造 みなべのみやつこ(p.89 下)
稲羽の忍海部 いなば(稲葉)のおしぬみべ(p.89 下)
丹波の竹野の別 たんばのたかののわけ
依網の阿毘古 よさみの あびこ

崇神天皇 すじん てんのう 記紀伝承上の天皇。開化天皇の第2皇子。名は御間城入彦五十瓊殖。
イマキイリ彦イニエの命 → 崇神天皇
アラカワトベ 荒河戸弁。
トオツアユメマクワシ姫 遠津年魚目目微比売。アラカワトベの娘。
トヨキイリ彦の命 豊木入日子の命。豊城入彦命。崇神天皇の皇子。東国の上毛野君、下毛野君の祖と伝えられる。
トヨスキイリ姫の命 豊�K入日売の命。豊鍬入姫命。崇神天皇の皇女。勅により、天照大神を倭の笠縫邑に遷し、大神に仕えたと伝えられる。斎宮の初め。
オオアマ姫 意富阿麻比売。
オオイリキの命 大入杵の命。
ヤサカノイリ彦の命 八坂の入日子の命。
ヌナキノイリ姫の命 沼名木の入日売の命。
トオチノイリ姫の命 十市の入日売の命。
ミマツ姫の命 御真津比売の命。大彦の命の娘?
イクメイリ彦イサチの命 伊玖米入日子伊沙知の命。垂仁天皇。
イザノマワカの命 伊耶の真若の命。
クニカタ姫の命 国片比売の命。
チヂツクヤマト姫の命 千千都久和比売の命。
イガ姫の命 伊賀比売の命。
ヤマト彦の命 倭日子の命。
上毛野 かみつけの
下毛野の君
能登の臣 のとのおみ(p.90 上)

美和の大物主 みわのおおものぬし
大物主神 おおものぬしのかみ 奈良県大神神社の祭神。蛇体で人間の女に通じ、また祟り神としても現れる。一説に大己貴神(大国主命)と同神。
神氏 みわうじ
鴨氏 かもうじ → 賀茂氏
賀茂氏 かもうじ/かもし 古代より続く日本の氏族である。加茂、鴨とも書く。山城国葛野を本拠とし代々賀茂神社に奉斎した賀茂県主は、八咫烏に化身して神武天皇を導いた賀茂建角身命を始祖とする。賀茂県主は、同じ山城を本拠とする秦氏との関係が深い。賀茂県主の系統には鴨長明、賀茂真淵がいる。
オオタタネコ 意富多多泥古。タケミカヅチの命の子。
スエツミミの命 陶津耳の命。
イクタマヨリ姫 活玉依毘売。スエツミミの命の娘。古事記説話に見える女。見知らぬ男により妊娠し、針につけた糸を尋ねて夫が三輪山の大物主神であることを知る。
クシミカタの命 櫛御方の命。
イイカタスミの命 飯肩巣見の命。
タケミカヅチの命 建甕槌の命。
イカガシコオの命 伊迦賀色許男の命。
宇陀の墨坂の神 うだの すみさかの かみ 大和国宇陀郡。墨坂は邑名。交通の要地で大和と伊勢の境界に位置するので塞の神と考えられる。(神名)
大坂の神 おおさかのかみ(p.91 下)
坂の上の神 坂の御屋の神。
河の瀬の神 河の瀬の神。

丹波のミチヌシの命
キビツ彦 吉備津彦命。日本神道の神。吉備冠者ともいう。孝霊天皇の皇子で山陽道を主に制圧した四道将軍の一人。別名(本来の名)を五十狭芹彦といい、吉備国を平定した事によって吉備津彦を名乗る。
クガミミのミカサ 玖賀耳の御笠。
ヒコクニブク 日子国夫玖の命。
御真木の天皇 みまきの- → 崇神天皇

垂仁天皇 すいにん てんのう 記紀伝承上の天皇。崇神天皇の第3皇子。名は活目入彦五十狭茅。
サホ彦の命 沙本毘古の命。狭穂彦王。
サワジ姫の命 佐波遅比売の命。サホ彦の命の妹。
ホムツワケの命 品牟都和気の命。
丹波のヒコタタスミチノウシの王 たにはの比古多多須美知能宇斯の王。
ヒバス姫の命 氷羽州比売の命。日葉酢媛命。丹波のヒコタタスミチノウシの王の娘。
イニシキノイリ彦の命 印色の入日子の命。
オオタラシ彦オシロワケの命 大帯日子淤斯呂和気の命 → 景行天皇
景行天皇 けいこう てんのう 記紀伝承上の天皇。垂仁天皇の第3皇子。名は大足彦忍代別。熊襲を親征、後に皇子日本武尊を派遣して、東国の蝦夷を平定させたと伝える。
オオナカツ彦の命 大中津日子の命。
ヤマト姫の命 倭比売の命。
ワカキノイリ彦の命 若木の入日子の命。
ヌバタノイリ姫の命 沼羽田の入毘売の命。ヒバス姫の命の妹。
ヌタラシワケの命 沼帯別の命。
イガタラシ彦の命 伊賀帯日子の命。
アザミノイリ姫の命 阿耶美の伊理毘売の命。ヌバタノイリ姫の命の妹。
イコバヤワケの命 伊許婆夜和気の命。
アザミツ姫の命 阿耶美都比売の命。
カグヤ姫の命 迦具夜比売の命。オオツツキタリネの王の娘。
オナベの王 袁那弁の王。
山代の大国の淵 やましろのおおくにのふち
カリバタトベ 苅羽田刀弁。山代の大国のフチの娘
オチワケの王 落別の王。
イカタラシ彦の王 五十日帯日子の王。
イトシワケの王 伊登志別の王。
オトカリバタトベ 弟苅羽田刀弁。大国のフチの娘。
イワツクワケの王 石衝別の王。磐撞別命。
イワツク姫の命 石衝毘売の命。またの名はフタジノイリ姫の命。
フタジノイリ姫の命 布多遅の伊理毘売の命。
山辺の別 やまべのわけ(p.95 下)
三枝の別 さきくさのわけ
稲木の別 
阿太の別 あだのわけ(p.95 下)
尾張の国の三野の別
吉備の石无の別 きびの いわなしの わけ
許呂母の別 ころもの わけ
高巣鹿の別 たかすかの わけ
飛鳥の君 あすかのきみ(p.95 下)
牟礼の別 むれのわけ(p.95 下)
イコバヤワケの王 伊許婆夜和気の王。
沙本の穴本部の別 さほの あなほべの わけ(p.96 上)
アザミツ姫の命 阿耶美都比売の命。
イナセ彦の王 稲瀬毘古の王。
オチワケの王 落別の王。
小目の山の君 おめの やまのきみ? 小月(おつき)の山の君?(p.96 上)
三川の衣の君 みかわの ころものきみ
イカタラシ彦の王 五十日帯日子の王。
春日の山の君
高志の池の君 こしの いけの きみ
春日部の君
伊登志部 いとしべ(p.96 上)
羽咋の君 はくいの きみ
三尾の君 みおのきみ(p.96 上)
フタジノイリ姫の命 布多遅の伊理毘売の命。ヤマトタケルの命の妃。
ヤマトタケルの命 倭建の命。日本武尊。古代伝説上の英雄。景行天皇の皇子で、本名は小碓命。別名、日本童男。天皇の命を奉じて熊襲を討ち、のち東国を鎮定。往途、駿河で草薙剣によって野火の難を払い、走水の海では妃弟橘媛の犠牲によって海上の難を免れた。帰途、近江伊吹山の神を討とうとして病を得、伊勢の能褒野で没したという。

日下部の連 くさかべの むらじ
甲斐の国の造
ホムチワケの御子 本牟智和気の御子。
丹波のヒコタタスミチノウシの王
兄姫 えひめ 丹波のヒコタタスミチノウシの王の娘。
弟姫 おとひめ 

山辺のオオタカ やまべの大�。
品遅部 ほむじべ
キヒサツミ 岐比佐都美。
アシハラシコオの大神 葦原醜男 古事記で大国主命の別名。播磨風土記では天之日矛と国の占有争いをする神。
大国主命
ヒナガ姫 肥長比売。
鳥取部 ととりべ 大和政権で鳥を捕獲し飼育する技術を世襲していた品部。鳥飼部。
鳥甘 とりかい
大湯座 おおゆえ
若湯座 わかゆえ
弟姫の命 おとひめのみこと
ウタコリ姫の命 歌凝比売の命。
マトノ姫の命 圓野比売の命。
タジマモリ 田道間守 記紀伝説上の人物。垂仁天皇の勅で常世国に至り、非時香菓(橘)を得て10年後に帰ったが、天皇の崩後であったので、香菓を山陵に献じ、嘆き悲しんで陵前に死んだと伝える。
三宅の連 みやけのむらじ
土師部 はにしべ/はじべ 古代、大和政権に土師器を貢納した品部。北九州から関東地方まで各地に分布。埴輪の製作、葬儀にも従事。はにしべ。
河上部 かわかみべ 川上部。大化前代の伝説的な部民。律令時代には見えない部。(日本史)


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)、『日本人名大事典』(平凡社)、『日本史広辞典』(山川出版社、1997.10)、『日本神名辞典 第二版』(神社新報社、1995.6)、『古事記・日本書紀』(福永武彦訳、河出書房新社、1988.1)。



*書籍

(書名、雑誌名、論文名、能・狂言・謡曲などの作品名)

