文月、いや七月。鬱陶しい梅雨が終わり、海や山に人が集まるようになる。一年で最も暑い季節は、始まったばかり。
春には見事な満開の桜を咲かせていた桜の木々も、この時期には青々とした葉をしげらせて、躍動の季節を謳歌している。
「……なぁ」
一際大きい桜の木の上、太い枝の上で寝そべる人影があった。少女だろう。
「ここに通い詰めて、もう五年目になるのか」
他に人がいるようには見えない。気持ち良さそうに寝ている少女は、独り言なのか、それとも実は誰かいるのか、話しかけるように呟く。
「正直、おまえの考えは、未だにわからん」
夏が蒸し暑いのは当たり前だ。この時期に学校が休みになるのも当たり前だ。
七月ももうすぐ終わろうとする頃、皆が待望の夏休みがようやくやって来た。
しかし。
「ねえ」
「なんだよ」
ミノルはちょっと覇気の無い声で呼びかけた。しかしハオの返事はつれない。
「ホントに行くの?」
「おまえな。ここまで来て『ホントに行くの?』はねえだろ」
「だって、こんなに暑くてしんどいとは思わなかった」
「夏が暑いのは当たり前だ」
そりゃそうだ。
しかしクラスメートの誘いに乗ってプールにでも行っていれば、こんなに暑い炎天下を過ごす必要はなかったのに。
「こんなの後にしてさ。逢坂さんたちと一緒にプールにでも行こうよ」
「それで、女物の水着来て、暇そうにしてる男子の鼻の下を伸ばすのか?」
「う、それはイヤ」
「だろ? 暑いならクーラーか水風呂で我慢しとけ」
手痛い反論を食らって、早くも言うことがなくなってしまった。下を向いて溜息を吐き出す。
そもそも何でこんなに陰鬱なのかというと。
「あーあ。せっかくの夏休みなのに、登校日でもないのに学校だなんて」
……部活動に熱心でもないのに、好き好んで夏休みに学校に行きたがる者などいない。
ところがハオがいきなりやって来て、引きずり出すようにミノルを学校に連れ出したのだ。なんでまた?
「夏休みだからこそ、誰にも邪魔されずに調査ができるんだろ」
「あ。なるほど」
……二人の少女は、四月の入学式のときまでは、男子だった。その日、これから帰ろうという時分になって、どういうわけか制服ごと女子に変わってしまったのだ。
今までとは全く違う身体に戸惑ったり、トラブルを起こしてしまったり、いろいろと苦労をして。それを二人で、頑張りと機転で、なんとか乗り切ってきた。しかし、肝心の『元に戻るための行動』は、諦めたわけでもないのに今までおざなりになってしまっていた。
「元に戻るって決意だけして、今まで何だかんだ言って何もしてないだろ。こういう時くらい真面目に動かないと」
そう言って前を往くハオはやる気満々だ。服装も、簡素なシャツとジーンズという動きやすい格好をしている。
「家のやつもクラスのやつも、すっかり馴染んじまった。いいかげん元に戻らないと、最悪、ホントに一生女だぜ」
「……ヤだねそれ」
対するミノルの服はというと、清楚でかわいらしいワンピース。
実に女の子らしさを醸し出す服も、家族に半ば無理やり着せられ続けるうちに慣れてしまった。
そんなミノルを見て、ハオが何を思うか。
「おまえ今、一瞬『もうそれでもいいや』とか思わなかったか?」
「そんなこと思うわけないじゃないか! ひどいよハオちゃん!」
「あ、ああ、悪かった……って、ハオちゃんって呼ぶなー!」
「いたいいたい、ごめん!」
ほっぺたをつねってふにふにするハオとミノル。
中学に上がってハオに出会うまで、ミノルにはこんな風にじゃれ合う相手はいなかった。いろいろと振り回されるところはあるが、彼女(?)はミノルにとって得難い親友なのである。
校門は開いており、部活に励む生徒たちの掛け声が中から響いてくる。だが、そんな熱心な生徒はそれほど多いわけでもなく、学校は普段よりだいぶ静かで物寂しく見えた。
「さて、桜は……あっちか」
「やっぱり、神崎君も桜のせいだと思う?」
「決めつけてるわけじゃないけどな、どう見ても一番怪しいだろ」
