--------------------  建てはじめた塔は、投げ出したくなっても、途中で止めることも壊すこともできないのだ。  都会の澄んだ空に、頭にクレーンを載せた建設中のビルディングがたくさん伸びている。あっちがなんとか不動産、あっちが○○市営、あっちが○○オーナーのビル。みんな予算不足で売れなくて、借金を背負ってにっちもさっちも閉塞的だ。  大人でさえそうなのだから、かよわき中学生にそれ以上のことを求め給うな。  いましっかりやっておかないと将来大変なことになるのよ。大人はよくそう言う。校長先生は「君たちには無限の可能性があります」とまで言っていた。  だけれど自分の抱えた人生の塔がとっくに曲がっていたのなら、きれいな空を斜めに走るしかないのなら、これ以上伸ばしてどうするのだろうか。  完成したいびつな塔を見て、大人はどうしてこうなった、と問うだろう。  どうしてこうなったのかなんて、理由が分かったってしかたがない。曲がった塔は曲がった塔だ。理由が分かれば止められるっていうの。ううん、止めることも壊すこともできないのだ。  見通し間違いだろうと予算不足だろうと、人は自分の塔を建てる。そして神様は曲がった塔を許せないと言って雷を落とす。  人は人の塔を造るのを止めない。天罰を受けようとも、誰とも言葉が通じなくなっても。 -------------------- 1.  稔は教室で、使い古されてきた教科書をとんとんと揃えた。いまは二学期、科目の多い中学の授業にもいいかげん慣れたかもしれない。  女の子は暗記系が得意で数学みたいな論理系は苦手だという。稔はどちらかというと小学校のとき算数が好きだったけれど、女性化したら馬鹿になってしまうんじゃないかと心配した。  でも一学期の成績は大丈夫だった……。だったら逆に、男子が得意な科目をそのままキープして、女子が得意な英語や社会科を好きになれれば、自分は天才になれるかもしれない?  にまぁーっと笑った稔の頭を、和音がやって来てこづいた。 「なにをアホ面でにやけているのよ」 「せっかく頭がよくなる方法を思いついたと思ったのに、なんでだよぉ」 「脳天気なあんたにはムリムリ」  皮肉な笑みを浮かべる和音に、稔は猛然と抗議した。がやがやした教室の雰囲気に、かわいい声がひとつ参加する。 「おーい、あんまりミノリをからかうんじゃないよー?」  帰り際にアシュレーや素直が声をかけてきた。稔はくびをかしげ、にこやかに手を振った。素直はずぎゅーん、と、心臓を撃たれたふりをして去っていく。楽しい一日だったと思ったところで、和音が稔の首筋にからみついてきた。 (え。えええっ!?) 「んもう、ミノリちゃんたら憎たらしいくらいかわいいんだから。食べちゃいたい」  かすかに歯磨き粉の香りがする和音の吐息が耳たぶをはった。そのまま首筋を、はむっとあま噛みされる。 (いや、だから、えええっ!? ここ、教室だよぉ!?)  唇の柔らかさによって、和音も女の子であることがいやでも意識された。夏服ごしに感じる相手の鼓動が妙に落ちついているのが憎たらしい。  なによりも、和音がこんなことをしているのにクラスメイトが誰も驚かない。女の子どうしってハグしあっていても、他人から変だと思われないのだ。 (ま、まさか僕も、和音ちゃんこそかわいいねーって言って、だっこしかえしたほうがいいんだろうか? ていうかこれ、和やかじゃない! 怖い! 食べられる!)  わけの分からない思考に捕らわれてしまった稔の肩を、よく知っている手が叩いた。 「こら、逢坂。あんまり葉山をからかうんじゃない」 「はーいっ」  神崎覇雄が止めに入ってくれたのだった。顔を耳までまっ赤にしながら、覇雄は稔にぷんっと怒って見せた。 「葉山もちょっとは抵抗しろ!」  三人で残暑の通学路を歩いた。  考えればあのときこの道で、和音は稔の鞄を奪って逃走したのだった。最初に比べればいたずらが減った。でもときどき、どきっとするような行動をするのが逢坂和音だ。  前に行き後ろに行き、二人より倍に歩いているんじゃないかという足どりで、和音はおしゃべりを続けた。 「ねぇ、覇雄、女から男に戻る方法はなにか見つかったの?」 「見つかってねぇよ、しつこいな」 「ときどきあたしが訊かないと、あんたたち忘れるじゃない」 「おまえこそなにか情報はないのかよ」 「生物部が育てたヒョウタンを収穫した、校門前のジュース屋がミックスジュースをはじめた、新しい教頭先生がとなりの県から転任してきた」 「やくに立たない情報だ……」  言い合う覇雄と和音を、稔は鞄を胸に抱いて、後ろから見守っていた。和音が、こんどは稔に向かってくる。 「こんな日々もいいかも、という顔をしている」 「僕が? そうなの?」 「女の子である自分に満足している。やーい、このまま一生女の子ー」 「待ってよ! じゃあ僕、なにかしておいたほうがいいのかな? たとえば筋肉を鍛えておくとか? 男っぽい台詞を練習しておくとか?」 「さぁねぇ。あたしが教えられるのは、ミノリちゃんが身も心も女になる方法くらいだし」 「助けてくれないの? 逢坂さんのいじわるぅ」  逃げる和音を、稔は追いかけた。しかし追いつけず、それどころか革靴のつま先をひっかけて転んでしまった。  転んだ先に誰かがいたので、とっさにスカートを直してからあわてて 「ごめんなさい」  と言った。  相手は無言で立っていた。白髪の老人で、なんのかっこうだろう、山伏みたいなお遍路さんみたいな白装束を着ている。  稔はまごついた。細い木の杖をつき、わらじばきで、なによりもこちらをにらんでいるのだ。  少なくとも道路の真ん中に立っているタイプではない。とりあえずもういちど謝ってみた。 「ごめんなさい?」 「……」  老人は倒れている稔を無視した。杖音をたてて歩みよったのは和音のほうへだ。 「見つけたぞ、小娘」  お年寄りにしては力強い声で言ったのだ。 「逢坂和音め……、村の仇!」  村の、仇? 誰かの仇じゃなくて村の仇と老人は言った。なにかの勘違いかと思ったけれど、老人の杖ははっきりと和音の胸を指している。 「なによ、あんた」 「高藪村(たかやぶむら)を忘れたか! いまこそ我らがうらみ晴らしてくれる!」  稔はようやく立ちあがったところだったから、なにもすることができない。突撃する杖を真っ先に払ったのは覇雄だった。さらりと髪が流れる。 「逢坂にうらみがあるんですか? おじいさんみたいな人が?」 「もちろんだ!」 「笑えない冗談です! 本当に怪我させる気ですか」 「なにを」  いきり立つ老人の前に、覇雄が立ちはだかっている。その後ろに稔も立って加勢した。 「やめてください、せめて事情を教えてほしいです。お話を聞けばなにかできるかもしれないですから!」  老人は三人の女子中学生を、かわるがわる見た。 「ふんっ、じゃまが入った」  悔しそうに、老人は去っていった。なにごともなかったことに稔は安心して息をついた。 「……よかった」 「よけいなことを」  稔は驚いてふり返った。和音がそう言ったのだ。意味を問いかえすひまもなく、和音は稔に近づいてはっきり言った。 「あんた、凶器を持った暴漢あいてにどう戦うつもりだったの」 「凶器なの暴漢なの? ただの木の杖だし、当たったら痛いだろうけど」 「相手がおじいさんだからって甘く見た? こういうとき顔を怪我しないように護身術くらい知っているの? 刃物を隠し持っている可能性は考えなかった?」  稔は頬に手を当てた。 「ごめん、ぜんぜん考えてなかった……。でも悪い人には見えなかったし、話をしたら分かってくれたんじゃないかな」  和音が答える前に、稔は発言を後悔した。さっきまでならどんなことを言っても、和音は適当にからかうだけで稔を許してくれていたのだ。  でもいま感じている気配は、女の子を本気で怒らせたときの恐怖だった。 「あんた、最近調子いいみたいだけどね。人間がみんな正しくて前向きならいいと思ったら大間違いだよ」  和音はそう言い放ったまま、ひとりで帰っていった。いつもなら覇雄が反論してくれるところだろう。しかし覇雄も和音を、追えなかった。 2.  ひとりで帰ったりして、あのあと老人に捕まらなかっただろうか。心配に思いながら稔は翌日登校したのだが、学校ではそれどころではない事件が起こっていた。  たいした用事じゃないんだが、俺にもよく分からないんだけれど。覇雄がどもりながら稔を引っぱっていった。職員室前の廊下にある掲示板の前へだ。  隅っこに生徒会からのお知らせがあった。普段は誰も見ることのない張り紙である。けれど覇雄はその張り紙の文字を指でなぞって見せた。  ――本日十六時三十分から性転換事件追及委員会を開催します。生徒会関係者は全員集まってください。―― 「よくこんなのを見つけたね。性転換事件ってやっぱり僕たちのこと?」 「もちろんそうだろう。俺はこんな会のこと聞いていないけど」 「僕だって聞いていないよ。追及委員会って、前に大場先生が名札をつけていたやつかな」 「あっちはたしか対策委員会だった気がする。そもそも生徒会ってこの件に関わっていたか?」  誰かに尋ねようと見回したが、和音はそばにいないし、他の生徒だって都合よく掲示板を見に来るはずがない。ため息をついたら、なんと都合よく誰かが稔のほうに歩いてきた。 「あら、ちょうど良かったわね。葉山君、おひさしぶり」  生徒会の人だ、と稔は言葉を漏らした。すらりとした身なりとびっくりするほど美しい黒髪の女性は、いつか生徒会室前で向山素直と決闘した上級生だったのだ。 「神崎君とは初対面だったかしら。私は生徒会第四書記、結城兵庫(ゆうき ひょうこ)です。お見知りおきを」  一年生に対しても丁寧な挨拶の女性だった。覇雄が慌てて挨拶を返しながらも、きっちりと質問を返す。 「あの、兵庫ってもしかして」 「男名前とも取れますけど、生まれつき女ですよ。両親が時代劇好きだったせいで」  時代劇好きだったせいで竹刀は常備らしい。結城は竹刀を壁に立てかけ、持ってきたポスターを掲示板に張った。  落ちついた動作で仕事を終えてから、二人ににっこりと微笑んだ。 「性転換事件のことでぜひお聞きしたいことがあるの。放課後、生徒会室までいらして」  後ろ姿までが完璧だった。稔は思わず、 「あんな人になりたいな」  と言ってしまった。 「せめて『女でいる間は』ってつけろよ」  放課後、緊張した面持ちで二人は生徒会室に入った。知らない上級生たちが机を並べたりパイプいすを出したりしている。手伝おうとしたらいらないと言われた。どうも自分たちはお客さん待遇らしい。 「逢坂さんは?」 「べつに、来ないって」  会議の話を仕切るのは結城兵庫だった。彼女が黒板の前に立つと、一同はぴたりと静かになった。物腰は穏やかそうだけれど、ふだんから私語などを厳しく注意するタイプなのだろうか。 「本日はようこそお集まりくださいました。議題は春からずっと問題に挙がっていた性転換事件についてです。そちらのお二人が、始業式の日にこの詩ノ月中学校校内で男子から女子になったことを、みなさん噂ではお聞きだと思います」  ざわ、ざわと一同が揺れた。上級生や他のクラスの生徒は噂で聞いていても、実物を前にはっきりと説明されたのが初めてだったのだろう。 「その噂によれば、桜の季節に桜があなたたちの姿を変えたとか?」  一同の視線が全て二人に向けられる。突然話を振られた稔は、黙って何回もうなずいた。 「しかし通常の桜が人間を性転換するとは思えません。桜になにか異常があるのでしょうか。薬物の影響か、遺伝子操作か、それともなにかのウイルスか」  覇雄が一瞬、「ん?」という顔をした。 「原因をご自身たちで調べられたそうですが、これまで手がかりはなかったそうですね。そうでしょう、葉山くん?」 「は、はい」 「原因となった桜は現在もこの校内に植わっています。今後も誰か被害者が出るかもしれません。性転換事件は、葉山君、神崎君だけの問題ではないと思うのです。私たちで事件の原因を突き止め、ふたりを助けられないでしょうか」  稔はうなずいた。桜並木の危険については、稔も汐月邸で話しあったのだ。結城はちらっと稔の顔を見てから、自信たっぷりにこう締めくくった。 「生徒会として、性転換事件追及委員会を作ることを提案します」  そのあと結城兵庫からは特に具体的な話はなく、生徒会に委員会を作ること、覇雄と稔が協力すること、情報集めをすることがおおざっぱに決まっただけだった。  最後に覇雄が手をあげた。 「いちおう確認ですけど、その委員会に僕たちが入らないし協力しないっていう選択肢はあるんでしょうか」  稔はびっくりして覇雄のポーカーフェイスを見返した。結城は落ちついた声で答えた。 「あら、そのほうがよかったかしら。いままで自分たちでなさった調査は手詰まりなのでしょう。ですから、生徒会が手を貸して差しあげることが打開策になるかもしれない」 「そうだよ、せっかく結城先輩が助けてくれるって言うんだからいっしょにやろうよ」  覇雄はまだなにか考えているようだったが、最後にはうなずいた。 「分かりました。ではよろしくお願いします」  集まりは終わった。部屋を出るとき、稔は覇雄にこっそり尋ねてみた。 「神崎くん、どうしたの。生徒会を疑ってる?」 「そう言うわけじゃないけどさ。さっき結城先輩が言った台詞って、桜のことを危険物、それもバイオハザード(細菌やウイルスが漏れ出すことによってひき起こされる災害)みたいに表現していたじゃないか。ちょっと気になるんだ」 「考えすぎじゃないかな。桜が危険だから汐月の御祖母さまが桜を隔離したっていうのは本当なんだし」  校門まで来たところで、稔はふと視線をずらした。門を出たところに和音の後ろ姿がある。まだ帰っていなかったのだ。稔はあわてて走り出し、大声で注意をひきつけた。 「逢坂さんっ! 昨日のおじいさん、大丈夫だったの? 家までこなかった? 今朝は? ぐっ」  最後まで言うまえに、稔は和音にジュースの紙パックをぶつけられた。 「大声であたしのプライベートをしゃべって、あんた私にうらみでもあるのか」 「ええと、ごめんなさい」 「しばらくひとりでやることがあるの。放課後もいっしょには帰れないから、あんたはハオちゃんに面倒見てもらいなさい」  稔にはまったく手出しさせずに、和音は去っていった。  翌日いろいろ気になった稔は、お昼休みに大場先生を訪ねた。先生は校庭の片隅で、くわで雑草を掘り返していた。ジャージ姿は色気がなくて、大人なのに結城先輩に負けているかもしれない。 「……ひもの?」 「あら、暑いなかがんばって働いている先生を見かけて、お手伝いしようって気持ちなのね、感心、感心」 「違うんだけどなぁ……。でもお話を聞いてもらうんですから、いいです」  稔はゴミ袋を取ってきて、掘り返された雑草を拾い集めた。 「先生、性転換事件追及委員会って知ってる?」 「性転換対策委員会なら、あたしがやっていますよ。追及は良くないわね」 「そうなんですか? 生徒会が今度始めるんですけど」 「それは知りませんでした。優秀な生徒会のみなさんがなさるなら、良くないってことはないかもね、ごめんなさいね」  結城先輩の提案は先生たちも知らないことだったようだ。稔はもうひとつの質問にうつった。 「あのね、友達関係のことなんだけど」 「女の子としてお友達を作るためのお話ね。ぜひ対策させてもらおうかしら」 「そもそも、女の子どうしの友達ってなにかあるんでしょうか? あの変な雰囲気、キャッキャ、ウフフってよく言うけど、ほんとはいったいどうすればいいのか」 「雰囲気になじめない?」 「流されているぶんにはいいんですけど、これでいいのかな、自然かなって考えるとよく分からなくなっちゃう。『赤毛のアン』とか読んだけれど、ぴんときませんでした」 「うふふ、考える必要はないのよ。同じところにいて、同じことをすることから始めればいいのです」 「たとえば先生といっしょに掃除をするとか?」 「中学生ですもの、お掃除なんてつまらないと思ってもいいわ。でも葉山さんがいっしょにいてくれたこと、先生はぜったい忘れない。感激しているわ」  稔は後ろから、またハグされた。先生もやっぱり温かい。 「お友達っていうのは、気持ちを分かってあげるということ。『赤毛のアン』で分かりにくければ、違うものも読んでみるといいわ。図書室の本で背表紙に百十九番の番号がついているのを探してみなさい」  放課後、稔は図書室で本を探してみた。ベージュ色の表紙を目で追いかけていくと百十九番が見つかったのだが、題名を見て稔はずっこけそうになった。 「走れメロス」  ちゃんと読んだことはなかったけれど、太宰治のこれって男の(漢の)友情話じゃなかっただろうか。手にとってぱらぱらとめくって、メロスが男であることをとりあえず確認した。大場先生らしいアバウトさだと思ったところで、裏表紙に古い貸し出しカードがはさまっているのに気づく。  カードのいちばん最初のほうには、今年の年号といっしょに大場先生の名前が書いてあった。 (最近読んだんじゃないか! ……友達とは同じことをすることから始める、か)  くすりと笑ってから、欄に並んだ署名を目で追っていった。  最後の名前が逢坂和音だった。 「……なんでだろう」 3.  不安な気持ちで一週間過ごした後に、ふたりのところへ生徒会から使いが来た。 「性転換事件追及委員会から呼び出しです」  無表情の生徒会役員について生徒会室までやって来た。生徒会室には、先週の倍の人数が集まっていた。騒いでいるだけでなく、覇雄と稔のほうを見て「おい、来たぞ」とか「まじでもと男? かわいいじゃん」とか言っている。覇雄が急に稔の手を握ってきた。 「気をつけろ。質問にうかつな答えをするなよ」  どういう意味だろう。警戒しながら部屋にはいると、上級生たちはなぜかふたりに道を空けた。まるでふたりに少しでもさわりたくないみたいだ。そのせいで、覇雄と稔は結城兵庫のまん前に座り、周囲を生徒たちが取り囲む形になった。 「重要な方たちが来たところで、第一回性転換事件追及委員会を開催します。まずは現状から」  結城のかけ声にタイミング良く答えて、書記の無表情男が原稿を読む。 「中学一年二組、神崎覇雄と葉山稔は四月八日、下校途中に校内へと戻り、桜並木と接触。弾性から女性へと、通常の生物学ではありえない形で変化しました。彼ら――彼女らの体組織にどのような変化が起こったかはまったく不明です」 「その通り。ふたりは、変身前後になにか食べたり飲んだりしたでしょうか?」  稔が答えないように手をぎゅっと握ってから、覇雄が言った。 「いいえ」 「風邪気味だったとか、体調の変化には気づきましたか?」 「いいえ」 「それでは本当に桜並木が原因だったのですね」 「……はい」 「どうでしょう、みなさん。やはりにわかには信じられないのではないでしょうか? 桜にそんな性質があるなんて」  忍者君のお兄さんだろうか、江戸商人みたいな頭巾をかぶった三年生がそれを聞いてうなずいた。 「さよう。学名Prunus yedoensis、原種はPrunus jamasakura。古来日本で親しまれてきた花であり伝説は数あれど、男女変化にまつわる話は寡聞にして知らず」  別の上級生がうなずいた。 「ていうか、こいつら、本当に女なのか? 証拠を見せてもらったほうが良かったりして」 「勝手なこと言わないでください!」  体が大きく変化したことを実感した身としては、いまさら女性かどうか疑わしいだなんて言われても困るわけだ。しかし聞いているだけの側からすれば、疑問点ばかりなのだろう。  結城がむしろ生徒会役員たちをなだめるように言った。 「神崎君は、お医者様で精密検査を受けたことがあるでしょうか」 「いいえ?」 「アンドロゲン不応症や副腎異常など、性別の判断が難しい病気もあるのですよ。一度病院にかかってみてはいかがでしょう」 「生徒会と俺の体って、あんまり関係ないんじゃないですか」 「真実を解き明かすには、神崎君・葉山君の体についての情報は当然必要だと思いますがそれとも」  次の結城の発言はすばやかった。 「なにか明かしたくないことがあるのでしょうか?」 「いえ、べつに。ただ、なんか……いやだな」 「先ほどから神崎君ばかりしゃべっていますけど、葉山君はどうなのかしら」 「どうって?」  