古事記 こじき 現存する日本最古の歴史書。3巻。稗田阿礼(ひえだのあれ)が天武天皇の勅により誦習した帝紀および先代の旧辞を、太安万侶(おおのやすまろ)が元明天皇の勅により撰録して712年(和銅5)献上。上巻は天地開闢から鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)まで、中巻は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までの記事を収め、神話・伝説と多数の歌謡とを含みながら、天皇を中心とする日本の統一の由来を物語る。ふることぶみ。
帝紀 ていき 天皇の系譜の記録。帝皇日嗣。
本辞 ほんじ 皇族や氏族の伝承、また、民間の説話などを書きとどめたもの。旧辞。
日本書紀 にほん しょき 六国史の一つ。奈良時代に完成した日本最古の勅撰の正史。神代から持統天皇までの朝廷に伝わった神話・伝説・記録などを修飾の多い漢文で記述した編年体の史書。30巻。720年(養老4)舎人親王らの撰。日本紀。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*難字、求めよ


八咫烏 やたがらす (ヤタはヤアタの約。咫は上代の長さの単位) (1) 記紀伝承で神武天皇東征のとき、熊野から大和に入る険路の先導となったという大烏。姓氏録によれば、賀茂建角身命の化身と伝えられる。(2) 中国古代説話で太陽の中にいるという3本足の赤色の烏の、日本での称。
筌 うえ 魚を捕る具。細い割竹を編んで、筒または底無し徳利の形に造り、入った魚が出られないように口に漏斗状などのかえしをつけたもの。うけ。うえやな。もじ。ど。
久米歌 くめうた 古代歌謡。久米部が久米舞にうたう歌。記紀によれば神武天皇が久米部をひきいて兄猾・八十梟帥・兄磯城・長髄彦を討伐した時に軍士を慰撫・鼓舞した歌、および道臣命が忍坂で八十梟帥の余党を討った時に歌った歌の総称。現在は宮内庁楽師が雅楽歌曲として演奏。
大殿 おおとの (1) 宮殿、貴人の邸宅の尊敬語。
古妻 ふるづま 昔からつれそう妻。また、先妻。
 いちさかき ヒサカキの異称。「多い」の序詞に用いる。
水取 もいとり → 主水司
主水司 しゅすいし 律令制で、宮内省に属し、供御の水・粥・氷室のことをつかさどった役所。もいとりのつかさ。もんどのつかさ。

小子・細螺 しただみ 「きさご」に同じ。
細螺・扁螺・喜佐古 きさご ニシキウズガイ科の巻貝。殻は直径2センチメートル内外で、厚く固い。多数の放射火焔状の淡褐色の斑がある。食用。殻をおはじきに使った。北海道東北部を除く日本各地に分布。きしゃご。しただみ。ぜぜがい。いしゃらがい。
継兄・庶兄 ままあに 父または母のちがう兄。異父兄。異母兄。
稲置 いなぎ (1) 古代の下級地方官。隋書東夷伝に「八十戸置一伊尼翼如今里長也。十伊尼翼属一軍尼」とある。(2) 八色姓の第8位。
斎瓮 いわいべ 斎瓮・忌瓮。祭祀に用いる神聖なかめ。神酒を入れる。いんべ。

献り たてまつり
幣帛 へいはく (1) 神に奉献する物の総称。みてぐら。にきて。ぬさ。(2) (中国で、進物・礼物にきぬを贈ることから)進物または礼物の称。
四道将軍 しどう しょうぐん 記紀伝承で、崇神天皇の時、四方の征討に派遣されたという将軍。北陸は大彦命、東海は武渟川別命、西道(山陽)は吉備津彦命、丹波(山陰)は丹波道主命。古事記は西道を欠く。
弑殺 しさつ 目上の人や。身分の高い人を殺害すること。しいさつ。
稲の城 → 稲城
稲城 いなぎ (古く清音) 稲を家の周囲に積んで急場の矢防ぎとしたもの。
太卜 ふとまに (「ふと」は美称)上代の占いの一種。ハハカの木に火をつけ、その火で鹿の肩の骨を焼き、骨のひび割れの形を見て吉凶を占うもの。太町。
時じくの香の木の実 ときじくの かくのこのみ 非時香菓。(夏に実り、秋冬になっても霜に堪え、香味がかわらない木の実の意)タチバナの古名。


◇参照:Wikipedia、『広辞苑 第六版』(岩波書店、2008)。



*後記(工作員スリーパーズ日記)


 うお〜っ! まるっと一週間おくれの発行。
 二月二五日、県立図書館より「五十嵐晴峯」の調査結果、連絡あり。晴峯は号で、清蔵が本名のもよう。明治一〇年(一八七七)生まれ、昭和二四年(一九四九)没とある。東村山郡金井村(現、山形市)住(ちなみに記憶が正しければ、金井はユニコーンのあべびーの出身地のはず)。『山形県史蹟名勝天然紀念物調査報告』の「山寺」を執筆している。他にも東村山や北村山の『郡史』などの郷土史を手がけている。
 
 仲俣さんの編集するサイト「マガジン航」に拙文を載せていただきました。創刊以来、2年半を振り返ったレポート内容です。

 『週刊ミルクティー*』の活動について
 http://www.dotbook.jp/magazine-k/milktea_weekly/

 また、それを受けて仲俣さんご自身も電子出版に関する論考を掲載しています。

 「マチガイ主義」から電子書籍を考える
 http://www.dotbook.jp/magazine-k/

 興味ありましたらご一読ねがいます。




*次週予告


第三巻 第三三号 
現代語訳『古事記』(四)中巻(後編)
武田祐吉(訳)


第三巻 第三三号は、
三月一二日(土)発行予定です。
定価:200円


T-Time マガジン 週刊ミルクティー 第三巻 第三二号
現代語訳『古事記』(三)武田祐吉(訳)
発行:二〇一一年三月五日(土)
編集:しだひろし/PoorBook G3'99
 http://www33.atwiki.jp/asterisk99/
出版:*99 出版
 〒994-0024 山形県天童市鎌田2丁目1−21
 アパートメント山口A−202
販売:DL-MARKET
※ T-Timeは(株)ボイジャーの商標・製品です。



T-Time マガジン 週刊ミルクティー*99 出版

第二巻

第一号 奇巌城(一)モーリス・ルブラン 月末最終号:無料
第二号 奇巌城(二)モーリス・ルブラン 定価:200円
第三号 美し姫と怪獣 / 長ぐつをはいた猫 定価:200円
第四号 毒と迷信 / 若水の話 / 麻薬・自殺・宗教 定価:200円
第五号 空襲警報 / 水の女 / 支流 定価:200円
第六号 新羅人の武士的精神について 池内宏 月末最終号:無料
第七号 新羅の花郎について 池内宏 定価:200円
第八号 震災日誌 / 震災後記 喜田貞吉 定価:200円
第九号 セロ弾きのゴーシュ / なめとこ山の熊 宮沢賢治 定価:200円
第十号 風の又三郎 宮沢賢治 月末最終号:無料
第一一号 能久親王事跡(一)森 林太郎 定価:200円
第一二号 能久親王事跡(二)森 林太郎 定価:200円
第一三号 能久親王事跡(三)森 林太郎 定価:200円
第一四号 能久親王事跡(四)森 林太郎 定価:200円
第一七号 赤毛連盟 コナン・ドイル 定価:200円
第一八号 ボヘミアの醜聞 コナン・ドイル 定価:200円
第一九号 グロリア・スコット号 コナン・ドイル 月末最終号:無料
第二〇号 暗号舞踏人の謎 コナン・ドイル 定価:200円
第二一号 蝦夷とコロボックルとの異同を論ず 喜田貞吉 定価:200円
第二二号 コロポックル説の誤謬を論ず 上・下 河野常吉 定価:200円
第二三号 慶長年間の朝日連峰通路について 佐藤栄太 月末最終号:無料
第二四号 まれびとの歴史/「とこよ」と「まれびと」と 折口信夫 定価:200円
第二五号 払田柵跡について二、三の考察/山形県本楯発見の柵跡について 喜田貞吉 定価:200円
第二六号 日本天変地異記 田中貢太郎 定価:200円
第二七号 種山ヶ原/イギリス海岸 宮沢賢治 定価:200円
第二八号 翁の発生/鬼の話 折口信夫  月末最終号:無料
第二九号 生物の歴史(一)石川千代松  定価:200円
第三〇号 生物の歴史(二)石川千代松  定価:200円
第三一号 生物の歴史(三)石川千代松  定価:200円
第三二号 生物の歴史(四)石川千代松  月末最終号:無料
第三三号 特集 ひなまつり  定価:200円  雛 芥川龍之介
 雛がたり 泉鏡花
 ひなまつりの話 折口信夫