あの日、少なくともクラスメートの逢坂和音にミノルがカバンを取られるまでは、二人とも男子だったはず。取り返そうと奔走していたら女子になってしまっていたわけだが、その間にあった『何か』といえば、二人そろって桜吹雪を引っ被った、くらいしかない。
「だから真っ先に調べる」
「何も分からなかったら?」
「最後にも調べる。どうせ、今日一日でぜんぶ分かるとは、思ってねーよ」
「そっか」
困ったことに、どの桜であったのか、までははっきり覚えていない。
一本一本、何か変わったところはないか、覚えのある特徴はないか、見たり触ったりして調べていく二人。
「ふと思ったんだけど」
「ん?」
「ホントに桜のせいだとしてさ、何で僕たちなんだろうね」
「何でって、俺が知るかよ。たまたま通りがかったからじゃないのか?」
「だとしたらさ。もしかしたら、毎年被害が出てるのかもしれないね。今年は僕たちで、去年は先輩の誰かで」
「俺たちの他にも被害者がいるかもしれないのか、なるほど! おまえ頭いいな!」
「痛い痛い、頭グシャグシャにしないでよ」
「あ、悪い悪い」
勢いでハオにくしゃくしゃにされた髪を、ていねいに整え直すミノル。きれいにしていないと何だか気持ちが悪くて、髪も肌もそれなりに手入れするようになっている。本人に自覚はないが、だんだん無意識的にも女子に染まってきているのかもしれない。
「もう……あれ?」
手櫛で髪を整えつつ、ふと上に目をやると、太い枝の上に何かが見えた。
「神崎君、あれ見て」
「どうした稔?」
「誰かいる」
白いシャツと薄カーキのズボンという簡素な服を着た何か、髪が長いので少女だろうか。それが、一際大きな桜の樹の、太い枝の上で寄りかかって眠っている。
ポニーテールに縛られた髪は、よく見ると蒼かった。ヒトの持つ色彩とは思えないくらい、鮮やかで。
おしゃれとは程遠いくらい簡素で。それなのに、清楚で、綺麗で。
「もしかして……」
……もし『桜の精』なんてものが現実にいるとすれば、あんな姿をしているのではないか。
突拍子もない、とは二人とも思わなかった。それくらい、樹の上に彼女がいる姿は浮世離れしていて、非人間味を感じさせる。
が。
「だな。一発お見舞いしてやる」
「え?」
もし『桜の精』なんてものがいるとすれば。ハオにとってそれは『諸悪の根源』でしかなかったようである。
「ちょっと、ちょっと待ってよ神崎君!? そんな乱暴だめだよ!?」
「うるさい。俺達がこんな目に遭ってるのも、もとはと言えばあいつのせいなんだぞ。フルボッコにして思い知らせてやる」
「だめだよそんなの!」
女の子になってから、生来(?)の非力さと押しの弱さに拍車のかかったミノルでは、ハオの暴挙は止められない。
一方、生来の体力が女の子になってから大きく減じたハオではあるが、その力でも樹を揺らして上の人影を揺さぶるには十分であったらしい。
「え、ちょ、何事!?」
樹の上の少女が目を覚まし、それまでの幻想的な雰囲気を一撃粉砕して悲鳴を上げる。
「うるさい、さっさと降りて来いこの犯罪者!」
「いきなり犯罪者呼ばわり!? つか揺らすな、降りるから揺らすな! 落ちる落ちる!」
「だめだよハオちゃん! やめてよ!」
落ちまいとじたばたする少女と、落としてやるとばかりに必死に樹を揺らすハオ。ハオを必死で止めようとしがみつくミノルだが、効果は全くない。
「ハオちゃんって呼ぶな! ていうかむしろ落ちろ! 落ちて思い知れ!」
「何で!? そんなに恨まれる覚えないし!」
「とぼけるな! ヒトを勝手に女にしやがって! てめえのせいでどれだけ苦労したと!」
「それ俺じゃNeeeeeeeeeeeッ! ――あ」
手を滑らせた少女は、二人の真上に落ちてきた。運よく全員たいしたケガはなかったからよかったものの、打ち所が悪かったり首の骨を折ったりすれば、死んでいたかもしれない。
そんなわけで、二人は少女の説教を受けていた。それもゲンコツのおまけ付きで、といっても少女の落ちてきた胴の方が痛かったりするが。