なにを聞かれたか分からない稔は思いきりきょろきょろして、最後に覇雄を見た。覇雄が舌打ちするのと結城が苦笑するのが同時だった。 「変身した直後、神崎君は気絶した葉山君を背負って南の方角へ歩いていましたね。あのとき神崎君は……、葉山君になにかしたのではないですか?」 「ええええっ?」  驚いてばかりだったが、稔は今度こそ椅子から立ちあがってしまうほど驚いた。結城先輩がなんで始業式の日のことを知っているかも変だったが、覇雄が自分になにかしたという話も唐突だ。 「神崎くん!?」 「してないよ、俺は! 濡れ衣だ!」  覇雄が大声で抗議したが、結城は気にせずたたみかけた。 「葉山君は性転換したときのことを覚えていますか」 「正直、よく覚えていません。気絶していたから」 「このような仮定も成り立つでしょうね。葉山君が桜によって性転換したのは確かなこと……。でも神崎君の体は別かもしれません。たとえば葉山君と濃密に接触したことによって二次的に性転換した、とか」  二次的ってどういう意味だろうか。稔には分からなかった。分かるのは、覇雄が「事実と違う」と叫び続けたことと、結城がこう結論づけたことだ。 「言葉だけで反論するよりも、医学的に調べてその体にかかっている疑念をはっきりさせるのが良いでしょう。はっきり言いましょう。私は疑っています、今回の性転換が伝染性のものではないかと」  一同は大きくざわめいた。稔もだんだん意味が分かってきた。伝染性……。たとえば、チューしたら女の子が伝染るとか?  くすくす、と忍び笑いがもれた。笑っているのは主に男子の先輩で、まず稔たちを見て笑い、それからお互いの顔を見て笑っている。なかには肩をつつきあっている人もいる。きっと自分自身が稔みたいな女の子になったところを想像しているのだ。自分が女性化して、友達が女性化して、おっぱいが大きくなってちんちんがなくなるところを想像しているのだ。  女になるのは全身の細胞が変化して、名前も考え方も変わって、人間関係も、自分がなんのために生きるのかすら変わってしまうことなのに、この人たちは分かっていないのだろう。稔は震えた。  しかし変な雰囲気は、いきなり生徒会室の扉が開いたことで中断された。 「ちょっと待った、生徒会。重要な議題のようだから生徒たちだけで決めないように」  入ってきた大人のことを稔は知らなかった。背広姿で、七三分けの分け目が妙にきっちりした髪型の男性だ。詩ノ月中学の先生たちはみな異常に若作りだったが、この人は四、五十代か、それなりの年齢に見えた。  もしかして新しく入ったという教頭先生だろうか。 「新任教頭の丸沢だ、よろしく。このたび性転換事件対策委員会にも任命された。だからふたりの件は僕の問題でもあるというわけだ」  ずかずかと生徒会室の真ん中まで入ってきた丸沢先生、横を通りすぎるときに 「大場先生から聞いてきたよ。僕に任せて……」  とささやいてきた。そして稔たちを背にして、議長である結城に向かいあった。 「この学校の生徒会は元気があるんだね。一年生をみなでつるし上げにするとは」  いきなりな言い様である。生徒たちは悪い意味でざわついた。 「まだなにもしていませんが」 「話を聞いているだけです!」  口々に出る反論を、丸沢先生は一喝した。 「大勢で取り囲んで問いつめる、こういうのをつるし上げというんだ」  きっと授業も演説のようにするのだろう、先生の声は朗々としている。さしもの結城先輩も一瞬だけ黙ってしまった。 「……私たち生徒は性転換事件の真相が知りたいだけです、危害など加えてはいません」 「ふたりがなにかしたにしろ、尋ねかたってものがあるだろうが。かわいそうに、すっかりおびえている」  おびえている……? 覇雄の頬がまたぴくりと動いた。しかしふたりの意志をよそに、結城と丸沢先生は口論を続けた。 「性転換などという異常なできごとが五ヶ月も放置されているのですよ。被害者になった当人たちに任せておいて良いはずがないでしょう」 「重大事件が起こったからといって被害者が苦しまされるいわれはないはずだ。ほら、こんな裁判ごっこは早く解散、解散だ!」  稔の背筋にそのとき冷気が走った。攻撃的なオーラを放っているのは、結城兵庫。向山素直と相対したあのときといっしょだ。 「教師の介入で、生徒たちの危険が未解明のまま終わるのですね。それで良ければどうぞ。私たちは逆らえません」 「なにを言っているか、おまえらこそ家に帰って頭を冷やしてこい」  ちがう、そうじゃない。稔は思った。話がなんだかずれている。なにより、覇雄は自分が弱いと思われたり、むりやり助けてもらったりするのが大嫌いなはずだ。  はたして覇雄は丸沢先生の背中から抜け出し、改めて結城と対決した。 「待ってください、もとは医者にかかるか、かからないかくらいの問題だったでしょう? だったら俺が行きますから。ただし葉山とふたりで行く意味はないです。俺ひとりでいいはずです」  おいおいと呆れる丸沢先生を尻目に、結城は殺気を消して微笑んだ。 「ご協力ありがとう。手に入った情報は無駄にはしないわ。先生も、本人がよいというのなら構わないでしょう?」 「いや、いいが……、追及委員会には今後も関わらせてもらうぞ」  急転直下まとまった話に、一同はこれからどうなるのかとざわついている。結城は両手を叩いて宣言した。 「追及委員会の仕事は第一歩を踏み出しただけです。来週はよりはっきりした原因追及ができればと思います」  委員会が解散して、稔はほっとひと息ついた。女から男に戻るのを手伝ってもらうつもりが、わけの分からない騒動に巻きこまれた感じだ。 「神崎くん、だいじょうぶ?」 「もちろん。かえって無駄に疑われたみたいになった、すまん」 「僕は疑っていないからね」 「とにかく、おまえはなにもしなくていいから。病院どうこうは俺に任せておけ」  そこへ丸沢先生が戻ってきて、覇雄と話しはじめた。稔は、自分だってがんばれるのにと悔しい思いをしながら後ろで見ている。 「……暴力を振るわれたわけじゃないし、先生は気にしないでくださいよ。ていうか先生がむりやり仲裁してくれても、同級生に疑われたままだったらかえって後がつらいです」 「そうか、すまん。ただ大場先生にも頼まれているんだ、生徒会があまり無茶な暴走をするようなら助けるから」  丸沢先生は自信たっぷりに言うのだが、当たり前だがこの台詞、結城にばっちり聞かれてしまっている。 「しませんよ、暴走なんて」  ぎょっとする先生にとびきりの笑顔を向ける結城。まだ中学二年なのにどこまでの実力者なのだろうか、大人にも怖じぬ態度で覇雄にメモ用紙を渡し、こちらにもにっこりとほほ笑みかけてきた。 4.  その日の夜、覇雄は姉の千秋に病院通いのことを話した。千秋は眉をひそめて言った。 「明日から長期出張なんだけどなぁ」 「えーっ、しばらく俺だけで夕飯を作るの? ……じゃなくて、出張がなんの関係があるんだよ」 「あたしも病院についていきたいの。来週まで待ってよ」 「できれば急ぎたいんだけど」 「覇雄の体のことでしょ。重要な話があるかもしれないし、保護者が必要だと思うの」 「やめてくれよ、これ以上体になにかあったら俺、死んじゃうよ」  笑いながら答えたが、話をしたせいでかえって覇雄は不安になってしまったのだ。  ベッドに入ってから考えこんでしまい、そのまま朝まで熟睡できなかった。 「……しかたない、行っておくか」  翌日の土曜日、覇雄はメモ書きをもとに結城の知りあいだという医院を訪ねた。そこは土曜日も開いていて、診察料も無料で相談に乗ってくれるというのだ。  いかにも流行っていなそうな古びた建物に覇雄は目を見張った。 「無料だからしかたがないか……」  エアコンの効きが悪い待合室に入った。ほかに患者は誰もいないし、空気が消毒薬くさすぎる。緊張で、スカートの生地をぎゅっと握った。 「こんにちはー」  うす暗い受付に向かって叫んだ。しかし看護婦さんすら出てこない。もしかして休診だろうか。壁に貼ってある解剖の絵が生々しくこっちを見ている気がする。後じさったところで白衣の男が背後から現れた。 「わああっ」 「おっと、すまんねぇ、こんにちは。神崎覇雄さんだね」  髪が薄く、かわりにひげが濃いその男性は覇雄の名前を呼び、にいっと笑って見せた。 「結城さんから話は聞いているよ。いやぁ、黙っていれば女の子に見えるね。男だったっていうのは本当かい」 「……しゃべっても、女です」  医者は覇雄を診察室へと手招きした。 (やっぱり姉貴といっしょに来た方がよかったか?)  後悔したが、いまさら帰るわけにはいかない。覇雄は思いきってますます暗い部屋に入った。  ステンレスの棚に囲まれた診察室は、昭和の香りに包まれていた。台の上に寝るように言われたから従った。  天井を見ると、なぜかカーテンレールが中途半端な位置にある。疑問に思うまでもなく、医者が緑色のカーテンを覇雄の胴体の上に引いた。 (えっ!? なんだこれ?)  カーテンは寸足らずで床までの長さがなく、覇雄のウエストの上に端が垂れ下がっている。そのせいで覇雄は電気のこぎりの手品みたいに、上半身と下半身で分けられてしまったのだ。  カーテンにさえぎられて、覇雄からは下半身がどうなっているかが見えない。 「パンツは自分で脱ぐかね、それとも脱がそうかね」 「ちょっと待ってください、脱ぐって?」  覇雄は悟った。俺はなにを言っているんだ、性別を診察してもらうっていったら、大事なところを見られるに決まっていた!  医者の冷たい手が太ももに触れたとき覇雄はぞっとした。ショーツをすねまでずりさげられる。ということは、医者は見ているのか? 「どれ、ペニスは……、たしかにないね」  男だったころ「ついていた」あたりをつるりとなでられた。 「睾丸は……、ない、と」 (い、いやだ、どこを見ているんだ、止めてくれっ)  顔をそむけたら器具棚が目に入った。複雑な形をした金属の道具がガラスケースに詰め込まれている。なんで予想できなかったのだろう。あれが診察室にあるということは、  診察に使うのだ。「くすこ」というつぶやきが医者の口から漏れた。  覇雄は声に出して叫び声をあげた。 「うわあああああっ!」 5.  月曜日、登校したら覇雄がいなかった。 「あらー、神崎さん、お休みって連絡があったかしら?」  ホームルームで大場先生がとんきょうな声をあげた。振り向けば、たしかに机が空いている。 「健康優良な神崎さんにしては珍しいですねー」  稔がきょろきょろしていると、和音と目があった。しかしすぐにそらされた。 (いったいなにがあったんだろう……)  休み時間、行動を起こそうと思ったところで、先に無表情先輩が現れた。 「第二回性転換事件追及委員会のお知らせです」 「えっ、……それは神崎君にお願いします」 「君も当事者だろう。受け取るんだ」  先輩は稔に書類を押しつけて帰っていった。表紙には今日の日付が書いてある。つまり、ひとりで生徒会室に行かなきゃだめということだ。つばを飲みこんだところで、和音がじっとこちらを見ているのに気づいた。 「逢坂さんっ」 「『助けて、逢坂さん、僕困っちゃったんだ』」  和音の声真似に絶句する稔。稔が立ちすくんだことをいいことに、和音は台詞を続けた。 「無敵のポジティブ少女ミノリちゃんは、困ったときには助けを呼びます。助けて、ハオちゃん、助けて、アシュレー。優しい誰かが事件をなんとかしてくれるなら、そりゃ人生大成功、ポジティブにもなるっちゅう」  聞いた稔が感じたのは怒りというより、とまどいだった。和音がやっぱり変だ。  アシュレーが様子に気づいてやって来た。つかまる前に和音は舌を出して逃げる。逃げ際に言葉を残して、だ。 「友達だったら助けてくれるのは当然だって態度は、どうかと思うなぁ。助けてほしいのはあたしのほうだ」  ああ、また和音が去る。追いかけられないもどかしさをアシュレーの声がさえぎった。 「ミノリー、だいじょうぶ?」 「ごめん、アシュレー。いまは黙ってて!」  ほんとうはそんなことを言いたくなかったけれど、稔はアシュレーを避けた。いま友達に甘えたら、本当に和音が馬鹿にしたみたいな人間になりそうに思えたのだ。  放課後、稔はひとりで委員会に出席した。相変わらず、各クラスの委員が熱心に議論をしに来ている。 「ようこそ。毎週ありがとうね」  笑いかける議長の結城に、稔は急いで質問した。 「神崎くんがお休みなんだけど! どうしたのか分からなくて」 「……そうね、どうしてかしらね。いる人たちだけで始めましょう」  あっさりとスルーされ、議題が始まってしまった。 「さて、性転換事件について、被害者の身体がどうなっているかは神崎君が身を持って調べてくれるとして、もういっぽうの当事者、桜並木についてです。あの桜の木には、本当に特殊な能力があるのでしょうか」 「特殊な能力というと、具体的にはどのようなものだったか覚えているかね?」  上級生から質問が飛んだ。結局前回と同じく尋問形式なのだ。稔は答える。 「えっと、春で、桜の木が満開で、花びらがぱっと散ったのは覚えているけど、その後気づいたら女の子になっていて……」 「なんと! 花びらを介して空気感染する可能性があると!」  ざわ、ざわと一同が騒いだ。 「そのような危険な桜並木が我が校にあったとは!」 「ちょっ、それじゃ二学期から桜林が立ち入り禁止になっていたのって、ほんとに危険だったからか」 「静粛に!」  結城がいさめた。 「驚いていてもはじまりません。私たちは行動を起こす時期に来ているのではないでしょうか」  結城が視線を送った先の生徒は、まごついてから言った。 「行動? 行動って言ったらさ……、桜なんて伐(き)っちゃえば簡単じゃないの?」 「ふつう、そうだよなぁ」  伐採か、伐採だね、という声が上級生たちのあいだで交わされた。稔は歯を食いしばってから、勇気を出して言った。 「伐採はだめです! ぜったい?」 「どうして!」 「あの桜は! 思い出の、大事な桜だから……」  はぁ? という疑問の声が聴衆からあがった。結城が問いつめる。 「思い出って、具体的には誰の、なんの思い出でしょうか」 「ある人が……。戦時中くらいの人なんですけど、桜並木に命を助けてもらって、だけど、代わりに命を落としてしまった人もいて、そのことを忘れないために六十年ずっと桜を守ってきたんです」  それは汐月の御祖母様、瑞江さんの思い出話だった。長い物語を、口べたな稔にしてはうまくまとめて話せたはずだった。  しかし上級生たちの反応は悪かった。 「危ない桜をさぁ。誰か個人の思い出だから切るの禁止って、勝手な言い分じゃないか?」  ひとりがそう言ったのを皮切りに、群衆は稔に対する非難の言葉を発しはじめた。 「戦時中の思い出って僕らには関係ないじゃん」 「いまの桜は命を救うどころか性転換しちゃうんだろ? 伐採していいじゃないか」 「思い出の誰かって誰だ? そんな偉そうなことを言うやつは校長か?」 (ど、どうして? なんでこうなるの?)  自分の力で対処できない状況には素直に悲しむことすらできない。稔はただ呆然と事態を見守る。ふたたび結城が澄んだ声で一同を鎮めた。 「思い出話のことを葉山君に問いつめてもしかたがありません。でも葉山君、せめて、そのお話の当事者が誰かは教えていただけないでしょうか」 「それは……」  稔には、ここで汐月財閥の名前を出すのは得策でない気がした。だからこう言った。 「分かんないです」  一同がしらけたところで生徒会室の扉が開いた。 「お邪魔するぞ! この一件を生徒たちだけで進めるなと言ったはずだが!」  現れたのは丸沢先生だった。丸沢先生は結城から議題について説明を受け、そしてため息をついた。 「おまえたち、だいじなことを忘れている。桜並木は学校の所有物だ。そんなあやふやな噂をもとに生徒が勝手に伐っていいものじゃない」 「あやふやではありません。現に葉山君と神崎君は女の子になってしまったのです」 「桜が原因だという証拠は?」 「被害者である、この子たちの証言のみです……。でも先生、聞いてください」  満を持しての登場だった。結城は事務机の引き出しから、びっくりするほど分厚い紙の束を取り出した。両手で持ちあげ机の上に置いたとき、ほこりが散るとともに平手を打つような打撃音が生徒会室に響いたのだ。 「……なんだそれは」 「全校生徒のうち八十五パーセントの署名です。性転換事件の原因追及を求めています」  なに、と言って丸沢先生が紙束にとびついた。めくりながら、緊張した面持ちでうめいた。 「いつのまにこんなものを……」 「生徒会は、詩ノ月中学校生徒の総意に基づき、性転換事件の原因を追及します。これは追求でも追究でもなく、追及です!」  結城の目の前にいるのはたしかに教頭先生のはずだった。いかしいま攻めているのは誰だろうか、守勢に回っているのは誰だろうか。 「詩ノ月中学教師陣に申し上げます。私たちは真剣です。かけがえのない学生生活から危険が取り除かれない限り、私たちは安心して学校に通えません。原因追及と除去の要求が通らない場合、転校だって必要になります!」  詩ノ月中学の生徒たちが転校して逃げ出す。現実にそんな無茶なことが起こるのだろうか。  もしも性転換現象が危険だとはっきり分かった場合。性転換なんて嫌だ、学校に通いたくないという生徒がいてもおかしくはない。  丸沢先生はただ「でも伐採はいかんぞ」とくり返すしかなかった。そこへ結城から妥協案が出た。生徒会としても桜をすぐに全部なくせとは言わない。 「まずは桜を生物学的に分析するために、枝を一本折り取らせていただきます」  第二回委員会は終了した。丸沢先生は生徒会の桜並木への立ち入り、そして枝を採取することを認めてしまった。正直稔としても、窮屈な議論の後には枝一本くらいならいいかと思ってしまったのだ。  初秋の夕焼けに照らされながら、桜は枝をのこぎりで切られた。委員の多数は怖がっているのか、遠巻きに現場を見ている。  季節が違えば、緑の虫食い葉をぶら下げた地味な木材にすぎない。地面に落ちたそれを、結城はうやうやしく拾いあげた。 「ご協力、感謝します」  後悔は先に立たないという事実を、稔はその日のうちに思い知った。 6.  報せは、生徒会が桜の枝を持ち帰った日の深夜、稔の自宅で起こった。  固定電話が鳴ったので母親が出た。 「はい、葉山ですが」 「黒枝孝明という者だが、葉山ミノリ君はいるかい?」  その男性は「みのり『君』」と、呼称にアクセントをつけて言ったらしい。母親は不審に思ったが、男性はつぎに 「黒枝遼子……、いや、米沢遼子のことで」  と言ったのだ。最後に出た名前を伝え聞いて、稔は反応した。  米沢遼子とは、夏休みに神崎覇雄を悩ませる原因を作った「過去の性転換被害者」だったからだ。  電話を替わると、黒枝孝明は早口で言った。 「やっと見つかった。あの神崎覇雄って子に先に連絡しようと思ったんだが、家に何回かけても留守でね」  留守でね、という言葉にこっそり驚きながらも、稔は相手の話を促した。 「黒枝さんってことは、遼子さんの旦那さんですね。どうして僕たちを?」 「うちの遼子と同じなんだろう、詩ノ月中学出身で、男から女に変身したっていう」  そのものずばりを言われてしまった。 「知ってたんですか!?」 「ああ。あいつは隠していたつもりだろうが、遼子自身のことから分かっていたからな。神崎って女の子が店に来たときの様子でぴんときたよ。まさか性転換をした子が他にもいるとはね。連絡先を探すのには苦労した」 「それが……、どうかしたんですか」 「おおありだ。ここ数日、なにか変わったことはなかったか?」 「変わったこと? ないことはないですけど、関係あるのかな……。あ」  目を上げると、母親がじっと受話器と稔を凝視している。稔は後ろを向いた。 「なんでもいい、情報があったらなんでもくれ! 正直に言おう、うちの遼子が男性化した。男になっちまったんだよ!」  稔は息を飲んだ。おなかにきゅんとくるくらい驚いたのに、脳は冷静に記憶をたどってしまった。なぜなら電話の話は、かつて汐月家で情報を得た後に稔と覇雄が仮定し想像したことだったからだ。  桜並木が性転換の原因である以上、桜を伐れば性転換の呪いが解ける可能性があった。