第三四号 特集 ひなまつり  定価:200円  人形の話 折口信夫
 偶人信仰の民俗化並びに伝説化せる道 折口信夫

第三五号 右大臣実朝(一)太宰治  定価:200円
第三六号 右大臣実朝(二)太宰治 月末最終号:無料
第三七号 右大臣実朝(三)太宰治 定価:200円
第三八号 清河八郎(一)大川周明 定価:200円
第三九号 清河八郎(二)大川周明  定価:200円
第四〇号 清河八郎(三)大川周明  月末最終号:無料
第四一号 清河八郎(四)大川周明  定価:200円
第四二号 清河八郎(五)大川周明  定価:200円
第四三号 清河八郎(六)大川周明  定価:200円
第四四号 道鏡皇胤論について 喜田貞吉  定価:200円
第四五号 火葬と大蔵/人身御供と人柱 喜田貞吉  月末最終号:無料
第四六号 手長と足長/くぐつ名義考 喜田貞吉  定価:200円
第四七号 「日本民族」とは何ぞや/本州における蝦夷の末路 喜田貞吉  定価:200円
第四八号 若草物語(一)L. M. オルコット  定価:200円
第四九号 若草物語(二)L. M. オルコット  月末最終号:無料
第五〇号 若草物語(三)L. M. オルコット  定価:200円
第五一号 若草物語(四)L. M. オルコット  定価:200円
第五二号 若草物語(五)L. M. オルコット  定価:200円
第五三号 二人の女歌人/東北の家 片山広子  定価:200円
第三巻 第一号 星と空の話(一)山本一清  月末最終号:無料
  一、星座(せいざ)の星
  二、月(つき)
(略)殊にこの「ベガ」は、わが日本や支那では「七夕」の祭りにちなむ「織(お)り女(ひめ)」ですから、誰でも皆、幼い時からおなじみの星です。「七夕」の祭りとは、毎年旧暦七月七日の夜に「織り女」と「牽牛(ひこぼし)〔彦星〕」とが「天の川」を渡って会合するという伝説の祭りですが、その「天の川」は「こと」星座のすぐ東側を南北に流れていますし、また、「牽牛」は「天の川」の向かい岸(東岸)に白く輝いています。「牽牛」とその周囲の星々を、星座では「わし」の星座といい、「牽牛」を昔のアラビア人たちは、「アルタイル」と呼びました。「アルタイル」の南と北とに一つずつ小さい星が光っています。あれは「わし」の両翼を拡げている姿なのです。ところが「ベガ」の付近を見ますと、その東側に小さい星が二つ集まっています。昔の人はこれを見て、一羽の鳥が両翼をたたんで地に舞いくだる姿だと思いました。それで、「こと」をまた「舞いくだる鳥」と呼びました。

 「こと」の東隣り「天の川」の中に、「はくちょう」という星座があります。このあたりは大星や小星が非常に多くて、天が白い布のように光に満ちています。

第三巻 第二号 星と空の話(二)山本一清  定価:200円
  三、太陽
  四、日食と月食
  五、水星
  六、金星
  七、火星
  八、木星
 太陽の黒点というものは誠におもしろいものです。黒点の一つ一つは、太陽の大きさにくらべると小さい点々のように見えますが、じつはみな、いずれもなかなか大きいものであって、(略)最も大きいのは地球の十倍以上のものがときどき現われます。そして同じ黒点を毎日見ていますと、毎日すこしずつ西の方へ流れていって、ついに太陽の西の端(はし)でかくれてしまいますが、二週間ばかりすると、こんどは東の端から現われてきます。こんなにして、黒点の位置が規則正しく変わるのは、太陽全体が、黒点を乗せたまま、自転しているからなのです。太陽は、こうして、約二十五日間に一回、自転をします。(略)
 太陽の黒点からは、あらゆる気体の熱風とともに、いろいろなものを四方へ散らしますが、そのうちで最も強く地球に影響をあたえるものは電子が放射されることです。あらゆる電流の原因である電子が太陽黒点から放射されて、わが地球に達しますと、地球では、北極や南極付近に、美しいオーロラ(極光(きょっこう))が現われたり、「磁気嵐(じきあらし)」といって、磁石の針が狂い出して盛んに左右にふれたりします。また、この太陽黒点からやってくる電波や熱波や電子などのために、地球上では、気温や気圧の変動がおこったり、天気が狂ったりすることもあります。(略)
 太陽の表面に、いつも同じ黒点が長い間見えているのではありません。一つ一つの黒点はずいぶん短命なものです。なかには一日か二日ぐらいで消えるのがありますし、普通のものは一、二週間ぐらいの寿命のものです。特に大きいものは二、三か月も、七、八か月も長く見えるのがありますけれど、一年以上長く見えるということはほとんどありません。
 しかし、黒点は、一つのものがまったく消えない前に、他の黒点が二つも三つも現われてきたりして、ついには一時に三十も四十も、たくさんの黒点が同じ太陽面に見えることがあります。
 こうした黒点の数は、毎年、毎日、まったく無茶苦茶というわけではありません。だいたいにおいて十一年ごとに増したり減ったりします。

第三巻 第三号 星と空の話(三)山本一清  定価:200円
   九、土星
  一〇、天王星
  一一、海王星
  一二、小遊星
  一三、彗星
  一四、流星
  一五、太陽系
  一六、恒星と宇宙
 晴れた美しい夜の空を、しばらく家の外に出てながめてごらんなさい。ときどき三分間に一つか、五分間に一つぐらい星が飛ぶように見えるものがあります。あれが流星です。流星は、平常、天に輝いている多くの星のうちの一つ二つが飛ぶのだと思っている人もありますが、そうではありません。流星はみな、今までまったく見えなかった星が、急に光り出して、そしてすぐまた消えてしまうものなのです。(略)
 しかし、流星のうちには、はじめから稀(まれ)によほど形の大きいものもあります。そんなものは空気中を何百キロメートルも飛んでいるうちに、燃えつきてしまわず、熱したまま、地上まで落下してきます。これが隕石というものです。隕石のうちには、ほとんど全部が鉄のものもあります。これを隕鉄(いんてつ)といいます。(略)
 流星は一年じゅう、たいていの夜に見えますが、しかし、全体からいえば、冬や春よりは、夏や秋の夜にたくさん見えます。ことに七、八月ごろや十月、十一月ごろは、一時間に百以上も流星が飛ぶことがあります。
 八月十二、三日ごろの夜明け前、午前二時ごろ、多くの流星がペルセウス星座から四方八方へ放射的に飛びます。これらは、みな、ペルセウス星座の方向から、地球の方向へ、列を作ってぶっつかってくるものでありまして、これを「ペルセウス流星群」と呼びます。
 十一月十四、五日ごろにも、夜明け前の二時、三時ごろ、しし星座から飛び出してくるように見える一群の流星があります。これは「しし座流星群」と呼ばれます。
 この二つがもっとも有名な流星群ですが、なおこの他には、一月のはじめにカドラント流星群、四月二十日ごろに、こと座流星群、十月にはオリオン流星群などあります。

第三巻 第四号 獅子舞雑考/穀神としての牛に関する民俗 中山太郎  定価:200円
獅子舞雑考
  一、枯(か)れ木も山の賑(にぎ)やかし
  二、獅子舞に関する先輩の研究
  三、獅子頭に角(つの)のある理由
  四、獅子頭と狛犬(こまいぬ)との関係
  五、鹿踊(ししおど)りと獅子舞との区別は何か
  六、獅子舞は寺院から神社へ
  七、仏事にもちいた獅子舞の源流
  八、獅子舞について関心すべき点
  九、獅子頭の鼻毛と馬の尻尾(しっぽ)

穀神としての牛に関する民俗
  牛を穀神とするは世界共通の信仰
  土牛(どぎゅう)を立て寒気を送る信仰と追儺(ついな)
  わが国の家畜の分布と牛飼神の地位
  牛をもって神をまつるは、わが国の古俗
  田遊(たあそ)びの牛の役と雨乞いの牛の首

 全体、わが国の獅子舞については、従来これに関する発生、目的、変遷など、かなり詳細なる研究が発表されている。(略)喜多村翁の所説は、獅子舞は西域の亀茲(きじ)国の舞楽が、支那の文化とともに、わが国に渡来したのであるという、純乎たる輸入説である。柳田先生の所論は、わが国には古く鹿舞(ししまい)というものがあって、しかもそれが広くおこなわれていたところへ、後に支那から渡来した獅子舞が、国音の相通から付会(ふかい)したものである。その証拠には、わが国の各地において、古風を伝えているものに、角(つの)のある獅子頭があり、これに加うるのに鹿を歌ったものを、獅子舞にもちいているという、いわば固有説とも見るべき考証である。さらに小寺氏の観察は、だいたいにおいて柳田先生の固有説をうけ、別にこれに対して、わが国の鹿舞の起こったのは、トーテム崇拝に由来するのであると、付け加えている。
 そこで、今度は管見を記すべき順序となったが、これは私も小寺氏と同じく、柳田先生のご説をそのまま拝借する者であって、べつだんに奇説も異論も有しているわけではない。ただ、しいて言えば、わが国の鹿舞と支那からきた獅子舞とは、その目的において全然別個のものがあったという点が、相違しているのである。ことに小寺氏のトーテム説にいたっては、あれだけの研究では、にわかに左袒(さたん)することのできぬのはもちろんである。

 こういうと、なんだか柳田先生のご説に、反対するように聞こえるが、角(つの)の有無をもって鹿と獅子の区別をすることは、再考の余地があるように思われる。

第三巻 第五号 鹿踊りのはじまり 宮沢賢治/奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉  月末最終号:無料
鹿踊りのはじまり 宮沢賢治
奥羽地方のシシ踊りと鹿供養 喜田貞吉
  一 緒言
  二 シシ踊りは鹿踊り
  三 伊予宇和島地方の鹿の子踊り
  四 アイヌのクマ祭りと捕獲物供養
  五 付記

 奥羽地方には各地にシシ踊りと呼ばるる一種の民間舞踊がある。地方によって多少の相違はあるが、だいたいにおいて獅子頭を頭につけた青年が、数人立ちまじって古めかしい歌謡を歌いつつ、太鼓の音に和して勇壮なる舞踊を演ずるという点において一致している。したがって普通には獅子舞あるいは越後獅子などのたぐいで、獅子奮迅・踊躍の状を表象したものとして解せられているが、奇態なことにはその旧仙台領地方におこなわるるものが、その獅子頭に鹿の角(つの)を有し、他の地方のものにも、またそれぞれ短い二本の角がはえているのである。
 楽舞用具の一種として獅子頭のわが国に伝わったことは、すでに奈良朝のころからであった。くだって鎌倉時代以後には、民間舞踊の一つとして獅子舞の各地におこなわれたことが少なからず文献に見えている。そしてかの越後獅子のごときは、その名残りの地方的に発達・保存されたものであろう。獅子頭はいうまでもなくライオンをあらわしたもので、本来、角があってはならぬはずである。もちろんそれが理想化し、霊獣化して、彫刻家の意匠により、ことさらにそれに角を付加するということは考えられぬでもない。武蔵南多摩郡元八王子村なる諏訪神社の獅子頭は、古来、龍頭とよばれて二本の長い角が斜めにはえているので有名である。しかしながら、仙台領において特にそれが鹿の角であるということは、これを霊獣化したとだけでは解釈されない。けだし、もと鹿供養の意味からおこった一種の田楽的舞踊で、それがシシ踊りと呼ばるることからついに獅子頭とまで転訛するに至り、しかもなお原始の鹿角を保存して、今日におよんでいるものであろう。