「運が悪けりゃ誰か死んでたぞ。猛省しなさい」
「うー」
「なんでボクまで……」
止めようと必死だったミノルにとっては、とんだ災難かもしれない。芝生の上での正座は、ちょっと痛い。
「まったく、ちょっと樹の上で寝てたくらいで、変な勘違いされちゃたまらん」
そう言われても。
精霊と見まがうほどの容姿に、しかし『女性』とは掛け離れたこの伝法な口調。『ちょっと変わった人物』で済ませるには目立ち過ぎだ。ギャップが激しすぎる。
ミノルは軽いめまいを覚えた。ハオもそのあたりの感想は同じだったようで、辟易した表情をしている。しかし、それで黙っているハオではなく、明らかに年上のこの少女に食ってかかる。
「じゃあ、あんた誰だよ。どう見ても詩ノ月の生徒じゃないよな。何でこんなとこにいたんだよ」
「ヒトに物を尋ねるなら、まず自分から名乗るのが筋じゃないの?」
さらりと返されて、言葉に詰まるハオ。正論なのだが、なんだか妙に腹立たしい。
「……あの、ボク、葉山ミノルって言います。こっちは神崎ハオです」
「そうかい。で、あんたは?」
ハオに代わってミノルが自己紹介するが、彼女はあくまでハオを促した。
「もう言っただろ?」
「自分じゃ自己紹介もできず、友達におんぶに抱っこされてる坊やなのか、おまえは?」
「……いちいち腹の立つやつだな」
「よく言われるよ」
この少女と話していると、無性に癪に障るのを自覚しつつ、不承不承ハオも名乗った。
「……神崎ハオだ」
「結構」
ハオが名乗ったのにようやく満足して、彼女は。
「で、おまえらはアレか。この桜の怪を食らって女になって、男に戻る方法はないかと思って調査に来た」
「!」
「その桜の枝の上でヒトが寝てるもんだから、それを桜の木の妖怪とでも勘違いして襲って来た。ってところか。合ってる?」
いきなり図星をついてくるので驚いた。
「その、すいません。その綺麗な蒼い髪とか、ちょっと人間に見えなかったんで、神崎君が勘違いして」
「これか……嫌いじゃないんだけど、染めた方がいいのかねぇ」
そう言って髪をいじるしぐさは、そこだけ妙に自然で、美少女だ。
口調は伝法で態度は微妙に喧嘩腰。いわゆる『口さえ開かなければ』タイプ、としてはちょっと飛び過ぎか。
「で、おまえは何者なんだよ? 俺たちのこと知ってるみたいだけど」
「いや、おまえらのことなんか知らんよ?」
「だったら何で知ってるんだよ、俺たちが女になったとか」
「それは知ってたんじゃなくて推測だ。ここではそういうことが起きうる、ってことを知ってるだけ」
少女は二人に向き直って居直り、言葉を続ける。
「おまえらは、自分たちと同じように変化したヒトが他にもいる、って考えたことはないか?」
それはたった今、少女を見つけるまさに直前に考えたことだ。
「俺は三年前の春に、こいつのせいで女になったんだよ」
少女は『佐倉野ひじり』と名乗った。
詩ノ月中学の近所に住んでいる高二で、元はここの生徒らしい。
既に卒業してOBなのだが、校長の好意で恒久的な立ち入り許可をもらっており、今でも時折この桜のもとを訪れるのだという。
ひときしり自己紹介を済ませた彼女は、二人が変化した際の詳細な話を聞きたいとせがみ、
「なるほどね……」
話を聞いてメモをまとめ上げている。
「そんな話聞いてどうするんだよ。つか、俺達から聞き出したんだからおまえも話せ」
「もちっと待って、書き終えたらな……」
かなり年季の入ったメモ帳を、大事そうにカバンに入れて。
「俺の場合、おまえらみたく出端で食らったワケじゃない。最初の一年くらいは男やってたんだ。名前も、神聖の聖に志すって書いて『セイジ』ってね」
「名前変えたんですか?」
「セイジじゃ容姿に合わないっていうから、一文字取って合わせたんだよ。『ひじり』なんて名前、好きじゃないんだけどね。んでも『セイ』って名乗ろうとしたら『それは何の冗談だ?』ってみんなに言われた」
ちょっとわかる気がする。