しかしもしも桜の木を伐ったら覇雄と稔が男に戻れるのだとすれば――。他の被害者も、男に戻る可能性がある。  すでに女性としての生活になじんでしまった人たちからすれば、いまさら男に戻るのは二重の不幸でしかない。黒枝遼子が良い例だし、汐月の御祖母様もそうだ。汐月家の顛末を知った後に、ふたりはその結論に達した。  百パーセント確実ではないにしても、稔・覇雄が男に戻るうえでまっさきに試したくなる方法――桜を伐るってことが、あまりに害が大きいということで封印されていた。  それがいま他人の手で証明されてしまったのだ。桜を切ると、男に戻る。他の被害者まで、男に戻る……! 「そんな……。枝一本だけで……」 「枝? 枝一本ってどういう意味だ? ふざけているのか?」 「ごめんなさいっ!」  電話が切れる音がした。母親が電話機のスイッチを押したのだ。 「変な電話だったら、相手にしないで切っちゃいなさい!」 「違うよ、ちゃんと知っている人だよ」  黒枝からまた電話がかかってきた。母親が応対し、稔は直接話すことができなかった。母親は冷たい口調で、こちらだって詳細は分からない、なにか情報を得たら知らせると言い聞かせて納得してもらった。 「だいじょうぶ?」  母親はエプロンをはずし、前かけのところで額をふいた。大人であっても黒枝の剣幕はじゅうぶん怖かったのだ。  夕食の食卓で、稔は母親に学校でなにがあったかを問いつめられた。性転換のことで、生徒会にいろいろ訊かれているということだけ説明したのだが、母親は心配な表情をするだけだった。 「稔、あなたはただでさえ体のことで大変なんですから、面倒ごとに関わることはないのよ」 「でも神崎くんをひとりで裁判に出すのはだめだよ」 「またその子なの。いっしょに女の子になった人ですから同情はしますけど、悪いことに巻きこまれたらあなたが損をするだけじゃないの」 「悪いことだなんて……」  覇雄や和音や、それこそ黒枝遼子のことだって、稔は巻きこまれたら損だなんて思えなかった。ただ気持ちを説明して母親に納得してもらえるとも、思えなかった。  本当は黒枝に電話をかけ直したいくらいだったのだが、黒枝の連絡先は母親が握りこんでしまった。なにより稔が自室で電話をかけないように、母親が何回も部屋の前で立ち止まるのだ。電話をかけている様子があれば即座に部屋に踏み込むつもりだろう。その足音だけで、稔には十分なプレッシャーだった。  覇雄の家がずっと留守だということだって気になるのだ。本当はあちこちに連絡して事実を確かめたかった。枕元の携帯電話にそっと手を伸ばす。 (あなたが悪い子になるんじゃないかって、お母さんは心配です)  稔は手を引っこめた。こんなとき和音なら要領よく立ち回るのだろうに。 (僕は……大物なんかじゃない)  もどかしい気持ちをかかえたまま、稔は床につかざるを得なかった。 7.  翌日も覇雄は学校を休んだ。心配が極度に達した稔は、昼休みに覇雄の自宅へと携帯をかけてみた。 (ほんとうに誰も出ない)  稔は次に番号案内で確認してから、神崎千秋の会社にかけてみた。覇雄がどうしたかを姉に聞いてみようと思ったのだ。  長めの呼び出し音の後に、男の声が出た。 「詩ノ月薬研です」 「あの、神崎千秋さん、お願いします」 「神崎なら海外出張中ですが。失礼ですがどちら様?」 「葉山稔です。このあいだ会社に忍びこんだ……」 「はあ。男名前のお嬢さんが当社に忍びこんだのですか。いたずらはよくないですよ」  電話を切られてしまった。電話受付の人は、いつかの騒ぎのことを知らなかったようだ。  稔ががっかりしてしていると、アシュレーと素直が近寄ってきた。 「ミノリー。ごめん」 「え、ごめんって、なに?」 「アンケートだよー。先週の休み時間、ミノリたちがいないときにね、生徒会の人がアンケートって言って来たの。だから気軽に答えちゃったんだ」  稔は気づいた。アシュレーはあの全校生徒署名のことを言っているのだ。 「生徒会が性転換事件に取り組むのに賛成か反対かなんて書いてあったからさ、きっと稔にとって良いことだと思って、俺も賛成しちまったんだよ。だけれど稔、追及委員会でひどい目に遭っているみたいじゃないか。だから、ごめん」  謝るふたりに、稔は大きく首を振って答えた。 「謝らなくていいよ、僕だって最初は生徒会に賛成したくらいだし! それが議論しているうちに変な雰囲気になっちゃっただけなんだ」  稔は背後の机を指さした。 「それより、神崎くんが学校を休んでいるうえに連絡がつかないみたいだから……しんぱい」  大変じゃないかと、ふたりは驚いてあれこれ騒いでくれた。とりあえず放課後覇雄の自宅に行ってみることにしてその場はおしまいにした。 (性転換が戻った人がいることも、相談したほうがよかったかな)  稔が男になるか女になるかを気にしていたふたりだから、性転換が治る方法があったと聞けば、そっちのほうにずっと関心を示したはずだ。でもふたりにはそもそも黒枝遼子の存在すら話したことがなかった。  性転換したことを隠してひっそり暮らしている人たちのことを言いふらしてはいけない。友達どうしで差別するみたいで悪かったけれど、アシュレーや素直には話せないことがいっぱいあるのだ。 (やっぱり話をするのは覇雄となんだ。それから……)  こうなれば遠慮なんてしていられない。稔は教室に戻り、逢坂和音に詰めよった。 「逢坂さん! 神崎くんが今日も休みで! それどころか黒枝遼子さんが!」 「興味ない」  和音が身を反らしたその場所で稔はつまづいて転んでしまった。無視して教室を去る和音。  稔は諦めるわけにはいかなかった。  小学校のころから稔は他人を捕まえるということができなかった。仮に声をかけることができても「えーと」と言っている間に逃げられる。両親は「そういうのんびりした子だからねぇ」と笑って見てくれていた。女性化したとき家族への受けが心なしか良かったのは、競争に弱い性質だって、女の子ならば可愛いげとしてプラスになると思われたからではないだろうか。  でもいまは、過去の黒星などどうでもいい。  稔は和音に追いついた。奇跡的に追いついたのは校舎を上下につなぐ階段の途中、三階の高さから校庭を見渡せるスポット。稔は知らないが、和音が初めて女性化したふたりを見つけた場所だった。  追いすがる姿を見た和音は肩をすくめて、逃げるのを止めた。窓の外を指さす。 「ドジなミノリったらあそこで頭を打って倒れていたのよね……。なんであのときあたし、あんたたちを助けたのかしら」 「もちろん逢坂さんがいい人だからじゃないか」 「カバンをうばったのも、いい人だから?」 「いい人だから、弱気な僕を放っておけなくてカバンをうばったんだ。逢坂さんは僕が女の子になるより前から、僕を見てくれていた」 「あ、そう」 「だから今度は僕に逢坂さんを助けさせてほしいんだ。やっぱり逢坂さん、あのおじいさんが原因で調子が悪いんでしょ?」 「そんなことより桜の木の謎を追ったほうがいい。ハオちゃんや黒枝さんがどうしたの」 「神崎くんのことは放っておけないけど、逢坂さんのことも放っておけないよ! いいかげん話してよ、あのおじいさんとなにがあったの? 高藪村ってなに? 理由が分からないと僕だってよけいになにもできないじゃないか……。……。……。……。ごめん」  猛然とにらんでくる和音に、稔は謝った。 「他人に聞かれたくない過去だってある。認められない?」 「認めるけどそんなの寂しいよ」  以前、覇雄が稔のことを大物だと言ったことがあった。覇雄の評価が本当かは分からない。でも稔自身は、ただ要領のよい生き方なんてできなくて、最善手をあれこれ選ぶことができないから、自分ができることが利他的だろうが王道だろうが優しさにあふれていようが、やらなきゃいけないだけだと思っている。 「僕はやっぱり、みんな放っておけない」 「そんなあたなにもいつか、現実に傷つけられるときが来るのにね。でもいまは……、そうね、最後に逢坂和音先生がボーナスステージをあげましょ。もう二度と助けるつもりはなかったけれど」  和音は、稔に事情を話させた。しばらく考えてから和音は言った。 「遼子さんのことはあんただけじゃどうしようもないでしょう。桜の木をこれ以上切られないようにがんばりなさい。神崎覇雄ちゃんは……たぶん生徒会につかまっているわ」 「ほんと? ありがと」 「ありがと厳禁。なぜならいまの情報は真実だけれど半分の嘘を含むから。意味は自分で考えなさい……。以上。発言は、ほんとうに以上よ」 「うんっ! ……のこり半分は?」 「あんた、あたしの話を聞いていなかったの!?」 「逢坂さんが困っていることを教えて」  かぎ形に曲げた指がおそってきて稔の首を横殴りにないだ。とたんに、息苦しさが脳天まで突き上げてくる。痛烈な、でも顔を傷つけないように十分考えられた一撃。そうだ、耳を甘噛みされたときと同じ殺気だった。  咳きこんでひざまずいて、しばらくして顔をあげたときには和音は去っていた。  でもしかたがない。稔だって言われっぱなしは悔しかったから、わざと和音が怒りそうな質問をしたのだ。きっと逢坂和音の過去は、気持ちのいちばん大事なところに関わる問題なのだろう。  のこり半分を訊くことはできそうにない。でもいつかは聞き出せると信じて、稔はその場を去った。  いまは行動の時だ。だいたい覇雄が生徒会に捕まっているだなんて、話としてとんでもなさすぎるじゃないか。  放課後、稔は生徒会室に来た。今日は委員会がないので、狭い部屋では知らない先輩たちがおしゃべりしていた。きっと生徒会を引退したはずの三年生だろう。 「あのー、結城先輩、いらっしゃいますか」 「お、君、噂の男女ちゃんじゃなーい。結城はまだ来ていないよ。ここで遊んでいくかい」  なれなれしく近寄ってくる三年生を、稔は丁重に断った。 「よかったら奥の部屋、見ていいですか?」 「いいよ? 古い資料とかが置いてあるだけだけどな」  先輩に鍵を開けてもらい、稔はほこりっぽい小部屋へと踏み込んだ。そこは言われたとおり、書類の山があるだけだった。運動会のマニュアルだとか卒業文集だとか、背表紙の古臭い文字が棚の中に横向きに並んでいる。 (まさか、すぐ見つかるとは思わないけど……)  じっくり部屋を見回したあとに、壁のロッカーをひとつずつ開いていった。プリントの束が詰まっていたり金属バットが立てかけてあったり、少なくとも人間は入っていない。  最後のロッカーを開いたが、なかは空だった。でも下に、空色で埃のついた布地が落ちている。稔はつまみあげた。 (これ、女物のソックスが片いっぽう。神崎くんはこんなの履いていたかな?)  もっとよく見てみようと顔を近づけた瞬間、スカートのおしりに誰かの手が触れた。 「きゃああっ!」  稔が叫んだのと竹刀が風をきる音が同時だった。数秒後には頭を叩かれた先輩がうずくまっていて、かたわらには結城兵庫がいた。 「結城先輩……?」 「葉山君、気をつけなければだめよ。この先輩は中学三年にしてセクハラ魔王なのですから」  言われた三年生は、それでも面白そうに言う。 「おい、セクハラ魔王ってなんだよ。もと男だったらおさわりオーケーかもって思っただけじゃん……いたっ」  いまの悲鳴は稔が学生靴ですねを蹴飛ばしたのだった。 「ありがとうございます、結城先輩。でも僕は遊びに来たんじゃなくて、聞きたいことがあります」  稔が生徒会室を出るのに、ついてきてくれる結城。あくまで微笑みを絶やさない態度に、本当に彼女が悪いことをしているのかが分からなくなってくる。  でも少なくとも生徒会は、稔たちが留守のうちにこっそり署名アンケートを取ったりしたのだ。もしもわざとやったのだとすれば、 (こんどの騒ぎって、ぜんぶ計画されているのかも? でも……)  他人を疑う以前になにがだましのテクニックかを想像できない稔の頭では、疑うにもどうしていいか分からないのだ。  とにかく、目の前にある疑問について尋ねた。 「結城先輩、神崎くんが家にもいないみたいなんです。どこにいるか知っているんじゃないですか」 「さぁ、どうかしら」 「先輩、桜の枝を折ったらそれだけでなにか起こると予想していたんじゃないですか」 「あら、本当になにかあったの? 教えてくださいな」  恐ろしいことに、結城は質問を否定しなかった。 「神崎君が学校を休んでなにをしているかは知りません。ただ彼は自分の意志でそうしているでしょうし、性転換事件について重要な情報を明かしてくれると期待しています。たとえば……、性転換の被害者はあなた達以外にもいる、とかね」 「いったいどこまで知っているんですか!」  叫んだというより叫ばされたというほうが正しかった。どうして黒枝遼子の話が結城のほうから出てくるのか。意図はどうあれ、この人はやっぱりなにか企んでいるのだ。 「神崎君の行方より、他の被害者のことのほうが喫緊の問題なのではなくて」 「だから早く神崎くんを見つけて黒枝さんを助けなきゃだめなんです! お願いします、神崎くんに会わせてください!」  結城はため息をついた。 「私に言われても困ります。神崎君はしかるべき時になったら出てくるでしょう。そもそも……、隠しごとをしているのは私ではなくあなたですよ。ご存じのことを正直に全てお話しすれば、おのずと事件は解決するでしょうに」  結城兵庫からはそれ以上のことを聞き出すことはできなかった。いや、稔の想像も及ばないほど上手の相手から、どうやって重要情報を聞き出せばいいというのか?  放課後、アシュレーや素直といっしょに覇雄の家を訪れてみた。雨戸が閉まっていて、門の鍵も閉じていた。郵便ポストに新聞がたまっている。 「本当に留守みたいだな……」  素直の言い方が決定的だったので、不安な稔はアシュレーの背中にくっついてスカートをつかんだ。 「どうしよう」 「他に連絡先とかないのかなー」 「会社に電話してみたけど、うまく通じなかった。お姉さんは海外だって」  素直が気休めに「田舎で法事があって、急に出かけただけじゃないか」とか言うのだが、稔には覇雄の失踪が偶然とは思えない。和音の情報が確かなら、だ。 「ぜったいどこかにいるはずなんだ! そして、困っている」 「じゃー、警察に届ける?」 「証拠がないと信じてもらえないよ……。僕らで探そう」  意気を感じたアシュレーと素直は、覇雄を捜すことを確約した。夕方も遅い時刻となっている、そろそろ家に帰らなければならない。 (家に帰って? また一日先のばしにするのだろうか? 神崎くんが……、ずっと無事である保証はあるの?)  帰り道、商店街にさしかかったところで、不安で足が止まってしまった。後ろの人とぶつかりそうになったので、ごめんなさいを言って道のわきに避ける。  他人(ひと)が流れていく風景。各々悩みがあっても、家路についてしまえばみな同じく温かなねぐらが待っている。とりあえず明日の問題は置いていけばいい。 (僕はもう、そんな流れに乗るわけにはいかないんだ)  稔は電話をかけはじめた。 8.  つかまってから二日。覇雄の記憶が確かならば今日は月曜日のはずだ。もしかしたら火曜日かもしれない。ベッドの上で考えを巡らし、そして考えがまたふとんの下へともぐり込んでいく。  そこは古びた病室みたいなところで、覇雄は清潔なベッドに寝かされていた。あの診察のあと、意識がもうろうとしていたらしい。それで病室に担ぎ込まれたのだ。窓からの景色を見るにここは医院の二階だろう。いつのまに階段を運ばれたのだろうと考える間もなく、またふとんの下が痛んで覇雄は気を取られた。  股間が痛むのだ、正直に表現すれば。  診察で覇雄は器械を突っこまれ中まで見られたのだった。べつに怪我させられたわけじゃない。自分だってもと男だ。見られたり触られたりくらいなら、どこも傷はつかないと頭では分かっているから……。それだけで腹がたったのではない。  でも男に見られて、そのせいで、見られたり触られたりが気持ちいいと感じたかもしれない。そう思ったらわけが分からなくなるのだ。  俺はぜったいに気持ちいいだなんて感じていない。「どうだ、気持ちよかっただろう」と言われるのが許せない。あんなことで気持ちよくなるはずがない。でももしかしたら、と不安になって触られたときの感覚を思い出すとくすぐったさがよみがえってきて、ぜったいに気持ちよくないと言えなくなってくるのだ。  そのことを楯に、もっと触ってほしいだろうと男に言われるのがぜったいに耐えられない。 (ちくしょう……、これが女なのか?)  男なら女の子のおっぱいやおしりに興味がないといえば嘘になる。覇雄だって小学生の頃は一人前にスカートめくりをした。女の子たちは必死に逃げたり怒ったりした。大げさに騒いでふざけているのだろうと覇雄は思っていた。実際は違っていたのだ。  男なら、女の子にもっと触ってあげると言われたら「どうぞ」と素直に答えても恥ずかしくない。でも女は、男に触ってあげるなんて言われたら相手が痴漢だろうが友達だろうが必死に拒んで気まずくなって、しかもこっちが感情的で理不尽だと、後ろめたい気分にならなきゃいけない。  なにより許せないのが、覇雄が男だったころ、女の子たちが同じ思いを自分に向けていたかもしれないことだった。面倒な男の欲望を気まずくないようにそらすことが彼女たちの仕事だったんだろうか。それなら人当たりが良くて紳士的だと言われていた覇雄とは、いったいなんだと思われていたのだろう。女の子は複雑なやり方で世間の男から自分の身を守って、自分の父親や兄弟からも身を守って、ある日現れる王子様だけに、この人なら安心できる、素直になれるといって身を任せるのだろうか。  千秋もそう思っているのだろうか?  誰が悪いわけじゃない、だけど理不尽すぎる。  悔しさで身がねじ切れそうになりながら、また一時間が過ぎた。悩みのぐるぐるを断ち切ってくれたのは、病室のとびらを開けた意外な人物だった。 「結城、先輩?」 「大丈夫? お見舞いに来てあげましたよ」  制服姿の結城はあくまで微笑んでいた。本当に花束まで持っていたので、覇雄はなるべく怒りに聞こえるようにため息をついた。 「病院で診察だなんて、とんだ罠でした……。あんたの差し金だったんですね」 「なにを言っているの。神崎君はお医者様の診察を受けただけ、私はなにも嘘をついていません。一回の内診で音をあげるなんて、無敵の神崎覇雄君もたいしたことないってことかしら」 「いいダメージでしたよ。おかげで三日経ちました……。このすきに葉山になにかしていたら俺、あんたをぶっ殺します」 「あら、それはいい考えですね」  覇雄はベッドから跳び起きた。しかし下腹部の痛みに腰がくだけ、結城が軽く放った花束の一撃だけで床に転落してしまった。 「ぐっ」 「だめよ、あなた、疲れているのだから……。ごめんなさい、正直に言いましょう。未成年の女の子には診察だけで十分な負担です。たとえ神崎君であっても、ね。だからここでしっかり回復してほしいの」  やさしく助け起こす結城の胸もとを覇雄は指先でつかむことしかできず、合気道の要領でふわりとベッドに戻される。 「心配しなくても生徒会は葉山君になにもしません。私がなにもしなくとも、世の中は厳しく女は弱いものです」 「世の中? あんたがなにもしなくても稔は危険な目にあうってことか?」 「おふたりの性転換の話が全校に知れ渡るのは早晩起こることでした。そうすれば考え違いを起こす先輩がいないとも限りません。いたずらとか……強姦とか。危機はとっくにあなたたちの後ろに迫っていたのですよ。ならば神崎君がするべきなのは、自分の悩みにこだわることかしら?」  確かにそうだった。寝てばかりいないで、稔がどうなっているかを見に行かなければならない。追及委員会でぼろぼろに責められているかもしれないし、全校生徒の好奇心の目にさらされているかもしれない。 「歩けそうでしたらいつでもお家に帰っていいのですよ。病院だから携帯電話は禁止ですけどね」  結城は揺るぎない背筋を見せて去った。また戻ってくる様子もない。覇雄はベッドの周囲を探ってみた。学生靴は、あった。携帯電話はどこにもなかった。 (たしかに電話は禁止か。こっちの連絡を封じる気まんまんじゃないか……)  では逃げ出すほうはどうか。覇雄はゆっくり、ふるえる足をすすめて入り口にたどり着いた。