第三巻 第六号 魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝  定価:200円
魏志倭人伝/後漢書倭伝/宋書倭国伝/隋書倭国伝

倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国。漢時有朝見者、今使訳所通三十国。従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国七千余里。始度一海千余里、至対馬国、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶島、方可四百余里(略)。又南渡一海千余里、名曰瀚海、至一大国〔一支国か〕(略)。又渡一海千余里、至末盧国(略)。東南陸行五百里、到伊都国(略)。東南至奴国百里(略)。東行至不弥国百里(略)。南至投馬国水行二十日、官曰弥弥、副曰弥弥那利、可五万余戸。南至邪馬壱国〔邪馬台国〕、女王之所都、水行十日・陸行一月、官有伊支馬、次曰弥馬升、次曰弥馬獲支、次曰奴佳�、可七万余戸。(略)其国本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑弥呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟、佐治国、自為王以来、少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人、給飲食、伝辞出入居処。宮室・楼観・城柵厳設、常有人持兵守衛。

第三巻 第七号 卑弥呼考(一)内藤湖南  定価:200円
  一、本文の選択
  二、本文の記事に関するわが邦(くに)最旧の見解
  三、旧説に対する異論
 『後漢書』『三国志』『晋書』『北史』などに出でたる倭国女王卑弥呼のことに関しては、従来、史家の考証はなはだ繁く、あるいはこれをもってわが神功皇后とし、あるいはもって筑紫の一女酋とし、紛々として帰一するところなきが如くなるも、近時においてはたいてい後説を取る者多きに似たり。(略)
 卑弥呼の記事を載せたる支那史書のうち、『晋書』『北史』のごときは、もとより『後漢書』『三国志』に拠りたること疑いなければ、これは論を費やすことをもちいざれども、『後漢書』と『三国志』との間に存する�異(きい)の点に関しては、史家の疑惑をひく者なくばあらず。『三国志』は晋代になりて、今の范曄の『後漢書』は、劉宋の代になれる晩出の書なれども、両書が同一事を記するにあたりて、『後漢書』の取れる史料が、『三国志』の所載以外におよぶこと、東夷伝中にすら一、二にして止まらざれば、その倭国伝の記事もしかる者あるにあらずやとは、史家のどうもすれば疑惑をはさみしところなりき。この疑惑を決せんことは、すなわち本文選択の第一要件なり。
 次には本文のうち、各本に字句の異同あることを考えざるべからず。『三国志』について言わんに、余はいまだ宋板本を見ざるも、元槧明修本、明南監本、乾隆殿板本、汲古閣本などを対照し、さらに『北史』『通典』『太平御覧』『冊府元亀』など、この記事を引用せる諸書を参考してその異同の少なからざるに驚きたり。その�異を決せんことは、すなわち本文選択の第二要件なり。

第三巻 第八号 卑弥呼考(二)内藤湖南  定価:200円
  四、本文の考証
帯方 / 旧百余国。漢時有朝見者。今使訳所通三十国。 / 到其北岸狗邪韓国 / 対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国 / 南至投馬國。水行二十日。/ 南至邪馬壹國。水行十日。陸行一月。/ 斯馬国 / 已百支国 / 伊邪国 / 郡支国 / 弥奴国 / 好古都国 / 不呼国 / 姐奴国 / 対蘇国 / 蘇奴国 / 呼邑国 / 華奴蘇奴国 / 鬼国 / 為吾国 / 鬼奴国 / 邪馬国 / 躬臣国 / 巴利国 / 支惟国 / 烏奴国 / 奴国 / 此女王境界所盡。其南有狗奴國 / 会稽東治
南至投馬國。水行二十日。  これには数説あり、本居氏は日向国児湯郡に都万神社ありて、『続日本後紀』『三代実録』『延喜式』などに見ゆ、此所にてもあらんかといえり。鶴峰氏は『和名鈔』に筑後国上妻郡、加牟豆万、下妻郡、准上とある妻なるべしといえり。ただし、その水行二十日を投馬より邪馬台に至る日程と解したるは著しき誤謬なり。黒川氏は三説をあげ、一つは鶴峰説に同じく、二つは「投」を「殺」の譌りとみて、薩摩国とし、三つは『和名鈔』、薩摩国麑島郡に都万郷ありて、声近しとし、さらに「投」を「敏」の譌りとしてミヌマと訓み、三潴郡とする説をもあげたるが、いずれも穏当ならずといえり。『国史眼』は設馬の譌りとして、すなわち薩摩なりとし、吉田氏はこれを取りて、さらに『和名鈔』の高城郡托摩郷をもあげ、菅氏は本居氏に従えり。これを要するに、みな邪馬台を筑紫に求むる先入の見に出で、「南至」といえる方向に拘束せられたり。しかれども支那の古書が方向をいう時、東と南と相兼ね、西と北と相兼ぬるは、その常例ともいうべく、またその発程のはじめ、もしくは途中のいちじるしき土地の位置などより、方向の混雑を生ずることも珍しからず。『後魏書』勿吉伝に太魯水、すなわち今の�児河より勿吉、すなわち今の松花江上流に至るによろしく東南行すべきを東北行十八日とせるがごとき、陸上におけるすらかくのごとくなれば海上の方向はなおさら誤り易かるべし。ゆえに余はこの南を東と解して投馬国を『和名鈔』の周防国佐婆郡〔佐波郡か。〕玉祖郷〈多萬乃於也〉にあてんとす。この地は玉祖宿祢の祖たる玉祖命、またの名、天明玉命、天櫛明玉命をまつれるところにして周防の一宮と称せられ、今の三田尻の海港をひかえ、内海の衝要にあたれり。その古代において、玉作を職とせる名族に拠有せられて、五万余戸の集落をなせしことも想像し得べし。日向・薩摩のごとき僻陬とも異なり、また筑後のごとく、路程の合いがたき地にもあらず、これ、余がかく定めたる理由なり。

第三巻 第九号 卑弥呼考(三)内藤湖南  月末最終号:無料
  四、本文の考証(つづき)
爾支 / 泄謨觚、柄渠觚、�馬觚 / 多模 / 弥弥、弥弥那利 / 伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳� / 狗古智卑狗
卑弥呼 / 難升米 / 伊声耆掖邪狗 / 都市牛利 / 載斯烏越 / 卑弥弓呼素 / 壱与
  五、結論
    付記
 次に人名を考証せんに、その主なる者はすなわち、「卑弥呼」なり。余はこれをもって倭姫命に擬定す。その故は前にあげたる官名に「伊支馬」「弥馬獲支」あるによりて、その崇神・垂仁二朝を去ること遠からざるべきことを知る、一つなり。「事二鬼道一、能惑レ衆」といえるは、垂仁紀二十五年の記事ならびにその細注、『延暦儀式帳』『倭姫命世記』などの所伝を総合して、もっともこの命(みこと)の行事に適当せるを見る。その天照大神の教えにしたがいて、大和より近江・美濃・伊勢諸国を遍歴し、〈『倭姫世記』によれば尾張・丹波・紀伊・吉備にもおよびしが如し〉いたるところにその土豪より神戸・神田・神地を徴して神領とせるは、神道設教の上古を離るること久しき魏人より鬼道をもって衆を惑わすと見えしも怪しむに足らざるべし、二つなり。余が邪馬台の旁国の地名を擬定せるは、もとより務めて大和の付近にして、倭姫命が遍歴せる地方より選び出したれども、その多数がはなはだしき付会におちいらずして、伊勢を基点とせる地方に限定することを得たるは、また一証とすべし、三つなり。(略)「卑弥呼」の語解は本居氏がヒメコの義とするは可なれども、神代巻に火之戸幡姫児千々姫ノ命、また万幡姫児玉依姫ノ命などある「姫児(ヒメコ)」に同じとあるは非にして、この二つの「姫児」は平田篤胤のいえるごとく姫の子の義なり。「弥」を「メ」と訓(よ)む例は黒川氏の『北史国号考』に「上宮聖徳法王帝説、繍張文の吉多斯比弥乃弥己等(キタシヒメノミコト)、また等已弥居加斯支移比弥乃弥己等(トヨミケカシキヤヒメノミコト)、注云 弥字或当二売音一也」とあるを引けるなどに従うべし。
付記 余がこの編を出せる直後、すでに自説の欠陥を発見せしものあり、すなわち「卑弥呼」の名を考証せる条中に『古事記』神代巻にある火之戸幡姫児(ヒノトバタヒメコ)、および万幡姫児(ヨロヅハタヒメコ)の二つの「姫児」の字を本居氏にしたがいて、ヒメコと読みしは誤りにして、平田氏のヒメノコと読みしが正しきことを認めたれば、今の版にはこれを改めたり。