「俺はこの桜と、ここで横になって見る青い空が好きでね。入学してすぐのころ、満開の桜を見て気に入って、以来昼休みはよく入り浸るようになった。さっきみたいに枝の上でくつろいだり、今みたいに幹に寄り添って寝たりすると、落ち着くんだよ。あんまり落ち着き過ぎて、五限がサボりになっちゃうことが度々あったけどな」
「サボり魔だな」
「目はつけられてたな。でも成績自体はよかったから、ある程度の文句はしのげるもんだぜ」
「自慢かそれ?」
「あぁ、不器用なんで美術とか料理はダメ。体力ないから体育はもっとダメダメ。あの軍隊ヤロー、いくら鍛えても体力つかない体質の人間だっているのに、そのへんの配慮が全くないんだもんな」
アレフ先生のことだろうな。二人とも、誰にでも無駄に厳しい体育教師の顔が頭に浮かぶ。
「話がそれたな。変わったのは中二の春だ。こいつがまた見事な満開になってな」
二人が変わったあの日も、桜は満開だった。同じだ。
「いつもより気分がよくて、それで眠り過ぎて五限が終わりかけてたな。
目が覚めると花びらが積もってた。起き上がると身体が軽いような重いような違和感があって。んで頭が重くてかゆい。触ってみると髪が伸びてる。服も変わってる。体型もなんかいつもと違う。
もう全く何が起きたのやら。とりあえず確認にトイレの鏡に走ったね。ほぼ完全に別人になってたから驚いた。でも途方に暮れてもしょうがない、五限の残り時間だけでも出ようと思って教室に戻って」
さらさらと話しているが、二人とも似たような目に遭っているのもあって、そのときどれほど慌てたのかが目に見えるようだ。
「あたりまえだけど全員ポカンとして。で先生に聞いたのが『次の体育、俺どっちで出ればいいですか?』」
「ぷっ」
「ちょっと神崎君、笑ったら、悪いよ、っく」
なんか、二人のツボに入ったらしい。
「……そんなにおかしかったか?」
落ち着くまでには少しかかった。
「落ち着いたか?」
「ごめんなさい」
「いいよ別に。つか、多少は笑い話になるかもな感じで話しはしたが、こうウケるとは思わなかったな」
気を取り直して。
「んで。姿は別人、服もセーラー服、持ち物も地味目だが総て女物。元の俺と結び付ける要素が皆無なんで、同一人物だって周りに認めさせるのに苦労したよ。愚民――もといクラスメイトはどうでもいいが、教師や親に否定されるとさすがに」
「愚民て」
「え、そこ引っ掛かるか?」
普通は引っ掛かるだろう。
「まぁそれから、周囲を説き伏せたり、女の身体に馴れるのに、一月はかかったね。特に生理は辛かったし、言い寄るヘンタイをあしらうには苦労した。
で、落ち着いてから、なんで性別変わったのか、ふと疑問になった。
状況からして、どう見ても桜の木が怪しい。それで調べてみると、過去にも同様に変わった人が、だいたい三年か四年に一人くらいのペースでいるんだよ。俺の調べた限りで十六人。俺とお前らを合わせて十九人だな」
「!」
「そんなに……」
他の被害者の存在など、今日のついさっきようやく思い至った二人にとって、それは意外な数であった。
「一番古いのは六十年くらい前だな。戦時中なんで詳しい情報がないんだが、当時の汐月家の次男がやられたっぽい」
「そんなに昔から!?」
「ていうか汐月家って」
汐月家といえばこのあたりを代表する大富豪の家だ。ハオには特に因縁深い。
「あんまり言い触らすなよ、絶対連中いい顔しないから。
表向きは行方不明扱い。長男が戦死して、他に跡取りがいなかったから、分家の男を養子に迎えて家を継がせたらしい。問題はその嫁、今じゃおばあさんだな。いくら調べても出自が分からないんだ。見事なくらい失伝している。
それで、どうしても気になって。学校新聞の取材で戦時中の話を聞きたい、とか吹いて直接本人に聞きに行ったのさ」
「凄いことをするね」
大きな屋敷構えて警備員や番犬もよりどりみどりのハイソな家に、見ず知らずがいきなり押しかけて『あなた昔は男だったんですか?』と聞いたのかと思うと、なかなか無茶な話である。