開いて廊下を見る。 (……あの医者がいた!)  想像もつかなかいほどの恐怖が覇雄のひざをくだけさせた。物音を立てないように扉を閉め、ベッドに戻るだけで精一杯だった。これがフラッシュ・バックというやつだろうか。  抵抗すれば逃げられるだろう。でもいまの覇雄には、会社で大暴れしたときのような元気がなかった。  もうひとつ。覇雄の頭のなかに疑念が巻き起こる。こんどの事件が全部計画されたものとするなら、あまりに手際が良すぎる。病院まで用意するなんて、中学校の生徒会にできることなのだろうか。それに結城には、こちらの情報を知っていてあらかじめ準備をした様子すらある。  誰か黒幕が、それも大人の黒幕がいるのではないだろうか。稔、あるいは千秋が黒幕を見つけてくれれば! 覇雄は悔しそうに窓を見た。  本当はもっと頼りにする親友がいたはずだった。でも、あいつは……。  なにをしているんだ、和音! 9.  帰り道、商店街にさしかかったところで、稔は電話をかけはじめた。  その瞬間、肩を叩かれた。 「私どもへのご連絡なら直接お伺いしましょうか」  突然の呼びかけにひっくり返りそうになったが、ふり返れば長身の頼もしい姿に、稔は笑みを浮かべた。 「三船さんっ! どうして?」  そう、通りがかったのは汐月家の使用人である三船だったのだ。使用人といってもさすがにメイドさんのような作業服ではなく、茶色い半袖のチュニックを着ていた。 「買い物帰り、葉山様のそばを通りがかりましたら我が家の電話番号を表示されていましたので」 「視力良すぎだよ……」  そのうえ袖からのぞく腕が筋肉質なのはなぜだろうか。買ってきたものだろう、地元名産の醤油一升瓶とたくあんひと樽をカートで曳きながら、三船は話した。 「そして、葉山様はどのような御用事で。遊びに来てくださるならいつでも歓迎ですよ」 「それどころじゃないんだよ。桜並木のことで」  聞いた三船の眉根に、割り箸をはさめそうなほど深くしわが寄った。 「詳しくお聞かせください。立ち聞きされるのも面倒ですので、近くのなじみの喫茶店で」  喫茶店に寄り道すれば帰宅の門限に間にあわない。分かっていたけれど、稔は自宅に連絡する気にはなれなかった。黒枝さんの件を相談するんだなどと言えば母親が反対するに決まっているからだ。  おとなしく座り、三船さんのおごりであるミルクコーヒーを飲み、話しはじめた。話しおわったころには、三船さんの顔がすごいことになっていた。 「……おにばば?」 「葉山様。率直に申し上げればこの事件、すでに大変なことになっているかと」 「そ、そうなの?」 「覇雄が行方不明で、そのうえ桜の木が伐られて実害が出ているだなんて! いったい千秋はなにをやっているのよ! ……失礼しました」  いきなり口語になった三船さんに、稔はまぁまぁ、と手を振った。 「もう普通の話し方でいいよ、神崎くんが呼び捨てなら僕のこともミノリって呼んでよ」 「そうは参りません。でも覇雄の行方が分からないのは、ぐずぐずしている場合ではないですね」  まずは、と言って三船は電話をかけ始めた。なにやら英語ではない外国語で話している。やがて口調がきつくなり、最後にはどなり声になって電話を切った。 「どうしたの」 「千秋を言葉で殴りました」 「日本語で話せばいいのに」  つぎに三船は、買い物の荷物を喫茶店に預けてから携帯パソコンを取り出し、指一本でなにかを連打した。 「……。結城兵庫の自宅を検索しました。これから行きましょう」 「これからぁ?」 「すでに遅いかもしれないのです」  喫茶店を出ると、なんと男の人が大型バイクにまたがって待っていたりする。一礼して、男の人は三船に席を替わった。 「きみは買い出しの荷物を持って帰りなさい、今晩はしょっつる鍋です」 「かしこまりました、三船先輩」  稔をサイドカーに乗せて、バイクは走りだした。 「……三日」 「えっ?」 「女の子を完全に壊すのにも、桜の木をだめにするのにも三日あれば十分ですから」 「じゃあ僕はもう手遅れにしちゃったの?」 「答えはNon。あなたが気づいて声をあげなければ事件は終了していました。桜と覇雄をこれから守りましょう。もしも敵が大事なものに手をかけていた場合は……」  三船は片手で、風にそよぐスカートのすそを直した。 「敵を撃ち落とすまでです」  詩ノ月中学からかなり離れて、結城の家についたときには周囲が真っ暗になっていた。 「お家って、どこ?」  きょろきょろして、三船が指さす先を見てもまだ分からなくて、しばらくして稔は驚いた。ふだんの結城の様子からは想像もつかないおんぼろアパートだったからだ。 「ゴミ捨て場も汚い……。結城先輩、ほんとうにここに」 「黙って階段を登ってください。当人がいなければそれでよし、いればあなたが訪ねたことに致しますから。生徒同士でお伺いするなら、隣室の人に不審人物とは思われないでしょう」  待ってほしい。いなければよしって、これからどうする予定なのだろうか。 「もちろん忍びこむのです。見つかれば抵抗されることは覚悟しておいてください」  階段をぎしぎしいわせながら、三船さんは話した。革グローブをはめたままの手がちょっと怖い。  玄関の呼び鈴を押した。反応がないし、電気も消えている。 「では……。幸いなことに鍵も円筒錠」  三船さんが取り出した細い金属棒は、もちろんピッキングの道具だ。 「あーあー、犯罪行為ですよ」 「誘拐監禁のほうが犯罪です。どちらが先に『玉』を取るかがこの戦いでしょう」  鍵が開いた。三船さんは静かに、音をたてないように扉を引く。  そして見えた光景に、絶句したのは稔だけではなかった。  これが女子の住まう家なのだろうか。家具ひとつない、黄色い畳の三畳間には窓際にハンガーが一本だけ柱のくぎにかかっている。制服と覚しき白黒の布地はゴミ袋に詰められて片隅に転がっている。あとは……、カップラーメンの殻と電気ポットだ。 「間違えたんじゃないの? ほぼ空き家だよ?」 「しかし詩ノ月中学からの連絡や郵便は全部この家宛てになっています、いちどは家庭訪問も行われたはず」  つまり三船は学校の資料を盗み見て結城の家を突き止めたということなのだ。  稔は服の袋に手を触れてみた。街灯の明かりだけでも分かる、稔が着ているのと同じ詩ノ月の制服だ。本当にここが結城の住居だとすれば、結城は替えの服をどこかへ持っていくだけ、洗濯もしていないのだろう。  手がかりがあるない以前に、中学二年生の住んでいる部屋に生活の臭いがしないだなんて、そのほうがかえって怖くないだろうか?  と、そこで三船が稔の袖を引いた。静かに、と唇に指を当てながら部屋を出る。扉の鍵は自動ロックで閉まった。一階に下り、汚いゴミ捨て場に踏み込んだところで別方向からの足音に気づいた。  結城兵庫が帰ってきたのだ。 (さすが三船さん、数十メートル先から結城先輩が帰ってきたのに気づいたんですね) (黙って様子を探ってください)  結城はなにごともないような表情で、まっすぐアパートの階段を上っていった。扉が開閉する音がする。稔はいまさらどきりとした。部屋を出るとき、ゴミ袋の口を締めただろうか?  しかし結城はふたたび外に出てくることもなかった。稔は胸をなで下ろす。ただぼうっと、カーテンごしに部屋の灯りが漏れるだけだ。  ゴミ捨て場は塀の外にあって、身を低くすれば陰に隠れることができた。ふたりは耳をそばだてた。壁の薄いボロアパートとはいえ音が外まで聞こえてくることはない。しかし三船は、静かにつぶやきはじめた。 (……「三日も閉じこめておけば完成です」、「手際はいいですから」、「どんな娘でも耐えられるはずがないでしょう」) (なんなの、その台詞) (急だったので簡単な盗聴器しかなかったのです。敵は電話で話しているから、拾える会話は断片的ですね)  稔は震えた。短時間で部屋に盗聴器を仕掛けた三船の手際もさることながら、結城が会話する内容が覇雄の誘拐と――拷問をほのめかしていたからである。 (まさか、神崎くんがあいつらにおかしくされちゃったら)  体の震えが目の前のゴミ袋に伝わって音をたてたので、あわてて闇のなかで手を動かした。動かした先にエメラルド色のきれいな輝きがあった。稔はよく見ようと顔を近づける。  黒猫の瞳であることに、さわってから気づいた。 「うにゃーっ、にゃー!」 「だめ! 騒いじゃだめだよ、しーっ!」  のら猫を黙らせようと手で押さえたものだから、猫はますます怒って爪を立ててくる。格闘のすえ猫が逃げていったので、稔は安心のため息をついた。 「よかった、静かになった」 「葉山様……、もう静かにする必要はございません」  強いフラッシュがたかれ、稔は目を押さえた。二人の前に立ちカメラを構えているのは制服姿の、当然結城。ばれたのだ、と思う間もなく三船さんがスカートの下から折りたたみ警棒を取り出して打ちかかった。  狙いはカメラだ! しかし三船の棒先は竹刀によって反らされた。  結城が一回転して、こんどは両手で竹刀を振り下ろした。風呂上がりだったのか、石けんの匂いが夜の闇に広がる。警棒と竹刀との一騎打ちだ。  あくまでカメラめがけて特殊警棒を振るう三船だったが、リーチの差は結城に有利だ。ストラップで結城の手首からぶら下がっているだけなのに、攻撃は目標にまで届かない。いや、わざと手の届きそうな場所で見せつけられているのだろうか? やがて打つより打たれる数のほうが増えて、三船は後退しはじめた。  おそらく稔を背にして、稔を守っているぶんさらに不利なのだ。気づいた稔自身が大きく後退すると、結城はかさにかかって打ちかかってきた。 「っ。調子に乗るな!」  突いた警棒が竹刀そのものに刺さり、先端を割った。まさかそんな芸当をされるとは思わなかったのだろう、結城の手が止まった。  そのとたん三船はくるりと向きを変え、稔の背を押しつつ走って逃げた。  帰りのバイクでふたりは無言になってしまった。もしも三船の盗聴が確かならば、覇雄は幽閉されていることが確定なのだ。それに対して手に入った情報は、結城が事件に関わっているということくらい。覇雄の行方は、いまだに知れない。  それでも心地よいバイクの振動に稔の緊張がほぐされたころ、三船が言った。 「手際が良すぎます」 「えっ」 「あの結城という中学生にしろ、生徒会という中学生の組織にしろ、です。年下を馬鹿にしているのではありませんが、たとえば中学生が誰かを閉じこめておく隠れ家を持っていたりするでしょうか」 「信じられないよ、僕だって」 「きっとなにか裏があるのです。誰かが手引きしているとか……。心当たりはございませんか?」 「心当たりと言っても……。関係ない話だったら」  稔は最近和音の調子が悪いことを話した。 「ああ、あのよく気がつく娘ですね。たしかに、彼女がいれば心強いでしょうに……。でも誘拐の手がかりとは関係なさそうですね」 「すみません」  信号が変わったので三船がブレーキを踏んだ。交差点で、稔は暗がりをぼうっと見つめる。目の前の横断歩道を、ひとりのおじさんがいそいそと歩いていった。 「あっ」  稔は顔を隠した。おじさんは丸沢先生だったからだ。生徒が夜にバイクに乗っていたりしたら注意されるにきまっている。でも丸沢先生は急いでいる様子で、こちらに気づきもせず去っていった。  しかし驚いたのはそれだけではなかった。すぐあとを逢坂和音が渡っていったのだ。丸沢先生のすぐ後ろだから、先生がふり返れば顔をあわせてしまいそうな距離である。  三船も気づいて、和音を呼び止めようとクラクションに手をかけた。稔は袖を引いて止めた。 「いいのか?」 「いいです、逢坂さんとはべつのときに僕が話をします」  三船だって焦っているだろうに、三船はそれ以上連れ回さずに稔を自宅に帰してくれた。稔は汐月家に遊びに来ていたのだと、母親に言い訳までしてくれた。  母親は三船の前では涼しい顔をしていたが、覇雄とふたりになるや声を荒げた。 「汐月の方といたのは、例のお友達のことでなのよね」 「そうだけど……でも」 「いいこと、稔。お友達というのはね。間違ったことをしたときは毅然として注意するのが正しいのです。同情だけでいっしょになって悪いことをしたら、結局はその子のためになりませんよ」 「悪いことじゃないよ」 「稔。もう行くのはおやめなさい……」  銭湯とお説教のダブルパンチだった。稔は疲れて風呂に入る気力もない。自分の部屋でベッドに突っ伏していると、妹のゆたかが入ってきた。 「いや、お風呂には入らなきゃだめよ? なんかきつそーねー」 「はは、分かる? ところで、ゆたかって僕より友達多いよね」  ゆたかは「どうかな?」と言いながら、稔の背中に乗ってきた。父親相手に鍛えた指圧の腕で、稔のツボをぐりぐり押してくる。 「お姉ちゃんだって最近はぶいぶいいわせてるんじゃないの」 「ぶいぶいってなんだよ……。なぁ、ゆたか。友達ってなんなんだろうな」 「うー、そういうむずかしいこと聞かないでよ。なんなのか考えなくてすむのが、友達なんじゃない?」  一理ある答えに、稔はまた突っ伏してしまった。 (僕は結局、友達になにができているんだろうか?) 10.  四日目、覇雄は久しぶりの風呂に入った。浴室では体を結城に洗われた。ひとりでは満足にこすることもできなかったから、バスタオルを巻いた結城が入ってきて体を支えてくれたのだ。  シャワーの気持ちよさとともに、男の手が触れた不快感が洗い流される気がする。自分では見るのもつらい部分には、結城の指が伸びた。相手が女なら感触を拒む必要もないのだ。複雑な思いをしながら、覇雄は開放感にひたった。 「よければ私の背中も洗ってくださいな」  覇雄はぎくりとした。敵がタオルを脱いだことが衝撃だったのではない。結城の肉体は千秋の裸とも、いつかちょっとだけ見た稔の裸とも違っていたのだ。  ざらついた肌の下で、恐竜の化石のような肩甲骨が浮き出て動いていた。その下は肋骨、わき腹は緊迫した腹筋ばかりで、輪郭がえぐれている。折り曲げた大腿骨とすねとの間には盛りあがった筋肉がはみ出ていた。ただ美しい髪と、ちらちら見えるふたつの乳房のアウトラインのみが彼女を雌、と認識させている。彼女がつねに学校で長袖を着ていたのは、なにもお行儀のせいではなかったのだ。  骨と筋肉が皮で包まれた、ただそれだけの生物に、どんな鍛え方をしたら、いや、どんないじめ方をしたら女の子がなれるのだろうか……。  まじまじと見てしまったことに、見た側も見られた側も気づいた。結城は二の腕を寄せて胸を隠した。 「ごめんなさい。こんな気持ち悪い体、見せるものではないですね」 「そんなことないよ!」  言った言葉が白々しくて、覇雄は自己嫌悪に陥る。白々しさついでにひじのところをつかんでやった。 「先輩にもっと、さわってほしいくらいです」 「ほんとうかしら? でもうれしいですわっ」  振り向かれ、飛びつかれるとは思わなかった。シャワーヘッドが転がって、撒き散らされた水滴がふたりの肩に当たる。ふわりとした重力とともに、硬い胸というものがあることを知った。 「もっと見て」 「俺、もと男なのに」  垂れる飛沫よりも冷たい肌に、自分が緊張したことを伝えまいとした。けれど覇雄にはうまくできた気がしない。 「ごめんなさい」 「いいのよ、あなたはゆったりとしていて」  覇雄の反応を気にとめないそぶりで、結城は覇雄の体の曲線をやさしく洗っていった。他人の体を生身で洗うことに長けている中学二年生とはどんなものなのか、男の頭では想像がつかない。 「これと同じこと、ほかの子にしたことがあるんじゃないですか」 「そうよ。あなたのよく知っている娘にね」  覇雄が覚えたのは軽い嫉妬だった。  入浴後の覇雄はまたベッドで寝ていた。怠惰な心地よさだ。自分は諦めていない、逃げ出す機会をうかがっているのだと思っても、思っても動けない悔しさが積もっていく。  崩れ落ちた首が窓へと向いた。窓の下など見るのは久しぶりな気がした。こういうとき道路を歩いているのが顔見知りだったりすると、あまりの非現実さにかえって笑ってしまう。  あのきっちりした七三分けは……、丸沢という新任教頭が歩いているのだった。ここは町内であり詩ノ月中学からもそう離れていないのだから、先生がいてもおかしくはないのだ。 (そういえば手紙を作っておいたんだった……)  窓に小さなすき間を空けた。紙飛行機の形に折った手紙をスリットから外へ投げ出す。覇雄の作った紙飛行機は律儀にまっすぐ飛んで、丸沢の頭に当たった。  昨日か、もしくは一昨日、まだ元気だったころに逃げ出すための手段として手紙を書いておいたのが良かったかどうか。そんなもの書いてどうやって届けるんだと自分であきれて、使わずにしまっておいたのだ。通りすがりの丸沢先生には災難だが、空から降ってきた珍客に驚いてもらおう。  先生はぎょっとして頭を押さえて、それからきょろきょろして、道路に落ちた紙飛行機を見つけた。腹立たしげに拾いあげたが、文字が書いてあるのに気づいてまたぎょっとした。 「…………」  先生は丁寧に手紙をたたみ直すと、歩き去っていった。もしかして効果があったかもしれない。 (こんなので助かれば世話ないけどね)  混濁した覇雄の意識は、千載一遇のチャンスを喜ぶこともできなかった。 11.  翌日の学校は皮肉にも快晴だった。例年なら運動会の練習に最適だっただろうが、今年の生徒会は運動会どころではない。  結局戦いは稔側が劣勢のままだったが、三船という行動力のある味方を得た。それだけでなんとかできるんじゃないかな、がんばらないとという気分になれるではないか。  だからげた箱前で黒枝孝明と出くわしても、稔はおびえたりしなかった。  朝校門が開くとともに押しかけたのか、メッシュ入り革ジャケットを着た男が立っていた。すでに先生たちに応対されていて、応対というより押し問答になっていた。 「性転換の情報を聞くまで、帰るわけにはいかないんだ!」  声色から、稔はそれが黒枝孝明だとすぐに分かった。相手をしているのがよりによって大場先生で、きっと性転換事件対策委員会だからだろうけど、返事の声がびびりまくっていた。 「で、ですので……、性転換の原因だなんて分かりません。誰が女の子になったかも答えられま、せん」 「なんで? この学校が原因なのはとっくの昔に明らかだろうが。遼子からは行くなって言われたが、俺は放っておけないんだ」  稔が立ち止まって見ていると、大人の男が後ろから抱きすくめるようにしてきた。目隠しして黒枝から視線をそらさせたのだ。 「丸沢、先生?」 「あいつ、君を探しているらしいんだ。見つからない方がいい」  稔をかばう姿勢で、丸沢は小声で話した。 「奥さんが女から男になったとか、訳の分からないことを言ってきたんだ。おおかた君が性転換した話を耳にはさんで、自分たちと関係があると思いこんだのだろう」 「違うよ、そうじゃなくて……」 「勘違いしたやつは放っておけばいい。女の子の君が行ったら危ないぞ」  稔ははっきりと丸沢先生を突き飛ばして黒枝のほうへ走った。 「黒枝さん! 僕、葉山稔です!」  丸沢が背後で叫んだ気がしたけれど稔は気にしない。すぐそばまでかけつけて、黒枝のたくましい腕を逃がさないようにぎゅっと握ってみた。  輸入物の眼鏡をかけているようなおしゃれ気のある大人って、男子のころなら怖くて近寄れなかった。けれど、女になったいまはふしぎと受け入れられそうな気がしたのだ。女の勘だろうか。 「ああ、このあいだは急な電話ですまないな! ……詩ノ月で変身した娘ってのはなんだ、みんなかわいいんだな」 (てれてれ) 「こういうときは『まっ、お上手なんだからー』って切り返すんだぞ」  稔は安心した。良かった、電話で話したときよりは人当たりがいい。さすがは米沢遼子の心を射止めただけはある。 「それより、遼子さんのこと……、ごめんなさい」  稔は黒枝に、桜の枝の話を全部説明した。 「ちぇっ、そんなことになっていたわけか。生徒会なんて昔からほんと、意地が悪いよな」 「というわけで、桜を守りきれなくてごめんなさい」 「しかたないだろう。中一の子に桜を死守しろだなんて、俺たちだって言わないよ」  黒枝がちらりと別のほうを見た。気づけば稔の背後で、大場先生が泣きそうな顔をしながらもにらみを効かせてくれていたのだ。  