第三巻 第一〇号 最古日本の女性生活の根底/稲むらの陰にて 折口信夫  定価:200円
最古日本の女性生活の根底
  一 万葉びと――琉球人
  二 君主――巫女
  三 女軍(めいくさ)
  四 結婚――女の名
  五 女の家
稲むらの陰にて
 古代の歴史は、事実の記憶から編み出されたものではない。神人(かみびと)に神憑(がか)りした神の、物語った叙事詩から生まれてきたのである。いわば夢語りともいうべき部分の多い伝えの、世をへて後、筆録せられたものにすぎない。(略)神々の色彩を持たない事実などの、後世に伝わりようはあるべきはずがないのだ。(略)女として神事にあずからなかった者はなく、神事に関係せなかった女の身の上が、物語の上に伝誦せられるわけがなかったのである。
(略)村々の君主の下になった巫女が、かつては村々の君主自身であったこともあるのである。『魏志』倭人伝の邪馬台(ヤマト)国の君主卑弥呼は女性であり、彼の後継者も女児であった。巫女として、呪術をもって、村人の上に臨んでいたのである。が、こうした女君制度は、九州の辺土には限らなかった。卑弥呼と混同せられていた神功皇后も、最高巫女としての教権をもって、民を統べていられた様子は、『日本紀』を見れば知られることである。(略)
 沖縄では、明治の前までは国王の下に、王族の女子あるいは寡婦が斎女王(いつきのみこ)同様の仕事をして、聞得大君(きこえうふきみ)(ちふいぢん)と言うた。尚家の中途で、皇后の下に位どられることになったが、以前は沖縄最高の女性であった。その下に三十三君というて、神事関係の女性がある。それは地方地方の神職の元締めのような位置にいる者であった。その下にあたるノロ(祝女)という、地方の神事官吏なる女性は今もいる。そのまた下にその地方の家々の神につかえる女の神人がいる。この様子は、内地の昔を髣髴(ほうふつ)させるではないか。沖縄本島では聞得大君を君主と同格に見た史実がない。が、島々の旧記にはその痕跡が残っている。(「最古日本の女性生活の根底」より)

第三巻 第一一号 瀬戸内海の潮と潮流(他三編)寺田寅彦  定価:200円
瀬戸内海の潮と潮流
コーヒー哲学序説
神話と地球物理学
ウジの効用
 一体、海の面はどこでも一昼夜に二度ずつ上がり下がりをするもので、それを潮の満干といいます。これは月と太陽との引力のためにおこるもので、月や太陽がたえず東から西へまわるにつれて、地球上の海面の高くふくれた満潮の部分と低くなった干潮の部分もまた、だいたいにおいて東から西へ向かって大洋の上を進んで行きます。このような潮の波が内海のようなところへ入って行きますと、いろいろに変わったことがおこります。ことに瀬戸内海のように外洋との通路がいくつもあり、内海の中にもまた瀬戸がたくさんあって、いくつもの灘に分かれているところでは、潮の満干もなかなか込み入ってきて、これをくわしく調べるのはなかなか難しいのです。しかし、航海の頻繁なところであるから潮の調査は非常に必要なので、海軍の水路部などではたくさんな費用と時日を費やしてこれを調べておられます。東京あたりと四国の南側の海岸とでは満潮の時刻は一時間くらいしか違わないし、満干の高さもそんなに違いませんが、四国の南側とその北側とでは満潮の時刻はたいへんに違って、ところによっては六時間も違い、一方の満潮の時に他のほうは干潮になることもあります。また、内海では満干の高さが外海の倍にもなるところがあります。このように、あるところでは満潮であるのに他のところでは干潮になったり、内海の満干の高さが外海の満干の高さの倍になるところのあるのは、潮の流れがせまい海峡を入るためにおくれ、また、方々の入口から入り乱れ、重なり合うためであります。(「瀬戸内海の潮と潮流」より)

第三巻 第一二号 日本人の自然観/天文と俳句 寺田寅彦  定価:200円
日本人の自然観
 緒言
 日本の自然
 日本人の日常生活
 日本人の精神生活
 結語
天文と俳句
 もしも自然というものが、地球上どこでも同じ相貌(そうぼう)をあらわしているものとしたら、日本の自然も外国の自然も同じであるはずであって、したがって上記のごとき問題の内容吟味は不必要であるが、しかし実際には、自然の相貌がいたるところむしろ驚くべき多様多彩の変化を示していて、ひと口に自然と言ってしまうにはあまりに複雑な変化を見せているのである。こういう意味からすると、同じように、「日本の自然」という言葉ですらも、じつはあまりに漠然としすぎた言葉である。(略)
 こう考えてくると、今度はまた「日本人」という言葉の内容が、かなり空疎な散漫なものに思われてくる。九州人と東北人とくらべると各個人の個性を超越するとしても、その上にそれぞれの地方的特性の支配が歴然と認められる。それで九州人の自然観や、東北人の自然観といったようなものもそれぞれ立派に存立しうるわけである。(略)
 われわれは通例、便宜上、自然と人間とを対立させ、両方別々の存在のように考える。これが現代の科学的方法の長所であると同時に短所である。この両者は、じつは合わして一つの有機体を構成しているのであって、究極的には独立に切り離して考えることのできないものである。(略)
 日本人の先祖がどこに生まれ、どこから渡ってきたかは別問題として、有史以来二千有余年、この土地に土着してしまった日本人が、たとえいかなる遺伝的記憶をもっているとしても、その上層を大部分掩蔽(えんぺい)するだけの経験の収穫をこの日本の環境から受け取り、それにできるだけしっくり適応するように努力し、また少なくも、部分的にはそれに成効してきたものであることには疑いがないであろうと思われる。(「日本人の自然観」より)

第三巻 第一三号 倭女王卑弥呼考(一)白鳥庫吉  定価:200円
 倭人の名は『山海経』『漢書』『論衡』などの古書に散見すれども、その記事いずれも簡単にして、これによりては、いまだ上代における倭国の状態をうかがうに足(た)らず。しかるにひとり『魏志』の「倭人伝」に至りては、倭国のことを叙することすこぶる詳密にして、しかも伝中の主人公たる卑弥呼女王の人物は、赫灼(かくしゃく)として紙上に輝き、読者をしてあたかも暗黒の裡に光明を認むるがごとき感あらしむ。(略)
 それすでに里数をもってこれを測るも、また日数をもってこれを稽(かんが)うるも、女王国の位置を的確に知ることあたわずとせば、はたしていかなる事実をかとらえてこの問題を解決すべき。余輩は幾度か『魏志』の文面を通読玩索(がんさく)し、しかして後、ようやくここに確乎動かすべからざる三個の目標を認め得たり。しからばすなわち、いわゆる三個の目標とは何ぞや。いわく邪馬台国は不弥国より南方に位すること、いわく不弥国より女王国に至るには有明の内海を航行せしこと、いわく女王国の南に狗奴国と称する大国の存在せしこと、すなわちこれなり。さて、このうち第一・第二の二点は『魏志』の文面を精読して、たちまち了解せらるるのみならず、先輩すでにこれを説明したれば、しばらくこれを措(お)かん。しかれども第三点にいたりては、『魏志』の文中明瞭の記載あるにもかかわらず、余輩が日本学会においてこれを述べたる時までは、何人もかつてここに思い至らざりしがゆえに、また、この点は本論起草の主眼なるがゆえに、余輩は狗奴国の所在をもって、この問題解決の端緒を開かんとす。

第三巻 第一四号 倭女王卑弥呼考(二)白鳥庫吉  月末最終号:無料
 九州の西海岸は潮汐満乾の差はなはだしきをもって有名なれば、上に記せる塩盈珠(しおみつたま)・塩乾珠(しおひるたま)の伝説は、この自然的現象に原因しておこれるものならん。ゆえに神典に見えたる彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と火闌降命(ほのすそりのみこと)との争闘は、『魏志』によりて伝われる倭女王と狗奴(くな)男王との争闘に類せる政治的状態の反映とみなすべきものなり。
 『魏志』の記すところによれば、邪馬台国はもと男子をもって王となししが、そののち国中混乱して相攻伐し、ついに一女子を立てて王位につかしむ。これを卑弥呼となす。この女王登位の年代は詳らかならざれども、そのはじめて魏国に使者を遣わしたるは、景初二年すなわち西暦二三八年なり。しかして正始八年すなわち西暦二四七年には、女王、狗奴国の男王と戦闘して、その乱中に没したれば、女王はけだし後漢の末葉よりこの時まで九州の北部を統治せしなり。女王死してのち国中また乱れしが、その宗女壱与(いよ)なる一小女を擁立するにおよんで国乱定まりぬ。卑弥呼の仇敵狗奴国の男王卑弓弥呼(ヒコミコ)は何年に即位し何年まで在位せしか、『魏志』に伝わらざれば、またこれを知るに由なし。しかれども正始八年(二四七)にこの王は女王卑弥呼と戦って勝利を得たれば、女王の嗣者壱与(いよ)の代におよんでも、依然として九州の南部に拠りて、暴威を逞(たくま)しうせしに相違なし。

第三巻 第一五号 倭奴国および邪馬台国に関する誤解 他 喜田貞吉  定価:200円
倭奴国と倭面土国および倭国とについて稲葉君の反問に答う
倭奴国および邪馬台国に関する誤解
 考古界の重鎮高橋健自君逝(い)かれて、考古学会長三宅先生〔三宅米吉。〕の名をもって追悼の文をもとめられた。しかもまだ自分がその文に筆を染めぬ間にその三宅先生がまた突然逝かれた。本当に突然逝かれたのだった。青天の霹靂というのはまさにこれで、茫然自失これを久しうすということは、自分がこの訃報に接した時にまことに体験したところであった。
 自分が三宅先生とご懇意を願うようになったのは、明治三十七、八年(一九〇四・一九〇五)戦役のさい、一緒に戦地見学に出かけた時であった。十数日間いわゆる同舟の好みを結び、あるいは冷たいアンペラの上に御同様南京虫を恐がらされたのであったが、その間にもあの沈黙そのもののごときお口から、ポツリポツリと識見の高邁なところをうけたまわるの機会を得て、その博覧強記と卓見とは心から敬服したことであった。今度考古学会から、先生のご研究を記念すべき論文を募集せられるというので、倭奴国および邪馬台国に関する小篇をあらわして、もって先生の学界における功績を追懐するの料とする。
 史学界、考古学界における先生の遺された功績はすこぶる多い。しかしその中において、直接自分の研究にピンときたのは漢委奴国王の問題の解決であった。うけたまわってみればなんの不思議もないことで、それを心づかなかった方がかえって不思議なくらいであるが、そこがいわゆるコロンブスの卵で、それまで普通にそれを怡土国王のことと解して不思議としなかったのであった。さらに唐人らの輩にいたっては、それをもって邪馬台国のことなりとし、あるいはただちに倭国全体の称呼であるとまで誤解していたのだった。