「まぁね。さすがの俺もドッキドキさ。でも瑞江さん、いい人でさ。話してくれたよ。子供産んで孫までできて、もう完全に女性なんだけど、でも俺の予想どおりだって。
で、その後は瑞江さんの協力もあって、調査がはかどって、で『この桜の木が原因に違いない』っていう結論になった」
指し示された頭上には、青々とした桜の葉が穏やかな風にゆられてさわさわと言っている。
こうしてみると、春には満開の桜が綺麗だろうと想像できるだけの、ただのごく普通の桜なのだが……
「どうもこいつは、変な力があるらしいな。満開になったこいつの花びらを浴びると、男は女になる。それも絵に描いたような美少女にだ」
「自分で美少女とか言うな」
「褒めたんだぜ?」
まあ、ここにいる全員、該当者だし。褒めたとも言えるが、自慢とも言える。
「それは置いといて。こいつは一種の妖怪、いやヤオヨロズの一柱なのかもな」
「ヤオヨロズ?」
「そこから分からないのかよ。
日本に昔から伝わる信仰にな、自然の一つ一つ何にでも神様が宿るってのがある。土地とか山とか川とか、あるいは大樹の一本一本、あるいは長い間大事に使ってる家や道具なんかにもな。無数にいるという意味で、八百万(はっぴゃくまん)と書いて、ヤオヨロズ。
それ以上詳しく知りたいなら、天爛先生にでも聞きなさい」
「天爛先生って誰だよ」
「ググレカス」
「っ、コノヤロウ」
カスをアクセントにして挑発ぎみに言うひじりに、ハオがキレかかるが何とか押さえ込む。
どうもこの少女、いい方にも悪い方にも、相手の感情を揺さぶりやすい。自覚はあるのだろうか。
「つまり、この桜の木が神様って事ですか?」
「推測だけどな。永く生きた大樹が神格を持つのは、そう珍しくない。ちょっと自然豊かな地方の神社に行けば、注連縄(しめなわ)されたぶっとい巨木が、あったりするだろ」
いわゆる御神木には、神を宿す力があったり、木自体の神格が生まれるに至っているものである。
そのような立派なモノと比べると、この木は若干見劣りはするのだが、しかし周りの木よりはたしかに立派だ。あと数百年もすれば、そのように祭られたりするのかもしれない。
「じゃあ、どうやったら戻れるんだ?」
神がどうこう、とか逸れてる話を、ハオは引き戻した。彼が聞きたいのはそんなことではない、元に戻るための方法とか手掛かりだ。
なのだが。
「さぁな」
「さあ、って」
「知らないんだよ実際。個人レベルで可能な範囲はおおよそ調べ尽くしたつもりだが、それでも手掛かりの手の字もない」
答えは簡潔で、期待外れだった。
「落ち着いて聞け。この街で男が女になったのは俺の知る限り十九人いるが、逆は一人もいない。元に戻ったやつもいない。
なんで瑞江ばあさんが未だに女やってると思う? 当時は今より性差概念が強固だ。いくら戦時中で男は徴兵されるっていう状況があったとはいえ、男が女に変わってそのまま生きていくなんて、並大抵の覚悟や苦労じゃない。
戻れなかったんだよ、どれだけ手を尽くしてもな。一度はそれが原因で、殺されかけたっていう話だぜ」
いや、違う。
「汐月家の、この街一番の権力者の助力つきで調査して、手掛かりがないんだ。戻る方法なんて、ないと思った方がいい」
手掛かりなし、ではない。望み薄。
最悪の答えだ。
「……俺は諦めない」
やけに長く感じた沈黙の後。
ハオはうめくように、決意を口にする。
「往生際が悪いね」
「ぽっと出た見ず知らずの他人に『諦めろ』って言われて、諦めるわけないだろ」
「そりゃそうか。じゃあ質問を変えよう、何で戻ることに固執する?」
「そんなの当たり前だろ」
「常識論で括ってもらいたくないな。現に俺は、別に戻ることに固執してない」
「だったら何で、調べてるんだよ。戻りたいからじゃないのか?」
「原因が分かれば事故が減らせる、ってのもあるが、一番の理由はやっぱ単純に興味だな」
いい加減なのか風変わりなのか、な意見をひじりは淡々と語る。