さらなる桜伐採の危険についても、稔は話した。あっさりと黒枝は協力を申し出てくれた。 「協力といっても、ま、役に立つかどうか分からないけどね」 「いいえ! 心強いです!」  稔は聞こえないように、汐月家の三船の連絡先を黒枝に耳打ちした。遼子が男性化したことで起こる面倒は、汐月家がある程度カバーしてくれるはずだ。 「ぜったい桜を直して、遼子さんをもとに戻しましょう!」 「ああ、そうしてくれないとな。子どもまでいなくなったらさすがに遼子がきつい」  子ども? なにげなく聞き流していたが、一分後に意味が分かって愕然とした。まさか黒枝(米沢)遼子こそ、覇雄が言っていた「妊娠している被害者」だったのか。  いたはずの赤ちゃんが、お母さんの性別が変わったばかりに消えてしまった。殺人事件にも相当する大変なことではないか!? 稔はあらためて黒枝の顔を見た。でも黒枝は 「気にするなよ」  とつぶやいて微笑むのだ。一昨日の電話での剣幕から考えても、黒枝の腹の底は本当なら煮えくりかえっているはずだ。年下の娘を心配させないように微笑んでいるということか。父親になるべき男性の度量に、稔は圧倒されてしまった。  答えられない稔のかわりに、なぜか大場先生が言った。 「桜は伐らせませんよ。ぜったいに」  朝から強烈なビンタをくらった気分で稔は下駄箱を開けた。下駄箱にはなんの嫌がらせか、新聞紙が入っていた。いや、ちがう。新聞紙を貼り合わせて封筒の形になっている。手紙なのだこれは。  次から次へと事件が起こる、今日はびっくりするほど忙しい日になりそうだと稔は予感し、実際にそうなった。  最終決戦なのだった。 12.  教室に着くと、覇雄に加えて和音までが登校していなかった。ふたつ空いた机が稔をちくちくと刺激する。でも怖がっている場合じゃない、かえって身が引き締まる感じがした。自分がなにかしなければ、事態はどんどん悪化するということだ。  席に着いて「よし」とひとり気合いを入れてみたのだが、さらにこんどはホームルームがなくなってしまった。どういう意味か分からなかったが、とにかくいつものようには始まらなかったのだ。先生が来なくて、生徒がときおり廊下を走る音だけがしている。「緊急動議!」とかいう叫び声が聞こえるのはなんなのだろうか。  やがて全校放送が流れた。結城兵庫の声だ。きっと敵がうって出たのだ。 「全校生徒の皆様。私は生徒会第四書記、結城兵庫です。おはようございます、授業を中断して申し訳ありません……」  例によって丁寧で落ちついた声が教室の隅々まで拡がる。相手を傾聴させる威力は相変わらずで、稔のクラスも騒ぎ出す生徒はいなかった。 「本日お時間をいただくのは、あの性転換事件について重大発表があるからです。生徒を性転換させる桜並木と……、汐月家との関係について」  周囲がざわめいた。汐月家は、詩ノ月町にまつわる噂で一番に出てくる名前である。倉木川のどこに橋を架けるかは汐月家が決めたのだとか、駅前デパートの大部分の株は汐月家が持っているとか、汐月の御祖母様が煮物が好きだから町内に醤油屋が十軒あるとか、そういう大人っぽいブラックな噂だ。中学生も大人たちが話す噂を小耳にはさみ、汐月家ってすごい権力なんだろうなと適当に想像していた。  その名前が、性転換の桜といっしょに語られてしまった。 「桜が男子生徒を女の子にしてしまう事件については、先日のアンケートなどで皆さんご存じだと思います。  桜が何年かおきの春に引き起こす危険な現象は、じつは大昔――学校創設前から何度もありました。あったはずなのに、発生の事実はびっくりするほど隠されていました。先ほどは偶然にも、過去の被害者のご家族が我が校に抗議にいらっしゃいましたが」  各教室に据えつけられた宙づりテレビに画像が灯る。隠し撮りされていたのか、黒枝の姿が映った。 「なぜ過去の被害が有名にならなかったか。それは汐月家が権力を使って被害を隠していたからです。陰謀説でも空想でもありません、私自身、性転換事件追及委員会を作って間もなく、事実を隠そうとする敵の手先に自宅を荒らされました」  テレビには三船の姿が映った。昨日あのとき撮影されたものだ。 「あ、この人、本当に汐月のひとだ」  という声がちらほらとあがった。結城はこんなふうに写真を悪用するつもりだったのか。 「現代の日本でこんな暴力的なことが、とお思いでしょうが、私がお話しするのは事実です。それなのに性転換事件追及委員会の質問に対して、詩ノ月の教師陣は答えようとしません。あくまで性転換事件を隠ぺいする気なのです! 一年生のみなさんに説明すると、隠ぺいっていうのは隠し通すっていうことですよ」  そのくらい知っているーという声が出たが、すぐに沈黙にかき消されてしまった。みな、ふざけている場合でないことに気づいている。結城は訴えた。 「このまま桜が残れば春ごとに女の子になってしまう男子生徒が出ます。なのに教師陣も、汐月家も桜を止めようとはしません。私は疑っています。汐月家は、詩ノ月中学の生徒を使って人体実験をしているのではないでしょうか!  生徒会、性転換事件追及委員会は詩ノ月中学教師陣に要求します。即刻、桜並木を全て伐採すること。さもなければ私たちは授業のボイコット並びにそれ以上の行動を起こします。賛同する組の級長は、決を取った上で生徒会室までいらしてください。一年生に説明すると、ボイコットというのは真実を勝ち取るために、みんなで授業に参加してあげないってことですよ」  唐突に、放送とテレビが切れた。教師が強制的に校内放送の電源を落としたように、さもそのように思える切れかただった。  クラスのみなが一斉に稔のところに集まった。 「いまの、なに? ほんとうなの!?」 「本当なわけないよ! 悪いのは生徒会だよ! 桜は伐っちゃだめなんだ!」  稔は懸命に、桜を伐ったら過去の被害女性が男に戻ってしまうことを説明した。しかし結城の説明に比べて稔の話は分かりづらい。 「えっ? ミノリちゃん、男に戻りたかったんじゃないの?」 「僕は戻りたいけど、ほかの人が困るんだ!」 「ほかの被害者だってもともとは男だったんだろう? 桜をほうっておいたら、こんどはべつの男子が女になるかもしれないじゃないか」  なんだかまた稔を責めるような雰囲気になりそうだったので、アシュレーが大声を出して議論を止めさせた。  同じクラスの生徒ですら理解しづらいのだ、他のクラスは生徒会に味方するところも出てくるのではないか。 「でもさー、生徒会が授業を中止させるだなんて、そんなことできるの? 本当に」 「昔話だけど、ゼンキョウトウとか学生ウンドウとか流行ったころにはあったみたいだぜ、中学でも。でも、とりあえずうちのクラスは生徒会に賛成しないでいいだろ?」  素直の呼びかけにみながうなずいた。 「そうだな、俺たちのミノリが嘘をついているとは思えないもん」 「ミノリはあたしたちのアイドル、大親友よ」  親友だから信じるという言葉が、稔の胸に痛く響いた。親友ならなんでも信じるとかそういうものならば、稔と和音のいまの関係はなんなのだろうか。  稔の組は授業をしてくれて良かったのだけれど、先生はやっぱり来なかった。他の組を落ちつかせるのに必死なのかもしれない。稔はため息をついて、朝一番に手に入れた手紙を広げてみた。 「ミノリー、なにそれ」 「分かんないけど……」  アシュレーや素直と、三人でのぞき込んだ。封筒は新聞紙を紙テープでとめて作ってあり、そのうえむりやり紙飛行機の形に折られた痕がある、一歩間違えればゴミ箱行きの見かけだった。しかし中身を取り出して稔は息を飲んだ。覇雄の筆跡で署名があったのだ。文面は、 「が・ん・ば・れ。ははっ、なんだこれ」 「すげぇ、覇雄のやつ、どこかで生きていたんだな」 「生きているに決まってるじゃん! でもミノリー、良かったね」  たしかに、これだけでも安心できる。どうして手紙が下駄箱まで届いたのかが謎だったけれど、覇雄だからそんなミラクルも成功できたのだろう。  と、一ヶ月前の稔ならこれだけで安心していた。稔は手紙を蛍光灯にすかしたり、斜めから見てみたりした。 「どうしたの?」 「いまは緊急事態なんだ。たったこれだけのメッセージを送ってくるだなんて、神崎くんはそんなことしない」  中身の便せんにはなんの仕掛けもなさそうだ。それならばと、稔は封筒のほうを破らずに合わせ目から開いてみた。  新聞記事の内容は先週の、なんてことない野球の結果だ。しかし丁寧に一字ずつ見ていたらアシュレーが気づいた。 「ここ! 文字に鉛筆で印がついてる!」  本当だった。印の付いた文字だけ抜き出してみたら意外とたくさんの文字があったのだ。 「記事ごとに分けてひとまとめにすると……。探・と・を・な・お・せ?」 「おとなを探せ、か、なおとを探せ、のどっちかだよ!」  稔は確信した。三船も言っていたのだ、中学校の生徒会にしては手際が良すぎると。背後に誰か支援する者がいるのだ。きっと覇雄は黒幕を、大人の誰かだと思っている。  封筒の暗号からは、それ以外に住所らしきものも見つかった。 「番地は分からないけど、これって実際にある地名だよね! どうせ授業は始まらないんだし、探してみようよー」 「いいのかな、それ……。でもしかたないか。三船さんに連絡するからアシュレーは手伝って。向山くんは、いちおう学校のなおと君たちを探して」 「待てよ! この学校だけで『なおと』なんて何人いると思っているんだよ! ぜったいこっちはハズレだろ、まったく……」  他にも興味を示した生徒がいたのだが、彼らには待機してもらって稔とアシュレー、素直の三人で教室を飛びだした。携帯で三船を呼べば、バイクがたった十分でジュース屋前に現れる。  稔たちから話を聞いた三船は写真を撮られたことを「不覚でした」と反省していたが、すぐに立ち直って問題の住所に向かった。 「学校ともめている以上、結城女史は生徒会室にこもっているでしょう。いまが探索のチャンスです。手の空いている部下も呼び寄せましょう」 「相談なんだけど……。神崎君の居場所は、三船さんとアシュレーで探してくれないかな」  バイクが急停止したのは、信号が赤だからだけではなかった。三船さんの腰につかまっているアシュレーが、首を横に向けて尋ねてきた。 「どうして、ミノリ? 覇雄を一番捜したいのはあなたじゃないの」 「ごめん。覇雄を探すのなら、三船さんたちに任せた方がきっとうまくいくんだ。僕は、もっと危険にさらされている子を見に行かないといけない」 13.  バイクを途中で降りて朝の街をひとり歩き、たどり着いたのは逢坂和音の家だった。学校で起こっている騒動をよそに家は静かだ。庭には清潔なシーツが干されている。  シーツの陰から長髪の女性が顔をのぞかせて、稔に先に声をかけた。 「あらぁ? 葉山さんよねー。どうしてこんな時間に」  和音の母親だ。娘と違いおっとりした感じの動作で、門を開けて出てきてくれた。稔は制服のリボンを直してから尋ねる。 「失礼します! 逢坂和音さん、今日は家にいますか」 「学校に行っているはずじゃないの。朝、普通に出かけたけれど」  やはり和音は教室に現れずになにかをしているのだ。稔の言動から察して、和音の母は心配げな顔をしている。しかし遠慮してはいられない。和音の母とは裸のつきあいだってしたことがあるのだ、稔は核心をついてみた。 「おばさん。逢坂さんのことで……。高藪村って知ってますか」  おばさんの表情に緊張が現れた。 「どうしてそのことを。和音から聞き出せたの?」 「いいえ。でも、どうしても逢坂さんが心配なんです、最近様子が変で! 相談に乗ってください!」  稔が頭を下げると、おばさんは家の中に入れてくれた。ちょっと懐かしい居間で、ああ、あそこに覇雄と並んで座ったのだとついこの間のように思い出せる。  たたむ途中の洗濯ものを押しのけながら、おばさんは真剣な顔で言った。 「和音ったら、学校に行かずにこっそりなにかやっているのね。それであなたには理由を教えてくれないと」 「はい、そのとおりです!」 「あなたまで学校を抜け出したということは相当大変なことが起こっているのでしょうけれど、まさかそれにうちの子が関係しているとか?」  このおばさん、見た目に反して異常に察しがいいのだった。それも神崎姉弟みたいに理詰めで考えるほうではなく、連想力で攻めるタイプだ。 「正直、そうだと思うんです。でも僕が知りたいのは細かい経緯じゃなくて、逢坂さんがなにを考えているかなんです。逢坂さんって不安なんでしょうか、寂しいんでしょうか、怖がっているんでしょうか、それとも、怒っているんでしょうか?」  とうとう言ってしまった。和音がしていることが善いことなのか悪いことなのか、それともどちらでもないのか、稔にはまだ見極められない。でも覇雄が困っていて、黒枝さん遼子さんが困っていて、三船さんが困っていて、なによりも和音自身が困っている。和音がいまの状況を見過ごしたりわざと後押ししたりしているなら、和音がやっているのは悪いことだ。  おばさんは一瞬、つらそうな顔をした。 「あなたが知りたいんだってこと、分かるわ。和音って理由も分からない不思議なことをする娘だからね」 「不思議だけど、助かったこともあったんです。四月に神崎くんと僕を救ってくれたのは、逢坂さんの気まぐれかもしれないけど嬉しかった。本当ですから」 「そうね。はじめてあなたたちふたりを連れてきたときはびっくりしたけれど、素敵な人とお友達になれてよかった。あの子もすっかり明るくなった。だから私ね、おふたりには和音のこと、お話ししてもいいと思っているの」  しかし、おばさんの表情はなおつらそうになるばかりだった。 「でもね、私には言えることがないの。なぜなら母親である私ですら和音の秘密を知らないから」 「えっ?」 「小学校六年生の一年間、あの子は行方不明だったの。そして行方不明だった一年間、私は和音がなにをしていたか知らないの」 「ごめんなさいっ」  なにかとんでもないことを聞いてしまった気がして、稔はそう口走った。 「いいのよ。ぜひ聞いて。小学校五年を終わろうとする春休みに、旅先で和音は行方不明になった。誘拐だと思ってね、捜索願いを出したわ。でもなんの手がかりもなくて。もう諦めろとか他人にひどいことを言われていたころに、今年の一月にやっと見つかったの。見つかった場所が、高藪村。正しくは高藪村の跡地なんだけどね」 「跡地?」 「高藪村って、ダム建設のせいで水に沈んじゃったのよ。そのダムの上に立っているのを発見された」  ニュースで聞いたことがある。大きなダムを造るときには、山間部にある村をまるごと立ち退かせたりするのだ。その際には出ていきたくない村人と賛成する村人との間でけんかになることもあるらしい。 「行方不明だったあいだのことを、和音は思い出せなかった。私たちが尋ねても『忘れた』と言ってね。でもあの子は、一年前のあの子とは性格が変わっていたの。もとはお調子者で、他人を笑わせるのが好きな子だった。なのに見つかった後は、ときどき相手の心を探っているみたいで、辛らつな言葉を吐くことも多くなった。なによりわざとふざけた態度をとって見せるときも、あの子自身が笑わなくなったの」  とんでもない話だった。逢坂和音は、誘拐されて、行方不明のあいだになにかされて、人間が変わってしまったというのだ。 「で、でも、僕は逢坂さんの笑顔を知っている」 「そうなの。あなたたちと出会って和音の笑顔は増えた気がする。いっしょにふざけあって、すっきり疲れて帰ってくるあの子なんて久しぶりに見た。感謝しています……。以上、以上が言えることの全てよ。母親なのにあの子のこと、全然分かっていなくて恥ずかしい」 「そんなことないです!」  手を振って否定してから、稔は話しはじめた。こんどは稔が打ち明ける番だ。 「高藪村って名前は、正体不明のおじいさんから聞いたんです。正体不明だから本当かどうか分からないんですけど……。そのおじいさんが言うには、村がなくなったことに逢坂さんも関係があるって」 「なんですって」 「おじいさんに出会ってから、逢坂さんが変になったんです。きっと誘拐されたときのことを思い出したに違いありません」 「そうね、この一週間緊張した感じだったものね」  和音が誰かと連絡を取っていたかは、母親にも分からないようだった。しかし稔は確信を得た。白装束の老人を見て、過去の事件を思い出したせいで和音は悩み、行動がおかしくなっているのだ。和音がなにを考えているかが分かれば、対策のしようがある。  和音を救えるかもしれないのだ。 「では、僕は学校に戻ります。僕が来たこと、和音さんに伝えてください。すごい秘密まで聞いちゃいましたけど僕は逃げも隠れもしません」 「ええ、分かったわ。本当に学校をさぼっているなら、和音を充分しかっておかないとね」  それなら稔自身もしかられるのだろうか。ふたりは苦笑した。 「あ、それから。相手の思惑に鋭いところとか、逢坂さんってお母さんそっくりだと思います。僕は逢坂さんのこと、百パーセントおばさんの娘だと思いますよ」  おばさんは一瞬微笑んで、それから呆れた顔をした。稔の頬をやさしくつねってくる。 「当然でしょ!」 14.  和音の家を出て、ちょっと肩の荷がおりた気分で道を曲がった。そろそろ三船さんに連絡しないといけない。  間違っても和音の母親と出くわさないくらい離れた先の塀にもたれかかって、稔は電話をかけようとした。  顔の両側を、宙から降りてきたスニーカーではさまれた。なにがあったかと上を向こうとしたら髪の毛を手でつかまれて、頭を固定された。 「はい、動かないで。話すのも電話をかけるのもだめ」 (か、和音……!)  唇を動かそうとしただけで髪の毛がすごい力で引かれるのでいまにもむしり取られそうだ。和音はきっと塀の上に腰かけた位置から、稔の頭を捕まえているのだ。 「まさかあたしの家に直接押し入るとはね……、と驚いてあげたいところだけれど、あんたの行動は予想の範囲内なのよ。どう、高藪村の話は聞けたかしら?」  答えようとした稔の頬にスニーカーのつま先が食いこんだ。マラソンでものんびりとしか走らない和音にこんな筋力があったのだろうか。それとも普段の体育の時間など、実力を隠して受けていたというのだろうか? 「むかしむかし。あるところにひとりの女の子がおりました」  とにかく、強制的に話を聞かせるというシチュエーションを作りたいらしい。稔は黙って聞いた。 「女の子は誘拐され、なんてことはない半年の訓練を受けました。男の子を誘惑する方法も勉強しました。そして、小さな村へと連れていかれました。村でのお仕事は、村長の孫息子と仲良くなること。  簡単な仕事だと女の子は思いました。他人を楽しませるのが好きな彼女は、そのまま村長の孫も楽しませてあげたのです。なんで女の子がそれをやらされたかの理由は、知っていても言いませんでした。そうして女の子は、男の子を抱き込みました。  当時村長はダムの建設に反対していたのですが、かわいい孫息子が政治上の秘密をばらしたせいで夜逃げ、村は賛成派が実権を握りました。そこを悪徳業者につけこまれ、たいした補償もないままダムは建設開始。村人たちはみんな散り散りになってしまいましたとさ」 「あの白装束のおじいさんは?」 「村長の呪いが、沈めた湖底から浮かびあがってきたのでしょうね。喩えていえば十三日の金曜日のジェイソンみたいなもの」 「そんなこと、あるわけがっ……、ごほっ」 「なにを言っているの? 村が滅ぶなんてね、誰かの悪意がなければ滅ぶものじゃないのよ。そして悪意はうらまれて当然なの。しかも、女の子の仕事はそれだけじゃありませんでした。いろんな街を巡り、いろんなことをしました。悪い仲間もいました。背の高い剣道使いの女の子とかね」  結城兵庫のことだ。 「恐ろしいことに剣道使いは女の子の故郷で雇われ、学校への潜入に成功していました。故郷が次のターゲットにされていることに女の子は気づいたのです。でも剣道使いは生徒会活動をするばかりで計画を実行する様子がない。女の子にとって、お友達との普通の生活は楽しすぎる。自分から計画を阻止しようとすれば、また悪いやつに誘拐されるかもしれない。いつか女の子は幸せな日々に怠惰し、この世界が呪われた戦場であることを忘れようとしました。