第三巻 第一六号 初雪 モーパッサン 秋田 滋(訳)  定価:200円
 長いクロワゼットの散歩路が、あおあおとした海に沿うて、ゆるやかな弧を描いている。はるか右のほうにあたって、エストゥレルの山塊がながく海のなかに突き出て眼界をさえぎり、一望千里のながめはないが、奇々妙々を極めた嶺岑(みね)をいくつとなく擁するその山姿は、いかにも南国へ来たことを思わせる、うつくしいながめであった。
 頭をめぐらして右のほうを望むと、サント・マルグリット島とサント・オノラ島が、波のうえにぽっかり浮かび、樅(もみ)の木におおわれたその島の背を二つ見せている。
 この広い入江のほとりや、カンヌの町を三方から囲んで屹立(きつりつ)している高い山々に沿うて、数知れず建っている白亜の別荘は、おりからの陽ざしをさんさんと浴びて、うつらうつら眠っているように見えた。そしてはるか彼方には、明るい家々が深緑の山肌を、その頂から麓のあたりまで、はだれ雪のように、まだらに点綴(てんてい)しているのが望まれた。
 海岸通りにたちならんでいる家では、その柵のところに鉄の格子戸がひろい散歩路のほうに開くようにつけてある。その路のはしには、もう静かな波がうちよせてきて、ザ、ザアッとそれを洗っていた。――うらうらと晴れわたった、暖かい日だった。冬とは思われない陽ざしの降りそそぐ、なまあたたかい小春日和である。輪を回して遊んでいる子供を連れたり、男となにやら語らいながら、足どりもゆるやかに散歩路の砂のうえを歩いてゆく女の姿が、そこにもここにも見えた。

第三巻 第一七号 高山の雪 小島烏水  定価:200円
 古い雪の上に新雪が加わると、その翌る朝などは、新雪が一段と光輝を放ってまばゆく見える。雪は古くなるほど、結晶形を失って、粒形に変化するもので、粒形になると、純白ではなくなる。また粒形にならないまでも、古い雪に白い輝きがなくなるのは、一部は空気を含むことが少ないからで、一部は鉱物の分子だの、塵芥(じんかい)泥土だのが加わって、黄色、灰色、またはトビ色に変わってしまうからだ。ことに日本北アルプスの飛騨山脈南部などでは、硫黄岳という活火山の降灰のために、雪のおもてが、瀝青(チャン)を塗ったように黒くなることがある。「黒い雪」というものは、私ははじめて、その硫黄岳のとなりの、穂高岳で見た。黒い雪ばかりじゃない、「赤い雪」も槍ヶ岳で私の実見したところである。私は『日本アルプス』第二巻で、それを「色が桃紅なので、水晶のような氷の脈にも血管が通っているようだ」と書いて、原因を花崗岩の※爛(ばいらん)した砂に帰したが、これは誤っている。赤い雪は南方熊楠氏の示教せられたところによれば、スファエレラ・ニヴァリス Sphaerella Nivalis という単細胞の藻で、二本のひげがある。水中を泳ぎまわっているが、またひげを失ってまるい顆粒となり、静止してしまう。それが紅色を呈するため、雪が紅になるので、あまり珍しいものではないそうである。ただし槍ヶ岳で見たのも、同種のものであるや否やは、断言できないが、要するに細胞の藻類であることは、たしかであろうと信ずる。ラボックの『スイス風景論』中、アルプス地方に見る紅雪として、あげてあるのも、やはり同一な細胞藻であった。このほかにアンシロネマ Ancylonema という藻がはえて、雪を青色またはスミレ色に染めることもあるそうであるが、日本アルプス地方では、私はいまだそういう雪を見たことはない。

第三巻 第一八号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(一)徳永 直  月末最終号:無料
 昭和十八年(一九四三)三月のある日、私は“嘉平の活字”をさがすため、東京発鹿児島行きの急行に乗っていた。伴(つ)れがあって、七歳になる甥と、その母親の弟嫁とが、むかいあってこしかけているが、厚狭、小月あたりから、海岸線の防備を見せまいためか、窓をおろしてある車内も、ようやく白んできた。戦備で、すっかり形相のかわった下関構内にはいったころは、乗客たちも洗面の水もない不自由さながら、それぞれに身づくろいして、朝らしく生きかえった顔色になっている……。
 と、私はこの小説だか何だかわからない文章の冒頭をはじめるが、これを書いているのは昭和二十三年(一九四八)夏である。読者のうちには、昭和十八年に出版した同題の、これの上巻を読まれた方もあるかと思うが、私が「日本の活字」の歴史をさがしはじめたのは昭和十四年(一九三九)からだから、まもなくひと昔になろうとしているわけだ。歴史などいう仕事にとっては、十年という月日はちょっとも永くないものだと、素人の私にもちかごろわかってきているが、それでも、鉄カブトに巻ゲートルで、サイレンが鳴っても空襲サイレンにならないうちは、これのノートや下書きをとる仕事をつづけていたころとくらべると、いまは現実の角度がずいぶん変わってきている。弱い歴史の書物など、この変化の関所で、どっかへふっとんだ。いまの私は半そでシャツにサルマタで机のまえにあぐらでいるけれど、上巻を読みかえしてみると、やはり天皇と軍閥におされた多くのひずみを見出さないわけにはゆかない。歴史の真実をえがくということも、階級のある社会では、つねにはげしい抵抗をうける。変わったとはいえ、戦後三年たって、ちがった黒雲がますます大きくなってきているし、新しい抵抗を最初の数行から感じずにいられぬが、はたして、私の努力がどれくらい、歴史の真実をえがき得るだろうか?

第三巻 第一九号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(二)徳永 直  定価:200円
 「江戸期の印刷工場」が近代的な印刷工場に飛躍するためには、活字のほかにいくつかの条件が必要である。第一にはバレンでこするかわりに、鉄のハンドでしめつけるプレスである。第二に、速度のある鋳造機である。第三に、バレン刷りにはふさわしくても金属活字に不向きな「和紙」の改良である。そして第四は、もっともっと重要だが、近代印刷術による印刷物の大衆化を見とおし、これを開拓してゆくところのイデオロギーである。特定の顧客であった大名や貴族、文人や墨客から離脱して、開国以後の新空気に胎動する平民のなかへゆこうとする思想であった。
 苦心の電胎字母による日本の活字がつくれても、それが容易に大衆化されたわけではない。のちに見るように「長崎の活字」は、はるばる「東京」にのぼってきても買い手がなくて、昌造の後継者平野富二は大童(おおわらわ)になって、その使用法や効能を宣伝しなければならなかったし、和製のプレスをつくって売り広めなければならなかったのである。つまり日本の近代的印刷工場が誕生するためには、総合的な科学の力と、それにもまして新しい印刷物を印刷したい、印刷することで大衆的におのれの意志を表現しようとする中味が必要であった。たとえばこれを昌造の例に見ると、彼は蒸汽船をつくり、これを運転し、また鉄を製煉し、石鹸をつくり、はやり眼を治し、痘瘡をうえた。活字をつくると同時に活字のボディに化合すべきアンチモンを求めて、日本の鉱山の半分くらいは探しまわったし、失敗に終わったけれど、いくたびか舶来のプレスを手にいれて、これの操作に熟練しようとした。これらの事実は、ガンブルがくる以前、嘉永から慶応までのことであるが、同時に、昌造が活字をつくったとき最初の目的が、まずおのれの欲する中味の本を印刷刊行したいことであった。印刷して、大名や貴族、文人や墨客ではない大衆に読ませたいということであった。それは前編で見たように、彼が幕府から捕らわれる原因ともなった流し込み活字で印刷した『蘭語通弁』〔蘭和通弁か〕や、電胎活字で印刷した『新塾余談』によっても明らかである。

第三巻 第二〇号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(三)徳永 直  定価:200円
 第一に、ダイアはアルファベット活字製法の流儀にしたがって鋼鉄パンチをつくった。凹型銅字母から凸型活字の再生まで嘉平や昌造と同様であるが、字画の複雑な漢字を「流しこみ」による鋳造では、やさしくないということを自覚していること。自覚していること自体が、アルファベット活字製法の伝統でそれがすぐわかるほど、逆にいえば自信がある。
 第二は、ダイアはたとえば嘉平などにくらべると、後に見るように活字製法では「素人」である。嘉平も昌造も自分でパンチを彫ったが、そのダイアは「労働者を使用し」た。(略)
 第三に、ダイアの苦心は活字つくりの実際にもあるが、もっと大きなことは、漢字の世界を分析し、システムをつくろうとしていることである。アルファベット人のダイアは、漢字活字をつくる前に漢字を習得しなければならなかった。(略)
 さて、ペナンで発生したダイア活字は、これから先、どう発展し成功していったかは、のちに見るところだけれど、いまやパンチによる漢字活字が実際的に誕生したことはあきらかであった。そして、嘉平や昌造よりも三十年早く。日本では昌造・嘉平の苦心にかかわらず、パンチでは成功しなかった漢字活字が、ダイアによっては成功したということ。それが、アルファベット人におけるアルファベット活字製法の伝統と技術とが成功させたものであるということもあきらかであった。そして、それなら、この眼玉の青い連中は、なんで世界でいちばん難しい漢字をおぼえ、活字までつくろうとするのか? いったい、サミュエル・ダイアなる人物は何者か? 世界の同志によびかけて拠金をつのり、世界三分の一の人類の幸福のために、と、彼らは、なんでさけぶのか? 私はそれを知らねばならない。それを知らねば、ダイア活字の、世界で最初の漢字鉛活字の誕生したその根拠がわからぬ、と考えた。