演じているわけでも法螺を吹いているわけでもなさそうで、本当にそう思っている様子。やはりこの少女はなんというか、変だ。
「んだから『当たり前』とか言わずに、よく自分を見つめ直してみろ。何で戻りたい、戻らないといけない。自分がそうしたいんじゃなくて、ヒトのことが根幹にあるんじゃないのか?」
「…………」
「あるいは体力の問題か? 社会的地位の問題か?」
「……急に説教臭くなりやがって」
変化したその次の日、ハオに向けられた白い視線は、いまだに彼女の記憶に苦々しく残っている。
ゴールデンウィークの前に汐月委音と再会して、といってもなかなか彼女の前に姿を見せることができなかったが、数年ぶりに遊んで別れて、元に戻る決意を固め直した(ちなみにこのとき、ハオは偽名を名乗ったが、実は委音にはバレバレだった)。
突発で行われたロードレースで、ハオはミノルたちと並んで最下位という結果だった。完走できただけ立派だ、などという言葉は彼女には通じない。
ひじりに言われて、ハオには思い至ることが沢山ある。順風満帆だった人生は、
「女になってから、ロクなことが一つもない。だから絶対戻る」
「……それって単純に、今まで挫折を知りませんでした〜、なんてことないか?」
「だったら何だよ」
「挫折なんて、男だろうが女だろうがいづれ来るもんだ。大成するには、いかに逃げ回るかじゃなくて、どう乗り越えるか。だと思うぞ俺は」
「だから戻るな、っていうのか?」
「違う。ロクなことがないことと、男に戻るかどうかは、別の問題だって事だ。女じゃうまくいかないから男に戻る、じゃあ単なる逃げだ。そんな姿勢じゃあ、いつか人生破綻する。
戻るにしても、そこ全部きっちり克服してから、戻ったらどうだ?」
白い視線は、あの痛さは今でも覚えているが、今はそんなことはなくすっかり女子の扱いだ。
ロードレースで棄権になりそうなほど体力が落ちたことは、その落ちた体力に合わせたペース配分や鍛練を覚えれば何とかなるかもしれない。
しかし、委音のことは?
必ず元に戻って顔を見せる、と決意した。
重い病気にかかっていることを知った。姉が『必ず治す』と言っていたが、薬を完成させる前に容態が悪化する可能性だってある。
迷ってる暇なんて、無いじゃないか。
「俺は、戻る。絶対戻る」
「ん、そうか」
「だいたい、てめえは何なんだ! 戻れない戻れないって、やってみなくちゃわからねえだろ!」
「だから『やった』者の視点で言ってんじゃん、『望み薄』だって」
「大きなお世話だ馬鹿野郎!」
怒鳴りつけた勢いで立ち上がり、きびすを返して校門へと、ドスンドスンといった感じに立ち去る。
そうしないと、心が折れるような気がしたから。
「ま、待ってよ神崎くん!」
「待てミノル」
あわてて追いかけようとするミノルだが、ひじりはそれを呼び止めた。まだ少しだけ用がある。
「なんですか?」
「彼、と呼ぶべきか彼女と呼ぶべきか、意固地になりかかってるように見えるんだが、なんでかな?」
「なんでって」
「今言った通り、元に戻るのは望み薄だ。戻ることに固執するあまりに、苦しみ抜いて死んでいった人もいたらしい。
同じ目に遭った人としては、ちと心配でな。心当たりがあれば、教えてくれないか? あれはただ嫌なこと言われて反発してるんじゃないと思うんだ」
「……たぶん、友達のことだと思います。女の子のままじゃ、ちゃんと会えないから」
「そうか……そういえば『神崎』って言ったっけ」
汐月瑞江のひ孫にあたる、汐月委音。屋敷に入り浸るひじりは、当然彼女とも面識がある。振る舞いが祟ってか家人の殆どにあまり快く思われていないひじりだが、彼女とはそれなりに親しい。家柄が祟って友達と呼べる存在がいない彼女だが、数少ない友達について語って聞かせてくれたことがある。
ゴールデンウィークのころ、帰ろうとしたところで、何処かから帰ってきた委音に出くわした。運転手に抱き抱えられた彼女は、心配そうにのぞき込むひじりに、血を吐きながらも満足げな笑顔でこう言った。