誰かさんの罠が少しずつお友達ののどを絞めつけていたのにね。敵の準備が整ったころには、女の子は脅されて協力するしかありませんでした」  結局最初からあたしは見て見ぬふりをしていた、誰ひとり助けてなんかいなかったの。和音はそうつぶやいたのだった。 「知っている? 覇雄はね、この世界の形が崩れるのが嫌い。強い子は強く、元気な子は元気に、みんな幸せでないといけないのが正義と秩序なの。だから誰かが不幸だと大好きな世界が壊れた気がして放っておけなくなる。稔はね、傷や痛みが嫌い。つらいことを恐れる気持ちに敏感で、小指が痛いだけで全身が引き絞られる。それがたとえ他人の痛みであっても苦しくてたまらなくなるから、手当てしてあげたくなるのよ」  和音の足がゆるんだので、稔は叫んだ。 「かってなこと言わないでよ! じゃあ逢坂さんはなんなんだよ」 「あたしは平等が好き。人間って誰もが幸せでいる権利を持っているらしいじゃない。あたしでも、あなたでも。だから誰かだけが幸せで、誰かだけが不幸であることに耐えられない」  声がかすれているのは、稔ではなく和音のほうだった。 「無為無策で弱っちいあんたたちが、たったそれだけの理由でこのまま不幸になっていくのが嫌だったのよ。でももうだめ」 「いまからでも間に合うよ! 神崎くんを助けて、遼子さんをもとに戻して、生徒会にもやさしくしてもらおうよ」 「……ばか」  和音の重みが、突然消えた。塀から反対側へ飛び降りたのだ。遠ざかる足音がする。稔は必死に塀に飛びついて追いかけようとした。でも猫の散歩道ほどの路地を見おろしたとき、和音の姿はどこにも見あたらなかった。 15  そのころ、アシュレーと三船は怪しげな建物を発見していた。診療所とおぼしき造りになっているのだが、看板ははずされ扉は閉まっている。 「手紙にあった住所と照らしあわせると、ここが怪しすぎるねー」 「ご近所の目撃情報からしても、覇雄はここに向かっていたと考えて良さそうです。では」  三船は問答無用で建物のなかに押し入った。が、しかし無人だった。 「二階にもだれもいないよ? えーと、『最近使ったようすがある』とか分かんないかな」 「このベッドに、最近使った形跡があります。覇雄がいたかどうかまでは不明です」  汐月家の捜査が結城の自宅まで迫ったことを危険視して、敵は覇雄を別の、もっと見つかりにくい場所に移したのかもしれない。三船は歯がみした。アシュレーが備品棚をいちいちのぞき込みながら尋ねる。 「ねぇ、警察には届けたの?」 「捜索願は家族からしか出せません。いちおう汐月家から非公式に頼みましたから、警察も家出人探しくらいの手間は取って下さるでしょう。しかし誘拐事件だと考えてもらうには証拠が少なすぎます。さらわれた現場の目撃証言でもあればよかったのですが」  手紙が届いたくらいだから、誰かが町内のすぐそばで動いていたはずなのだ……。三船は歯がみした。  電話がかかってきた。三船がハンドバッグから携帯を取り出す。 「……そうですか、では逢坂様を尋問しますか? ……いえ、分かりました。こちらも残念ながら成果はございません。葉山様は合流していただいても、学校に戻られても結構です」 「どうしたのー」 「敵の情報源が分かったくらいですね。逢坂様が生徒会に脅されていたそうです」 「うっそ、あの子が? 脅されるより脅すほうだと思っていたんだけどな」  ついで別の電話がかかってきた。素直からだ。話を聞いた三船はため息をついた。 「学校のほうがやっかいになっているようです」  学校で、生徒会の動きはすばやかった。まず生徒会室に立てこもり、各教室には携帯電話で連絡を取る。デモに参加するクラスの意見を取りまとめ、代表者集団が桜の木へと向かった。  桜の木の前では教師陣が手出ししないように立ちはだかっている。 「あらあら、そんな近くに立っていたら性転換しちゃいますよ」  教師丸沢が、おしりをもぞもぞ動かしてから言った。 「そんなわけあるか! 君らの要求は余計で杞憂だ」 「私たちの結論はあくまで桜並木の完全伐採だと申し上げたはずです」 「それはできないとこちらも言ったはずだ」  生徒と教師は、校庭でにらみ合った。 「教室に帰って授業を受けろ。学校は勉学の府だ」 「勉学の府だというなら、敷地外をうろうろしている黒服の人たちはなんなのでしょうか。生徒を人体実験に使おうとしている汐月家がいたら、勉強なんてできません」  丸沢はふり返った。事実、桜並木の外側には怪しい風体の男が数人歩き回っている。それを見た生徒たちから「帰れ」の声が出る。やがて帰れコールとなって、恐ろしい怒気が一帯を包んだ。  そもそもは三船の命令で、汐月家の使用人が桜を伐られないように見張っていたのだ。しかしいまの生徒たちからすれば汐月家は秘密主義で、陰でなにか悪いことをしているまさに悪役だ。  中学生でも人数を揃えて叫べばものすごい恐怖を生む。汐月の使用人たちは、とりあえず生徒から見えない場所まで引き下がるしかなかった。 「ご協力ありがとうございます! ではみなさん、冷静に議論しましょう」  結城の言葉で騒ぎはぴたりと収まった。指導力の高さを見せつけながら、結城は交渉を有利に進める。 「私たちの要求は桜の伐採と汐月家の支配構造打破であり、他の選択肢はありません。交渉の余地があるというなら、先生方が全生徒の納得できる形を考えてください」 16  詩ノ月に生徒たちが立てこもったままいたずらに時は過ぎ、午後になり、夕方になった。稔、アシュレー、素直、三船で喫茶店に集まったが、とりたててよい手段があるわけでもない。  なにもかも汐月家の財力と実力行使に任せてみる手もあった。しかし悪意を疑われているいま、そんなことをすれば生徒たちだけでなくPTAへの印象も最悪になる。ひいては詩ノ月町全体から汐月家が敵視されることにもなるだろう。 「命に替えても守らなければならないものがあるというのに、命をかけては結局大事なものを失ってしまう。かえって私が出たことで御祖母様に迷惑をかけてしまいました」 「そんなことないですよ! 三船さんがいなかったら、抵抗すらできませんでした」  一同はため息をついた。 「件の廃病院を出入りした怪しい自動車がないか探らせていますが、難しいですね、そんな曖昧な探査では」 「学校はどうなりそう?」 「抗議派は夜どおし泊まりこむつもりらしいぜ。うちのクラスのみんなにはおとなしくしているように言っておいた。うかつに刺激したら生徒どうしで暴力ざたになりかねないや、あれじゃ」  喫茶店の扉が開いた。汐月家に対する抗議でも来たかと、稔はどきっとする。しかし顔を出したのは丸沢先生だった。 「やぁ、見つけたぞ。汐月家の方ですね」  三船はすぐに立ちあがって、手を揃え一礼した。 「教頭先生ではありませんか。ご用事がありましたらこちらからお伺いしましたのに」 「いえいえ、火急の用事です」  そこまで言ってから、丸沢先生は稔たちをいぶかしそうに見た。三船がフォローしてくれる。 「彼らは当事者です。相談があるならぜひ同席させてください」 「た、たしかに葉山さんはそうですね。ではお話ししましょう。生徒会との交渉なんですが」  丸沢は、生徒たちの未来のこともあるし警察ざたなどにはしたくないと話した。 「桜の木は伐れない。しかし性転換が拡がらないように努力していきたいと話したところ、生徒たちにも理解がないわけではなかったのです。ただし条件が。汐月のほうに、秘密主義を止めてほしいとのことです」  桜の木をすぐに伐らなくてもよい。しかしこれまで通り呪いの桜を汐月家の管理にお任せするのは我慢できない。 「生徒会の要求は、汐月家が持っている情報を全部明かすことです。まずこれまでの被害者で、汐月家が保護を行っている人たちの名簿の提出」  名簿。稔はどきりとした。それは夏休みに、佐倉野ひじり相手に争奪戦をやったあの名簿のことだ。つらい体験すら読み取れる被害者の経歴に、稔たちは打ちのめされたものだった。  生徒会にだってみだりに見せていいものではない。  気がつけば三船と稔がふたり同時に抗議していた。 「だめだよ! 女の人として静かに暮らしている人もいるのに!」 「だめです! これ以上中傷や嫌がらせで被害を増やすわけには!」  丸沢先生はおしぼりでゆっくりと顔を拭いた。 「なにやら重要な情報のようですな。だからこそ生徒会も知りたがっているようです。性転換現象を独自に分析し、解決法を見いだすために」 「そりゃそうだろうけど、でも!」 「意味不明なのですがね、結城君はこんなことも言っていました。神崎覇雄君は責任を果たすために現在活動しているが、もしも重要な情報が明らかになれば、安心して皆さんのもとに帰るだろうと」  一同は息を飲んだ。遠回しに言っているが、それは情報と人質を交換ということではないか。 「……横暴なっ!」 「どうでしょう。これは飲める条件なのでしょうか」  三船は顔を青ざめさせていたが、やがて頭を振って言った。 「汐月家と生徒さんたちは、決して敵対するものではございません。交渉に臨みましょう。その場で説得することも考えます」  交渉の時間は午後九時。場所は、倉木川大橋の上。 17.  交渉の場に赴くために、各自いったん休もうということで稔は自宅に帰った。夕ご飯はできているだろうかとキッチンに入ると、母親のただならないけはいを感じた。 「あ、ちょっとトイレ」 「稔。そこに座りなさい」  一昨日も、昨日も怒られたことを思い出した。さらに厳しいことを言ってくるのかもしれない。稔が座ると、母親は味噌汁を出した。稔が大好きな、タケノコとワカメの味噌汁。秋なのに、新鮮なタケノコの味噌汁。 「お母さん」 「学校がひどいことになっているみたいね。ご近所のお母さんたちから電話で聞きました」  そうだ。母親は今日の騒動のことを知っていた。汐月家に汐月家の情報網があり、生徒に生徒の情報網があるならば、父母にはPTAという情報網があるのだ。 「しかも騒ぎの原因が稔だってことになっているそうじゃない。まるで稔が悪いみたいに言われて」  実際に言われたのだろう。 「僕は、大丈夫だよ」 「あなたのお父さんもね、おじいちゃん、おばあちゃんも、あなたが女の子になっても大丈夫だ、同じようにかわいいってそう言うけれど、本当はみんな心配しているんです。あなたが男の子気分なのはかまわないですけれど、女の子ならもっと自分を大切にしなきゃいけません。あなたは知らないでしょうけれどね、過去には、襲われてひどい目にあった生徒もいたそうよ」  町中の父母たちで噂をすれば、同級生に襲われた被害者――渡辺晶についての断片的な話も出てくるだろう。その被害者のことなら、具体的な名前だって知っていると言い返したくなったが、止めておいた。 「言いたいことがあったら言いなさい」 「九時から学校の友達を助けに行くよ」 「やっぱりまたそれですか! あなたは何回ひどい目にあったら気が済むの!」  母親に怒鳴られて身をすくめて、いつもならそれだけで精神的にギブアップしていたかもしれない。だけれど昼間いろいろな話を聞いたせいか、部屋には妙に冷めた自分がいた。  和音と和音のお母さんは性格がよく似ているということを思い出した。  きっと稔の母親も稔と同じく、痛いことが嫌いで他人の痛みですら怖くてつらくてたまらないのだ。 (僕も同じだ、お母さんの痛みが分かる。お母さんは、ほかの家族が平気な顔をするせいでかえって寂しくて、心配な気持ちをひとりで抱えてしまっている) 「お母さん。お母さんは学生時代、お友達が多かった?」 「ふつうでした。でも女の子の友達って、誰がなかよしで誰と仲が悪いとか、人間関係にうるさくってあまりなじめなかった。裏でひどい噂話もするしね……。お父さんに出会わなかったら正直つらかったかも」  稔だってそうだった。小学校時代の級友は優劣関係が激しく、一度ダメなやつ扱いされたらどうやっても浮かび上がれなかった。 「でも僕は、中学校に入って友達ができたんだ。はじめて僕にもなにかができると思えたんだよ」 「あんな中学校に行っていなくても、あなたならお友達ができたはずです。女の子になったりする必要はありませんでした」 「詩ノ月に入ったって! 僕は変身する前も後も、ずっと僕のままだから。だから信じて」 「じゃあ稔はお母さんのこと、裏切らない?」 「裏切らないよ!」  母親はテーブルの上に、茶封筒に入った書類を出してきた。稔はそれを見て驚愕した。 「なんだよ、これ……」 「転出の届けよ。ねぇ、稔、どこか遠いところへお引っ越ししましょう。転校して、悪いことを言ってくる人なんていないところで、女の子の幸せな学生生活を送りましょう。あなたはかわいいんだからお友達だってまたすぐできるわ」 「だめだよ。今度逃げたら、それこそ僕は僕じゃなくなっちゃう」 「くだらない人たちから逃げることは、恥ずかしいことではありません」 「くだらなくなんてないよ!」 「あなたが犠牲になったらみんながほめてくれるなんて、世の中はそういう風にはできていないんですよ。かえってあなたが傷ついたことを自分たちのせいにされたくないと思って、稔が犠牲になったのは勝手にやったことだ、自業自得だと言うのです」 「どうしてそんなひどいことを言えるんだよ! お母さん……、信じられないよ」  やにわに、母親が立ちあがった。 「そう……。じゃああなたはお母さんのほうを捨てて行ってしまうのね。だったらお母さんにも考えがある」 18.  約束の時刻になっても稔は来なかった。三船と素直、そして数人の使用人がライトバンで待機していたのだが、二十時四十分、電話をかけても稔は出ない。 「まさか稔の身にまでなにかあったとか? 主役級が全員欠席じゃないか」  助手席で、ラグビーシャツ姿の素直が頭を抱えた。 「三船さん、どうするの、これ?」 「もとより葉山様に実力行使をしてもらうつもりはありませんでした。私たちだけで覇雄を救出しましょう」  三船は暗号式の無線機で仲間と話をした。暗がりでよく見えないが、橋の両端や河川敷には三船の部下が潜んでいる。 「敵の本隊が来てくれれば逆に罠にはめることもできるのですが……うっ」  新たな電話が入った。詩ノ月の、敵対する生徒のひとりからだ。 「待ちあわせ場所変更!? 庁舎ビル裏公園だと、勝手なことを」  遅れてきた稔が大丈夫なように部下をひとり残しておき、三船はライトバンを発車させた。幸い道路は空いている。ハンドルを回しながら、素直には学校で待機しているアシュレーに連絡してもらった。 『……学校のほうは変わりないよー。桜の木にも手出しはされてないから。抗議派のみんなが取り囲んでて、ちょっと近寄れないのが残念だけどね。あ、三船さんはぜったいに直接来ちゃだめですよ。顔を知られているから生徒にボコボコにされちゃう』 「……だそーです」 「本当に体がいくつあっても足りませんね、困ったことです」  公園に着いたが、かかってきたのは再び変更の電話。おそらく、敵は汐月家の者たちを分散させる作戦なのだろう。  今回の件を金で解決するとすれば、怪しい興信所に頼んだりできなくもない。しかし汐月家に関するスキャンダラスな噂が外部者に広まっては元も子もない。身内の信用できる人間で対処しなければならないのが、やっかいなところだった。 「もうしわけありません、向山様にまでご迷惑をかけて」 「取り引きに生徒を連れて来いっていうのも敵の要求だったんだろ? そのくらい任せておけって」  結局たどり着いたのは詩ノ月中学からも汐月邸からも自動車で三十分以上離れた、倉庫が並ぶ工業地区だった。 「おいおい、倉庫の前で取り引きだなんて、どんな麻薬密輸だよ」 「おふざけは危険です、いまからはなにをされるか分かりません」  タイヤが上下に振動し、ついで砂粒を踏む音がして停まった。ふたりは車を降りた。周囲は街灯もまばらで、暗やみに溶け込んだどこかで虫が鳴いているだけだ。  ほどなく、懐中電灯で合図を送る者がいた。ゆっくり近づいてみると、なんと結城兵庫本人が立っている。ちょうど学芸会で講堂に響くくらいの麗らかな大声で呼びかけられた。 「あら、万年生徒会挑戦組の向山君じゃないの。今日は大役を任されてきたのね」 「おまえこそ独りなのかぁ。こういう裏取引は、生徒会仲間には見せられないってか」 「裏取引ではありません。お願いした資料をいただきに来ただけです」  十メートルほど離れて、敵味方は向かいあった。お互いの姿がスポットライトのように、屋外灯で照らされている。 「覇雄はどうした!」  ここに、という合図とともに、ふりふりのワンピースを着た少女が後ろから出てきた。間違いなく覇雄だ、と言いたいが、  素直のみならず三船も空気に冷たいものを感じた。たった五日会わなかっただけなのに、半袖の腕が蒼い色をして、闇のなかに浮かびあがっている。頬に深い陰を落とした顔がこっちを見た。いや、見たのだろうか、瞳の焦点が合っていない。筋肉が落ちたせいでいつもの威勢がなく、動作が円を描く女の子らしい軌跡になっているのが皮肉だ。結城がつぶやくと、覇雄はひざまずいて胸の前で腕をクロスした。 「あーめん、おねえさま」  たおやかな声が聞こえた。 (すっかり結城に言いなりの女の子に……。変わってしまった。あの、覇雄がか?)  緊張に耐えきれず、素直が叫んだ。 「結城兵庫ぉ! てめぇがこんな腐ったやつだとは思わなかったぜ!」 「芝居がかった台詞はいけません、向山様。冷静にならなければ敵につけこまれます」  三船が足を踏み出した。結城は木刀を覇雄に突きつけて、三船を制した。 「あなたを近づけるほどこちらも馬鹿ではありません。向山君に名簿を持たせてお寄越しなさい」  三船がうなずいた。素直は、あらかじめ用意した封筒を手に近づいていく。 「ほらよ」  素直が投げた書類を、結城は覇雄に拾わせた。 「中身を読みなさい」  まずいな、と三船がつぶやいたのと、素直が隠し持っていた警棒で斬りかかったのは同時だった。 「……あなたの手は読めています」  結城は木刀を振りすらしなかった。なんと素直の学生服のベルトを剣先で引っかけたのだ。素直は警棒を結城に届かすことなく転倒し腹を見せて倒れた。名簿を読み続ける覇雄の声に、結城は眉をひそめる。 「にせの名簿を持ってくるなんてね。ニセ物で騙すなら渡辺晶はともかく、せめて黒枝遼子の名前は混ぜておくべきでしょう」 「どうしてそれを」  いや、覇雄が敵に寝返ったのなら、面会した被害者の名前くらいは憶えていて結城にしゃべったはずだ。 「やっぱり覇雄、おまえ……」 「こんな浅知恵を使ったのは向山君でしょうから、本物の名簿も持っているはず」  木刀の先でラグビーシャツをめくった。腹に挿してあるもうひとつの封筒を見つけて、結城は微笑んだ。  そのときコンクリートを撃つ音とともになにかが弾けた。結城の視線がそれた瞬間、上から黒い重量物が跳びかかった。  三船だ!  結城は木刀で受けようとしたが押しのけられた。間合いを取ったため覇雄、素直の双方から引き離される。中学生たちを背に守るように立ちはだかるのは三船。  状況を確認する間もなく警棒が振り下ろされた!  覇雄は機械的にニセ名簿を読んでいたが、読み終わると言った。 「三船さん――、カキン、止めましょう。なにもかも本当のことをカキン話して、世界中の人に性転換を治してもらいましょう。カキンそうしないと葉山が――、カキンカキン葉山まで同じめに遭ってしまう」  この間三船と結城は五回打ちあっていて、覇雄に耳を傾ける暇もない。向山素直が起きあがって反論した。 「バカヤロ! そんなことしたって、かえっておまえたちが犠牲になるだけだろ! 頭下げてじっとしてろ!」 「このままじゃ葉山が、葉山が」  覇雄が結城のほうへ這っていこうとするのを見て、素直がむりやり押さえこんだ。覇雄は簡単に倒れる。縦四方固めで押さえられた覇雄は素直の耳もとでひぅ、と息を吸った。 「お、とこ……?」 「?」 「はなせよっぉ、はなせはなせはなせはなせぇっ!」  乳だけを残してやせた胸が、素直の下で激しくけいれんした。 「どうせおまえも汚れた女ならもう一回ぐらいいいだろうとかモト男なら触ってもいいだろうとか弱っているなら助けてあげれば心を許すだろうとか街で噂をされてかわいそうとかやりすぎるとユルくなるとか喜んでしゃぶるようになるとか快感を開発してやるとか結局そんな目にあったのは女としてスキがあったからだろうとか思ってるんだろ! 