第三巻 第二一号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(四)徳永 直  定価:200円
 アジアには十六世紀を前後して銅活字の時代があり、朝鮮でも日本でもおこなわれている。秀吉の朝鮮侵略のみやげものに端を発している家康・家光時代の銅活字印刷があるけれど、それにくらべると、このさし絵に見る康熙帝の印刷局ははるかに大規模で組織的であることがわかる。しかし、日本でも『お湯殿日記』に見るような最初の文選工は「お公卿たち」であったが、支那でもあごひげの長い官人たちであった。明治になって印刷術が近代化されてからでも、印刷工業をおこした人々の多くが、武家など文字になじみのある階級だったように、私の徒弟だったころの先輩の印刷工の多くが、やはり士族くずれだったことを思い出す。(略)
 武英殿の銅活字は康熙帝の孫、高宗〔乾隆帝〕の代になるとつぶされて銅貨となった。日本でも家康時代の銅活字は同じ運命をたどっているけれど、支那のばあいは銅貨の不足が原因といわれている。しかし、もっと大きな原因は金属活字にあって、漢字組織ができないならば、またプレス式の印刷機もないとするならば、むしろ手わざの発達による木版の方が容易であり便利であった。ボディが銅であれ鉛であれ、それが彫刻に過ぎないならば、むしろ木版にしくはない。銅活字がほろびて再び木版術が栄え、極彩色の芸術的な印刷物もできるようになった。康熙・乾隆の時代に見られるこの傾向は、十七世紀の終わりから十八世紀のなかほどまでであるが、江戸中期から木版術が再興し、世界にたぐいない木版印刷術を生み出した日本と時間的にもほぼ一致している――ということも、漢字が持つ共通の宿命がするわざであったろう。

第三巻 第二二号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(五)徳永 直  月末最終号:無料
 『東洋文化史上におけるキリスト教』(三六二ページ)で溝口靖夫氏は、前に述べたメドハーストが(Ibid, P.366)自分の当時の経験を追懐した文章を根拠にして、つぎのように述べているところがある。――第五の困難は、アヘン問題と宣教師の関係であった。メドハーストが広東に着いた一八三五年は、アヘン戦争の直前であり、支那と英国のあいだに険悪な空気がみなぎっていた。このときにあたって宣教師たちは、きわめて困難なる立場に置かれた。宣教師たちは、しばしばアヘンを積んだ船に乗ってきた。しかも、メドハーストらは切符は買っているが、積荷について容嘴(ようし)する権利はなかった。……宣教師は、英国人と支那人との間に立って、しばしば通訳の労をとらねばならなかったが、こんなとき支那人はアヘン貿易は正義にかなえるものなりや否や? をただすのであった。……ゆえに当時、宣教師たちのこいねがったのは、一艘の伝道用船を得ることであった。これによりアヘンの罪悪からまぬがるることであった。――一艘の伝道船で、アヘンから逃れることはできないけれど、一口にいって「インドからの手紙」は、英国議会をして宣教師らの活動を保証させる決議案をパスさせながら、こんどは「信教の自由憲章」を勝ち取らねばならぬほどそれが首かせになったことを示している。つまり、産業革命が生み出したアルファベット人種の革命的進歩性は、おなじ産業革命が生み出した「アヘンの罪悪」と衝突しなければならなかったが、この矛盾こそ資本主義の矛盾の中味であり、限界であった。

第三巻 第二三号 銀河鉄道の夜(一)宮沢賢治  定価:200円
「ですから、もしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです。またこれを大きな乳の流れと考えるなら、もっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂油(あぶら)の球にもあたるのです。(略)」
 先生は中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな両面の凸レンズをさしました。
「天の川の形はちょうどこんななのです。このいちいちの光るつぶが、みんな私どもの太陽と同じようにじぶんで光っている星だと考えます。私どもの太陽がこのほぼ中ごろにあって地球がそのすぐ近くにあるとします。みなさんは夜にこのまん中に立ってこのレンズの中を見まわすとしてごらんなさい。こっちの方はレンズが薄いので、わずかの光る粒、すなわち星しか見えないのでしょう。こっちやこっちの方はガラスが厚いので、光る粒すなわち星がたくさん見え、その遠いのはボウッと白く見えるという、これがつまり今日の銀河の説なのです。そんならこのレンズの大きさがどれくらいあるか、また、その中のさまざまの星についてはもう時間ですから、この次の理科の時間にお話しします。では今日はその銀河のお祭りなのですから、みなさんは外へ出て、よく空をごらんなさい。ではここまでです。本やノートをおしまいなさい。
 そして教室じゅうはしばらく机のふたをあけたりしめたり本をかさねたりする音がいっぱいでしたが、まもなく、みんなはきちんと立って礼をすると教室を出ました。 

第三巻 第二四号 銀河鉄道の夜(二)宮沢賢治  定価:200円
 そのとき汽車はだんだんしずかになって、いくつかのシグナルと転轍器(てんてつき)の灯をすぎ、小さな停車場に止まりました。
 その正面の青じろい時計はかっきり第二時を示し、その振子は、風もなくなり汽車も動かずしずかなしずかな野原のなかに、カチッカチッと正しく時をきざんで行くのでした。
 そしてまったくその振子の音の間から遠くの遠くの野原のはてから、かすかなかすかな旋律が糸のように流れてくるのでした。「新世界交響楽だわ。」むこうの席の姉がひとりごとのようにこっちを見ながらそっと言いました。まったくもう車の中ではあの黒服の丈高い青年も誰もみんなやさしい夢を見ているのでした。
(こんなしずかないいところで僕はどうしてもっと愉快になれないだろう。どうしてこんなにひとりさびしいのだろう。けれどもカムパネルラなんかあんまりひどい。僕といっしょに汽車に乗っていながら、まるであんな女の子とばかり話しているんだもの。僕はほんとうにつらい。)
 ジョバンニはまた両手で顔を半分かくすようにして、むこうの窓の外を見つめていました。
 透きとおったガラスのような笛が鳴って、汽車はしずかに動き出し、カムパネルラもさびしそうに星めぐりの口笛をふきました。

第三巻 第二五号 ドングリと山猫/雪渡り 宮沢賢治  定価:200円
 空が青くすみわたり、ドングリはピカピカしてじつにきれいでした。
「裁判ももう今日で三日目だぞ、いい加減になかなおりをしたらどうだ。」山ねこが、すこし心配そうに、それでもむりに威張(いば)って言いますと、ドングリどもは口々にさけびました。
「いえいえ、だめです、なんといったって頭のとがってるのがいちばんえらいんです。そしてわたしがいちばんとがっています。
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。いちばんまるいのはわたしです。
「大きなことだよ。大きなのがいちばんえらいんだよ。わたしがいちばん大きいからわたしがえらいんだよ。
「そうでないよ。わたしのほうがよほど大きいと、きのうも判事さんがおっしゃったじゃないか。
「だめだい、そんなこと。せいの高いのだよ。せいの高いことなんだよ。
「押しっこのえらいひとだよ。押しっこをしてきめるんだよ。」もうみんな、ガヤガヤガヤガヤ言って、なにがなんだか、まるで蜂の巣をつっついたようで、わけがわからなくなりました。そこで山猫がさけびました。
「やかましい! ここをなんとこころえる。しずまれ、しずまれ!」

第三巻 第二六号 光をかかぐる人々[続]『世界文化』連載分(六)徳永 直  定価:200円
 活字が日本に渡るには、他の条件が必要であった。そして、その他の条件のうちもっとも大きなものは、やはり文久二年・一八六二年の日本幕府がはじめてやった貿易船千歳丸の上海入港であったろう。(略)経済的にいえばこの貿易は失敗したけれど、不馴れな幕府の役人たちは積荷をそのまま持ち戻るはめにもなったけれど、オランダの役人につれられて各国の領事たちにあったり、諸外国人の活動ぶりを見てびっくりした。たとえばこれを便乗者・高杉一人の場合に見てもあきらかである。(略)その後二年あまりで、攘夷の中心長州藩が領民に洋品使用の禁を解き、薩摩や佐賀と前後して海外貿易を営なんだ急角度の転回も、したがって「薩長締盟」を可能にした思想的背景も、このときの千歳丸便乗によって彼が上海で感得したものによるところ、はなはだ多いといわれている。
 (略)第一回の千歳丸のときは高杉のほかに中牟田や五代〔五代友厚か。〕や浜松藩の名倉(なぐら)予可人(あなと)などあったが、第二回の健順丸のときは、前巻でなじみの昌造の同僚で長崎通詞、安政開港に功労のあった森山多吉郎、先の栄之助がいまは外国奉行支配調役として乗り組んでいたし、第三回目、慶応三年(一八六七)の同じく幕府船ガンジス号のときは、佐倉藩士高橋作之助〔猪之助か。(のちの由一)ら多数があり、たび重なるにつれて上海渡航者の数は急速に増えていった。(略)
 また、官船以外の密航者、あるいは藩所有の船修理と称して渡航する者もたくさんあった。(略)さては中浜万次郎を案内に立てて汽船を買いに来た土佐藩の後藤象次郎などと、千歳丸以後は「きびす相ついで」いる(略)。