――久しぶりに、遊んできました。大事な、大事な友達と。
「それこそ、男か女かなんて、些細じゃねぇか。馬鹿じゃねぇのか」
「馬鹿ってそんな」
「堂々と会いに行って、元気な顔見せてやりゃあいいじゃねえか。プライドとか体裁とか、そんなつまんねぇもんに固執して、死に目にも会えなかったら一生後悔するんだ」
ひじりはメモの一枚を引きちぎり、番号を書きなぐって丸め、ミノルに投げ渡す。
「元に戻る気なら、俺の情報が少しは役に立つだろ。困ったらかけろ」
「もしかしてひじりさん、誰のことか」
「分かるに決まってんだろ、汐月の屋敷には入り浸ってるんだから」
と、立ち去ったはずのハオが向こうから戻ってくる。
「何やってんだミノル! 帰るって言っただろ!」
言ってません。
「ごめん、ちょっと呼び止められて」
「そんなやつほっとけ!」
これは随分と嫌われたな。
「ひじりさん、これありがとうございます。今度連絡します」
「ああ、非通知だと取らないから気をつけて」
「はい、それじゃ」
「おう、またな」
軽くあいさつすると、ずかずかと立ち去っていくハオを追って、ミノルも駆け出した。
一人だけになった桜の木の下は、ゆっくり眠れそうな心地よい静けさを取り戻した。部活に励む生徒たちの掛け声が遠い。
「やれやれ、振り回されたかな」
今では少なくとも週に一度は血を吐くまでになった、病床の少女。
各製薬会社がこぞって特効薬の開発に励んでいるが、汐月の当主に聞く限りだと状況は芳しくない。
心配にならない方が、どうかしている。
「くそ、寝てる気分じゃなくなったな」
委音の病気は実態も原因も未だよく分からず、治療法どころか病名すらない。
ならば彼女にとってはハオが、彼女が血を吐いてでも会いたかった『大事な友達』が、元気で堂々と顔を見せて励ますことこそ、最も効果のある薬になるだろう。
それには、ハオを男に戻してやるか、女であることを納得させてやらねばならない。
「もっと気合入れて調査しないとダメかな。まったく、女になってたりしなけりゃ、もっと楽な話だったろうにな」
恨めしいような、責めるような、そんな表情で、ひじりは桜を見上げる。
「なあ西行。おまえの考えはやっぱり分からないよ……おまえの力はヒトを全く幸せにしてないようだぜ?」
少女が『西行』と勝手に名付けた桜は、普段と変わらず葉を風に揺らして、それに答えた。
沈黙が重い。
帰り道、ハオの重厚な雰囲気に、後を追うミノルは声をかけられずにいた。
いろいろと突き付けられたのだから、無理もない。ミノルにも、思うところがわらわらある。
蒸し暑かった夏らしい天気も、いつの間にか空を雲が覆い、薄着では少し肌寒いくらいだ。
「……なあ、ミノル」
ハオが、足を止めて背中越しに、ミノルに呼びかける。
「おまえは、どう思う?」
「どうって?」
「男に戻ろうとするのは、無駄だと思うか?」
「……わからない」
ひじりは、戻れないと言った。苦労する、死んだヒトまでいる、と言った。だが協力するとも言った。
みなでドッジボールをしたあの日、ハオは『必ず男に戻って委音に会いに行く』と言った。だがひじりはそれを『些細』と言い、『つまらないことに固執してたら一生後悔する』とも言った。
「でも、ひじりさんの言ってたこと、ちょっとわかる。元に戻るの、きっとすごく大変なんだよ」
「あいつが方法知らないだけじゃねえか」
「そうなんだけど、そうじゃなくて。オンナノコがイヤだから元に戻る、じゃダメなんだよ。今のままで頑張って、大丈夫にならなきゃダメなんだよ」
「意味わかんねーよ!」
ミノルの熱弁が、ハオの癇癪で遮られる。
「……ハオちゃん?」
「帰る!」
「ハオちゃん!?」
逃げるように走りだすハオを、ミノルはなぜか追えなかった。
episode 7 へつづく?
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