俺だって意味くらい知っているよだからっていまさらこんなことをするなぁ!」  自分が押さえこんでいる体が女のものだと意識したとき、素直は体をどけてしまった。覇雄の手が伸びて素直の腹から封筒を抜き去った。白いワンピース姿が関係ない方向へと走り出す。  三船と結城が反応した。斬り合いながらも覇雄が走っていった方へ向かったのである。覇雄と名簿、取り引きされるはずだったもの両方がいっしょになって逃げ出したのだから、追わざるを得ない。  覇雄の白い背中が、闇のなかで小刻みに左右に揺れて見える。足音もあるし見失いはしないだろう。  しかし追いかけっことなると三船の圧倒的不利である。三船は名簿を取りもどさないといけないうえに覇雄を安全に保護しなければならない。一方結城は覇雄をどうしてもいいし、覇雄自身のパニックが治まったら、自分から結城に従うかもしれない。  走りながらでも、挑発の意味で木刀を突き出す余裕が結城にはあった。  しかしその有利不利の思惑が逆に結城の行動を鈍らせた。三船は結城より一歩先行した瞬間、百八十度回頭して全力で結城を打ったのである。  結城を打ち倒して、それから後に覇雄を保護すると思いきったのだ。  結城の木刀が手から離れて転がった。結城は退く。が、三船はまったく許すつもりはない。わき腹を突かれた結城が、砂地の地面にひざをついた。 「くっ」 「勝負ありましたね。中学生のおふざけにしては度が過ぎています」  結城をにらみつつ、三船は大声で素直を呼んだ。逃げた覇雄を確保してもらおうと思ったのだ。  素直から返事はなかった。 「!?」  ふり返った三船の目に映ったのは、地面に倒れている素直とそのわきに立った背広姿の男性だった。 「教頭、先生?」  背後で摩擦音がした。結城が、地面から木刀を取り出していたのだ。砂をかけて隠してあったということか。  木刀が振る音に遅れて痛みがきた。 (力強い……。鎖骨が折れましたね) 19.  立場が逆転しうずくまった三船の前に、厳しい表情で結城は立った。木刀の先でブラウスのボタンを飛ばす。 「あのよくできた封筒もダミー。本物は、これ」  結城の指が真っ白な乳房の間に入り、本物の封筒を抜き去った。遅れて丸沢先生が結城の隣りに立ち、戦利品を受け取る。 「やれやれ、手間をかけさせてくれましたね。これだけ手に入れるのに仕掛けの長いこと」  腹立たしげにつぶやくや、蹴ったのは三船ではなく結城のすねだった。 「やはりガキは使えないな!」  蹴られても、結城はただうつむくだけで避けようともしない。真の黒幕が丸沢教頭だったということの間接的な証明だった。意外な事実に、三船はうめいた。 「あなたが? そんなものを手に入れてなんに使うのですか」 「おっと。念のため手を加えさせてもらいますよ」  丸沢が取り出したのはスタンガンだった。三船を動けなくしてから、丸沢はゆうゆうと説明をはじめた。 「私はなにも悪いことはしていないのですよ。性転換事件の原因を明らかにして、完全解決する。それがいちばん生徒のためではないですか。なのにあなたがた汐月家は権力を使って常々より真相の糾明を妨害してきた」 「なにを言っているのですか」 「だってそうでしょう? 生徒が性転換するや本人の意志も確認せずに女子として編入し、戸籍を書きかえ、有無を言わせず女としての生活を押しつける。学校ぐるみでそんなことをされれば、中学生なら流されてしまって男に戻ることを諦めてしまうでしょう。桜を過剰保護したいがための、本音を隠した強引な手口です。しかし! 私がこの名簿を手に入れたからにはそうはいきません。全てを明らかにし公平な態度で問題を解決する、まさに真実への道です」 「そんなことをしたら被害者が傷つく」 「『傷つく』? 『傷つけた』の間違いでしょう。学校に危険物を放置したあなたがた汐月家の未必の故意が、ね。加害者にも被害者にも、これ以上被害を増やさないように努力する義務があるというのに。……まぁ、これで汐月家を信じる者は誰もいなくなるでしょう。汐月家の影響を排し、抱き込まれた校長を始め教師陣も一新して、新生詩ノ月中学になりますよ」 「つまりあなたがやりたいのは学校の乗っ取り、か?」 「違う! 下衆な勘ぐりは止めてもらいたい」  背後の闇のなかで、ぼんやり白く映るものがある。ふらつきながら覇雄が戻ってきたのだ。覇雄は丸沢先生のもとまでくると、結城と同じく頭を下げて直立姿勢を取った。 「神崎君。君は優秀だからね。中学三年間、私がみっちり育ててあげよう。結城やあの脱走者よりも優れたエージェントになれるよ。おっと」  下を向いた丸沢の七三分けがずれた。そのままかつらとなって地面に落ちる。薄くなった頭を見て、覇雄が突然絶叫した。 「医者……、先生!? ……い、いやだぁっ! ゆるしてくれっ!」 「黙れ! 誰か来たらどうする! なおかつ発言は敬語で『許してください』だろう!」  丸沢が蹴ると、覇雄は簡単に地面に転がった。結城があわてて覇雄にかけ寄り、抱いて守ろうとする。 「おやめ下さい、ご主人様。肉体への責はどうか結城にお授け下さい」 「おまえなど蹴っても硬いだけだ」  覇雄をひっつかみながら、丸沢は言った。 「やはり女は弱いな! 自分の人生を他人に好き勝手にいじくられるばかりだ。外に出れば狼に襲われ、家にこもれば親に押さえつけられる。病に冒されれば加害者に訴えることもできず無力に泣くばかり。ならば私が庇護し育ててやろう。桜の木の謎が解明されれば男に戻してやらんでもないぞ?」  嫌がる覇雄の泣き声に三船は奥歯をかみしめた。 「……外道め!」 「さっきまで女子中学生を警棒で殴ろうとしていた者が言う言葉か。それに取り引きに名簿を持ち出したということは、守りたい者のためには他人の生活を犠牲にするつもりだったということだろうに。俺が外道ならおまえたちは偽善だ」  人通りのない倉庫前は、花火をしにくる若者もいない。ただ離れたところの道路を、二、三分に一回自動車が通りすぎるだけだ。 「撤収するぞ、結城。神崎君も連れてくるがいい」  ずる、ずると足を引きずる音が、立ち上がれない三船の耳に届く。敵がゆっくりと遠ざかる。打ちひしがれる敗北感に、三船は待てと叫ぼうとした。自動車の音がうるさくて声が通らない。  いや、エンジン音が大きすぎる。  倉庫街に現れたのは一台の赤いスポーツカーだ。いきなりヘッドライトの強い光が向けられて、一同は目がくらむ。こちらに突っこんでくると思いきや、急角度で曲がり敵の真横で停まった。 「覇雄っ!!」  助手席から飛び出したのは白いスカートスーツ姿の女性だった。結城が邪魔しようとするが、車の扉にはばまれてうまくいかない。女性は覇雄の腰をさらう。車が発進して、こんどは三船の側で停まった。  覇雄を抱いていたのは神崎千秋だ。千秋は三船にささやくでもなく、大声で宣った。 「遅れたっ! すまんっ! アマゾンの原生林から帰ってくるのはわりと時間がかかったかも!」 「まったく……、謝るなら覇雄に謝ってよ」 「そのとおり! 覇雄、あたしが来たからにはゆっくり休んでなさい。誘拐犯! 家族の留守中になんてことしてくれたの!」  丸沢はしばらくぽかんとしていたが、やがてカツラを直すと忍び笑いをしはじめた。 「これはこれは、御父姉のかたでしたか。こんばんは、教頭の丸沢です。お間違えなく、私は誘拐犯ではありません。明日も普通に学校に出勤いたしますし、神崎君も普通に登校しますから」 「じゃあおまえがここでやっていたことはなんなのよ!」 「汐月家に、性転換事件の解決に必要な協力をお願いしていました。被害者の正確な人数やその後どうなったかを知れば生徒たちも安心するでしょう」  安心するはずがない。自殺者や行方不明者がいることを知れば、生徒たちの桜を伐れという要求はさらに強まるはずだ。 「生徒さんたちの抗議を焚きつけて、あなた、いったいなんの得があるの」 「私は真実が知りたいだけですよ、人間の正常で正当な心理です。むしろそうしない理由が分からない」 「それは違うよ」  スポーツカーの扉が開き、後部座席からひとりの生徒が現れた。真っ新な夏服を着た女の子だ。覇雄に負けず劣らず顔が青いのはどういうわけだろうか。  少女は車の扉に右ひじを押しつけ、倒れそうな体をまっすぐに保ちながら声を張りあげた。  葉山稔だった。 「丸沢先生、真実が大事だっていうのなら……。隠していた真実、分かりました。言っていいですか」  三船は理解した。犯人を追いつめるとき、ドラマの探偵は精一杯かっこいい顔をする。自分の意見が正しいと主張するがためだ。稔は違った。これから話すことが間違いであればいいのにと思っている。誰も傷つかなくていいのなら、傷つけたくないと思っている。 「丸沢先生は去年、交通事故を起こしました。自分の不注意で人にけがをさせたんですね。先生はたくさんお金を払って、事故のことが学校にばれないように頼みました。なぜかって、汐月の御祖母様は交通事故が嫌いだからです。自分の孫娘を死ぬような目に遭わせた交通事故そのものを憎んでいる。だから丸沢先生は自分も嫌われてしまわないように、事故のことを隠したんです」 「こら、君、そんな人聞きの悪いでたらめを」 「五月三日。二十時十二分、県道○○号線」  丸沢の顔が引きつった。目が、腕時計を見て結城を見て三船を見てから、結局飛び出した。 「なんでそれを知っている!?」 「先生は隠すことに成功したけれど、いつ汐月の人に事故のことがばれるか不安になりました。ばれたらきっと学校をくびになる。みんなに教師失格だって言われる。だからいっそ逆に汐月家の秘密を知って弱みを握ろうとしたんです」  丸沢は後じさった。 「わ、私は知らんぞ。あいつを殴れ、結城」 「先生、もう止めてください! いまの話がばれた時点で、もう終わりでいいじゃないですか!」  薄ら笑いを浮かべながら、丸沢は結城のほうを見た。結城は、動かなかった。 「!?」  エンジンをかけるみたいに結城を蹴る丸沢。それでも結城は動かない。 「いや、ちょっと待って!?」 「いーや、待たない」  千秋が丸沢の真後ろを指さした。ふり返る丸沢、そこへバイクがやってきて革ジャン姿の男が出現するまで何秒もかからなかった。稔も丸沢も今朝見かけたばかりの人物――黒枝孝明だった。千秋は胸を張った。 「これにて一件落着、と」 20.  丸沢が捕まるのにはなんの難しさもなかった。黒枝は丸沢の背広を探り、名簿の入った封筒を取り上げた。 「往生しろよ、この悪党め!」 「お待ちを! 丸沢教頭には申し上げておくべきことがあります」  ようやく声が出るようになった三船が、腕をひねられている丸沢のほうへ声をかけた。 「丸沢教頭。汐月瑞江様は、すでにあなた様の交通事故を知っておいでです」 「なんだ、と?」 「事故の被害者が汐月に密告しに来たのですよ。事件をスキャンダルにして、さらに金銭を巻き上げようと考えたのですね。しかし瑞江様は脅しに乗らず、きっぱりと断りました。あなた様の再起に期待していたからです。事故を憎んでも丸沢先生を憎むなどありえません。教頭の立場に信任されたのも、だからこそのことです。まさか逆恨みの理由で桜のことを脅しに使うとは……。あなた様は独り相撲をされていたのです」  三船が話したあとの闇に広がる沈黙は痛く、ただ車のアイドリング音だけが響いていた。黒枝が腕を離してぽりぽりと頬をかく。丸沢は逃げずに、ただ地面に正座をしていた。  一方、車内をふり返れば。 「神崎くん……」 「葉山……」  スポーツカーのなかで、後部座席に横たわった覇雄にすぐに近づいたのは稔だった。頭を抱いて髪をなでるしぐさは、あんなことがあった後なのに落ちついていて、葉山稔らしくない、いや、中学一年生らしくなかった。縁起でもないがまるで死者を看取る聖女のようだったのだ。 「……マリアさま?」  車内から血の臭いすら漂ってくる気がして、千秋は、本当は弟に飛びつきたいくらいの気持ちだったのに気後れしてしまった。  覇雄はおとなしく稔になでられていたが、やがて話しはじめた。 「葉山、すまん……。おまえはいますぐ男に戻らなきゃいけなかったんだ。それなのに……原因追及できなくて」 「だめだよ、瑞江さんたちに迷惑がかかる方法なんてできないって話をしたじゃないか。瑞江さんが男になったりしたら、きっと委音さんが悲しむよ」 「委音! そうじゃないか……。俺、馬鹿だな」  安全な場所に安心できる人とともに置かれて、覇雄の声に少しずつ力が戻ってきた。 「なぁ、葉山、正直に教えてくれ。俺って、必ず男に戻るつもりなんだ。だけれどいまだけは俺が女でいることって、悪いことじゃないんだよな?」 「もちろんだよ! 神崎くんは悪くないよ。努力が足りないとかほかの人に迷惑だとかだなんて、僕がぜったいに言わせないよ」  楽しくのんびりやっているように見えて、ふたりは半年間いっしょにがんばってきたのだった。姉の役目は稔に取られてしまったかもしれない。千秋は肩をすくめて車外の三船に話しかける。 「えーと、いろいろごめん、でも現状把握したい。骨折しているのは重々承知で」 「いいわよ。謝っているひまなんてないのはお互い様だから」  三船は千秋に、敵がなにを奪おうとしていたのかを話した。 「被害者名簿を使って瑞江さんを脅すつもりだったのね……。自分のことで脅されるなら瑞江さんはびくともしないでしょうけど、他の被害者をいじめるって言われたらさすがに心が揺らいだかも?」 「でしょうね。覇雄を暴行したことだって、調査だからと最後まで言い逃れされたかもしれない。秘密主義につけこまれたことを反省しているわ」 「謝るのは後だって言ったでしょ? 丸沢は女子中学生をふたりも洗脳したんだから。罪に問いづらいとはいえそっちのほうが大問題よ」 「ふたり? ふたりって、覇雄とあの結城って娘のこと?」 「違うわよ。生徒会の結城ちゃんと逢坂和音ちゃんよ。聞いていなかったの? あたしは車のなかでミノリから聞いたんだけれど」  車内で騒ぐ音がした。三船と千秋がふり返ると、覇雄が車から出てこようとしている。 「あんた、おとなしくしてなさい」 「バカ姉貴! それどころじゃないだろ。なんで逢坂が話に出てくるんだよ」 「だから、んーと、ちょっとショックな話だけど、逢坂さんって去年悪い男たちに捕まっていたことがあって……。今回も丸沢のやつの言いなりにされていたって」 「いや、そこ、おかしいだろ!」  後部座席から身を乗り出して、覇雄は叫んだ。 「ひとりふたりしか知らない俺とは違って、逢坂は桜の被害者名簿を全員知っていたんだ。写真でコピーだって撮っていたはずだろ? もしも敵が逢坂を好きなように扱えるなら、逢坂から名簿の中身を聞き出せばいい。生徒会を操って学校で騒ぎを起こしてだなんて、そんな面倒くさいことしなくてすんだはずだ」 「あら。……それじゃ敵の目的自体が矛盾しているってことじゃない!」  予想外の展開になってきた。千秋はそっぽを向いて、なにかを考えはじめる。 「待って。そもそもミノリってば、丸沢先生の秘密を誰から訊いたんだっけ」  車のなかから遅れて、小さな声が返ってきた。 「逢坂さんからだよ……。家を出る直前に電話があったんだ。丸沢先生の隙を見て、やっと盗み出せた情報だと言ってた」  そんな重要情報が、このタイミングで都合よく連絡があったというのだろうか。  複雑な話に千秋は頭を悩ませた。結局この事件で陰に隠れてなにかをしていたのは誰なのか? いちばん計画的に、周到な準備のもとに動いていたのは誰なのか。  しかし考えをまとめる間もなくつぎの動きがあった。丸沢が突然立ちあがったのである。 「逢坂だとおっ! 逢坂が俺の秘密を探りあてたというのか?」  黒枝があわてて押さえこもうとするが、丸沢は狂ったように暴れはじめた。 「ちくしょう、はめられたんじゃないか! 秘密はばらされ、名簿は無用。あいつ俺に隷従するふりをして、俺を逆に操っていたってことだろ!? いいのかそれで!」  肉体系でにないにしても、大の男が半狂乱で暴れると手に負えない。黒枝はそちらにかかりきりになる。千秋はなんとか考えをまとめようとした。 「仮にだけど……。仮に和音ちゃんがまだ『なにか』を実行中だとするのね。そしたらあの丸沢は見せかけの陽動に違いない。覇雄の身柄は被害者名簿のダミーだった。でも被害者名簿すら敵の真の狙いじゃないとしたら、つぎに来るのは……。あたしたちが守らなきゃならないのに考えから外されているものって!?」  気づいた千秋は三船から携帯を借りると、学校のアシュレーに電話した。 「桜はだいじょうぶ?」 「あ、おやすみなさい、じゃなくてこんばんは。学校のみんなも、先生たちもずっと桜をにらんでいるだけ。コウチャク状態だよ、ほんとに徹夜になるのかしらんー」  でも変だ。なにか見落としがあるはずだ。三船が口走った。 「生徒たちの抗議のせいで、汐月家の部下たちは桜の見張りから外されているわ」 「カメラとか無いの?」 「監視カメラは学校のプライバシーに関わるからもともと付けていない。いまなにかあったら対処しきれないとは言える」  危険性か。それだけの情報であっても見切り発車するしかない。千秋は自動車に合図した。 「……なっ!?」  丸沢が迫ってくるのを、千秋は三船をかばいつつかろうじて避けた。とにかく車を出させる。あとに残ったのは丸沢と、丸沢を追いかける黒枝。倒れたまますっかり忘れられていた素直(ごめん)。  そして丸沢は残るひとり、立ちすくむ女子中学生結城に飛びついて、セーラー服の首筋にスタンガンをつきつけた。 「動くな! 急所に当てればスタンガンだってバカにはならないんだ。こいつを殺すぞ」  敵が敵同士で人質を取るというおかしな状況である。黒枝は首をかしげて近づこうとしたが、三船が「待って」と言った。 「やばい目つきです。本当になにをするか分からない」  千秋が思いきり嫌みな気持ちをこめてため息をついた。 「センッセー。ちょっと落ちついたら? 人質を取ったってどこへ逃げられるわけじゃないし、取り引きするようなもの、なにもないよ?」 「うるさい! このまま負けてたまるか。ここに逢坂和音を連れてこい! あの悪魔のようなガキを道連れにしてやる」  むちゃくちゃな言い分である。「できるわけないでしょ」とつぶやきながらも、手負いの獣を刺激しないように千秋は手をあげた。  いつでも飛びかかれるよう地面をならしながら、黒枝も手をあげる。三船はまだ座りこんだままだ。いたずらに時間をかけて、また事態がこじれてはまずい。ぬるい風に額の汗が飛んだ。  三船が言った。 「結城さん? あなたはもうすこし『やれる』女だと思っていましたが」 「…………」  声をかけられても結城は直立不動である。動かないのを見るや丸沢のほうが猛り狂った。 「なんとか言ってみろよ、結城ぃ。おりこうちんなお前は逢坂とつるんで、本当は俺を見下していたんだろう!」  乙女らしからぬ硬い首筋にスタンガンはさらに強く押し当てられる。 「だが残念だったなぁ! 所詮お前は少女をさらい、自分と同じ存在に病み育てるのが仕事の機械、高級車程度の支払いで売買できるおもちゃなんだ。出会った瞬間からお友達を、もろともに堕とす定めだったんだよ」 「ともだちですか」  結城が発した言葉は、場違いな、懐かしさを感じさせる響きを持っていた。結城は丸沢には答えず、千秋に尋ねた。 「おふたりはお友達なんですね。三船さんのピンチに南米から駆けつけたとか? 仲がよいこと、見ていても伝わってきます」 「まぁね。この子は作る人、あたし食べる人だけどね」 「すてき。本当に……、友達なんだ!」  いぶかしく思った丸沢がスタンガンを構え直そうとして、その手にすでに得物がなく、人さし指が逆に曲がっているのに気づいた。木刀の柄が丸沢の凶器を跳ね上げたのである。 「親友というなら、私にもささやかながら親友がいるのです。自分の身が危険なのにも関わらず、半年間私を助けるために奔走してくれた。あの子は言いました。『私はあなたを助けられない、最後は自分で自分を救わなきゃだめ』って」  結城の顔が怒張した。なにかを、数年間溜め込んでいた澱(おり)を押し出すように、ふき出したものは鼻血だった。決着を感じた丸沢が叫んだ。 