第三巻 第二七号 特集 黒川能・春日若宮御祭 折口信夫  月末最終号:無料
黒川能・観点の置き所
 特殊の舞台構造
 五流の親族
 能楽史をかえりみたい
 黒川の能役者へ
村で見た黒川能
能舞台の解説
春日若宮御祭の研究
 おん祭りの今と昔と
 祭りのお練り
 公人の梅の白枝(ずはえ)
 若宮の祭神
 大和猿楽・翁
 影向松・鏡板・風流・開口
 細男(せいのお)・高足・呪師

 山形県には、秋田県へかけて室町時代の芸能に関した民俗芸術が多く残っております。黒川能は、その中でも著しいものの一つで、これと鳥海山の下のひやま舞い〔杉沢比山舞か。〕との二つは、特に皆さまに見ていただきたいものであります。この黒川能が二十数年ぶりでのぼってくるのであります。世話をしてくださった斎藤氏〔斎藤香村か。〕に感謝しなければならないと思います。
 特にこの能で注意しなければならないのは、舞台構造であります。京都の壬生念仏を思わせるような舞台で、上下の廊下が橋掛りになっており、舞台の正面には春日神社の神殿をひかえているのであります。(略)奉仕する役者はというと、上座と下座が二部落にわかれており、ここで能をするときは、上座は左橋掛り(正面から見て)から出て舞い、下座は右橋掛りから出て舞うことになっている。これはもっとも大きな特徴で、今度の公演にいくぶんでも実現できれば結構だと思います。この神前演奏の形は、春日の若宮祭りの第一日の式と同形式といっていいと思います。しかも、黒川ではつねにその形式をくり返しているわけで、見物人よりも神に対する法楽を主としていることがわかります。
(略)おもしろいのは狂言です。表情にも言語にも必ず多少の驚きを受けられるでしょう。ことに方言的な言い回しなどには、つい、われわれも見ていて釣りこまれるものがありました。(「黒川能・観点の置き所」より)

第三巻 第二八号 面とペルソナ/人物埴輪の眼 他 和辻哲郎  定価:200円
面とペルソナ / 文楽座の人形芝居
能面の様式 / 人物埴輪の眼
(略)しかし「意味ある形」、たとえば「甲冑」を円筒上の人物に着せたとなると、その甲冑は、四肢などに対するとはまったく段ちがいの細かな注意をもって表現されている。(略)それはこの鉄の武器が、人体などよりもはるかに強い関心の対象であったことを示すものであって、いかにも古墳時代の感じ方らしい。(略)
(略)埴輪(はにわ)人形を近くからでなく、三間、五間、あるいはそれ以上に、ときには二、三十間の距離を置いて、ながめてみる必要があると思う。それによって埴輪人形の眼はじつに異様な生気をあらわしてくるのである。もし、この眼が写実的に形作られていたならば、すこし遠のけば、はっきりとは見えなくなるであろう。しかるにこの眼は、そういう形づけを受けず、そばで見れば粗雑に裏までくりぬいた空洞の穴にすぎないのであるが、遠のけば遠のくほど、その粗雑さが見えなくなり、魂の窓としての眼の働きが表面へ出てくる。それが異様な生気を現わしてくるゆえんなのである。眼にそういう働きがあらわれれば、顔面は生気をおび、埴輪人形全体が生きてくるのはもちろんである。古墳時代の人々はそういうふうにして埴輪の人形を見、また、そういうふうに見えるものとして埴輪の人形を作ったのであった。

第三巻 第二九号 火山の話 今村明恒  定価:200円
 桜島噴火はいちじるしい前徴を備えていた。数日前から地震が頻々(ひんぴん)におこることは慣例であるが、今回も一日半前から始まった。また七、八十年前から土地がしだいに隆起しつつあったが、噴火後は元どおりに沈下したのである。そのほか、温泉・冷泉がその温度を高め、あるいは湧出量を増し、あるいは新たに湧出し始めたようなこともあった。
 霧島火山群は東西五里にわたり二つの活火口と多くの死火山とを有している。その二つの活火口とは矛の峰(高さ一七〇〇メートル)の西腹にある御鉢(おはち)と、その一里ほど西にある新燃鉢(しんもえばち)とである。霧島火山はこの二つの活火口で交互に活動するのが習慣のように見えるが、最近までは御鉢が活動していた。ただし享保元年(一七一六)における新燃鉢の噴火は、霧島噴火史上においてもっとも激しく、したがって最高の損害記録をあたえたものであった。
 磐梯山(高さ一八一九メートル)の明治二十一年(一八八八)六月十五日における大爆発は、当時、天下の耳目を聳動(しょうどう)せしめたものであったが、クラカトアには比較すべくもない。このときに磐梯山の大部分は蒸気の膨張力によって吹き飛ばされ、堆積物が渓水をふさいで二、三の湖水を作ったが、東側に流れ出した泥流のために土地のみならず、四百余の村民をも埋めてしまったのである。

第三巻 第三〇号 現代語訳『古事記』(一)武田祐吉(訳)  定価:200円
 古事記 上の巻
   序文
    過去の時代(序文の第一段)
    『古事記』の企画(序文の第二段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
    『古事記』の成立(序文の第三段)
   一、イザナギの命とイザナミの命
    天地のはじめ
    島々の生成
    神々の生成
    黄泉の国
    身禊
   二、アマテラス大神とスサノオの命
    誓約
    天の岩戸
   三、スサノオの命
    穀物の種
    八俣の大蛇
    系譜
 スサノオの命は、かようにして天の世界から逐(お)われて、下界へ下っておいでになり、まず食物をオオゲツ姫の神にお求めになりました。そこでオオゲツ姫が鼻や口、また尻からいろいろのごちそうを出して、いろいろお料理をしてさしあげました。この時にスサノオの命はそのしわざをのぞいて見て、きたないことをして食べさせるとお思いになって、そのオオゲツ姫の神を殺してしまいました。殺された神の身体にいろいろの物ができました。頭にカイコができ、二つの目に稲種ができ、二つの耳にアワができ、鼻にアズキができ、股の間にムギができ、尻にマメができました。カムムスビの命が、これをお取りになって種となさいました。
 かくてスサノオの命は逐いはらわれて出雲の国の肥(ひ)の川上、鳥髪(とりかみ)という所におくだりになりました。このときに箸(はし)がその河から流れてきました。それで川上に人が住んでいるとお思いになってたずねて上っておいでになりますと、老翁と老女と二人があって少女を中において泣いております。そこで「あなたは誰ですか?」とおたずねになったので、その老翁が、「わたくしはこの国の神のオオヤマツミの神の子でアシナヅチといい、妻の名はテナヅチ、娘の名はクシナダ姫といいます」と申しました。また「あなたの泣くわけはどういう次第ですか?」とおたずねになったので「わたくしの女(むすめ)はもとは八人ありました。それを高志(コシ)の八俣の大蛇(おろち)が毎年きて食べてしまいます。今また、それの来る時期ですから泣いています」と申しました。

第三巻 第三一号 現代語訳『古事記』(二)武田祐吉(訳)  月末最終号:無料
 古事記 上の巻
   四、大国主の命
    兎と鰐
    赤貝姫と蛤貝姫
    根の堅州国(かたすくに)
    ヤチホコの神の歌物語
    系譜
    スクナビコナの神
    御諸山の神
    大年の神の系譜
   五、アマテラス大神と大国主の命
    天若日子(あめわかひこ)
    国譲り
   六、ニニギの命
    天降り
    猿女の君
    木の花の咲くや姫
   七、ヒコホホデミの命
    海幸と山幸
    トヨタマ姫
スクナビコナの神 そこで大国主の命が出雲の御大(みほ)の御埼(みさき)においでになった時に、波の上をツルイモのさやを割って船にして、蛾(が)の皮をそっくりはいで着物にして寄ってくる神さまがあります。その名を聞きましたけれども答えません。また、御従者(おとも)の神たちにおたずねになったけれども、みな知りませんでした。ところがヒキガエルが言うことには、「これはクエ彦がきっと知っているでしょう」と申しましたから、そのクエ彦を呼んでおたずねになると、「これはカムムスビの神の御子でスクナビコナの神です」と申しました。よってカムムスビの神に申し上げたところ、「ほんとにわたしの子だ。子どもの中でも、わたしの手の股からこぼれて落ちた子どもです。あなた、アシハラシコオの命と兄弟となってこの国を作り固めなさい」とおおせられました。それで、それから大国主とスクナビコナとお二人が並んでこの国を作り固めたのです。後にはそのスクナビコナの神は、海のあちらへ渡って行ってしまいました。このスクナビコナの神のことを申し上げたクエ彦というのは、今いう山田のカカシのことです。この神は足は歩きませんが、天下のことをすっかり知っている神さまです。
御諸山の神 そこで大国主の命が心憂く思っておおせられたことは、「わたしはひとりではどのようにしてこの国を作り得ましょう。どの神さまといっしょにわたしはこの国を作りましょうか?」とおおせられました。この時に、海上を照らして寄ってくる神さまがあります。その神のおおせられることには、「わたしに対してよくおまつりをしたら、わたしがいっしょになって国を作りましょう。そうしなければ国はできにくいでしょう」とおおせられました。そこで大国主の命が申されたことには、「それなら、どのようにしておまつりをいたしましょう?」と申されましたら、「わたしを大和の国の青々と取り囲んでいる東の山の上におまつりなさい」とおおせられました。これは御諸(みもろ)の山においでになる神さまです。

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