「ちっくしょぉっ!」  しかし丸沢には負け惜しみを言う猶予すら与えられなかった。腿、わき腹、肩と打たれ、今度こそ地面に昏倒する。  結城兵庫は、ついに丸沢先生に対する恐怖を打ち払ったのだ。 「ありがとうございます。ではあなたたちも負けてください」  結城はふたりの前に立って、鼻血を拭いて、あらためて木刀を構えた。車がいなくなって静けさを取りもどした暗闇には、それに似合う笑顔がある。  遠慮がちに後ろからつかみかかる黒枝を、なんとふた呼吸でひっくり返しながらまだ笑った。 「友達のために私も戦えるでしょうか。あなた方を足止めできれば、それが私とあの子の勝利なのです」  いったい何度目だろう、今日の戦いには終わりがないらしい。千秋はあごをかいて深呼吸した。 「ねぇ。あのバーサーカー、まさか強いの」 「強い。しかもなにかしら、あの気迫は」  まるでさっきまでが本気じゃなかったみたいだ。千秋は携帯を捨て、警棒を拾った。 「あんたが勝てないんじゃ、あたしじゃ歯が立たないかも」 「負けないわよ。あたしたちふたりが揃えば」 「それもそうかぁ」 21.  自動車が出たときに覇雄が座席から落ちないように、稔は彼女を抱きしめる形になった。反動で座席に頭をぶつけて、痛ててとつぶやく。 「中学校へ行くんですよね。きっと逢坂さん、桜のところにいるはずです」 「おう」  ぶっきらぼうに答えた運転手はすばやくギアを上げた。加速がきつくて、覇雄が気分を悪くしないか稔は心配になる。  速度はどうかと前をのぞきこんでみて仰天した。 「公道で百四十キロ?」 「すいている道を選んでいる、安心しな。最短十五分で着く」  稔は改めてその乱暴な運転手を見た。汐月邸では見ない感じの、やんちゃな雰囲気の人だ。 「お兄さん、どこかで会いましたっけ」 「会ったのはそっちの寝ている子とだね。あのときは災難だったな」  奇妙な沈黙が流れたので、運転手は笑った。 「あはは、分かるわけもないか。あたしなのよ、黒枝、いや、米沢遼子って言ったほうがいいかしら」 「遼子さんっ!」  覇雄が跳び起きたので、遼子は――男性になった遼子はやれやれと口に出して言った。 「事情説明は葉山君のほうからしてくれないかな? 男言葉は久しぶりで慣れないし、女言葉じゃカマっぽいしでしゃべるのも疲れる」  稔は、桜の枝を折ったせいで遼子が男に戻った話をせざるをえなかった。覇雄を動揺させる話をいまのいましたくはなかったのだが、覇雄はそれ以上は驚かなかった。  桜の枝を折った一件を、そして遼子が男性化した話をあらかじめ結城兵庫から聞いていたからだ。 「その……、遼子さん、ごめんなさい」 「謝らなくてもいいのよ。ガンダムかなにかの台詞でもあっただろうが、うぬぼれるんじゃない、君たちだけの働きで黒枝遼子が助けられたり、桜の性転換っ子がみんな幸せになれるなどというほどあまいものではないんだぞっと」 「でも! 遼子さん、大丈夫なんですか、お腹の子どものこととか」  遼子がアクセルを踏んだ。はげしいクラクションを後に残しながらスポーツカーは夜の街を走る。 「大丈夫じゃないから、法律違反までしてあがいているんだ」  黒枝遼子は、言わばふたりのはるか先を行く先輩である。初めて会ったときもそうだったが、達観しながらも積極的な物言いに、ふたりはなにも反論できない。 「孝明はあたしに入院しておとなしくしていろって言ったけれど、べつに病気じゃないしね、健康な男の体だしね。女が男になったらショックで寝込まなきゃダメだなんて決まりもないし。それとも女として生きるならば、悲劇のお姫様みたくならなきゃだめかい?」 「違いますけど……」 「もう一度女に戻ること、一ミリだって諦めていないなら、やれることをやらないとね。第一、せっかく男に戻れたんだったら大人の男としてやりたかったことをしなきゃ損だろうが……はっ、言葉がごちゃ混ぜよね、あたし」 「はい」  黒枝遼子はしゃべりたくないと言っていたくせに、自分はこうなんだという意見をふたりに対してしゃべり続けた。話していることで、あえて強い言葉を使うことで、不安定続きだった自分自身を落ちつかせているのかもしれなかった。  覇雄としては個人的な意見を言われてそれに言い返せないのはつらいだろう。稔が盗み見ると、覇雄は苦笑いをしていた。 (俺、この人ちょっと苦手) (そうなの? ……僕はよかったな)  最悪の事態にあっても被害者があっけらかんと話しているのを聞けば、不安にとらわれずに済むのだった。  学校についたとたん、三船から電話があった。 「校舎に着かれたようですね」 「はいっ、いますぐ桜並木に行きます」 「待って! ぜったいにこれは罠なのです。ただ突っこんではなりません」  通話に雑音が入った。稔は耳をすませる。千秋が怒鳴って指示を出す声だったかもしれない。 「だいじょうぶですか?」 「あの結城という娘ですよ。だいの大人三人がひとりに足止めされて身動き取れないとは驚きですね。私が現場に行けないことが重要だそうです。なぜ必死なのか」  行くなと言われながらも、稔は校庭の入り口まで来た。学校を取り囲むように葉桜が植わっている。若くて小さな桜、大きな桜、古くて枝がしだれている桜、いろいろだ。  とびきり大きな桜の周囲に、生徒たち百人以上が座っているのが見えたのでどきりとした。  あれでは先生たちが実力でどかせることもできないだろう。生徒がこちらに気づかないことを祈りつつ、稔は考えを巡らせた。 (和音……)  思い出したのは校舎の三階で、和音が稔に話しかけた言葉だった。 「ドジなミノリったらあそこで頭を打って倒れていたのよね……」  稔は校舎の窓の位置から、現場がどこだったのかを推測した。たぶん、あのあたりだ。 「あれ?」  稔が女体化した場所が、問題の桜から離れすぎていないだろうか。むしろ校庭の反対側と言っていい。もしも桜の花びらが性転換の原因だとすれば、事件は木の近くで起こったはずなのにだ。 「三船さん、場所は。伝説の桜の木の場所は知ってますか?」 「具体的にどの木かということですね、それは秘密です。瑞江様と私と、学校のあの方くらいしか知りません。……まさか?」 「そうだよ、学校の生徒だって間違った場所に集まっているんだよ! 本当の場所は」 「東側です!」  稔たちは走りはじめた。そうだったのだ。あの日桜の枝を折ってみせたデモンストレーションも、大勢の生徒たちを集めているいまの抗議集会も、すべては真実を隠すためのダミーだったのである。  本当の事件はみなが目をそらされた反対側にある。 22.  体が弱った覇雄の足どりでは、目的地までの道行きは歩いているのとなにも変わらなかった。ゆっくりと暗闇のなか、桜の木立を通りすぎる。抗議集会のひそひそ声が不気味に聞こえてくる。ふらつきがちな覇雄の体が、足を根に取られるせいでよけいにふらついている。稔は覇雄の細い腕をとって支えた。覇雄はひじをからめ、さらに手の指をしっかりと組み合わせてきた。 (むー。神崎くんったらこんな手のつなぎ方、どこで習ってきたんだろう。あ、あれかな?)  ひとつの木の根本に、あからさまに怪しげな段ボール箱を見つけた。複数の段ボールをガムテープで貼ってあり、中学生なら楽に入れる大きさだ。箱の先は桜の幹に突き当てられていた。  ふたりの後ろで、遼子が足を急がせたがっているのが感じられた。稔は思いきって言ってみた。 「遼子さん」 「なにかな」 「我慢できないと思うけど、どうしてもお願い。ちょっと後ろで見ていて」 「そこまではできないね。すぐ後ろで見ている」  極限状況でも温かい遼子の言葉に涙が出そうになりながら、稔はついに箱の目の前にたどり着いた。スカートが汚れるのもかまわず、覇雄がぺたんと座りこんでしまった。稔ももたれかかるように座る。  段ボールが上に開いた。逆光でも分かる、出てきたのは逢坂和音であり、ほんの数時間前会ったばかりだというのに生意気な目つき、サイド・テイルの黒髪、やせた肩が懐かしくてたまらなくなった。  覇雄が言った。 「学校で野宿でもするのかよ」 「あんたたちこそ、顔色悪いわね。用件を先に聞いておくけど、丸沢のやつは捕まった?」 「あ? ……ああ」 「よかった。さしあたっての障害は消えたじゃない」  うん、よかったと稔はうなずきたかった。 「そうだよね、逢坂さんは僕たちのために陰で奔走してくれていたんだよね」 「ばっか、丸沢のことはついででしょう。こっちが本当の仕事。あたしは、あんたたちを男に戻してあげる!」  段ボールが風で飛んだ。地面に座った和音が両脚にはさみ幹に突きつけているのは赤茶けた鉄の機械だった。  チェーンソーだ。ハンドルを握りしめ、安全装置を外し、左手でひもを引くとエンジンが音をたてて起動した。丁寧で、確実な操作だ。 「言っておくけれどオイル切れや操作ミスを期待してもだめよ。なんども練習しておいたから。魔法の木がこの木だってことも完全に証明されている。幹に鉄砲弾の痕もあったし、なにより、枝を折ったら本当に効果があったしね」  背後で奥歯を噛みしめる音がした。遼子がものすごい屈辱を感じているのだ。怒りをそらそうと稔は口走った。 「うそだ逢坂さんは切らない、なにかの脅しなんでしょう。だって切るつもりなら僕たちが来る前、一時間前とかにだってできたはず」 「丸沢の悪事が暴かれたのを確認したかったのよ。桜を伐ったせいで汐月家が大混乱になって、丸沢が野放しのままっていうのがいちばん危険でしょうが。ミノリちゃんが推理なんて、らしくないぞ」 「しつこいよ! なんでそんなひどいことができるんだよ! いったいなんの得があって」  和音はため息をついた。 「あんたたちさぁ、木を伐れば百パーセント男に戻れると分かってなお甘いことを言うのね。これが正常な人生を歩む最後のチャンスかもしれないのに……。男がむりやり女にされるっていうことの不条理さを分からなかったんだ。この先どんな目に遭うか、いまの覇雄を見れば気づくでしょうに」  稔は覇雄を見た。力なく座りこんだまま和音に言い返すこともできない。表情が揺らぎ、右手が下腹を押さえた。不安げな覇雄の肩を稔は抱きしめた。 「でも、ほかの人に迷惑がかかるじゃないか」 「あなたたちを性転換させたまま、もとに戻そうともしない他人の言い分でしょう、そんなのになにを納得させられているのよ? ……どうしても他人が気になるなら、いいわ、あたしが悪役になる。あたしがいくらでも恨みを買ってあげるから、あんたたちは正常でまともな少年時代を送っていいのよ」  手段がむちゃくちゃでも和音の言うことは分かる。和音は小学生時代、理不尽でつらいめに遭ったのだ。みんなが普通の中学生時代を送っているのに、そうでない子がこれ以上増えるのは平等じゃない。だからこんな、なにもかも失いかねないことをしているのだ。 「分からないなら丸沢よりすごいのを紹介しようか? あんたたちみたいな男女が大好きな変態なんていくらでもいるのよ?」 「違うよ、逢坂さんは勝手にかんちがいしている」  チェーンソーのスロットルが引かれ、騒音が大きくなっていく。律動的な音と覇雄のぬくもりにふっと意識が遠くなる。稔は手遅れにならないように、拳を握りしめて叫んだ。 「僕はいまが幸せなんだ」 「じゃあ男に戻るのをあきらめるの」 「女の子だけど、男に戻ろうとみんなとがんばっているいまがいいんだよ! 神崎くんがいて逢坂さんがいて、アシュレーがいて素直がいて委音さんがいて、みんながいる現在は理想の人生なんかよりぜったいにいいよ! 逢坂さんだって結城先輩のこと、嫌いじゃないんだろう?」 「当たり前じゃない、好きよ、大好きよ」 「だったら僕も逢坂さんのこと大好きだ! いっしょにいさせてよ!」  チェーンソーの先が、ゆっくりと桜から離れていった。和音が下ろしたのだ。稔は覇雄をぎゅっと抱きよせる。 「ありがとう?」 「ありがとう、好きって言ってくれて。でもだめなの、あたしは……。もう時間がなくなっちゃった」  十二時の鐘がどこかで鳴った気がした。学校を囲む植栽を乗り越えて、暗やみにもやもやと不吉な影が現れる。それは人の形を取り、やがて白装束の老人となった。 「因果は……、巡る。高藪村の仇」  老人は杖のかわりに木の枝を握りしめていた。とがった先を見てすぐに思い出した。あれが切られた桜の枝なのだ。  どこか幻想的な風景に、稔も覇雄も遼子も動けなかった。老人が和音の背中に突進した。制服の胸に一点、ぽつりと穴が空き、血の付いた枝が飛び出した。  遅すぎた理解だったが、和音が焦っていた理由が分かっただろう。和音が本当に死に値する罪を犯したのかは分からない。しかし老人に出会ったあの日、和音は既に死を覚悟していたのだ。半年間の楽しかった思い出を脳裏に浮かべながら、死ぬ前に悪を倒して、さらに覇雄と稔の願いをかなえようとしたのだ。 「あは……バカ」  和音は体をねじって、胸の傷を稔たちから隠そうとした。自分の最後で、せめて稔を怖がらせないようにと思ったのだ。 「それがどうした」 「……えっ!?」 「それが、どうしたあああっ!」  稔は立ちあがったのだ。覇雄がまだ抱きついていたものだから制服がめくれてしまった。セーラー服の下からぬれ雑巾が、地面に落ちて重い音をたてた。赤く、血を吸ったタオルだった。 「なによ、それ」  和音は近寄ってくる稔の腹をよく見た。右のわき腹から血がにじんでいる。押さえが取れたせいでまた出血してきて、服まで赤くなってきた。稔は答えた。 「ただのけが」  それだけの手傷を負いながら、稔は丸沢と対決し、覇雄を助け、和音のところまでたどりついたということだ。 「だからどういうことよ、それ」  稔はもう声が出なかった。覇雄が代わりに答えた。 「だからさ、逢坂は死ぬ気でがんばった。稔は生きる気でがんばったってことさ」 「ばっっかじゃないの。おなかの傷でそんな余裕かましているひまないでしょーがっ! はやく救急車を呼んで!」  そのころには、騒ぎを聞きつけて生徒や先生たちが集まってきていた。びっくりしたことだろう、深夜の校庭を反対側まで歩いたら血まみれの生徒がいたのだから。  和音はいらいらして叫んだ。 「そんなことはどーでもいい。はやく、救急車呼べって言っているでしょ! んもー、痛いっ!」  …………………… 「えー、もう大騒ぎでなにがなんだか分からなくなったけれど、あたしが、黒枝遼子です。誰も気にしてくれないんだけれどね、和音ちゃんの胸から抜け落ちた桜の枝が血をたっぷり吸いました、そしたらみるみるうちに根を張って新しい桜の木に復活しちゃいました。その瞬間あたしは女に戻りました。自分でも気がつかないうちに一瞬で妊婦よ、妊婦。あ、そう、ふーんって? こっちのほうが大事件だと思うんだけれどね……。だからさっき救急車は呼んだし応急処置はしているってば! ほんと、妊婦づかいが荒いわねっ!」 23. 「走れメロスってさぁ。ああいう話だから読者が忘れがちだけれど、実は命がけの話なんだよな。メロスが間に合わなければセリヌンティウスが死んじゃうし、メロスが間に合えばメロスが死んじゃうしさ。結局どっちも死ななかったけど」 「なにが言いたいのよ」  そこは明るい病室で、ベッドが三台並んでいて、なんと覇雄と稔と和音が三人揃って入院しているのだった。もちろん覇雄が最初に訪ねたようなインチキ病院ではなく、ちゃんとした市民病院である。覇雄が嫌がるというので部屋は男子禁制、看護師も担当医師も女性という至れり尽くせりなのだった。  覇雄はふとんにくるまり、口もとまで毛布で隠しながらもごもごと言った。 「いや、俺たちって間に合ったのかなぁって」  稔はテレビでサッカー中継の結果を探していたが、覇雄の質問に気づいてテレビを消した。 「間に合ったよ。だからみんな生きているんだし」  和音はふたりに背中を向け、右胸の傷をかばうように丸まった。 「……そろいもそろって満身創痍だけれどね」  あの校庭から救急車で運ばれて、手術もして、本当は三人別々の病気だったけれど、無理を言っていっしょの病室に入れてもらったのだ。  もう離ればなれになるのはいやということだった。  しかし、こうして病室でごろごろしているだけの一週間を過ごしているのだが、三人は事件のことをろくに振り返れなかった。  真面目に考えれば話が重すぎるのだ。  和音は胸に傷ができたといっても心臓には別状無く、深呼吸すれば肺が痛い程度だった。しかし一年間誘拐されていたという過去は、友だちどうしで口にするのがはばかられるレベルのものだった。  覇雄は検査の結果、体には(あそこにも)傷がないとのことだった。しかし心の傷はやはり重いようで、特別にカウンセラーさんに病室まで来てもらっている。  なにげにいちばん重傷なのは稔だった。腹の傷は腸が破裂していれば致命傷だったそうで、じつは天国の一歩手前だったらしい。 「平気な顔して、なに死にかけてんのよ」 「ごめん」  受傷原因がさらに痛かった。母親に刺されたのだ。息子がおかしくなってしまったことを悲観してノイローゼになった母親に刺される。あののんきで温かくてなんの問題もなさそうな葉山家だって、歯車が狂えばそんなできごとが起こるのだ。  稔は母親のことを怒ったりせず、むしろ知らず知らずストレスをかけていたことを謝っていた。 「母さんも別の病院に入院しているんだけどね、すぐに元気になって帰ってくるだろうって」  微笑む稔の表情は胸にぐさっとくるものだったが、和音や覇雄だって他人のことは言えない。和音が過去のことを話したとき和音の母親はものすごく泣いたし、千秋は覇雄の前でいちど半狂乱になった。アマゾンなんかに行ったことを一生後悔すると言われたのだが、一生後悔されても困る、いっそ水に流してほしいと覇雄は謝ったのだった。  黒枝夫妻に謝り、学校に謝り、三船さんに謝り、親子で謝り、と謝罪と反省まみれになってしまったから、いっそ三人はお互いに謝るのをなしにしようと決めた。 「結城先輩はどうなったの」 「あの人は本当に天涯孤独だったからね。汐月家が面倒を見るんだって」 「どれだけ度量が広いんだよ、まったく」  丸沢先生はもちろんおとがめ無しでは済まないだろうが、どうなるかは大人に任せてほしいと言われた。 「あ! 学校はどうなるんだよ。やっぱりみんな、桜を伐っちゃえばって思っているんじゃないのか」 「それがね、先生がみんなを納得させたんだって」 「……誰が?」 「大場先生」  聞くところによると、事件の翌日、大場先生が珍しくジャージ姿で現れて、抗議集会の主なメンバーと話したのだそうだ。 「結論を出すのが遅れてごめんなさい。木は伐れません」  怒る生徒たちに、大場先生ははっきりと言った。 「みんな、桜の呪いがかかると、男の子が女の子になっちゃうってことでしょ? じゃあ桜を伐ったらどうなると思う? ――女の子が、男になっちゃうのよ」  先生はジャージのズボンをめくりあげた。 「ほら、枝を切ったせいで先生の足、男になっちゃった」  一同は真っ青な顔をして「うわぁ」と叫んだそうだ。大場先生のすねが毛でもじゃもじゃしていたからである。 「……ほんとかよー」 「女だってお手入れを怠るとすね毛がすごいことになるんだけどね。あるいは……本当なのかもね」  和音は肩をすくめた。 「でも、今回のことで分かったんだ」  稔が言ったので、覇雄と和音は笑うのを止めて聞き入った。 「女になるとか、男に戻るとか言っていたけれど、僕たちが本当にやることは人生を決めることだったんだ」 「同じ女になるにしても、姉貴みたいになるか三船さんみたくなるか遼子さんみたいになるか、か」 「そうだよ。僕たちは結論を出さなきゃいけないんだと、おもう……」  ふたりの顔をうかがったが、とくに悪い反応ではなかった。稔は安心して続ける。 「僕、今回はもうだめだと思った。たとえ命が助かったとしても、心が離れてもう会えない、三人ばらばらになっちゃうだろうって。でも大丈夫だったんだ。僕のそばにふたりがいてくれる。だから決めたんだ。この先だって大変なのは分かっているけれど、僕は逢坂さんと、神崎くんといっしょに歩く」  背を向けていた和音が寝返りをうって、稔のベッドに手を伸ばしてきた。覇雄も同じく反対側から手を入れてきた。稔は片方ずつ、しっかりと手をつなぐ。  三人つながって、再開するであろう学校生活に思いをはせた。